SNS

My Photo

BooksBooks

無料ブログはココログ

August 22, 2017

皆既日融のぞわぞわ

上海まで皆既日融見に行ったが。あれは本当に良かったと思う。気温が急に下がる。動物...

» Continue reading

August 20, 2017

牛乳石鹸のCM--細くて暗い道

例の話題になった牛乳石鹸のCMを見てからずっと考えていることがいくつかあるから書きとめておく。

主人公の男性の行動は、いまどき確かに批判される部類に属するのだろう。そんなことは誰が見てもわかる。しかし、CMには正しい行動をする人物しか登場してはいけないのだろうか。あなたが、私が、我々の全てが人生においてそんなにいつも適切な行動ばかりしているのだろうか。適切ではないにしても彼のしている行為はそんなに理解不能だろうか。彼の心に痛みがある時点で見る側は視点を変えなければならないのではないか。いつも道徳の教科書どおりのモラル感覚がないとCMが打てないわけはないだろう。

さらにこの男性が鬱の症状ではないか。とかなぜそんな暗いものを見せられなければならないのかという批判もあるようだ。わからないこともないが、なら問いたい。CMはいつでも明るくなければならないのか。鬱の男性が登場してはいけないのか。あなたの周りに鬱の人はいないのか。私たちはいつもCMを見て明るい気分にならなければならないのか。

そして最後に。牛乳石鹸とこのストーリーが何の関係があるのかという声について。その関係性の細い筋に向けて、制約の中で商業作品の作り手は勝負をするのではないかと思ってきた。ずっと前からだ。これからも変わらないと思う。


新井浩文出演・「与えるもの」編/牛乳石鹸PR映像

» Continue reading

August 12, 2017

そのあとは?

北朝鮮を見ているとどうしても戦前の日本のイメージが浮かぶのだけれど、まさか本気でアメリカと全面戦争になっても勝てるなどと思ってはいまい。思ってないよね。思うわけがない。思ってなければいいな。 #おい

せいぜい常人の考えつく範囲では、グァムに(4発撃つと言ってる)中距離弾道ミサイルを予告発射してそれぞれ東西南北50-100km程度のピン差に落とす。ほらやろうと思えば次はグァムの基地でも当てられるぞと虚勢を張り、おお北朝鮮やるもんだ。刈り上げやるもんだと世界をあっと言わせたい。アメリカを震え上がらせるまでなくてもぶるっとさせたい。そのあとは?

そのあとは?

その後を考えているよね。いるはずだ。いるだろ?いるといいなあ。

祖国と朝鮮半島を灰塵と化してもこれが朝鮮民族の誇りというものだ。意気をあげるのだ。と本気で思っていたらどうしようね。

その先?

そもそもここまでチキンレースをやるほどの理由が北にあるとも思えない。いいところで止めておいても、暴挙さえ行わなければさすがに米国も国家転覆の攻撃はもはや仕掛けにくい。グァムにミサイルなんか撃つ必要あるのか。いやそこまでが刈り上げ坊主の「ギリギリ」なのか。

沖縄を取られても最後は本土決戦で、それで負けたら皇国の運命はそこまで、いや皇国は神風によって守られており負けるわけがない。と当時の日本人が、そして権力層がどこまで本気で考えていたか僕は知らない。知らないけれども、結構信じちゃっていたからああいうことになったのではないか。

歴史上一定周期で暴走する国家は現れる。この国を含めて。正気と狂気の境がしっかり見えていればまさかとなるが。まさかという坂は時折歴史に現れる。

もちろん人ごとではないのであり、この国も3度の核の壊滅に晒されながらこうなのであるから。

とにかくまあ落ち着け。そこに座れと言っている中ロの方が大人に見えるのだから困った話である。

» Continue reading

July 09, 2017

百万倍の無力




段々と年を重ねて言葉が出なくなってくる。けれど思う。本当の希望は写真の中だけにあるのではなく、食い入るようにそれに見入る若い人たちの中にあるのではないかと。

日本の報道は血を写さない。死体を写さない。だからなんだと思うだろうか。そうであればこの写真展に一度は足を運んで欲しいと毎年思う。

どうせ何もできなくて死んで行くのかもしれない。あなたも私も。けれどそれに気がつけるのか、気がつかないまま死んでいくのか。俺はそこは大きいと思っている。

無力の裏返しであることはわかっている。でも無力も100万倍すれば何かがかわるかもしれない。無力の自覚が集まれば。

» Continue reading

June 23, 2017

死は圧倒的だ

この世の大抵のことはなんとかなる。何ともならないと思っていても大抵のことは何とかなる。それでも、どうやっても何ともならないこともある。人の死だ。死は圧倒的だ。合掌。

» Continue reading

May 18, 2017

多元宇宙マストドンにツイッターは飲み込まれる

以前立てたツイッター没落の仮説はやはりフォローの仕組みだったのだよな。皆がすごい勢いで当時はフォロー、フォロワーを競っていた。人間の数は有限であるしこれが続けばいつか読みきれないほどの数をフォローすることになり、それより前にフォローを止めると思った。フォローが止まればそこでツイッターの成長は止まる。言わば1つの宇宙の成熟と老化の歴史だ。管理の強化以前に物理だと思った。


マストドンはこれに多元宇宙の構造を持ち込んだ。それぞれの宇宙内ではツイッターに類似した構造を持つが、他の宇宙にも繋がっているので、それが全体を老化させることはない。

時々は爆発する宇宙も消え失せる宇宙もあるだろうが、世界が全て終わることはない気がする。

ツイッターは巨大だが所詮は1つの宇宙に過ぎないので多元宇宙に飲み込まれていくのではないか。

» Continue reading

April 30, 2017

底が知れない

2011年のことをぼんやりと思い出すと日常に降ってきた突然のそれも激烈な災禍であるということがある。それも3月11日の午後の時点では東京にあって、ことの大事には気がついていなかった。テレビの映像は遠い世界のようで、たくさんの人が死ぬとは思ったがその夜のメルトダウンには夜中過ぎまで気がつかなかった。

GWに閣僚がこぞって外遊に行き、平和そのものの渋谷の雑踏にまみれて、通常の連休とただ違うのはミサイル発射の報でメトロが緊急停止になったこと。東京にミサイルの標準を合わせている国が確実に存在し、場合によっては迎撃しなければならないこと。その際には頑丈な建物に避難しろと政府が人ごとのようにどこか遠いところで言っていること。

これは何なのだろう。圧倒的な非日常が圧倒的な日常の隣にある。

あの311を思い出すのは、災禍の凄まじさに反比例した正常化バイアスの凄まじさ。もちろん自分も含めて。

現代の戦争というのは、きっと過去のあらゆる戦争とは異なる。それがどのように始まるのか。開戦後にも109で買い物を続ける若者がいるのかいないのか。メトロが何度もJアラートで停止し、それにも慣れてサラリーマンは会社に急ぐのか。そんなプロセスを飛び越えてある時に閃光が走るのか。。何もわからない。経験したことがない。

1930年代から敗戦まで15年以上にもわたって進行したことが、現代の戦争では一瞬にして、たとえば10日間ほどで進行するのかも知れない。


予測不能(いや予測はしようと思えばできた。しようとしなかった)であった福島の大惨事すら、「あっちでよかった。こっちでなくて」と流そうとする者がいる。あれは皆の本音だとうそぶく者がいる。

自分の頭上の1発の閃光などたぶん、ない。ないはずだ。あるとしても考えてもどうしようもない。ならば今日のこの時を、楽しいことだけ考えて暮らす方がいい。終わるなら終わるでみな一緒だろう。仕方がない。

底の知れない刹那というかデカダンというのだろうか。自分たちがたどり着いたのはこういう世界だ。ここまではそう。これからはわからない。どんな世界になるのか。わかったところで抗しきれるのか。

GWの戯言である。

» Continue reading

April 27, 2017

鳥の逆襲

202x年。ツイッターはもはや完全に失速し、マストドン人口は5億人に達しようとしていた。自由を謳歌したマストドンにも当局の監視が入るようになった。

各インスタンスを巡回して問題トゥートを見張るのがマストドン警察。通称マスポリ。ロゴは制服姿のマストドンのイラストである。

マスポリの勧告を受けた各インスタンス主は問題のトゥートの削除と当該アカウントの締め出しを強いられた。従わない場合には当該インスタンスのドメイン使用停止、強制的なDNSレコードの書き換えなど強硬措置が取られる。

これに反発した自由を求めるマストドン住民は、ツイッター社が国家権力との狭間で機能していた鳥の時代を懐かしみ新たなSNSである「鳥の逆襲」(通称ネオツイッター)に集まるようになった。

#以下続 #かないかも

» Continue reading

April 21, 2017

マストドン-破壊できない世界

いつの頃からか鳥では普段着でジャージとかでごろっとできないようになった。ていうかそのことにすら気がついてなかった。自覚していなかった。マストドンに来てからようやくそれに気がついた。

おまけに鍵を人に預けている部屋に住む居心地悪さがない。確かに今は人のインスタンスに住んでるが、その気があれば家も建てられるし引越しもできる。それでいてご近所とその後もおつきあいできる。

あまり言う人を見ないけど、これで国家が場を破壊できなくなったなてのも感じる。ツイッターは米政府に干渉されて噛みついていたけど、いつまで抗しきれるか不安を感じていた。

マストドンはそう簡単に壊せない。外圧で壊すのは限りなく不可能。インターネットの最もインターネットな世界。分散していて破壊できない世界だ。

それを破壊する者があるとすればそれは俺ら住民だ。内部から瓦解するのはある。過疎るも含めてね。けれど外からは壊せない。

» Continue reading

April 14, 2017

最後には空を仰いで

現実に世界がおかしくなってしまい、真綿で首を絞めるように理由と正義と怒りが手を組んで包囲して戦いを迫ってきた時。

自分は好戦的でもなんでもないのに、どうすることもできないままに必然と必然が手を絡ませて動けなくなり戦いに巻き込まれ、そしてとうとう空から火の玉が降ってきた時。

そうなってしまったら、自分にできることなんてほとんど何もないのだと言うことを思い知らされる。そうした局面の事態になる前に、日常の中で小さなパズルを右から左にせめて動かしたり、無気力というあなたのところにも時々訪れるそいつと戦ったり。

そして結局は最後には空を仰いで祈るしかない。父祖もきっとそうだったのだろうと思う。しかし今ではこの国には祈るべき神すらもほとんど存在しないのだった。

» Continue reading

April 08, 2017

プーちゃん?オレオレ。

「もしもし?プーチン?プーちゃん?オレオレ。トランプ。あのさちょっとさ。ほんのすこーしだけシリアにドカンとトマホーク撃つからさ。危ないから逃げてて。

え?ちょっと話聞けって。オレもさ。いろいろ辛いのよいま。オバマケア潰せないしさ、大統領令通んないしさ。支持者もうるさくてさ。その上プーちゃんとつるんでるって言われてさ。

え?だから話聞けって。

ドカンと撃ってすぐ終わるから。ほとんど砂漠よ砂漠。砂漠に50発くらい撃つからさ。あとちょこちょこっと空港に撃ってすぐ終わるから、あぶねーから逃げてて。いま言うよ?空港の名前。

それとさ、アサドにちょっとガツンと言っといてよ。やりすぎんなって。習近平と違ってさプーちゃん話わかるから好きよ。北朝鮮もこんな感じで行けばいいんだけどな。

じゃあね。これからもまあ大変だけどお互いガンバろうね。じゃあねー。トランプでしたっ」

» Continue reading

April 02, 2017

幼稚化

軟式なんとかとか言っていた人間が言うのもなんなのだけれど、企業の遊びがますます、幼稚化しているような気がする。エイプリルフール遊びへのあなたの苛立ちもその辺りにあるのではないか。

社会と企業、金儲けと理念、利益と最大多数の幸福の狭間。肩肘張って大声で張り上げなくても響くような絶妙なギリギリのところに技とセンスを込めたメッセージの球を投げて欲しいと思う。無い物ねだりか。いや難しいだろ。お前できたかと言われればそれはそうなのだけれど。

» Continue reading

March 25, 2017

「加害」ということ


常磐道を走る

これが1年前。そして人々は帰り始めようとしている。

何を語っても的を射たことが言えるわけもない。ただこの問題について言えば、自分には(当たり前かもしれないが)被害より加害の意識が強いことに今更のように気がつく。

被害とは何か、加害とは何かという狭間に多くの人がいるのだと思う。圧倒的な両極の人たちを除いて。その痛みや迷いを持たずに正義を語って「加害者」をただ糾弾することは自分にはできない。行動原理というか、思考の原理が晒される時間だったと思う。

これも当たり前の話だが、それぞれが自分の内にあるものと向き合うしかなく、向き合うことすら避ける人たちこそが、本当の「加害者」なのではないかと思う。

が、残念なことに圧倒的な多数はそこに位置する。

人はそういうものだと諦念するのではなく、そこから始めるしかない。あなたが幾つになっても。

» Continue reading

March 22, 2017

寛容



#philippines #mactancebu 海外で宗教を聞かれて、いつからか日本人は「無宗教」と答えることのハードルの高さとリスクを知って「Buddhist」と言って切り抜けるようになったと思う。いや別に違ってはいないですよ。多くの場合ね。でもその何だかな感は日本に住んでいればわかっている。神仏習合だの葬式仏教だのクリスマスだの正月だの「日本人は寛容で何でもアリなんでしょ。いい国」とガイドさんが言う。いやあ。知ってるよ。同胞は心の中で頭を掻いている。臆面もなく寛容に生きてきました。父祖の代から。もっともっとずっと前から。

じっと手を見る。寛容な手を。

» Continue reading

March 21, 2017

フィリピンの地域犬




#mactancebu #philippines ホテル近くのスパニッシュ。美味しかった。フィリピンは色濃く今でもスペインなんだけれど、車に乗せられて路地とか走るとわかってはいても今でも凄い。暗がりにいる犬たちは地域犬みたいな感じで人と共存していて、ああいう犬とのつきあい方を日本人は忘れてしまって久しい。日本にいる犬たちとフィリピンにいる犬たちとの距離は幾光年。でも鶏と犬が幸福そうに見える。人は。。わからない。安易には言わない。

» Continue reading

March 11, 2017

6年目




おどろおどろしい。もはや見たくも考えたくもない方もいるだろうけれど、これはまさしく我らの生み出したもの。政治家や東電をそしるのもいいが、まず全ての人が自らの胸に問うべきことだと思う。

震災直後のあの先の見えない暗い街での不安感を、甚大な人達の悲劇を生んだあの海の猛りを残念ながら自分たちは忘れ始めている。

受け取った啓示が何だったのかわかる日は来るかどうかわからないけれど、少なくとも311は全ての人が大小の決意をした日、これから生きていくことについての小さな、あるいは悲痛な決意をした時だと思うが、中には闇に向かう決意もあったのかもしれない。そういう意味においても、何も終わっていない。

しばらく仮設にもうかがっていないことを心苦しく思っている。まず自分の気持ちの原点にせめて戻りいきつ帰りつを忘れないようにしたい。

» Continue reading

February 26, 2017

騎士団長殺し




「ジャズ喫茶をやりながらなんか小説書いてる村上なんとかというのが、売れてるらしいよ。風の歌をなんとかってやつ」
「へー面白いの?」
から幾年月。作家はみるみる売れて日本はおろか世界中で有名になった。

なんというのかな。地下アイドルを応援してたらいつの間にかAKBの1000倍くらいになったみたいなそんな感じか。その間ずっと彼の作品を読んできた。ただそれだけのことなのだけれど、最近は買うのも妙に面映ゆい。

時間とか歳月とか。不思議なものだと益々思う。

#なるべくAmazonを使いたくないが本当に近所に本屋がなくなった。

» Continue reading

January 20, 2017

与那覇大智展「影を放さない」展評

(1/20付沖縄タイムス)




 初めて与那覇大智氏の作品に触れてから10年近くの時が経過したことに気づく。今となっては最初の邂逅の時期にいまだ東日本大震災も起きていなかったこ とが、何やら不思議である。

 それほどに、自分はこの国に何やら揺れごとがあるたびに、静謐な空間に展示された与那覇氏の作品を思い、その前で与那覇氏と交わした会話について思い出してきた。そこで沖縄の運命と出会い、氏の画歴を培ったフィラデルフィアの街を脳裏で辿り、そして深い闇と光に包まれた世界と、与那覇氏と自分の住むこの世界との抗いについて思いを巡らしてきたと思う。

 この国の進むあり方に、与那覇氏は表現者として常に敏感であり続けている。自分が渾身の作品を前に佇み、取るに足らない問いを投げかけると、与那覇氏はそれに答えながらも、より深い場所、自らの魂の中で起きている出来事を返すというダイアログが続いてきた。その対話が自分の中で重要な位置を占めてきたことは間違いない。
 それは決して解のない謎の周りを共に巡るための無比の時間であり、世界の理不尽に対峙する一人の表現者の、言葉にならないイメージに心が触れる時間でもある。そしてもちろん自分自身の魂とも対峙する。否。対峙することを迫られる。

 「影を放さない」と題された今回の展示で中心を占めるのは、光と色彩に囲まれながらも、深い影を落としている椅子を中心に描いた「HOME―椅子」である。
 展示には言葉が添えられている。

 「『光』に照らされた椅子のそばにいる闇、それが『影』です。『影』は椅子が『光』に照らされる限り常に、椅子に寄り添っています。(略)椅子が『影』の主であることを自覚し、その影を放さないこと。それは、椅子が椅子であり続けるために大切なことだと思います。椅子は僕です。そしてあなたです。」

 画面に描かれためくるめく光芒と色彩に包まれながら、深い影を落とす椅子に心を座らせることが、この展示に足を運ぶ人に課せられる魂の試みなのかもしれない。その椅子に座る時にあなたにはどんな光が、そして闇が感じられるのか。闇の存在を忘れていないか。絵は問いかけてくる。
 思えば自分はこうした虚空の椅子に座るために、この場に何度も足を運んでいるのかもしれない。光と闇に包まれた椅子はまた「世界にポジションを取れ」と発する表現者の無言の挑発ではないのか。
 フェンスに隔てられた先に無数の光が煌めく「HOME―裏庭の宴」の前に立つと、画面の四隅まで張り巡らされたフェンスが否応なく心に挑んでくる。このフェンスはあなたと誰を隔てているのか。あなたはこのフェンスを越えることができるのか。いや、そこには本当にフェンスがあるのか。

 絵画という表現を評しようと言葉を撒き散らす己の無力に打ちのめされながらも、自分はこれからも氏の作品が展示される場所に通うだろう。たとえそこに画家の用意した椅子が置かれているとは限らなくても。その時は自分の椅子を置くことにしよう。









…………………………………
 与那覇大智展「影を放さない」は東京・Oギャラリー(中央区銀座1の4の9の3階)で22日まで。問い合わせは同ギャラリー、電話03(3567)7772。

» Continue reading

January 19, 2017

沖縄タイムスに与那覇大智展の展評を書いたのだけれど。








画家の 与那覇 大智 (Taichi Yonaha)さんから、こともあろうに沖縄タイムスに掲載される展覧会評(展評)のご依頼を受け、一昨日入稿させていただきました。

通常は自分のような門外漢が新聞への美術展評の依頼など受けた場合には、「何をご冗談を」と断るのが儀礼でありデフォルトであると思うのですが、馬鹿な私はお引き受けしてしまい、頼んだそのご本人をも驚かせたようであります。

引き受けてしまった後で「どれどれ新聞の展評というのは、みんなどんなものを書くのだろうか」と沖縄タイムスの過去紙面をネットで読み、再度脂汗をかくことになりました。

もとより美術評論家の質など要求されていることはあり得ないので、それならそれで私らしくと開き直って仕上げましたが、「ブログを書くような軽い気持ちで」とはよく言うよ与那覇さん。いくら図々しい私でもそんなわけにいくかと。笑。

運が良ければ、明日20日の沖縄タイムスに掲載されるようですので、掲載後にまた展評含めご紹介できるチャンスもあるかと思います。まあ私の駄文はどうでもいいのですが、与那覇展は22日(日)まですので先だってご案内させていただきます。

1人でも多くの方に。
 

PS. このブログでは与那覇さんの個展に初めてお訊ねした時のことを書いた記事があります。読み返してみると、邪念のない分、今回の展評より良い気がします。

「失われた町」が導いてくれた場所---与那覇大智さんの個展に行ってきた


 与那覇大智展―影を放さない―

会期:2017年1月16日(月)-22日(日)
12:00-20:00(日曜日11:00-16:00)

会場:Oギャラリー
〒106-0061 東京都中央区銀座1-4-9 第一田村ビル3F
℡&fax:03-3567-7772

» Continue reading

January 12, 2017

トランプ会見すら場を取り繕う共同通信とそれをコピペするこの国のメデイアについて


違いを超えて報道の自由を守る~トランプ氏に非難されたCNNをFOXが擁護

江川さんはこう書かれているが、もうこのことだけじゃない。何から何まで違います。日本のメディアとは。こんな私も日本人だな。恥ずかしかったなと思ったのは、少なくとも夕べは米国メデイアも無難に場を作るかと思ったこと。こんな私に誰がしたんですか。日本のメディアの方達ですよ。あなた方ですよ。あなた達のお行儀に毒されたんですよ。

トランプ陣営はいきなりの暴言からのスタートだったけれど、仮に日本の新首相会見でああいうスタートがあったら、日本メディアは「場をつくろわないで」戦えますか。

そんな最中にも飛び交う共同通信の、他国の首長にすら場をつくろう「速報」の数々。

「トランプ次期大統領、雇用確保を約束」

とかあなた、それ速報ですか。それって報道なんですか。目の前で繰り広げられている彼の国のメデイアとトランプの戦いを見てそれって何なんですか。

心からがっかりした。その共同の速報をコピペで流しているメデイアの方達。配信じゃないんだよ。それを今はコピペと言うんだ。コピペならメディアなんていらないんだよ。ツイッターがあればいい。

» Continue reading

December 04, 2016

おとうさんはきょうもいそがしい

こんなの書いてた。2012年だ。すっかり忘れてた。

---------

おとうさんはきょうもいそがしい。
おかあさんもきょうもいそがしい。
おとうさんは、おかあさんやぼくのためにしごとにいく。
おかあさんは、ぼくやおとうさんのために、あいをそそぐ。

あなたのためよ。あなたのためよ。
かぞくをたいせつにすることは、せかいをたいせつにすることになるんだよ。

でも。そのせかいがよごれたことを、ふたりともなにもいわない。

ただしくいきていれば、
いっしょうけんめいはたらいていれば、
いいことがたくさんある。
それがせかいのためなんだって、おとうさんはいう。

いっぱいかぞくをあいすれば、
あなたが、がっこうにいくようになって
だれかとであって、またかぞくをつくる。
それがせかいのためなんだって、おかあさんはいう。

でも。そのせかいがよごれたことを、ふたりともなにもいわない。

ねえおとうさん。なぜせかいはよごれたの。
ねえおかあさん。だれがせかいをよごしたの。
せかいがよごれてこまっているひとはいないの。
ないてるひとはいないの。

そんなことはかんがえないで
あなたはしっかりべんきょうして、たくさんたべて、おおきくなって
またわたしたちのようなかぞくをつくりなさい。
おとうさんとおかあさんがいう。

それがせかいのためなんだよ。
かぞくをたいせつにすることは、せかいをたいせつにすることになるんだよ。

でも。そのせかいがよごれたことを、ふたりともなにもいわない。

おとうさんはきょうもいそがしい。
おかあさんもきょうもいそがしい。

» Continue reading

October 27, 2016

物忘れ または 前の前の人生について

自分は、長く生きていると途中で何度か記憶喪失になる。それまでの人生を一回忘れる。忘れてもいいやと思ってるから余計に忘れるのか。何か忘れたいことがあるのかよくわからない。そんなことが何回かあった。

忘れたまま生きているその後の日常の中で、こんなことをなぜ自分はできるんだろうとか、こんなことどこかで覚えたっけとか、意味もなく不安感が押し寄せ、そうなってから初めて「ひとつ前の人生」や「ふたつ前の人生」を稲妻のように思い出す。いやリンネ生まれ変わりじゃないですよ。全て今生なのですがね。

忘れようとしたきっかけは前向きの時もあるし、きつくて忘れたかった時も(おそらく)ある。(単なる物忘れの時もね)

ところで、モーガンフリーマンのこの上なく現実離れした番組が好きで深夜によく見ている。「自己とは何か」「時間とは何か」「自我とは何か」「死とは何か」「記憶とは何か」「生命とは何か」

子供の頃に当然と思っていたことが、最新の科学で根元から覆されつつある。そんな身震いするような衝撃が好きだ。人間はいまそういうテーマに必死で向かい合わざるを得ない段階に差し掛かっていると思っている。

遥か彼方にある夢物語と見下していたAIだとかロボットだとかアンドロイドだとか。それらに現実的に対さなければならない時が近づいている。改めて人間の定義や命の定義をし直さなければ、彼らに向かい合えない段階になっていると思うからだ。

「苦しみ」とか「悲しみ」とか。それらは一体何なのだろう。何なのだろうと考える自分はいったい何なのだろう。

自分はこの世から逃避したいわけではなくて、この「何なのだろう」の領域の中でいっぱいに現実的でありたいとは思っているのだが、それでもその自分とはいったい何なのだろう。この世に何をしに来たというのだろうと思う。

いやこれも「前の前の前あたりの人生」でも考えたことのような気もする。リンネ生まれ変わりではない人生で。これも単なる物忘れなのかもしれない。

» Continue reading

October 23, 2016

この世に悪魔はいたのか

この世に悪魔というようなもの、おそらく日本では鬼ともいう。能の世界では鬼は数々あれど、例えば般若は人の心の中の鬼であるとする。しかし中ではなく外に敵対する鬼を想定することで人は白の世界にいようとするものではないか。暗黒面は光の世界を想定しなければ成り立たない。逆もそうである。

60年代の高度経済成長、70年代後半から80年代のバブル期、その後の氷の世界、2000年代のITバブル期を駆け抜けた広告の悪魔性についてよく考える。人ごとではなく加担してきたひとりとして。自分の中の一部にあの時悪魔はいたか。あるいは悪魔に心を売っていたか。

あの戦争を引き起こした人たちの中に一定の懺悔と怨念があるのであれば、スケールは段違いとは言え、80年代から2000年にかけて、そして現在に連なる日々の中で我らの世代にも一定の懺悔と怨念はあって然るべきだろう。この世は眠っている間に出来上がったわけではないのだから。

時代の懺悔と怨念はどの世代にもあるのだろうが、我らの時代は先の戦争の如き大量殺人を起こしていないからか、まとまった懺悔や後悔の言葉を聞いていない。(オウムの時代は隣接して捉えられるべきだろうが)西武セゾンの全盛を頂点とするバブル広告文化の焼け跡の中で、糸井氏も何も語らない

現代にあってまだその周辺を彷徨っている自分にとってあの時代への加担について、自分如きにあっては、まとまった言葉など出てくるわけもないのは当然かもしれない。しかし今日のような日はぼんやりと考える。自分は果たして小童として悪魔に手を貸していたのだろうかと。

「彼ら」が悪魔であった証拠を見ていたはずだ。と1人の自分は言い、他の自分はそれを頑として否定する。鬼はそれぞれの心の中にあり。彼らを鬼と呼んでそこに何があるのか。世代も変わり社会のストラクチャーが激変する中で、それでも鬼の子供達を鬼と呼び続けるのか。自分は何様だと。

何を言っているのか、わからない人にはそれでいいのだろうが、今でも僕はぼんやりと杉山登志のことを思い出しまた先行する時代を駆け抜けた父親のことを思い、巨大なグループを一夜で廃墟にして逝った総帥のことを思う。彼らが悪魔だったと自分に言えるのか。言えるわけもない。商業主義の何が悪い 。

おそらくそこには人の幸福と商業主義との間の相克があり、暗闇と断層があるのだろう。豊かさと商業主義の幸福な並走はあるいは終わったのかもしれないとも、いま始まったところなのかもしれないとも思う。「個々の人に個々の悪魔が宿った。別々の方向を見ている悪魔が」とするべきなのか。

何もいない空間に向かって念仏を唱え、誰もいないところに自分は問いかけているだけかもしれないが。ネットがその空間として、願わくば寛容であることを。

» Continue reading

October 19, 2016

生きたとて

首根っこを押さえて叱ってくれる先輩も今では少なくなった。この先どうしますかと問われる眼を見る。俺もわからないんだよ。ああこれがエイジなことなのだなと思う。人はできることであれば生涯やんちゃでいたいものだと思うのだが。それに生きたとて、そのうち何かがわかってくるわけでもないのだよ。

» Continue reading

October 09, 2016

過労死自殺の件に触れて

広告関連で一番働いていた時代。一晩に〆切が3本。最後の打ち合わせが夜中前に終わって翌朝までに直せは日常。会議室の固い机の上で寝た。ホームでベンチに座ると意識を失い気がついたら3時間後。コーヒーカップを水平に置けなくなった時点でまずいと思いペースダウン。あのまま行っていたらどうなったか。実際同僚が何人か過労死した。今生きているのはただの幸運だ。

一番多かった時で残業時間はどれくらいだったのか。それすら覚えていないのは、その会社が残業時間の記録すら求めなかったからだ。残業代を払わないからだと思い当たる。考えてみれば酷いところにいた。

» Continue reading

«エンドレスボアリング

-