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July 31, 2005
東京都の災害対策住宅の不思議-----「待機」とは超過勤務なのか。
先日の足立区で起きた地震に関して、災害対策住宅に住んでいる職員の半数以上が都庁に集合していないということが問題になっている。
東京都足立区で23日、震度5強を記録した地震で、災害時の対応のため東京都の災害対策住宅で待機しているはずの補助要員50人のうち、半数以上が東京都庁に集合していなかったことが27日、分かった。災害対策セクションの総合防災部職員らが登庁し、情報収集などに支障はなかったが、危機管理に対する意識が改めて問われそうだ。事態を重視した都では、集合システムを改善するため、登庁しなかった職員から事情を聴いている。(2005/07/28 産経新聞より)
僕は不明ながら災害対策住宅への認識がなかったのだが、同日の産経新聞によれば、
都庁周辺に約10カ所ある災対住宅に約200人が住んでいる。こうした職員は50人ずつが1週間交代で待機体制をとることになっており、待機時は都庁から徒歩30分圏内にいるように指示されている。
・・・災対住宅の家賃は3LDKで約5万円と新宿区などでは格安。居住する職員は常時、集合訓練を受け、2回集合できなかった場合は同住宅から退去させられるなど厳しい規定がある。
という。
今回都庁に集合しなかった職員は明らかに、この規定に違反しているわけであり、事情によっては規定どおり、この住宅から退去させられ可能性もあるという。報道の脈略に沿って読めば、破格に低額の住宅を提供されていながら、公務員として、災害対策要員として当然の義務を怠った職員に対して、退去を求めるのは当然にも思える。
また、災害における緊急性を思えば、都庁に対策要員ができるだけ短時間に集合するべきなのは、これもまた道理である。
だが、どうも引っかかる。
これらの職員は
「破格に安い住宅を提供される」
ことへの条件として
「緊急時30分以内に都庁へ集合する」
ことの義務を果たすことが求められるわけである。産経によれば「200人の職員が、50人毎に1週間交代で」とあるから、これらの人々に対しては、4週間に1週間ずつ、待機期間が求められることになり、1年間=52週として単純に考えれば、52÷4=13として、1人の職員は、1年間に13週は、24時間の体制で「待機」しなければならないことになる。
しかし、この24時間の「待機」とは「勤務」なのか。もしもこれが丸々「勤務」であるとすれば、24時間X7日X13週=2184時間の勤務が求められることになる。通常勤務が1週間に5日で、仮に1日7時間とすれば、通常勤務との差は、月曜から金曜までの平日においては17時間X5日X13週=1105時間。それに休日は24時間X2日X13週=624時間。合計は1729時間となる。
つまり災害対策住宅に住む職員は、年間に1729時間の「超過勤務」を行うことと引き換えに、低廉な住宅の供給を受けていることになる。
災害対策住宅は都内各所にあるが、新宿周辺に関して言えば月額5万円で提供される災害対策住宅に対して、周辺の家賃相場は30万円前後であり、およそ25万円の差額が生じるという報道がされていた。
計算続きで恐縮だが、そうなるとこの職員が1年間に受ける「差額報酬」は25万円X12=300万円となる。この300万円に対して、引き受ける対価としての1729時間について1時間あたりの単価を出すと300万円÷1729=1735円である。
「待機」とされている時間の多くが、夜間や休日であることを考えれば、この1735円/時間というのは、それほど高いものとは言えないであろう。それも、この時間における「待機」がそのまま超過勤務時間として換算されているのであれば、である。
いや、待て。もう少し細かく考えてみよう。
これが仮に超過勤務だとして、丸々労働時間に参入される場合、1ケ月あたりの超過勤務は1729÷12ヶ月=144時間となる。月間の通常勤務を完全週休2日として仮に23日として計算すれば、144÷23=6時間。何とこの職員は平均すれば、毎日6時間の超過勤務を引き受けて、この報酬を得ていることと同じになる。
通常の会社員の方ならお分かりになるとおり、常識的に1年間連続して月に144時間の超過勤務というのは、相当にタイトな職場であり、過労死が起きてもおかしくない。もちろん、この都の「待機職員」に過労死などが起きるわけはない。今回の出来事でもわかるように、これはあくまでも「緊急時のための」待機であり、ここに記したように、全てが超過勤務として扱われるような「勤務形態」の実態は、明らかにないからである。
おおよそ1729時間のうちの99%は、「平時」なのであり、(時には100%であろう)ポケットベルは鳴ることは無い。過労死すら引き起こすかもしれない一般の企業における勤務体制とは程遠い現状がある。
では、この1792時間とは、一体何なのか。
通常の人間が健康を損ないかねない、年間1729時間にも昇る「超過勤務」を、まるで「あったかのように」計算し、それに基づく報酬を支給し、数年に一度の「緊急時」に集合しなかったからといって職員を罰するという。
この制度そのものが、何かおかしくはないか。
もっとはっきり言えば、「災害対策」を口実にした、一部職員への利益配分とも見えるのであり、民間に比べて格段に安い家賃での住宅供与に対する批判をそらすための、「災害対策」であるという穿った見方もできるのではないか。
仮にこれを「超過勤務」として位置づけるのであれば、年に1729時間などという、とてもこなせない時間を強いること自体が無理というものであり、それが勤務ではなく単なる「待機程度の」状態に対してもしくは「カラ仕事」同然の勤務に払われる対価であるなら、過剰というものである。
災害対策を主として行うのであれば、この200人ではなく、全職員に対して災害対策のための無理の無い待機時間を割当て、それに対して超過報酬を出すというまっとうな考え方で都は対応すべきではないか。
あるいは、遠隔に住む職員では災害時に緊急対応できない、どうしても30分以内に住む職員に限りたいというのであっても、年間1792時間にも及ぶ一人当たりの待機時間を現実的なものに減らす(待機職員の数を増やし、1人あたりの待機時間を常識的なものに減らし、それに見合った報酬に下げる)などといった、現実的な方向での改善を図るべきだ。また恒常的に住宅に住まわせるのではなく、交代でこれらの住宅に泊り込み「待機」させるという、ローテーションを組むという方法をとれば、対象職員の数ももっと増やせるし、1人あたりの実質的な負担も少なく、また泊り込みの番が回るということであれば、意識づけの上でも効果が得られるのではないか。(ポケットベルが鳴ってもかけつけないなどいうことは、まずなくなるだろう)
さもないと、全てがまた「アリバイ工作」であると言われてもしょうがない。それほどの不自然さがこの話には漂っていると思うがどうだろうか。
言うまでもなく、災害対策に「アリバイ」めいたつじつまあわせは、非常に危険であり、都民としては非常に迷惑である。
2005 07 31 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック
July 27, 2005
何歳までが夭折?-----僕はもう「夭折」できないのか
気になった人もいるのではないか?
前記事「夭折という言葉を噛み締めた-----杉浦日向子さん逝く」を書いたときから実は自分自身でどうなんだろう・・と思っていた。
46歳で逝った杉浦さんにこの言葉が当てはまるのであろうか。
書いた後もどうも違和感が去らない。脇道だが調べてみた。
まずこのサイトを見つけた。
● 「夭折の基準」( Shuffle++ )
→ 毎日新聞夕刊に「復活クイーン欧州ツアー」という記事が掲載された。
ロンドンで行ったクイーン+ポール・ロジャースのコンサートの模様を伝えているのだが、読み進むうちに「91年に45歳で夭折したフレディ・マーキュリーの妖艶とも言える声と……」で躓いた。
で、
尾崎豊(26歳) →その才能も含めて夭折の言葉がぴったりときたものだ。
田宮二郎(43歳)→だれも夭折とは言わなかった。フレディ・マーキュリーより2歳も年下なのに。
山田かまち(17歳)→これは文句なしに夭折だろう。
アイルトン・セナ(34歳)→当時夭折といっていたのか記憶にない。
と例を挙げて
「何となく、30を超えると使いにくいものがある。 」とまとめている。
うーん、そうか。
次はWikipedia。
夭折(ようせつ)とは、人が若くして死亡する事を言う。夭逝(ようせい)、若死に(わかじに)とも言う。成人前に死亡、もしくは成人の場合は、子を為さずに死亡する場合などがある。但し、具体的な年齢上の規定が設けられている訳ではない。主な要因としては、病気や不慮の事故、または自殺などで死亡するケースがある。また、医療技術が進歩していなかった時代には夭折の事例も多くなってしまう傾向にある。
なるほど。これによれば年齢の制限はないということだ。「若死に」であるという印象があればいいということか。あ。こうも書かれている。
また、なぜか「天才は夭折する」といわれている。
これは説得力があるな・・・つまり「夭折」の条件は「天才」であること。なのかもしれない。
さらに「夭折した有名人」のリストが・・
●芸術家・文学者
- エゴン・シーレ オーストリアの画家。当時どの表現主義にも属さず独特の芸術を表現し、画家としての道を歩み出そうとした矢先にヨーロッパに蔓延したスペインかぜによって28歳で死んだ。
- フレデリック・ショパン ポーランドの作曲家、ピアニスト。故国ポーランドを憂いながら38歳で病死した。彼の作曲した曲は現代でも不朽の名作である。
- シャルル・ボードレール フランスの詩人、評論家。ポール・ヴェルレーヌ、ランボーに影響を与えた詩の天才。生前は詩の内容から評価されず、失意のうちに亡くなった。
- フェリックス・メンデルスゾーン 作曲家。「結婚行進曲」や「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」などの名曲を多く残したが、姉の訃報に接したときの悲嘆が激しく、その半年後に38歳で死去。(遺伝的に脳卒中を起こしやすい家系だったという説もある)
- ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 世界的作曲家。5歳から作曲を始めるなど「神童」と呼ばれ、数々の不朽の名曲を残したが、35歳で急死。
- ギ・ド・モーパッサン 小説家、詩人、劇作家。
- レイモン・ラディゲ フランスの小説家、詩人。早熟の天才。わずか20歳で病死した。夭折の天才と言われる。
- アルチュール・ランボー フランスの詩人。早熟の天才と言われた。骨肉腫による癌で亡くなった。
- 石川啄木 『一握の砂』などで有名な日本の代表的歌人・詩人。27歳で結核により病死。
- 滝廉太郎 『荒城の月』や『花』などで知られる作曲家。23歳で結核により死去。
- ※太宰治 『人間失格』や『走れメロス』などを書いた日本の代表的作家。39歳で愛人とともに自殺。
- 樋口一葉 小説家・詩人・歌人。『たけくらべ』などで知られる。24歳の時に結核により病死。
- 宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』などで知られる童話作家・詩人。37歳で死去。
ほかにもたくさん。最高齢は太宰治の39才か。。。
しかし、しかし。BigBangブログでは是非とも「天才説」を採用したい。
「天才は夭折する」といわれている。
↓
夭折とは、若くして惜しまれつつ逝った天才の死・・のことである。
再合掌。
2005 07 27 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
July 26, 2005
夭折という言葉を噛み締めた-----杉浦日向子さん逝く
天才に限って若くして逝くという、良く言われる言葉がここまで真実だと思わされるのはどうしてなんだろうか。
杉浦日向子氏の早すぎる突然の死を悼むブログが多くアップされている。
いつも着物をきりっと美しく着こなしておられた、背筋を伸ばした姿が目に浮かぶ。
「コメディー お江戸でござる」は見ることができなかったが、江戸風俗を、信じられないくらいの考証力で、宝石のように散りばめて書かれた、漫画の一際の美しさにも魅了されていた。
なんとあの荒俣宏氏と結婚されたときには、余りの組み合わせの「妙」に本当に驚いたものだったけれど、そして離婚したときには、そりゃそうだよなーと思ったけれど、今思えば大変な「出会い」だったのだろうなあ、と思う。
全く異なるキャラクターだけれど、自分としては、サルトルとボーボワールのカップルに、二人を何となく勝手に重ねていたような気がする。
いろいろなブログの追悼記事を読んだけれど、「深夜のNews」の真魚さんの書かれた、一節が染み渡った。
(真魚さん、勝手ながら引用させてください。僕はあなたが書かれた以上の追悼は書けない。)
「あまりにも早すぎる訃報だった。できることならば、年老いた杉浦さんが書く江戸時代が読みたかった。しかし、もうそれもかなわぬ話になってしまった。もしかしたらこの人は、江戸時代から現代の日本に、ひょっことやってきて、数々の作品を書き、そしてまた江戸時代にひょっこと帰っていったのかもしれない。
杉浦日向子さん、ありがとうございました。これからは、いつでも江戸の街をぶらつくことができますね。そちらも、さぞや蒸し暑い季節になったと思います。風鈴の短冊が舞い、辺りが暗くなると、さっと夕立が来て。そして、しばらくすると、遠くでカナカナとセミが鳴き始め、通りが明るくなる。少しは、涼しくなりましたでしょうか。お好きだったという永代橋から眺める江戸の夕暮れは、どのように見えるでしょうか。」
(杉浦日向子は江戸に帰ったのだと思う---深夜のNEWSより)
杉浦さん、ありがとう。
安らかに。安らかに。
2005 07 26 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(7) | トラックバック
July 25, 2005
Time is on my side(2)-----光は今でも味方しているのか
最初に
Time is on my side(1)-----時は今でも味方しているのか
を書いてからずいぶん時間が経ち、いろんなことがあった。この記事が最初の記事の続編としてふさわしいのかどうか、僕にもよくわからない。時間を順に追う自分史にも全くなっていない。なっていないのはわかるのだが、今が書くべきタイミングだと思うので、書いてみる。
変な話だと思われるかもしれない。そして現実逃避だと言う人もいるかもしれないけれど、人と人との関係、自分と人との関係、自分と社会との関係。
そうした事柄で迷ったりひっかかったりしたとき、
「そう言えば光はどうなっていただろうか」
「そう言えば素粒子で言えばどうなっていただろうか」
などと考える。いや、本当だよ。
はああああ?と思う人が大半だろうけれど、複雑な人の心とか、複雑な(というよりガサツに混乱した)人のシステムの問題にぶつかったとき、僕はどういうわけか全てを、つまり、一回物質に戻して頭の中でバラバラにして考える習性があるようなのだ。
初めてこの記事から読んだ人は、「こいつは相当電波の入った奴だ」と思うかもしれないが、おそらく、これは何か自分の原点にもどろうとして戻れず、それでも戻ろうとして苦肉の策として行き着いたところが、光や素粒子であったと言う・・・・・(ここまで書いてもドン引きしていく人たちの顔が見えるようだ)自分の特殊性にも依存する思考の性癖かもしれない。
もう少し懇切に書けば、つまり僕は生まれとかいろいろあって、「原点に戻る」という行為が困難というか不可能なので、通常の人間(というものが果たしてあるのかどうかわからないが)であれば戻っていくような、この世に出てくる瞬間のところから始まる歴史というようなものというか出発点が、結構面倒臭いことになってしまっているので、気軽に戻る場所がないのである。
そんなもの、自分だって関係ないぞと思っている人は多かろうが、そんなあなたであっても瞬きの間であれ、数秒のことであれ、この世界に、この世の中に行き詰ったりしたときに、必ず心理的に「そこ」に回帰しているはずである。
で、回帰ができない僕は、というか、この回帰ができないことは、もうそれはそれでいいのだけれど、現実にはやはりどこかに、がらがらっと今ある全てを精神的に崩して、最初から積木を積み上げて、今いる自分の場所のところまでを組み立て直して戻ってきたいわけだ。
そして、その後ようやく自分と人との関係を考えられるようになる。
道徳とか、この世の決まりとか、人が人に教える人の道とか、そうした一つ一つは、多くの場合自分の道筋には当てはまらず、この砂土のような、クレイのような自分と人との関係の根本の場所に戻って考え直さないと、動くことも考えることもままならないという、ある意味大変に面倒くさい構造になっているわけだ。
で、光である。
「光とは何か?人類が100年間も騙され続けた相対性理論の大嘘」
(著者: 森野 正春・まだ全部読んでないよ)
では、「第10章 オリオン座の星リゲルの光は、本当に700年前のものか!?」で、700光年彼方の星を見る時に、700年前のこの星の姿を見ているはずだ・・・という相対性理論の基本中の基本について、つまり光について当たり前のように語られてきた事実に切り込んでいる。
もしもこのことが当たり前であれば、私達は、宇宙の「現在の姿」を永遠に見ることができないことになる。なぜなら星々はそれぞれ700光年あるいは1万光年、時には何十億光年も彼方にあるのだから、「現在の世界」を私達は何も認識できないで生きていることになる。
孤独なことに人は過去の世界だけを見て生きているのである。そして千年後に千光年先を見てようやく、今のこの時代に呼吸をする私達に出会うことができるわけだ。
そんな馬鹿な話があるだろうか?一体認識とは何なのか?
という話からこの本の論はスリリングに始まっている。
(悪いね、まだ読み終わっていないんだ)
この本を読むと、光のことも、宇宙のこともいかに人間はわかっていないか、を思い知らされるような仕掛けになっている。かのアインシュタインですら、光のことは実は何も分っていなかったという、興味深い逸話も語られている。
相対性理論の頭の痛い話を、稚拙な理解のままにここで展開する気はさらさらないが、つまり言いたいことは、
●僕は原点に戻るとき、一気に物質まで戻らないと、すっきりと考えられない厄介さを抱えているということ。
そして
●心もシステムも所詮は移ろうものであり、その姿を時間軸の中で捉えることは所詮できないし、誰の責任でもない。結果の全てに対して、責任を持てるわけが無いということだ。
こうした思考方法は多くの場合頭が痛いことばかりだが、いい点もある。
それは、人の心。悩む人、傷つく人の心も体も、究極は素粒子のせいにできる(爆)ということなんだ。
何かに人がひっかかっているとき、何かにぶつかっているとき、何かに傷ついているとき自分のことなんだから責任を持てという人があろう。自分で責任を持って決断しろと。
因果応報の責任論は一見すがすがしいが、問題は、あのいやな言葉!
何かあったら「自己責任」を言われることである。何かがうまくいかないと、自分の過去の素行の、こことここが悪かったと勝手に解釈し、時を遡っては自分をあげつらって人は苦しむ。
無責任な人であれば、全てがうまくいかない理由を他人のせいにするだろう。
あるいは何かの宗教を信じている人なら、信仰心が足りなかったからだと言うかもしれない。運命論者であれば、ほんのちょっと運が悪かったんだ・・で全てを片付けようとするだろう。
そうした様々な、もっともな、あるいはいい加減な解釈と同じように、僕は人とのいろんな関わりが混乱しそうになったり、自分の気持ちが自分で読めなくなったとき、
「さて、光と素粒子はどうなっていただろうか」
などと考えるのだ。
自分もこの宇宙を構成する物質に過ぎない。少々複雑なように見えても、たかが素粒子の集合体。肉体の中で飛び交う中性子を想像すれば、生きているうちに自分ができること、自分が自分をどうかすることができる比重なんて、限りなく小さいと思えてくる。
ならば、悩みあぐねる時間は、そこそこで切り上げよう。傷も自然の治癒に任せよう。
心の傷も体の傷も、だ。両方だ。
こういうものの考え方は、もしかしたら、以前Salieriさんが教えてくれた「トランスパーソナル心理学」(少しだけ基礎的な本を読んだけれど)に通じるものがあるのかもしれないと最近少し思っているのだけれど、(違ったらごめん)欠損している「原点」の代償が、自分にも人並みに必要であるという渇望感が、宇宙や天体への原始的な関心と有機結合(?)して、ある意味追い詰められて、ここに至ったのではないかと自己解釈している。
人が
人に惹かれる気持ち。
人を拒絶する気持ち。
ある体制を選択する気持ち。
ある体制を拒絶する気持ち。
ある事柄を信じる気持ち。
ある事柄を拒絶する気持ち。
破壊。恋情。執着。冷酷。
愛情。後悔。愚考。嫉妬。
ぜんぶ物理的で化学的な反応に過ぎない。
そこに正解も間違いもない。
悪も善もない。
暫し、道徳にも文学にも、頭の世界からだけでも退場願って、全てをこの身に駆け巡る無数の中性子のエネルギーであると考えたとき、どこかで確かに救われる思いが目覚める。こうして見切ることが、僕にとっては前に進む力になっているのは確かだし、他の人の心と自分の心の距離を測る基準にもなる。
これが全ての人に薦められる方法であるかどうかは知らないが、迷う心が十分にあるのなら、少々乱暴かもしれないが、光すら味方にすることはできるのである。
アインシュタインすら、完全な説明ができなかったという、あの光をだ。
【参考記事】
最初の記憶----辿れない道
2005 07 25 [自分のこと] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
July 23, 2005
ディテールに宿るのはいつも神とは限らない-----「クオレ物語」と靖国神社
「ディテールに神が宿る」というのはドイツの格言なのだと言う。意味はそのままそういうことだ。この世界において、あるいは人生において大切なことは、大所高所にあるのではなくて、日常のささやかなこと。何気ない出来事の中にある。
あるいは、文学や美術にしても、細かなところに込められている細工を見逃せば、そのことの正しい価値判断はできない。そういう意味であると自分なりに捉えている。
子供の頃の愛読書に、「愛の学校 クオレ物語」という本があった。イタリアの小さな田舎町の小学生、エンリーコの学校生活の1年間を、日記形式で描いた古典名作だ。友人や先生との間におきる様々な諍いや、小さな出来事。それらをエンリーコの視点から描いた感動的な物語で、ささいな人生の中にあるとるに足りないような出来事が、生きていく上で大切な様々な教訓に満ちているという、推薦図書として一時もてはやされた本である。
僕の家になぜこの本があったのかはっきりしないが、おそらく、祖父が何かの機会に買ってきたのだろう。祖父にはそうした、ある種典型的な、「教訓的」面があった。
正月になると毎年靖国神社に僕を連れて行き、「爆弾三勇士」の像の前で、彼らの美談を繰り返し聞かせ、乃木大将の武勲を教えたのも祖父である。
祖父母に育てられた僕は、言葉の正しい意味で「年寄りっ子」であった。
爆弾三勇士(ばくだんさんゆうし)とは、上海事変中の1932年(昭和7年)2月22日、蒋介石率いる19路軍の築いた鉄条網に突撃路を築くために爆弾を投入し、自らも爆死した久留米第24旅団の工兵、江下武二、北川丞、作江伊之助の三名のことを指す。当時彼らは賞賛されたが、実際には帰還に失敗した事故死であるという。(Wikipediaより)
「愛の学校 クオレ物語」は、同じ本に「母を訪ねて三千里」という別の物語も載っていたこともあり、何度も何度も繰り返して読み、見たこともないイタリアの田舎町に暮らす「ナイーブで心温かい」エンリーコに思いを馳せたものである。
おそらく祖父が僕に伝えたかったのは、この種の感動であり、生きていくことのディテールの大切さであったろう。
そこそこに賢明な人ではあったが、とにかく地味で、何十年も毎日同じ時間にでかけ、同じ時間に帰ってくるつまらないほど、短調で堅実なサラリーマン生活、大した出世もしなかった真面目一筋の生活をおくった祖父にふさわしい、僕へのメッセージだったのだと思っている。
ところが、最近になってこの「愛の学校 クオレ物語」について、気になる情報に触れた。それは、この本が学校国家・家族国家としてのイタリアを強く意識しており、そういった示唆に満ちた文章が溢れており、ムッソリーニの国家ファシスタ党のプロパガンダに使われたという説である。
例えば、主人公のエンリーコが母に連れられて慈善活動として貧しい女性の家に下着類を持っていく場面がある。そこには片腕が不自由な級友クロッシがいた。母は最悪な環境の中でも勉強を続けようとするクロッシに感動し、あの子にこそ一等賞をあげるべきであるという。そういった生活弱者たちがこの本の中では多く扱われ、彼らはその中でもイタリアの一員として学ぼうとし、働こうとしている。だから何不自由なく育つエンリーコのような少年は自分の環境に感謝し、学び、更なる強者としてイタリアの一員となるべく、イタリアという家族国家に奉仕するべく頑張らねばならないという「説教臭さ」が、言外に読み取れるのだという。
「ここでは、貧者と富者の厳然たる存在を既成事実として認めたうえで、そうした格差を生み出した社会には目を向けることがない。 ( 中略 ) 階層分離した社会を固定化したうえで、ブルジョア階層に主導権を与えながら融和を説くのである 。」
(「『 クオーレ』の時代―近世イタリアの子供と国家」藤澤房俊著より)
今までこうした観点でクオレを考えたこともなかった僕は、思っても見なかったムッソリーニの名前が出てきたことにショックを受け、同時にあの地味で堅実一筋の毎日をおくり、それでいて年始に僕を伴って靖国神社参拝を欠かさなかった祖父のイメージが重なった。
人生のささやかなこと。一つ一つの繊細な出来事。それを大切に暮らしていくのが、平和な庶民の日常だとするならば、そしてそれを守っていくのがそうした庶民の「役目」だとするならば、確かにそれは短絡的に批判される性質のものではないかもしれない。
だが、ディテールに宿るのは、あるいは繊細な日常を大切にし、そこにささやかな生きていく上での教訓を読み取ることは、いつも「安全な」こととは限らないのである。
教訓的な美談をそのまま受け取ることを、単純に危険視するのも、ファシズムという言葉に脊髄反射で反応するのも、また偏った態度であろうが、物事は幾つものレイヤーが輻輳的に、重層的にかさなって構成されていることを努々忘れてはならないと思う。
そう。ディテールに宿るのが、いつも神であるとは限らないのである。
そう思わないかい?
参考: 「『 クオーレ』の時代―近世イタリアの子供と国家」藤澤房俊著
2005 07 23 [書籍・雑誌] | 固定リンク | コメント(8) | トラックバック
愛すること。自由であること。孤独であること。
愛すること。
自由であること。
孤独であること。
人を愛することで、自由になるのか。
それとも
人を愛することで、自由でなくなるのか。
人を愛することで、孤独になるのか。
それとも
人を愛することで、孤独でなくなるのか。
自由であれば、孤独になるのか。
それとも
自由であれば、孤独でなくなるのか。
自由だから、愛することができるのか。
それとも
自由だから、愛することができないのか。
孤独だから、愛することができるのか。
それとも
孤独だから、愛することができないのか。
孤独だから、自由なのか。
それとも
孤独だから、自由でないのか。
愛すること。
自由であること。
孤独であること。
誰も愛さなければ、
あなたはとても自由になるはずだ。
誰からも愛されなければ
あなたはとても自由になるはずだ。
それでも愛されないといけないのか?
それでも愛さなければいけないのか?
誰からも愛されないことを選び
誰も愛さないことを選び
その結果が深く冷たい孤独であっても
そのとき、とても自由かもしれない。
それはそんなに惨めなことだろうか?
もしも私が人に倦み
人の住むこの世界に倦み
そうした生き方を選んだとして
そうした考え方を選んだとして
自由を手に入れたことを喜んだとして
(こんなに孤独な自由であったとしても!)
その結果私がとても深い闇を感じたとしても
その結果私がこれ以上呼吸をすることにさえ倦んでしまったとしても
そのことで、私は誰かに何かを責められる理由があるだろうか?
あるわけはない。
そんな理由はあるわけはない。
(こんなに歪んだ自由であったとしても!)
愛すること。
自由であること。
孤独であること。
いつまでも関係が明かされない
深い迷いの森に
私達は住んでいる。
2005 07 23 [恋愛] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
July 21, 2005
アポロが月に行ったことを含め、確かなことは何一つない。
今から36年前。1969年7月20日。アポロ11号が月面に着陸した年だ。
あの騒然たる1969年。月面の「静かの海」にアームストロングが降り立ったのだ。この日ばかりは、全ての日常生活を、とりあえず停止することが許された記憶がある。おそらく日本中の小学校で、職場で、この世離れした宇宙飛行士がスローモーションのように月面にふわりと降り立ち、星条旗を立てた映像を食い入るように見つめていたはずだ。その瞬間だけは、この世界の喧騒は暫しの間凍りつき、全ての動きを止めた。
月面に立てられた星条旗は、なびかなくて滑稽な気がした。風が無いのだから、空気がないのだから当たり前だ。
アポロ11号は、人類が初めて、月に足跡を残したときに利用した宇宙船である。アポロ計画で8番目(有人では5番目)に打ち上げられた。地球から打ち上げるために利用したロケットはサターンV型、月着陸船をイーグル、月の軌道を周回する司令船をコロンビアと呼ぶ。
船長のニール・アームストロング、司令船パイロットのマイケル・コリンズ、着陸船パイロットのエドウィン・"バズ"・オルドリンの3名が乗り込んだこの宇宙船は、1969年7月16日9時32分(現地時間、以下同)、アメリカ合衆国のケネディ宇宙センターにて打ち上げられ、7月20日4時17分40秒に月の静かの海に着陸した。
7月20日22時56分15秒、船長のニール・アームストロングが、人類で初めて月面に足跡を残した栄誉を手に入れる。そのときの第一声は「これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ。」であった。
その後、2時間30分あまりの月面活動を経て、7月21日13時54分に月面を出発。7月24日12時50分に無事に地球に帰還した。なお、帰還の際、アポロ11号は月面に立てた星条旗を噴射によって吹き飛ばした。 (以上Wikipediaより)
と思っていたら、星条旗が確かになびいていたという証言をしている人もいる。これがいわゆる「アポロ計画捏造説」の一つの根拠にされているらしい。僕の記憶の中の星条旗は確かに針金を通した、まやかしもののように、動かず水平に静止していたと思うのだが、何しろ遠い遠い過去の記憶だ。定かではない。
アポロはその後17号まで打ち上げられ、飛行中に事故が起こった13号を除く全てが月面着陸に成功している。
だが、1969年の喧騒は、アポロ計画すらかすめさせてしまうようなものだった。
●東大安田講堂陥落
70年安保を目前にして大学紛争のクライマックスを迎えた年。全共闘が占拠していた東大安田講堂に、機動隊8500人と警備車700台が突入。立てこもった500人の学生が火炎瓶や投石で激しく抵抗し、374人が逮捕された。数年に渡って続いた学生運動の気運はこれを機に失速していく。
●新宿フォークゲリラ
毎週土曜日に新宿西口広場で開かれる「反戦フォーク演奏会」(いわゆる「新宿フォークゲリラ」)が、若者たちを中心に大いに盛り上がったが、交通の邪魔になるとして警察から禁止を言い渡された。抗議には7000人もの若者が集まったが、機動隊によって鎮圧され、フォークゲリラは新宿西口から排除された。
そして、僕は東京の小学校で日教組教育にどっぷりとつかり、後に共産党に入党する若い女性の教師から、革命寸前の熱気をまともに授業で受けていたのである。女性教師は、僕たちをいくつかのグループにわけ、班単位で競わせた。班は絶対であり、班の中に落ちこぼれた子供が出れば、それは班全体の責任とされた。
僕達は毎日、毎日、夕方遅くまで、なぜその子が授業を理解できないのか、自分達に彼を救うために何ができるのかを、徹底的に考えて書面で提出することを求められた。
教室には、各教科の成績が班毎に掲示され、棒グラフになっていた。北朝鮮の金日成は、アジアの生んだもっとも優れた政治家であり、北朝鮮は世界でもユニークで希望にあふれた国家を建設していると、授業で教わった。
実際、つい最近まで僕は、この時に受けた北朝鮮への羨望にも似た何ともいえない眩しいような思いから逃れられないでいたのだ。
無残な話である。
あの遠い、遠い記憶。
1970年、日本万国博覧会(大阪万博)開催。そしてその年の6月23日、日米安保条約は自動延長された。
確かなこと。確かなことは何一つ無い。
安保が自動延長されたことの、意味。
アポロが月に行ったことの意味。あるいは行かなかったかもしれないことの意味。
僕が日教組教育を受けていたことの意味。
6422万人を集めた大阪万博の意味。
北朝鮮が理想の国家ではなかったということの意味。
いや、確かなことが一つある。
「僕らが生まれてくるずっとずっと前にはもう、アポロ11号は月に行ったんだってね。」(ポルノグラフィティ)
は、少なくとも僕の世代の歌ではないということだ。
僕は7月19日に生まれた。年は違うが、アポロが月に行く前日だ。
【関連記事】
アポロ11号から36年、今度はGoogleが月に進出~「Google Moon」開始
月面で何が起こったか? ~アポロは本当に月に行ったのか?~
2005 07 21 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(11) | トラックバック
July 14, 2005
Googleの才気と狂気------Gmailから始まるナーバスな未来
いい加減にしなさい!!!!
日曜日の朝だと言うのに、けたたましい物音で目を覚ます。
台所から、また祖父母が言い争う声と駆け回る足音がする。
祖母の怒りの矛先は、祖父が後生大事にこの50年間も保存しているメールボックスに向けられているのだ。いつもの風景だ。
祖父は、メモリがたったの100GBしかない旧式の大事なウェアラブルPCを抱えて、いつものように庭先を逃げ回っている。それを祖母が壊そうと追いかけまわす。
ここ何十年も繰り返されてきたいつもの、老夫婦の年中行事。だからといって、何も日曜日の朝でなくてもいいじゃないか。僕は、うんざりするのも疲れ果てた。また毛布をかぶる。
だいたい、祖母はわかっていない。
祖母が目のかたきにしている、祖父の宝物のようなメールボックスは、あの骨董品の腕時計のようなウェアラブルPCにはない。21世紀の初頭から、驚異の急成長を遂げた、あのカエルの鳴き声のような名前の会社の、世界最大級のデータセンターの一角に保存されている。そこに祖父の一生の全ての記録が収められているのだ。
祖父17歳。高校生の時に隣のクラスの女の子にもらった初めてのラブレターメールも、祖母と結婚する直前まで繰り返していた、アラスカに転校した遠距離大恋愛の相手との、祖父いわく異様に盛り上がったメールのやり取りも、あの巨大な会社のビルの地下にある、100億Tバイトとも噂されるディスクに、全てが収められているのだ。祖母の手の届く距離ではない。
祖父は、それを後生大事に何度も何度も検索してはその空間に浸り、戻ってこない青春を繰り返し懐かしんでいるだけだ。罪は無い。何も祖母も、そんなささやかな祖父の楽しみを、そこまで憎悪しなくてもいいではないかと、ぼんやりとした頭で思う。
もちろん、彼女の気持ちもわからなくはない。全ては、僕の生まれる遥か前、2005年に彼らがスタートした、この会社のGmailと呼ばれる稚拙なサービスから始まったということだ。それこそ当時は画期的なニュースだったらしいが、その時、こんな未来をいったい何人が描いただろうか。
それまで、無料メールのメールボックスなんて、せいぜい数10MBだったものを、このカエル会社は、一気に2GBまで拡張した。
#おもちゃみたいな容量だ。今思えばね。
「2,000 MB の容量が用意されているため、メッセージを削除する必要はありません。」
というのが、当時の彼らのキャッチフレーズだった。笑っちゃうだろ。
僕は知らないが、それまでメールなんてものは、適度に溜まったところで、順に消去していくものだったらしい。第一、それほど大量のメールを保管していたら、すぐにメールボックスがぱんぱんになって、動かなくなってしまう。仮に数千通もメールをキープできたとしても、どこにどのメールがあるのか探すだけでも一苦労だったということだ。
ところが、「カエル会社」は、この二つの壁を両方とも取り払った。
2005年に2GBでスタートした彼らのメールサービスは、その翌年にはすぐに5GBまで拡大した。さらに次の年には一気に10GBになった。そんな大容量のメールボックスを全人類に割り当ててしまえというのが、この会社の当時の経営陣の見た夢だった。
幾らなんでも、これだけの容量を、1人の人間が一生かかっても使い切れるわけはない。そう思っていた大半の人々の予測はすぐに裏切られた。
広大なメールボックス空間を得たメールシステムは、インターネット2、インターネット3の上で加速度的に進化し、メールに動画、音声を添付するのは言うまでもなく、2015年ごろには、巨大な3Dデータのメッセージを添えて遅れるようになった。
クリスマスには、メールから飛び出したサンタクロースの3Dアニメ-ションが、あなたの彼女の部屋の空間一杯をステージとして、ジングルベルを歌い踊るようになったのである。
1人当たり10GBというメールボックスはすぐに消費され、人々は新しいメールボックス空間を欲するようになった。
もっと、もっとメールボックスを!
そして、2020年ごろまでには、今祖父が後生大事に使っている、スーパー級のメールボックス、1人あたり10TBという気の遠くなるような膨大なメールボックス空間が、ほぼ全世界のユーザーに割り当てられるようになったのである。
こうなると人々は、全てのメールを捨てないようになった。送信したメールも、受信したメールも、そしてそのメールに添えた全てのデータも、生きている限り、人生の記録として永遠に残して置くようになったのである。
それどころか父のメールも、母のメールも、ありとあらゆるメールが保管されるようになった。
メールボックスの破裂的膨張とともに、この会社も急激に成長し、世界の主要都市のほとんどに、メールを保管する巨大なディスクを並列した堅固なデータセンターを置くようになった。
人々は、自分の一生の記憶を、この電子の要塞に委託し、全てを彼らの管理に委ねた。そしてこれも彼らが与えてくれる、超高速の検索システムで、その膨大な自分の人生の記録の中から、楽しかった思い出につながるメールだけを引き出し、その3Dの空間に浸り、何回も何回も回顧にふけるようになったのである。ちょうど、僕の祖父のようにだ。
考えても見て欲しい。あなたが17歳の時に、どきどきしながら触れた隣のクラスの彼女の当時の姿がそのままに、50年後のあなたの部屋に深夜立体画像でよみがえるのである。あなたは、このシステムの魔力に抗し切れるか?僕なら「断然NO」だ。
恍惚とした表情でメール空間に浸る祖父の顔を見ていると、その巨大なメールボックスがもしも何かの理由で、消滅したり破壊されたりしたら、祖父はもちろん、いったい世界中の人間はどうなってしまうのかと思う。何重にもセキュリティが施され、万全の備えで運用されているという、彼らのデータセンターが、万一テロリストの手に渡ったら、全人類は、その全ての大事な人生の記憶を彼らの胸先三寸に置かれるという、悪夢のような事態が発生するんだ。
考えただけでも身震いがする。
これも噂なのだが、昨年までにはこの会社の経営層の殆どのメンバーが、昔サウジアラビアと呼ばれていた中近東一体の、ある名家の出身者で占められるようになったという、まことしやかな噂もネット上に流れている。
僕は近代世界史に詳しくないので、その家の名前までは良く覚えていない。ただ、遠い昔、米国と呼ばれていた一帯に、壊滅的な被害を与えたのは、彼らの祖先であるということだ。米国で設立されたこのカエルの鳴き声のような会社も、いつか彼らに買収され、その後幾何級数的にメールサービスが拡大されたのだと、物知り顔のオタクな友人に聞いた。
でもそれが僕に何の関係があるんだろう?
さっきまで晴天だった空は急に曇り始め、いやな感じの風が吹いている。
コメディショーのような祖父母の追いかけっこを、眠い頭の隅で追いながら、僕には何か不安が心の隅から立ち上がってくるような気がしていたが、もう一度睡魔を貪りたい欲求には勝てなかった。
そうそう、その会社の名前は「Google」って言うんだ。祖父の時代に生きる君は知っているのかな?
・・・・眠くなった。おやすみなさい。もう一度ちょっとだけ眠ってから、またメールするよ。
もちろんGmailで。
【ご注意】
言うまでもないとは思いますがこの記事は全てフィクションですので、ご了解ください。
【参考記事】
・噂のGoogleの1GBメールサービス「Gmail」を最速レビュー!
・はてなダイアリー Gmailとは
・各種GMail Hackまとめ(アルカンタラの暑い夏)
2005 07 14 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
July 10, 2005
かつて「テロリスト」だった国にあって思う。-----「対テロ戦争」はシャドーボクシング。
ロンドンのテロについて考えるとき、この悲惨な許すべからず犯人の所業に直面しても、こだわっておきたいのは、連発される「対テロ戦争への勝利」という言葉。
9.11以来、「対テロ戦争」は米国ネオコンの謳い文句となり、その文脈でアフガン戦争がなされ、イラク戦争が実行された。おそらく今回のロンドンのテロについても、ブレアのポジションはともかくとしても、ブッシュは、「対テロ戦争」の一層の強化を、ここぞとばかりに関係各国に対して強調してくることだろう。
一方で、アフガンでは少なくとも3,700人のアフガン市民の命が失われたといわれる。
イラクでは1,700人の米国兵が死に、10万-15万人ものイラク人の命が失われたとされており、アフガンとイラクを合わせた戦費は朝鮮戦争と同程度の3,500億ドルに上っている。
仮に今回のテロがアルカイダの所業だとして、米国もしくは、それに追随する各国(当然日本を含む)のこれほどまでの「攻撃」にも関わらず、一体テロどころか、アルカイダ1組織ですらなぜ殲滅することができないのか。
カナダのモントリオール生まれの ジャーナリストであるナオミ・クラインは、この「対テロ戦争」について、その運営するサイト「NOLOGO」において
国際的対テロ戦争は政府が反対派を一掃するための口実である
として、以下のように述べている。
「テロリズムは建物を破壊するだけではない。政治地図から他の全ての問題を一掃する。現実のそして誇張されたテロリズムの亡霊により、世界中の政府は、自分たちが行なっている人権侵害の調査を免れることになる。 」
「対テロ戦争は、米国政府がローマや英国のモデルに従った古典的な帝国を建設しようとするための見え見えの口実だと、多くの人が論じてきた。対テロ戦争の聖戦が始まってから2年たった今、それが誤りだったことが明らかになっている。ブッシュと取り巻きのギャングたちは、ただ一つの国でさえ上手く占領できていない。10ともなるととても無理であろう。しかしながら、ブッシュとギャングたちには、素敵な売買人のがんばりがあり、どうやって契約すればよいか知っている。そうしてブッシュは、「対テロ戦争」を、世界支配の「ドクトリン」ではなく、簡易組立式のツールキットとして、反対派を一掃して権力の拡大を図るミニ帝国に売り込んでいるのである。
「対テロ戦争が、伝統的な意味での戦争であったことは一度もなかった。そうではなく、万能反対派浄化装置の市場にあらゆる政府が簡単にフランチャイズ参入するためのある種のブランドのようなアイディアなのである。我々は既に、対テロ戦争が、国内でテロ戦略を用いるグループ、例えばハマスやコロンビア革命軍(FARC)に対して使われていることを知っている。けれども、これは、対テロ戦争の最も基本的な使い方であるに過ぎない。対テロ戦争は、いかなる解放運動や反対運動にも適用されうる。さらに、自由に、望まない移民や厄介な人権活動家、さらには取り除きにくい調査記者にも適用されうる。」
イスラエル首相アリエル・シャロンは、ブッシュのフランチャイズに乗った最初の人物である。彼はホワイトハウスの公約たる「根元から雑草を引き抜き、大元からやっつける」という言葉通りに、イスラエルがパレスチナで占領している地域にブルドーザーを送り込んでオリーブの木を根こそぎにし、戦車を送り込んで民間人の家々を破壊した。破壊の対象は、まもなく、こうした攻撃を目撃している人権活動家や、支援活動家、ジャーナリストにも及んだ。それからまもなく、スペインでもう一つのフランチャイズ店がオープンした。スペイン首相ホセ・マリア・アスナールが、対テロ戦争を、バスクのゲリラETAから、バスクの分離主義運動全体へと拡大したのである。分離主義運動の大部分は、完全に平和的なものである。アスナールは、バスク自治政府との交渉要求を拒否し、政党バタスナを禁止した(ニューヨーク・タイムズが6月に報じたように「バタスナとテロ行為との間には何の直接的関係も認められない」にもかかわらずである)。アスナールはまた、バスクの人権団体、雑誌、唯一の全面バスク語新聞を閉鎖した。昨年2月、スペイン警察はバスク中等学校協会を捜索した。テロとの関係があると非難してのことであった。
ここには、ブッシュ式戦争フランチャイズの真のメッセージを見てとることができる:撲滅することができるのに、なぜ政治的反対派と交渉しなくてはいけないのか?対テロ戦争の時代には、戦争犯罪や人権への憂慮は全く問題にならない。 」
この新たな規則を注意深く検討した者の一人に、グルジア大統領エデュアルド・シュワルナゼがいる。昨年10月、対テロ戦争の名目で5人のチェチェン人の身柄をロシアに(法的手続きなしに)引き渡した際、彼は、「反テロリスト作戦の重要性を前にすれば、国際的な人権責任など青ざめるだろう」と述べている。
インドネシア大統領メガワティ・スカルノプトリも、同じメモを手にした。彼女は、インドネシアの恐ろしく腐敗し残虐な軍を浄化し、手に負えない国内状態に平和をもたらすと約束して政権の座に就いた。全く逆に、彼女は自由アチェ運動との交渉を拒否し、5月、豊富な石油を産出するこのアチェに侵攻した。1975年、東チモールを侵略して以来の、インドネシア軍最大の軍事作戦である。
(NOLOGO 2003年8月28日の記事
「致命的なフランチャイズ 国際的対テロ戦争は政府が反対派を一掃するための口実である」より ※日本語訳は益岡賢氏の評論より)
「致命的なフランチャイズ」の輸出元に、日本がエントリーされつつあることは言うまでも無い。現在自民党で進行している憲法改正要綱案における「自衛軍」は、この米国のフランチャイズを受ける受け皿としての国際的な軍事行動を基盤にしている。
「撲滅することができるのになぜ政治的反対者と交渉しなくてはいけないのか?」
この言葉が言おうとしていることは何か。アルカイダなり、テロリストなりを「撲滅することができる」という信念は、「対テロ戦争」を遂行する大きな米国の「国是」となっている。この「国是」故に、多少の読み違い----つまりイラクにおいて大量破壊兵器が存在しなかったとか、ファルージャにおける多少の「読み違い」----テロリストだと思って発砲した相手の多くは普通のイラク市民であったとかいうことは問題にされない。
さらに多くの人はアルカイダ兵士の捕虜が収容されているグアンタナモの米軍基地における捕虜の処遇を想像するかもしれない。
何しろ、相手はいつか「撲滅できる」し「撲滅しなければならない」、市民社会を根本から否定し市民の命を脅かすテロリストなのである。
目的のためには、手段に内在する多少の問題などは無視することは、米国のとってきた常套手段であるし、これは東京大空襲や原爆投下で日本に対しても向けられた視線でもある。つまり、そうした表現がなされたかどうかは別として、まさしく当時、大日本帝国は米国にとっての「テロリスト」であったのである。
そして正しくひとたび「テロリスト国家・日本」は壊滅状態に陥れられたのであり、この文脈の通りに、「撲滅」させられたと言ってよい。
だが、こうした意味においても尚、日本は国家だったのであり、あれほど深いジャングルに行く手を阻まれゲリラに手を焼き、結局は敗退を強いられたベトナムですら、対象は正しく「国家」だった。
しかしアルカイダは、あるいはロンドンを攻撃した「テロリスト」は国家をベースにしていない。対象とする「テロ行為」は「特定の国家」に冠していないし、もちろんイスラム教徒という宗教的コミュニティにも軌を一にはしていない。
文頭にあげたような大量の殺戮兵器の投入と巨額の戦費と膨大な時間にも関わらず、テロに対してこれまで有効に戦えているとは誰も証明できないし、今後の見通しもない。
警戒度を少し下げただけで、的確なポイント攻撃をされたロンドンの事態は、そうした意味で今後何度でも繰り返される危険を孕んでいるわけであり、旗旗さんが言及されておられる通り、一連の戦争の過程における、特定の国家の「罪なき市民」が、たまたま「効果的に」殺されたからといって、テロリストを問答無用に糾弾し暴力の反撃を浴びせるのは、問題の中心に正しく迫っているとは言いがたい。
※パレスティナで緩慢に殺されていく多くの市民が一方にいることは忘れてはいけない。
ここで肝心なことは、「対テロ戦争」の有効性は、極めて疑わしい事態になっているという冷酷な事実なのである。ナオミ・クラインの言う
「撲滅することができるのになぜ政治的反対者と交渉しなくてはいけないのか?」
は紛れもなく、パレスティナや9.11あるいはアフガンやイラク、その他における現在の米国の姿勢である。
しかもそれは勝利を収めることができないとしたら、かの国の国家的損失にも繋がり、さらに既にこの戦いに参加することを強いられている日本にとっても、もちろん対岸の戦争ではないのである。とてつもない浪費と空虚を「対テロ戦争」は戦わなければならないことになる。決して終わりも勝利もない戦いである。まさしく「シャドーボクシング」である。
それが薄々とわかっていながら「対テロ戦争」を、自らの手についた血を隠しながら喧伝することで利益を、あるいは政治的「成果」を得る一群がこの地球には生息しているのはナオミ・クラインの言うとおり、確かなことであろう。
救いに思うのは、テロを「憎み」テロを「打ち負かす」ことにより「勝利を収める」という思考方法ではなく、テロを生み出している構造に対する、外交・経済的方法を含めた包括的な対処を主張する言論は決して小さな声ではないということである。
今回のロンドンの事件の後で上がってくる多くのエントリーには希望があると思う。
にも関わらず間違えてはいけないのは、この過程で安易で稚拙な日本的平和主義を金科玉条のように持ち出すことは厳に避けなければならないと思う。
「テロに対する対処」の中身から軍事的要素を取り払うこと自体が、今日の世界では非現実的であり、極端な非暴力主義は、米欧の危機感の前には所詮は被保護国家の世迷言にしか聞こえないであろう。
それを正面に置かずとも、「シオニストの十字軍」という括りからは明らかに距離を持つ日本にこそできることは相当あるのであり、貧弱な軍事により、彼らに曖昧に寄り添わなくても、テロリストに対して、否、アルカイダなどのイスラム過激派に対して、「勝利を収める」のではないWin-Winのしたたかな戦略を探ることはできるはずである。
その多くは、西欧を相手に互角以上に戦った「追い詰められた経験」を持つ日本でなければ、あるいはできないことなのではないか。
ベトナムのジャングルよりも広大なサイバー空間に電子的広がりを持ち、国家的構造を持たない現代のテロに打ち勝つことは軍事のみでは永遠にできないかもしれないが、その発生構造を破壊することは、例えば、この膨大な戦費の数分の一で、アルカイダメンバー全員とその家族を、国際的平和的事業に雇用することによっても解決できるかもしれないのである。
まんざら冗談にも思えないような戦術に見えるのだがどうだろうか。このあたりにヒントはないか。
複雑に見えても世界の問題の大半は貧困に起因しているのは確かであるから。シャドーボクシングよりはましではないか。
2005 07 10 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(6) | トラックバック
July 08, 2005
七夕の夜に-------あなたと私のリアル
七夕の夜に怒れる者が人を傷つけたニュースを聴く。
この世界には怒れる者がいる。
私達にその怒りを届ける術は、こうしたことのほかないのか。
それは確かな現実。
思えば現実に一時の中断もない。
それも確かな現実。
リアルであれば目に見えるというものではない。
目に見えないからといってリアルではないわけではない。
だからこうして、
よりによってこういう夜に限って
その血なまぐさい姿を見せ付ける。
ベガとアルタイルの間の距離は15光年。
怒れる者と、傷つけられた者との間の距離は
何光年あるのだろうか
あなたと私は人が人を殺す惑星に住んでいる。
それがあなたと私のリアルだ。
2005 07 08 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック
July 04, 2005
「意志の勝利」が残した記憶----久しぶりにレニ・リーフェンシュタールを思い出した。
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菊地成孔という人のことをあまり知らなかったのだけれど、今夜の「情熱大陸」で見て、へー。才がほとばしる人はうらやましい。などと平凡な感想を持ちながらぼーっと眺めていたのだけれど、その中で、彼がちょっと音楽と平和に関しておもしろいことを言っていた。
質問は、「音楽に平和をもたらす力があると思うか」とかそんなものだったのだけれど、彼はそんなものは全然ないですよ、と否定してその根拠として、第二次世界大戦で米国が勝った理由の一つはスウィングジャズだったと言っているのだ。
二次大戦の時に、スウィングジャズの絶大な戦意高揚効果があったのに対して、ベトナム戦争の時はそうしたものがなかったどころか、音楽を反戦の方向に走らせてしまった。ベトナム戦争の敗因の一つは、音楽を味方につけられなかったことにもあるのではないか。つまり、音楽があれば平和になるとか、幸せになるなどという考えは間違いで、そんなことを言うのは、お金があれば幸せになりますというのと同じくらいに、実に頼りのないものである。音楽というのはどう利用するかというところが肝心なのであり、所詮そんなものではないのか、というようなものだった。
僕は第二次世界大戦にスウィングジャズが果たした役割について詳細に解説する知識はないけれど、それなりに説得力のある面もあった。
音楽だけではなく、芸術と戦争や平和との関係に関して、あるいはイデオロギーに関して言えば、忘れられない映画がある。それは1934年にレニ・リーフェンシュタール監督によって製作されたナチ党の全国党大会記録映画「意志の勝利」である。
「リーフェンシュタール監督はこの映画の監督をヒトラー自身から直接依頼された。主演・監督を務めた映画『青の光』に感動してのことという。リーフェンシュタールの自伝によると、宣伝相ゲッベルスの嫉妬を買いたくなかったし、ヒトラーの提示した「意思の勝利」というタイトルが大仰で芸術性のないことに嫌悪を感じたこともあって、最初は断ったという。しかし結局はヒトラーの非常な熱意と、題名以外は自由に製作させるという約束に動かされて監督を引き受けることになった。」(Wikipediaより)
「意志の勝利」を見る機会があったのは、もうずいぶんと昔。まだ大学生の頃だった。そのころある小ホールの支配人をしていた火宅の父が、珍しく招待をしてくれて、友人達を誘って出かけたのである。
「意志の勝利」に描かれたのは、ナチズムの強烈な存在感と、貫かれた徹底した様式美である。ナチズムの善悪について考える余裕もなく、観客はレニの卓越した、しかも隙のない演出手法に息を飲む。
「リーフェンシュタール監督は撮影・編集にあたっていくつもの独創的な技法を考案した。たとえばヒトラーの演説のシーンでは半円形に敷いたレールの上に置いたカメラでヒトラーを追い、様々なアングルから同じ被写体を捉えながらも見る者を飽きさせずに高揚させることに成功している。他にも大胆なクローズアップによって群衆の中の一人を切り取って見せ、それによって見る者もまたその全体の中の個であるかのような臨場感を抱かせたり、ヒトラーの飛行機によるニュルンベルク到着を冒頭に置くことによって雲の中から降臨する神・絶対者のイメージを想起させるなど、様々な手法で党大会の高揚感を伝え、また新たに作り出すことにも成功している。」(Wikipediaより)
圧倒的迫力を持つヒットラーの演説場面。ふと気がつくとすすり泣きが聞こえる。隣を見ると、友人達に混じってその日一緒に来た女の子が、ハンカチで目を押さえていた。後から聞くと、ヒットラーの演説にすっかり「やられて」しまい、訳がわからないままに感動して涙が出てきたということだった。音楽やデザイン、言葉に非常に鋭敏な感性を持つ人だった。
そして彼女は当時の僕の恋人でもあった。僕は、そのストレートな感性にたじろぎ、戸惑った。
だがわかる部分もある。論理とか正義とか、人間とか言う前に、レニの映画に描かれたヒトラーの演説は確かに悪魔的な魅力があった。論理はそれこそ空っぽなのだが、打ちひしがれたゲルマン民族の誇りを取り戻せと繰り返し繰り返し、単純な短い言葉を繰り返す彼の演説いや絶叫は、確かに聴く者を奈落に引きずり込むような迫力に満ちていた。それは認めざるを得なかった。
父は、映画の終了後、近くの喫茶店に友人達を招待し、「この世でもっとも邪悪なものが、もっとも美しいものを生み出すことがある。つまり美しいものが正義であるということはないのである」というような話をしてくれた。父にしては珍しく芯の通った、ある種ジャーナリストらしい発言だった。
後から帰りすがら、彼女に父の印象を聞くと、ただ一言「手があなたに似ていた」とだけ言ったので、思わず自分の手を眺めたことを覚えている。
菊地成孔のスウィングジャズの話を聞いた時に、このヒトラーの演説場面とそれを撮影したレニのことを久しぶりに思い出したのは、少々唐突と言えば唐突だが、父との数少ない思い出の1場面でもある。
美しいものが時にもっとも邪悪なものに味方することがある。--------
音楽や映像、芸術に限らずイデオロギーの美や一貫性を過度に求める姿勢に対しても、その危険は秘められているような気がしているのだが、それはまた別の機会に。
●レニ・リーフェンシュタールは、「意志の勝利」の他、ベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」などの撮影により、ナチスに協力したという烙印を押され、戦後は長く冷遇された。米軍、続いて仏軍に逮捕され収容所で尋問、拘禁、精神病院に収容され、非ナチ審査機関で「ナチの政治責任なし」とされるも「ナチの同格者」と格付けされる。1970年代以降、アフリカ、ヌバの人びとを撮影した写真集と、71歳のとき、年齢を51歳と偽ってダイビングのライセンスを取得し撮影した水中写真集の作品で、戦前の映画作品も含めて再評価されたが、2003年9月8日に101歳で没している。
●ご存知の方もあろうが、この7月9日より東京地区で封切られる「ヒトラー最期の12日間」にも注目している。