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April 11, 2005

桜の木の下で-----人と永遠に別れるということ。

sakura

東京の桜は、この暖かさで昨日から一気に満開になった。今日はあちこちでお花見が行われたことだろう。

桜を見るたびに、ああ、この1年も生きてこれたという思いにかられる。

今はそれほどでもないが、一時、いろんな事由から、精神状態がかなり厳しいときがあって、その頃には桜を見ると、これが最後ではないか、来年の桜は見られないのではないかと思っていたことが本当にあったのだ。

それでなくても桜は、その美しさの反面、別れと死のイメージも漂っている。あまりにも過剰に咲き乱れる満開の花々は、何か狂おしく、見てはいけないものを見てしまったような不安な気分になることがある。

梶井基次郎という作家は、その著「櫻の木の下には」で、
「桜の木の下には死体が埋まっているに違いない」と書いた。その禍々しさもわかるような気がするのだ。

先週は、ニューヨークに単身赴任する、大学時代の同級の友人の送別会を都内で行った。といっても、メーリングリストで頻繁に交流している仲間でもあり、アメリカへ行くということ自体、昔ほど大仰に構えたものでもない。いつでもメールが交わせるという安心感もあり、別れの会はあっさりとしていた。気がつけばいつもの飲み会の終わりのように、彼は手を振って街に消えていった。

この彼との別れは、能天気な僕たちにふさわしく、ちょっとした別れでしかなかったが、この1年、このコミュニティには死別が多かった。
春には、アマチュアオーケストラの演奏者をしていた友人の奥さんが、2人の女の子と彼を残して逝った。
秋には役者をしていた友人が酒で体を侵され、治療もほとんど拒否して、壮絶に死んでいった。この時には葬儀で棺に横たわっている彼を見て涙が止まらなかった。
そして今年になってから、これもテレビの仕事をしている友人の父が逝った。
つくづくこの1年は死に染められていた。

その他に今、癌で闘病している友人が1人。
さらに奥さんが末期の癌で闘病中の友人もいる。

桜を見ながら思う。人と人とが最終的に別れるとはどういうことなのだろうと。

幼い頃、一度出会った人はずっと自分の近くにいてくれるものと信じていた。だがあんなに親しかったのに、いつしか自分の周りから消えていった、今はアルバムで出会うことしかない、多くの友人を思うとき、人と人の邂逅のはかなさを知った。

友情も恋愛も終わるときはある。

あんなに好きだったのに、今は自分の側にいない人の顔を思う。壊れた恋の痛みや友情のはかなさも、この年になれば十分知っているけれど、いつか再びわかりあえるときがあることも知っている。
恋人としては終わった相手でも何十年も友人としてつきあっている人もいる。恋が終わったときには、もちろん苦しくてその人の顔も見たくなかった。その人とのすべてが終わってしまったと思い、世界も終わってしまったような絶望感にかられていた。それでも、僕は彼女との全ての繋がりをを失ったわけではなかった。それがわかったのは彼女と別れてから10年以上も経ったときだったのだ。それだけの時間が必要だったけれど、少なくとも別れではなかった。

人と人とが最終的に別れるのは、やはりどちらかが、この世界を去ったときだろう。僕達のコミュニティは、その別れを、思い知らされた1年だったのだ。
もちろん、死が永遠の別離なのかどうかさえ謎だ。その先の深い世界までは僕にもわからないけれど、とにかく生きてさえいれば、生きていればこそ、僕達はいろんな人間関係の奇跡にも、回復の奇跡にも出会うことができる。
邂逅のはかなさも知っているけれど、切れていた糸が再び、違う色で繋がる人の不思議さにも出会うことができる。
年齢を重ねていくことは何かに絶望していく過程かもしれないけれど、こうした意味では希望の物語=回復の奇跡を一つでも多く体験していく道程でもあると思う。

とにかく、人はどんなことをしても生き繋いでいかなければだめなのだ。この平和な国にあっても戦乱の国にあっても、生き延びた人々によってこそ、失われたものは回復される。いや回復以上のものを、その後も脈々と生み出す絶え間ない連鎖が何万年、何十万年とあって、こうして世界は続いている。

(そういえば以前こんな記事も書いた。「地が揺れる深い夜に---みんな生き延びよう」

桜は今年も満開を迎え、そして短く狂おしく咲いて、今日の強風で、早くも散っていこうとしている。生きることと死ぬことばかり考えて生きることは重く苦しいけれど、桜の季節にはこうして邂逅の不思議と別れの不思議とを同時に思うこともいいのではないかと思う。

そして、今ここにいる自分の不思議も。あなたの不思議も。

【4/11加筆】
徒然なるままに時間のあるときにPCに向かひて」のぶんだばさんからご指摘を受けた。梶井基次郎の書名は「桜の樹の下には」。そして文中正しくは「桜の樹の下には屍体が埋まっている」だそうである。謹んで訂正させていただきます。
しかし、「埋まっているに違いない」という言い回しはずいぶん前からそう思い込んでいたがどういうことかな。(#実際にはこの本は直接読んでいません。)

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Comments

お久しぶりです。

人と人との繋がり、別れ、出会い。生まれる、いきる、死ぬ。
この数ヶ月間、私の周りに起こった事です。
根底にあるものは変わらないですけど、
私の心は少し動いたような気がします。
それがいい方へなのかどうかわかりませんが。
(そもそも“いい方向”??なんですけど)

桜は不思議な花だと思います。
好きでも嫌いでも
その花が開くのがニュースになるほどの
影響力を持った花なんですから。

ご無沙汰です。
このごろ何かとばたばたしていて、こちらも記事の更新ができませんでした。サイトはずっと拝見しています。
最近のdeap_breathさんが「前向き」なのはこちらにも伝わってきます。
でもゆっくりいきましょうね。お互い。無理をせず。
(人のこと言えないが)


>桜は不思議な花だと思います。
好きでも嫌いでも
その花が開くのがニュースになるほどの
影響力を持った花なんですから。

本当にその通りですね。日本人の心の中に深く根づいている花ですね。

ごぶさたしています。
gooがヘタレでご迷惑をおかけしてます。
atsuさんところからきました(笑)

ちなみに梶井基次郎を生涯第一の作家とあがめる私から一言
「に違いない」はついてません!
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」が最初の文です。

こちらを読まずにatsuさんところにも同じようなことを書いてきてしまったので、私も桜で一つ書こうかと。そしてそれは梶井基次郎論。

こちらこそ、ご無沙汰してます。
確かにgooはちょっと大変そうですねえ。
こちらもシステム関係なので、つい同情してしまうのですが、どうしたんだろうなー。

ところで、梶井基次郎のこと、訂正していただいてありがとうございます。さっそく加筆しておきます。

私、実は実際には読んでいないんですよ。
来年の桜の季節までには挑戦しようかな。ぶんだばさんの記事を読んで初めてそんな気持になりました。

そんなBigBanさんのために、青空文庫のリンクを張ってあります(^_^;)もしもそれで気に入られたなら、ぜひ一冊。
私は「檸檬」よりも「桜の~」や「城のある町にて」「Kの昇天」あと「路上」なんていう作品のほうが好きです。
話が変わってしまったのでこの辺で。

トラックバック、ありがとうございます。
桜の季節になる度、魂を吸い込まれそうになっています。
梶井基次郎さんの作品は、檸檬以外にも城のある町にて等ありますが、どれも大好きな作品です。

こんばんは。梶井基次郎を読んでいる方は結構おられるのですね。読みもしないで評論めいたわが身を恥じるばかりです。もう一度書きますがぜひとも来年の桜の季節までには。みなさん、それまで飽きずに訪問してくださいねー。

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屍体が埋まっている! と、書いたのは梶井基次郎。タイトルは「桜の樹の下には」。 この雨で、せっかくの桜も終わりそうだが、桜が満開になる季節を迎えると、毎年これを思い出す。 それは、私が梶井基次郎という作家をこよなく愛しているというのもあるけれど、 桜の樹の下には屍体が埋まっている ということが、いかにも本当らしく思えてしまうのだ。 だって、そうじゃないか? なぜ葉がないのに、�... [Read More]

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