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June 04, 2005

戦いを巡る愛情と憐憫(2)-------「場」の争乱とクローズな平和の凡庸。

どうも最近、場が荒れている。先日のこのことは有意義だったと思うが、ある親しいブログの閉鎖だとか、逆にしばらく休んでおられたブログが新スタートを切ったりとか、そこここのバーチャル空間で人と争ったり、リアルの場で人とひどい喧嘩をしたり。

私のリアルはともかく、思えばこのブログというものは、本当にバトルになりやすい、フレーミングを誘発しやすいメディアだ。考えてみればそれぞれのブロガーの数だけ、掲示板があり、それらがTBにより互いを勝手に結びつけるのである。いわば「掲示板」が触手を他の「掲示板」に伸ばして、そこで気に入らないものの存在を見つけてはそこに押し入り、あるいは戦いを持ち帰るのである。この仕組みで荒れないわけがない。であれば、あちこちで火の手が上がるのは止むを得ないのかもしれない。

本当に周囲が騒然としている。結ぶ手を探し回って。あるいは振り払う相手を探して。

そんな中にあって、最近の僕の私的精神的状況を色濃く反映した前記事に、Fairnessさんから美しいTBをいただいた。自分が自分の記事でみなまで書き切れなくても、乱暴な衝動的な記事に対して、その行間を埋めてくれる。そういうブロガーは本当に少ない。こういうのを美しいTBというのだろうな、と思う。この人のブログの魅力は、中庸の美を、本当に見事に綺麗に見せてくれることだ。時に暴力的で、衝動的な記事を空間に投げ出す自分などは、こういう解釈をしてくれる人の存在が必要だ。それは暫し自分の思考を検証し、黙視する契機になる。

記事の完成度とか、そういうことではなく、別種の美をそこに感じる。

そこで、前の記事の意味も自分で考えながら、もう少し書いてみる。

コメント欄にも書いたけれど、平穏や平和を求める気持ちは自分にも人並みにはあるけれど(元来人よりは薄いと思うが)、これら、求める平穏や平和は、実は曲者であると思っている。平和や平穏は、一般的に人が言うほど美しいものだと思えない。無条件に賛美できない。
むしろそれは、つまり平和を志向する心は、孤立的で独善的、自分の周囲の空間のみ守る、エゴイスティックな感情なのではないか。そして、これらが非常にクローズな感覚であることは、それらが宿命的に持っている危険な側面ですらある。
なぜなら他者に深く関わろうとすれば、平穏は遠くなり、他国に深く関わろうとすれば静穏は必然的に乱されるからである。遠い他者の持ち込む不幸は私達の平和を例外なく破壊するからである。

反して、戦いは、必ず他に対象を求める。当然である。対象なきところに闘争は生じないからである。そこでどんなに苛烈な争いがあっても、怒号が飛び交っても、実はそこでは相手との間で、一種のコミュニケーションが生じている。サイバー空間であっても、リアルの世界でも同じこと。極言すれば、相手を傷つけあうことも殺しあうことすらも(!)コミュニケーションである。暴力にすらコミュニケーションは内含されている。それは薄々気がついていても、目を背けがちな、世界のもう一つの側面である。

逆説的に言えば、戦争には元来、他者に関わろうという、血の滲むような切望が含まれている。他者にコミットし、他者を貫こうとして文字通り自分が、あるいは相手が滅びさる危険で警戒すべき現象であることに間違いは無い。そしてクローズした戦争もまた存在しない。闘争や戦いは他者と必然的に関わることでオープンなのである。

戦後日本に欠けていたものがあるとすれば、現象としての戦争と共に失われた、他者に関わろうという血の滲むような切望と実践ではないか。それに代わって凡庸なる一国平和主義の静穏な日々が訪れた。それは世界の視点から見れば、他国に理念以外何も貢献しない、自分勝手で独善的な平和の実現を為した。

日本は宙に向かって平和を叫び続け、その閉じられた空間に閉じこもり、血で手を染める行為を自ら引き受けず、軍事に特化した同盟国に依存した。
九条という謎の呪文を唱え続けていたが、その声は小さく喉の奥で鳴っていたため、誰も聞き取ることができなかった。

戦後60年、1人の他国民も戦禍に巻き込むことも殺めることもしなかった。--これはよく言われる日本の「誇り」であるが、その間に同盟国はその手に大量の血を抱いていたのである。
この軍事特化の同盟国の庇護=死のキスなしには、この特異な、人類史上例を見ない「平和の国家」は成立しなかった。護憲の論は時としてそれを忘れている。

平和は専ら内側に向けての静穏にはなっても、外側の世界には無意味に近かったのは、中韓の最近の反応を見ても自明。ましてや米欧以外の開発途上の国々にとっては、安定した経済がもたらした経済の恩恵はあっても、この喉の奥で鳴らしていた理念は、はなから届かなかった。

深く深く閉じた平和という凡庸な日々を送ることになったこの国家は、勢い他国との関係に真剣味を欠き、おざなりにした。他国との恒常的な緊張感の欠如は、この「決して戦わない国家」という特異な概念に、国も、政治家も国民も洗脳されることにつながり、覚悟を失ったた結果ではないか。であれば、むしろこの洗脳は「自虐国家の洗脳」よりも根が深いと言えはしないか。

この凡庸によって自国の平穏のみが保証され、その平穏が保証されるためにはオープンではなくクローズな思念の空間が不可欠だった。このクローズな空間の平穏は、まさにこの空間のためだけに機能していたのである。経済的な発展の影で、世界の血に目を向けない、精神的な鎖国状態。それが私達の住む世界のもう一つの容貌である。

平和憲法の理念がもしあるとすれば、このクローズな空間から、グローバルな空間へ向けてそれが継続的に強く照射されなければならなかった。だが、その照射の試みがもしされたとすれば、この国の平穏は乱れ、静穏は奪われていただろう。こうした文脈で、平和憲法は元来、内在的に、宿命的に自己矛盾を抱えているのである。

それが外部と「関わらない」ことによってのみ実現される箱庭の平和論は、いつか外部がそれに気づき、焦がれ、模倣してくれるという受身の体制でしかその理想を広める手段を持たないのである。誰かが気がつくことだ。小さい声を聞き取ることだ。

あらゆる懸念にも関わらず言えば、護憲はこのクローズな鎖国状態、他者と関わらない平穏を、この国一国の平和のために将来に向けて継続しようという試みである。

こんな壮大な話だけではなく、私的な苛立ちと状況への苛立ちがそれぞれ交互に絡み合い生まれた、ある種の雑多な苛立ちのカオス-----それが前記事を書かせた、と自分で解釈する。

自分で記事を書いていながら、それが何を意味しているのか、何が自分に記事を書かせたのか俄かにはわからないことは、少なくない。そうした状況に、ブログのTBは、正しく使われればいい意味での変化を与えてくれる。

そして、今回わかったことは、こうしたことのカオス・・はおそらくFairnessさんが感じている感覚の出発点とそう遠くはない。だが彼女はおそらく僕よりも一段木目の細かい感性でその構造を、より慎重に吟味しようとしているのではないかと思う。

今」凡庸に甘んじる姿を見るならば、武器を持った戦いの中でもまた凡庸な役割しか演じられないのではないか。
その場合、その対極が実感できないから、凡庸を振り切る事ができるような気がするのではないか。
武器を持つことを決意した一瞬間だけ凡庸を離れ、また次の瞬間凡庸に埋没するのではないか。

自身の凡庸に対する苛立ちは自身の中にある凡庸への苛立ちで、対象は二次的なものなのではないか。
(Fairnessより)

こうした返信が返ってくると、複雑系の世界の中でも、何かその底にある一貫したものの存在。それは神とは言わないが、何かがそこに動く気配は、感じるのである。Fairnessさんをして、僕の発信に対して、打ち返すものの存在を。

このような存在は、目を閉じればどんな世界にも感じ取れるのではないか。

荒れた世界にも、荒れたブログにも。
平和な世界にも、平和なブログにも。

荒れた家族にも、荒れた恋愛にも。
平和な家族にも、平和な恋愛にも。

つまり、あなたと私に関わる全ての世界に、だ。

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Comments

もう誰も話題にしていないに等しいのに、また自己弁護ですか。

あなたの読解力に乾杯。

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