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August 17, 2005

BBと10回も書かれては・・・---笑

●たゆたえど沈まずー考察(1)に「引きずり出された」感じ。(笑)

多くの人にとって、「内面」と「外面」には、あるいは「主観」と「客観」にはそれほど確固とした(あなたほどの)堅牢な壁はないのではないだろうか。

意見の表明、的外れな(と本人も後から気づくような)反論、感情に走った「飛躍」、怒りに任せた「断定」、勘違いに引きずられた「脇道」。
実際の世界の住民はこうした混沌の汚泥の中で左右に惑ううちに、(もちろん呪われまくった末に)いつしか言葉は「落ち着くべきところに落ち着いていく」のだと思う。
無駄といえば無駄なのだけれど、そんな場合にも「言葉の赴くべき場所」が、あらかじめ予測され尽くしているのではないのだから、こうした「無駄」も時間と精神力が許せば、やってみてもいいのではないかというのが、僕の基本的考え方である。そういう意味では「苛烈な寛容」でいいと思っている。
だが、整然とした決め打ちの苛烈と揺らぎのなさは、SP氏の強力な個性であり、おそらく氏にはこれらの混沌のプロセスに付き合うこと自体が苦痛を伴うのではないだろうか。

先のエントリー「「ガメラ3」から「亡国のイージス」までの6年----「暗喩」としての戦いの終わり」などのような「飛躍のミーイズム」を偏重している自分としては、誰も達することのできない混沌を抱えている自覚があり、そうした場合の客観性はゼロに近いと思っている。ではここで誰かが「ガメラ3」と「亡国のイージス」との間には何の関係も読み取れないぞという「意見」を寄せてきたらそうですか、というのみ。どう関係があるのか議論にしたいと言われれば、もうエントリー以上の「説明」の意図を持たない。

「あれで終わり。ごめんね」

と微笑むのみ。(たとえば・・ですよ。あれはあれで終わりじゃないかもしれない)

自分の言説の周囲に「公共」が作られることこそ苦痛な面もある。変わり者志向か。

ただね、テーマによるな。政治的なテーマの場合には、それが「公共を動かす」可能性がゼロであれば提示されることすら意味がないと思う。だから「非人道的・・」のような場合には勤めて「公共に昇華されうる」だけの客観性は装備しようとしているつもりである。努力してね。

「NEETをどう見るか」が「問題」になり得るとすれば、賢明なるSP氏はお気づきのように、経済的・税制的な角度以外に、「精神的な」あるいは「人道的な」あるいは「哲学的な」側道からのゲートを「NEET問題」自体が多く持っているため。そしてその1つ1つに思い入れが持たれやすいため。その側道はあなたのエントリーの主旋律とは明らかに噛み合わないのだけれど、反者は、その個々のゲートの持つ吸引力に抗しきれないのだと思う。逆に言えば、このテーマが深いからこそ。
まあ、「NEET」への精神的距離のようなものが、色濃く反映することは否めない。主旋律がなんであったとしても。副旋律の部分でね。
「NEET」に悪戯っぽくからめば、まだ誰もここで提示していない突拍子もない論点から反駁することも可能。節操のないBBとしては、そんな誘惑にも駆られるテーマなのだ。
それがあなた方2人を「呪いはじめた」(笑)

さて、BB的には自己を、いささか勝手に「差別されてきた少数者である」と自分を位置づけており、同時に「いつか誰かを差別するかもしれない」危険も内在していると思っている。デフォルト自分の提示する価値は常に「差別者」によって潰されるという被害妄想を持っているために、常に公共に警戒心を持った「主観」の提示しかできないとも言える。そうしなければ「潰される」「丸め込まれる」という余裕のない危機意識がぬぐえない。勢い、提示の仕方は時として暴力的であるし、挑戦的かもしれない危うさがあるのは周知のとおり。BBはそうした「手法」でしか「自己を提示」できないのである。まあ、私のことはいいとして、SP氏にもどこかそうした切羽詰った姿勢を感じるときがあるのだけれども、どうだろうか。(で、BF氏には感じないんだ。こういう部分を。)
精神文化の情景は、生まれてから何十年もの時間を経て養われる。SP氏には絶対と相対を峻別しつつも、強烈な主観がどっかりとその心象の中心に鎮座しているように思う。だが、BBはそれをもってして、「あなたの言論も客観的ではないではないか」などとは言わない。そもそも客観への信頼が薄いからである。事由は先に書いたとおり。

BF氏は前のエントリーでも触れたけれども、整合性のプロセスにこだわる。それに特有のバランス感覚も持っている。言葉が主観と客観の狭間で揺らぐという面は見てとれるけれど、それも論者BFの特徴。BF氏の「個性」であり、僕はそれを批判する観点を持たないし、それがそれほど重要なこととも思わない。「なるほど」と思うのみ。氏の「状況」も見つつそう思う。
もう一つ言えば「誰を評価する」「評価しない」というのもあまりない。もちろんいいエントリーには感動するし、それを連発する人には敬服する。不味いもの(笑)にはあらあらと思う。僕の時間はこの無限の「あらあら」で成り立っているのだ。これも前に書いたように自分も含めて「人格の連続性」を信じていない。だから寂しいのかもね。苦笑。

BUN氏の件の轍が深いというのは、まだ多くの人たちがこのことを、それぞれの立場で反芻しているからですね。

SP氏と僕はあのとき、たまたま「同じ側」に立ったが、その心象はだいぶ違っていたと思う。僕はブログ運営という「精神的自由」や「管理者としての自由」という問題にはあまり興味がなかった。喧嘩の内容にも介入もしないし、どちらにもつかないがあの「喧嘩のやり方」に激したのだ(それも自分でも驚くほどに!)。BUN氏にさっさと「詫びて」というのも、いわば「喧嘩の戦略」の示唆。急に「飛躍」するが、そうした自己のあり方の延長に、戦後の日本を見ているし、小泉政権を見ている。ここは「やり方」を見ているのだね。SP氏がこの「やり方」にそれほど執着せず、エンドの価値を見つめて小泉政権を「評価する」というのは、それはそれでよくわかるのだ。というかBF氏との論戦を通じてあらためてこのことがよくわかってきたように思う。

ああ、あなたの「挑発」に応えて、また思い切り「反芻」してしまった。嘆。

引きずられるように出てきた事由のもう一つ。ああまで書かれては言及しないわけにいかないじゃん。もう。(笑)

●リンクのこと(笑)

巡回するサイトは、ここでリンクしたものの数倍ある。それらはRSSで読んでいるだけのこと。リンクを貼る基準は、やはり相手のサイトに貼っていただいている場合、あるいは頻繁に訪れてコメントしていただいているといつか名前を覚え、「貼ろう」とこれも唐突に思い、一気に時々貼る。そういうことである。でも実はあんまり基準はない。だから貼ったからどうとか貼っていないからどうとか言及されるのは一番困る。(BF氏にだけではない。SP氏にもだよ!)
じゃあ、貼っていない人はどうとか言われてもこれも見当はずれで、RSSのほうで「徹底マーク」(笑)しているけれど、表でリンクしていない場合もあるし。悪かったね。大人の世界はいろいろあるんだよ、なんてね。まあ、あんまり気にしないほうがいいね。

そう言いつつ僕も「なんでこの人リンクしてくれないかねえ!」と思う人いるよ。あなただよ、そこのあなた!。(笑)わかるでしょ。(僕もリンクしていないけど!)

今日はちゃんと記事にリンクしよう。少しでも「公共」に対峙するために。

【参考記事】
●たゆたえど沈まず--NEETをどう見るか
●たゆたえど沈まず--断定と飛躍

●ペーパーライセンスボクサーの司法試験日記

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