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May 27, 2018

久しぶりに村野ミロに会う



何年振りかで桐野夏生の村野ミロシリーズを無性に読み直したくなった。前には図書館で読んだらしくいくら探しても家に一冊もない。仕方なくAmazonで文庫本を買って一作目から読んでいる。こんな深夜に読むと変な夢を見そうだが構わない。

ストーリーはほとんど忘れていたが、懐かしい知り合いに再会したよう。暗く孤独で荒々しくて不安定で時に暴力的でエキセントリックな女。ミロ。久しぶり。

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May 23, 2018

桜となってはいけない

事実を淡々と述べながらも決して人を責めず自らの責任を語る若者に多くの人が共感した。自分もその例外ではないが、その姿に旧日本軍の兵士のような危うい美意識を感じたのも事実。

私たちはこういった日本人の「美徳」と一度は決別したのではなかったろうか。不正な圧力には決して屈しない態度、凛とした態度が尊敬される国になろうとしたのではなかったのか。責任を自ら引き受け滅んでいく桜ばかりを美しく思ってはならないはずだ。

なぜこの国の隅々でパワハラが横行するかと言えば、そうして耐えて責任を引き受ける姿の幾ばくかを私たちが美しいと思ってしまい、戦う者たちに対しては、和を乱すものとして眉をひそめる性向があるからだ。それが続く限り、社会の隅々の人達まで抵抗しない限り、蜂起しない限り、そうした人達こそが尊敬されるようにならない限り、この国からパワハラはなくならない。

また桜が散っていくだけだ。

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May 01, 2018

軍政の闇を抜けてきた国-映画「タクシードライバー」と光州事件





今日新宿で観てきた。

「タクシードライバー」というタイトルの軽さと、前半のコミカルなトーンに騙されると、後半で途轍もなく、凄まじく打ちのめされる映画。

南北会談が話題の韓国だけれど、自分たちが大学生の時は、岩波の「韓国からの手紙」が作者不詳で話題になり、とにかく軍政の「暗い国」であり、圧政国家であり、中の様子が今のように伝わってこなかった。光州事件はそんな最中の1980年。中国の天安門事件とも重なる、自国軍による民衆の大虐殺である。韓国はそんな時代を経て、今に至っており、戦いの地獄を日本より遥かに知っている。

自国の軍が銃を国民に対して水平乱射してくる地獄を中国もロシアも韓国も知っているが、幸いにして日本は知らない。もちろん自分も知らない。その甘さが、今日の政権の跋扈を許す甘さにもつながっているのだろうなと思う。

秀作。

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April 29, 2018

久しぶりに国立能楽堂に行ってきた








実に久しぶりに国立能楽堂に能を観に行った。このブログには何度か書いたと思うけれど、自分の社会人としての出発点は、写真と薪能だったのです。原点に帰るような気持ち。

30代の頃に見た当時の金剛流の宗家は既に亡く息子さんの代になっている。と言ってもその人が60代。謡のテキストが前席の背面にはめ込まれた液晶に表示されるなど、能楽堂は現代化されているけれど、能世界の空間は少しも変わらない。歌舞伎と違って観客をそう簡単には寄せつけない閉じた世界の凛。

演目は夢幻能の典型とも思える「江口」。難解だった。

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April 28, 2018

板門店の戻ってこないかもしれない空気

今後の板門店はどうなるんだろう。今日はまた体の半分しか「敵」に見せないあの屈強の韓国軍兵士が復活しているんだろうか。
たとえそうであっても、昨日までの板門店と今日からのそれは全く意味が違うだろう。

かつて(2005年だった)ガチガチに緊張している板門店を自分の目で見に行っておいて、今は良かったなと思う。あの時の板門店の空気はおそらく今後は帰ってこない可能性があるからだ。

あの青い境界線の建物も統一記念館も平和の家も、大成洞も、そしてあの幅15cm程度の軍事境界線も、間近で見た北朝鮮兵士も記憶の中に、その時の空気の匂いと共にあって、その場所で今回のことが繰り広げられたということが、今回の出来事を、より自分の側に引き寄せている。

世界全体を自分の側に引き寄せるなんて到底無理なのだけれど、自分の根源にあるのは表現し難いそうした「引き寄せたい」気持ちなのだと思う。で、それは何なのかきっと最後までわからないまま死ぬのだろうな。

書くことや、写真を撮ることの意味に似ていると言ったら、この時代だと少しは共感できる人もいるのかな。形を変えたライフログのようなもの。と言ってしまえば。

【板門店へ行った】
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/26615/28156/category/4822002

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April 27, 2018

板門店の信じられない光景とヒトの世界の悲しさ





流石にちょっとウルっときた。板門店にこんな光景を見ることになるとは。

一度金正恩が単独で軍事境界線を越えてから、文在寅大統領を誘って2人で北側へ。改めて北から2人で一緒に境界を超えた。

‪今日の笑顔にまでたどり着くのにあれだけ狂気のミサイル弾道弾発射を繰り返さなければならなかったのか。そのことの愚かさと悲しさを含めてヒトの世界に泣けてくる。‬

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April 21, 2018

完全なる性の不完全

「完全な男性性」というものがあるのかどうかは知らないし、「完全なる女性性」についてはもっとわからない。わからない上でいうと、その「完全なる男性性」(を設定すると)は女性のことなどわからない。理解できない。共感もない。その上こうした「完全なる男性性」は現在の日本社会では、批判されるどころか権力機構のなかで守られ正当化され、むしろ崇められている。男は完全なる男になれと言われ、女性も同様。大相撲もセクハラもその発露の一例。

つまり単一の性に極度に依存することは、「国粋的性主義者」のようなものを、(男の側だけではなく)両性に作り上げる危険がある。これがトランスジェンダーの人達がポジションをとらなければ社会が是正されない根拠の一つだと思っているし、知的であるとかないとかの基準の一つはあらゆるものに対してトランス的な立場を取れるかどうかではないかな。性だけではない。国籍も民族も。貧富もだ。

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April 20, 2018

決断と勇気と、報道とは何であるかということ--ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書

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アメリカのベトナム戦争政策に決定的な影響を及ぼしたマクマナラ文書を巡る、ニクソンとNewYorkTimes、そして当時は1地方紙でしかなかったワシントンポスト、特にワシントンポストの社主(メリル・ストリープ)と、その敏腕記者(トム・ハンクス)の戦いを軸に描いた秀作。スティーブン・スピルバーグが、トランプ政権の元で米国の報道の自由が脅かされる今、どうしても世に問いたかった作品と言われる。

マクナマラ文書を巡る両報道機関と政権の行き詰まる攻防を描くが、何と言っても、優秀な夫を早くに失い、周りから期待されない「普通の主婦」でありながら、ワシントンポストの命運を握ることになったメリル・ストリープのギリギリの選択が見所。

社交界の延長の感覚で、「明らかに能力がない」と思われながら社主に就いた彼女が、トムハンクス演じる、真実の前には一歩も引かない自社の敏腕記者に強烈に影響され、やがて重大な決意を命を賭けて断行する。
報道とは何なのか、時の政権に対する報道人の矜恃とは何なのか、全ての人が胸に問いかけるだろうし、もしも人生の重大な岐路に立っているなら、己が姿とメリル・ストリープを重ねるだろう。もちろんメディア関係者なら絶対に見て欲しい。

スピルバーグが念頭においたのは、2018年の米国であるが、我らは、政権の中心高級官僚が報道機関の女性記者に対しての進行形の振る舞い、そしてモリカケにおける重大な政権の不誠実と、官僚の腐敗、偽装。その事実の前にある。ベトナム戦争に大打撃を与えてついに撤退へと追い込んだかつての報道人たちの苦しみを前にして、我らは何を重視し、何を考えなければならないのか。
古めかしい活版から手で活字を拾い、ギリギリのタイミングで強烈に輪転機を回し、衝撃を社会に拡散していく当時の新聞社の描写も良い。

地味だけれど大変な秀作である。強くお薦めする。

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April 15, 2018

ナイフのような心理劇-木漏れ日に泳ぐ魚




一般に小説はタイトルでかなり内容を想像させられる。強烈なタイトルのものは自ずと中身の刺激性に期待をするのだけれど、この小説は穏やかとも見えるタイトルに加え、ありきたりの設定かと思えるようなスタートで、中盤から後半の強烈さをとても想像できない。限られた登場人物による、それも一歩先も読めない緊張感のある心理劇のよう。ナイフのような切れ味が各所にある。

あとがきで鴻上さんが恋愛についての物語であると語っているけれど、それは一部でしかなく、人の記憶と観念と、もっと恐ろしい何かについて描かれている気がする。

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April 13, 2018

赤い血の出ない人はない

彼女はある種の洗脳状態にあったのだと思う。それが覚めた。人は人であり、徹底的な非「人」はいないし、体を切り裂いて赤い血の出ない人もいない。
超常的な夢のようなミステリアスな「女」を求める層がいて、それを作り出して売る側がいる。

アラーキーに本当はこんな陳腐な図式は当てはめたくはなかった。だがそう思いたがっていた自分もまた、人のことを人として考えていなかったのかもしれない。


アラーキーの「ミューズ」と呼ばれた私のこれから。KaoRiさんが語る、告白後の心境

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March 20, 2018

高木佑輔写真展「kagerou」-中心部に近い周辺

昨夜、Yusuke Takagiさんの写真展「kagerou」に伺ってきました。自分にとっては何度か見ていて再会するような気持ちのする作品の数々にまったく新たな命を吹き込まれているような、新鮮な気持ちで見ることができました。



















写真家に限りませんけれど、作品はその作家の行動や発言と背中合わせにあるものだと思います。アウトプットのみを見て感じるものももちろんあるけれど、takagiさんと南相馬と自分、そして原発事故は自分にとっては不可分の存在なので、きっと自分なりに中心部に近いところから見ているのだろうと、ちょっと思いました。

もちろん最中心ではありませんが。その周辺の1人くらいで。

改めてあの事故と、街と、自分の見てきたものを思い出しました。

明日までです。曳舟のReminders Photography Stronghold

https://m.facebook.com/events/345719499169482?acontext=%7B%22ref%22%3A%2298%22%2C%22action_history%22%3A%22null%22%7D&aref=98

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February 04, 2018

知っているもの




不変よりも、流転するもの。

剛直よりも、柔らかなもの。

迷わないよりも、揺らぐもの。

滅びないよりも、再生するもの。

完成するよりも、終わらないもの。

満たされるよりも、満たされないもの。

辿り着くよりも、辿り着かないもの。

傷つかないよりも、傷つくことを知っているもの。


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January 23, 2018

意味なんかなくていい

写真を撮ることの意味とか言ってたらダメであってとにかく撮らなきゃダメだったんだよね。とにかくとにかくバカみたいに撮らなきゃダメ。皆がバカみたいに撮りまくる時代になって奇跡のように素晴らしい写真が沢山生まれてる。写真に限らないなこれきっと。

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魔王の墓碑銘の前で-造花のような娘たち





全員社会人ってウソでしょ!?ネットで話題のアイドル『東池袋52』のクオリティが高すぎる

そうだったか。迂闊にもあのセゾンだったか。結びつかなかった。今はセゾンと言えばクレディセゾンだったのだな。52ってサンシャインのあれか。目くるめく蘇る封印された記憶の数々。魔窟は既に魔窟ですらなく、魔王もまた冥界に旅立たれた。あなたの墓碑銘になるはずだった塔の前でこんな娘達が造花のように群れ踊っている2018年。嗚呼。

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January 18, 2018

その人を飢えさせてはならない

この人を飢えさせていては絶対にだめですよ皆さん。と言われて深く同意する。なんとかしなけれゃだめだと思う。圧倒的な才能。今日ここに来ている人たちが頷く。みんなそんなことはわかっている。

そうだ。だからこんなむくつけきオジさんの追っかけを俺が長年やっているのだから。そうなんだ。才能に惚れているのだよ。すとんと言葉にしてもらった。

この人が食べられないなんてあり得ない。俺が飢えてもこの人は飢えてはならない。

でもその人を使って金を稼ぐ方法なんて一つも思いつかない。その人の書くものが今後爆発的に売れる未来も申し訳ないけれど想像がつかない。この人とつきあってもきっと金になど全くならない。儲からない。

けれどそれがなんだというんだ。

この世には金になどならない、できない圧倒的な才能というものがあるのだ。これを芸術というのかな。元来文化というのは本来そういうもので、金に換え易い文化ばかりがもてはやされるのはどういうことだ。だからあの人が飢えるのだ。

自分は儲けたり倒れたりの垂れたりするだろうけれど、文化として保全する意味など全くゼロだ。こういう人間は好きにの垂れても誰も悔いる必要はない。保全する文化的価値は全くない。

けれど彼を飢えさせては絶対にだめだ。ならどうすればいいのか。うだるほど金があればパトロンになるのかな。そんな金はないし、そんなことはきっとその人は望むまい。

とオロオロいつも追っかけているわけだ。まるでストーカーだ。

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January 12, 2018

汚れてもいない。美しくもない。

汚れているもののことを汚れているとは認めない。

美しいもののことも美しいと認めない。
美しくもない。汚れてもいない。
世界はただそこにあって、人の営みも含めて全て罪などない。
だから。
あるがままの、罪なき世界に対峙する自分だけが傷つく必要もまたない。

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January 09, 2018

明日のクリエイターを育てるはずのあなたに言いたいこと

クリエイターなら残業代など言うなというあなたのオピニオンを見てちょっとがっかりしています。あなたはクリエイターを育てる方のはず。創造と言う名のもとにあなたの教え子が社会から搾取されることを望まれますか?法は法です。いいですか?残業代は払われなければならないんです。それ以外の解釈はありません。ないんです。仕事の種類は関係ありません。

そして創造を欲する心と、それを持続する経済的サポートは両立させなければならないのではないですか?あなたがこれをお読みになるかどうかわかりませんが、そして僭越ではありますが。考えてみてください。アシスタントはクリエイターではないのです。あなたは明日のクリエイターを望む若者の味方ではないのですか?

どれだけの若者が創造という大義名分のために強者から搾取されていますか?どれだけの報われぬ明日のクリエイターがいますか?そういう人たちが明日のこの国を作るのではないですか?私達の世代がすべきことは何ですか?

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January 06, 2018

まだ会えていない同志の記録-家族最後の日




すっかり植本一子さんの世界に嵌ってしまい、連作を全て読んでいっている。よその家族の物語であると同時に、一部は自分の物語でもあり、さらに311以降の日々を生きた「まだ会えていない同志」の日記でもあり、また同時に近くて遠い魂の歴史でもある。

様々なリスクもあるだろうに吐露してくれる壮絶なそして私的な記録から自分達が受け取るものは測りきれぬほど大きい。

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December 28, 2017

写真を撮るということ

ある写真家の人の日記を延々と読みながら、そうだ。自分はカメラマンになりたくて、新卒でスタジオマンにまでなったんだと、今更のように、改めて思い出す。今考えると、まるで別の人生のようだ。

で、なぜカメラマンにならなかったのか、考えてみるが、本当に別の人生のように遠い日の記憶で、よく覚えていない。どこかでカメラを仕事にすることを断念したのかもしれないし、だらだらとなれなかったのかもしれない。成り行きだったかもしれないし、そのあたりのことは、あまり覚えていたくもないのかもしれない。

とにかく自分は写真を仕事にする人にはならなかった。それだけの話だ。

それでも、今でも、というかこの頃になって休みの日にはできるだけカメラを持って歩くようにしている。スマホを使えば誰でも写真など撮れるようになって、かえって写真を撮ることの意味を考えることは難しくなった。というより、今の自分にはそんなことの意味などどうでもいい。

ただ撮りたくなったら撮る。何のためという目的などはない。それでいいのではないかと思うようになった。こういうのを世間ではさかしら顔で「好きなことは仕事にしないほうがいい。趣味にしたほうがいい」などと言うのだろうか。

「趣味」という言葉の、どこか、どん詰まりの享楽感(苦笑)も自分は好きではないのだ。撮りたくて撮る。趣味ではない。そのことによって金が入らないだけだ。

何を撮ればいいのか、なぜ撮るのか。そんなことに迷っている間は、結局は撮ることの自由を獲得できていなかったのだろうと思う。

たどり着いた場所は、たいした場所ではないのだけれど、ここまで随分と時間がかかった。そんなものなのだろう。

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December 16, 2017

伝説の犬

犬の健康が不調。

犬の一生は人のおよそ1/5くらい。とすれば、犬にかける時間が1ヶ月だとすれば、それは人にとっての5ヶ月には相当するはず。そう思って徳を積むつもりで自分に言い聞かせる。

好きな話は、殆どの犬にとって飼い主は不老不死と思われているという寓話。5世代に1匹くらい、その飼い主の死に立ち会うことのできる伝説の犬が現れる。それは犬にとってとても稀な、選ばれた犬だけが立ち会える聖なる経験なのだという。そういう話。

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December 12, 2017

他のどこにも似ていない街



松崎の伊豆の長八美術館 に行ってきた。

松崎というところは不思議な街だ。他のどの街にも似ていない。西伊豆のどん詰まりにあって交通はどう行っても不便。東伊豆の喧騒とは遠く離れて、独特の鄙びた時間が流れている。
ここに来たのはおよそ30年ぶりで、あの時見た長八美術館はあんなに美しくクールだったのに歳月の流れは壁面を薄黒く痛めていた。この国はどうしてこういう至芸の源に金が集まらないのだろう。

松崎プリンスホテルは伊藤園ホテルと名前を変えてあの日と同じ場所に佇んで、同じ海を見ていたが、こちらも何だかしおれてしまっても必死にその場に立とうとする花のようだった。

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December 02, 2017

日本が中国に完敗したならそれを利用すればいい

すごく刺激的な質の高い論考記事なのでお薦め。


日本が中国に完敗した今、26歳の私が全てのオッサンに言いたいこと

中国に100万以上の都市が300以上あるという話を聞いたのはずいぶん前だけれど、それを言っても多くの日本人はポカンとしている。自分が上海に行った時は、東京よりも遥かに大きな大都会だと認識した上で行ったので、そんなにショックは受けなかったが、その前提無くして行けば驚くだろう。

中国はもちろん、今やアジアには東京など遠く及ばない大都市はたくさんある。例えば韓国には釜山という韓国第二の都市があるが、ここの巨大さときたら、東京の比ではない。人口も最盛期は400万である。

いつまでも世界に冠たるNo. 1日本だとか幻想を持っている人たちは中国でもアジアでもどんどん行ったほうがいい。この記事を読んで自分も深センにぜひ行きたくなった。

もう一つあるのは、別にこんなこと悲しむ必要もないということ。日本人のしたたかさを僕は信じる。理性的でも品格高くもないかもしれないし、人権も民主主義もわからないかもしれないが、この国はしたたかである。だから戦後の奇跡の大復興を成し遂げた。

周辺にこれだけ巨大な経済圏が次々と出来上がっているのだから、日本にとってはある意味チャンスである。同胞と若い人たちの今後のしたたかさを自分は信じる。

また中国の発展は目を覆うばかりの凄まじさだが、中国の大地は都市だけでできているわけではない。何十億という、日本の高度経済成長以前の生活をしている人たちもいる。漢民族以外の人たちもいる。それらも考えてこの国を見ないと見誤ると思う。

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November 18, 2017

馬鹿げた、そしてシリアスなギフト



38度線を区切る鉄条網のギフト。そう言えば当時こんな土産を買ってきたのだった。もうすっかり忘れていた。戦争の喜劇性と悲劇性の二律背反を凝縮している場所が板門店だと思う。この馬鹿げた、あるいはシリアスなギフトにもそれが現れているなと思う。

おそらく(僕の予想だけれど)間も無く今回の北朝鮮危機は収拾される。けれどもちろんそれは問題の先延ばしでしかない。言語化したくないけれど、アジアの民はあの地域の負の遺産をきっと、どこかで棚卸ししなければならないだろう。僕は生きているかどうかわからないけれど、あなたはきっと生きている。願わくば現在の日米のいずれの領袖にもその大役を担わせたくない。

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逃げ場のない街

#japan #shinjuku #shiodome #tokyo

路地を抜け、すっと逃げ込めるような場所がいくらでもある街と、どこにも逃げ場のない街。



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November 17, 2017

「人間万事塞翁が馬」に繋がっているような、いないような話

自分の話。

何か、自分のやっていることを親の仇のように攻撃する人がいる。一方でまるでそこまで言うかというくらい、褒めそやす人がいる。

通常の、平凡な人生というものが仮にあるとしたら、その定義はどちらの目にも合わず、「可もない不可もない」というような曖昧模糊とした優しい言葉に包まれ過ぎていく人生のことなのだろう。

自分の場合はそれとは程遠い。とにかく持ち上げられやすく、とにかく落とされやすい。毀誉褒貶の激しい人格という方に属するのかもしれない。もちろん「毀誉褒貶」という言葉を使われること自体が、あまり良い印象とは言えない。

この世にある世間というもの。いわゆる「世間がそれは許さない」とか「世間様に申し訳が立たない」という時の世間は、自分にとっては、自己を称賛したかと思えば突然攻撃をかけてくる世間であり、貶めたかと思えば(特に儲かる話でも持っていけば)手のひらを返して擦り寄って褒め称える世間である。

毀誉褒貶の激しい自分としては、このような状況でいちいち弄ばれては叶わないとある日思ったのか、防御の一形態なのか、「自分の評価者は自分だけである」というドグマをいつからか持つようになったと思う。

もちろん元より宗教的ではなくて、道徳的でもない。神も世間も特に何もみていないし、何も正しいことを言ってくれるわけでもないのだから、そこは評価者である自己が決めますからよろしくね。という立場である。

大学を出てから久しく哲学の勉強などからも遠ざかっているのでよくわからないけれど、こういう考え方の人間は「実存主義的」とでもいうのだろうかな。よくわからない。宗教的信念のある人からは哀れに見えるかな。

客観的に考えると、物事の自分なりの合理には酷くこだわるが、世間の理や道徳にはたいして関心を示さない。元々毀誉褒貶の激しい身であるから武装したのかもしれないのに、それがまたループして一部の人たちの神経を逆なですることで攻撃に繋がるという仕掛けである。

自己に利を図ることにも、自己を正当化することにも実はそれほど関心がなく、評価者である自分は自分に対して最も良き理解者であり、一方で最も激烈な批判者でありたいと思うだけなのだが、どうもこうした心理構造は必ずしも一般的ではないようである。

現実的に言うと、このような心性に似合う生き方と、似合わない生き方がある。似合う職業と似合わない職業がある。似合う野山と似合わない荒野があるのである。
時には酷く人を傷つける。しかし助ける時もあるはずだし、あったと思う。奥の方を覗き込んでしまった人にはごめんね。お気の毒にとしか言えない。

仮にそれぞれのこうした構造に「問題」や「苦労の種」があったとしても、何十年も溜まった風雪じゃなくて澱のような心の奥のその塊はどうすることもできない。今更治療や修正の道がないのであれば、せめて賢くマネージしたいと思うのみである。

元々世間など、自己の運命や幸福、帰結に対してなんの責任も負ってくれないではないかと考えてしまうところが、やはりその心性はほらまた出ましたこの殺伐がと思うだろうけれど、この世はそんな千差万別の育ち方と生き方の帰結の失敗作が満ち溢れているであろう。

それでも生きている。

※ここまで書いてから不似合いな「人間万事塞翁が馬」という故語を思い出した。自分はこの最初の2文字を「にんげん」と呼んでいたが、下記の引用によれば「じんかん」と読みこれは世間を意味するのだそうだ。知らなかった。

話が繋がっているのか繋がっていないのか。これもよくわからない。


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人間万事塞翁が馬

中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。
さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。

ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。
この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。
ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。
そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが災いにならないとも限らないよ。」

しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。
近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

1年が経ったころ胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。
城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。
そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くはその戦争で死んでしまいました。
しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

 この話は、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。

「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。
「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。

「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」
という事です。

https://mizote.info/image/02profile/30kaisetu_jinkan.html

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