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September 03, 2005

「親でもないくせに」へのオマージュ-----不可逆の悪魔

親であることを超えることはできないのだろうか。親という絶対肯定を保障されなかった自分も、いつのまにか、すでに正しく「人の親」になった。それでも思う。人は「親」というカルマを超えることはできないのだろうか。

おまえのためを思っている、と大人は気軽に口にし過ぎる。それは生きている限り同伴者たる覚悟がなければ口にしてはならない言葉だ。
おまえのためを思って言っていると言いながら敢えて人を殴ることをするのであれば、その覚悟によってより先鋭的に自分が試されているのだという畏れを抱き、それを乗り越えなければならない。
人のためを思って殴るのであれば、彼は絶対に、失職しようとも、逮捕されようとも、裁かれようとも、世間から糾弾されようとも、それがために誰からも見放されても、絶対に謝ってはならないのだ。
誰かがそれを口にするたび、私は内心、哂う。親でもないくせに、と

「親でもないくせに」(たゆたえど沈まず)より

彼の言うことは、おそらく正しかろう。並々ならぬ決心を持つこと無しに、覚悟無しに、他人の生に関わろうとする大馬鹿者への警鐘という意味において。

それにしてもなぜ、

なぜ人は生きることの出発点に、先天的に「自己への絶対肯定者」が必要なのか。
必要と定めたこの世界のメカニズムは、何か。神に意図などあったのか。

あらためて知る。

自分と他者との間には、他者にとって、その人にとって、いつも自分を遠く凌駕する「絶対肯定者」としての「その人の親」が立ちはだかっているのだということを。
「親」はあるいは広く「肉親」と言い換えてもいいかもしれない。人と人との関係は、互いの存在の絶対肯定者がいる---「ここにいるあなたではない誰か」が互いの背後にいるという、暗黙の前提に従って運営されているのかもしれない。
親は死してもその甘美な記憶をもって、その人との交歓に干渉するのである。

後天的な「努力」ではなく、世界に最初から保証されている、親や肉親のア・プリオリに添うことができなければ、どうすればいいのだろうか。
後天的に、他の方法で、それを避けて通るあらゆる方法で、同等の保障を得なければならない。それは自分で行わなければならないのだ。断固として!

これはお世辞にも君の夢見る「光のどけき春の道」ではないかもしれないが。

後天的に愛した者が嘆くのを見たくない。いや、この場合後天的に・・は意味がないだろう。ア・プリオリを保障されなかった者の見る景色は、すべてが後天的な景色なのである。アダムもなければイブもない。いや、それはいらない。いや、いらなくはなかった。いなかった。

僕の世界に、僕自身が「意図して」アダムとイブを招かなかったのだ。選び取ったのだ。そう思い込む強気と妄想。こうして垂れ流す深夜の狂気の交錯すらも、僕が選び取ったのだ。違うか?違うか?

話がそれた。戻ろう。

愛するものが嘆いたとき。

おそらく僕は狂乱するのだろう。なぜなら僕の世界は、すべてが後天的に獲得されたものなのだから、相手もこの目の前に立つ自分の嘆きの共感を、悲しみの共感を、共振するこの魂のあり方を理解してくれるに違いないと、狂乱して錯覚するのである。全ての不実を忘れて。僕は世界に相手と自分だけしかいないと錯誤する。無様な話だとしても。君の嘲笑を浴びたとしても。

僕はおそらく後天の世界で君と寄り添えると思っているのである。

「親でもないくせに!」

そうだ、そのとおり、この言葉は私にも向けられているのかもしれない。
皮肉な話だ。本当に皮肉な話だ。

人は後天的な努力で、ほとんどあらゆるものを獲得できる。いや、元来「先天的な努力」などないのだから、生きようという試みのすべては後天的であるといってもいい。後天的な努力などという言葉もおかしいのである。

教養がなければ教養を身につければいい。
冷薄であるといわれれば情を持つようにすればいい。
貧しければ富を得るように心がければいい。
愛するものがほしければ、愛するものを探せばいい。

世界は広い。

世界はあらゆる(後天的に得られる)可能性に満ちている。

満ちているのである。

手を伸ばせ!
手を伸ばせ!

だが、「満ちている」けれど、そこに全てがあるわけではない。

決して回復できない、後戻りのできない事柄もそこにはある。

不可逆の悪魔。

例えば人種を変えることはできない。たとえ肌や目の色を変えても。
例えば先天的に失われた身体機能があれば、それは回復できない。たとえ義手や義足をつけても。
そして厄介なもの。「親というカルマ」!

それは絶望ではない。誤解されては困る。それは決して絶望ではないのだが、無視して生きていくことは困難である。よほどの鈍感者でない限り!無視して生きればこの身が裂かれる。(誰によって?!)

「親でもないくせに」他人の心にずかずかと分け入る。
「親でもないくせに」自分が相手を一番愛していると思う。
「親でもないくせに」君の涙に自分の涙を安易に重ねる。

親でもないのに!

その通り。

僕にも

多くのおせっかい者が、
多くの勘違い者が、
多くの心優しき人々が
多くの愛情あふれる人々が
多くの仕事敵が
多くの自称友人が
多くの恋敵が

一世一代の愛情を振りまいては去っていった。
彼らのトンデモ振りに僕は苦笑し、彼らの情の深さに涙したこともあった。

ただおそらく、
君とは違うのは、彼らのただ1人も僕の親であった試しはなかったということだ。

僕はその記憶のフォーマットで粛々と生きているつもりである。
その記憶のフォーマットしか選べないのなら、そのフォーマットで生きる。
OSを聞かれれば答える。MS-DOSですよ、とかWindowsですよという風にね。

誇ってはいないが涙はいらない。
もしも僕がこのことに酔いしれているように見えるとすればそれも違う。
悲しいフォーマットなどというものはこの世に存在しない。
悲しいOSやおどけたOSがこの世にないように、自分のフォーマットに酔いしれるフォーマットもまた存在しない。

そう思って生きることが男子の、いや女子も。
生きることのすがすがしさというものではないか。

時として僕は狂乱して、君の親の存在を忘れるだけである。
そして自分の家族のことも。

そう。

「君の親でもないくせに」!

皮肉というのであればこれが最大の皮肉であろう。

お笑いである。

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Comments

お久しぶりです。夏バテの後はPCの修理とリカバリーの日々を長く送っておりました。

「子故の闇」というものに気がつけない人々が、最近は大多数のようです。昔は、戦争や事故・病気で簡単に死ぬ方が多かったので、「子故の闇」に気づける機会も多かったでしょうに。
継母は、異母弟のこととなると感情的になりやすく、些細なことで「私の教育が悪かったから」と自分を責め出す...。これは、ましなほうの「子故の闇」ですがね。

「親でもないくせに」という言葉は、自分が「子故の闇」にとらわれて盲目になっていることに気づけず、己を無意識に正当化するための言葉でしょうね。
道徳でも何でも、物事を教えるということでは、親のできることは微々たるもの。
同じことを親が言っても効果がほとんどない場合が多いからですが、それも理解できないとなると、「物事がなんにも見えてないのを自覚できないで、親切に言っただけの他人を傷つけても平気な、単なる無神経・思慮不足」と言って過言ではない。
自省しなければ、自分が単に楽ですものねえ。
「思考停止&自己正当化用の言葉」の一つなんでしょうね。

こんばんは、りーとさん。
「親でもないくせに」の原著作者は、リアルな意味で親の立場から発言しておられるわけではないので、私は思慮不足とは思っていないのです。

私には、そもそも「子故の闇」(無教養です。初めてこの言葉を知りました)を実証も反論も批判もできず、立ちすくむのみです。

こういうとき、自分の無力を、欠損を思います。それも「自己正当化」の列に加わるというそしりをうけるのかもしれないけれど。

私も「たゆたえど沈まず」のstandpoint1989さんの仰ることはまあ、常識&良識の範疇内だと思います。

「子故の闇」というのは、江戸時代には普通に使われた、仏教的な言葉です。
こういう言葉を知っているのは、私が弔うべき仏をもってきた身だからでしょう。
子どものこととなると、人は盲目的になりがちだという教訓です。「うちの子に限って」などという台詞も「子故の闇」から出てくる。

こう思います。
私もそうですが、BigBanさんも世間一般の方達とは多少違った環境で育ちました。だからこそ、人が陥り易い盲点に気づきやすい条件にあるのだと。
そう考えれば、他人の役に立てることが実は多いのだと。

そう考えないと、私が昔そうだったように、無意味なコンプレックスに悩まされるだけだし、両親揃った環境で育った人以外を差別するような、悪しき選民意識をもつ人々を増長させてしまうだけですからねぇ。

幸か不幸か、固定観念に縛られずに物事を観る機会を幼くして与えられたということを、素直に感謝しようと思うようになったのは、つい、ここ数年のことなんですがね。

ありがとうございます。

>幸か不幸か、固定観念に縛られずに物事を観る機会を幼くして与えられたということを、素直に感謝しようと思うようになったのは、つい、ここ数年のことなんですがね。

どうもね・・(苦笑)率直なところ、僕はまだその域に達しておりませんね。いや理念ではわかるんですが、生理がついていかない(笑・・)これは信仰心のようなもので補うしかないのかな?・・

と最初に思ったのは実は16歳くらいの時で、結構あらゆる宗教関連の門を叩いているんですけれどね、その時点で。逆に早すぎたかもしれないなあ・

話それますけれど、ロシア文学とか読み耽っていたのも早熟な子供の常で15歳前後で、なんだか難しいものを先んじて読む優越感に浸っていた部分があったと思うんだけれど、「カラマーゾフの兄弟」とかね、何かいろんなことが(笑)書いてあったように思うんですよ。

そういう意味では早すぎる読書も考え物かもしれませんね。15の時の自分に何が見えていたのかと。

ところで、お体の調子はその後どうなのでしょうか?ご自愛なさいますよう・・


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