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December 01, 2004

不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸2

不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸

#少し世界に背を向けるかもしれないが、もうしばらくの内省を許してほしい。

そうだ。

僕に見える、僕を取り巻く世界は中心に行くほど、つまり自分に近づくほどおぼろげで
ぼんやりとしている。存在が見えない。像はシャープな映像を結ばない。

そして、その中心から外へ向かうにつれて、世界の輪郭がはっきりしてくる。
そうしたところ、つまり自分から離れた幾ばくかの距離にいる人たちの、吐息や
幸福、不幸を感じないことには、僕のこの中心部の空虚は埋まらないし
生きていることへの実感がつかめない。
勢い僕はそうした人々のことばかり気にして過ごすようになる。

銃声は僕に感応し、夜の世田谷まで轟き渡る。
これはヒューマニズムではない。これを意識することは、だ。
そして思いやりでも優しさでもない。僕の抱える「病理」なのだ。
僕はそう思っている。

そういう意味において、一番大切なものは自分ではなく、中心から離れた命というか
生ということになる。

しかしどうも、この「歪んだ」世界の認識は、ほかの人ではそうではないらしい。

「結局なんだかんだいっても自分が一番大切だよね」
「うんうん」

と軽く同意しあえる関係は、おそらく。

おそらくそれをあなたに幼少のときに教えてくれた強烈な愛情があったから
あなたはあなたの記憶の中に無意識にそれを受け継ぎ、そう思っているのだ。
皮肉なことに、それをあなたに教えてくれたのは、あなた自身ではない。
これはパラドックスである。

あなたを強烈に愛した、誰か(誰かという言い方はない。自明である)の
あなたの存在への贈り物だと思うのだ。

「自分が一番大事」という感覚は、実はこうして他の誰かに依存している。
というより言わばあなたの誕生への「ギフト」として、
あなたが生きていくための最低条件として備わっている。
誇るべきものではないにしても、ごく当たり前の緊急安全装置なのだ。
そう考えれば、そう無意味で自分勝手な考えだとは言えないかもしれない。

僕にはそれが欠けている。

生きていくための正当理由は、天賦としては僕に与えられなかった。
他者や世界との関係を自分で築いていかないと自分の命の正当化が
できないのだ。

僕は、ただここで自分のこうした「運命的な病理」のようなものに
対して呪うつもりも悲しむつもりもない。
それは空気のように僕の誕生に際し、何かの意志によって与えられた
ある特殊なプレゼントだと思うようにしている。
少々ラッピングは変わっていても、だ。

いろんなことができないが、他の人に比べてできることも
あるかもしれない。そう思い続けることにしか、僕の生はない。
人が遠い出来事として気に留めない事どもの中に、自分の存在を
投影して生きるしかない人というのは、僕のような人間以外にも
確かに存在するはずなのだ。

同心円の遥か外側に、例えば今、血で血を洗う荒涼たる「地獄」
ある。そうしたところに生まれて苦しみ、死んでいく人々は無念
であろうが、誤解を恐れながらあえて言うなら、そこにも何かの
「意味」は確かにある。
そしてそれに感応する僕やあなたにも。だ。

意味はあるのだ。
すべきことも。

こんな駄文をここまで読んでくれているあなたは、
そういう意味で僕の「仲間」だ。違うだろうか?

そしてそうした人たちを理解するにはキーワードとしての

「幸福か不幸か」

などという平たい概念はそう意味を持たない。
もっとせっぱつまった、それはそれでぎりぎりの思念がある。

違うだろうか?

だから恥じずに、怯えずに病理を利として、理として
やっていこう。

眠れぬ夜はあなただけの孤独ではない。

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Comments

Big Banさん、こんばんは。かける言葉が簡単には見つからないのですが、Big Banさんのブログの愛読者は、あなたという人が存在してくれてよかったと思っています。出会えたことを感謝しています。"生きていく上で否応なく経験させられた、自らの悲哀を抱きしめながら"(私の大好きな文章家-本業は哲学者らしい-の鈴木規夫氏風の表現)、世界に向かって立ち、血を流し傷つき苦しむ人々とともに自らも血を流す人を持ちうるのは、誤解を恐れずに言えば(残酷かもしれませんが)、その時代にともに生きる仲間の幸いです。詩人とは、そういう存在ではないでしょうか。

Big Banさんの内なる大いなる欠如感は、他の何かで埋められるものではないかもしれません。でも、そんな人だからこそ、見える世界があり、語れる言葉がある。私は、そう思っています。Big Banさんの個人的な幸福を祈りつつ、私はあなたの紡ぐ言葉を読み続けたいと願ってやみません。

なんだか、言いたいこと、うまく言えてないのですが。

鈴木規夫氏は、私の11月14日の記事に登場した方で、まだまとまった著作も刊行されていないので(少なくとも日本語では)、殆ど知られていないのですが、彼が、ケン・ウィルバー(これまたマニアックな作家ですみません。『グレース・アンド・グリット』の著者ですが、本業は哲学者・思想家です)の言葉を解説している文章の一節をご紹介しますね。

#ウイルバーは、人間意識の深化のプロセスを、みずからが「地獄」に産み落とされた存在であることに気づくことにはじまる、深い悲劇性につらぬかれたものとしてとらえるが、人間の尊厳とは、そのようにさだめられたうえで、なお、この「地獄」のなかに「天国」をもたらすべく、寂寥と情熱を糧としながら、あこがれ、そして、もがきつづけることのなかに見いだされるものだといえるかもしれない。

(これは、アメリカでメンタル・ヘルスを学ぶ日本人大学院生ネットワークのメール・マガジン、「こころみ」に収載された「エゴとソウルとスピリット」という2003年1月25日の記事から)

よくおやすみになれますように。

Salieriさん、コメントありがとうございます。

正直なところ、こうした極めて個人的な事柄の吐露のような記事は、読んだほうも困るというか引くだろうし、どんなものだろうかと思っていました。

ただ、自分という人間が世界に対して向かい合うときの、原点のようなものとして、投稿する記事のトーンをわかってもらう場合、こうした背景を抜きには語れないような気がして、書いてみました。
実はリアル世界でも、知り合った人の中で、特に大事な人には早い時期に、こうした話を積極的にするようにしています。個人的な話ではありますが、自分を知ってもらうために、欠かすことのできない情報ですし、もしも自分のものの考え方に一風変わった性向があるとすれば、その手がかりの一助にして欲しいという、ある意味合理的な考えからです。
叙情を排して一つの手がかりとして、受け止めてもらいたいと思うわけです。そういうときには。

(もちろん自分のことを知ってもらいたいという、僕の深層での願望もそのベースにはあるでしょうけれど。)

思いもかけず、率直なそして誠実なメッセージをいただき、ありがたく感じています。

(いや、これは非常に控えめで気取った言い方です。実際はもっと感激していたりもします。。笑)

Salieriさんの鈴木規夫氏に関する記事は、以前に読ませてはいただいたのですが、トランスパーソナルという言葉にはなじみが薄く、なかなか身近に感じられませんでしたが、先ほどあらためて記事を読み直させていただいたところです。

ケン・ウィルバーに関する一節も響くものがありました。何か、自分の考える基本のようなもの=ベースはきっと間違ってはいないんだと、思うことができ、力づけられます。おそらく細部では(当然ですが)いろんなことを「勘違い」しているのかもしれませんが、根本的な発想の軸というか、グランドデザインというか、そういしたところを外しさえしなければ、良いのではないかと思います。

と、観念的なことばかり言っていましてもBigBan的に過ぎますので(笑)教えていただいた情報を手がかりに少しこの分野の書籍も読んでみようと思いました。極めて感覚的な私の述懐に極めて的確に対応していただき、新しい世界へのリードもしていただいたSalieriさんの「知の力」に感謝します。

それにしてもSalieriさんと言い、「改善案まにあ」のりーとさんと言い、言わば視座を据えた知性を備えた鋭敏な論評には敬服します。

もっと勉強しなければならないですね。素直にそう思います。

TBいただいて、嬉々として読んでみてはいるものの。
こういうのって、コメントするのは難しいですよね・・・お互いに。(汗

僕の場合は、鬱というのが数ある大問題の1つになっているわけですが。
今はといえば、「鬱も肉体的な問題だ」と言い切る奇妙キテレツな東洋医学者のお世話になっていて、その人が予告している完治時期が今年の6月上旬です。
なのでもし、首尾よく6月に鬱を脱出して、人生がこれまでと多少は違って見えてくるとしたら、いろんな価値観がものすごく変動するんじゃないかと期待半分不安半分の気持ちでいます。
つまり、これまで抱いてきた疎外感や距離感の、一体どこまでが僕という人間の本来の感覚で、どこまでが鬱という「治るべき、一過性の状態」であるのか、が今、ちょっとわからなくなっていて。

もし、本当に治るのであれば、そのときは何かしら書けるようになるかもしれません。
そのときにならないとなんともわからないことですが。(笑)

>TBいただいて、嬉々として読んでみてはいるものの。
こういうのって、コメントするのは難しいですよね・・・お互いに。(汗


その通りです。実はあなたのこのコメントを読んで、僕は「僕の傷の周りのこと」という記事をここで書きました。よいではありませんか。時々黙って「眺めに」きてください。僕もお邪魔します。


>つまり、これまで抱いてきた疎外感や距離感の、一体どこまでが僕という人間の本来の感覚で、どこまでが鬱という「治るべき、一過性の状態」であるのか、が今、ちょっとわからなくなっていて。

深く共感します。上記で「鬱」という言葉を、ある言葉に置き換えれば、そっくり僕にあてはまるのです。
ただ、残念なことに(という言い方は妥当かどうかわかりませんが)僕の場合、「治る」という状態は永遠に訪れないのではないかと思っていますが。

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