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September 30, 2005

知的で安全な杉村太蔵の作り方レシピ

taizo

軽率で危なっかしい新人議員から、知性的で有望な若手の新星に見せる方法である。

成功率120%。

簡単である。彼に教えてあげたいくらいである。
週末に「本を1冊」読むよりも手っ取り早い。君でもできる。

発言のどこかに、次のいずれかの話題を貼り付ける。いや、散りばめるのである。
これだけでいい。それ以上は、なーんも考えなくていい。

●国と地方の長期債務残高
●国民1人当たりの長期債務
●普通国債の残高
●議員年金の仕組み

ではやってみよう。GO!

赤字は後から付け加えたものである。


「先日までヒラリーマンでございますからぁ。それはともかく国と地方の長期債務残高なんて、729兆円なんですよ!」

うーん、あまりうまくいかないな。次いこう。

「料亭行ったこと事ないですよ!行きたいですよ!料亭! ところで国民1人当たりの長期債務がいくらあるか、記者さんご存知ですか?576万円ですよ!576万円!」

結構いい。高度な批判の表現か?記者が深読みして黙りそうだ。次。

「新幹線も飛行機もグリーンですよ!? グリーン! グリーンなんて乗ったことないですよ!当選したおかげで移動は全部グリーン! これが全部タダですよ!? タダ! これってどうなんですか?国抱えている普通国債の残高が482兆円もあるんですよ? それでグリーンですよ、グリーン

なかなかいい。批判精神にあふれた印象が出てきた。次。

「当選して最初に議員報酬を調べました。そしたら年収2500万ですよ。ウヒョ~。そのほかに文書なんとか費というのが100万円出て、それも年かと思ったら月ですよ。どんなに電話かけたら100万円になるんですか。僕はもらう方だからいいけど、これが払うほうだったムカツクでしょうね。
あとね?議員年金って言うんですか?あれ調べたんですよ。そしたらあなた、10年在職で412万円 在職1年ごとに約8万2干円ずつ増額。国民年金なんて40年支払って年間79万7千円ですよ? 一度やったらやめられませんよ、もう。(笑)

如何であろうか。彼の軽薄な発言も、何か深い思索と準備、鋭い批判精神に基づいて意図的に発せられているかのような香りが漂ってきたではないか。明日の日本を託したくなったでしょう?こんなことは、BigBangほどの俊才であれば、小手先三寸で、10分ほどでできるのである。週末2日もあれば、君にも考えられるであろう。君のイメージは、君の良さを保ちながら360度いいものになる。悪くはないっすよ。(あ、それじゃ元に戻ってしまう。 笑)

杉村君においては、ぜひともこのブログを読んで、手っ取り早くマスコミと国民を丸め込んでいただきたい。切に、切に希望する。

ああ、教えたい。

【参考サイト】
●日本経済が破綻するまで動きつづけるリアルタイム財政赤字カウンタ
●国会議員の年金制度

2005 09 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック

September 28, 2005

マイクロソフトを脅かすGoogle---「見たことのない未来」の胎動

google

マイクロソフトのSPプロモーションを担当していたのは、1990年頃。Windows3.0がようやくデビューしたころであり、そこからWindows95がデビューする頃までのマイクロソフトは、現在知られているようなマイクロソフトではなく、会社名を言っても誰もが首をかしげるような知名度しか、この国では得られていなかった。

マイクロソフト本社は、まだ小さな雑居ビルに入っており、後に日本法人の社長になる阿多氏が広報担当として、総指揮をとっていた時代であった。

僕たちがプロモーションの中心にしていたのも、DOSのファイルマネージャーもどきのようであり、おもちゃのような幼少時のWindowsではなく、現在のMicrosoft Officeの遠い遠い祖先とも言うべき、DOS上で動くあるビジネスソフトだった。(製品名をあげると、たちどころに「足」がつきそうなので控える。)後に万策整ってWindows95が上陸する際、広報宣伝の打ち合わせに出向いた、某テレビ局の担当者に、このマイクロソフトのことを説明するのがまた一苦労で。「お宅のテレビ局など買収してもおかしくないような巨大な企業なんですよ」と言っても、高笑いをされたものだ。

#もちろん、それから何年も後にマイクロソフトよりも何千倍も小さな会社に、危うく買収されそうになったあの、お台場の局である。

マイクロソフトはWindows95の大成功の後、日本でも誰もが知っている企業になったが、それまでにも、そしてその後にもマイクロソフトには幾度かの危機がささやかれ、天才ビルゲイツはそのことごとくを打ち破って今日の隆盛を勝ち得ているのは言うまでもない。
僕が覚えているだけでも

●IBMとのOS/2共同開発破棄による混乱
●アップル社とのWIndowsGUIに関わる訴訟闘争
●マークアンドリューセンのNetscapeに代表される初期インターネット時代の「英雄」の侵攻
●IEとWindowsの「不可分性」が招いた反トラスト法(独占禁止法)訴訟での分割の危機
●Linuxに代表されるOpenSourceの勃興

などがある。

「マイクロソフト以後の世界」を想像することができるか否かは、こうした産業に関わるものとして、その想像力と予知力の絶望的な無力を思い知らされる悲しいゲームでもあった。

限りない数のライバルを、ことごとく蹴落として同社の今日があるわけだが、今回こそはマイクロソフトの「最大の危機」であると喧伝するメディアが急速に増加している。

それは言うまでもなく強敵Googleの登場である。

最近掲載された

「マイクロソフトが直面する10年越しの「悪夢のシナリオ」」(CNET JAPAN)


が興味深い。

記事によれば、

ここ10年で唯一変化があったとすれば、それはMicrosoftにとって漠然としていた悪夢が、Googleという形になって見えてきたことだ。

 GoogleはMicrosoftにとって、ハイテク業界に対する影響力の点で、Netscapeが初めてブラウザを投入して以来最大の脅威になろうとしている。ネットワークに接続された大量のコンピュータとウェブベースのソフトウェアを擁するGoogleは、従来の検索ビジネス以外にも業務を急速に拡大させており、まもなくMicrosoftと衝突すると多くのアナリストが述べている。

という。

Googleにはこの戦いに使える軍資金が約70億ドルある。また同社は既に、これまでMicrosoftに当たっていた技術関連の脚光を奪っているほか、たくさんの外部開発者のマインドシェアも獲得している。実際、GoogleはMicrosoftの主要な幹部を数人引き抜いてさえいるが、これは Microsoftが1980~90年代にライバルに対して何度となく繰り返してきたやり方だ。

その後数年の経緯を考えると、この判断が誤っていたとするのは難しい。大打撃を受けたNetscapeはAmerica Onlineに買収された。当時大きな脅威だったAOLは、その影響力を失ってしまった。そして、1997年度から2005年度末の6月にかけて、 Microsoftの年間売上高は113億6000万ドルから397億9000万ドルへと増加した。また、この間に純利益はおよそ3倍の年間122億 5000万ドルに達した。

 しかし、1997年当時にこれらの幹部が予見できなかったことがある。それは、スタンフォード大学の学生寮で大学院生が開発したばかりの検索エンジンが、その後Googleとなり、2005年までには年間40億ドルの収益を上げるビジネスへと成長して、インターネット関連の大手企業になる、ということだった。

Googleがあげる年間利益が実にマイクロソフトの1/3近くにまで迫っている(!!)という事実には驚いた。
さらに記事は、マイクソフトが今後、複雑・大規模化してしまい手に負えなくなったWindowsから、MSNに代表されるようなWebサービスへ主力を移動しないことには、Googleに対抗することは難しいのではないかという予測を行っている。

また

もちろん、Microsoftがすぐにも崩壊するというわけではない。OS市場を独占するWindowsやOfficeスイート、電子メールシステムの Exchangeから、Microsoftはこの問題を修正するための金をふんだんに得ている。そして、IT分野の大手企業が一晩で消えてなくなるというわけでもない。実際に、IBMは何度かの失敗を経て、いまではサービス関連の王者に生まれ変わっている。

としながらも、今後マイクロソフトが「支配」してきたPCの世界が大きく変わる予感を提示しており、

しかし、MicrosoftがIT分野で10年以上にわたって行使してきた強力な支配力が、ついに弱まり始めているといっても間違いないだろう。PC以外の機器をつかってネットにアクセスするウェブユーザーがますます増えている。そして、Googleはこれまでに他に(Netscapeさえもだ)なかったようなやり方で一般大衆の想像力を捉えている。

とまとめている。

今回もまた、何度も叫ばれては消えていった「マイクロソフト崩壊の予想」論の一つに過ぎないようにも見えて、実は今までの「危機」とは全く質の違う脅威を、Googleがついに武器としているようにも見える。百戦練磨の相手に対して、対するGoogleは既に「小兵」ではないからである。

「PC」という小さな箱の中で、「OS」という独裁者の支配によってMS社が君臨する時代は過ぎつつあり、広大なインターネット空間の膨大なサーバ上に、多くのキラーサービスとなるWebアプリケーションを散りばめ続けているGoogleは、インターネットが生み出した、完全な分散コンピューティングの時代を見据えて起業された、全く新しい、マイクロソフトとは根本的に異なる企業であり、マイクロソフトを徐々に包囲し始めているように見える。

実際、ここのところ、彼らが次々と生み出している「Google Eath」「Picasa」「Google Desktop」などは、この分散コンピューティングの思想と、膨大な資金とネットワークリソース、それにマイクロソフトからも引き抜いた優秀な人材を背景にしており、彼らが起業したときに、ただの「目新しい検索サイト」であると、たかをくくっていた僕たちの平凡な予想を完全に裏切るインパクトに満ちている。

もしもマイクロソフトが、この新しい敵に対抗するために、MSNなどをWindowsに代わる、同社の新しい主軸サービスとして軸足を動かすようなことがあれば、コンピュータの世界はここ数年でまたドラスティックな変動の時代を迎えるのではないかと思われる。

そうした予感は、未来に対するある種の恐れのような、先の見えない不安を呼び起こす性質も備えているが、同時にコンピュータの歴史が新しい時代に差し掛かりはじめているのではないかという期待感もある。

残念なのは今回のインターネット・PC界の大変動の予感に際しても、名前の挙がるほとんどが米国企業であり、日本企業の名前があまり目立たないことであるが、GPSや携帯電話、ゲーム、IT家電などへのマイクロソフトの「侵攻」への懸念は、本丸を脅かすGoogleの勃興で、完全に棚に上げられたように思えることも確かだ。


そう遠くないところにある、「見たことのない未来」が動き出している胎動は、確かに感じるのだ。


【参考記事】
●「グーグルはマイクロソフトの脅威となるか」--ウェブで議論白熱(CNET)
●Googleの才気と狂気------Gmailから始まるナーバスな未来(BigBang)
●Google OS を妄想すると未来が見えてくる!?(Life is beautiful)

2005 09 28 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

September 24, 2005

「ヒトラー最期の12日間」---広く見開くべし。私も。そしてあなたも。

hitler 

「ヒトラー最期の12日間」を先日ようやく見てきた。

1942年、数人の候補の中からヒトラー総統の個人秘書に抜擢されたトラウドゥル・ユンゲの手記を元に制作され、ヒトラーとナチス幹部の「最期の日々」を類まれな迫力と迫真の表現で描いている映画である。

ベルリンに迫るソ連軍の猛攻の中、次第に追い詰められ破綻の淵に瀕していくヒトラーとゲッベルスやヒムラーなどのナチス幹部、ヒトラーの愛人のエバブラウンなどがこの時間をどのように過ごしたかが迫真のリアリティで描かれている。

ブルーノ・ガンツ演じるヒトラーは、まさにヒトラー以外の何者でもない。その圧倒的な存在感は、あたかもガンツにヒトラーの霊が憑依したかのようであり、他の何者としても私たちはガンツを見得ない。スクリーンを見つめる全ての人にとって、そこに立っているのは役者ではなくヒトラーその人にしか見えないのである。卓越した演技は驚異そのものである。

ここで描かれるヒトラーは、「意思の勝利」で演壇で声を張り上げてドイツ民族の再興を叫ぶ、あのヒトラーではなく、とうに壊滅した部隊の救援を信じて幹部を困惑させ、あるいは錯乱して大声を上げ、とうに正気を失った哀れな人物として描かれている。
彼の後ろに組まれた両手は絶えず神経質に小刻みに痙攣し、破綻への呪詛と怨念を撒き散らし、錯乱して幹部に怒号を張り上げたかと思うと、ユンゲら配下の女性には常に優しく、細やかな心配りを見せる。その二面性の恐ろしさ。
彼がなしえなかった、夢見ていた世界への執着が強いがゆえに、部下の進言に耳を貸さず、降伏もせず、ベルリンを最期まで撤退することもせずに、ついに自殺へと至るのである。

ゲッベルス夫妻のナチズムへの狂信ぶりは異様であり、特にゲッベルス夫人の存在感は異彩を放つ。「ナチズムが滅んだ世界に子供たちを生きさせたくない」として、次々と自分の子供たちを殺害していくシーンは圧巻であり、その狂気とむごたらしさには息を呑む。
「戦争は常に男が起こすものである」とは、よく言われることであるが、このゲッベルス夫人や、映画に登場する従軍の女性兵士などはその例外であろう。ナチズムに心酔したその目の狂気は時として女性ならではの有無を言わさぬ不気味な「確信」があり、たじろぐまでに狂おしい。

ヒトラーが総裁官邸の地下に籠り、撤退も降伏もしないために、ベルリン市民は市街戦と化した街の中で地獄の苦しみを味わうが、「国民のためにも一時撤退を」と必死に進言する幹部に対して、ヒトラーとゲッベルスは全く同じ言葉を張り上げるのである。

「国民がどうしたっていうんだ?!やつらが選択してこの事態を招いたんだ。自業自得だ。知ったことか!」

あっけにとられて沈黙する幹部たち。

これはフィクションではなく、ユンゲの証言が正しいとすれば、ナチス政権最後の断末魔を、その空間のレイアウトや空気、個々の言葉までがある程度正確に再現されていると思っていいだろう。そのことをあわせて考えれば、ヒトラーやゲッベルスが、自分たちの権力の基盤が

「国民が自ら選択し、自ら進んだ道である」

と最期まで確信していたことがわかるのであり、彼らの「責任意識」がどんなものであったかが窺い知れる。それはおそらく破綻に瀕した彼らのぎりぎりの自己防衛であり、そしてそれはおそらく恥知らずな自己欺瞞であったかもしれない。が、同時にそれは「彼らにとっては」真実でもあったのかもしれないのである。

とにかくそのリアリティゆえにヘビーな映画である。破滅に瀕したヒトラーの哀れさ、敗北の無残さ、狂気の深さに途中涙が止まらなかった。特に幼い子供にも刃を向ける、ゲッベルス一家の最期は直視することができず、幾度も映画館を出たくなった。精神的に耐えられないぎりぎりのラインを味わった。

ヒトラーの自殺後も、降伏を選択して「生きる」ことを選ぶ者、そしてゲッベルスのようにナチズムと共に滅びることを選ぶSS隊員らの人間像が描かれる。「もう生きてはいられない」と死を選ぶその背景に、その犯した「甚大な罪」への無意識の視線が、あるいはあったかもしれない。

僕なら。

僕ならやはり迷わず死を選ぶと思う。自らが全霊で関わった世界が崩壊した後、敗北後の世界で生を見出すことはできないだろうと思う。ここでは銃口をこめかみに当てるSS将校に同調する。

ところで、この映画論の末尾で言及することが適当であるかどうかはわからないが、少し現実の話をする。

小泉=ヒトラー論は暴論であるという指摘、あるいはここにおいて、再三にわたってヒトラーになぞらえて小泉批判をすることへの疑問をいただいた。私のエントリーで直接小泉をヒトラーであるなどと断言したりしたことはないが、時代背景の中で、国民の間に、行き詰った状況を、「全力で何かをなしてくれる」カリスマ待望の心を生み、必ずしも合理的であるとはいえない政策を、情念的期待で支持し、それが小選挙区制という制度下で、地すべり的な自民党の大勝利をもたらしたことは事実。それを考えると、ヒトラーを生み出した時代の全てが、現代と全く共通性がない遠い過去のことであると、断言することも、またできない。

元来、民衆が理性を保った上で、冷静な政治的選択を行い続けることが「できる」というのが、議会制民主主義の最低条件であり、必須条件である。その選択自体に感情的・情緒的な色彩が濃くなり、当の民衆一人ひとりですらコントロールできないような状態の萌芽がいささかでも見られるならば、それは何度でもチェックされ、相互の批判にさらされなければならない。

ワイマール体制でのヒトラーの誕生とその後の禍々しい歴史と今とを比較して、当時とはこことここが違う、小泉はこんなことはしなかった、第一小泉は、大量殺戮などしなかったのではないかと相違点を探すことは容易である。だがそれにも関わらず過去の事象にいささかでも未来への予測や警鐘が含まれていることは、曲げられないし、多くの人々がそれを感じ取っている。私たちはそれに敏感すぎるほど、敏感になるべきだろうと思う。

さらにこうも思う。

自由民主党が主導した戦後のこの時代。今日まで国民に一滴の血も流れていないではないか、それが小泉政権に至るこの国の保守政治の成果であるというかもしれないが、そのことがそのまま、我らの無謬性を示すことにはならない。

我らはこの間、他国の軍事力に国土を守らせ、他国の多くの若者が死地に向かい、そこでまた貧しい他国の女性や子供、無辜の市民を大量に殺戮することから、目をそらした。少なくともそこに正面から向かい合おうとしなかった。そして毎日100名が自らの意志で命を絶つ類まれな「先進国家」を作った。

この状況の中で唱える靖国とは何か。

イラク派兵とは何か。

戦争放棄の理念とは何か。

そして平和論とは何か。

憲法九条とは何か。

自ら600万人の人間の命を直接奪うことがなくても、私たちはそうした世界観を持つ国家や指導者を支えることで、間接的に、毎日、毎日、大量の無名の「ユダヤの民」を「殺し続けて」いるのである。そうした意味であなたも私も、いわば「不作為の殺人者」であり続けていると思う。私たちは困難であってもこの「不作為の殺人者」から逃れるべく不断の葛藤を行うべきであり、それこそが私たちに課せられている、「生きる意味」の一つであろう。

民主主義が「最善の政治体制である」ということには、今でも懐疑的であるが、現在のところそれは人類がたどり着いた、ある一定水準の「知の体制」であり成果であることは疑い得ない。そしてそれは「民主主義」という概念自体の中でも、未だ確とした完成形を獲得しえていないのであり、今後も無限の検証と改善の努力にさらされ続けなければならない。

そうした中で選択された、国家の最高責任者の「責任の範囲」は、今日一国日本の狭い国土の中で繰り広げられていることのみに及ぶのではない。それは文字通り「最高責任」であり、この国が関わるあらゆる「世界の事象」に及ぶ。内政と外交にまたがる総合的なこの国の未来を私たちに提示し、私たちがそれを情念的ではなく理性的な判断で選択するのが、真っ当な民主主義のあり方であり、その環境を用意するのが、為政者の義務である。短期的に受けのいい部分だけを切り取ってプレゼンテーションすることで一時的な選挙の勝利を得たとしても、それは決して真の勝利とは言えない。それを考えるのが「政治的思想」の本来の姿である。

ナチズムですら、一部の異常な人間によって起こされた異常現象だったわけではない。また、ある朝起きたら、突然ヒトラーが演壇に立っていたわけでもない。人々はある日突然ガス室に送られていたわけでもない。毎日を生き、食べ、働き、愛し合い、眠る。そしてまた昨日と「同じはずの」明日が来る。
通常の社会に生きる通常の人間たちが、当たり前の日々の繰り返しの中で生み出した政治的・社会的体制であり、その結果がいかに悲惨なものであっても、まさにナチスの幹部たちが叫んだように、「国民が選択」した結果の積み重ねによってこそ生み出されたものである。正しくナチズムはドイツ国民が「選択して」生み出したのである。ヒロシマが私たち日本人の「選択」によって生み出されたように。

私たちはいつでも「明日のナチス」になり得るのだ。

発言する全ての知性にとって重要なのは、「過去との違い」を見つけて過度に安穏することではなく、いささかでも過去に近似の情景を認識したときに、いち早く警鐘を発する「カナリア」たるべきことではないか。

映画の証言者、秘書ユンゲはいまも存命であり、映画の最後で本人がコメントをしている。23歳で家族の反対を押し切ってヒトラーの秘書になり、幸運にも戦後を生き延びた彼女は、ユダヤ人の大量殺害などの狂気がヒトラーによってなされていたことには戦後になるまで、全く気がつかなかったという。

#しかしそんなことがあるものだろうか?映画を見れば見るほどこの発言は疑問である。何しろ彼女はヒトラーやゲッベルスの遺書までタイプしているのである。ある種の防衛的な発言ではないかという疑念は残るが、それはともかく・・

彼女のこの言葉で映画は終わっている。

「若すぎて何も気がつかなったというのは、言い訳にならないと思います。(私があのとき)よく目を見開いてさえいれば、気がついたはずなのです。」

今このときも広く見開くべし。私も。そしてあなたも。

【9/27加筆】
「さわやか革命」さんから指摘をいただいた。ユンゲは、この映画の取材撮影時には生きていたようだが、現在はもう亡くなっているとのこと。調べてみたところ、

1920年、ミュンヘン生まれ。1942年末から45年までアドルフ・ヒトラーの秘書を務める。戦後、一時ソ連の収容所に送られたのちは、『クイック』誌の編集長付秘書などの仕事を経てフリー・ジャーナリストとなる。2002年2月11日、ガンのため死去

とのことである。著書に「私はヒトラーの秘書だった」がある。

【参考リンク】
●「ヒトラー最期の12日間」オフィシャルサイト

2005 09 24 [映画・テレビ] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック

September 20, 2005

前原新代表-----ようやく民主党のメッセージが聞こえてきた。

民主党、前原新代表の政治ポジションは、彼が師事したした高坂正堯教授のスタンスが、僕がゼミで師事した、旧民社党系ブレーンの某教授と実は非常に近いこともあり、不思議なほど、ほとんどの主張に共感できる。
政治学徒としては端っこも端っこの自分ではあるが、やはり20歳前後に形作られた思想のスタンスは、「三つ子の魂百まで・・」か。

前原氏の政治ポジションには、米国型の新保守主義に対抗する、欧州型の民主社会主義の色合いが濃いが、平和主義をベタに掲げる、いわゆる「左翼」とは一線も二線も画す。共産党の主張と変わらないなどという批判があるが見当違い。また、改憲論であることから、「右翼」「タカ」の指摘もあるが、もともと氏の主張は、欧州の民主社会主義では常識の範囲内と理解する。自民党保守の国家主義的な思想とは根本的に異なる。これについては高坂氏の著書にも目を通すべき。

とにかく僕にとっては、その政治姿勢に賛同できる点が多い。


★賛同できる点(BBはBigBanのコメント)

●最小不幸社会の実現。教育、社会保障に重点。

(BB)もちろん、小泉首相の「小さな政府」への対抗理念。実は、2003年における民主党のマニフェストにちゃんと「最小不幸社会」は謳われているのだが、今回は全くといっていいほどアピールされることはなかった。僕もほとんど意識しないまま先のエントリーでいまさらベンサムの「最大多数の最大幸福」に触れてしまったのだが、「最小不幸社会」は現代的な解釈として悪くはない。なんだ、もう少し大きな声で言ってくれればよかったじゃないか。「日本をあきらめない」よりははるかにいい。小泉自民にも対抗できる。とにかくこうした大事なメッセージをきっちりプレゼンテーションすることに、先の岡田民主党は致命的に失敗していたと言わざるを得ない。

●憲法は九条2項を削除、自衛権を明記。集団自衛権は限定容認。
(BB)賛同する。

●インターネット、 IT を駆使して国民とつながる
(BB)当然であろう。前原氏でなくとも、総務省の、ホームページやブログを「文書図画の頒布」であるなどという、「勝手な公職選挙法解釈」は即刻中止させるべき。法案改正が待たれる。(いわゆる142条問題)

●首相の靖国参拝に反対
(BB)これについては、何度も触れたとおり。

●国歌国旗法案に反対
(BB)ここに触れたとおり。

●対案の提示→重要法案には、批判のみでなく、必ず対案を提示する。
(BB)ごくまっとうで当たり前の主張。

●定住外国人参政権に賛成
(BB)僕はいわゆる「定住外国人」の能力をむしろ日本国内に取り込んで融和すべきという立場であり、これに賛成する。

●労働組合、各種業界との関係などについて、既得権擁護的議論は根絶。
(BB)いわゆる旧社会党など左派との隔絶

●米国のイラク攻撃に反対する。
(BB)年内の撤退という民主党案に同意する。

●北朝鮮への即時経済制裁には反対する。
(BB)拉致問題の解決については日本政府に勇断を求めるが、即時の経済制裁には効果が疑問。6カ国協議等や拉致問題以外の包括的な状況把握で、他の政策をも総合的に勘案して実施すべきであると思う。

●日本の国連安保理事国入りを支持する。


★賛同できない点

●核武装の可能性を否定しない。
(BB)核武装は非現実的であり抑止効果は望めない。たとえ軍備を持つ場合にも、僕は全ての核兵器の保持・使用に反対である。

(参考)
「日米同盟が解消される事態になったときは(核武装も)考える必要がある。その時点でも(核を)持つべきでないとは言えない」(前原氏の発言「毎日」2003年4月3日付)

●中国へのODA供与終了に反対。


★以下については判断を保留する。

●外国人労働者の受け入れ
(BB)何らかの制限を残すことは必要。無条件では賛成できない。

(その他)
高坂正堯門下ということもあり、全体的に安全保障や外交関連の課題には相当の論客であることが窺い知れるが、未知数は経済である。財政金融関連の政策の手腕が見えない。経済畑は若干弱いのではないかという懸念があると思う。おそらくこのあたりについては、これから勉強であろう。また、核武装を否定しないなど、まだその主張に問題がある非現実的な点もあるが、おそらく今後修正されるのではないかと思う。

とにかく、選挙前に代表変えたほうが良かったんじゃないか?民主党は。(爆)


【参考記事】

●イラク攻撃、自民は支持 衆院選・京都候補者アンケート (京都新聞)

●前原誠司(BLOG 爺の裏長屋)
●民主党党首候補、前原氏の思考(新聞拾い読み ほか)
前原誠司氏について (人生とんぼ返り)
高坂『国際政治』 /トート号航海日誌(読書録)

2005 09 20 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

September 18, 2005

Stay hungry, stay foolish ----ジョブスはやはり英雄だった。

jobs


コンピュータなどとは全く縁のない、ど文科系の学部を出た僕にとって、本屋の一角にあるパソコンのコーナーは異空間への扉だった。(今読み終わった恩田陸の「小説以外」によれば、恩田陸は子供のころから引き出しの奥とか、廃屋の入り口とかそうしたものを見て異空間への扉のように思ってどきどきしていたそうだが、あんな感じだ)
どうして、こうも自分にとってわからないものがこの世にあるのだろうと驚嘆し、そうした書物の前で熱心に読み耽る人たちの背中に焦がれた。

#いったい何を言っているのかと思った人、申し訳ない。これはまだWindowsも存在しない、遠い遠い大昔。人類がようやく二足歩行に成功してから間もないころ、「MS-DOS」という言語の時代の話なんだ。

それから後、僕はパソコンに嵌った。嵌ったという言葉はそういうときのためにあるんだろうと思う。実にそれからおよそ10年間、僕はコンピュータに関わる本しか読まなかった。買う雑誌は全てパソコン関連だし、小説を読むことも10年間なかった。信じられないことだけれど、嘘じゃない。

僕は来る日も来る日も、パソコンをいじりまわし、パソコンの本を読み、このカルチャーの伝説的な成功者についての伝記を片端から読み耽った。コンピュータの話しか興味のなくなった僕に友人は呆れた。(それからおよそ10年後、この状態はすとんと終わった。また突然他のジャンルの本を読み始めたのである。)あんな10年間はもう僕の人生にはやって来ないのではないかと思う。

そんな日々の中で、Appleコンピュータの創業とその後の栄光と発展、そして失意の時代からの大逆転。そうした波乱万丈のヒストリーはそのまま僕がこの遅咲きのエンジニアの端くれとしてこの世界に留まってこられた原動力になった。Appleの歴史に関わる本で日本語訳されているものは、おそらく全て読んでいるだろう。
電車の中で、どこかのオヤジが「坂の上の雲」を読んで自分の人生に重ね合わせるように、(そういえば「坂の上の雲」は、新しく民主党の代表になった前原さんの愛読書だって!ワオ)Appleコンピュータの歴史を思い、Appleの過去と未来に登場した、様々な人々について思いを馳せ、

「今自分が直面している問題はAppleで言えば・・・・」
「Appleだったら、こういう場合どうしただろう」

などと、大それたことに、この人類史上最高の頭脳を集めた集団の航路に、恐れ多くも自分の人生を重ねたものだ。

そしてスティーブ・ジョブス!
スティーブ・ジョブスと言えば!

口では言えないくらいの思いがある。

たとえば、ジョブスがペプシコーラのCEOだったジョン・スカリーをAppleに招いたときのあの逸話だ。東海岸の典型的エスタブリッシュメントのスカリーが、あまりに精神文化の違う西海岸のヒッピー企業、Appleに逡巡して答を渋った時のあのジョブスの台詞!

「あなたは砂糖水を売って一生を終えるつもりですか?世界を変えようとは思わないのですか?」

なんという言葉だろう。

それを知ったとき、クールというのはこういう時のためにある言葉じゃないかと思うくらい、僕はそのカッコよさに打たれ、会う人毎にその話をした。(特に女の子には。)
でも、僕の思い入れほどにはその気持ちはうまく伝わらず、「はあ???」という顔をされたり「BigBanさんは、マックがすきなんですね?」などと端正な顔をした女の子に、「軽く流されたり」した。お笑いだ。

いったいどうしてあの子は、あの台詞のカッコよさがわからないんだ!?砂糖水だぜ、砂糖水!

とヒートしたものだ。(自分の台詞でもないくせに!あれは「電車男状態」か?))

今だからわかるが、僕がパソコンに夢中になり、Appleに夢中になってのめりこんでいく時代は、日本ではバブルと呼ばれる状態にに突入していく時代だったのだ。会社から独立したら一気に年収は4倍になった。走り出す列車は地獄に向かっていたのだけれど、僕には全くそれがわからなかった。「あれ」が永遠に続くと思っていた愚か者だったのだ。

そしてその後、夢は醒めた。君が知っているとおりだ。僕が熱狂の10年間から醒めたころ、日本も夢から醒め、そしてAppleときたら、ぼろぼろになっていた。

あの英雄ジョブスは、事もあろうに「砂糖水を売っていた」スカリーに、自分が招いたまさにその人物にAppleを追い出された。その後作ったNEXTはジョブスらしい天才的な仕事だったけれど、ビジネスとしては成功しなかった。

僕は、今度も妄想なことにバブル後の宴が醒めた自分の状態とAppleを重ねた。はっきり言えばぼろぼろだったんだ。どっちも。

AppleはMicrosoftのマーケティング戦略ににやられた。おまけにあのPowerbook5000シリーズのようなひどい製品しか作れず、OSはマイナーリビジョンアップを繰り返して迷走に迷走を重ね、地獄の底まで落ちた。僕は幻滅していつかMacに触らなくなった。そう、それから僕自身もそうだ。死ぬほどあった仕事は、砂漠にしみこんだ湖のように、蜃気楼のように、一瞬で僕の前から消え失せた。金の移動速度はかたつむりのように遅くなった。(昨日まではF1マシンだったのに!)

Appleはもう僕には何も与えてくれなくなった。それどころか瀕死の重傷状態。いつ会社が消滅しても仕方がない状態だった。そんなAppleにジョブスは帰ってきた。

#ジョブスはNEXTをAppleに売却し、1997年(1996年末?)夏に Apple 社に復帰,1997年,暫定 CEO に,2000年 CEO に就任。

そして、iPod!! iPodだ。

ここから先はもう、おそらく全ての人が記憶している物語だ。再三比較引用して申し訳ないが僕もようやく、どん底の状態は脱却しつつあった。新しい分野を見つけ、新しい環境で仕事を始めた。

さあ、長い長い前振りは、久しぶりに「僕の英雄だった」スティーブ・ジョブスがすい臓がんから復帰後に、今年の7月に行った、あるスピーチを紹介するためだ。ネットでもだいぶ前から評判になっているから、読んだ人も多いと思う。少し長いけれど評判どおりの内容である。PLANeT blogさんに邦訳が出ているので、ぜひお読みいただきたい。

あの長髪の、世界は全て自分にひれ伏すのだと言わんばかりの厚顔な青年の面影はもうなく、辛酸をなめ尽くして生き抜いてきたジョブスの言葉がここにある。

スティーブ・ジョブス氏のスタンフォード大学卒業祝賀スピーチ

一部を引用します。

「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。」

「以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。」

「私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。
 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンロー
パークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。
 スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。
 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」
 それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。」

このスピーチは、今鮮やか過ぎるほど蘇ったAppleとその伝説的なCEO、しかも癌から生還した英雄の言葉としてあちこちで感動を持って受け止められている。
しかし、もう20年も彼を見て生きてきた僕には、この会社がついに今のところコンピュータの世界で勝利を得られていないことは、未だ納得のできない不条理に思えるのだが、そんな僕が久しぶりに思い出したことがある。

それは2つ。

最初は

●今度僕が生まれ変わってくる時には、ジョブスの作ったコンピュータが世界を制覇しているようにと、今まで何度念じたかわからないこと。

そしてもう1つ。

●僕の「生きていく理由」いや「生きてこられた理由」の1つがまさしく彼の存在であったことだ。

天才という言葉が、何のてらいもなく当てはまる人物はそういるものではない。自分とは比較もできない辛酸を潜り抜けて帰ってきた、この偉大な人物にあらためて、心から敬意を表するとともに、今繰り広げられている偉大な成功の物語に率直に祝福の言葉を贈りたい。彼の生の言葉、それもこんなスピーチを受けたスタンフォード大学の学生が心から羨ましく思える。

ジョブス。あなたは、やはり凄かった。

【参考記事】
●iPod nanoが垂直発進、初登場1位で早くも市場塗り替える勢い
●スティーブジョブスがケンシロウなら…(Life is beautiful)
●スティーブ・ジョブスのスピーチ音声が聞けるようになりました!(負け犬は通訳を目指す)

2005 09 18 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(7) | トラックバック

September 16, 2005

生きていく理由

生きていく理由。

こう書いて、しばらく眺めている。

生きていく理由。

おかしなことに気づく。

まず一点目。
「この問いに何か意味がある?」

次。
「理由」がなくても生きていける。

最後。
今後「生きていく」とは限らない。

2005 09 16 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(6) | トラックバック

September 15, 2005

民意は多数をもって正義とは呼べない。----偽のテントウムシ(2)

議会制民主主義は、多数派のみが正義を知っていることを、証明するためのシステムではない。政治に関わる機会をすべての公民に平等に保証するための制度に過ぎないのであり、それは小選挙区制が、あまた検討された選挙制度のうちのひとつでしかないのと同様に、その実現価値に過度な信仰を寄せることは間違っている。

つまり、「民意の多数を確保したから正義なのであろう」あるいは「民意の多数を確保したのだから正義と考えるべきだ」などという見方は、議会制民主主義という一制度に過ぎない、いわばシステムに、ある種の価値観が最初から内在しているかのように思い込むという点において、危険な錯覚がある。

民衆の選択したことであるから、正義である、あるいは正義となるべきだという考え方は我らの世界の思想ではない。議会制民主主義は、そうした価値観を、その原初から内在していない。この国のすべての選挙権を持つ人々、富裕であれ、貧困であれ、異性愛者であれ、同性愛者であれ、無知であれ、教養人であれ、すべての人に公平に一票を与え、その結果には従うべきであるという取り決めである

この取り決めは、民衆が選択したから「正義なのである」ということではなく、人々が等しく平等の権利で参加した結果選ばれた結果には従う「べき」であるということ「でしか」ない。

したがって、得られた結果は、「悪魔の選択である」こともありうる。民は過ちを犯すのである。これは歴史的に証明されている事実である。殺戮の前世紀において、悪魔の選択をしてしまった多くの民の嘆が聞こえよう。それを私たちはポピュリズムと呼んだ。これは民を愚弄するものではない。民を利用し扇動するものに向けてそれは叫ばれるのだ。

先の大戦、昭和16年の真珠湾奇襲の直後に民衆の声をシングル・イシュー・ポリティクスで対米開戦の賛否を問うたら、どんな結果が出たであろうか。答えは火を見るより明らかである。「民の声」が過ちを犯さないとか、「それは過ちではないのだ」とあらかじめ決める考え方は、むしろマルクス思想において、「プロレタリアートは生まれついてブルジョアジーに搾取されているものなのだ、だからプロレタリアートは無謬である」としたように、愚直な共産主義に近い。古い左翼史観の流れを、そこに感じる。

あまたある、知的なブログが今回の結果を解析するにおいて、このような「民衆史観」を、こともあろうに議会制民主主義の解釈の中心に据えようとしていることに自ら気がつかないことは極めて危険な兆候である。

「日米開戦」はその結果において招いたあれほどの災禍にも関わらず、もしもそれが「民主的に」進められていたら、正義であったか?あるいは「仕方のない」結果であったか?
否。であろう。

それはいかに民主的に進められたとしても結果として国家を破滅させた。手法が正しく選ばれたからといって、結果は正義になることはない。

では「偽のテントウムシ」を多数の友人によって「本物だ」とされた少年は、あのときどうするべきだったのだろうか?直ちに暴力で踏み殺すことが許されるわけはない。それは確かである。

彼は、英知と技量の限りを尽くして、彼の友人に、それが彼らの思っている「テントウムシ」ではなく、「ニジュウヤホシテントウムシ」であることを説得しなければならなかったのだ。あるいは昆虫図鑑を持ってきて見せても良かったかもしれない。ありとあらゆる手段を駆使して、知恵を尽くして彼はその説得をしなければならなかった。なぜなら彼には、確信があるのだ。彼一人が真実を知り、多くの友人たちはそれを知らないことを!

しかし、やはり彼が説得できなかったとしたらどうだろうか。友人は偽のテントウムシを本物だと信じ続けるだろう。これ以上彼にはどうすることもできない。彼は民主主義の前に敗北するのだ。多数決というシンプルな取り決めの前に!それは確かである。

だが、そうした場合でも、いくら民の圧倒的支持を受けたからといって「ニジュウヤホシテントウムシ」は「テントウムシ」にはならない。少年は説得に失敗しても、正義の前では真実の前では敗北はしていないのである。ただ、社会におけるプレゼンテーションの力において「そこでは」負けた。彼はもう一度それを証明するために立ち上がればいいだけである。なぜならこの場合「正義」は彼にあるのだから!彼はそれをうまく伝えられなかっただけなのだから!

政治はテントウムシなのかと言えば、もちろん違うだろう。昆虫学では、絶対に近い客観性で少年の正義を証明できよう。いくら彼が現実の友人世界で手痛い敗北を受けたとしても図鑑の世界では完全に敗北することはない。

政治は社会現象であり、社会科学である。自然科学ではない。正義の証明は、誰がどのようにして行えばいいのか?それが「偽のテントウムシ」だとすれば、それをどうやって証明すればいいのか?易しい課題ではない。

ひとつだけはっきりしていることがある。それは一選挙における票数によって証明はできないということである。なぜなら、それは人々に平等に政治参加をさせしめるための取り決めでしかないのだから。そこには並々ならぬものがあるのは確かであるが、価値はない。

#しかしこの取り決めごとを獲得するために流れた多くの血を、もちろん忘れるべきではない。

社会は輻輳し複雑である。取り決めごとの中には価値はないのである。
もしも、敗北を感じる人々が今いるなら、それはこの取り決めで勝利を得られなかったということであり、それはそれ以上でなければ以下でもない。

土台私たちにとって政治の価値とは何か?この日本という社会においての政治の価値とは何か?如何にすれば「正しいテントウムシ」を認識しうるのか?

その答をここでにわかに宣言すれば、それは自分の考えの浅薄さを証明することにしかならないであろう。そしてその答はおそらくひとつではない。ここが昆虫学よりも政治がより困難で難解な存在であることの事由である。

ただ、あえて僕は思う。

おそらく、それは人の幸福にあるのだということを。人の幸福を除外してあらゆる政治の正義はないのだと。

すべての人の幸福が桃源郷の彼方にあり、人々の手に届かないところにあるとすれば、かつてベンサムが引いたように、【最大多数の最大幸福 the greatest happiness of the greatest number】とその獲得の営みのみが、その答になるのではないか。これを議会制民主主義による代議員制という名の多数決で、決めることを良しとしなければならないまでに、人の歴史は多くの時間を費やした。にも関わらず我らの状況は道半ばであり、究極の正義にはまだ道は遠い。

人が絶望し、年に30,000人以上も自殺する国。累積債務残高は710兆円超にもおよび、国家が自らの責任をも放棄する国。周辺国に大なる疑惑を持たせ、自らの地域安全保障すらできない国。最低限の家族を維持する経済力すらもてない、将来を絶望する若者が大量発生している国。他国の若者の血の上に自らの平和を築いてきた国。愚直に生きてきた人々を改革の名の下に切り捨てる国。

そして、政治家が、一度も投票に行ったことのなかった大量の「浮動層」を劇場型選挙で躍らせる国。

どこに最大多数があり、どこに最大幸福があるのか。それを求める心すらあるのか。
勝てば幸福になれるというのか。負けさえしなければ幸福になれるというのか。

この国の政治が、その取り決めの過程に過ちがなかったからといって、全てを免責されるか。否。否である。そして最大多数が我らの国家のみに限られないのは当然。

これらに正義があるのであれば、「最大多数の最大幸福」に照らした結果のみによって、その結果のみによって判断されるべきであると思う。そこにはドラマも甘言もデマゴークも無力である。圧倒的な「最大幸福」を目指す真摯の前においては、一瞬の劇場に参加する「一時の幸福」の色は明日には醒めよう。

小泉首相。

あなたはいくら民の支持を得ようと、これを実現できなければ、偽のテントウムシでしかない。

僕たちはそれを忘れるべきではない。何百回も何万回も、それを唱える。

忘れるべきではない。

【参考】

●投票日の翌日に------偽のテントウムシ

●最大多数の最大幸福について

#ベンサムがそれに先行するベッカリアやヒュームなどの思想家から引用した、「最大多数の最大幸福」は功利主義的な政治思想のベースとなっているが、要約すると、以下のものとされる(竹内靖雄・<ヒュームの思考より)

①善とは幸福であり、幸福とは快楽が大きくて苦痛(不快)が少ないことである(エピクロス的原理)
②個人とは快楽を最大にし、苦痛を最小にしようとする(ただし、結果がつねにそうなるというのではない)
③社会にとって「正しい」行為とは、関係する人々の幸福を増進する行為である
④社会にとってもっとも好ましいこと、したがって目標とすべきことは、最大多数の人が最大幸福を達成することである
 
よって、最大多数の最大幸福(さいだいたすうのさいだいこうふく, the greatest happiness of the greatest numbers)は、「個人の快楽の総計が社会全体の幸福である」という意味ということになる(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(キーワード;最大多数の最大幸福より)

2005 09 15 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(10) | トラックバック

September 13, 2005

投票日の翌日に------偽のテントウムシ

tento

どうしてあんなことができたのだろう。今の自分からは想像ができない。

もう何十年も前の子供のころの情景である。小学校の低学年のころだったと思う。数人の遊び仲間が、「テントウムシ」を捕まえてはしゃいで囲んでいた。覗き込むとそれはニジュウヤホシテントウだった。テントウムシには似ているが、全く違う虫である。

「それはニセモノだよ!」

と僕は言い張ったが、誰も聞こうとしない。

「テントウムシだよ。」
「そうだよ、テントウムシだよ。」

本物だ、いやニセモノだと言い合ううちに、自分の言い分が正しいのに認めてもらえない、どうしたらいいかわからない焦燥感にかられた僕は、今思うと信じられない行動に出た。
「テントウムシ」を大切そうに取り囲んでいる子供たちの輪に駆け寄ると、その中に飛び込み、彼らが大切そうに取り囲んでいるその虫をいきなり、両足で踏み殺したのである。それも何度も、何度も踏み続けた。

なぜ自分がそんな行為に出たのか、今ではその気持ちを正確に思い出すことはできない。しかも僕は虫の大好きな、そこは普通の男の子だったのである。自分の言い分を相手にされなくて、きっと世界に独りきりになったような錯覚に陥ったのだろう。

思いもかけない乱暴な行為に、子供たちが息を呑んだ。

「こんなのテントウムシじゃない。ニセモノだったら!」

次の瞬間、自分の腕が乱暴に引っ張られ、体がふっと宙に浮いた。祖母が見ていたのである。

それから後のことはよく覚えていないが、僕は祖母によって、もしも自分がテントウムシであったなら、とっくに何度も踏み殺されているだろう、そんな制裁を受けた。ただ1つ違うのは、僕の体は大きくて祖母が踏み潰せなかっただけのことだ。こういう時の祖母の激烈さは、その後社会に出ても、どんな厳しい人に出会っても、二度とお目にかかれないくらい激しいものだった。

「謝れ!」

と迫る祖母に、それでも僕は

「あれはテントウムシじゃない、テントウムシじゃない」

と泣きながら足をばたつかせて言い張っていた。

僕に大切な「テントウムシ」をいきなり踏み潰されて呆然としていた子供がそれでも僕のほうを見ながら

「テントウムシだよ・・・」

と悲しそうにつぶやいていた表情を忘れられない。

この記憶のためかどうかはわからないが、今、僕は全く虫を殺すことのできない大人になった。

蚊などは「しかたがなく」つぶすことがあるが、家の中に入ったアリ、クモ、その他わけのわからない虫であっても、基本的に殺すことができないので、何とか「穏便に」家の外に出てもらおうと、涙ぐましい「努力」をする。馬鹿みたいである。

親しい人が、情け無用とばかりに小さな虫を叩き潰す様子を見ると、いったいどうしてそんなことが思い切りよくできるのかわからない。思わずその表情を覗き込む。

あのときの自分の振る舞いが思い出されるのか、見ているだけで身がすくむ。

遠い遠い幼い日。

期せずして自民が大勝した翌日。

なぜかそんなことを思い出した。

民意は多数をもって正義とは呼べない。----偽のテントウムシ(2)へ

2005 09 13 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック

September 12, 2005

1行目か。外れにも程がある----自民大勝

およそすべての予想は、外れるために成されるとも言えるのである。それにしても限度というものがある。ここで前日に行った郵政法案の行方に関して、何行目で外れるであろうかと密かに予測していたが、まさか投票日に、それも1行目で外れるとは思いもしなかった。

悪夢の予想-----郵政法案の再審議で大変節が始まるぞ。



(予測1行目)
>●小泉自民党で単独過半数確保。しかし公明党を入れても3分の2には届かず。郵政民営化法案の衆院での再審議で可決する見通しが立たない。

驚嘆。


【補足】
まあ、今だから腹立ち紛れに言うわけではないが、当ブログは現状の公職選挙法の解釈には納得しかねるので、あえて意図的に「抵触の可能性を回避」していなかった。これについてはまた後日。

2005 09 12 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

September 10, 2005

悪夢の予想-----郵政法案の再審議で大変節が始まるぞ。

投票日前に、選挙後の醜悪な政局について、予想をしなければならない善良で真摯な国民BigBanは不幸である。

●小泉自民党で単独過半数確保。しかし公明党を入れても3分の2には届かず。郵政民営化法案の衆院での再審議で可決する見通しが立たない。

●そこで、小泉自民はあっさり変節。あれほど大見得を切った法案の大幅見直しを始め、反逆分子の当選議員と、民主党を抱き込みにかかる。

●反逆分子は、法案の見直しは自分たちがカラダを張った功績
だと胸を張って復党

●民主党は、10年以内という、郵貯銀行の政府保有株の放出プロセスの説明の明確化と、郵便事業の当面の公社維持など、一部の修正に民主党案が盛り込まれたとして、見当違いの「ホントは勝ったぞ宣言」で面子を保ち、岡田続投。

●修正法案が3分の2以上の賛成で衆院で可決。法案成立。

小泉自民も、反逆分子も、民主党もハッピー。国民唖然。郵便局員悄然。国民新党と新党日本は、ほとんどの議員が落選して休眠状態。

それなら最初から衆院で法案修正を行えば解散する必要なんかなかったではないか。小泉のあほんだらとBigBanが、またむきになってエントリーを上げるが、はてぶで6人くらいにブックマークされる程度の注目度で終わる。(爆)

●BigBanはまた生きるのが嫌になる。(爆爆)

いやだいやだ。

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September 09, 2005

投票ラブ・ストーリー?----憂国でアリマス

投票ラブ・ストーリーい?

問:貴国ノ若者ハ、ここまでやらないと投票をしてくれないのでアリマスカ?

答:そうでアリマス。

問:でアリマスか・・・

答:・・・・アリマス。

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小泉vs岡田----それでも「危険」は「未熟」より「危険」だと僕は思う

logさんのところ経由でたどり着いた「遠藤浩一覚書」さんの「ギリギリの判断」の論旨が明晰で感服。 

僕自身は、岡田氏の「未熟」より小泉氏の「危険」のはうがややマシだと、苦渋の判断をしてゐるが、「未熟」のはうが「危険」よりマシと考へる人は、今回 民主党に投票するのだらう。民主党に投じる人々は、この政党の未熟がわが国にいかなる災厄をもたらすかについてよくよく考へていただきたい。他方、僕も含 めて、自民党を支持する人々は、この総理の「危険」に連帯責任を負はなければならない。自民党を支持するといふのは、そこまで考へ詰めてのことでなければ ならないと思ふ。この選挙が「愚かにして重要」たる所以である。(「ギリギリの判断」より抜粋)

差し詰め、僕は「未熟」のほうが「危険」よりマシ論、あるいは、それでも「危険」は「未熟」より「危険」論者であろう。問題はたとえ、ぼくが自民党に投票しなくても、結果への連帯責任を免れないということであり、それが選挙制に基づく議会制民主主義という制度のの基本とされていることである。

不快である。    

【参考記事】
シングルイシューの行き着く廃墟(2)---わずか数十万人と呼ぶ豪儀な非情
シングルイシューの行き着く廃墟---ポピュリズムは自ら大衆を愚弄する

2005 09 09 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(7) | トラックバック

September 08, 2005

シングルイシューの行き着く廃墟(2)---わずか数十万人と呼ぶ豪儀な非情

小泉首相を、公の席でヒトラー呼ばわりした亀井氏が嘲笑の的になっているが、勢力を固める過程の1時期、国民車構想という「シングル・イシュー・ポリティクス」を掲げて国民の称賛を得たのは、まさしくヒトラーである。

#1933年にアウトバーンの建設を発表し、自動車を国民の手の届くものにすることを宣言したヒトラーは、「国民車構想」をぶち上げ、1938年にはフォルクス・ワーゲン生産工場を起工している。

亀井氏が間違ったとすれば、小泉を600万人殺したヒトラー自身にあまりに安直に例えたことであり、むしろ彼はヒトラーを生み出した構造を持つ、当時の世論を批判しなければならなかったのである。

むしろ彼はこう言うべきだったのだ。

全ての国民に自動車を持たせるというヒトラーの政策に賛同したからといって、彼の他の政策を全てあなたは許したか?と。

まあ、1つ心を空しくして、彼の言葉をよく聞いてほしい。

「らいおんはーと」(小泉首相のメルマガより)

「公務員を減らしなさい」、皆さん賛成でしょう。
「行財政改革を断行しなさい」、これも皆さん賛成でしょう。
「民間にできることは民間に」、みんな賛成だと思います。
それなのに、なぜ郵政民営化だけは反対するのか。なぜ郵便局だけは公務員でなければできないのか、民間人ではいけないと言うのか。私は不思議でなりません。

 郵便局で働いている正規の国家公務員約26万人、1日数時間働く短時間公務員約12万人を加えると約38万人の公務員でなくては本当にこの郵便局は運営できないのでしょうか、サービスは展開できないのでしょうか。

 私はそうは思いません。

 郵政民営化に反対する勢力は、約26万人の郵政公務員の既得権益を守ろうとしているのではないですか。国家公務員の身分を維持しようとしているのではないですか。

 民間人に任せれば、今よりももっとよい商品やサービスを提供してくれると思います。宅配サービスを思い出してください。暑い夏の最中にアイスクリームや新鮮な魚介類を全国に配達できるようにしたり、夜間配達サービスを最初に始めたのは役所ではありません。民間の事業者だったのです。

 民間に任せても、郵便局のネットワークは、地方においても過疎地でも維持します。民営化すれば法人税も固定資産税も納税されます。民営化会社の株式を将来売却すれば、その売却益は国の収入として入ってきます。ですから、財政再建にも寄与します。

 郵政民営化は行政の構造改革であり、財政の構造改革であり、経済の構造改革であり、金融の構造改革であり、そして何よりも政治の構造改革なのです。だから郵政民営化は「改革の本丸」なのです。

 政治家が支援者の声に耳を傾けるのは当然です。しかし、一部の特定の既得権益だけを守るための政治家であってはならないと思います。国民全体の利益を考えるのが政治家です。わずか数十万人の公務員の既得権益を守るために、1億2千万人の利益を損なってはいけません。

 今回、ようやく「政治を変えなければいけない」「経済を回復させなければいけない」「国民の資金を有効に活用しなければいけない」ということから、初めて郵政民営化が最大の争点になったのです。

 税金を有効に使っていく、役所の仕事をできるだけ民間に開放する、簡素で効率的な政府をつくる、経済を活性化する、そして将来の税負担を軽減するため、私は郵政民営化に再度挑戦したいと思います。

それにしても国家の最高責任者が

民間人に任せれば、今よりももっとよい商品やサービスを提供してくれると思います。宅配サービスを思い出してください。暑い夏の最中にアイスクリームや新鮮な魚介類を全国に配達できるようにしたり、夜間配達サービスを最初に始めたのは役所ではありません。民間の事業者だったのです。」

とはよくぞ言ったものである。

あなたはいったい誰か?

「公務員を減らさなければならない」のは、絶対の真理ではない。国債で麻薬中毒のようになった、巨大な赤字財政に国家が苦しんでいるためであり、そのために「行財政改革」せざるをえない状況になった。その責任をとるのは本来は政権与党である自民党である。出発点でここを忘れてはならない。

国家の経済を破綻の淵に追い込んだ放漫財政を支えててきた責任者は、誰か。彼の属する自由民主党である。国家のカネを、湯水のように箱モノ関連の業界にばらまいてきたのは誰か。彼の属する自由民主党である。

しかも、現在の最高責任者は総裁たる小泉純一郎である。

にも関わらず、「オレイズム」で頭の先から足の先まで染まった小泉首相は、自分の政党の過去と今、今と未来から自己を切り離し、あたかも郵政関連公務員が既得権益をむさぼって、国民に敵対しているがごとき図を、意図的に作り出している。

そうした態度にすがすがしさを感じる向きは、以下の発言をよく吟味してほしい。

> 郵政民営化に反対する勢力は、約26万人の郵政公務員の既得権益を守ろ
うとしているのではないですか。国家公務員の身分を維持しようとしている
のではないですか。

わずか数十万人の公務員の既得権益を守るために、1億2千万人の利益を損なってはいけません。

26万人の郵政公務員を、一絡げにして「わずか数十万人の既得権益保守集団」呼ばわりするがさつな論理は、確かに「我は非情なり」と言ってのけたこの首相にふさわしいであろう。
それにしても、人口激減による国力の低下が本気で心配される、この国にあって、「たかだか数十万人」とは大きく出たものである。
郵政公務員の全てが「特定郵便局長」ではない。実直に働く多くの郵便局員は泣いていることであろう。彼らに責任を問うのはおかしい。責任は国家にあり、あなたの属しているその政党の遺伝子にある。

>「公務員を減らしなさい」、皆さん賛成でしょう。
「行財政改革を断行しなさい」、これも皆さん賛成でしょう。
「民間にできることは民間に」、みんな賛成だと思います。

さあ、どうだ。全ての人はこの言句に賛成か。国家の破綻財政を救う最大の道が郵政民営化であると、当然のこととまで言ってのける、乱暴にまとめる論理の、どこが中核でどこが「隠した(つもりの)」意図なのか、気づくべきである。

「民間にできることは民間に」に誰もが賛成?そうではない。

破綻の国家財政が、責任能力を失ったために、「やむを得ず」民間に移さざるを得ないというだけである。国家による責任の回避を誰も諸手を上げて賛成しているわけではない。賛成したとしても苦渋の選択であり、その原因を作った責任者は、彼の属する自由民主党である。その責任感はどこにあるのか。その痛みはどこにあるのか。

郵貯・簡保資金を委譲してできあがった付け焼刃の巨大な「郵貯銀行」は民間経営に耐えるのか。もしこの「郵貯銀行」が破綻すれば、竹中のいう「too big to fail(大きすぎて潰せない)」の論理で、これまた膨大な公的資金を投入せざるを得ない状況にもなりかねない。「郵貯銀行」の破綻→再国営化の運命すらありうる。「郵貯銀行」は、「民間でできることは民間へ」などという単純で楽観的な運命を持つと決まっているわけではない。彼にその点への熟慮は見えるか。「郵貯銀行」のバランスシートは示されているか。

元来、郵政改革の本質は言うまでもなく財政改革であり、約350兆円の郵貯・簡保資金が財政投融資を介して道路公団などの特殊法人に流れることを阻止することにあった。小泉は、20001年度以来行われた財投改革によって財政投融資制度を廃止し、特殊法人は独立行政法人へと改革されたとしている。  

 だが実際には、財政投融資は、財投機関債や財投債を郵政公社が大量に購入することで現在も事実上続いている。自民党の郵政民営化法案によれば、「郵貯銀行」も財投機関債や財投債の購入を「自主的」に継続することができるとしている。

郵政関連の事業が民間にゆだねられたときに潤う一部の事業者を除いて、カネのほとんどは今までどおり市場ではなく、財投機関債や財投債へ依然として流れる。劇的な変化があたかも明日にでもすぐに起こるように見せる手口はまやかしである。

郵政公社が新会社にかわっても財投債・財投機関債が大量購入されるならば、従来の財政投融資とどこが違うのか、改革を国民に印象づけようとする印象操作以外にどんな意味があるのかというのが、民主党の指摘である。預金枠の引き下げという民主党の対案が遅すぎたことはあろう、不十分であることはあろう。何よりも岡田代表が、デマゴーク小泉に対抗できる論戦力を備えていないことは、この時期の最大野党として大変に残念なことである。だが、愚直である分、印象操作に長けた老練な小泉首相にはないいくばくかの誠意を、むしろ岡田氏に感じる。

さらに高村薫の以下の文章を引く。この明確な論旨に賛成する。

いまこそ政治の時代なのである。この、とてつもなく困難な状況が、郵政民営化だの、年金改革だの、特定の課題1つを掲げて道が開けるといった単純な話でないことをよく考えてみてほしい。
人口構成や産業構造を見据える21世紀の国のあり方を考えるべき機会は、遅くとも冷戦が崩壊して世界経済がグローバル化した90年前後にあったが、それを怠ったのは私の世代だった。国の債務は80年代初めにすでに膨らみつつあったが、それをここまで放置してきたのも私の世代だった。また、私の世代は政治と金の問題も解決できなかった。若い世代は大いに怒るべきである。なぜなら、政治は現状への怒りが動かすものだろうからである。
ただし、あなたの怒りが政治的活動になるためには情緒を乗り越える必要があるし、再生はただ、「ぶっ壊す」ことではない。政治は個々のパフォーマンスではない。政党が担う周到なシステムの世界であることを頭に叩き込んで、明日の政治を選んでほしい。

(高村薫/若い世代へ(朝日新聞9月7日朝刊より)

高村薫が言及しているのは、シングル・イシュー・ポリティクスに踊らされることへの強い警戒感である。そもそも、およそ演説の9割を郵政民営化に費やす現職首相に、あなたの理性は耐えられるのか。それが国際的にも重責のある国家の現為政者のやることであろうか。

民主主義の「鬼」はポピュリズムの中にこそある。それを許してしまうとすれば、それはあなたと私の責任である。

【参考】
シングルイシューの行き着く廃墟---ポピュリズムは自ら大衆を愚弄する
[民主主義の暗部]マスコミが報道しない“小泉劇場”の暗部

2005 09 08 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(10) | トラックバック

September 07, 2005

親というカルマ?

「親というカルマ」あ?

昼間、正気の時に読むと、何気に凄いこと書いてるな・・・

http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2005/09/post_95d3.html

毒だ・・


【参考:はてなダイアリー】
karma。本人が作り出したとされる、宿命。業。

2005 09 07 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック