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August 29, 2005
自民党のブロガー会見(番外)-------自民党広報本部長への質問
このひとつ前のエントリーでも触れたGripBlogの泉あいさんからメールをいただいて、世耕広報本部長への質問を出してくれとのこと。泉さんは先日の「自民党主催メルマガ/ブロガー懇談会」に、「非招待者」として出かけていって、詳しいレポートや出席者の発言ログまでアップして下さって、頭が下がることしきりなのだが、何でもその後
自民党総裁の小泉さんへ取材交渉しましたが断られ、
それなら代理を立てて欲しいと申し入れましたが、やはり断られていました。
それで、先日世耕さんへ直接お願いしたのですが・・・。
ナント!8月29日に、自民党の世耕弘成参議院議員が、自民党の代表して単独インタビューを受けてくださることになりました。
ということで世耕広報本部長への質問を呼びかけることにしたとか。
明日お会いになるということで、どうしようかと思ったが、今日の明日でマニフェストをにわか勉強で読み込んで郵政民営化に関して気の利いた質問が僕に考えられるとも思えず、また世耕氏が広報本部長でいらっしゃることも考えて、下記の2つの質問を泉さんにお持ちいただくことにした。
実際問題、朝日や読売の記者が、「明日、与党の広報本部長に会うが、お前、何か聞きたいことがあるか?」などと声をかけてくれるなんていうことはあり得ないのであり、そういうところの新鮮さこそが、ブログ時代の核の部分だと思う。
質問は2つ。
1つは、郵政反対派の自民党への選挙後の復党の問題について。
もう1つは、公職選挙法とネットとの関係についての再質問。(これは、先日の懇談会でも質問の1つにあがっていたのだが、世耕広報本部長の答が少々本質から離れていたように思ったので再度聞いてみたいと思ったわけだ。
明日、どのくらい時間があるかわからないし、おそらく多くの質問を携えていかれるだろうから、私の質問を実際に泉さんが世耕氏にぶつけることができるかどうかはわからないが、駄目元でも、少しでも公的にしようと思い、あらかじめ公開エントリーを立てておくことにした。もしも世耕氏から回答をいただくことができれば、またとりあげようと思う。
#うーん、何だかこれも広い意味で自民党に乗せられているようにも思いますがそれは別として、泉さんのエネルギーには感服。がんばって行ってきてください。
【以下 世耕自民党広報本部長への質問】
(1)武部幹事長は27日夜、和歌山のほうで行った講演の中で、郵政民営化関連法案に反対し非公認となった前衆院議員に対し「立候補を今回は断念し(対抗馬の)公認候補を応援してください。そしたら今にも自民党に復党(復帰)できるのではないか。血も涙もないのではない」とおっしゃって立候補断念を反対派に求められています。
同時に「離党しないで立候補すれば永遠に自民党に戻れない。必ず除名になる」ともおっしゃっているのですが、そこでお聞きしたいのですが、自民党の場合、こういうケースでの除名、あるいは復党に関する基準は、党規約で明確に定められているのですか?
除名のほうは、おそらく規約があると思いますが、復党を許すことについては、それらの人たちが当選して自民党に戻ることで議席を確保できるという理由以外、非常にわかりにい部分がありますが、復党の際に決まっている手続きや基準などがあるのか、ないとすればどういう観点で復党を許すのか、ここのところが明示できることは重要だと思いますがこれについていかがですか?
(2)先日のブロガーやメールマガジンを主催する方たちとの懇親会の中で、世耕広報本部長は公職選挙法とネットの活用の問題に関して、「我が党の中で非常に心配の意見が出るのは、誹謗中傷が行われるんじゃないか」というようなことを言われているのですが、むしろネットと公職選挙法の関連はデジタルデバイドの問題が主眼ではないかと思いますが、このあたりの見解はいかがですか?
選挙運動の手法が公職選挙法によって厳しく制限されているのは、財力等によって選挙活動が左右され、候補者間の平等が図れなくなるという理由が基本理念だと思いますが、インターネットによる選挙運動が、デジタルデバイドによる有権者間の政策情報格差を生む危険性を唱える反対論があると思います。インターネットを使いこなせるか否かで、政治判断が左右されるという危惧です。
ですがこれはもう少し古くなってきていて、これだけネットが普及し、ブログのようなものが出てきていて、自民党でもそれに耳を傾けようという時勢になっている。
その中で、古くからあったデジタルデバイドを公職選挙法の中で、ネガティブにこれからもとらえるのか、それとも、それはもう過去のものとして、飛躍的に普及したネットを活用した手法として、法の規制枠を考え直していくのか、こうした観点からの見解をお聞かせ願えませんか?また世耕議員は大変にこの点積極的でいらっしゃるのはわかりますが
他の自民党の議員の皆さんの一般的な感じ方はどんなものか、お話いただけませんか?
2005 08 29 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
August 28, 2005
自民党のブロガー会見(2)-------やっぱり呼ばれてから行くだけでは駄目だろう。
初期のニュースのインパクトから考えると、終わってみれば何だったのだろうという感じは拭い去れないのだけれど、報道されている内容によると、「呼ばれた」ブログは12。メールマガジンは17。メールマガジンは経済寄りのテーマを持つものが目立ち、ブログの顔ぶれもさすがに無難というか謎というか、悪い言い方をすれば「よくバランスをとっている」が、株式投資関連のメルマガがいくつも入っているのは、何か思惑があるのかと首を傾げるし、呼ばれたブロガーのサイトを巡回し、どれとは言わないが、訪問後のレポートが情けなくはしゃいだだけで終わっているものを見ると「あーあー」と嘆息する。(文末参考リスト参照)
ちょっと「へえ」と思ったのは、最初にこのニュースを知るきっかけになり、また詳細なレポートを上げてくださったGrip Blogさんは、このうちの12に入っているけれど、何と「呼ばれた」のではなく、自ら申し込んで参加したのだと言うことだ。
そのせいなのかどうかわからないが、Grip Blogさんのレポート「自民党主催メルマガ/ブロガー懇談会の報告」は、取材対象に対していい距離感を保っているようで、そのモチベーションの確かさとあわせて感心して拝見した。
この試み自体の発案者はどうも元NTTの参議院議員でもある世耕広報本部長のようであり、
「やはりメディアとして、無視できない存在になっていると私たちは実感しているから、今回やろうと決めさせてもらいました。
ただ、別にブロガー協会があるわけでもないですしね(笑)どうやって選ぶか非常に困ったのですが、スタッフがみんなで手分けをして、アクセス数の多いブログとか、過去、雑誌に紹介されてきたようなメルマガの中で選びました。
決して自民党フォローの方を呼んだわけではなくて、かなり中立的に真面目にやっておられるなと思えるところを独断と偏見で今回ご招待させていただいたという訳でございます。」(GripBlogより)
ということである。
また
確かに、自民党を擁護したり称賛したりする発言はなかったと思います。でも、自民党と遣り合おうという姿勢の人もいませんでした。最初から最後まで和やかな空気が流れていたことは確かです。(同上)
とも。
聞けば、自民党総裁の椅子に座ったり記念写真を撮ったり、まあ、ちょっと何だかなあというような雰囲気だったらしく、ある意味でこちらの期待を「予想通り裏切ってくれる」部分もあったわけだが、「ブロガーに対して向き合う姿勢を見せる自民党」という自民党の先進性アピール戦略は、これまでのところ、成功していると言わざるを得ない。アンチ自民・アンチ小泉の僕としては、民主党の奮起を望みたい。
それは別として、GripBlogさんを見ていて思ったのだけれど、やっぱりこういうものは「呼ばれて」行っては駄目でしょう。いや、今回は最初だし、「呼ばれて行った」人をどうこう言う気はないけれど、呼ばれるということは、最初から何だか「この私に良く声をかけていただいた」なんていう相手に対する負い目というものがあるような気がするというか、ある意味、その段階で、もう相手に取り込まれてしまっている感じがするわけだ。
進行も、相手のペースにならざるを得ないし、総裁室で記念写真なんて恥ずかしい場面になっても「いや、僕はそういうことでは来ていませんから」などとはなかなか言いづらい雰囲気になろう。
ブロガーの力が注目されたなどという感想は今のこのシーンで全て否定する気にはならないけれど、やはりこうしたことは「取材する側」が主体的に仕掛けていかないと、単に相手の宣伝に利用されて終わりということになってしまうのだというシンプルなことを、あらためて感じてならなかった。
僕にしても何だか僻みっぽいお茶らけたエントリーを、先にあげてしまったけれど、GripBlogさんでなくても、「参加してしまう」手立ては、冷静に考えればあったわけだ。それは敢えてそういうことは思いつかなかったし、モチベーションとしても発想としてもなかったわけだけれど、いつまでも自民党のやり口に感心していないで、ブロガーとしては相手をブロガーの取材に「引きずり出す」くらいのポジティブなものを持って望まないと、米国におけるブログジャーナリズムの状況には、大きく隔たりがあるなあと思うのみだ。
実際米国に対しては批判的なエントリーが多い私だが、向こうのジャーナリズムのこうした面での懐というか腰の強さ、主要ブログではなくても取材に向き合わせて当たりまえだというある種の自信のあり方-----こうした部分がネオコンの監視体制としてはまだまだ機能していると思うので、余計に自分も含めて日本のBlogsphereも、いい意味で成熟していかなければならないと思う。
やっぱ呼ばれてから行ってるだけでは駄目だろうと。
とにかく今は、「呼ばれてもいないのに」参加したフリージャーナリスト、GripBlogさんのポジティブな姿勢に学んだと同時に拍手を送る。乗せられずに「引っ張っていく」心意気が感じられたことにも賛意を。
【参考】参加したブログとメールマガジン一覧
(「マスコミからクチコミの時代へ」--自民党がブロガー、メルマガ発行者と懇親(CNET))より
●ブログ
・はなまるライターの小冊子作成・活用術!
・Hotta World:: 「活・喝・勝」
・社長日記(「知恵の総合商社」←旧:商社マン日記)
・「ノーリスク起業予備校」の要点ノート
・【ミナログ】製造業社長の逆襲
・グロービス堀義人blog「企業家の風景」
・社長の成功日記
・「日刊リウイチ」
・たむたむの自民党VS民主党
・ビジネス情報取引所-BIE-(ブログ版)
・Grip Blog
・情熱起業列島~西川潔が起業を語る~
●メールマガジン
・がんばれ社長!今日のポイント
・株の秘訣!!『デイ・短期』
・花岡信昭メールマガジン
・トークに使える 日経新聞 今日のネタ
・マーケティング発想源
・株式新聞メールマガジン
・メルマガ新規開拓なくして成長なし
・株式最新情報館
・知識をチカラに!
・はてなメールマガジン 週間はてな
・忙しいあなたの代わりに新聞読みます
・甦れ美しい日本
・片手間で副収入!新規公開でガッポリ儲ける方法!
・時事用語のABC
・ビジネスブレーンストーミング
・株・為替で1億円!財布がパンパンになる¥塾投資講座
・メルマガ成功法~メルマガ専門のコンサルタントの秘策
【参考リンク】
●自民党主催メルマガ/ブロガー懇談会の報告(GripBlog)
http://www.surusuru.com/news/archives/Entry/2005/08/26_0402.php
●YESプロジェクト発足第一日目の風景~自民党とブロガーとの懇談会にも参加(堀義人blog)
http://blog.globis.co.jp/hori/2005/08/yes_a7a8.html
●「マスコミからクチコミの時代へ」--自民党がブロガー、メルマガ発行者と懇親
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20086691,00.htm
●「【速報】自民党、ブロガー巻き込み戦術を加速」(R30::マーケティング社会時評)
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/08/ldp_blogger2_f7d0.html
●ブログ/メルマガ作者と自民党幹部との懇談会:参加者一覧表(tracker's burrow)
http://blog.so-net.ne.jp/tracker/2005-08-26
2005 08 28 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
August 25, 2005
自民党のブロガー会見---別に出たいわけじゃないって。
今夜の7時だって?
http://www.surusuru.com/news/archives/Entry/2005/08/24_1510.php
宣伝のお先棒をかつぎたくはないが、正直ちょっと驚いた。
手ごわい政権だ・・・。
他でも言われていることだが、「特定のブロガー」ってどうやって決めたの?
ヒトラー呼ばわりしているBigBanはともかく、standpoint1989さんは招いてもよかったんではないか?最近の言論をみる限り・・(などと、ちょっと嫌らしくふってみる)
【某読者の声】
どっちも失格。直情・喧嘩っ早過ぎる。(爆)
【参考リンク】
●緊急!!自民党 武部幹事長、安倍幹事長代理への質問募集
●自民党がブロガーを集めて会見するだって?!(R30:マーケティング社会批評)
●デスカミサードたちの首相(たゆたえど沈まず)
【追記】
ここに招待メールがアップされている。冷静に読めば「会見」ではなく「メルマガ/ブログ作者と党幹部との懇談会」なんだね。
2005 08 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
ガ島さん、わからん。-----経営者と政治家の兼任について
ガ島通信さんが
のエントリーで、前半では
個人的には、政治家が社長というのは、メディアとしてどうだろうと思っているので、当選すれば移転します。一応、他のサービスのIDは取得済みですが、ライブドアには慣れていて使いやすくなっているので、何かきっかけがないと「動けない」もので…
と言い、その同じエントリーの後半で
追記(8月21日) R30氏が「政治家ホリエモンをなめてはいけない」のなかで、『「報道機関の長が選挙に出るってどうよ?」というめたか氏の話だが、僕は「いいんじゃないの、別に」と思う。表に出てくるだけ大した度胸だ。昔から選挙の裏で報道機関と政治家がどう離合集散してるかなんてのは、表に出てこないだけでいくらでもある話だ』と書かれています。確かに、ナベツネ、シマゲジ(この二人は著書で公言しているし…)など、国政レベルから地方政治まで報道機関と政治の癒着はいくらでもあるのですが、政治に近い(客観だと表では主張しながら、ある政治的な意図を持っているのが問題)ということと、経営者が政治家そのものというのはかなり違うと、個人的には考えています。
と言っているのは、なに????
僕の頭が悪いのかガ島さんの頭が混乱しているのか、どっちなのかわからないが、結局政治家と経営者の兼任に反対なの?賛成なの?
それとも「メディアの経営者」だと駄目で、一般企業はOK?
相変わらずのたくった文章でわからないよ。ガ島さん。
それともみんなはわかっているのか?
この程度の話はコメント欄に書けばいいんだがLiveDoorのID取得したくないのでTBで。
2005 08 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
シングルイシューの行き着く廃墟---ポピュリズムは自ら大衆を愚弄する
生きにくい時には、まず自分に直近の小さな問題から片付ける。
それが終わったらそれよりももう少し大きな問題を片付ける。一つの問題に関わっているときにはその問題の肩越しに見えている、より厄介で大きな問題には目を向けない。
この生きにくい世を互いに生きている身である。個人が自分の人生の困難にこうした手法で立ち向かおうとしたところで、あながち非難されるには値しないであろう。
だが、これが国政であればどうなのか。複雑にからんだ問題の束を選挙戦略のために一つに括り、「これが争点だ」などと、おこがましくもプレゼンテーションする。これは戦略である限りは非難されない。勝たねば政治家はただのヒトの子であると言う人もあろう。
シングル・イシュー・ポリティクス。
シングル・イシュー・ポリティクスは、竹中のブレーンが言うごとく「IQのあまり高くない」かもしれない民衆を、単純な(に見える)1点集中の政策論争に参加したような錯覚にさせて、自らの陣営に利をもたらす------この目的に、現在のところ最大に近い効果をあげているように見える。
だが、政策論で見た場合のシングル・イシュー・ポリティクスには実態がない。その「戦略的効果」は決して低く評価されるべきではなかろうが、それと政策としての中身とはまた別の話である。土台、馬鹿げすぎた試み。国政選挙において、争点をシングルイシューに特化して戦おうという政党の誠意の無さ、その欺瞞性はなぜもっと暴かれないか。
自信を持った国政運営を行った現政権であるならば、外交、社会保障、福祉、経済、そうした総合的な成果をもってして信任を問うのが当然の姿勢である。
だがしかしあの日、この希代のポピュリストはほくそえんでいたことだろう。
「最高のタイミングで解散できた」と。
●確かに小泉改革には大いに評価すべき側面もある。
日米戦争第2ラウンドの日本の成功を支えた国家資本主義体制は、その本質的部分に多くの腐敗の芽を蔵しており、政界、官界、経済界、各地の地方エゴの代表者たち、各界利益代表圧力団体が、そろって国家システムから甘い汁を吸いつづけ、腐臭をはなつ人々が日本のエリート層の中枢にたくさんいた。
その体制の中核となっていた自民党に対して「自民党をぶっつぶす」という小泉首相の改革のスローガンには、なるほど国民の共感を呼ぶ部分が少くなかった。しかし、小泉首相は、腐敗しながらも、この国家を基本的に繁栄させてきたこの国のシステムをぶっこわしたあと、それに代わるどのようなシステムを構築しようとしているのか、それがまるで見えてこない。
なるほど破壊者としての小泉首相はそれなりにすぐれたパフォーマンスを見せてきたが、破壊のあとに必要となる建設者としての小泉首相の姿も、ビジョンもまるで見えてこない。
(中略)郵政改革PRのために、国と特別契約を結んだ竹中平蔵郵政民営化担当大臣の知人が経営するPR会社が提出したPR企画書の中に、郵政改革PRは、老人、女性など、“ちょっとIQの低い人々中心に進める”という一文があったのは有名な話だ
●郵政民営化をIQのあまり高くない層」にフォーカスして合意形成すべき
郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略(案)
http://www.tetsu-chan.com/05-0622yuusei_rijikai2.pdf
●日本のメディアにおける新自由主義のマインドコントロールはすさまじい。小さな政府が自明の善のごとく前提とされている。すべてを市場化した時に日本の社会がどうなるのか、冷静な議論がまったくない。また、郵政民営化というシングルイシューで選挙を戦い、他の重要な課題については白紙委任というのでは、小泉は単なる独裁者になる。
まず小泉に「破壊」をさせて、その後で「再構築」する余裕は今の日本にはない。およそ選挙の「唯一の争点」に郵政はなりえないのである。それであればなぜ、小泉自民はそれを企てるか。事由はシンプル。それが現政権の勝ちうる唯一最大のテーマに見えるからであり、ポピュリズムの王道を厚顔に歩もうとしているからに他ならない。
この政権は末期に望んでも、終に郵政以上の武器を発見することはできなかったのである。そして彼らは終に「それを」見つけて狂奔して進んでいる。そこにあるのは目下の選挙戦略しかない。悲しむべきことに「その後の独裁すら」望んでいない究極の無責任政権のありようは、思えば靖国への対応にあり、中韓への対応にあり、北鮮への対応にあるそのままのかたちがそのまま現れたに過ぎないのである。
「郵政民営化」の芯に流れている、「民にできることは民へ」などとといった単純デマゴークにより、それに賛成しないことには、あたかも全ての改革が進まないかのように見せかけるこの人物の動機が着々と成果を挙げている様を見るのは耐え難い。
論議の結末をマスメディア批判で終わらせることはBigBan的には潔しとしないが、伝えるものにこそ変革者よ出でよ。
「刺客」だの「くの一」だの愚につかぬコピーワークに現を抜かす輩よ。貴方たちのいるべき場所は政治メディアではない。「週刊大衆」である。(再出・楽屋オチ)
新党・日本に対して「それは数あわせではないのですか?」などと、カメに向かって「それは甲羅ではないのですか?」と言うに等しい近い愚問を発する輩よ。貴方たちの働くべき場所は現代政党政治の国家ではない。数合わせの無い共産中国である。
なに困難ではないはずだ。政策を伝え、君たちの言葉で「真の争点」は何なのか、我々「愚かな大衆」に伝えるべきである。
思えばヒットラーすら第三帝国の未来を彼なりに死の直前まで夢見ていたのである。それが狂気の夢だったとしても、だ。
小泉にはそれすら感じられない。小泉の目に映っているのは、夢見ているのは、廃墟の国家に立つ「改革者コイズミ」の彫像である。
【その他の参考リンク】
●皆さん読んだ方がいい「海外メディアが伝えた小泉・郵政解散劇の評判」(雑談日記--徒然なるままに)
●Dead Letter Blog 「シングルイシュー」の欺瞞
●シングルイシューの行き着く廃墟(2)---わずか数十万人と呼ぶ豪儀な非情
2005 08 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
August 17, 2005
BBと10回も書かれては・・・---笑
●たゆたえど沈まずー考察(1)に「引きずり出された」感じ。(笑)
多くの人にとって、「内面」と「外面」には、あるいは「主観」と「客観」にはそれほど確固とした(あなたほどの)堅牢な壁はないのではないだろうか。
意見の表明、的外れな(と本人も後から気づくような)反論、感情に走った「飛躍」、怒りに任せた「断定」、勘違いに引きずられた「脇道」。
実際の世界の住民はこうした混沌の汚泥の中で左右に惑ううちに、(もちろん呪われまくった末に)いつしか言葉は「落ち着くべきところに落ち着いていく」のだと思う。
無駄といえば無駄なのだけれど、そんな場合にも「言葉の赴くべき場所」が、あらかじめ予測され尽くしているのではないのだから、こうした「無駄」も時間と精神力が許せば、やってみてもいいのではないかというのが、僕の基本的考え方である。そういう意味では「苛烈な寛容」でいいと思っている。
だが、整然とした決め打ちの苛烈と揺らぎのなさは、SP氏の強力な個性であり、おそらく氏にはこれらの混沌のプロセスに付き合うこと自体が苦痛を伴うのではないだろうか。
先のエントリー「「ガメラ3」から「亡国のイージス」までの6年----「暗喩」としての戦いの終わり」などのような「飛躍のミーイズム」を偏重している自分としては、誰も達することのできない混沌を抱えている自覚があり、そうした場合の客観性はゼロに近いと思っている。ではここで誰かが「ガメラ3」と「亡国のイージス」との間には何の関係も読み取れないぞという「意見」を寄せてきたらそうですか、というのみ。どう関係があるのか議論にしたいと言われれば、もうエントリー以上の「説明」の意図を持たない。
「あれで終わり。ごめんね」
と微笑むのみ。(たとえば・・ですよ。あれはあれで終わりじゃないかもしれない)
自分の言説の周囲に「公共」が作られることこそ苦痛な面もある。変わり者志向か。
ただね、テーマによるな。政治的なテーマの場合には、それが「公共を動かす」可能性がゼロであれば提示されることすら意味がないと思う。だから「非人道的・・」のような場合には勤めて「公共に昇華されうる」だけの客観性は装備しようとしているつもりである。努力してね。
「NEETをどう見るか」が「問題」になり得るとすれば、賢明なるSP氏はお気づきのように、経済的・税制的な角度以外に、「精神的な」あるいは「人道的な」あるいは「哲学的な」側道からのゲートを「NEET問題」自体が多く持っているため。そしてその1つ1つに思い入れが持たれやすいため。その側道はあなたのエントリーの主旋律とは明らかに噛み合わないのだけれど、反者は、その個々のゲートの持つ吸引力に抗しきれないのだと思う。逆に言えば、このテーマが深いからこそ。
まあ、「NEET」への精神的距離のようなものが、色濃く反映することは否めない。主旋律がなんであったとしても。副旋律の部分でね。
「NEET」に悪戯っぽくからめば、まだ誰もここで提示していない突拍子もない論点から反駁することも可能。節操のないBBとしては、そんな誘惑にも駆られるテーマなのだ。
それがあなた方2人を「呪いはじめた」(笑)
さて、BB的には自己を、いささか勝手に「差別されてきた少数者である」と自分を位置づけており、同時に「いつか誰かを差別するかもしれない」危険も内在していると思っている。デフォルト自分の提示する価値は常に「差別者」によって潰されるという被害妄想を持っているために、常に公共に警戒心を持った「主観」の提示しかできないとも言える。そうしなければ「潰される」「丸め込まれる」という余裕のない危機意識がぬぐえない。勢い、提示の仕方は時として暴力的であるし、挑戦的かもしれない危うさがあるのは周知のとおり。BBはそうした「手法」でしか「自己を提示」できないのである。まあ、私のことはいいとして、SP氏にもどこかそうした切羽詰った姿勢を感じるときがあるのだけれども、どうだろうか。(で、BF氏には感じないんだ。こういう部分を。)
精神文化の情景は、生まれてから何十年もの時間を経て養われる。SP氏には絶対と相対を峻別しつつも、強烈な主観がどっかりとその心象の中心に鎮座しているように思う。だが、BBはそれをもってして、「あなたの言論も客観的ではないではないか」などとは言わない。そもそも客観への信頼が薄いからである。事由は先に書いたとおり。
BF氏は前のエントリーでも触れたけれども、整合性のプロセスにこだわる。それに特有のバランス感覚も持っている。言葉が主観と客観の狭間で揺らぐという面は見てとれるけれど、それも論者BFの特徴。BF氏の「個性」であり、僕はそれを批判する観点を持たないし、それがそれほど重要なこととも思わない。「なるほど」と思うのみ。氏の「状況」も見つつそう思う。
もう一つ言えば「誰を評価する」「評価しない」というのもあまりない。もちろんいいエントリーには感動するし、それを連発する人には敬服する。不味いもの(笑)にはあらあらと思う。僕の時間はこの無限の「あらあら」で成り立っているのだ。これも前に書いたように自分も含めて「人格の連続性」を信じていない。だから寂しいのかもね。苦笑。
BUN氏の件の轍が深いというのは、まだ多くの人たちがこのことを、それぞれの立場で反芻しているからですね。
SP氏と僕はあのとき、たまたま「同じ側」に立ったが、その心象はだいぶ違っていたと思う。僕はブログ運営という「精神的自由」や「管理者としての自由」という問題にはあまり興味がなかった。喧嘩の内容にも介入もしないし、どちらにもつかないがあの「喧嘩のやり方」に激したのだ(それも自分でも驚くほどに!)。BUN氏にさっさと「詫びて」というのも、いわば「喧嘩の戦略」の示唆。急に「飛躍」するが、そうした自己のあり方の延長に、戦後の日本を見ているし、小泉政権を見ている。ここは「やり方」を見ているのだね。SP氏がこの「やり方」にそれほど執着せず、エンドの価値を見つめて小泉政権を「評価する」というのは、それはそれでよくわかるのだ。というかBF氏との論戦を通じてあらためてこのことがよくわかってきたように思う。
ああ、あなたの「挑発」に応えて、また思い切り「反芻」してしまった。嘆。
引きずられるように出てきた事由のもう一つ。ああまで書かれては言及しないわけにいかないじゃん。もう。(笑)
●リンクのこと(笑)
巡回するサイトは、ここでリンクしたものの数倍ある。それらはRSSで読んでいるだけのこと。リンクを貼る基準は、やはり相手のサイトに貼っていただいている場合、あるいは頻繁に訪れてコメントしていただいているといつか名前を覚え、「貼ろう」とこれも唐突に思い、一気に時々貼る。そういうことである。でも実はあんまり基準はない。だから貼ったからどうとか貼っていないからどうとか言及されるのは一番困る。(BF氏にだけではない。SP氏にもだよ!)
じゃあ、貼っていない人はどうとか言われてもこれも見当はずれで、RSSのほうで「徹底マーク」(笑)しているけれど、表でリンクしていない場合もあるし。悪かったね。大人の世界はいろいろあるんだよ、なんてね。まあ、あんまり気にしないほうがいいね。
そう言いつつ僕も「なんでこの人リンクしてくれないかねえ!」と思う人いるよ。あなただよ、そこのあなた!。(笑)わかるでしょ。(僕もリンクしていないけど!)
今日はちゃんと記事にリンクしよう。少しでも「公共」に対峙するために。
【参考記事】
●たゆたえど沈まず--NEETをどう見るか
●たゆたえど沈まず--断定と飛躍
●ペーパーライセンスボクサーの司法試験日記
2005 08 17 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
August 16, 2005
「ガメラ3」から「亡国のイージス」までの6年----「暗喩」としての戦いの終わり
1999年に公開された、「ガメラ3 邪神<イリス>覚醒」は怪獣映画の中でも最高峰の出来栄えであったといって差し障りないだろう。
親を殺されガメラを憎む少女(中山忍)の怨念が育ててしまう邪神イリスが襲来し、渋谷駅や神社仏閣や落成間もない京都駅ビルを破壊しつつガメラと戦うクライマックス。
少女の親を殺したのは、ガメラにとっては避けられない戦いの中、止むを得ない出来事だった。たとえ正義の戦いの過程であっても、戦いは戦いである。その渦中に巻き込まれ、由なく命を落とす人々がいる。非業の最期を遂げる市民がいる。少女は、心の奥底でそれがわかっていてもガメラを許せない。その葛藤が氷解するまでの描写は見事であり、京都駅での少女とガメラの「和解」に至るまでの展開も見事であった。
この映画には、自衛隊が全面協力しており、最新の戦車や自衛隊の指令本部のリアリティが高いことにも驚いた。子供のころに見た怪獣映画にはない、「本物らしさ」と切迫感を映画に持たせることに成功していた。
「怪獣映画」という荒唐無稽とも言える設定の中に、現代の戦争の不条理を重ねることにより、監督金子修介 は、紛れもなく1999年という世紀末の世界の、軍備を描き、現代の人間の戦(いくさ)への思いを込めた。ガメラは好戦的で凶暴な「心ない野獣」ではなく、常に戦うことに逡巡しながらも殺戮を重ねていく巨大な存在であった。それは、米帝国の「戦」のかたちを確実に描いていた。
だが、そこに現実の国家は登場することはなかったのである。想像上の怪獣というフィルターにより、全てを描きながらも「暗喩」としての米国、「暗喩」としての戦争という以上の表現はなかった。いや、できなかったのだろうと思う。だから自衛隊は協力した。と思う。
時は流れた。福井晴敏に傾倒していることもあり、「亡国のイージス」を小説で読み、間を置かずに映画も見に行った。
ある意味当然であるが、小説によって描かれた世界は映画の何倍も濃密であり、流れる時間の意味、登場人物一人ひとりの人生、追い込まれるように国家への反逆という形をとっていく乗員達の苦悩と必然も映画では遥かに舌足らずであった。そうした意味では、映画「亡国のイージス」は、終にこの稀代の小説の鬼気迫る表現に並ぶことはなかったが、皮肉なことに、「物質的な」次元では、とてつもないリアリティを発散させていた。
それは実際の自衛隊の数十にも及ぶ部隊の協力(エンドテロップを見てほしい)、本物のイージス艦での撮影、轟音を響かせる対艦ミサイル発射のシーン(あれは撃ってるよな。絶対に。空砲としても)。皮肉なことに、観念の世界でのリアリティを獲得できなかった映画は、自衛隊の存在感、武器の重さ、迫力、体の底に響くような轟音と恐怖によって、まったく別のリアリティを獲得していたのである。
それはもはや「ガメラ3」で使われた「暗喩」ではない。さすがに小説では明記された現実の国家の名前は「某国」とされ、物語の最後に据えられた米軍の途方もない「裏切り」も映画では表現されなかった。(小説を読まず、映画だけを見た人にはぜひ小説の世界を再読することを薦めたい。)とはいえ、ここで描かれた「戦」は、架空の話ではない。現実に日本が所持する武器を用い、現実に自衛隊に身を置く数千あるいは数万の人々が協力し、現実にこの国が対峙する実在の国家との戦い、そして現実に現行憲法の下でこの国が重ねてきた戦後60年の時間の流れそして苦悩、そうした全てを盛り込んで出来上がった映画である。
そこには「暗喩」ではなく明確に日本国家の直面する「敵」と「戦」が描かれている。
物語は単純ではなく、さまざまな解釈ができるとはいえ、幹をなすのは現役自衛官のクーデターである。それに対して巨額の軍事兵器を提供し、このメッセージの送信に助力した「軍」を思うとき、そしてこの作品を世に生み出した日本の現状を思うとき、時代が来るべきところに、来るべくしてきているのだという思いがあらためてこの身を包む。
戦後60年。昨日は終戦の日であった。
【参考リンク】
スポニチアネックス「6年ぶり復活、ガメラの友情物語」
2005 08 16 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
August 13, 2005
YES-----人は通じ合えないけれど
YES。
人は通じ合えない。
YES。
あなたと僕の「文脈」も通じていないかもしれない。
だがこうも思う。
通じ合えない箇所を数えるのではなく、
せめて闇の中で通じた箇所を数えようと。
もしもこの世界がデフォルト暗闇であったとしても
無数の「文脈」のすれ違いであったとしても
ほんの時々、刹那の時間に誰かがあなたの「文脈」を読む。
ほんの時々、刹那の時間に誰かが僕の「文脈」を読む。
その瞬間に、瞬きの間に光るあの花火に未練があって
いろいろなことを諦めないで、まだ生きている。
人生が仮に70年であったとして
「惜しいなあ、短いなあ」と思うのは、
この花火を見ることのできる確率を
もう少し
ほんの少しだけ
上げたいと思うときなんだ。
もう少しだけでいいから。
この花火を見る時間を、あなたと僕に。
2005 08 13 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
呪文のような暑中いやもう残暑見舞。敬愛するブロガーズへ。
ここのところエントリーよりも人のブログを読むのが忙しく、TGさんのところで繰り広げられている展開や、SPさんとBFさんの高次な論争などを、しっかり見守っているわけだが(イニシャルでごめん。みなさん。大して意味はないが、なんだかそういう風に表現したい気分なので。そしてきっとみんなこれを読んでくれると思うので)
僕はもともと言語の役割、論理の構成要素として持つと期待されている役割(あるいは持っていると一般に思われている)にも、その意味的普遍性にも信頼を寄せられないし、おまけに人の「思想」なるものや人格の時間的継続性にも、そして心にも懐疑的であるという、きわめて「お寒い心象風景」を持つ寂しい人間なので、ここのレイヤーでは、ピュアに議論に参加できない。
言ってることをくるっと変えるのは、その鮮やかさにおいて自分にとって決してネガティブなことではなく、変節の瞬間芸には見とれてしまうことすらある。
過去にこだわらずに状況判断でくるっと変える。かっこいいじゃん。よく聞いておけ、森元首相。
こうしたところで、実は、元来人と議論をする基本的資格を欠いているのではないかと思う。
そのお寒い心象風景は、これも孤高の罵倒芸ブロガーHI氏に近いと言えば近いのだろうが、あれほどの罵倒の至芸もまたないのは本当に残念。
具体的な政策論や世情、思想についての批評めいたものを人と交わすことは辛うじてできても、その政策論や思想を構成している、より基礎的な概念や原理論、言語の定義に関わる議論になると、元来気が長くない性格だし、上に書いたような特殊な心象風景のせいもあり、ちょっと入っていけないなあと思ってしまう。
できれば僕以外のあまたある鋭敏なる知性が、一通り定義してくれればそれを「開発ツール」として借用しようかというずるい考えすらある。ごめん。
だからBFさん、全然迷惑なんてことはないんだよ。
つまり、こういうこと。
それが家屋であるとすれば、
「釘を貸してくれ」
と声をかけて
「釘と言ってもいろいろある。お前が定義する釘とはおれの定義する釘と同じなのか」
などといわれると
「面倒くせえなあ。釘って言ったら釘だよ。どれでもいいよ。」
と返してしまいそうであり、その結果
「どれでもいいというのはどういうことか。それでは最初に「釘をよこせ」と言った君の言動に対してあまりに矛盾のある行為ではないか」
なんて返されると
「俺は早くこの家作ってKー1を見るか、屋根で昼寝するかどっちかにしたいんだよ、いいから釘貸せ!」
なんてまた言ってしまいそうなわけだ。
で、その発言がまた
「ちょっと待て。釘の問題を先送りにしてK-1や昼寝の話にすりかえる君の変節は一体どういうわけなのか?まず釘のことを軽視した姿勢をわびてほしい」
なんて言われた日には、もう面倒くさくなってもうガチンコも放り出して、
「うるせー。俺は釘のことなんてもううんざりなんだよ!」
と町のスポーツバーかインターネットカフェに出かけてしまいそうだ。
実はあんまり気が長くない。
釘の取り違えについては、SPさんが「言葉と呪い」で的確に書かれていることでもあり(ホントか)、SP氏のこのあたりの無常観というか、色即是空なところは夏の光の中では神々しいほど切れ渡っていて一貫性の美があり、ああ、やはりこういうところは戻って見えても、変わらないなあなどと感心したりする。
BF氏の持ち味は、こうしたSP氏の孤高の神々しさに対して非常にヒューマンな、そしてプロセスをむしろ重視していくところじゃないかな。
SP氏の志向しているように見える「絶対的自由」に対してあなたは常に「プロセス」を重んじるように思う。それがあなたの言論の芯というか魅力でもあるわけだが、そうした意味でBF氏が小泉のプロセス破壊への嫌悪感を隠さないところは、とても理解できる。
実現する価値評価を最終的な成果物に対して絶対的に行うか、それともそのプロセスを相対評価するかの違いは、物事を考える上での流儀の違いとしては、よく見られるところ。テーマ以外にそこも見せてくれているという意味で、もっかの論争は十分価値があるし成果はあがっていると思う。SP氏は意外とイジラレて力を出す人だし。(笑)おっと失礼。
FA氏がこれを注目して見ていたのはよくわかる。FA氏の澄み切った言葉は独特で、その運用について驚くほど誠実だからだと思う。FA氏ほどその名にふさわしい人はいない。みんなそう思うでしょ。
対極で僕はやはりHI氏を思い出してしまう。
誠実に突き詰められた言葉が美しいのは当然としても、手毬のように無責任に宙に連射される罵倒の言葉もまた美しく見えることがある。罵倒が美しく見えるのはやはり才か。
「それしか言えないってのはどうなの?自分」とも思うけど。
何だっけ。
そう、言葉をめぐる話だ。。
最後になったけどTGさん。あなたの漂う言葉はいつも内省の途にある心を吐露しているように思う。思想ではなくてね。
今回見ていてもすごくわかるんだけど、親しい間でもそれがいつも通じるわけではないんだね。内省の特徴のひとつは論理的ではないこと。時空の矛盾をつかれてもね。これは内省ですよと言って、それが外に出ても僕はかまわないと思うよ。少なくとも僕はあなたのエントリーを、そういう読み方しているし。
人の漏らした一言に対峙するに、攻撃的かつ論理的にのみなすならばそれは昔は「総括」と言った。いつか人に接するに総括三昧になってしまうのは、左右いずれにも通じる悪しき慣習か心のあり方か。はなから内省の途にある人に向かって総括を迫るなら、これもまた噛み合わない話。少なくともあなたは総括を相手に求めていないのだし。
議論は必要。総括は不要。呪われたほうがましさ。
もって他山の石とすべし。私の場合はね。そして私たちも。
しかしBUN氏の残した轍は意外と深いなあ。
まだ書ききれなかった人がたくさん。たくさん。また書きます。
残暑お見舞い申し上げます。
さっきまで雷がすごかったよ。
#あえてどの記事にもリンクしません(笑)。しかも内容が粗々。訳わからない人いたらごめんなさい。っていうか誰にとっても全体的に訳わからんかな?
2005 08 13 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック
August 12, 2005
小泉首相の毒と蹉跌------森氏と干からびたサーモンに思う
久しぶりに「森氏であった」。
「おれに対して、こんな対応ですよ。さじ投げたな。私に何をしろって言うの。解散阻止なんかできないでしょ」
「かむんだけど、硬くてかめないんだよ」
などとぼそぼそ言いながら、なにやら干からびたスナックのような謎の食べ物を記者団に突き出して、ぼやいていたのは、森元首相である。
6日夜の首相公邸へ赴いた森氏にすれば、最後の談判だった。その一大事の夜に首相が差し出したのは缶ビール10本。
さかなは「これしかないんだよ」というひからびたチーズとサーモンだったというのである。
思わず吹き出してしまったが、
「変人以上だよ。それ以上は言わないけどな」
と口をつぐんだ森氏はそのあと何を言いたかったのだろう。
おそらく、あれはキ・と言いたかったが、またぞろ失言の森と言われるのが嫌で、土俵際でとどまったのだろうと思っている。
まあ森氏も多少は成長しているようであるが、
「変人」
は小泉氏が政権に就いたときから絶えず付きまとうこの人への枕詞である。で、それはどちらかというとポジティブな意味で語られることが多い。
「場合によっては自民党をぶっ壊す」と威勢よく登場してきたこの人に、かつて世論は極限に近い賛辞を送った。
今回の郵政民営化問題での衆院解散にも、賛意を表明する人も多い。
さすが永田町の「変人」小泉だと。
だが僕は、呻くように森氏が言いかけた、そう「小泉の狂気」について考えている。
このエキセントリックで強引な人物に何ごとかをなしうる器は果たしてあるのだろうか。
今回も、参院で否決されたにも関わらず、衆院を解散した。それは、参院を解散することはできないのだから、仕方がないと言う人もあろうが、内閣総理大臣の解散権を、自らの法案を曲がりなりにも可決した側の衆院を解散し、大差で否決した参院を放置する、そうしたことを平然とやってのける神経に、そしてやり口に、僕は底の知れない破綻的性格と、不気味なものを感じている。
そもそも、なぜ郵政法案は継続審議ではいけなかったのか。
ここで衆院の解散という歪な大鉈を振るう以外に手段のないような場面であったか。
歪な解散権の行使が、即明確な違法行為であるとは言えないとはいえ、この人物には何か、何かそう、人として大事なものが欠けているように思えてならない。
森氏ならずとも、この人にまつわって思い出される風景に、気持ちのよいものは何一つない。
・あまたある国家的大事の山積の中で、郵政の民営化に、終始執着し続ける政治家としてのバランス感覚
・拉致問題へのあからさまな冷淡と、先日の広島での原爆慰霊式における、これも干からびたサーモンのような挨拶
・一方で、過剰に寄せる特攻隊戦士への賛美と傾倒、身勝手な憂国。
・靖国神社参拝への並々ならぬ執着と外交感覚の致命的欠如。
・史上まれに見る米国盲従と明らかなウォーゲーム志向
・そして今回の「暴挙」(とあえて言う)
1つ1つを見ていくなら、彼の精神は矛盾だらけであり、気まぐれだらけである。
そして、冷淡と執着が不快な程度にミックスされた、その実何も合理的な信念を持たない、無駄な狂気、しかも危険な狂気を感じる。
この人物の文言の耳障りの良さに欺かれてついていくなら、いつかその道には、ぽっかりと「狂気の暗闇」が横たわっているような気がしてならない。
内閣総理大臣として求められる資質が彼にあるのか。
己の信念に従って理念を掲げ、それについてこれないものは去れ。
と景気はいいが、感情的でいきあたりばったり。矛盾だらけ。
個人の執着の度合いで政策執着。自分の党派の意志調整もできない、非合理的な感情的発言を積み重ねる首相は、この21世紀の国際社会で重責を担う国家の指導者としてふさわしいといえるのか。
守旧派と呼ばれる人たちを脅かしているのはまさにこの性格、この政治手法であるが、
その反感を私利私欲を守ろうとする抵抗勢力の見苦しさであるとの一点で一絡げにできるのか。
繰り返す。
この人物には何かが決定的に欠けている。
政治家としても、人間としても。
それがかつてない不安を世情にもたらしている。
擁護するわけではないが、守旧派の中にもカナリアはいるのではないか。
小泉という毒に対しての。
あんな森氏でも、干からびたサーモンは食べたくなかったのである。
決めた。
僕は郵政民営化には賛成であるが、今度の選挙はそれを根拠に判断することはしない。
小泉首相の破綻だらけの外交姿勢と「干からびたサーモン」が僕の判断基準である。
2005 08 12 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック
August 06, 2005
1945年8月6日8時15分-----問うことを放棄することだけが唯一の敗北である。
意識して起きたわけではないが、間に合った。
60年という時間の流れを経て、その時空の壁が静かに開く。
1945年8月6日8時15分
「あやまちは繰り返しませんから」
今年も、その言葉は繰り返される。
平和への思いを誓う子供たちの宣言
そして現実世界の汚泥に苦しむ広島市長の言葉
これ以上の事務的言葉があろうかと思われるコイズミの言葉
全てが、ヒロシマに開いた「時空の壁」に吸い込まれていく。
平和という言葉の意味。
戦争という言葉の意味。
非道という言葉の意味。
全てが。
誰のどの行為がどの時点から過ちであったのかと
問い続ける我の思考の意味。
全てが。
あの日のヒロシマには、確かにあなたが言われたとおり、色があったはずである。
あの日のヒロシマに飛来した者たちには、あなたが言われたとおり、確かに密かに罪の意識があったはずである。
それらはどこへ溶けていったのか。
それらはどこへ、散っていったのか。
問い続けて答が出ないからといって、問うこと自体を放棄してはならない。
口に出すことが甘美だからといって、覚悟無き平和を唱えてはならない。
おそらく、問うこと自体を放棄することだけが、唯一の敗北である。
おそらく、悲壮を覚悟しないところに、我らの言う平和は永遠に来ない。
1945年8月6日8時15分。
刻め。この時を。永遠に。
黙祷。
【参考リンク】
「モノクロとカラーと青空」(FAIRNESS)
「原爆を落とす側の論理」(深夜のNews)
【関連記事】
●卑小な我ではあるが------スティーブン・オカザキ監督を支持する
●「非人道的」とはどういうことなのか
2005 08 06 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(5) | トラックバック
August 05, 2005
卑小な我ではあるが------スティーブン・オカザキ監督を支持する
今年も8月6日が近づいてきた。
言うまでも無いことだけれど、この世に生まれてきて、理解のできないことは沢山あった。年を重ねるにつれて理解できるようになったことも多くあるが、逆に年を重ねるにつれて、一層理解できなくなってくることも、やはり多くある。
中でも原爆投下は、その最大の不可解と言ってもいい。
原爆投下については、「「非人道的」とはどういうことか」の一連のカテゴリーでも書いた。だがいくら書いてもその「なぜ」は行き場を得ることはできない。この世界に生まれてきて、この国に生まれてきて、僕にとって理解のできない最大の謎の一つと言っても過言ではない。
なぜ、あのような形で人は、ヒロシマで、ナガサキで死ななければならなかったか。原爆による死を「戦場における無数の死」と同一視することは許されない何かが、そこにはあるはずである。ましてや、日本がいかに戦場で「非道であった」としても、それは相殺されるべきではない。
とは言え、なぜ自分はこのように原爆にこだわるのか。その原爆投下という事実の苛烈にして不可解さを意識する人は、もちろん多くあろうが、ここでなぜ自分か。
ヒロシマに生まれたわけでもない。ナガサキに親族がいるわけでもない。ましてや、よく知る人がなくなったわけでもない。それにも関わらず、この拭い去れない巨大な非条理への、非人道への違和感はいったい何なのか。
あなたには、そうした瞬間はないかい?
テレビや新聞で原爆の記事を読むたびに、僕には「あの」(と表現することもおかしな話なのだが)地獄の業火が幾度も自分の身に、リアルに蘇るような思いにかられる。こうした形で追体験する人も多くいるのか。あるいは自分は少しどこか(やはり)おかしいのか。
僕のこの矮小な人生に、たとえ歴史に刻まれた人類的規模での被害とは言え、60年も前の出来事がもたらす不快感に、何かの接点や、意味や、メッセージがあるのだろうか。理解のできない、恐怖と嘔吐感は時間と空間と次元を超えて、なぜ訪れるのか。
1つにはこのあまりにも唾棄すべき行為を行った国の基本が、それをなした当時に比べて、あまりにも、あまりにも変わっていないとしか思えないことへの、恐怖と無力感、絶望感があろう。
少なくとも日本は、あれから変わった。
落とされた側が変わったのは、当然とすれば、ならば加害の徒はなぜ、なぜ変わらないのか。
日本の為した戦が、擁護される要素があったにしろ、告発される要素があったにしろ、この国はそのこと自体への意味を探しあぐね、ある者は罪の意識に過剰に苛まれ、ある者はこれも過剰に全てを正当化している。
だがはっきり言える事がある。この国がその記憶の処理に苦しんでいることである。それだけは、それだけは確かなことだ。このことにウヨもサヨもないのである。僕はそう思っている。靖国の問題はその発露の一端でしかない。
だが、彼の国はどうなのか。為した大罪の引き起こした戦慄の結果の重大さ。表現のできないようなその重大さにも関わらず、依然として核政策をその国の独占的「恐怖」に留めるべきとして、国際政治を左右しようとする基本的姿勢に、あれ以降、あの投下以降変化が見られたという明確な証拠を僕は持たない。
今でも原爆投下を、皮膚下1mm程度の浅薄さで正当化しようとする多くの米国民を目の当りにするたびに、深い絶望感が繰り返し訪れる。
そんな中で、そんな絶望的な不条理感の中で、細い、細い希望の光を感じるニュースがあった。
第2次大戦中に米国で起きた日系人強制収容問題を取り上げた記録映画で、91年にアカデミー賞(短編ドキュメンタリー)を受賞した日系3世米国人のスティーブン・オカザキ監督(53)が4日に来日し、広島と長崎への原爆投下をテーマにした長編ドキュメンタリー番組の撮影を始める。2年がかりで撮り、番組は07年春、全米にケーブルテレビで放映される予定だ。
「原爆投下は戦争終結のために必要だった」と今でも広く信じられている米国で、被爆の実像を詳細に伝える番組が全国放映されるのは珍しい。
オカザキ監督は今回、被爆60年の式典が開かれる広島と長崎に入り、被爆者の証言や市民の表情を撮る。年内にさらに3回来日。来年は主に米国で、原爆を設計、投下した米軍関係者らを取材する。番組は約90分。
監督は82年に在米日系人被爆者らをテーマにした映画を公開して以来、被爆者の生の声を米国民に伝える本格的なドキュメンタリーを撮ろうと、長年、「計画をあたためてきた」という。「被爆60年の今だからこそ語ってもらえる被爆者に多く出会いたい」と話している。 (2005年8月3日 朝日新聞より)
1995年、スミソニアン航空宇宙博物館で企画されたエノラ・ゲイを中心とする原爆展が、議会や軍人会の圧力で中止に追い込まれたことは記憶に新しい。
現在の米国にあってこうした表現活動をすることへの、想像できないようなプレッシャーがあること。オカザキ監督にどれほどの抵抗が待ち構えているかということもまた、容易に理解する。
米国は、そして米国民は、「このこと」から長い間にわたって目をそらし続けてきた。時には圧力ともいえるような方法まで用いて、このことに向かい合うことの勇気を頑なに避け続けてきた。だが、戦後の日本に多くの「未処理事項」があるというのであれば、ヒロシマは、ナガサキは、今でも続くこの国の最大級の「未処理事項」であると僕は思う。
何よりも、「核」は今でも極めて「現実的な問題」として、そこにあるし、あり続けている。そして彼らは今でも「あのときの米国」であり続けているのだから。
朝鮮半島の追い詰められた国家に、核放棄を迫るのであれば、オカザキ氏の作品に、今度こそ、今度こそはまともに向き合ってもらいたい。これは反省を迫るという意味ではない。「向き合うこと」「逃げないこと」これは、あらゆる人間事象の基本であるからだ。個人のささやかな生活であれ、国家であれ、だ。
「8月の憂鬱」のさなかにあって、どうしようもない我ではあるが、卑小な我ではあるが、僕は僕なりの力を絞って、全力で記す。
オカザキ監督、僕はあなたの試みを心から支持する。いかなる妨害にも屈せず、あなたの仕事を最後までやり遂げて欲しい。
【参考記事】
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(1)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(2)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(3)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(4)
2005 08 05 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(8) | トラックバック
August 03, 2005
8月の鬱-----ひとまずは夏を。
ここ数年、毎年8月になると精神が不安定になる。
じめじめした梅雨や、心も体も凍える大寒の候ならともかく、世間が夏休みだの、盆休みで帰省だので、どことなく浮き足立っており、太陽もぎらぎらと「順調な」この季節に、なぜ決まって気持ちが沈んでくるのか、理由がわからない。
原因は何か。
原因は何か。
数千メートル奥まで掘り下げないと答は見つからないか。
●北朝鮮への男女サッカーの連敗が原因か。
●灼熱の原爆投下が、終戦記念日が、近づいていることが原因か。
●いつまでも性質の悪いチンピラ国家に取り囲まれて絡まれているような、6ケ国協議が原因か。
●最近手にしたiPod shuffleが、精神衛生上良くないBGMを次々と耳元で奏でることが原因か。
●世田谷で聴く沖縄民謡の三線が原因か。
●シャトルの耐熱板の落下が、相変わらず続くことが原因か。
●例によって子供時代の夏休みの記憶が原因か。
●通う事務所の隣にできた免税店に連日たむろする大量のChineseの皆様が、狭い日本で一向に僕の通り道を空けないことが原因か。
●今日の新聞の改憲草案。新九条を殆ど受け入れている、自分の中の荒ぶる脈動が原因か。
●つくる会の歴史教科書に、具体的なけちをつけるのが相当難しいことにいつしか気がついてしまったことが原因か。
●解散するのかしないのかわからない、僕の心のように不安定なタコ国会とタコ首相が原因か。
●間近に迫ったプレゼンの準備が遅々として進まないことが原因か。
●いつまで経っても、タコなソースしか書けない、自分のプログラミング能力が原因か。
●「キレタ松下由樹」しか見るべきものがない、愚にもつかぬテレビのバラエティ番組が原因か。
●時として、見たい肌ではなく、見たくも無い肌まで、鼻先まで晒すこの国の婦女子の軽挙が原因か。
●ああ、これでは「親愛なる仇敵」である真性引き篭もり氏のサイトのようになってしまう、と気にする自分を気にして、その状態をご丁寧にもう一度気にする器の小ささが原因か。
原因は何か。
誰でも夏くらいは、暑苦しい奴のぐだぐだは聞きたくないと思う。
太陽の下で、眩しい東宝映画のような青春を送りたい青少年よ、申し訳ない。
1分1秒が、貴腐のように輝いている恋人達よ、申し訳ない。
世界は、必ずしも順調な日々ばかりではないのである。
僕におきている
「このこと」の深刻さは、
「このこと」の滑稽さは、
正しい温度で
あなたに伝わるだろうか。
密かにあの人が垂らしてくれた蜘蛛の糸は、
きらきらと確かに
きらきらと確かに
確かに輝いているのだけれど。
夏を乗り切ろう。
ひとまずは夏を。だ。
生きる。
2005 08 03 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック
August 02, 2005
弓張月
背中を丸めて、1人で歩く人の背中を見て、考える。
なぜ、あなたは、1人で歩いているのか?
寄り添って、2人で歩く人の背中を見て、考える。
なぜ、あなたたちは、2人で歩いているのか?
微笑み、3人で歩く人の背中を見て、考える。
なぜ、あなたたちは、3人で歩いているのか?
そして
世界に、これほど多くの人が歩いているのに、
なぜ今夜、僕はまた、光と、素粒子と、
そしてあなたののことについて、考えながら歩いているのか。
あなたは今、誰と一緒に
何を考えて歩いていますか?
月は見えないけれど、ブログによれば弓張月。
一杯に、一杯に、張り詰めた弓張月。
2005 08 02 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック