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May 12, 2005

信じることができますか。----不達の星への羅針盤

「執着に執着しない」などと人には立派なことを言ってしまったが
内実は執着ばかり。
いや、間違えた。「執着」に「執着」ばかり。

今日はこの夕暮れの小雨が降る中、
人を「信じること」について絶望的になっている。
誰かにこっぴどく裏切られたわけでもない。
むしろ全ての人を限りなく裏切り続けているのは自分のほうだろう。
だとすれば、この湧き上がる自己嫌悪は何だろう。

権威を信じないこと
国家を信じないこと
組織を信じないこと
宗教を信じないこと
メディアを信じないこと
社会を信じないこと

これがお前の性根だと言われれば、喜んで、いやむしろ胸を張ってその謗りを受けよう。

さようさほどに、僕は全てを信じない。
信じないところから全てを考え、信じないところから見えるものもある。
およそ事象を最初に信じるところから入れば、裏切られる。
信じないところから入り、少しずつ希望を見つけていくのが生きるための、方策でないか。決心ではないか。
それはむしろ自分の誇りであったはずだ。それは今でも変わらない。

しかし、「執着レーダー」は、ここ数日もっと微妙なところを見つけてきた。

自分の「信じないこと」の対象は、つまるところ実は「人間」全てなのではないか。

「人間を信じないこと」

これはどうなんだ。

およそ生まれてから、自分は人を信じることができたことがあったか。
本当に一瞬でも誰かを信じたか。
当然あるはずだ。と思ってもその時間が思い出せない。
その瞬間が思い出せない。

「人を信じられない!」

などと嘆いているうちは、嘆いている人はまだいい。
そこには逆説的に言うと「信じたい」という、抑えがたい渇望があるはずだから。

ところが、この「執着レーダー」が、照らす自分の内面は、
どこまでもどこまでも乾いていて、荒涼としているように思える。
風すら吹いたことがあっただろうか。
揺らぎの波はたっていたのだろうか。
心は淡々と不信を糧として(糧として!?)事象を心に刻んできた。
何十年も。何十年もだ。

「信じられない」どころか、
我は「人を信じる」ということがどんなことなのか、
そもそもわからないのではないか。
信じられないことに、疑問も持たず、悲しみも持たず、
気がついてみれば生まれたときから、
淡々と「人を信じずに」生きてきた。
おおよそ「信じたい」とすら思ったことがあるか。

「あなたを信じてみようと思います」

「僕は信じる」

言ったよ。それは何度も言った。何度も書いた。

だが、覚醒せよ。本当はお前は知っているのではないか?
それは自分には決してできないどころか、永遠に手も届かない、存在さえも自覚できない
たとえば遠い未知の惑星を指した羅針盤のようなものではないのか。

信じようとして、一人一人の「ありがたき人々」を思い浮かべる。
自分を信じてくれる可能性のある人。
自分を少しでも愛してくれそうな可能性のある人。
感謝はしている。あふれるほどに。それは確かだ。
おそらく愛してもいる。
自分にできることなら、その人たちに今生で少しでも
返してからいきたいと思う。

だが、翻って問う。その人たちを信じているか。

否、人間を信じられるか。
否、信じなければいけないのだろうか。
否、信じようとしなければならないのだろうか。
否、信じようとする気持ちは、必ずどこかにたどり着かなければならないのだろうか。

悲しむべきことに、今日の僕にはそれさえわからない。

もしも自分が

強く見えるとすれば、それは信じていないからだ。
優しく見えるとすれば、それは信じていないからだ。
我慢強く見えるとすれば、それは信じていないからだ。
冷たく見えるとすれば、それは信じていないからだ。

文句があるなら、もしも違うなら
人が人を信じる世界が、あるのなら、見せてくれないか?
そんな世界があるのなら、瞬きの間だけでもいいから見せてくれないか?

疑い、疑い、疑い、
信じようとして、信じようとして、信じようとして

そのプロセスで生きていいっては駄目かな?
その一歩一歩で、それだけで生きていっては駄目かなあ?

#それとも全ては妄想で、ひとえに今日の雨のせいなのか?

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Comments

信じないところから始まる人とのつながり。
それを「信じる」ところまで持って行くのは
素手で岩を砕くような気の遠い作業に思えます。
ただそっと、寄り添うだけではだめなのでしょうか。
「信じる」という言葉は、口にした途端に呪詛となって
相手を縛りつけてしまうでしょうし、
「信じない」という言葉からはBigBanさんも書かれているとおり、
「信じたい」という願いが後ろに見えます。
ああ、でも、おっしゃっているのは言葉の云々ではないのですよね。

素手で岩を砕くBigBanさんの横に、そっと寄り添って見守ってくれる方がきっといらっしゃるはず。そう思います。

まあ、あれです。
何が信じられないって、
自分が一番信じられないですからねぇ。

今日のブログ、思わされるところ、多かったです。

人間ほど信じられないものはないと思います。
でも、それも仕方のないことなのかなあって。
どんなに近しい人でも、大事にしてくれる人でも。
そのつもりもなく、あっけなく。

私は多分、「かわいそうな人」なのでしょうね。
信じあえた先の世界を見ることはない。
「信じてるふり」しかしていないんですから。

う~ん、あまり考えた事がないdeepな世界ですね。悩まないのは、信じる事に見返りを求めていないって事でしょうか。

何だか衝動的なしょーもない記事にコメントいただいて、皆さん、ありがとう。こんな私に関わってくれる人たちが現実にもネット界にも沢山いることは確かなのに、「信じられない」とはご挨拶だよなーと思った人多いでしょうね。ごめんなさい。雨のせいです。(いい年して・・)
こんな記事を書いているから、ナイーブだとか言われちゃう(笑)

#あ、気にしてませんから>言った人。

>>なおこさん

>素手で岩を砕くBigBanさんの横に、そっと寄り添って見守ってくれる方がきっといらっしゃるはず。そう思います。

素手で岩を砕く・・そんな風に見えるのかな・・。だから両手がいつもひりひりするんでしょうか。それは果敢なようでもあり、ラマンチャの男のようでもあり(笑)、どうなんだろう?

そっと寄り添って見守るというのは、自分も誰かのために、そんな存在でいたいなと思いました。
でも、なかなかできないんですよね。僕なんかすぐにぎゃーぎゃー騒いじゃう。(笑)

でもありがとうございます。

>>ボクシングファンさん。

>何が信じられないって、
自分が一番信じられないですからねぇ。

その通りです。信じられないナンバーワンは、自分。でもね、99%は信じられないんだけど、自分の中の1%くらいは信じている部分もあって、(これは誰でもそうだと思うんだけど)そこのあたりに何か自分の本質っていうか、そういうものがあるようにも思うんですよね。
例えばここも気がつけば160本以上記事を書いてきた。本当にしょーもないこともいっぱい言っているけれど、それら全部を俯瞰して、総体的に結んだ「わたくし像」っていうのかな。それは意外と自分の意図に反して実体に近いし、これはある意味信じられる「自分」なのかもしれない。駄目な部分も含めて、ですよ。もちろん。


>>deep breathさん


>私は多分、「かわいそうな人」なのでしょうね。
>信じあえた先の世界を見ることはない。
「信じてるふり」しかしていないんですから。

僕は、会ったこともないんだけれど、どうしてdeep_brethさんの痛いところというかそうした部分が伝わるんだろうといつも不思議でならない。痛いところは、本当に、ああこういうの痛いだろうなあって思ってしまうことが多い。

ですがあなたのことを「かわいそうな人」なんて思っていませんよ。「信じてるふり」をしているという風にも思っていない。あなたは凄く正直な人で、自分のこともちゃんと捉えていらっしゃる。もちろん、現実世界にそれがそのまま出せているということはないでしょう。でもそれはあなただからどうとかいうことではなくて、みんなそうですよ。

何もなければというか本当に「かわいそう」な人だったら、ほんとに何もないです。現実にもネットにも、何も出てこない。
ただ、「放射する人」は痛いんですよ、きっと。本人は凄く。周りは、そうした人の書いたもので癒されるかもしれないけれど、本人は凄く痛い。

痛いことを、痛いと書ける人を、僕は「信じたい」。

あ、コメントが行き違いでした。どうもありがとうございます。

>う~ん、あまり考えた事がないdeepな世界ですね。悩まないのは、信じる事に見返りを求めていないって事でしょうか。

deepでしたか?笑
っていうか、自分の立場になった時、こういう風に書き連ねられてもねえ・・・っていうのはあるでしょうね。内面のことは自分でなんとかしなさいって言いたいかもしれない。
だからほっといていただいてもいいです。(笑・・)

ほんとにいい年してなにを言っているんだか・・って部分も自分でありますし、後から消したくなるんですよね。こういう記事。ブログやってる人ならわかると思うんだけど。

でもたとえ衝動的でも、書いてしまったものは、よほどのことがないと消さないようにしているので、こんなものを読んでしまった皆さん、ごめんなさい。運が悪かったと思ってください。

読んでしまって運が悪かっただなんて(笑)
思っていませんよ。

裏切られたことによる絶望とかいうありふれたことではなく、それ以前に「無」であるところがBigBanさんにとっての
キーワードなのだろうなと感じています。欠落、でしょうか。

また青臭いことを、と笑われそうですが人は役割とか使命を持って生まれてくるのだと考えることで、自らの人生を受け入れようとする方がありますが、私はむしろ人には「役割」ではなく「役柄」があるのだと考えています。
長くなりそうなので、これはいつか自分のブログの記事にでも書くことにします。

む。なんとか立ち直ってきてみたら気になるフレーズがあるが、そうっとしておきます(笑)
私は逆なんです。根っから人を信じすぎてしまうんですよね。
ってことは自分を信じてる(過信?)のかもしれません。
ああいう目にあってもこういう目にあっても、少しは信じないようにしようと思っても、信じてしまう。
「基本的に」この人なら、と思えた人なら、顔を見たことがなくても、直接面と向かったことがなくても、信じてしまうんです。
しかも、痛い目にあったときに学習機能がついてない。

頭が悪いんですね。
もう育ちがいいだとか、お人よしだとか、馬鹿だとかと言われることはなれました。けれど、少し人に対して期待しないでいられたら…と思うのです。BigBanさんとは逆なんですね。なんかなー。どちらもいい結果になりませんね。てきとーに中庸というのがいいのかもしれません。根源まで突き詰めてどちらかに決めてしまうのではなくて。それか考えない、感じないか(←不可能だとわかっていて書いてみる)

こんばんは。なおこさん。

>>裏切られたことによる絶望とかいうありふれたことではなく、それ以前に「無」であるところがBigBanさんにとってのキーワードなのだろうなと感じています。欠落、でしょうか。

そろそろ長いおつきあいになってきました。笑
的確なところをついてこられる。

このなおこさんのコメントを読んで、考えました。
私の場合、確かに信じるとか信じないとかいうことではないのかもしれません。

言うなら「無」をめぐる生まれ出づる堂々巡りでしょうか。

「裏切られたことによる絶望」も、(その当事者にとっては)もちろん軽いものではないのはわかりますが、そこまで「行き着けない」感じですね。自分の場合。

やはり発するところは内面的な、歴史的で原初的なものです。だから、

だから周りの人のせいではないのです。おそらく。

>私はむしろ人には「役割」ではなく「役柄」があるのだと考えています。

役柄・・ですか。
深い言葉ですが、少なくともブログ界では最近「役柄」のようなものを意識することが多くなりました。なにか事があったときに、どういう風に考えようかというときにこの言葉を意識します。

後は・・身近に(ブログでです)誰かが傷ついたり弱ったりしたときかな・・このあたりのことは以前「少年カフカ」の記事で書いたんですけれどね。

そういうことです。


おひさしぶりです。ぶんだばさん。
メールもありがとうございました。いろいろ返そうかと思いましたが、今はぶんだばさんが「復活」してこられた(笑)という事実を単純にうれしく思います。気にしていましたので。

ですから、具体的に個別のいろいろなことを言及するのは、今はやめておきます。そのうち機会もいくらでもあるでしょうしね。ここでのお答でかえさせていただきますね。

#ということで少し記事ともはずれ、「楽屋おち」もあるかもしれないけど、他の人すみません。


>ああいう目にあってもこういう目にあっても、少しは信じないようにしようと思っても、信じてしまう。
>「基本的に」この人なら、と思えた人なら、顔を見たことがなくても、直接面と向かったことがなくても、信じてしまうんです。
>しかも、痛い目にあったときに学習機能がついてない。

原点が「信じない」私は、おそらく(あまり喜ぶべきではありませんが)「信じる」人よりは打たれ強いかもしれません。まあ、ここのブログをずっと読んでいただいている人は、既にお気づきでしょうが、僕は「対人」や具体的な「困難」には相当強いです。
その根は、やはり「全てを信じない」ところから、一つ一つ明かりをつけていっているようなところがある。

確かに生まれた時が一番真っ暗だったわけです。

そこから、灯を一灯、一灯つけていって今日があると思っています。おかしいでしょう?そんな世界観です。

だから、悪意に晒されて、あるいは悪意ではないかもしれないけれど、誰かがその灯をふっと吹き消してしまった・・そういうことがあっても、最初に戻るだけです。また一灯一灯つけていけばいい。そう思うのです。だから人に吹き消されることにはめっぽう強いと思う。冷たくすらあるかもしれない。時として。そして戦闘的ですら。

きつい状況になると、原初の危機感が育てた(大げさな!笑)生き残りのレーダーが(笑)自動的に回り始めます。
そういうときは、こいつもまんざらでもないなと自分で思うんですよ。

だから、ほかの人もそのレベルで生きていると勘違いしてしまうことがありますね。おそらく、それでよく人を傷つけていると思います。一緒に一面の焼跡まで後退させてしまう、あるいはそれを期せずして強いるところもあるかな。このごろは、ようやくそれでは大変なことになると少し思ってきた。


反面、これも必然ですが、「自分の内面」からの攻撃に弱いですね。ここからは、ぶんだばさんの指摘通り。(いや気にしていませんよ、あなたが感じたことは、感じたという段階でそのまま一部は真実でもあるのです)

大げさに言うとやはり「空虚」のようなものが、最大の敵かな。なーんて言うとニヒリズムが過ぎますか?笑
格好つけすぎかな。

大丈夫です。またどんどんいろいろ、書きましょう。経験からの学習はもちろん、互いに永遠にしていくとして。

あなたも、もちろん私も。


ご心配をおかけしました。とりあえず記事は書けるようになり、コメント欄も復活させました。喜んでいただけて本当に嬉しかったです。とりあえず軽いものから(笑)かいてますので、また遊びに来てください。

なおこさんからの指摘の「虚無」のようなもの、あるいは「空虚」というもの、わたしは自分の中にあるかということを考えてみて、(病理があるにもかかわらず)ないかも、と思ってしまいました。あるいは「考えたことがない」。

お察しのとおり、BigBanさんと違って、私は対人関係が非常に弱いです。今までの全ての病気の原因が「対人関係」(家族も含めて)である、と言っても過言ではありません。
しかし、表面上はうまく付き合えてしまうので「対人恐怖症」ではない、というところが非常にやっかいなのです。
うまく付き合っている間は、対人関係の脆弱な部分やイヤだと思う部分を「エス」に押し込めてしまっているのですから。

リアルでも、メールでもよく指摘されるのですが、恐らく私は恵まれすぎていたのでしょう。たしかに生まれてから、二年間はろうそくでまぶしすぎるくらいだったでしょうし。

しかしながら、最近気付いたことは、対人関係に問題があるのは、幼少時に転校をしすぎたせいということです。(私は小学校、四つ行っています。親の仕事のせいですが)同じ職業を親に持つ、転校経験のある人複数名に聞いたところ、みな対人関係に問題がありました。そして発病している人も数名。

対人関係がリアルでは一見するとうまい、ということと、実はそれが最大の病理である、というのは、上記転校に関係がありそうです。

私もろうそくをつけていけるようになりたいですね。精神的にはサバイバルのプロでありたい(ムリそう)。
それを持っていれば、たぶん病気も治ります。再発もしません。

でも最近、ちょっとだけ対人関係も強くなった気がします。
だって、ブログ閉じる気がぜ~んぜんないもの!!

メールのお返事は、殊に記事に関するへんは、捨て置いてくださいませ。とりあえずご報告したかったまでなのです。では。

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