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August 05, 2005

卑小な我ではあるが------スティーブン・オカザキ監督を支持する

今年も8月6日が近づいてきた。

言うまでも無いことだけれど、この世に生まれてきて、理解のできないことは沢山あった。年を重ねるにつれて理解できるようになったことも多くあるが、逆に年を重ねるにつれて、一層理解できなくなってくることも、やはり多くある。

中でも原爆投下は、その最大の不可解と言ってもいい。

原爆投下については、「「非人道的」とはどういうことか」の一連のカテゴリーでも書いた。だがいくら書いてもその「なぜ」は行き場を得ることはできない。この世界に生まれてきて、この国に生まれてきて、僕にとって理解のできない最大の謎の一つと言っても過言ではない。

なぜ、あのような形で人は、ヒロシマで、ナガサキで死ななければならなかったか。原爆による死を「戦場における無数の死」と同一視することは許されない何かが、そこにはあるはずである。ましてや、日本がいかに戦場で「非道であった」としても、それは相殺されるべきではない。

とは言え、なぜ自分はこのように原爆にこだわるのか。その原爆投下という事実の苛烈にして不可解さを意識する人は、もちろん多くあろうが、ここでなぜ自分か。

ヒロシマに生まれたわけでもない。ナガサキに親族がいるわけでもない。ましてや、よく知る人がなくなったわけでもない。それにも関わらず、この拭い去れない巨大な非条理への、非人道への違和感はいったい何なのか。

あなたには、そうした瞬間はないかい?

テレビや新聞で原爆の記事を読むたびに、僕には「あの」(と表現することもおかしな話なのだが)地獄の業火が幾度も自分の身に、リアルに蘇るような思いにかられる。こうした形で追体験する人も多くいるのか。あるいは自分は少しどこか(やはり)おかしいのか。

僕のこの矮小な人生に、たとえ歴史に刻まれた人類的規模での被害とは言え、60年も前の出来事がもたらす不快感に、何かの接点や、意味や、メッセージがあるのだろうか。理解のできない、恐怖と嘔吐感は時間と空間と次元を超えて、なぜ訪れるのか。

1つにはこのあまりにも唾棄すべき行為を行った国の基本が、それをなした当時に比べて、あまりにも、あまりにも変わっていないとしか思えないことへの、恐怖と無力感、絶望感があろう。

少なくとも日本は、あれから変わった。
落とされた側が変わったのは、当然とすれば、ならば加害の徒はなぜ、なぜ変わらないのか。

日本の為した戦が、擁護される要素があったにしろ、告発される要素があったにしろ、この国はそのこと自体への意味を探しあぐね、ある者は罪の意識に過剰に苛まれ、ある者はこれも過剰に全てを正当化している。

だがはっきり言える事がある。この国がその記憶の処理に苦しんでいることである。それだけは、それだけは確かなことだ。このことにウヨもサヨもないのである。僕はそう思っている。靖国の問題はその発露の一端でしかない。

だが、彼の国はどうなのか。為した大罪の引き起こした戦慄の結果の重大さ。表現のできないようなその重大さにも関わらず、依然として核政策をその国の独占的「恐怖」に留めるべきとして、国際政治を左右しようとする基本的姿勢に、あれ以降、あの投下以降変化が見られたという明確な証拠を僕は持たない。

今でも原爆投下を、皮膚下1mm程度の浅薄さで正当化しようとする多くの米国民を目の当りにするたびに、深い絶望感が繰り返し訪れる。

そんな中で、そんな絶望的な不条理感の中で、細い、細い希望の光を感じるニュースがあった。

第2次大戦中に米国で起きた日系人強制収容問題を取り上げた記録映画で、91年にアカデミー賞(短編ドキュメンタリー)を受賞した日系3世米国人のスティーブン・オカザキ監督(53)が4日に来日し、広島と長崎への原爆投下をテーマにした長編ドキュメンタリー番組の撮影を始める。2年がかりで撮り、番組は07年春、全米にケーブルテレビで放映される予定だ。

 「原爆投下は戦争終結のために必要だった」と今でも広く信じられている米国で、被爆の実像を詳細に伝える番組が全国放映されるのは珍しい。

 オカザキ監督は今回、被爆60年の式典が開かれる広島と長崎に入り、被爆者の証言や市民の表情を撮る。年内にさらに3回来日。来年は主に米国で、原爆を設計、投下した米軍関係者らを取材する。番組は約90分。

 監督は82年に在米日系人被爆者らをテーマにした映画を公開して以来、被爆者の生の声を米国民に伝える本格的なドキュメンタリーを撮ろうと、長年、「計画をあたためてきた」という。「被爆60年の今だからこそ語ってもらえる被爆者に多く出会いたい」と話している。 (2005年8月3日 朝日新聞より)

1995年、スミソニアン航空宇宙博物館で企画されたエノラ・ゲイを中心とする原爆展が、議会や軍人会の圧力で中止に追い込まれたことは記憶に新しい。

現在の米国にあってこうした表現活動をすることへの、想像できないようなプレッシャーがあること。オカザキ監督にどれほどの抵抗が待ち構えているかということもまた、容易に理解する。

米国は、そして米国民は、「このこと」から長い間にわたって目をそらし続けてきた。時には圧力ともいえるような方法まで用いて、このことに向かい合うことの勇気を頑なに避け続けてきた。だが、戦後の日本に多くの「未処理事項」があるというのであれば、ヒロシマは、ナガサキは、今でも続くこの国の最大級の「未処理事項」であると僕は思う。

何よりも、「核」は今でも極めて「現実的な問題」として、そこにあるし、あり続けている。そして彼らは今でも「あのときの米国」であり続けているのだから。

朝鮮半島の追い詰められた国家に、核放棄を迫るのであれば、オカザキ氏の作品に、今度こそ、今度こそはまともに向き合ってもらいたい。これは反省を迫るという意味ではない。「向き合うこと」「逃げないこと」これは、あらゆる人間事象の基本であるからだ。個人のささやかな生活であれ、国家であれ、だ。

8月の憂鬱」のさなかにあって、どうしようもない我ではあるが、卑小な我ではあるが、僕は僕なりの力を絞って、全力で記す。

オカザキ監督、僕はあなたの試みを心から支持する。いかなる妨害にも屈せず、あなたの仕事を最後までやり遂げて欲しい。

【参考記事】

「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(1)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(2)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(3)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(4)

「「夕凪の街 桜の国」----穏やかでスローな悲しみ」

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Comments

 自分は地球法廷の裁判長になった気分の人ばかりで、この犯人と自分は兄弟なんだという事実を自覚する人が皆無なのが、原因かなぁ?

こんなメールが回ってきました。

NHKスペシャル『ZONE 核と人間』を放送します。

これは、なぜ人間が人間の頭上に原爆を落とすことができたのかという問いに
答えを探そうとする番組です。
アインシュタインのE=MC2乗の発見から100年、広島・長崎への原爆投下から60年。
地上には、放射能の汚染区域ZONEが拡大し続けています。
このZONEの闇から抜けだすために、人間は幾多の言葉(芸術)を使い抵抗してきました。

放送:8月7日(日)夜9時~10時15分

こんばんは.
今はもう,日付が変わって8月6日です.
わたしは今日も,黙祷します.

表現できる人は表現して欲しい.何もできない私は,黙祷します.そして表現できる人を応援したいと思います.

偶然,数日前,ちょっとしたきっかけがあり,がらにもなく世界のことについて考えてみました.「非人道的」とはどういうことなのか.批判の限界(1)にTBさせていただきました.

>kuronekoさん

情報をありがとうございます。答の出ない問いを抱えて今年もテレビ番組の特集をさ迷い歩くと思います。

>ととさん

>>しんどいことだけど,正論を唱え続けることで日本を守ることはできないかな?


日本は守れるかもしれません。私やあなたの日常も。ですが、それだけでは「人は」守れないと思います。人の尊厳も。私はそう思っています。

TBありがとうございます。ちょっと遅くなりました。
スティーブン・オカザキ監督の新しい作品に注目していたいと思います。
日は変わってしまいましたが今日はタンザニアのフクウェ・ザウォーセのアルバム「平和を夢見てChibite」から「ヒロシマの悲劇」を聴きたいと思います。
今年のテニアン島での平和式典で西田さんたちがどのように受け入れられたのか気になってます。サイパン島やテニアン島はB29が飛び立っただけでなく、壮絶な戦争が繰り広げられ戦後も引き揚げた日本軍に置き去りにされたチャモロや韓国人、そのまま残った日本人、また彼らの2世、3世が共に生活し、米国の影響もいまだ大きい地域です。
小さな島の中でそれらを見ると日本国内で感じる感情と若干異なる(もっと純粋な)感情を感じるのも確かです。僕はそういう気持ちに感度を働かせたいと思っています。

オカザキ監督作品は見てませんけど、新作は多くのアメリカ人に見てもらえたらいいですね。
ノーム・チョムスキーは『メディア・コントロール』(集英社新書)の中で、「(アメリカは)おそらく、世界一自由な国です。言論への抑圧などいかなる意味でもない。政府はできるものなら言論を統制したいと願っているけども、その力はありません。異議申し立ても反対運動もこれまでのどんな時代よりもずっと盛んに行われています。(p121)」と語ってます。映像の分野でも、そうであってほしいですね。

テニアン島での平和式典という、知られていないテーマについて、情報をいただきました。視点のポイントを変えると、予想をしていなかった新しい現実の襞が見えてくるものですよね。

今後とも宜しくお願いします。

ノーム・チョムスキーのような思想家の健在を許すことは、今でも米国に残された貴重な財産でしょう。ですが、彼の言葉は強烈な皮肉に思えてなりません。少なくとも現在の、この帝国の姿を見る限りは。

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