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November 30, 2004

不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸

「幸福なのか」

身近な人に聞かれた。

うーんと考え込んだ。

幸福でない理由を明確に言い表せる言葉がない。
というより僕の中に「幸福」という概念がもともとないのでは
ないかと思った。

「不幸」について考えることはあっても
「幸福」について考えることも、自分がそれを志向することも
少ないというより、まったくと言っていいほどないからだ。

さらに聞かれる。

楽しいことはあるのか、と。それはある。もちろん。

「ではそれは幸福な状態なのではないか?」

「それはリラックスしている状態のようなもので
幸福とは違うよ。」

と僕は答える。

僕に関わる物語をどこまでさかのぼっても、お世辞にも
客観的に幸福と呼べる時代がなかったことも一因かもしれない。

両親がいない家庭で祖父母と暮らしてきた僕は、そうした
「世間的な幸福」について、意識の芽生える遥か昔から
考えないようにしてずっと暮らしてきた。

それは誕生日やクリスマス、父兄参観や運動会、就職
といった隅々にまで及んだ。

ただの一時も自分を他の人と
同じであると考えたことはなかったし、つまり幸福だと
感じなかった・・いや、というのとは違うな。
むしろ「それ」について考えない性格を自分で作ってきたと
いっていい。

まあ、自分のことでありながら冷静に考えれば
一種の防衛本能が作用し、幸福と不幸という概念そのものを
受け入れなかったのだろう。

今、自分の家庭があり、友人があり、そして大切な人も
いる中にあって、客観的に見て「不幸である」とはとても
言えないと思うのだけれど、自分の心の中の大なる欠如感は
それを許さない。

気がつけば、この世の不幸な面にばかり関心が行ってしまうのは
それこそ自分にとってあまり幸せなことではないのかもしれないと
思うのだけれど、生来培われたこの心理傾向は、容易なことでは
晴れそうもない。

こんなことをなぜ急に言い出したかというと、あまりにも
最近自分が死や戦争のことばかりを考えているからだ。

それが、僕のこうした特殊な性格に起因するのか
それとも、抜き差しならないところに本当に時代が差し掛かって
いるのか、自分で判断する術を持たないためだと思う。

いくつかの信頼すべきネット上の友人たちの言動を見ていると、
それをあまり自分の「特殊性」に拠って考えるのは間違いの
ようにも思えるのだが、年末に向け華やぐ街を
見ていると、どんなに仲間が多くあろうと、記憶の不幸に
いつの間にか自分が寄り添っているように思われてならない。

もちろんその思いを自己愛的なポーズとして
甘美だと感じる年では断じてないのだが
それ自体が自分の甘えにつながり、正確な時代認識を
失わせはしないかと危惧する。

生来ひそかに抱き続けてきた孤独な危惧でもある。

僕がブログをしている一番の理由は、そこへの補完作用なのかもしれない。

少なくとも今夜はそう思う。

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