SNS

My Photo

BooksBooks

無料ブログはココログ

« アクセス忍者TOOLSの色仕掛け---嫌なことに気がついてしまった | Main | 夕刻の頃。ぐっと。 »

November 30, 2005

なぜ僕は未だ誰も殺していないのか(2)---「暗闇」を「暗闇」から覗き込むということ。

異彩を放つような犯罪を起こす若者が出るたびに、「幼少時の親の愛情」に問題があったように言う人がいる。

つまり、どんな人にも幼児期というものがあり、その時期に愛情を受けることは人の心を強くするための重大な条件の一つではないか、ということです。
家族の愛を経験したその子どもがその後どんな人生を送ることになろうが、(たとえ、犯罪や戦争に巻き込まれて悲惨な経験をしようが、あるいは、自分自身が犯罪を犯してしまうことになろうが)、絶望から這い上がる力を育むのは、自己の土台を作ってくれた「愛」ではないのか、ということです。そして、その「愛」が育まれる場は、多くの場合、家庭であろうと思うわけです。・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・

人類は全員がまっすぐに育つ必要はなく、何かが起こった時に、再び立ち上がる力を持っているかどうか、子ども時代にその根っこが形成されているかどうか、それが問題なのだと私は思うのですが、間違っているでしょうか。

(「愛は絶望から這い上がる」--幸か不幸か専業主婦)

自分の話を何度も繰り返すのももう嫌になったから、前から読んでいる人だけわかってくれればいいけれど、こういう言説に対して僕はどう対峙したらいいのか、いつも困惑して佇むのである。もしも「絶望から這い上がる力を育む」のが、「自己の土台を作ってくれた」家族であるとするならば、極端な猟奇的な犯罪を犯す子供には、この「土台」がなかったのではないかと人は誘導される。

所詮、闇を覗き込む時には自分のいる小さな場所から覗き込むしかないのではないかと真魚さんに言ったのは、まさにこういうことであり、「自己の土台」を欠損している多くの人々の眼差しは、こういう出来事が起きるたびに、恐る恐る暗闇を暗闇から覗き込んでいるのである。

だからといって、「愛情が人間形成に関係ない」などという論は、合理的に考えれば同意できるものではない。となれば、先に引用した言説に、根本的な過ちなど、はなからないのである。しかし、「僕たち」がこの言説を肯定するところから、いったいどんな希望が生まれるというのか。どんな未来が生まれるというのか。
犯罪をなした若者の周囲に、親の愛が無かったのではないかと考えることは不自然な言説ではないのは重々承知だが、その立場に立つところに「僕たち」の未来はない。人は、これを生まれながら欠いたままでも、生を送ることもあるのである。

思えば僕が「なぜ僕は未だ誰も殺していないのか」と先に問うたのは、おそらく社会の、この種の無言の力を感じるからであり、その「圧力」(「圧力」に思えるのだよ。)に素直に従えば自己の生の否定に繋がる。かといってその「圧力」を否めば、内的・先天的な要素から隔絶して、人間不思議の事件を説明しなければならないという、極めて困難な立場に追いやられる。
結果、顔を伏せ、目をそらし、誰も見えないという暗闇に向かって、密かに自分の抱える暗闇から、誰にもわからない記憶をまぶして、そっと息を吹きかけるだけである。

「暗闇」から「暗闇」を覗き込むように。

思えば、「保守的」な立場や思想に馴染まずに年齢を重ねているのは、「保守的な人々」が、しばしば人間形成の原点に「健全な家庭」を不可欠なものとして置くからであり、「親子の情愛」を置くからであり、それを発展させて家族的結束に包まれた国民国家を描くからである。ジグゾーパズルのように組みあがったその論理は、一見して欠損はないように見えようが、不可逆のカルマに出発点を持つものへの眼差しはない。遅れてくる者、常を踏み外すことを強いられたものへの理解はないのである。パズルの襞に挟まれて苦悩する者の存在を忘れてはいないか。

彼あるいは彼女は言う。
もしも仮に「失敗した人生」があれば、それは「失敗しなければ良かったのだ」と。
もしも「殺した者」がいれば「殺さなければ良かったのだ」。
そしてもしも「崩壊した家庭」があればこう言うだろう。

「崩壊しない家庭を作れば良かったのだ」と。

「僕たち」はそれを「僕たちの暗闇」から息を潜めて聞くだけである。
何度も聞かされてきた台詞だ。
あの雪の日にも。あの夕景の日にも。あの秋暮の日にも。

おそらく、「あなたたち」には一度も聞こえたことの無い声だ。

いま一度言う。

僕は、いや「僕たち」は未だ誰も殺していない。しかし。

彼女との差異は、いや無数の「彼女たち」との差異は、たったそれだけのことのように思えてならない。宇宙の時間の中では、瞬きのような差異でしかないように思えてならないのだ。

そう思うところから「僕たち」は時を紡ぐ。「あなたたち」は「あなたたち」の道を行けばいい。だが「僕たち」はここから始めるのだ。今立っているこの場所から。「僕たち」は、この世界でそうすることしかできないのだから。

ここから。


【参考記事】
●なぜ僕は未だ誰も殺していないのか---少女の立っている場所
●「親でもないくせに」へのオマージュ-----不可逆の悪魔



 

« アクセス忍者TOOLSの色仕掛け---嫌なことに気がついてしまった | Main | 夕刻の頃。ぐっと。 »

Comments

Big Banさん、はじめまして。
拙ブログを取り上げていただき有難うございます。

とても文学的な素晴らしい文章をお書きになりますね。
私のような単純な切れ切れの文章をネット上に晒すのが恥ずかしくなるほどです。

私は文学的複雑表現を理解する能力に乏しいのですが、仰ることはよくわかります。
要約すれば、「幸せな家庭にぬくぬくと育った者に心に闇を抱えた者の苦しみの何がわかる」ということだと思います。

私自身が幸せな家庭でぬくぬくと育ったかどうかはさておいて、人の個性や思想は持って生まれたDNAや育った環境によって形作られますよね。

であるならば、Big Banさんの思想と私の思想が根本的に違ったとしても何の不思議もないわけです。
それを、お互い、「想像力が欠如している。間違っている」と責め合ってどうなるものでもないのです。

お互いに理解し合う努力は必要だと思いますが、人の考え方はそれぞれです。

私は「愛はすべてを解決する万能薬だ」と言っているわけでなく、(だから「重大な条件の一つ」と書いていますね) 愛は人の心を強くする、というごく単純な昔から言われていることを述べているだけです。

>極端な猟奇的な犯罪を犯す子供には、この「土台」がなかったのではないかと人は誘導される。<

これについても、真魚さんのところや、私のところのコメント欄で意見を述べています(どうかお読みください)。
通常の非行とは区別されるべきだと私は考えています。

Big Banさんの記事を読んでいないので、今までどんなことを書いてこられたのかわからないのですが、なんとな~くですが、私のブログはお読みくださってるのかなあ、なんて、今回の記事から感じます。

いずれにしてもね、Big Banさん、何を言われようと、私は「愛」を信じているんですよ。
それでないと、人間は何でこんなところに存在させられいるのか説明がつかないじゃありませんか。

今晩は。突然の引用失礼しました。

誤解されると困りますが、私はあなたの「愛についての考え方」を批判してるのではないのですよ。あなたのおっしゃることは正論です。正論ですが、その正論に嵌らないケースが出た場合、どのように対峙されるのかという自らの疑問を申し上げているのです。

あなたが「幸せな家庭にぬくぬくと育った」かどうかは私には不可知です。同様に、あなたもまた「踏み外した」少女やその他の問題を起こした若者の生い立ちに関しても、そして私に関しても不可知であるはずです。

何よりも、「問題を起こさない」多くの「愛を欠いた」子供たちがこの世にはいます。
幼少時に愛情を受けることが重要だというのは、誰も異議を唱えることは出来ないでしょう。私も今は子供がいますから、親の立場からはあなたの論理に同意します。できるだけのことをしてやりたいと思います。

ですが、「かつて子供であった」者の視線からはそうした見方をされることは、救いになりません。

なぜなら、不幸にして「幼少時に愛情を受けること欠いた」多くの子供たちは、本人の努力ではどうすることもできなかった先天的運命として「そこにいる」のであり、「愛情を受けること」の重要性を社会が説けば説くほど、それは欠損を抱えるものにとって辛い状況となって突き刺さるからです。彼らは、自分の努力では「愛を受ける」ことが出来なかったのです。持たない者にとって、いくら持つことの重要さを説かれても、時は逆に戻すことはできません。(戦いに明け暮れる国にあって、いくら平和の重要さを説かれても、目の前で今日も響く銃声をどうしたらいいというのでしょうか?)

端的に言えば、人をなぜ属性(それも変更できない先天的な属性)で語り起こさなければならないのでしょうか。幼少時の愛情を欠いている子供というのは、家庭に問題があり、あるいは崩壊している子供であるとすれば、これは言わば「社会的属性」です。「母子家庭」という「社会的属性」は存在しますが、その「社会的属性」に必然的にリンクする、「その子供の属性」などというものは、本来無いはずです。なぜならその子供たちにも、より先天的な属性=個性というものがあるからです。

一方で両親はそろっていたほうがいい。愛情は十分にあったほうがいい。しかし「その子」はそれが不幸にして得られなかったのです。その場合、どうなりますか?その子は人格形成にハンディを持つ可能性が高くなるのですか?その社会的属性によって?このハンディを私たちの社会は認めているのですか?それとも認めないのですか?どちらでしょうか。


私はむしろ、「その子」がハンディを背負うとすれば、人格形成以上に、「普通の社会や人々からの視線」によるものの方が、遥かに大きいと考えています。これは、私の個人的実感です。これは合理的に検証できるものではありません。ただ、そう考える者も存在していることは「想像」していただければと「希望」します。

人が問題を起こしたならば、それはその問題を起こした個人とその固有の環境に、近接して問題の原因を見つけなければならないはずで(所謂、臨床的なアプローチだと思います)、「ごく単純な昔から言われている」社会的な属性から言を発しなくても、語れるし、あるいは固有の事情が見えなければ、そもそも一般的視点で語ることはできないのではないでしょうか。
具体的に言えば、あの問題の少女が「幼少時に愛を欠いていた」かどうかもまだ不明です。多くのことが見えない以上、彼女に関して言えば、それを語る時期ですらないと私は思っています。

あなたは


>私は「愛はすべてを解決する万能薬だ」と言っているわけでなく、(だから「重大な条件の一つ」と書いていますね) 愛は人の心を強くする、というごく単純な昔から言われていることを述べているだけです。


とおっしゃっていますが、私はまさにこの、「ごく単純な昔から言われていること」に納得がいきません。それで疑問を提示しているのです。


愛が大切なのはわかる。
しかし、愛を欠いた場合はどうなりますか?


真魚さんとのコメントのやりとりや、他の記事も読ませていただいています。愛が全てではないとおっしゃりながら、問題を起こした少女は、


>社会的な要因でこういう子が出現したというより、やはり、脳のどこかが「壊れている」、つまり、「病気」と考えたほうが良いようですね。
社会的状況が生んだと思われるその他の非行とは区別されるべきだと思います。

と評されている。

愛が原因で無いとすれば彼女の「脳が壊れている」のでしょうか?あるいはそうかもしれません。しかしそうでないかもしれません。あなたや私にこの先がわかるのですか?今の段階で何を根拠に?私にはわかりません。それを「闇」と呼んでいる。ここで真魚さんと私は一致しているように思います。


>いずれにしてもね、Big Banさん、何を言われようと、私は「愛」を信じているんですよ。それでないと、人間は何でこんなところに存在させられいるのか説明がつかないじゃありませんか。

同感です。私も「愛」を信じたいと思います。ですが私は「愛を欠いている」子供のことも信じます。

人は「愛」があれば幸せになれるのかもしれませんが、不幸にして「愛」を受けなくても幸福になれるはずですし、その資格もあると思います。たとえ幼少時に自分が愛されなくても、自分が人を愛することはできるはずでしょう?

問題は私たちの眼差しの側にあるとは思われませんでしょうか?

 個人主義というよりは利己主義的なくせに、変なところで保守的なことを言い出す、要するに最近ありがちな社会不適応者、ボクシングファンです、こんにちは。

 そんな僕は、「家族尊重主義」みたいな発言、結構していたりします。その意味で、今回のエントリーには思うところ多かったです。

 最初はコメント欄に書こうかと思ったのですが、長くなってしまったので、トラックバック代わりに僕の日記にリンクを貼らせていただきました(URL欄)。

 日付が昨日になっていますが、これは昨日からああでもないこうでもないと、ずっと推敲していてこの時間になってしまったことを意味しています。基本的にはビッグバンさんとロビタさんのエントリーだけを読んだ状態で書いた物なのですが、今ここに貼り付けに来てみたら、ビッグバンさんのコメントとかなりかぶっているかもしれません(でも肝心なところに違和感を感じられるかもしれませんが)。

 以上、よろしくお願いしますm(_)m

なんかリンクの調子が悪いので、
もう一度URL欄にコピペし直します。
すいません。

Big Banさん、おはようございます。
あの~、私はどうしてあなたが反論のような口調で物を言われるのかさっぱりわからないのです。

私の言ってることもあなたの言ってることも正しいのです。ただ、別の問題について語ってるだけなんじゃないですか?

どう言えばわかってもらえるのかなあ・・・。

あのね、これは大きな声では言えないのですけど、わかってもらうために、BigBanさんだけにこっそり言いますね。

奈良で小学一年の女の子が新聞配達員の男に殺された事件がありましたよね。あの事件についてうちの長女と話したのですが、彼女は「この男は本当に凶悪だけど、でも、私、憎いというより可哀想という気がする」と言うんですね。

私は彼女がそのように思い至る気持ちがすごくよくわかるのです。もちろん、愛する子どもを殺された家族にしてみれば憎んでも憎みきれない鬼畜のような男ですから、可哀想だなんて言えば世間から袋叩きに遭うでしょう。だからこういうことは家族の間でしか言えません。

でも、幼少時から家族の愛を受けられず、いつもひとりぼっちで、自分の心の暗い部分としか向き合うことができなかった彼を私たちは「可哀想」と思うのです。

また、宮崎勤、彼は父親から性的虐待を受けていたなどとも言われます。信憑性のほどはわかりませんが、不幸な家族関係が彼の心を歪めたのであるならば、やはり「可哀想」という言葉しか私には思いつきません。

そして、「愛を受けたかどうかわからない」「愛を受けていても」、猟奇的犯行を実行してしまったその他の少年少女たちもいます。この子たちはそういう「病」を持って生まれついたのかもしれないし、そうでないかもしれない。

BigBanさんは神谷美恵子という精神科医をご存知ですか。もうこの世にはおられないのですが、ハンセン病患者のケアに半生を捧げられました。

私は神谷さんの「なぜ私でなくあなたが」という言葉を心に刻んでいるつもりです。

反論ではなく話し合いたいということです。それにここはblogsphereです。「ここだけ」の話などありません。まあおわかりでしょうが。

>でも、幼少時から家族の愛を受けられず、いつもひとりぼっちで、自分の心の暗い部分としか向き合うことができなかった彼を私たちは「可哀想」と思うのです。

>不幸な家族関係が彼の心を歪めたのであるならば、やはり「可哀想」という言葉しか私には思いつきません。

なるほど。そうですか。

要は「「可哀想」という言葉しか私には思いつきません。」ということですね。
#つまり「可哀想」とまでは「こっそりと」言っていただけたわけです。


やはり残念ながら私の意図はあなたに通じていないような気がします。でもあなたのような受け止め方が、おそらく社会の多数派なのでありましょう。それは、私は今までにもいろんな機会で感じ取ってきたこの世の空気ですから、今ここで局地的に力んだところで何も変わらないことはよく知っています。ただ、私が何にこだわっているかについて、伝わった人には伝わったのではないかと思い、このリレーも無駄ではなかったと思うしかないですね。

どちらの言い分が正しいかなどという点には、私は関心がありません。どこまで相手の言うことを理解できるかできないか、それだけのことです。その度合に賭けて私たちは交流しているのでしょう。人それぞれ物事への感じ方が違うなどということは、言うに及びません。

実のところ、このあなたのコメントには疲労感を覚えますが、いくらかの交流があなたとあっただけでも私は良とすることにします。あなたと私の時間はまだこの先も続きますから、いつか違う形で接点を持つこともできましょう。それを期待することにします。

では。

コメントありがとうございます。後で記事を読ませていただきます。

BigBanさん、さっそくお返事ありがとうございます。
私もさっそく書きますね。
私もあなたの語りには疲労感を覚えますね~。(笑)
もう書かないでおこうとは思ったのですが、
【 要は「「可哀想」という言葉しか私には思いつきません。」ということですね。
#つまり「可哀想」とまでは「こっそりと」言っていただけたわけです。】

この表現で思い直したのでもう一回だけね。

あなたのように、表現力の豊かな、文章力のあるかたなら、「可哀想」をもっと他の言葉に変え装飾を加え、人を感動させる文章を作り上げることができるでしょう。

しかし、例えば、あなたの前のコメントの中;

【不幸にして「幼少時に愛情を受けること欠いた」多くの子供たちは、本人の努力ではどうすることもできなかった先天的運命として「そこにいる」のであり、「愛情を受けること」の重要性を社会が説けば説くほど、それは欠損を抱えるものにとって辛い状況となって突き刺さるからです。彼らは、自分の努力では「愛を受ける」ことが出来なかったのです。持たない者にとって、いくら持つことの重要さを説かれても、時は逆に戻すことはできません。】

【私はむしろ、「その子」がハンディを背負うとすれば、人格形成以上に、「普通の社会や人々からの視線」によるものの方が、遥かに大きいと考えています。これは、私の個人的実感です。これは合理的に検証できるものではありません。ただ、そう考える者も存在していることは「想像」していただければと「希望」します。】

【人が問題を起こしたならば、それはその問題を起こした個人とその固有の環境に、近接して問題の原因を見つけなければならないはずで(所謂、臨床的なアプローチだと思います)、「ごく単純な昔から言われている」社会的な属性から言を発しなくても、語れるし、あるいは固有の事情が見えなければ、そもそも一般的視点で語ることはできないのではないでしょうか。】

【人は「愛」があれば幸せになれるのかもしれませんが、不幸にして「愛」を受けなくても幸福になれるはずですし、その資格もあると思います。たとえ幼少時に自分が愛されなくても、自分が人を愛することはできるはずでしょう?

問題は私たちの眼差しの側にあるとは思われませんでしょうか?】

このようにいっぱいいっぱい色々な表現を駆使して語っておられますが、あなたが語っておられるこれらのことは、「どんな事情があったかわからないのだから可哀想ではありませんか。私たちはそういう人たちがどうしてそうなったかを知る必要があると思います。」という意味だと言ってはいけませんか?

だからこそ、いろいろな研究者が精神医学や心理学や社会学などの分野で一所懸命研究し続けているのではありませんか?

「不幸な人を可哀想と言ってはいけない」、この抑圧がどれほど人を困惑させてきたことでしょうか。

「可哀想」でなければ、いったい何と言えばいいのでしょう。その人自身が言ってほしくない言葉であればもちろん言ってはならないわけですが、少なくとも私たちはそう「思います」。

【#つまり「可哀想」とまでは「こっそりと」言っていただけたわけです】

あなたのこの言い方には「言葉狩り」に似たやりきれなさを感じます。

この少年少女はあなただったかもしれないし、私だったかもしれないのです。そうしたら、やはりあなたや私は「可哀想」と思われ、研究の対象になっていたでしょう。

「なぜ私でなくあなたが」。誰もがこの視点を忘れてはならないと思います。

あなたは、「私の言っていることはわかる人にわかればいいんだ」と仰いますが、ほとんどの人はあなたの仰っていることの意味はわかると思いますよ。
それとも、私があなたの文章を読み取る能力がないんでしょうか。
そうだとしたら、もう少しわかりやすい素朴な文章を書いていただいていたら私にもわかったかもしれません。
ことさら難しい言葉やまわりくどい表現(失礼)を使って論理を展開しようとすると、理解は得にくいのではないですか。

あなたと私の意見は「こうなのだ」「いや、それはちがう。こうなのだ」というような、正反対の立場にあるものではなく、「こうである。そして、こうなのである。」という、同じ論理系列の中に含まれるものだと思うのですがちがいますか。
だから、仰るように、「どちらが正しいか」などというたぐいの話ではないと思いますよ。

お返事は結構です。
同じ事を言葉を変えて仰るだけだと思いますので、書いてくださっても、私はもう、これ以上の言葉を持ちません。

なんか失礼な言葉ばかり並べてごめんなさいね。
怒ってるわけではないのですが、文字にするときつくなってしまいます。

では。

Post a comment

(Not displayed with comment.)

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/28156/7389778

Listed below are links to weblogs that reference なぜ僕は未だ誰も殺していないのか(2)---「暗闇」を「暗闇」から覗き込むということ。:

« アクセス忍者TOOLSの色仕掛け---嫌なことに気がついてしまった | Main | 夕刻の頃。ぐっと。 »

-