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November 30, 2005
なぜ僕は未だ誰も殺していないのか(2)---「暗闇」を「暗闇」から覗き込むということ。
異彩を放つような犯罪を起こす若者が出るたびに、「幼少時の親の愛情」に問題があったように言う人がいる。
つまり、どんな人にも幼児期というものがあり、その時期に愛情を受けることは人の心を強くするための重大な条件の一つではないか、ということです。
家族の愛を経験したその子どもがその後どんな人生を送ることになろうが、(たとえ、犯罪や戦争に巻き込まれて悲惨な経験をしようが、あるいは、自分自身が犯罪を犯してしまうことになろうが)、絶望から這い上がる力を育むのは、自己の土台を作ってくれた「愛」ではないのか、ということです。そして、その「愛」が育まれる場は、多くの場合、家庭であろうと思うわけです。・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
人類は全員がまっすぐに育つ必要はなく、何かが起こった時に、再び立ち上がる力を持っているかどうか、子ども時代にその根っこが形成されているかどうか、それが問題なのだと私は思うのですが、間違っているでしょうか。
(「愛は絶望から這い上がる」--幸か不幸か専業主婦)
自分の話を何度も繰り返すのももう嫌になったから、前から読んでいる人だけわかってくれればいいけれど、こういう言説に対して僕はどう対峙したらいいのか、いつも困惑して佇むのである。もしも「絶望から這い上がる力を育む」のが、「自己の土台を作ってくれた」家族であるとするならば、極端な猟奇的な犯罪を犯す子供には、この「土台」がなかったのではないかと人は誘導される。
所詮、闇を覗き込む時には自分のいる小さな場所から覗き込むしかないのではないかと真魚さんに言ったのは、まさにこういうことであり、「自己の土台」を欠損している多くの人々の眼差しは、こういう出来事が起きるたびに、恐る恐る暗闇を暗闇から覗き込んでいるのである。
だからといって、「愛情が人間形成に関係ない」などという論は、合理的に考えれば同意できるものではない。となれば、先に引用した言説に、根本的な過ちなど、はなからないのである。しかし、「僕たち」がこの言説を肯定するところから、いったいどんな希望が生まれるというのか。どんな未来が生まれるというのか。
犯罪をなした若者の周囲に、親の愛が無かったのではないかと考えることは不自然な言説ではないのは重々承知だが、その立場に立つところに「僕たち」の未来はない。人は、これを生まれながら欠いたままでも、生を送ることもあるのである。
思えば僕が「なぜ僕は未だ誰も殺していないのか」と先に問うたのは、おそらく社会の、この種の無言の力を感じるからであり、その「圧力」(「圧力」に思えるのだよ。)に素直に従えば自己の生の否定に繋がる。かといってその「圧力」を否めば、内的・先天的な要素から隔絶して、人間不思議の事件を説明しなければならないという、極めて困難な立場に追いやられる。
結果、顔を伏せ、目をそらし、誰も見えないという暗闇に向かって、密かに自分の抱える暗闇から、誰にもわからない記憶をまぶして、そっと息を吹きかけるだけである。
「暗闇」から「暗闇」を覗き込むように。
思えば、「保守的」な立場や思想に馴染まずに年齢を重ねているのは、「保守的な人々」が、しばしば人間形成の原点に「健全な家庭」を不可欠なものとして置くからであり、「親子の情愛」を置くからであり、それを発展させて家族的結束に包まれた国民国家を描くからである。ジグゾーパズルのように組みあがったその論理は、一見して欠損はないように見えようが、不可逆のカルマに出発点を持つものへの眼差しはない。遅れてくる者、常を踏み外すことを強いられたものへの理解はないのである。パズルの襞に挟まれて苦悩する者の存在を忘れてはいないか。
彼あるいは彼女は言う。
もしも仮に「失敗した人生」があれば、それは「失敗しなければ良かったのだ」と。
もしも「殺した者」がいれば「殺さなければ良かったのだ」。
そしてもしも「崩壊した家庭」があればこう言うだろう。
「崩壊しない家庭を作れば良かったのだ」と。
「僕たち」はそれを「僕たちの暗闇」から息を潜めて聞くだけである。
何度も聞かされてきた台詞だ。
あの雪の日にも。あの夕景の日にも。あの秋暮の日にも。
おそらく、「あなたたち」には一度も聞こえたことの無い声だ。
いま一度言う。
僕は、いや「僕たち」は未だ誰も殺していない。しかし。
彼女との差異は、いや無数の「彼女たち」との差異は、たったそれだけのことのように思えてならない。宇宙の時間の中では、瞬きのような差異でしかないように思えてならないのだ。
そう思うところから「僕たち」は時を紡ぐ。「あなたたち」は「あなたたち」の道を行けばいい。だが「僕たち」はここから始めるのだ。今立っているこの場所から。「僕たち」は、この世界でそうすることしかできないのだから。
ここから。
【参考記事】
●なぜ僕は未だ誰も殺していないのか---少女の立っている場所
●「親でもないくせに」へのオマージュ-----不可逆の悪魔
2005 11 30 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(8) | トラックバック
アクセス忍者TOOLSの色仕掛け---嫌なことに気がついてしまった
何だかすごく嫌なことを見つけてしまったんだけど、この会社のアクセス解析、僕も使っているし他にもいろんな人のサイトで見るんだけどさ。なんで無料版のくるくる手裏剣って、携帯サイトで見ると、突然アダルト系の広告バナーに変ってるわけ?みんな知ってた?(それもクリックするとちゃんと携帯電話用につくられた出会い系のサイトへ飛ぶんだ)
このサイトも携帯で見るとしっかりアダルトサイト宣伝してるぜ。まいったな。
試しに他の人のサイトも見てみたけど、ぜんぶそうだな。きっとほとんどのユーザー気がついてないんじゃないの?見てごらんよ。試しに。
意図的に携帯からのアクセスにはバナー変えるようにスクリプト組んでる?なんて姑息なことをするんだよ。忍者くん。僕はそういう奴だとは知らなかった。色物やりたいならやりたいって最初に言ってくれよ。そういう奴かよ。
通常PC版からは「吹き出し虚無僧」なんて可愛いサイトに飛ばしてるくせに、携帯ユーザーにはいきなり色仕掛けか?それとも有料版へ変えろっていういやがらせ?
#これ気に入ってたのに、一気に嫌になった。どうしようかな。Google Analyticsもココログに仕掛けると、何だか解析結果がトップしか取れなくてはっきりしないんだよね・・サイドに入れればいいのか・・
2005 11 30 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(6) | トラックバック
November 26, 2005
板門店レポート(終章)------心に残る「緊張」と「滑稽」
ロッテホテルは出発前と同じような活気に包まれていた。
観光客やビジネスマン、そして韓流ツアーに出かけてきたと思われる日本人女性客の一団。今体験してきた現実がまだ夢の中のようである。それほど「あそこ」は激しく異界であったのである。
先に書いたように、ソウルから板門店までは北に約62km、東京に置き換えるとおよそ熊谷あたりまでの距離に匹敵する。ソウルはその至近距離に、軍事境界線を持ち世界でも有数の24時間厳戒体制エリアを抱えているのである。
ミョンドンの繁華街を歩く分には、そうした現実は全く感じることは出来ず、渋谷や池袋を歩くのと全く変らないとさえ思えるのだが、そこには厳然として、日本と異なる現実がある。
週末のソウルには、休暇をとったと思われる若い軍人たちが軍服のままガールフレンドとデートしている風景も多く見られた。
周知の通り韓国は徴兵制が敷かれており、男子は皆19歳になると徴兵検査を受ける。入隊する時期は19歳から29歳までの間から選ぶことができるということだ。
高校を卒業してからか、大学2年を終えてから入隊するケースが多いそうである。兵役の期間は場合によって異なるが大体陸軍で26ヶ月、海軍で28ヶ月、空軍で30ヶ月だということである。板門店に配置される兵士は、その中でも抜群のエリートであり、体格はもとより、武道のブラックベルト以上を取得しているなど、抜きん出た資質が求められる。
それにしても軍事境界線付近で緊張した面持ちで警戒態勢に付いている彼らが、ツアーの若い女性の前で相好を崩していたのは印象的だった。週末にソウル市内で恋人とデートをしているあどけない様子の若者そのものであることが、あらためて思い起こされた。
緊張地域にありながら、観光客を受け入れて宣伝活動が盛んに(といってもこうした小規模なツアーしかないのだが)行われている、厳戒下で兵士と記念写真をとるなどの、どこか間の抜けた観光地化が行われているのも、また板門店の不思議な一面ではある。
誤解を恐れずに言うなら、「冗談のようで冗談ではない」。本物の「戦地」でありながら、それでもやはりどこか滑稽味がある。今ソウルに戻ってくるとそんな複雑な感想が街の喧騒の中で胸によみがえる。
そうした複雑な思いを持ったまま東京に帰ってきて1ケ月ほどしたころ、あのカメラマンのFさんから突然メールがきた。饒舌に板門店を語ってくれながらも、なぜかあまり自分の身分などについて語りたがらなかったFさんだが、何かあったときのためにと、メールアドレスだけは交換して別れていたのである。
メールにはこう書かれていた。
「BigBanさん、今晩は。板門店観光の際にお世話になりましたFでございます。
お変わりありませんか?早くも2週間が経ちましたね。
じつは、日本テレビのニュースプラスワンの読売テレビ関西ローカルで昨日より北朝鮮特集をしており本日、板門店取材を放送しておりました。
あの日北の板門閣の屋上にテレビカメラがあったのを覚えてますか?
彼らは、読売テレビの関連のクルーで放送の中で会談場に入る私とBigBanさんを含め当時の参加者が大写しになっておりました。
もしかして今夜の日テレの今日の出来事の中で放送されるかもしれませんので時間がありましたらみてください。
私は、これから夜勤に出ますので録画していくつもりです。
寒くなりつつありますが、風邪など引かないように元気にお過ごしくださいませ。では、また。」
「大写し?」
北の板門閣には確かにあのとき、テレビカメラがあった。しかし、それは北側が絶えず南の観光客を撮影し続けているというガイドの説明であり、それを信じて僕たちは冷淡な態度をとり続けたのであったはずだ。しかしそれが日本のテレビの取材だった?しかも顔まで映されているのだろうか?
割り切れない思いで、その夜の日テレの「今日の出来事」を観たが、そんな場面はオンエアされなかった。Fさんにメールを出して相互に確認したところ、やはり関東圏でのオンエアーは確認できなかったが、関西圏では確かにFさんの言うとおり、読売テレビでオンエアがなされたということだった。この映像を入手できないかと、Fさんを含めあちこちあたったのだが、終に確認することはできなかった。
(※実際には中国人のクルーが、日本人のディレクターに指揮されて撮影を行ったということのようである。)
どうも最初のFさんの「大写し」という表現は大げさだったようで、実際には遠景で微かに我々の姿が映っていただけのようであったが、意外なエピソードであった。
(おそらくこのカメラ?)
※写真はいずれもクリックすると拡大します。
そして、何かこのエピソードも、現代の板門店の「緊張」と「滑稽」を象徴している出来事のように思えたのである。そしておそらくこの「緊張」と「滑稽」は何も板門店に限ったことではない、世界の軍事紛争地のほとんどが、あるいは軍事自体が抱えている不可避の二律背反なのかもしれないとも思う。
私たちがもしも、戦争で死んでいくとすれば、それは深刻なことには違いないが、100%の緊張下で死んでいくとは限らない。元来軍事衝突自体が、人間の愚かさを外在化させてしまっている「愚かな」所業であることは間違いなく、そうした環境の中に否応なく巻き込まれて死んでいく人があるとすれば、それはたまらなく悲劇であるのだが、同時にどこか喜劇の様相すら漂わせてしまうことがあるのではないか。恐ろしいことではあるのだが、馬鹿馬鹿しさがあるからこその「戦争」である。
この一点は無念であるけれども、不条理ではあるけれども、私たちの生きている空間の中に、そして現代の世界にべったりとまとわりついている不快な二律背反である。それはあの軍事境界線の向こう側。北朝鮮の惨状を想像して見ればわかる。
もっとも、僕が日本人としてだからこそ、こうした客観的なことがいえるのであるが、韓国の人々にしてみれば、もちろんこれは「喜劇」どころの騒ぎではない。
韓国の人々を理解できない日本人と、日本人を理解できない韓国人の中で、我らは互いに苦しんでいるわけだけれども、もしも今、東京から62Km北に世界有数の数(数だけだが)の軍事勢力が駐留し、東京に照準を合わせていることを想像したらどうか。我らはどのような気分で新宿を、渋谷を、歩くことになるのであろうか。それを想像できるのであれば、我らの韓国への視線にも何か変ってくる要素があるのではないか。
板門店を見てきて僕が実感できたことがあるとすれば、この不快で複雑な二律背反の現場に立ってその空気を感じることが出来たということかもしれない。もしも関心がある方がおられたら、一度ぜひこのツアーを体験してみることをお勧めする。
長くだらだらと書いてきた板門店のレポートはこのへんで終わりにする。もっと早い時期にまとめたかったが、ずいぶんと遅くなってしまった。全てを読んでくれた人がどれだけいるかわからないが、このあたりでまとめとしようと思う。
ちなみにあの「馬鹿げた」土産物である、軍事境界線の鉄条網は僕の部屋の隅に飾ってあの日の記憶を留めている。もちろん、悲劇と喜劇の二律背反はこの鉄条網にも漂っているのである。
【参考リンク】
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
●板門店レポート(3)----JSA内へ
●板門店レポート(4)----軍事境界領域の村、大成洞
●板門店レポート(5)----奥の軍人の背後には
●板門店レポート(6)----若い兵士たち
●板門店レポート(7)------臨津閣の「世界一危険な」コンビニ。そしてソウルへ。
※以下は現地からのライブ書き込み
2005 11 26 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント(6) | トラックバック
November 23, 2005
なぜ僕は未だ誰も殺していないのか---少女の立っている場所
なぜ僕は未だ誰も殺していないのか。
記憶を辿っても、人に対する殺意を持ったことはない。暴力の衝動ならこれは何度もあり、人を殴りたくなったことはある。いや実際に何人かを殴ってもいる。あるいは怪我もさせたかもしれない。しかし、いくら考えても一時も誰かを殺そうと思ったことはないし、それによって何か自分が救われるのではないかとも思ったことはない。だから、彼女の殺すプロセスのディテールを想像することもついぞできないでいる。
だが、たまたま殺意が、その衝動がなかったという理由で、幸いにも、たまたま誰をも「殺すことのなかった」自分が、そのことをもってして、「たまたま母を冷酷に殺した」この少女よりも明らかに許されるのかと自問すると、それも俄かには肯定できないように思うのである。
つまり僕には偶然に殺人の欲求がないという、たったそれだけの差異なのではないか。これを自分と彼女との決定的な差異と呼べる自信がない。
自分の母親が目の前で苦しんで死んでいく、その原因を作った自分の行為が、命をこの世界に生み出してくれた母への、世間並みの愛情を遥かに超える「好奇心」であるという驚愕。それが全て、彼女の歪んだ「化学的関心」から生まれたとするなら、確かにこの行為をどのように理解したらいいのか、いや理解しようという試みそのものさえも、既に何かを踏み外しているのではないかと空しささえ覚えるのはわかる。
そうした彼女の、到底常人に理解できない殺意を(そもそも、あれは殺意だったのだろうか?)、仮に「人の闇」と呼び、認識するなら、明るい光を浴びて生きる多くの人の目には、やはり彼女の行為は「猟奇」としてしか像を結ばないのかもしれない。
まるで、洞窟をのぞき込むと、そこに、どこまでも続いているような深い暗闇だけが見えるようである。その暗闇の前で、僕はたたずむしかない。しかし、その闇がそこにあるということは忘れないでいたい。(深夜のNEWS「なぜこのようなことになったのか」より)
しかし。
思えば世界を最初に認識したときに、僕の世界もまた深い暗闇で満たされていた。人は暗闇で生まれ、暗闇で育ち、その中で少しづつ灯りを灯していくものだと思っていた。この時点で確かに僕の心象はむしろ闇に近かったのである。モノトーンは時間軸の方向に向けて微かにその色をグレーに変えていくような予感はあったが、それでもその出発が闇からであったことは否定のしようがない。
仮に漆黒の闇でこの世に生を受けるのが人であると、そういう実存が人であるのだと、この少女が世界に足を踏み入れた最初のところで思い込み、そこから出発したとすれば、果たしてどうであったか。終に自力で闇から抜け出ることができなかった彼女に私たちは何ができたのか。
生を受けてより、闇から世界に関わりを持ち始めた、つまりそういう「生き始めかた」を選ばざるを得なかった、何らかの内的なあるいは外的な要因がこの少女にあったとすれば、我らの眼差しも、不可解な闇を覗き込むという感覚とは微妙にずれるのではないか。
彼女は闇に陥ったのではなく、生まれ出でた原初の彼女の暗闇から、終に出ることが出来なかったのではないか。
というよりも
この少女が闇に沈んだのではなく、元来、人こそ闇に沈んでいる存在なのではないか。
溢れるばかりの闇の深遠を思わせる事件であることは承知しながらも、闇の一片を自分の肉体のどこか奥のほうで、まだ少女と共有しているのではないかとさえ思う自分は、どこかまだ闇に足を取られ続けているのであろうか。
「そんな事は在りえないけれども、もし、一度だけ生まれ変われるとしたら、僕は植物になりたい。大きな喜びは無いけれど、代わりに深い悲しみも無い。」
生きていることへの、生まれてきたことへの、絶望的な絶望、そして不可逆の命への悔恨がこの結果を招いたのなら、起きたことの全ての冷酷を、この少女の罪として断罪するには、あまりに彼女の心はひどく不可知であるし、闇から歩みを始めざるを得なかった者の不可解も絶望も、結局は我らには理解できないでいるように思う。
現に、あの「懐かしい」闇を思う我は、「幸いにも偶然に」未だ誰も殺してはいないのだけれど、かといって我と彼女の差異だけを理由に、少女が僕の場所から、億万光年の彼方に立っているとも、どうしても思えないでいるのである。事件とそのプロセスを、おぞましいと感じる日常感覚は彼方にあるとまで言うものではないが、だからといって自分に無縁の深遠であるとも思えない。
僕は未だ誰も殺していない。
差異は、たったそれだけのことのように思えてならない。宇宙の時間の中では、瞬きのような差異でしかないように思えてならないのだ。
2005 11 23 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック
November 21, 2005
まさに言葉の劣化ウラン弾----君は凄いよ。hankakueisu。
さすがだよ。やっぱり君は凄い。hankakueisu。
東京ブロガーズに突然撃ち込まれたのは
誰1人として俺が真性引き篭もりhankakueisuuだって事に気がついていないのには笑った。(真性引き篭もり/東京ブロガーオフレポ)
まさアに言葉の劣化ウラン弾。
え?嘘だろ?ほんと?え?・・・・誰?
たった2行足らずの言葉で、名だたる東京のブロガー達も今頃、パニックになっているかもしれない。(そんなことないか) まさかhankakueisuはDAN氏じゃないよな。(笑)ああ、僕も行けばよかった。こけにされたかった。
好きだなあ。この人。残念ながら。
2005 11 21 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック
板門店レポート(7)------臨津閣の「世界一危険な」コンビニ。そしてソウルへ。
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
●板門店レポート(3)----JSA内へ
●板門店レポート(4)----軍事境界領域の村、大成洞
●板門店レポート(5)----奥の軍人の背後には
●板門店レポート(6)----若い兵士たち
(キャンプボニファスの免税店)
※写真はいずれもクリックで拡大します。
JSAを警備するボニファスキャンプには、なんと免税店もあり、ここだけしか買えない限定品も買うことができる。DMZの鉄条網を切って土産物にしているのに驚く。ベルリンの壁と同じ発想。びっくりして1つ購入した。
この後ツアーはボニファスキャンプを出て、自由の橋を見学する。臨津閣(イムジンカク)広場前の望拝壇の裏手にある自由の橋は、1953年の休戦協定調印時に造られた長さ83mの橋で、約1万2千人の捕虜がこの橋を渡って帰還したことを記念して「自由の橋」と名付けられたという。「ここまで来るのに50年」の碑文が橋の入り口のところに彫り込んである。
イムジン駅からトラサン駅へ向かう列車が走る橋。この橋は、朝鮮戦争のときに壊された橋のすぐ横に新しく作られたものだということだ。
(ちょうど列車がやってきた)![]()
![]()
(フェンスにはたくさんの統一を願う布などが、
掲げられていた。向こうに線路が写っているので
「違法写真」である)
このあたりは軍事拠点であり、撮影厳禁。といってもフェンスの布を撮影している分にはいいのだが、朝鮮半島の形をかたどった色とりどりの布に目がくらみ、つい調子にのってフレームに線路と兵士を入れて撮影してしまった。とたんに後ろから韓国人観光客(?)と思しき人物に、肩を叩かれて「ノーノー」と注意される。
ようやく気がついて前を見ると、フレームに収めた兵士も気がついて、こちらに向かって近づこうというアクションを始めていた。機関銃を持っている。げっ。
あわてて、兵士の方に向かって、悪かったという仕草(どうしたらいいかわからないのでごめんごめんと拝むような仕草を)と、もう撮らないという動作を行う。兵士は「しょうがねえな」という風に立ち止まり、それ以上はこちらに近づいてこなかった。ふう。
![]()
(世界で一番危険なコンビニ)
臨津閣広場にはファミリーマートがある。「世界で一番危険な」コンビニか。
平和を願う「望拝壇」。小学生の子供たちが大挙して遠足に来ている。一見のどか。韓国ではいたるところで、小学生や幼稚園児の団体に出会う。
(自由の橋も今はこの状態)![]()
(望拝壇で記念写真を撮る子供たち。)
ここで昼食。プルコギ定職である。以前はボニファスキャンプで、兵士と同じものを食べたということだが、「味が悪くて評判がわるいので」(ガイドの説明)、臨津閣での食事に切り替えたという。
「前のキャンプでの食事も捨てがたかったんだけどな。メシがうまけりゃ良いってもんじゃないですよね。」
とはFさんの不満そうな台詞。
ツアーに1人で参加している人たち中心に雑談。このツアーは40名くらいだったがそのほとんどがグループやカップルで参加しており、1人で参加しているのは5名ばかりだった。そのうち1名は女性の参加者Aさん。旅行慣れしているのかと思っていろいろ聞くと、なんと韓国は始めての上に、宿泊先も決めずにやってきて、前夜はサウナで一泊したという。豪の者である。これにはFさんも呆れて注意するようにと諭していた。
他にはおとなしそうな若い男性が3名。そしてカメラマンのFさんと僕である。一人の男性は、母親が「韓流」に嵌って足しげく韓国に行くのを見ていて、自分も興味を持ったという。やはり板門店も韓国も始めての様子だった。
ツアーは、来るときとは違ってすっかりリラックスしている。バスの中でもみな談笑している。往路とは偉い違いである。来た道をソウルのロッテホテルへと戻る。
●板門店レポート(終章)------心に残る「緊張」と「滑稽」へ
2005 11 21 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
November 19, 2005
板門店レポート(6)----若い兵士たち
※写真はいずれもクリックすると拡大します。
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
●板門店レポート(3)----JSA内へ
●板門店レポート(4)----軍事境界領域の村、大成洞
●板門店レポート(5)----奥の軍人の背後には
軍事委員会の建物を出て、ようやく僕たちにはほっとした雰囲気が立ち込めた。最前線の休戦ラインをまたぐ会議室は、独特の空気に満ちていて、心底疲れた。双方の兵士の一時も途絶えない緊張の糸が僕たちに重くのしかかっていたのだと思う。
板門閣から手を振る北側の観光客になぜ手を振り返すことができないのか。宣伝に利用されると言われれば、なるほどと思わないこともないが、そうした僕たちもまた、ここでは国連軍と韓国人通訳の言うことをそのまま信じて動くしかないのである。それが軍事緊張のエリアでの、どうしようもない現実であり、こうして日本に帰ってきて安全圏でモノを述べるのとは、何か決定的な差異が、確かにある。
ところで、展望台からあらためて旧板門店、「帰らざる橋」そして北朝鮮を望む僕たちの前でハプニングが起きた。この日除隊を迎える若い兵士が、除隊の記念のペナントを、僕たちのツアーのいずれか一人に渡したいという。
これは観光目的の凝った演出かと思ったが、「常連」のFさんによれば今までに経験がないと言うから、おそらく珍しい出来事であったことは確かなのだろう。
兵士は、僕たちツアー客を無表情に見渡すと、その中でももっとも若いと思われる女性の前に行き、無表情で、しかしはにかんだようにペナントを差し出した。
韓国人通訳の女性が言う。
「あーら。やっぱりみんな若くて可愛い子がいいのね。絶対私がもらえると思っていたのに残念だわあ」
みんながどっと笑う。兵士も照れたような様子で、その後女性と記念写真のツーショットを撮っていた。そこにあるのは、あのミョンドンを休日に歩いていたような、ごく普通の韓国の若者の姿だった。
気がついた。
思えば僕たちはこのとんでもないエリアに来てから、初めて笑ったのだ。
笑いを忘れていた。この数時間。
(これがその除隊記念のペナント)
(リラックスしている若い兵士たち)
(旧板門店にある帰らざる橋。捕虜交換などがここで行われた。
この頃は南北の兵士が互いを比較的自由に行き来した。)
(一列に並んでバスを見送ってくれる兵士たち)
●板門店レポート(7)------臨津閣の「世界一危険な」コンビニ。そしてソウルへ。
2005 11 19 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
November 16, 2005
満月の夜に----木偶の如く
人に寄り添うということ。
人に寄り添うということ。
人の気持ちに寄り添うということ。
人の気持ちに寄り添うということ。
不安になっている人のそばにいるということ。
ただ、じっとそばにいるということ。
こんな単純なこともできないで木偶の如く生きている今夜。
満月の夜だ。
2005 11 16 [恋愛] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
November 13, 2005
板門店レポート(5)----奥の軍人の背後には
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
●板門店レポート(3)----JSA内へ
●板門店レポート(4)----軍事境界領域の村、大成洞
一般的に「板門店」といえば、この光景を思い出す人が多いと思う。映画「JSA」でも盛んに登場した。中央に並ぶ軍事停戦委員会の建物。その間に見える北側の建物、板門閣。「おの殺害事件」を契機に、国連軍、北朝鮮軍のそれぞれの兵士が極力接触しないように、再構成された板門店で、両軍の兵士がもっとも接近するのがこの場所であるし、もっとも南北の緊張関係を凝縮して味わうことができる場所でもある。
軍事委員会の建物は南北の軍事休戦ラインをまたぐように建っており、この軍事委員会の建物内で当直将校の調整会議が毎日行われるほか、重大な局面があったときにもここで会議がなされる。
(振向きざまに辛うじて撮影した軍事停戦委員会の建物と
警備に当たる国連軍の兵士(手前)。奥に立つ3名は北の兵士。
手前の国連軍兵士は、体を半分建物に隠している。
これが身を守りながら、隠れた部分で武器に手をかけ、
直ちに攻撃態勢に入れるという厳戒の姿勢であるという)
※いずれも写真はクリックすると大きくなります。
僕たちはガイドに先導されて1列に並んでそのエリアに向かって歩いていく。テレビニュースなどでよく見るあの場所が目の前に広がってきた。思ったよりも小さな空間だ・・こんな狭いところなのか・・と思ったとき、Kさんが耳元で小さな声でささやいた。
「本当はね、北の見学者とぶつかると面白いんですよ。向こう(北朝鮮の兵士)がね、慌てて、ばたばたするときがあってね、境界線の近くまで来ることがあるんですよ。ハプニングがあったりね」
なるほど・・
と、そのKさんの声に呼応するようにガイドが、停止を命じた後
「今、北からの見学者が先に会議室に入っているようです。もうしばらく待ってください」
と説明する。
「やった!」とKさん。
「面白くなりますよ。めったにない。ついてますね」
「・・・・・・」
ついていると感じるのは正常な感性なんだろうか。とにかく何度となく来ているKさんが言うのだから、稀な出来事だというのは間違いないのだろう。
しばらく待たされた後、北からの見学者が去ったということで、入れ違いに会議室に入る。あっけないほど狭い、小奇麗な小さな会議室。
国連軍の兵士が2名、一人は北に向かって左側の壁に立っている。そしてもう一人は、一番北側の入り口の前に。僕たちから見ると一番奥に立っている。
ガイドが言う。
「この中は撮影OKです。こちらの(と左の壁の兵士を指し)軍人と一緒に記念撮影も出来ます。ですが、話しかけないでください。軍人は皆さんと話をしません。」
話が終わらないうちに兵士の側に立ち記念撮影を始めるツアー客がいるが、兵士は確かにぴくりとも動かない。何事も起きていないかのような直立不動を崩さない。その側で日本から来た観光客が記念撮影をしている。異様な光景である。
「ただし!」
ガイドが続ける。
「奥の軍人。奥の軍人の背後には絶対に回らないでください。あの軍人の後ろに立った場合、皆さんのことは保証できません。」
「!!」
皆、恐る恐る奥の兵士から距離を置く。一番北に近い場所に立っている兵士の方をよく見ると、その後ろに小さな扉がある。なるほど、あれを開いて外へ出てしまえば、そこはもう「北」なのだ。そちらに向かい写真を撮る。
会議場の外を撮影してもいいようなので、右の窓に近づき、下を見ると、確かに軍事休戦ラインを示す石の境界線が埋められている。
(「左側の」兵士と会議場のテーブル。
この兵士とは記念撮影も可)
(「奥の」兵士が見える。背中にしているのが、北側に
通じている扉である)
(窓から見える軍事休戦ライン。
建物の真下を横切っている)
(会議場他数箇所で集合記念写真を撮ることができる。
最後にアルバムにまとめて販売される。このときも
兵士は微動だにしない)
そのとき、Kさんが
「来た!来た!」
と僕の肩をつつきながら叫んで左の窓のほうに駆け寄った。窓の外に茶色の軍服がよぎった。北朝鮮の兵士だ。僕もKさんについて左の壁に寄った。
Kさんが言う。なるほどハプニングというのはこういうことなのだろう。後から聞いて見たところ、北からの観光客のサポートなど特別なとき以外は、北の兵士がこちらの視界に入ってくることは稀なのだという。
北の兵士に、南側の観光客へのサービス精神があるとは思えないので、おそらくそれは本当なのだろう。
窓の外に生まれて初めて見る北の兵士が立っていた。息を凝らす。
(窓の外までやってきた北の兵士。こちら側には完全無視。
襟元に黄色い章があるのは士官だそうだが・・)
この後、手前の「危険でない」兵士を入れて全員で記念写真を撮った後、また一列に並んで会議室を後にした。
「絶対に振り返らないでください」
と言われて、写真を撮る暇がない。それでも振り向きざまに何とか、ぼけた写真を納めた。
展望台に上がると、北の板門閣が間近に見える。左のほうにテレビカメラを構えた人物。Kさんによれば、ああやって始終全ての南側の観光客をカメラで収めているのだという。気分のいいものではない。
※しかし、この日のテレビカメラについては後から意外な展開があった。別の回に後述する。
観光客と思しき一群がこちらに向かって手を振っている。
ガイドが
「絶対に手を振り返さないでください。北の宣伝に利用される」
と注意していたので、手を振り返す者はいない。皆黙ってその手を振る一行を所在無げに眺めているだけである。
(板門閣のテラスに出ている北の観光客)
(拡大したところ。左手にカメラを構える人の姿があるのだが・・)
(後から販売されるアルバムの表紙。このように
大勢の兵士が出てくるときは、捕虜や戦闘による
遺体の引渡しなど特別なときがほとんど)
●板門店レポート(6)----若い兵士たち へ
2005 11 13 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
November 12, 2005
板門店レポート(4)----軍事境界領域の村、大成洞(自由の村)
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
●板門店レポート(3)----JSA内へ
今回の僕の「ひそかな」目的の一つに、板門店でブログをモバイルから更新できないかという、わかるようなわからないような目的があった。ここに来る間にも何度か携帯で撮った写真を、auの携帯電話でブログに送り「実況」めいた試みをしていたのだが、写真を撮るのにも相当のプレッシャーがある上に音が響く。さすがにJSA内に入ってしばらくすると、携帯電話は通じなくなった。あきらめて携帯をしまいこむ。
【参考】
驚くべきことに、DMZの韓国側内には村(自由の村)があり、JSAに駐留する兵士により24時間監視体制ながら「普通の」生活をしている。休戦合意以来50念異常にわたって、数年前まではけたたましい「宣伝放送」に悩まされながらも、軍事領域内での、異色の生活を続けてきた。大成洞である。
(これは、遠く北の宣伝村を撮った。
形だけのマンションを林立させた見せ掛けだけの村だと
いう。世界最大の国旗掲揚棟に北朝鮮国旗がたなびいている
のが見える。北側の旗掲揚塔の高さ160m。その掲揚塔
に掲揚されている北の旗は日本の一般的な民家ほどの
大きさがある。
これに対して韓国側も100mの国旗掲揚棟を大成洞に立
てている。)
※いずれも写真はクリックすると拡大されます。
北がDMZ内につくった村が「宣伝村」として、実際には住民がいない形式だけの村であるのに対し、大成洞の住民は、南北分断前からそこに住み着いている住民であるという。軍事境界線ぎりぎりのこの地に、今でも異常な緊張状態の中暮らしている人々の心は知れないが、昼間は田畑に出て働き、夜8時には必ず家に戻らなければならない。村の内外の境には兵士が常駐しており、検問がある。夜間は一切外出できない。
そうした生活の「見返り」として、韓国政府は1戸あたりの14-17エーカーもの耕作地を与え(通常は韓国他地域では戸あたりは2-4エーカーだという)その上、農作物の買取保障を行っている。そのため、平均収入は軽く1,000万円を超えるというから、かなりの収入である。
だが、この村で家族を増やし暮らしていくことは許されない。村に残れるのは長男とその嫁のみであり、他の兄弟は一定の年齢になると村を出て行かなければならないという。
形としては「原住民」であるが、北の宣伝村に対抗するために維持されている南の「拠点」のひとつであるように思われた。取材はかなわないであろうが、大成洞の住民は何を考え、何を思いながら、この世界屈指の軍事緊張地域に暮らしているのであろうか。
(大成洞の写真は撮れなかった)
国連軍のブリーフィングルームに入り、南北分断の歴史を再度レクチャーを受ける。通常は軍人が行うが、軍人が日本語ができないために、私が代行します・・というガイドの説明であった。
ここで解説を受けて初めて知ったのだが、板門店は最初から今のような板門店であったのではなく、休戦合意後は、南北の軍がそれぞれ交互に監視所を設けて共同監視体制を作っていた時代があったという。その頃の板門店(旧板門店)は現在のものから、数百メートルはなれた場所にあった。
(国連軍のブリーフィングルーム
韓国戦争と南北分断の歴史を聞かされる
→韓国では朝鮮戦争といわず韓国戦争と
呼んでいる。)
軍事緊張下とはいえ、それほど厳しい対立状況ではなく、交互に立つ数棟の監視所の南北兵士が互いに言葉を交わすという光景も見られたという。
この「融和状態」を破壊したのが、1976年8月16日に発生した「おの殺害事件」(またはポプラ事件)である。共同管理区域内の1本のポプラの木を、監視の妨げになるとして切ろうとした国連軍に北側が反発し、国連軍側将校の殺害事件に発展した。この事件が軍事境界線の管理を見直させる結果となり、両軍の兵士が接触することを極力避けるために、今の板門店のあの独特の管理方式が成立したのである。
(おの殺害事件の現場)
10分ほどのブリーフィングが終わり、いよいよ軍事境界領域(板門店)へ移動することになった。
「板門店には北からの観光客も来ています。こちらからの見学者と北からの見学者は交互に会議場に入りますが、どんなことがあっても兵士や北からの観光客と接触したり口をきいたりすることはしないでください。また、見学の順番でよくもめるので(!)しばらく建物の外で待っていただく場合があります。それから急に情勢が変化したりした場合には(!!!)直ちに退去していただく場合があります。この場合見学は出来ませんがご承知ください」というような説明があった。
さあ、行こう。
ツアー客はみな緊張している。
●板門店レポート(5)----奥の軍人の背後には へ
2005 11 12 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
板門店レポート(3)----JSA内へ
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
「臨津江(イムジンガン)と漢江が合流するんです。そうすると(北朝鮮が)見えてきますよ」
朝鮮の人々にとって国きっての二つの大河、臨津江と漢江が合流するまさにその地点で民族が分断されたという皮肉。そして悲劇は、臨津江(イムジン河)という歌にも、切々と歌いこまれている。日本人でも知る人は多いだろう。
「イムジン河」
イムジン河 水清く とうとうと流る
水鳥 自由にむらがり 飛び交うよ
我が祖国 南の地 想いははるか
イムジン河 水清く とうとうと流る
北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの
イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
河よ 想いを伝えておくれ
ふるさとを いつまでも忘れはしない
イムジン河 水清く とうとうと流る(朴世永原詩・松山猛訳詞・高宗漢作曲 )
Kさんの言葉通り、臨津江と漢江の大きな流れが、バスの左手でまさに合流しようとしていた。そして、その合流した地点をはさんで遥か先。うっすらといくつかの建物が見えてきた。
「北朝鮮です。」
とKさんが言う。僕はバスの窓にへばりつき、初めて見る国の遠影に目を凝らした。ここから先。ソウルから90分走ってきた我々の世界がここで終わり、ここから先には、全く未知の世界が広がっている。何度もテレビや新聞では見たけれど、今僕が生きている世界と、北朝鮮の空気の繋がりはリアルに感じることが出来なかった。自分の暮らしている世界とは異次元の、遠い遠い別の世界でしかなかった北朝鮮。
それがいま目の前に現れようとしていた。
山があり、河がある。そして家がある。空は続いているが、その空気は見えない境界で、厳然として「2つに」区切られていた。
Kさんにはおそらく僕の興奮が伝わったのだろうと思う。その様子を興味深げに眺めている。そして
「ずいぶん晴れてきましたねえ。良かった・」
とつぶやく。確かに気がついてみれば、朝ソウルを出るときには今にも降り出しそうな天気だったのに、すっかり空は明るくなっている。
「これなら撮影できるかもしれません」
北朝鮮の宣伝村を撮影しようと、昨日に続いてこのツアーに参加しているKさんはほっとしている様子である。
間もなくバスは共同警備区域(JSA)の検問所に連なる車列に着く。韓国軍の検問である。
JSAでは約800m四方のエリアに、24棟の建物が建っている。その中にはよく映像でおなじみの、北朝鮮との最接近地域・軍事停戦委員会の会議室や事務所、各種の会議棟が建っている。
「みなさん、ここから先は戦場です。どんなことがあっても全て軍の指示に従ってください。兵士が今から乗り込んできますから、パスポートをはっきりと見せてください。たまに兵士から服装について注意がある場合があります。その場合には、代わりの洋服をバスの中に用意してありますから、それに着替えてください。」
ガイドの声が響く。さらに
「ここから先の場所で任務についている兵士は24時間大変に緊張しています。どんなときも大声を出したり、急に走ったり、それから兵士を指差したりしないでください。先ほど言ったように、写真は原則として撮影できません。許可のある場所では撮って良いですと私が言いますから、それ以外の場所では絶対に撮影しないでください。」
バスの中がまた静まり返る。
やがて韓国軍の迷彩色の軍服に身を包んだ兵士がバスに乗り込んできた。前から順に一人ひとりのパスポートをチェックして回る。丁寧だが笑顔はない。
僕はさっきから迷っている。JSAゲートと、パスポートチェックの兵士を何とか撮影できないか。手の中でカメラ付携帯電話を握り締めるが、撮影音のことを考えるととてむ無理だ。勇気が出ない。
やがて無表情の兵士が目の前に来る。無言でパスポートを差し出すと一瞬兵士と目が合った。若い。どう見ても、昨日の夜過ごしたミョンドンでデートしている若者たちと同世代である。
バスはゲートの中に入る。いよいよJSAの中に入ったのだ。
この後国連軍のバスに乗り換えるために、乗客は全員バスの外におろされる。殺風景な駐車場のような場所に、国連軍管轄のバスが待っており、護衛のための武装したジープがいる。駐車場にはJSAの紋章。降りた場所で乗客は1列に並ばされて再度パスポートチェックである。一人ひとり、国連軍のマークをつけた兵士にパスポートを見せる。
「感じが悪いな。並ばされるなんて何だかいやだな・・」
と誰かが小声でつぶやくけれどみんな反応しない。
このあたりで僕は許可なしの場所で撮影して帰ろうという意欲を失い始めていた。目の前にある圧倒的な「力」を前にすると、人はとにかくその場を無事にやり過ごすことしか考えなくなるというが、その気持ちがわかったような気がした。目立ったり、目をつけられたりしないように。それしか考えなくなる。![]()
(国連軍のバスに乗り換えるJSA内の駐車場)
※いずれも写真はクリックすると拡大されます。
(米国旗と国連のJSA紋章が並んでいる。ここでは写真が比較的自由に撮れる。)
(バスの扉にもJSAの文字が)
(護衛の国連軍ジープ)
いくら兵士の態度が丁重でも、ここは「休戦状態」にある「戦場」である。その空気が一層強く感じられた。
パスポート検査を終えて、国連軍のバスに乗り込んだ。見ると運転手も(当然ながら)迷彩色に身を包んだ国連軍(米軍)兵士である。黙って横を通って席につく。座席は先ほどまでのツアーバスと全く同じ席順を強いられる。席を替わったり移動したりする自由はない。
2005 11 12 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
November 11, 2005
政府インターネットテレビ----ブロガー懇親している場合じゃないかも>民主党様
報道では聞いていたけれど、
そふとさん、霞ヶ関官僚日記経由で見てみた政府インターネットテレビ 。
ベタな名称だけれど、クリックすると結構「ぎゃっ」。
調べてみると、昨年の12月に既にコンペに出されていたもの。
既に1年前だぜ。懇談している場合じゃないかもだよ。前原さん。
Webサイト(「政府インターネットテレビ(仮称)」)のシステム開発の企画競争について
既存の記者クラブ等々の折り合いは?
メディアとはどのくらい「ナシ」がついているの?
今日の段階では疑問だらけ。
2005 11 11 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
November 09, 2005
本田美奈子の死-----僕は「ミス・サイゴン」を忘れない
![]()
その日。 深夜のネットサーフィンで手が止まった。
画面右下にあるニュースチェッカーに文字が流れた。
本田美奈子の死。
白血病のことは知っていたが、まさかと思っていた。
その日は一日忙しく、ニュースを知るのが遅れた。いつも人の死は知らないうちに唐突にやってくる。
「生者は死者に煩わされるべからず。」とは釈迦の言葉だと言う。
#弟子が釈迦の葬式をどうすればよいか尋ねたところ、『自分の葬儀は在家の者がやるから、おまえ達は修行に励みなさい』と言ったと言い、その際の言葉として伝えられている。
そんなことはできないと思う。そんなことはできない。
生者は死者に惑わされるべきである。煩わされるべきである。それがこの世に同じ時期に生きた者同士の最後の、最後の礼儀ではないか。
その時、聞こえてきた爆音があった。
ヘリコプターの爆音。
ベトナム戦争の最後のクライマックス。考えもしなかった米国の敗北。
米国大使館から人を振り落としそうになりながら飛び立っていくヘリコプター。
サイゴン陥落。
20世紀の中でも指折りの、衝撃的なシーンのひとつとして目に焼きついている。
テレビでこの映像を見たとき、いったい何が起きたのか。世界に何が起こったのか信じられなかった。
そしてそれは本田美奈子が主演したあの「ミス・サイゴン」のクライマックスシーンでもあった。
舞台に登場した原寸大のヘリコプター、響く爆音と米国撤退の断末魔。そのすさまじい迫力に呆然として見入った。そしてそこに立っていたのが、本田美奈子演じるヒロインのキムだ。米国人の恋人クリスとの別れのシーン。
「ミス・サイゴン」は、「レ・ミゼラブル」のスタッフが制作したロンドン・ミュージカルである。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」をベースに、物語の舞台をベトナムに変え、ミュージカル化した作品と言われている。厭戦気分の満ちた陥落直前のサイゴンを舞台に、GIクリスとキャバレーに勤めるキムの恋を軸に展開した物語。
思えばクリスは故郷に帰ってからもベトナムの残像に苦しむ帰還兵であった。
実物大のヘリコプターの他、高さ5m以上もあるホーチミン像を使用。日本では、初演から前代未聞の17ヶ月・745ステージのロングランを行った。1992年5月から約1年半、東京・帝国劇場で上演されたこの舞台で、市村正親と共演した、本田美奈子演じるキムの凄まじいばかりの演技に観客は圧倒された。
たまたま当時、この舞台を見ることのできた幸運を、今だからこそ、ありがたく思う。
あの細い体から信じられないような声量あふれる、抜群の歌唱力。高音までまったく衰えなく響き渡る歌声。背筋が震えたのを覚えている。
この作品は、歌唱力はあるものの、単なるアイドル歌手だと思われてた世間の本田美奈子のイメージを完全に変えた。
あれからもう13年。本田美奈子は倒れた。
こちらのサイトで、彼女の「アメイジンググレイス」が紹介されていた。僕もiPodにダウンロードして、久しぶりに本田美奈子を聴いた。
移動途中の銀座線の車内の空間がふいに色相を変え、彼女の声が響き渡る。
あのころはぎりぎりまで、何か折れてしまいそうな繊細さと痛々しさすらあった、振り絞るような彼女の声は、いつの間にか少し穏やかな丸みを帯びた大人の女性の歌声に変わっていた。
僕は長い間、この歌声を忘れていた。
申し訳なかった、とその時思った。
生きる者は死んだ者に煩わされてはならない。
そんな言葉は嘘だ。
僕はあなたの「ミス・サイゴン」を生涯忘れない。
【参考】
アメイジング・グレイス
LIFE~本田美奈子プレミアムベスト~(初回限定盤)
ミスサイゴン(本田美奈子他)
【追記】
Wikipediaによると「2004年11月、画数を31画となるよう名前の後に「.(ドット)」をつける改名を行った。」とか。正しくは本田美奈子.なんだね。知らなかった。
2005 11 09 [音楽] | 固定リンク | コメント(7) | トラックバック
November 07, 2005
板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
「多いときは1日2回ってどういうことですか?」と聞くとKさんは説明してくれた。彼は、DMZに面した北朝鮮の宣伝村を長年撮影しているアマチュアカメラマンである。
※宣伝村は非武装地帯にあるが、洗濯物や煮炊きなどの痕跡が何十年間もないことから、住民が一人も住んでいないと言われている北朝鮮の、南側への宣伝を目的として作られた村である。ここには世界最大と言われる北朝鮮の国旗掲揚塔があるが、その上げ下ろしと南側の監視の目的で15-20名が住んでいるにしか過ぎないといわれている。
遠目には一見近代マンションが林立しているが、マンションはおろか、その窓ですら偽装であると言われている。
(北朝鮮の宣伝村 →一見近代的なマンション群である。数十名しか居住していないし、全員偵察員だと韓国側ガイドは言う。現在は南北共に宣伝放送は停止している)
Kさんはこの宣伝村を望遠で長年撮影しているが、DMZをはさんで対峙する宣伝村は、その日の天候によって大きく視界を左右される。天候の良い日だと通行する「住民」の顔まで見えるが、天候不順だと撮影はできない。勢い、Kさんは執拗までに何度も通いつめることになるのだが、なぜそこまでして宣伝村を撮るのか、仔細は明かしてくれなかった。執拗にツアーに参加し続けるKさんの行為は韓国政府の知ることとなり、呼び出されてその意図を詰問されたことすらあるという。聞けば写真展や出版も企画しているのだが、それには国連軍の許可が要るということで、それも具体化していない。
一体、何を目的にしてそこまで撮るのか。何とも不思議な人である。
そうこうするうち、ガイドが板門店見学の注意を説明し始めた。ツアー参加前にもこれは提示されていたが、それによれば
(1)ここで撮影ができると言われたところ以外は全て撮影禁止である。
(2)ジーパンもしくはそれに類した服装は駄目。このバスの中に替えの服が用意してあるので軍に注意された場合、着替えてもらう。理由は、ジーパンは米帝国主義の象徴であるとして北朝鮮兵士をいたく刺激するからだという。
※ここで私はKさんが立派なブルージーンズをはいているのを発見。Kさん、「大丈夫、大丈夫。これで昨日も行っているから。昔ほど厳しくないんです」と笑う。やれやれ。
(3)迷彩服やカーキ色の服も禁止。これは理由は言うまでもあるまい。
(4)サンダルなど脱げ易い履物は禁止。DMZではいつ「非常事態」が発生しないとも限らない。全速力で走って逃げてもらうかもしれない(!!)国連軍は、そうした事態の際、運動しにくサンダルなどを履いている見学者を保護しきれない。
(5)これより先は全面的に国連軍のゲストとして、その指揮下に入ってもらう(!!)必ずバッジを着用すること。全ては国連軍の判断に従うように願いたい。見学終了は2時頃だが、非常時の場合には時間は彼らによって自由に変更される。板門店JSA内に入れない場合もあるし、すぐに帰れない場合もある。(!!!)
(6)絶対に北朝鮮の軍人を指差さないこと。攻撃とみなされる場合がある。(!!!!!)
そして「訪問者(見学者)宣言書」という誓約書にサインをすることを求められる。その冒頭には以下の文字。
1.板門店の統合警備地区の見物は、敵性地域への立ち入りを伴わない。敵の行動(活動)によっては危害を受けるまたは死亡する可能性があります。統合警備地区は中立地域ですが、一方(南)は国連軍の軍人により、他方(北)は北朝鮮の陸軍軍人によって、それぞれ分割警備されています。
国連軍のゲストの皆様は、軍事境界線を越えて北朝鮮軍の管理する統合警備地区に立ち入ることは許されていません。
また、事変・事件を予期することはできませんので国連軍、アメリカ合衆国および大韓民国は、訪問者の安全を保証することはできませんし、敵の行う行動に対して、責任を負う事はできません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!!
バスの中は通夜のように静まり返って誰も口を利かなくなった。
何か悪い冗談を聞かされているようである。この話に落ちはないのか。頼むから「言い過ぎました」と言ってほしい。結構なところに来ちゃったんじゃないか・・おれ。
それをよそに隣でKさんがささやく。
「見えてきましたよ!あそこあそこ!」