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January 11, 2005

「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(1)

様々な局面で「人道的」あるいは「非人道的」という言葉が多用されている。
「人道的食糧援助」「人道的に問題がある」「劣化ウラン弾は非人道的である」云々
云々。
北朝鮮であれば、即時の経済制裁を強く主張する主張に対して、この国民の命脈を断ち切りかねない、食糧支援の打ち切りに対して「人道的」立場から強く反対を唱える人々がいる。
フセインがクルドに対して使用したと言われる、マスタードガスについてもその「非
人道的」側面に国際社会の非難が集まった、とされる。

※マスタードガス、サリン、タブン、VXなどを混合したカクテルガスで、約5,000人
が死亡、1万人が負傷したといわれる。

しかし、そもそも「人道的である」とか「非人道的である」というのは、一体どういうことなのだろうか。どういう行為が「人道的」でどういう行為は「非人道的な」なのだろう。
この戦いの時代の中で考えると、解は思いのほかに、複雑な様相を見せる。
ちょっとしばらくこれについて考えてみたい。


ナガサキ・ヒロシマにおける原爆投下は言うまでもなく、大規模核兵器を実戦に使用し
た唯一の例であり、「非人道的」な兵器使用の代表的な例であり、その悪は疑いない、
と多くの日本人であれば思っている。

ところが、これもある程度知られている事実ではあるが、多くのアメリカ人は未だにそ
う考えていない。

1995年、スミソニアン航空宇宙博物館で企画されたエノラ・ゲイを中心とする原爆展が
、議会や軍人会の圧力で中止に追い込まれた事実が記憶に新しい。
また、僕の実体験としても、だいぶ前であるが、海外のメンバーを交えたメーリングリ
ストを運営していた経験があり、様々なテーマについて、つたない英語で議論したが、
テーマが原爆投下に及ぶと、他の問題については極めて理性的で冷静な対応をしていた米国人のメンバーの態度が一変するということがあった。

いわゆる「原爆投下是認論」である。その主たる主張は

(1) 原爆投下が日本の早期降伏という形での戦争終結につながった。
(2)本土決戦(九州上陸作戦)が行われた場合の米兵の犠牲者(50万人から100万人
-『トルーマン回顧録』による)を最小限にとどめることができた
(3)戦争の早期終結によって本土決戦が避けられたことは、(結果的にしろ)何百万
人の日本人の生命をも同時に救うことになった
(4)アジアでの侵略戦争を自ら引き起こし、南京虐殺などのあらゆる残虐行為を行っ
た日本人に、原爆投下の非人道性云々を言う資格はない

などである。

(4)については現在の日本の占領行為を理由に、拉致の正当化を言う北朝鮮の理屈にも通じる部分があると思われ、「犯罪者に人権を言う資格はない」とも解される議論であるから、感情的な面が強すぎることは否めない。
(2)のトルーマン回顧録については、九州上陸作戦にともなう当時の米側推定死傷者
数が、「2万人以内」(1945年6月18日の会議用資料)や「6万3千人」(スミソニアン
原爆展の展示案)に比較してもかなりの「誇張」であったと言える。

また、

(3)の日本側の犠牲にも「配慮」したとの理由は、2カ所の原爆投下で1年以内に約20万人(広島約13万人、長崎約7万人)、現在では33万人を上回る原爆犠牲者の膨大な数を思えばこれも合理性を欠く議論といわざるを得ない。
百歩譲って、東京や大阪のような大都市上陸作戦のように、極端に双方の犠牲を拡大する前提をおけば、あるいは犠牲者が少なくなったという見方もあるかもしれないが、その場合には、死者の数が数百万人になるところだった可能性すらあるのに、米国の決断により、「たったの」数十万人ですんだ!というような、到底納得のいかない主張を認
めざるを得ないことになり、到底受容できるものではない。

戦勝国=投下国としての米国と、敗戦国=日本における原爆投下への評価が異なるのは当然であるが、落とされた側、我々日本人の間では落とした米国人への怨嗟や怒りの表現よりもむしろ、自戒と自己反省に彩られた「平和の碑」と名付けられた平和公園内の石碑に刻まれた「安らかに眠って下さい/過ちは繰り返しませんから」という言葉に象徴されている。

「過ちは繰り返しませんから」

に込められた、恐るべき善人性が今でも平和主義の精神的主柱として存在しているこの国の状況を米国のそれと対比すると、際立った違いがあるのである。

落とされた被害者は、この兵器を用いた加害の者を直接恨むことをせず、専ら自らの侵略と他国民への迫害の歴史への自省を、人類共通の懺悔の言葉に昇華させようと、悲壮な決意を表明したのに対し、(その楽観的に過ぎる決意の問題点については別に触れるとして!)今日に至るまで、ついぞ米国の知識層においてすら、原爆投下への真摯な自省の動きは聞いたことがない。

そしてその米国の思想的に緩慢な動きを、許してきたのも他ならぬ我々=同盟国の日本人自身である。

先のメーリングリストにおいて、辛うじて中間的な立場をとった米国人ですら、さらに別の観点から反論があった。それは、
「他の通常兵器と原爆をなぜ区別するのか。同じくらい残酷ではないか」
という主張である。言葉を変えれば
「人を殺すのに悲惨もへったくれもあるか。どうやって殺そうと同じだろう」
に近い。

つまり、日米双方とも、あらゆる手段で互いを大量に殺傷しており、その多くの犠牲者がある中で、ヒロシマとナガサキの犠牲者のみを突出させてなぜ米国を批判するのか。
それをいうなら真珠湾で殺された米兵の命は、非核で殺されたがゆえに、ヒロシマやナガサキの死者に匹することはできないというのはおかしいではないか、という主張である。

核兵器をあえて一般兵器と区別するのはおかしいという議論で、結果的に核の使用のみを罪悪視するのはなぜかというわけである。

いや、それは違う。核兵器が決定的に他の通常兵器とは異なるのは、その生態環境に破壊的なダメージを与えることである、といちいち放射能汚染や原爆病のデータまであげて反論すると、ようやく(渋々といっていいだろうか)通常兵器と異なるというお前の主張はわかった。そのかわり今度は「つまり、通常兵器はOKで核兵器はダメという主張なのだな?」と畳み込んできた

ここでも、ヒロシマを米国の特殊な原罪としたくない意図が感じられると共に、核による放射能被害の「何が恐ろしいのか」が、米国内でほとんど理解されていないのではないかと思われる。


少し視点を変えてみよう。
そもそも、彼らの発想では、「戦争的局面」が生じた場合には


(1)「戦争」=悪=但し必要悪

であり
「必要悪」=他のもっと大きな災禍を避ける手段として正当化される。
(もっと大きな災禍とは、上陸作戦の場合の日米の想定死者数。)

※最近では「大量破壊兵器によるより多くの犠牲」「世界の民主主義に対する脅威」「テロの脅威」等々が代わりに使われる)

そのため、この(1)のフェーズをいったん認めることを米国民の常識として許容する以上

(2)武器の使用と人間の殺傷

をこれまた必要悪として正当化することは帰結として合理的なのである。
(2)は単独には悪ではあるのだが、ここでも(1)におけるもっと大きな災禍を避けるためには、演繹的にに正当化されるわけである。

ここまで来てしまえば、条件が整えば、次のステージである

(3)核兵器の使用

を正当化することも、それほど大きな問題はないというわけだ。なぜなら、ルビコンの河は(1)で一回渡ってしまっているわけであり、そこから一瞬に戦闘を終わらせる可能性のある核兵器は、使用を一時留保されているだけだからである。
(とりあえず自分の頭に落ちてくるのでないのならなおさらである!)

これを踏まえず、被爆国の日本人が、(1)も(2)もふっとばした上で、いきなり(3)について「非人道的だ」と異論を唱えても、彼らの耳には入らない。

戦闘が長引いて、あるいは拡大して、双方により沢山の犠牲者が出たらどうするのか?民主主義と自由は誰が守るのか?とくる。この論法の展開は、現在のイラク戦争でも、先の太平洋戦争でも殆ど変わらない。

とはいっても、(2)から(3)へは大きな飛躍と国際世論の反発を伴い、容易なアクションであるとはいい難いが(2)→(3)の道程の中で、無数のバリエーションが存在する。(3)に比べて遥かに心理的抵抗は少ないバリエーションである。

二つばかり例をあげてみると

(2)-1 非戦闘員の非意図的殺傷(いわゆる誤爆)

(2)-2 非戦闘員の意図的殺傷(東京大空襲における無差別攻撃→ファルージャ)


つい昨日も、イラク北部モスル郊外で、一般の民家が米軍により誤爆され、14名の死者が出た。米軍は、「無実の市民の命が奪われたことを遺憾に思う」とのコメントを出したが、この行為をいくら非人道的であると非難したところで、彼らの真意としては(1)の段階で一度飛び越えた結果としてのミスであるから、それはミスでこそあれ、「非人道的」というコンテクストとしては理解されないのであろう。
それは戦略上の事故もしくはミスでこそあれ、非人道ではないのである。
そもそも(2)-2では意図的に非戦闘員の大量殺害を行っているわけであるから、それを考えても彼らにとって「大したことではない」のは想像できる。

つまり、一度出発点で「平和に対する戦い」「自由と民主主義に対する戦い」「テロへを許さない戦い」と目的意識を確定して行動をとってくる相手に対して、中途の(2)もしくは(2)のバリエーションをとらえて、(あるいは(3)であってすら)人道的でないとか残酷であるとか批判しても、聞く耳を持たない状態になりかねない。
亡くなった無辜の非戦闘員の不幸は「大事に対する小事」として、戦術の中での一定率として「処理」されている感がある。
「非人道」を防ぐための「非人道」は、「非人道」とはされないのである。特に他民族に対する行為は。

それでなくとも、かつての原爆投下是認論と現代の米国の展開している戦争との間には、切っても切れない密接な関連性があるように思える。

熱線で体が溶け、傷跡は化膿して腐り始め、水を求めて地獄の業火で死んでいった、あるいは放射能で生きながら何十年にもわたる苦しみの中で死んでいった人々を何十万人も生み出したその行為すら、正当化できる論理はどのように生まれてきたのだろうか。
そしてそれは過去ではなく、現在進行形の悪夢として私達を苦しめていないか。

問う。

「非人道的行為」--それ自体が内部矛盾を起こしているのか。

(この項続けたい)

「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(2)へ

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Comments

 こんな立派な記事にTBしていただいて恐縮します。
 今、読んでいる本にも「21世紀に平和は約束されていない。それどころか、世界はますます不安定化し、紛争に苦しむ人は絶えることがない。死者たちの無念に応えるためにも過去の過ちから学んで、平和な社会を築く義務が私たちにはある。私たちは死者を裏切らない。」と書かれています。

 もう一冊の絵本の方の作者の方が、全場面の絵を描き終えられ、各分野の専門家の方に目を通していただかれたときに「こんなものではなかった」と言う指摘を受けられたのが第二次世界大戦下の「空襲」の場面です。助言を受けられ、手直しされても、ご自身が満足のいくものではないそうです。
 でも、そのことからも学び取る事はたくさんありますし、学び取ろうとする人に、その多くは委ねられると思います。

コメントありがとうございます。
「朝日ジュニアブック 日本の歴史」についての
エントリー、興味深く拝見しました。
こうした、子供向けに書かれた本で歴史の疑問に答えるというのは、実は大変に難しいことですね。
どのように教えていくのか、伝えていくのか。
現代の中国を見ても、考えさせられます。
もちろん日本のそれも。

はじめまして。「非人道的とはどういうことなのか」(1)~(3)を読ませていただき、うなってしまいました。こういう論理性、こんがらがったように映る今をこじ開けて行くような思考が必要にさているのだと(トラックバックも張らせていただきました)。

読んでいただいてありがとうございます。
報道の現場にいる方にそう評価していただくことは力になります。
私事ですが、すでに亡くなった父は新聞記者を経て、映像ジャーナリストとなりました。事情あり、父とは一緒に暮らすことはありませんでしたが、時折朝鮮半島から、あるいはアフリカのブッシュマンの取材から、みやげ話「だけを」みやげとして(笑)、嵐のように僕にしゃべっては、帰っていきました。
父は不思議に僕の友人にも影響を与え、それを目指して報道記者になった者までいます。
ここの記事でも書いたように私生活では破綻の極地でしたし、僕は報道関係の職につくことは、事由あってありませんでしたが、”残念ながら”(苦笑)私達兄弟は彼のDNAを受け継いだと思っています。
トラックバックしていただいた高田さんの「戦火の記憶」を読ませていただいてそんなことを思い出しました。
今後もよろしくお願いします。
トラックバック、返させていただきます。

BigBanさん、TB頂きました。数字や大義名分で比較するものではないと思います。そうなると屁理屈や言い逃れとしかならない。

こちらにもTB張っておきます。

コメントありがとうございます。
アウシュビッツに関する記事、興味深く拝読しました。今後ともサイトに訪問させていただきます。

TBありがとうございました。
僕もblogでこのことを書いたのは、日本人は日本人にしか通用しない論理で平和を求めていると思ったからです。平和というのは、国際的に通用する論理でなくては意味がないはずであって、ひたすら毎年8月6日に広島でただ「世界に核兵器がなくなるように」と言っていても、その世界の人々はヒロシマには「人類最初に原爆攻撃を受けた都市」以外のなんの感情も抱いていないという事実を、今になっても日本人は知ろうともしないのはなんなのかという意識から書きました。


>僕もblogでこのことを書いたのは、日本人は日本人にしか通用しない論理で平和を求めていると思ったからです。平和というのは、国際的に通用する論理でなくては意味がないはずであって、ひたすら毎年8月6日に広島でただ「世界に核兵器がなくなるように」と言っていても、その世界の人々はヒロシマには「人類最初に原爆攻撃を受けた都市」以外のなんの感情も抱いていないという事実を、今になっても日本人は知ろうともしないのはなんなのかという意識から書きました。


全く同感です。祈る姿は美しいかもしれないが、一歩踏み込むことは必要です。そうした意味で日本の真意に「過ちを繰り返さない」のは自分達だけでいいという、引いた思いが本当になかったかどうか。「国際的に通用する」論理の構築にかける姿勢に甘い部分がなかったかどうか。

いや、これは一法的な先んじる世代への批判で終わってはいけないと思います。
私達の姿勢も含めた問題です。


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