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June 11, 2005

「月見座頭」-------青く冷たい空間と人の二面性

zato

ここでは余り書いたことがないが、実は20代の時から、数知れないほどの能の演目を見ている。ほとんどが薪能だ。その頃、薪能のプロデュースをするという不思議なコンセプトの会社に籍を置き、全国の薪能を観歩いていた。

能のことなど何もわからなかった自分を、導いてくれた人がいた。その人との縁は儚く消え失せたが、観能の趣味はその人から自分への、貴重な置き土産である。

薪能のことは、書き出すときりがない。今年も芝・増上寺の薪能を見に行ってつくづく思わされたのだが、能あるいは狂言とは不思議なもので、その時の自分の年代によって同じ演目でも、見え方や感じ方が変わってきていることに気づく。

今まで聞き取れなかった難解な「謡」が急に耳にすんなりと入ってくることがある。物語の細部の気がつかなかった真実が、急にすとんと見える時がある。

単に深くなってきたとか、浅いとかそういうことではない。六条御息所の生霊の怨念を描いた「葵上」にしても、誰もが知っている「羽衣」にしても、海上で平家の亡霊と大立ち回りを演じる「船弁慶」にしても、見るたびに違う趣や、感慨を持ってきてくれる。10年前に見た同じ演目を、また10年後にも見てみたいと思うのである。そうした経験は他に得がたい。

そんな中、かつて大谷の石切り場、地下奥深くで青い光と固い石で切り取られた硬質の空間で演じられた、ある狂言の演目を時折思い出す。

「月見座頭」である。

中秋の名月の夜。一人の座頭が野辺へ出、さまざまな虫の声に耳を傾け楽しんでいる。そこへ都から月見にやってきた男が声をかける。二人は互いにうちとけ、男が持参した酒でささやかな宴が始まる。男は座頭を労わり、優しい声をかける。

歌を詠み、謡い、舞い、存分に楽しんだ後、二人はそれぞれの帰途につく。座頭も気持ちよく家路につこうとする。

ところが、ところが、一体どうしたことであろう。

男はふと気が変わり、表情が変わる。今別れたばかりの座頭に向かって急に踵を返す。
そして、無言のまま別人をよそおって、座頭を小突きなぶってその場に打ち倒し、杖も奪って遠くに放り投げ、逃げていくのである。さっきまで優しかった男が豹変する。その不可解さに観客は圧倒される。

 野辺にはひとり座頭が残され「先ほどの人と違い、なんと酷いことをする奴がいるものだなぁ」とつぶやく。後半のこの意外な展開は、人間の不条理と不可解さ、掴み切れない魔性と残酷が込められている。

この演目は、盲人をなぶることがテーマになっていることもあってか、微妙なところがあり、めったに演じられることがない。狂言は元来能と能との幕間に演じられる滑稽な出し物であるが、この「月見座頭」は最後まで笑える場面はない。狂言には時折こうした演目もあるのである。

打ちひしがれた座頭が、ゆっくりと嘆きつつ退場していった後、客席はそれぞれの思いにしんと静まり返っていたことを今でも思い出す。

言うまでもなく、「月見座頭」が描いているのは人間の二面性である。自分はこの座頭を打ち倒した男のようなことをしたことが全くないかと考えると、否定する自信はない。あまり思い出したくない幾ばくかの記憶がよみがえるような気がして、あわててそれを振り払う。

この演目を思い出すたびに、今でもあの大谷の石切り場の深く冷たい天井の高い空間と、青い照明。そしてひんやりとした空気を思い出すのである。

二面の邪性からどうして自分だけが逃れられようか。

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Comments

>男は座頭を労わり、優しい声をかける。
>そして、無言のまま別人をよそおって

人様がお書きになった文章を切り貼りする失礼をお許しください、
引用ということで一般化しておりますが。

『あらしのよるに』を思い返しています。
「餌」との友情に踏み切る「捕食者」オオカミが主人公で、
「捕食者」との友情の困難さをあまりよく考えていない
ヒツジがその相方を務めている、と私は読んでおります。
オオカミとヒツジがお互いに抱いている「情」を
オオカミの欺瞞&ヒツジの愚鈍、というように
とらえて読みました。

月見座頭を鑑賞していない上に、BB様の特別な想いが
込められた評論に反語を投げるのではありませんが、

田舎の座頭=愚鈍、
「都から来た男(宴席)」=欺瞞、
「都から来た男(退出)」=真の自己
という風にとらえられて仕方がなく、

>幾ばくかの記憶がよみがえるような気がして、あわててそれを振り払う。
>二面の邪性からどうして自分だけが逃れられようか。

共感が強く、いっそ戸をすべて閉ざし小屋に立て籠もりたいです。


はじめまして。


>人様がお書きになった文章を切り貼りする失礼をお許しください、
引用ということで一般化しておりますが。

とんでもない。これに不快であればおよそ、引用ができなくなるわけで・・笑

私はこの「あらしのよるに」を読んだことがないのですが、近く映画にもなるようですね。

http://www.tbs.co.jp/movie/arashinoyoruni.html

そうですね・・

でもオオカミの「捕食者」としての「現実」は、生き物としての本能というところがかかってくるわけで、邪性や欺瞞といったところとは、ちょっとまた異なるバイアスがかかったところにいるのではないかなあ。

読んでもいないのにこれ以上論評できませんが。

はじめましてではなく『透き通る言葉』で
あなた様の文章に初めてことばを述べさせて
いただきました。

>生き物としての本能
はその通りなのですが、擬人化されているなかで
ダブって妄想したのかも知れません。

『透き通る言葉』以来『二面の邪性』を経て、
「人間も腔腸動物のように、腸を中心に裏っかえしに
なるんだよ、ちっとも変わりゃしない」
と言った先輩の言葉も反芻しつつ考えていました。

被差別部落、公害問題やヒバク者もいっしょくたの
同和教育を受けて育った時代だということに、
最近やっと気が付きました。

同和教育の必然性があった世界で、それを体感していたのか。
差別が存在するのを摂理と受け止めていないか?
そういう教育の逆作用はないのか。
邪性の行使に快感を覚えてはいないだろうか?


こんばんは。

>はじめましてではなく『透き通る言葉』で
あなた様の文章に初めてことばを述べさせて
いただきました。

そうでしたね。大変失礼しました。

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