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January 06, 2005

不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸3

最近別の記事「小田和正という存在-クリスマスの約束の衝撃」への

コメントで、ぶんだばさんと

「もしも前に戻れれば戻りたいか?」
「幸せと聞かれたら幸せか?」

という話から、少し小田和正をそれた話題になってしまったので、この機会に
以前に書いた記事の続編として書いてみることにした。

以前このテーマで、自分の私的なことも含めて記事を書いた。

不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸

不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸2

ブログの世界には、相当つらい経験を吐露されている方、鬱で苦しんで
おられる方等が沢山いる。中には、本当に信じられないくらいシビアな
経験をされている方もいるので、僕は最初、

「不幸な経験を持つとブログを始める」

などという相当無理のある仮説を信じそうになってしまったくらいだ。

思えば人は、内面にある何かを表現したいと思わなければ、自分の心を
振り絞って見知らぬ誰かに伝えようという行為は行わない。

その「振り絞るようにして伝えたいこと」は必ずしもつらいこと、苦しい
ことばかりではないのはもちろんだ。心から好きな人への思いを綴って
いる人もいる。自分の思想や時事へのスタンスを表明するために、本当に
びっくりするような質の高い評論を綴っている方もいる。
要は、何もきついことやつらいことばかりが、ブログのテーマになるわけ
ではない。

それでも、鬱とか、幼少のトラウマとか、不倫とか、こうしたつらい経験
は、実名で友人に打ち明けるというのは相当難しい場合があるので、勢い
匿名で綴れるブログに、集まるのかもしれない。

自分に関して言えば、前のエントリーでも書いたけれど、自分を理解して
もらう手がかりとして、僕の抱える欠損は、実世界でも大事な相手には、
早めに伝えるようにしている。なぜなら、自分を理解してもらうための重
要な情報だと思うからである。

それは、情報として持ってもらった方がいいというほどの意味であり、もち
ろん同情してもらいたいとか、優しくしてもらいたいとか(笑)いうことで
はない。知って欲しいのである。事実として。

早めに伝えるもう一つの理由もある。
ある箇所が破壊されている自分の内面を伝えることで、相手もやはり自分の
ことを打ち明けやすくなる。きついこと、つらいことを相手はわかって
くれるのではないかという期待が生まれ、つらい部分やきつい部分がある
場合、それを隠さず話してくれる場合が多い。

正直、どんな人ともこうした回路を持つことは僕もしんどいので、大事に思え
る人に限ってのみ、こうした回路を開くのだけれど、ここでもブログは別ルー
ルであり、オールオープンにすることで、何か同種の・・あるいは別種でもい
いんだけれど、心の空虚のようなものを持っている人と、交流できる要素があ
ればという思いもある。

さて、少し紆余曲折したけれど幸福・不幸論である。

僕はエントリーのタイトルにあるとおり、幼い頃から両親の欠如を理由に
幸福について考えないことにしてきた。と前に書いた。
僕の中には一元論として不幸のみがあり、他人の不幸にはとても敏感だし、
その不幸に対して何か自分がコミットできたときにのみ、生の充実を感じる。
自分に関しては、ぽっかりとドーナツの中心部分のような空虚感があり、
この自分を大切にして幸福にしていこうというモチベーションが欠けている。
もっと言うと、幾つになっても、結婚して家族を持っても、この世にちょっと
お邪魔させてもらっているようなお客様感覚が消えない。

血をわけて慈しみ愛する両親が傍らにいることで、人は「かけがえのない自
分」を知らされていくのだと思う。成長過程でこの感覚を普通は何の疑いも
なく、身につけて成長していくわけだけれど、ここが欠如していると、幼い
ころから自分の存在理由のようなものを探していかなければならなくなる。

断言する。そうしないと人は生きていけない。

誰でも一度は直面する「自分は何のためにここにいるのか」という問いが
僕のような境遇にあると幾何級数的な痛みを伴って襲ってくると言っていい。

だからといって、それを「不幸なこと」と単純に切って捨てられない面もある。
こうして試行錯誤で存在理由を探していくプロセスの中から、何かが生まれる
こともあるし、出会いもある。人の痛みもわかるほうだといっていいだろう。
少なくとも人が何かにぶつかったとき、対処する処方箋が少なくとも1種類、
心の中にある。世界の中で意味のないものなどないのだし。

一方、普通の家庭に育ち、両親のいずれもが揃い、特にどちらかが際立って粗
暴でも、無理解でも、虐待親でもないのに、母親のふとした一言がトラウマに
なって、それが原因の心的な鬱屈に悩まされる例もいくらもあるだろう。
そう考えれば両親の有無は決定的なことになるとは必ずしも言えない。

それに、ぶんだばさんが言われるとおり、絶対的な幸福も絶対的な不幸もない。
これは全く同じような表現で、失恋に苦しむ青年のブログにコメントした
ことがある。
彼は、恋人を失い苦しみ、自分をなぐさめてくれる人たちに対して「幸せな奴
に何がわかる」と毒づいていた。
ぼくはその彼に対して、これと全く同じ表現を使った。その通り。絶対的な
幸福も不幸もない。あるのは、自己をどのように世界の中で位置づけるかという
心のあり方だけなのである。恋人がいてもいなくても、親がいてもいなくても
そこから直ちに幸福や不幸が導き出されるわけではない。

あなたは、あなた以外の誰かが自分より幸福であるとか不幸であるとか
どのようにして知ることができるのか。

答は自明。不可知である。

また、自分をとりまくあらゆる状況がネガティブであっても、断固としてそれを
不幸だとは認めないという考え方もある。これもぶんだばさんが触れられているが
それも理解できる。なぜなら、不幸だと認めた瞬間に人は不幸になるからである。
それも、幸福や不幸が心の中に起きている、いわば「心的な幻想」であるからに
他ならない。自分の幸福や不幸は誰でもない自分が決めるしかないのである。

さて、ここまでわかっていながらBigBanはなぜに「不幸に敏感で幸福に鈍感であ
ることの不幸」などという、ある種二元論ともとられやすいタイトルを使うか。

それは、僕の内面がもう少し複雑だからである。
というか、こうした自分との対話を通して、その実態を理解してきたという
面があるが、あなたもしくはあなたの身近な人が同様なことで苦しんでいるかも
しれないから、あえて書こうと思うのだけれど、それは「自己存在感の欠如」の
ようなもの=自分が今ここに生きていることの実感がつかめないという症状である。

既に書いたように、この世界に存在している自分が、限定された時間だけの
「お客様」であるかのような感覚である。この世界に生きていること自体が、
はなから付録というか、たまたま限定的チケットをもらってやってきた、「お客
様」のような目線しか持てないのである。おまけのような生・・といっては
自虐に過ぎると思われるかもしれないが、そうした感覚に近い。

世界と自分を結びつける確かな線がない。
ここにいることの存在理由が、見つけられないのである。

どうしたら、この命を、たった一つの命として大事にできるのだろうか。

こうした心象の症状を理解するにはやはり成長期に拠を求めざるをえない。
残念だけれど。
すでに僕は家族を持ち、そこに自分を位置づけようとするが、親と子の関係の出発
点を知らぬ自分には、例え子供がいてもそこに自己存在の理由を確立できない。
むしろ、自分の子供とその成長過程を見ることで折に触れて幼少の記憶がフラッシ
ュバックされて苦しめられるので、いつの間にかその記憶にも蓋をしてしまう。
実際、父兄参観に行くこと一つも、相当な難業、恐怖だったのである。ようやく慣
れたが。

そして、こうした心のあり方は、主観的にも、客観的にも「幸福な状態」とはとても
呼べないというのが、正直な僕の感覚である。では「不幸」なのか?それは答を保
留する。

ここで言えることは、「それは幸福な状態とは言えない」という一点である。

ところが、こうした僕の吐露に対して何人もの人から、ブログを通しての自分の
存在理由を教えてもらった。思いもかけないことで、本当にありがたい。

BigBanの屁理屈をもってしても、沼の泥土のように溜まった痛みをクリアすること
は、簡単にはいかない。現に妹が結婚するだけでも動揺し苦しむ有様である。

しかし、会ったこともない人たちが、ブログを通して匿名BigBanの存在を認め、手を
差し伸べてくれるという事実は確実に僕を鼓舞する。
あるいは先天的に「失われた心」を取り戻すことは、不可能なのかもしれないけれど
回復への道を歩こうとすることは、僕にもできそうである。
そして完全な回復はできなくても、そこへ向かおうとする努力は無意味ではあるまい。

世界に真っ直ぐ向き合うこと。そこで起きていることから目をそらさないこと。
それは正義でもヒューマニズムでもなく、自分にとっては自己回復のための
道程なのである。

こうしたことを書くのは、鬱で悩む多くの人がいるように、僕のような(僕は専門的
なカウンセリングを受けたことがないので、この僕のような状態を専門的にどう呼ぶの
かも、知らないが)人がいることを知ってもらい、もしあなたが現実世界で彼あるいは
彼女に関わることがあれば、どうか理解をして欲しいと思うからだ。

切にそれを願う。

人は誰かを救わないと自分も救われないのである。

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Comments

すみません、別記事を建てさせてしまった張本人、ぶんだばです。しかも途中で「ずんだば」になってます(笑)ドリフっぽい!(いちおう「Wundarbar」(独)から来てますから!)

私がブログを始めたのは、単にHPを更新するのがめんどくさくなっただけなのですが、初めてよかったと思ったのは「鬱病闘病記」をリアルタイムで書くことができたことです。
書くことで整理できるし、表現することで発散はできる。

これは、読者にとっては何のメリットもない、非常に利己的な理由なのですが、それでも「鬱病闘病記」というカテゴリを存在させたこと、治療の一部始終を書くこと、飲んでいる薬を書くことで、同病の士(無言の方も含めると結構な数ではと推定)が集まってくださったことです。その方たちにとって「私も同じ!」と思うような記事がかけただけでも本望です。


BigBanさんが、お子さんをお持ちとは存じませんでしたが、私の相方も父から受けた影響はろくでもなく、さらに母から受けた影響はろくでもないので、娘への影響が心配です。そして私自身が病んでいて、完治の見込みもないのでは、娘に何か影響があるんじゃないか…とそればかり心配です。家庭構築は本当に難しい。
それだけではありません。わたしは救わなくてはならない命を失ってしまった事があります。それはよくあることなのかもしれない。けれど、私たち夫婦は努力して子供を授かろうとしました。そのときのゴールの遠さ、経済的身体的精神的負担、その上にさらにぬか喜び…実は一粒種の娘は「双子のかたわれ」なんです。救えなかったもう一人(ほかに流産もあり)を思うとき、私はもうどうしたらよいのかわからないほど乱れてしまいます。本来ならここで二人で戯れているはずの一人がいない。私が育てられなかった(おなかの中で死んだため)。人を死なせてしまった、という重みは、胎児といえどやはりとても重いです。私のせいじゃないってわかっていても重いです。その子に与えてあげられた私の愛情を、その子は受け取る事ができなかった。

鬱はそれとは関係ありませんが、そんな風に、或いは夫に言われ、私も存在意義を疑問に感じることはよくあります。いや、ないと現状では思っています。あえていうなら、娘がいるから仕方なく生きている。これだけかもしれません。

それでも、やっぱり「しあわせ」って言うと思います。少なくとも死ぬときには「面白かった。しあわせだった」って死にたい。
わたしが「しあわせ」と思っていたいのは、実はそれだけなのかもしれませんね。

関係ありませんが、BigBanさんのブログを見つけたのは非常に偶然で、あのくそ爺(とか言っちゃう私(^_^;))のブログで私も散々反論したけど事実誤認はあるわ男尊女卑も甚だしいわいい加減にしろよと見捨てたブログにいってみたら、BigBanさんのコメントがついていたからだったのでした。ひょんなことからつながるものですね。(私は旧名schadeと申しましたので、恐らくどのブログのことかお分かりかと存じます)今からあのコメントを読むと、その重みがよくわかります(私はあそこは面倒なのでもうコメントはしませんが…)

長くなりすぎて失礼しました。しかも個人的なこと書きすぎ。

私も自分の生い立ちや家庭環境がちょっといろいろあり、
その事が今も私を「幸せ」という感覚から遠ざけているように思います。
きっと、私が体験したような話は世の中によくある話で、
その事でこんな私が作られていると思うのは甘えなのでしょう。
逃げたい、消えてしまいたい、何事もなかったようになりたい。そんな事ばかり考えています。特に最近。

「負のエネルギーから解放されたい。」
と思うのですが、これはなかなか強くって引きずられてばかり。
封印がとかれてしまった思いをもう一度閉じ込めるには
やはり同じだけの時間がかかるのかと思うと。。。
「慣れる」という事の出来ない事だろうと思うだけに
これから先の作業にまたため息が出そうです。

スイマセン、暗くって。。

失礼しました。(笑)
>ずんだば
直しておきましたよ。

私の義妹は、ぶんだばさんと同じように双子を授かりましたが、
やはり片方を救うことができませんでした。
長く子供ができなかったところに、排卵促進剤の影響で一気に
二人を授かり、皆が喜んだのもつかの間、お腹の中でなくなり、悲嘆に
暮れました。
僕達は、2人の子供が合体(・・・)して1人の強い子供になったのだと
思うことにしました。実際生まれた姪は、若干未熟児だったけれど、
とても元気な女の子です。
1人の強い子供として生まれるために、何かの力でそういう運命になったと
思うことで、今では少しずつ癒されています。
もっともそうしたことを義妹に聞いたことはもちろんないので、彼女の気持は
わかりません。僕も性の違いがあるし、おそらく十分にその気持を察することは
できないとは思いますが。

>関係ありませんが、BigBanさんのブログを見つけたのは非常に偶然で、あのく
そ爺(とか言っちゃう私(^_^;))のブログで私も散々反論したけど事実誤認はあ
るわ男尊女卑も甚だしいわいい加減にしろよと見捨てたブログにいってみたら、
BigBanさんのコメントがついていたからだったのでした。


読んですぐに「あそこか」とわかりましたよ。(笑)
まあ、ああいうものにいちいち反論しててもきりがないわけですが、ブログを
やっていると、ここは押さえておかないとと思うところにあたることがあります
ね。当のご本人の意識をどれだけ変えられるかは難しいけれど、読んでいる人に
こそ、大仰に言えば覚醒してもらいたいときがある。

またそれてきましたか?・・笑

deep_breathさん。

>私も自分の生い立ちや家庭環境がちょっといろいろあり、
その事が今も私を「幸せ」という感覚から遠ざけているように思います。
きっと、私が体験したような話は世の中によくある話で、
その事でこんな私が作られていると思うのは甘えなのでしょう。

僕も、若い(20代くらいまで)時には、自分の境遇を理由に自分を
防御するのは「甘え」であると思っていました。そのことを他人に
触れられるのは嫌だったし、自分にもそれを理由にしたくなかった。

この「傷」と向き合っていこうと思ったのは最近のことです。
「甘える」ことと「向き合う」ことは違うということもわかってきま
したし、若い頃と違って自分を少し客観的に見られるようにもなってきた。
変な言い方だけれど一つの「症例」としてみることができるようになって
きた。

というと余裕があるみたいに聞こえるでしょうけれど、実は結構毎日いっぱいいっぱいですけれ
ど。

甘えるとかいうことではなく、自分を理解する場合の「出発点として」で
あれば、素直に自分の傷を傷として認めることも必要だと思います。
問題は、そこでうずくまるのか、顔を上げるかです。

ほぼ、義妹さんと状況は同じです。ただ、たぶん義妹さんのほうがかたわれが亡くなられたのが早かったのでは?
うちは死産届だして、斎場で遺体を焼いてますので…
で、パブリックにはそういうことにしてます。実際、うちの娘は未熟児でもなく月満ちて生まれて、アンタいい加減にしろよと思うくらい元気なので、普段はそんなことを考えないのです。
でも、死んだ子と生きた子を産んだ身とすると、ふと「これが二人いたら…」と考えてしまうのです。
死んだ子の年を数えるなといいますが、名前くらい付けてやろうかと思う今日この頃です。

あのブログですが、私があそこを知ったのはTBされてしまったからなのでした。(しかもコメントが記事と全然関係ない)私も事実誤認だけは正さないと、と思ったのですが、(私の悪口が過去のほうにでてきます:笑)、大して読者もいないだろうと思い立ち、辞めました(^○^)相変らず、人から違う意見を書かれると「改訂」して新しい記事にしているようですね。余談。

こんにちは!
毎日さまざまなブロガーの方々の記事を拝見していると、それぞれの方について印象的な記事、思い出すフレーズというのがあります。
BigBanさんについていえば、私の場合「君のスピードで」という記事がそれに当たります。
そしてもう一つ「人は誰かを救わないと自分も救われないのである。」というフレーズがとても印象的です。
これは私にとって救いのような言葉で、いろいろな場面でよく思い出しています。
励まされ、勇気づけられています。
抽象的な言い方でしか伝えられないのですが、この言葉に出会えてよかったです。
どうもありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。ではまた!

コメントをありがとうございます。chiikoさん。

>励まされ、勇気づけられています。

と、励ましや勇気づけの拠点のようなchiikoさんにこんな風に言ってもらえるのは何とも光栄なことです。
「人を救う」なんていうことも、とてつもなく難しく感じるときがあります。そして、こんなに簡単だったんだと思えるときがあります。

ただ年を重ねていくにつれて、ますます思うのは、「誰の力も借りない」なんていうことは絶対に人はできないし、またする必要もないのだということです。

ブログでは、顔も見たことの無い多くの人に救ってもらったり、逆に救われたといってもらったり。でもやはり難しいのは日常を共にしている身近な人たちを「救えない」あるいは、通じ合えない苦しさです。

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