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December 31, 2005
ばらばらにされた1人1人---大晦日に
そろそろ今年最後のエントリーになる。
なぜブログを書くのか、なぜブログを続けるのか。
こんな単純な問いにも答えることができないまま続けたこのブログも、304本の記事を持つ場所になった。
そして気がつけば今年も大晦日である
昨日、高田さんの「ニュースの現場で考えること」を読んでいた。そこに書かれた、ご友人からのメールの心打つ内容に、のめりながら読み進んでいたら、なぜか私の2本の記事へのリンクが、あまり説明もされずに掲載されていた。
そして、何の脈絡もなく、BigBangさんが少し前に書かれたエントリ「僕はいつ『ブロガー』」などという謎の生き物になったのだろう。」を読んだ。「僕らは静かに消えていく」も読んだ。(「そして、年がまた重なる」--ニュースの現場で考えること)
驚いた後、このどちらかというと地味な記事に触れて下さった意味を、記事を読み返しながら少しの間、考えて見た。少々手前味噌であるいは見当はずれかもしれないけれど、おつき合い願えるとありがたい。
ブログブームだの何だのと言ったって、ほとんどの人間はブログのことなど考えて生きていない。(中略)しかし、そもそもブログをする人がもっと増えてくれば、社会はブロガーだらけになるのであり、ブロガーだらけの社会では属性としての「ブロガー」は逆説的に言えば、消えていくのである。属性としての存在理由を失うからである。過去にも多くのものがそうやって消えて行った。(中略)属性としての「ブロガー」は消えていく運命にあるのだ。
(僕らは静かに消えていく)
明日僕はブログをやめるかもしれないし、筆をいやキーボードを折る(!)かもしれない。それでも僕はこの国で生きていくだろうし、何らかの手段で発言を続けるだろう。呼吸もするだろう。飯も食うだろう。相変わらず君にも振り回されるだろう。
ここで死について書くだろうし、詩についても書くだろう。混乱し錯乱し冷静になればまた、板門店や(ああ板門店のことを早く書きたい)、犬や政治のことを書くだろう。「ブロガー」は僕の呼び名ではない。僕はBigBanである。(それも永遠ではないけれど)。
(僕はいつ「ブロガー」などという謎の生き物になったのだろう。)
そして、高田さんの書いた記事と自分の書いた記事を読み合わせて、僕はブログを書いてきたこの1年間の時間を思い、去っていった人のことを思い、新たに知った人のことを考え、出来る限り全ての僕の周りの人のことを考えた。
そして、さらに僕たちがブログを書くことに、いや違う。生きていることに、そこにもしも「意味」があるとすれば、その「意味」に外形があるとすれば、それはどんな顔をしているのだろうとぼんやりと考えた。
いや。僕は本当は知っているのだ。「意味」には明確な姿などないことを。
僕たちは生きていることの意味も、その意味の意味も知らないまま漂って、いつか消えていく。もしも意味に何らかの形があるとすれば、それは思い出す有限の人々の顔と、その人たちが自分に残していく言葉にのみあるのではないか。たとえ故人であっても。
書くことの意味を考えることは、大袈裟に言うと、生きていくことの意味に直結しているのだと思う。
友人はメールの最後に「ありきたりですが、ばらばらにされた一人一人を結ぶ大きな仕事を君の力でぜひ実現してください。期待しています」と書いていた。その言葉を聞くことが、いまは苦しいくもる。けれども、私も他の誰も、進むことを止めるわけにはいかないのだと思う。進んでいる方角が分からなくても、足を前に出すことは止められない。。。いつの間にか、私や私のような世代は、そういう年齢に達しているのだ。「そして、年がまた重なる」(「そして、年がまた重なる」--ニュースの現場で考えること)
「ばらばらにされた1人1人」を結ぶことのほんの一端が、この僕にもできるのだろうか。できないかもしれない。できないかもしれないが、もしその1人1人が苦しんでいるとすれば、救うことは出来なくても、せめて「ばらばらに苦しむのはやめよう」と呼びかけることくらいは、自分にもできるかもしれない。不安に1人で震えていれば、せめて「ばらばらに不安になるのはやめよう」と呼びかけることもできるかもしれない。
そんなことを考えさせてくれた人達、今年出会い時間を過ごした全ての人達に感謝します。多くの幸いがその全ての人達にありますことを。
今年1年間ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
2005 12 31 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
誰がルールを決めるのか?----オーバーチュア問題と「公共性」
先のエントリーに関連して「踊る新聞屋-。」さんの「IT企業の非公共性が中国的ネット社会をもたらす可能性はないか、というメモ~googlezon、最良の、そして最悪の時代」で
「ユーザーにとってそこは、完全なブラックボックスなのだ。と思っていたら、<繰り返すが検索二強が恣意的に検索結果表示を調整していることは周知の事実。=BigBang:オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴(2)---広告活動と表現の自由について>だそうな。」
とコメントしていただいた。同サイトにはコメントを返しておいたけれど、Yahooには当局に協力して特定の事件における人名の一部を検索インデックスから外した事例がある。また最近ではある皇族と婚姻が噂された特定の人物の名前を、特定の時期まで検索インデックスから明らかに外していた。「★阿修羅♪の日記」からは
★阿修羅♪サイトは、現在全面的にヤフー八分になっています。
どんな単語を検索しても、ヤフーでは絶対にヒットしません。
との話が寄せられている。
Googleでのこうした規制の具体的な実例は知らないが、同社がSEO対策と称して、その検索テクノロジーのインデックスの優劣基準を、定期的にかつ「恣意的に」変えていることは、同社がセミナーの場などで正式にインフォメーションしており、SEO関連に関心のある企業は皆知っている。そうした両社の状態を私は「検索二強が恣意的に検索結果表示を調整していることは周知の事実。」と表現した。
要は問題意識の根幹のところは共有しているということなのである。共有した上で、広告相手との契約相手の選択の自由という「私権」を、これら「恣意的な」(仮にそうであったとして)検索表示方法をなしているネットのガリバー企業に「表現の自由」という観点から、法廷論議で展開することには違和感がある。というのが私の先の2エントリーの立場であり、それは変わらない。
神保氏のコメントには、少なくともこの法廷闘争を「全く話し合いのテーブルにつかない相手」に対する、止むをえない対抗手段であることが明記されており、その自覚の明確さはよくわかるし、そうした方法をとられたことを全面批判するものではない。
だが、この「相違の意識」があるのかないのかは、この問題を如何に深く考えうるかの、試金石になっていることも事実であると思う。そうした意味で、やはりヤメ記者さんの最新の記事「公衆浴場よりも表現の自由の場の方が公共性は高いのでは?」の以下の記述にはそれらを峻別して論じる姿勢が欠落しているように思われる。
なぜ話を
「広告掲載の拒否」→「危険なネット企業による横暴」→「表現の自由の侵害に自覚せよ」→「公共性を守るための(当局による)内容規制」
というスキームで展開しなければならないのか。
BigBanさんが引用するサイトには【gooleやyahooは、検索における「支配者」であり、そのルールは神聖不可侵なのだ。その上で決められた「遊び=検索上位」をするだけ。】とあるが,表現の自由の優越性を理解していない発言ではないでしょうか?表現の自由は,「支配者」の掌で飛び回る孫悟空であってはならないのです。(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
さよう。その通りである。では
「表現の自由」は「為政者という支配者」の掌で飛び回る孫悟空であれかし
とお考えか?支配者にはGoogleでもYahooでもなく司法を、あるいは国家を置けと?
例えば,NTT以外の企業が通信事業に参入する際,NTTの回線が使われた。であれば,ヤフーの検索システム上の検索連動型広告スペースだって,門戸を開放させるべきではないか?それは新たな立法を伴うかもしれないが,公共性の高さからは必要な枠組みづくりではないだろうか?そうでなければ,やはり,違法な広告など一部の広告を除いて全て掲載するような法的枠組みを作るか?(同上)
NTTの通信回線は「解放されなければ」他の如何なる企業も通信事業に参入することはできなかった。だがネットは違う。今であっても、GoogleやYahooの「許諾」をとることなく、これら以上に強力な検索の仕組みを作ることは、少なくとも可能であるし、そうした試みもなされている。
さらに別の視点がある。そもそも、ここで問題とされる「公共性」とは何か?私たちの国は国家による何らかの規制を完了した状態を「公共性が確立された状態」と呼び、「完全に商業的に自由化された社会」を「公共性が未発達な未熟な状態」と、勝手な幼稚思考に嵌っているのではないか?
「404 Blog Not Found」では、この点に注目して、公共性への無自覚な傾倒に批判の論を展開している。
要は「おまえらは公共の何たるかを知らないのだから、おれ達に従え」という響きである。
そのかつて「メディア」に「免許を与えて来た」者達は、公を担うにふさわしい行為を行動で示して来たのだろうか?少なくともGoogleがいうところの"No Evil"のEvilが彼らのEvilとは異なることだけは確かだ。
そして「既存メディア界に存在している」「原罪感」の由来は、本来彼ら自信が確立すべきであった「公」を、「為政者」という「他」が与える「免許」にまで矮小化してしまったことにあるのではないか?「免許?誰が出すんだそんなもん?(404 Blog Not Found)
公共性が確立された、あるいは「公共的なことが求められてそれが実践されている企業のモデル」は一体どこなのか?NHKか?読売新聞か?フジテレビか?
彼らのどこが「真に正しく公共的」であったことがあるのだろうか?まさかあの「放送法」や「記者クラブの」を指しているのではないだろうね?
さてそこでこの人のエントリーだ。
踊る新聞屋さんは
さて、すべてのネットユーザーはそろそろ、サイバー社会の公共性を考える時期に来ている。政治体制を問わず、為政者は常に、言論・表現・報道の自由を規制したがるものだし、表現者の行動を監視したくなる衝動に駆られているのだから。
と書いていますが、それはメディアのパワーと危険性をある程度理解している私には伝わりますが、果たしてネットメディアにかかわる人たちやエンジニアには伝わるのか、疑問があります。「ザ・サーチ グーグルが世界を変えた」を読めば理解できると思いますが、グーグルの検索結果で誰かが傷つこうとも、彼らは「どうってことない」と思っている。ある種、既存メディア界に存在している「原罪感」はありません。「私たちはメディアパワーを持ちたいと思ってやっているわけではありませんから」と真顔で発言したりします。ある種「無邪気な善意」がネットの世界を覆っているのです。彼らは無免許の運転者ですが、それは善意ゆえに、その危険性を伝えることは困難が伴います。(「ネットメディアは無免許運転の暴走車なのかもしれない。(ガ島通信))
「メディアのパワーと危険性をある程度理解している私には」伝わるが「既存メディア界に存在している「原罪感」」を欠如した「無邪気な善意」を持つネット企業には伝わらない。だから「既存メディアで原罪感を持ちえた」人の忠告に従えという。
ああ、まただと思う。また弁当論争と同じ話であり、この人=ガ島氏の論点は結局のところ、そうした「自分が身を置いた腐ったメディア」へのトラウマ感から一歩も出ることは出来ないのだと思う。
今求められているのは、既存メディアが作り上げた(あるいは作り上げることすら出来なかった)「エセの公共性」にこれら新興企業を委ねることではない。あなたたちが、あるいは私たちがこれら企業に対して「真の公共性」を求めるとすれば、それはぎりぎりまで、私たちと彼らの主戦場であるこのネット空間での攻防でなされなければならないのではないか。ネットは国家が独占する電波ではない(今のところは)。全国津々浦々まで張り巡らされた新聞配達店の流通網も存在しない。そしてあの忌まわしい記者クラブも「まだ」ない。
公共性の確立に果たすべき国の役割を無視しようというのではない。しかしそれは、ぎりぎりのところでなされるべきことであり、日々、時の政権からの大本営発表を無自覚に垂れ流す旧メディアや、国民の生命と財産を直接脅かす建築業界などでこそ、まず整備されるべきであり、ネット上の言論を中途半端な状態にしたまま、これら新興企業の首を「国家」に差し出すのは如何にも我らの軽慮の謗りを受けないか。
そして、「404 Blog Not Found」の以下警鐘には深く共感する。
だから、本当に怖いのは、彼らの「無邪気な善意」ではない。彼らが「免許」の力に目覚め、自ら「免許」の発行に乗り出し、それが旧来の免許と置き換わることなのだ。
すでにMicrosoftやCiscoやOracleは目覚めている。彼らの発行する資格は「公的」には紙切れだ。しかしすでにそれを持つ事による職業的優位を確立しつつある。もしYahoo!やGoogleが「免許を持つサイトのみインデックスします」と言ったらどうなるのだろう?
無邪気な無免許者の方がまだましというものではないか?(太字はBigBangが付与)
【参考記事】
●オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴(2)---広告活動と表現の自由について
●オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴---試練はマーケットが加えるべきであろう。
【参考リンク】
●IT企業の非公共性が中国的ネット社会をもたらす可能性はないか、というメモ~googlezon、最良の、そして最悪の時代(踊る新聞屋)
●公衆浴場よりも表現の自由の場の方が公共性は高いのでは?(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
●免許?誰が出すんだそんなもん?(404 Blog Not Found)
●ネットメディアは無免許運転の暴走車なのかもしれない(ガ島通信)
●★阿修羅♪サイトはヤフー八分になってます(阿修羅♪の日記)
2005 12 31 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック
December 30, 2005
オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴(2)---広告活動と表現の自由について
おそらく先の記事を読んで、こちらから批判的トラックバックをいただいたと思うので、この問題をもう少し論じる。
今回の問題は日本ビデオニュースが、オーバーチュア社から、検索連動型広告の掲載を拒絶されたということである。その結果、日本ビデオニュース社の検索連動広告が、最初は特定のキーワードから表示できなくなった。ついにはサイト全体に対して、「広告主として不適格」という判断をオーバーチュア社からされたことにより、終には全く検索表示広告が表示されなくなってしまった。
前のエントリーにも挙げたように、ここで僕は了見の狭いオーバーチュア社に味方をする気はない。ないが、日本ビデオニュース社の「表現の自由」が侵害されたとまでは言えないと思う。その根拠は
●トラックバック先で引用された、「交通事故により受傷した救急患者の治療を拒否しその後患者が死亡した場合において、診療拒否に正当事由がないとして市に不法行為責任が認められた事例」や 「公衆浴場が入場拒否して違法とされた事例」と、インターネット上における検索広告とでは明らかに公共性の度合いが違う。例示された2例はいずれも契約を拒否されることで、生存権や生活権の根本を脅かされる重大な権利侵害が生じるが、本件では広告契約を拒絶されただけであり、権利侵害の重大度が違う。これらを一緒に言及することは乱暴ではないか。
そもそも、日本ビデオニュース社は、単に検索サイトへの広告契約を拒絶されただけであって、インターネット空間に自説を発信する権利そのものはなんら侵害されていない。
→もしも日本ビデオニュース社の方針に不安を感じるプロバイダーが、同社のサイトを閉鎖したとすれば、同社はその意見表明に圧力をかけられ、発信手段を封じられたことになり、そのプロバイダを相手に「表現の自由」を事由に契約の続行を迫ることが出来ると思う。しかし、その訴訟ですら有効であるかどうかもわからない。プロバイダーの「私権としての契約の自由」と、ビデオニュース社の「表現の自由」とが均等な立場で争うことができるかどうかは疑問である。なぜなら、同社は自社サイトを作るなどして、他の手段で緊急避難を行い、インターネットに発信を続けることが可能だからだ。ただそれには費用がかかるだろうし、他のプロバイダを探しても軒並み右に並えをされたらどうなるのかという危惧は残る。その場合に「表現の自由」を論拠にプロバイダーを相手取って訴訟を行うことは、理解できる。
→ところが、本件では、「検索型広告を発信する」ことが阻害されただけであって、即同社の表現の自由が阻害されたわけではない。同社は、他の方法で宣伝活動を行うことは可能であるし、サイトの情報の発信をなんら阻害されずに続けることが出来る。有効な広告を制限されたことで不利益は生じているかもしれないが、それは広告代理業を営むオーバーチュアの方針という私権に明らかに優越するほどの重大な権利侵害が起きているようには、僕には感じられない。
→このサイトではSEOの観点から、ビデオニュース社に対して重要な提言をしている。これらの施策により、ビデオニュース社は有料広告の契約を結ばずしても、自己努力でYahooあるいはGoogleで上位の検索順位を獲得できる可能性を残している。
●YahooやGoogleのような「高い公共性を持つ」企業が検索画面で特定サイトを上位に置く、あるいは下位に置くことで情報に対して実質上「恣意性」をもつことの危険について
→今回の問題はあくまでも、「検索型広告」に関してなされた扱いに関する訴訟であり検索結果において、日本ビデオニュース社が明らかに不利な扱いをされていると(思われる)いうこととは、また別の問題である。オーバーチュア社はYahooの子会社であるが、別会社であり、Yahooの検索結果表示方式と高い連関性を持つことは想像できるが、関連性に関して訴訟を見る限り、明確な立証はされていないと思う。先のSEO施策で解決する問題である可能性も残っている。
→元来、システムとして如何なる方策を施しても、「平等な」検索結果表示なるものを実現することは不可能であり、そこに何らかの運営側の「恣意性」が入ることから逃れることはできない。特定のサイトの検索結果が低い、あるいは検索結果表示がされないことを批判するなら、では全てのサイトを検索表示しなければいけないのかどうか。その基準(有害性や万人に供すための的確性)は法的にどのようにあるべきと判断させるのか、その根拠は何か。
繰り返すが検索二強が恣意的に検索結果表示を調整していることは周知の事実。それは批判的言論にさらされることは構わないのであって、むしろさらされるべきであると考えている。広告契約に関しても、もしも日本ビデオニュース社の主張通りであるならば、その稚拙な企業姿勢が批判されるべきである。ここに関して異論はない。
しかしながら、これらを「表現の自由」に関連させて法廷での議論に乗せようとすることには非常に無理を感じるし、その必要もないのではないかと思う。もしも今回の事件が、広告代理店が「表現の自由」を侵害したという判例として残れば、今後問題のあるような企業の広告に対しても、判例を根拠に無条件に応じなければならないという、逆に触れた、誤った運用がなされる危険はないのだろうか。
また、「インターネットがパブリックフォーラムであるべきだ」という主張には賛成であるが、それを法の運用で実現しようとすれば、別の問題が生じる可能性があり、一概に法廷で警告を発すべき事柄であると断じるには、危険を覚える。
インターネットへの集中排除規制の運用が主眼であれば、それは「表現の自由」とは違った観点から、慎重に論議されるべきだと考える。
新規参入を拒む明らかな障壁がインターネット上に明確に存在していない現状での議論は、放送法の新規放送局の参入障壁やOSとアプリケーションを分離し難くしている、マイクロソフトの分割論議とは別個の議論が必要になる。
冷静な議論が望まれると思う。
【追記】
書き終えたところで、ビデオニュースの神保氏自身のコメントを拝見した。氏自身は非常に冷静。この姿勢は共感。
ビデオニュースがオーバーチュアを提訴 (www.jimbo.tv)
【参考リンク】
●表現の自由に無頓着な国民性~インターネットはパブリックフォーラムであるべきではないか(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
●オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴---試練はマーケットが加えるべきであろう。(BigBang)
2005 12 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
December 28, 2005
オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴---試練はマーケットが加えるべきであろう。
日本ビデオニュース社が、そのウェブサイトに掲載している内容が「特定の組織・団体への批判と見受けられる表現がある場合」に該当するとして広告の掲載を拒否されたとして、オーバーチュア社を告訴した。
その理由は、今年3月、日本ビデオニュースがヤフーなどの検索サイトにニュース社のサイトの広告文を掲載する契約をオーバーチュアと結んだにもかかわらず、「靖国参拝」「反日デモ」などの言葉を含む広告文の掲載拒否が増え、ついに、「特定の政治団体・個人を中傷する内容が見られ、ガイドラインにより判断した」という理由でサイト全体の広告掲載を拒否したということだと報じられている(毎日新聞)
(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士より転載)
オーバーチュア側は,基本契約は存在せず,一回一回の広告キーワード申請がそれぞれ契約の申込み行為になると主張している。そこで,日本ビデオニュース社は,仮に契約関係がないとしても広告掲載を拒否したことは不法行為になるとする主張を行っている。
(同上)
現状では、検索連動型の広告はYahooとgoogleで独占しているが、日本ビデオニュース社では記事を検索エンジンに効率的に取り上げてもらう方法として、この検索連動型広告をサイトの宣伝における重要な施策として実施してきた模様。
日本ビデオニュース社は、その主張として3点を主張している。
1.日本ビデオニュース社のウェブサイトに掲載されているのは、記者会見や対談などの報道記事、報道ビデオであって、「特定の組織・団体への批判」と判断すべき記事、ビデオは掲載されていない。同様の記事が載っているパソコンテレビ「GyaO」(ニュースはTBSと提携)や朝日新聞Web版については「スポンサーサイト」欄に広告が掲載されており、違法性は明らか。
2.オーバーチュア社は広告の掲載に当たっての広告取扱基本規定と掲載ガイドラインを定めているが、日本ビデオニュース社のウェブサイトはこれらの規定が禁止するサイトには当たらない。
3.検索連動型広告システムはオーバーチュア社とGoogleの2社が独占している状態にあり、その公共性は高く、恣意的な運用は許されない。
(インターネット新聞JANJANより転載)
【 オーバーチュア審査・広告掲載基準 】
○ 薬事法等の関連法規に抵触するおそれのあるサイト
○ ツーショットダイヤル、ツーショットチャット、その他成人向けコンテンツを取り扱うサイト
○ 連鎖販売取引などのビジネスを推奨・紹介しているサイト
○ 宗教団体など、布教活動を行っているサイト
○ 個人情報の売買を行っているサイト
○ 銃器や催涙スプレー等、武器に相当する商品の紹介・販売サイト
○ タバコや脱法ドラッグ等を販売しているサイト
○ その他オーバーチュアが不適切と判断したサイト
(オーバーチュア審査基準より転載)
日本ビデオニュース社の記事について、詳しく目を通したわけではないが、要するにオーバーチュア側では、自社の検索連動型広告のクライアントとして、同社をふさわしくないと判断したということである。
このニュースの読み方はいろいろあると思うが、「日本ビデオニュース社のウェブサイトはこれらの(オーバーチュア社の)規定が禁止するサイトには当たらない」との主張は、オーバーチュア社側の規定の最後に「その他オーバーチュアが不適切と判断したサイト」との項があるところから見て、これを適用された場合、反論は難しいのではないだろうか。
また、検索連動型広告に「公共性が高く、恣意的な運用は許されない」という解釈も議論の分かれるところではあると思うが、検索連動型広告は、実質2社の独占になっているとはいえ、何らかの規制や許認可のプロセスを通じて、確立された独占ではない。市場の構造が「たまたま」そうなっているに過ぎないのであり、商業的な意味での独占が成立しているからといって、これらサービスに、公共性を事由に「恣意的な運用は許されない」とまで言う事も無理があるような気がする。
平たく考えれば、「靖国参拝」や「反日デモ」についていささか挑戦的に扱ったとはいえ、それを事由に広告掲載を拒否するとか、ずいぶんと○○の穴が小さい企業なことよとは思う。思いはするが、一方で広告掲載会社は、その広告主を自社独自の判断基準で選別する権利を、有していると思う。
例えば、新聞広告を掲載しようと思うと、必ず広告主はその新聞社から広告掲載基準を満たしているかどうかの審査を受ける。この審査基準は、必ずしもオープンにはされておらず、各社独自の基準であるが一般的には、当該企業の信用力、社会的信頼性、広告表現の妥当性(過剰な表現)などが審査されているようである。この基準に引っかかった場合には、例え広告料金を支払う態勢があっても、広告を掲載することはできない。
それにしては、この企業の広告ってどうよ?と思うような会社の広告が連日掲載されているのが新聞の広告の現状であり、逆に新聞社そのものの信用力の証にもなっている。
わかりやすい例を挙げれば、スポーツ紙は風俗やマチ金関連の広告で溢れかえっているが、全国紙にはそうした広告はほとんど見当たらない。
では、宗教団体の発行した怪しげな出版物の広告はなぜ掲載されているのかとか、このダイエット本の広告表現はどうよ?など疑問を上げればきりがないのであるが、そこをついて、「広告掲載基準」が新聞の「高い公共性から判断して」「恣意的に」運用されるのは許されないと訴訟を起こしたところで、おそらく勝利はできないであろう。
私企業である新聞社は、広告主との契約に関する選択の自由を持っていると考えられるからである。
したがって、オーバーチュア社の今回の広告拒絶は、その硬直した事業体質を情けないとこそ思えはするが、「公共性」を主張した訴訟のスキームにはなじまないのではないか。
さらに、「恣意的に」検索エンジンの順位が(広告と同様に)、主催者の主観によって恣意的に運用されるとすれば、その主観に沿わない記事や情報は我々の目に触れないことになるという方向から、今回のオーバーチュアの行為に警告を発する向きもあるが、実は我々の生きている社会は、ずいぶん前から「そうした恣意性」によって動かされているのであり、「何をいまさら」と思う。
こうした時代の傾向を歓迎するか、危険であると思うかの別は議論に値するであろうが、私企業に過剰な公共性を求めるのも、また別の意味で見当違いにならないか。商業主義とは効率的に金銭を稼ぎ富を増大させることを目的にして構築されているシステムである。我々の触れる全ての情報は、こうした商業主義のフィルターを通して、目の前にもたらされているわけであり、その善悪を問う姿勢は思想であって、評論であって、哲学であって、だがしかし直ちにそれが法的議論になじむとは思えない。
しかし、とは言ってもこの訴訟がなされたことでのアテンション効果には期待できるのであって、要は我々は我々の住んでいる社会の構造と限界に、はっきりとした自覚を持つべきであるということなのではないか。誤解されないように願いたいが、日本ビデオニュース社に黙れというのではない。契約基準に対して異議があるのであれば、どんどんネットに発信していくべきであり、堂々と反論すべきであろう。つまりオーバーチュアの掲載基準の妥当性には、マーケットで試練を与えるべきだと考えるのだ。法廷の場ではなくて。法廷をも戦略的に活用するというのであれば、それはそれで理解できるのだが。
オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴(2)---広告活動と表現の自由についてへ
【参考リンク】
○ビデオニュースドットコム、オーバーチュアを提訴(GripBlog)
○検索連動型広告運営会社(ヤフーの子会社オーバーチュア)を提訴~恣意的な広告掲載拒否を理由に(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
○広告掲載拒否とSEO(yahoo seo対策 web2.0) ←視点が面白い
○★阿修羅♪サイトはヤフー八分になってます ←へー
2005 12 28 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
December 26, 2005
サンタクロースを信じていたことは一度も無かった
労せずして、苦しまずして、
働かずして、何も成せずして、
豊かなる国に生まれて、父母に抱かれて
飢えずして、与えずして、
物の意味に辿り着かずして、
人への言葉に思い至らずして、
事への思いを凝らさずして、
目の前にある生ける物を見ずして、
1片のパンがこの世にあることの意味を知らずして、
1億人に背を向けられた夜にも、
1人が振り返る幸を知らずして、
あらゆる涙を知らずして、
降りかかる災いを知らずして、
得体の知れぬ不安を知らずして、
眠れない夜を知らずして、
親しき人の裏切りを知らずして、
1人この世界に立つことの、
全ての恐ろしさを知らずして、
幼いという理由だけで
たったそれだけの理由で
恵みを受け取るというような理不尽は無い。
そう思っていた。
だが、今では少し違う風に思っている。
サンタクロースはもちろん信じていない。
今でも神の言葉は聴こえない。
でも今では、少し違う風に思っているのだ。
うまく表現できるまではまだ時間がかかるけれど。
でも少しだけ。
少しだけ違う風に思っているんだよ。
2005 12 26 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
December 22, 2005
去っていく人
親しくしていたり、あるいは論敵だったりしたとしても、ある日相手に、ブログを突然閉められてしまったときの、何ともいえない気分は、ブログをやるものでないとわからないと思う。もちろん、誰でも(僕でも)そういう日が来るときは、あると考えたほうが自然なわけで、このブログも今までに何回か閉めようと思ったときがあった。
何日か前に、予告をいただいたり、納得のいく理由を聞かせてくれるとまだ諦めもつくんだけど(また戻ってくる人もいるし 笑)、あるとき突然そのブログが消失していたときのあの、感じ。
もう読んでおられないのかもしれないけれど、今年ふとしたことからいわゆる「炎上状態」になり疲弊してブログを閉めていかれた、親しかったあの人のことが思い出される。
あのときもショックだったな。突然ブログが消えていたとき。
もしもいつか、自分がそういうことになったとき、せめてそうした気分を人に味わせないですむようにしたいと思うけれど、どうだろう。
どうかなあ。
【追記】
件の人は、言い残すために戻ってきたようだ。その誠実さには素直に頭が下がるけれど、しかし言い残されても、じゃあそれでいいというものでもないような気がする。その言い残しが単にお詫びのみであったとすれば、肝心なところは全くわからない。この場合聞きたいのは「お詫び」ではないんだよな。(だいたいのことは言い残しからでも察せられるけれど)そういえば、あのときもそうだったと思う。(意味わからない文でごめんなさい)
2005 12 22 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
December 21, 2005
イーホームズが「きっこの日記」に接触(2)---吹き上がる馬淵議員とかプログラムのハックとか
きっこの日記が吹き上がり、(なんかほとんどアクセスできないくらいの状態になっているんだけど)一斉強制捜査が入り、さらに何とあの馬淵議員がきっこに共闘宣言など、ここ数日めまぐるしい展開になっていて、ここ数日、うちのブログのアクセスも一桁近く違うものになっているのだけれど、民主党にもこんな代議士がいるのだなあと感慨しきり。
僕たちが通っている「あの民主党」と同じ党?で、よく見てみるとすでにこんなものも作られているんだね。
何だ前原さん、民主党だって、やる人はもうしっかりやってるじゃない。ネット時代の議員活動。このあいだの「プラトン」でカリカリしていた身としては、ほんと信じられないよ。同じ政党だろか。ほんとに。
それにしても、ここまでやるか(まぶちすみおの「不易塾」日記 )という驚きも一方にあり、馬淵議員ときっこの関係を見る限り、どっちがどっちに情報を提供しているのか、あるいはどっちも誰かが煽っているだけで、何も情報を提供していないのか、何とも判読しがたい。「相手が誰だかわからないで」共闘しますなどと言う、これも俄かに信じられない楽観性(?)にしても「前人未到の荒野」などという記事のタイトルにしても、もしも互いに裏の無い話であったなら、ちょっとどうよ?これ?と言われるのも逆に無理の無い話。
「果たして、どのような結果になるかはわからない。
が、おそらく憲政史上初めての、「ネット連動型国民運動」で
ある。」
(まぶちすみおの「不易塾」日記・前人未踏の荒野)
って、馬淵議員、明らかに吹き上がりすぎでしょう。
吹き上がるネットの熱など、時が経ち醒めてしまえば、実は路傍の石となる。そうした「荒野」だの「国民運動」だの云々よりも、馬淵さんもヒートしすぎずに冷静にやってほしい。いやもしもあなた方に裏がなければの話だよ。実はあの2人が一番「冷静に」煽っているのかもしれないから。もしもそうだったらごめんなさい。
我らも空前絶後のブログの新時代などと、トサカに熱を吹き上げず、経緯を冷静に見るべきだろう。そんなに簡単に「スーパーな」話は出てこない。
ところで藤田氏の長い長い話の中で、僕が興味深かったのはここ。
「しかし、再現が出来ず、やがてユニオンシステムの技術担当者からプログラムが改ざん(編集)という、余りにも想定外の話が出るのです。この事件の制度上の問題は、確認検査制度ではなく、認定プログラムの改ざんが可能である事実を突き止め全員が驚愕した経緯があります(会議録もあります)。確認検査制度上の問題ではなく、認定制度におけるシステムの不備だったのです。しかし、この事実はずっと伏せられて、12/8の建築センター評定部長のコメント発表を受けて、12/13に国交省はようやく公表します。12/13の朝日新聞朝刊1面。11月11日から1ヶ月も経て、制度上のシステムの不備という問題が明らかになります。」
さらに下記では
ある大手ソフトメーカーも「使い勝手を優先させたのが裏目に出た。建築士が改ざんをするとは思ってもいなかった」と認める。プログラムに国交相認定を与える日本建築センターは「多くのプログラムで書き換えが可能なことは最近、判明した。対応を検討している」と話している。
国交相認定プログラムを使ったことを示す書類が申請書に添付されていると、検査機関は途中の審査を省略できる。だが、審査を省略すると、書類の数値改ざんに気づくのは困難で、書類がついていない場合でも、数百ページに及ぶ計算書をすべて点検するのは、実務上困難という。 (2005年12月13日 朝日新聞)
よくもまあこう、次から次へと問題となるポイントが出てくる奥の深い事件だなあとこのプログラムの一点を見ても思うわけだけれど、要はプログラムがハックされて書き換えられてしまったのか、あるいはハックなんて高等な次元ではなく切り貼りなのかそのへんはわからないけれども、国が認定したプログラムの導き出した結果の真偽という次元にまで、審査機関の審査責任は及ぶのか?というのも藤田氏の言いたいことであり、ここに限って考えれば多少は彼の言うこともわからなくもない。
藤田氏にしてみれば自分以外のいずれかがぐるになって、イーホームズをはめようとしたということと、国交省は「確認検査制度上の問題ではなく、認定制度におけるシステムの不備」の責任をどう思うのかという主張の流れで、このプログラムの件を持ち出しているわけだ。
考えてみれば全てのプログラムは元々ハック可能なものであり、こうした問題が生じる隙は建設業界だけではなく、他の業界にもごまんとあるわけだ。詳しくは無いけれど容易に想像がつくのは、会計士が使う会計審査上のプログラムもそうであろうし、自動車業界にも、医療業界にも類似の「罠」は仕掛けられているように思う。(保険医療におけるレセプトの計算プログラムなんてどうなんだ?大丈夫?)
【補記】finalventさんとこの、finalventさんとこ経由で知った、ここあたりの2ch情報は興味深いけれども、情報には速度が必要な
一方で、速ければいいというものではなくて、信じるに足ると思わせるだけの説得力も必要なわけであるから、内部告発が既に11月20日ころから書き込まれていたという話を見ても、ふーん、そういうこともあるだろうと思うだけで、きっこの日記の話は、それはまたそれで別だと思うよ。あの人が髪結いの最中にメディアの人間から聞いた情報で書いたなんて僕は信じないし。もともとありえないでしょう。一次情報へのアクセス時に2chを経由したこともありうるし、もともとそこもグルという見方もある。ああ、もう考えると夜も眠れない。(嘘)
【参考記事】
●イーホームズが「きっこの日記」に接触---やはり無視できないサイトなのか
2005 12 21 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック
December 19, 2005
イーホームズが「きっこの日記」に接触---やはり無視できないサイトなのか
安曇信太郎の「イヤならやめろ!」経由で知ったのだけれど、12月18日に、イーホームズのトップに掲載されたトピックと、関連した「きっこの日記」の内容には一連のマンション偽装事件に関わる、驚くべき内容が記載されている。あのイーホームズの藤田社長が、「きっこの日記」に「弊社が関知しない重要情報が存在」することを認め、敢えて「きっこの日記」宛にメールを出してきたというのである。藤田社長はこれを自ら、自社のホームページのトピックにも掲載している。
【参照リンク】
●今般の偽装事件の背景について重要な情報提供:「きっこ」 (イーホームズ・トピックス)
●「きっこの日記」
●「きっこのブログ」
既にネット界ではこの「きっこの日記」に掲載される裏情報が、著しくリアルで信憑性が高く、それが総研の内河氏を国会喚問にまで呼び出した契機にも繋がったという評価が専らであり、安曇氏も「新たな形のネットジャーナリズムというのは、案外こんなものかもしれない。」という記事で、ここに新しいネットジャーナリズムの萌芽があるのではないかと評されている。
その見方に異議を唱えるものではないが、ちょっと別の視点から。
従来であればこの種の情報は、「情報紙」と呼ばれる、ある種の特殊な「業界紙」に掲載される種類のものである。それらは虚偽入り乱れて質もまちまちだけれど、中にはメジャーなメディアをも動かさざるを得ないような、重要な情報が含まれていることがあった。ちょっと仔細があって、この種の「情報紙」のある主宰者と親しかった時期があるので、このあたりの経済構造はよく知っているのだけれど、情報紙の主宰者の経済構造は、「情報を提供しようとする者」と「情報を流布されては困る者」との間の「経済関係」で構成されている。つまり、この両者の間に入って、「情報紙」をいずれかに「買占め」させるわけである。
「情報を提供しようとする者」が買い占めた場合、その情報は数百万部もの「実弾」になって、対象者の周辺にばら撒かれることになる。
「情報を流布されては困る者」が買い占めた場合、その情報はひっそりと葬られ、誰の目にも触れないことになる。
主宰者は、単純に言えばこの両者の間で都合よく利ざやをとる。僕の知っている例では、通常1部200円程度のその情報紙は、時として1部2000円になることもあるし、20,000円(!)で流通されることもある。変幻自在。自由闊達である。
本人は「正義の士」を自認していたし、実際個人的には非常に魅力のある人物だったが、当然ながらこの種の事業には法律のボーダーを渡り歩くところがあるのであり、多くの場合恐喝罪で挙げられることが多い。
「XXXさんは?」
「ああ、今恐喝で入っているよ」
「!!」
なーんて会話はフツーだった。
それなのに、というかそれだからこそと言うべきか。彼に依頼してきていた人物や定期読者には驚くほどの大物の政治家が多く、ちょっとここでは書けないが、名前を聞くと驚くような与党の大物政治家ですら、彼をうまくつかって情報を流したり引っ込めたりしていた。そこの読者名簿を見て僕は世界観が変ったほどである。
ちょっと例にあげた引用が的確かどうかわからないし、「きっこの日記」に対しての、何らかの意図が僕にあるわけでもない。最近読み始めたばかりだし。
しかしここで、要するに何が言いたいかというと、「闇を暴く」ネットジャーナリズムもこの種の「旧来の闇」から自由であるとは、単純には信じがたいということだ。どういう意図でこれほどの情報が流されているのかやはり気になる。
偏見はない。ないが、どう見ても関係者周辺からと思われるような、信じられないような「内部情報」が、ヘアメイクの「情報通の女性」から次々と暴かれているという事態が、暗い過去の例を知っている身には、自然発生的になされたネットの「放電現象」と信じるには、そしてネットジャーナリズムの俄かに明るい未来を予感させるものとしてのみとは、一律に評価はできない。
だが、この件、確かに情報のインパクトはある。総研に加えて、日本ERIの周辺など、明日以降の動きに注目だろう。
僕の見方が「下種のなんとか」で、もしも外観通りの展開なのであれば、その姿勢を支持したい。
イーホームズが「きっこの日記」に接触(2)---吹き上がる馬淵議員とかプログラムのハックとかに続く
2005 12 19 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック
博報堂生活予報---あなたも私も放電中。ばちばち。
博報堂の生活総合研究所、いわゆる生活総研と言えば広告業界ではその年のトレンドの行方を予報するというよりもむしろ「予知」する存在で、僕が業界でプランナーをしていたときには、企業に提案するときネタがなければ「しょうがねーな、生活総研から持ってくるか」などと言いながら、あのやたら豪華装丁で、やたら値段がボッている「生活予報」からテーマを持ってくるのが日常茶飯事だった。
今時のプランナーもそういう情けないことをしているのかどうかは知らないが、「2006年版生活予報」によれば、2006年の主要テーマは「放電生活者」と「放電コミュニケーション」だそうである。
それによれば
インターネットや携帯電話の普及に伴い、生活者の情報環境は10年間で大きく変わり、「テレビ」「人」「パソコン」が生活者の3大接触メディアになりつつあるという。
加えて、ブログやSNSといった新しいコミュニケーションツールの登場により、生活者が世の中と双方向にコミュニケーションが可能になったと指摘。同研究所は、これらが従来のコミュニケーションとは違う性格を持っているとし、新しいコミュニケーション形態を「放電コミュニケーション」と命名。放電コミュニケーションを行なっている「放電生活者」は、新しいコミュニケーション回路を持つことで生活そのものを活性化させていることもわかったとしている。 (InternetWatchより)
さらに「放電生活者は放電コミュニケーションを始めたことで、世の中からの反応に刺激を受け、生活の中のちょっとした発見を進んで収集することで活性化された自分を発見」するんだとか、
「放電生活者の比率が高い男性の20代・30代では「情報格差による階層化社会」をイメージし、「積極的に自分を世の中に開示する企業風土ブログや、時差や距離の差を活用するダブルオフィスワーカーが生まれる」んだとか。
そうか。僕らは放電しているんだ。
ばちばち。
読んで「なるほど」と思う人がいるのもわかる。わかるはわかるとして、それにしても昔から思っているのけれど、その年の社会予想を、何か気の効いたワンフレーズで言わなければならないという広告業界の脅迫観念症は、何とかならないものか。(実際に気が効いているかどうかは別として)
いわゆる「キーワード」を出すことで何かがわかったような気がする、何かが見えたような気がする-----キーワード依存症とでも言うような、あれは、僕は商業化社会の一種の「病理」だと思っているのだが、実は広告なんていうものはこの病理を楽しむゲームでもあるわけで、そのゲームに参加してそれなりに充実感を覚えていた時代が自分にもあるから、そう冷たいことは言えないのだけれど、キーワードが出てなんとなく納得してしまう心理の裏には、恐ろしいほどの思考停止化への罠が仕掛けられている。
まあ、広告を展開する側にしてみれば、何とか消費者をメッセージに乗せようとするのが目的だから、思考停止になってくれればいいとまで言えば言いすぎだけれど、あんまり細かいことはぐちゃぐちゃ言わずについてきてくれればいい。
広告行為に「思考停止」は不可避のトラウマみたいなもんだと思う。
さらにはこうした「生活予報」みたいな薀蓄をパクッて、得意になってメディアで時代を語るエセ予言者もそれを後押しして、「二次災害」「三次災害」を広げるわけだ。
ただ、広告と消費との関係は先にも言ったように「楽しめるゲーム性」もあり、その次元で動いている分にはまあ、個人の自己責任ということで構わないという見方もできるが、これが先のマンションの耐震構造偽造のように命に関わる商品に応用されて(「これからは100M2超が幸せへの鍵」(作 BigBan))とやられたり、政治的なメッセージに応用されたりするときには、「キーワード依存症」も、そう笑ってもいられない。
しっかし「放電コミュニケーション」って・・・・どうなの?
放電が終わった後で「真っ白な灰」にならないように気をつけようね。お互い。
【参考リンク】
●InternetWatch「博報堂調査、2006年はブログやSNSで自己活性化する“放電生活者”が登場」
2005 12 19 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
December 16, 2005
民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(5・終章)六本木の空の上のほうで
延々とほとんど休み無く続いたシンポジウムもようやく終わり、懇親会で49階から51階へ移動する。(前回のこともあるからここのことも書いておこう)。飲み物は豊富に用意されていましたが、食べ物はつまみ程度(ほんっとうにつまみ程度)。顔見知りのAaさんや安曇さん、突如登場したマルセルさん、そして松本政調会長と少し言葉を交わす。
場所は六本木ヒルズの51階。目を外にやれば東京の大夜景が広がっている。「成功者」と呼ばれる人たちが、ヒトの社会を高層から見下ろすことを好むのはなぜだろうとちょっと考える。ヒトの上に立つこと、ヒトの視線を遥かに超えたところで、少しだけでも「神の視線」に近づくこと。そんなところに憧れを持つのだろうか。そういえば「バベルの塔」の逸話もあった。神に近づくために天へ、天へ。
今ここに身を置いている「民主党の空間」は正直なところ、居心地がいい。民主党の議員の方たちは皆真摯で紳士。物腰が柔らかく居丈高ではない。何よりも知性と真面目さが真っ直ぐに伝わってくる。僕は自民党の政治家とももちろん何人か会ったことがあるし、そうした中にもいろんな方がいるけれど、今の民主党の「生え抜き」の議員の持つ雰囲気には、それに比しても新しいものを感じるし親近感を感じる。そう、「政権」以外の全てがあると言っていいかもしれない。
しかし僕は、プラトン理事長の仙谷議員の言いかけた言葉がずっと心に残っていた。それは選挙後にマキャベリの「君主論」を最近読み直しているというもので、「そこには(政治家は)誠実である必要はないが、誠実であるようには見せなくてはならないというようなことが書いてあった。」という言葉だ。この言葉を聴いたときには何だかどきっとして、この人はこの後何を言うのだろうと思ったのだけれど、仙谷議員はこの後あまりこれについては深めることをせず、他の話題に持っていったように思う。
先日のブロガー懇談会以来、僕たちのフロントに出てきて下さっている議員は、この間の懇談会で大塚議員も言っていたけれど他党にしがらみのない、生粋の民主党議員が多いのだが、周知の通り民主党には旧社会党系もいれば、自民党から来た人々もいる。
もしも「権力」に対するあくなき執着が政治家を構成する要因だとするならば、旧自民党や他党から来た人々、小沢氏はもとより管氏や鳩山氏などのほうが、ピュア民主党の議員に比べて遥かに「政治家らしい」。つまり別の言葉で言うと「ギラギラしている」(鳩山さんですらね)。それに比べて何かここに集う民主党の新しい世代は「植物的」だ。
もちろん、一概にそれをもってして「過去型の」政治家に軍配を上げるということではない。しかし、彼らを欠いた所で将来の民主党を考えるときの、このどこか不安な感覚は何だろう。
思えばこの間のブロガー懇談会で大塚議員は「極端な話、民主党が政権をとれなくても、民主党の政策を自民党が取り入れることで政治がいいほうにいけばそれでもいいと思う」というような意味のことを言われた。出自が自分と非常に近い大塚議員だから肩を持つわけではないが、この人はおそらく本気でそう考えているのだろうなと思ったし、あの場にいた人たちも同じ感想を持ったと思う。それは好印象にもなったが一方で、先に触れたような得も言われぬ不安に繋がったことも確かである。本当に血を流すような思いで、信じる政策の実現に、あるいは政権奪取に本気で向かえるのか、と。
そもそも「シンクタンク」とは何だろう。政党のつくる「シンクタンク」は、プラトンの場合霞ヶ関に依存しない政策のストック、人脈のストックを作るためという風に説明されたけれど、そのプロセスで政権奪取を目指さない政策立案は意味がなかろう。それはどこかで現政府から政権を奪い、自らの理想とする政策を実施する---霞ヶ関のオルタナティブとしての政策のストックを用意して、選挙民に信を問うためのシステムでなければ意味は半減しよう。アカデミックな議論だけをしている賢人会議では不足するはずである。民主党のシンクタンクは今、政策のストックのみならず、政権奪取へのアクティブプランをも描くことをミッションとして運命づけられているはずである。その具体案や運営計画が今日のシンポジウムからは見えづらかった。ここのリアリティに期待していた聴衆やメディアは多かったと思うがどうか。
さらに、今回のシンポジウムの主要な目的は、緊縮財政下、地方交付税が国によって大幅に切り捨てられる中、「地方と中央」あるいは「地方の切捨て」に対して批判的に対峙し、「地方分権」/「コミュニティ・ソリューション」の提示で、自民党政権との差異を印象づけることが主眼と見た。地域社会への「きめの細かさ」を言うというのがあったろう。確かに、霞ヶ関との延々たる癒着が自民党政権の弊害の一つといわれて久しい中、霞ヶ関と本当に手を切れるのは民主党政権である=そのためには官僚ではなく地域に住む一人ひとりの市民によるコミュニティ力を結集して、新しい地域社会を作り上げるというコンセプトは、国が巨額な財政赤字に疲弊している中、そして小泉政権の方向が強引な「官から民へ」路線に偏重されていることから考えれば、一定の支持を得られる土壌はあるだろう。
しかしその反面、今日のシンポジウムでは、外交や憲法と言った重要課題については、ただの一言も触れられなかった。また、現実は、霞ヶ関と今最も激しく対峙して緊張関係を作り出しているのすら、当の自民党の小泉政権ではないかという、皮肉な事象もある。
「コミュニティソリューション」が国の重要課題と比して、地味であると言うわけではないが、この重要時に船出するシンクタンクの「危機意識のありかた」としてどうであったか。もう少しバランスをちりばめる、あるいはもう少し戦闘的な政党としての顔を見せることはできなかったか。
実際クロージングセッションでも、飯尾潤・政策研究大学院大学教授が盛んに「自民党でもできることではないのか」と挑発していたポイントはここにある。
2大政党体制下での難しさは、2つの政党の間に政策に関して決定的な違いがないということであり、実際外交や憲法に関する考え方は、与党である公明党よりも前原民主党のほうが自民党に近い。そこから大連立などという暴論が出てくるわけだけれども、そうした中で苛烈な政策論争を行うことが困難であるとすると、どうしても力(=資金)と情報力、そして政治運営のノウハウに長けた現与党が有利になるのは当然である。僕などに言われるまでも無く、まさにそこに今の民主党のジレンマがあると思う。
であれば、「プラトン」の志向する方向も、プラグマティックになりすぎるくらい、貪欲なくらいでちょうど良いのではないかと考える。比較的穏便で、地方の支持も得やすい「コミュニティソリューション」のテーマは、初回のシンポジウムテーマとして民主党への好感を醸成することには大いに貢献すると思うが、それを超えた「強力な支持」を集めるための道具立てにには役者不足ではないか。経済をやるなら中央の行財政改革をもっとガチンコでやればいいし(情報を徹底的に集めて)、外交や憲法も別部会で(実際に行う予定でいるようだけれど)アクティブにやればいい。その全体的なビジョンがが見たいところである。
視点を変えれば、今回のように、インターネットに中継を「気ままに」発信しても、受け取る選挙民がそのアドレスを自然に知ることはありえない。それがいい内容であれば自然に人々が集まってくれると思えば大違いなのであり、発信する前から周到な計画と準備が必要なのである。これはインターネットのことだけを言っていると思われるとすればそれは違う。
一時が万事なのである
畢竟メッセージは本気でなければならないし、届けるための命がこもっていなければならない。
リアルもネットも同じである。
時に鬼になることが必要なことも。
ではこのへんで。
【参考記事】
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(1)
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(2)開会~第1セッション
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(3)インターミッションセッション~第2セッション
●民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(4)クロージングセッション
2005 12 16 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
December 15, 2005
民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(4)クロージングセッション
第2セッションが終わったところでようやく休憩時間になった。とにかくのどが渇くし疲れるし・・と思って前を向いてもAaさんのしゅりんくと伸びた背中はいささかも疲れた様子が見えない。さすが・・と思いながらも、ちょうど立ち上がった松本政調会長に、ネット中継のURLをもう一度インフォメーションしてくれるようにお願いする。すると、あとで画面に表示しますとの答。
廊下に出て見ると飲み物が配られていることにやっと気がつき、コーヒーをいただき、水をもらってしばし安曇さんと立ち話もする。安曇さんのサイトに、第1セッションのパネラー、逢坂さん(前ニセコ町長)が、早々とコメントを書き込まれた。へーなどと言葉を交わした。
ちょうど席に戻ったとき、瞬間芸のようにネット中継のURLが前の画面に表示されてすぐ消える。やれやれ。これでどうやって外から中継にアクセスできると言うんだろう。と思いながらも実況の記事を更新する。
■クロージングセッション 民主党シンクタンクがめざすもの
コーディネーター
・飯尾潤(政策研究大学院大学教授)
パネリスト
・増田寛也(岩手県知事)
・神野直彦(東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授)
・金子郁容(慶應義塾大学大学院教授・メディア研究科教授)
・仙谷由人(衆議院議員(代表理事))
・松本剛明(衆議院議員 理事・民主党政策調査会長)
●飯尾氏から
・これまで見てきたけれど民主党としてこのシンクタンクではどういうことを?というあたりをやりたい
●松本氏
・今日のセッションは非常に明るい。この明るい雰囲気に安心している。(というようなニュアンス)
確かに明るい。これでいいのかと思うくらいに明るい。明るいのは結構だが、次の瞬間にこの明るさが心配になることも事実。明るいと言って安心しているばかりでもどうなんだろう。
●神野氏
・コミュニティにちゃんと(いろいろなものが)中央から届いていない。県ではなくて、市町村レベルでやるのがいい。
●飯尾氏
・第2セッションは大変に良かった。わかりやすかった。
●神野氏
・現金給付から現物給付に変えるなら、あるいは解体するなら次の設計を示すべきである。ただ解体するのではなく、見取り図を提示することが重要。
●仙谷氏
・もう少し何かのベクトルが働けば国は崩れる。
・次の設計書を用意しなければいけない。
●飯尾氏
・コミュニティの自己責任とは何なのか?
●金子氏
・これだけのお金を使ってここまでやると明確に。
・いいものをどんどんやる。そのことで他に伝わる。
●飯尾氏
・今日は立派な実例ばかり紹介されている。
・悪いところも実はたくさんある。
・国にカネをつけてもらえば国が口を出す。
・地方への権限委譲は財源を地方に移すところから。
●神野氏
・地域で産業政策を行うことが必要
・最低限を国が保証。
・義務教育の意味が誤解されている。いつでもやり直せる教育の必要性。
●増田氏
・すぐに「我が町にもヒルズ」をとなってもどうなんだ。
・新たな社会資本に金をつける必要あり。
・首長のジレンマと住民のジレンマとを詰める。
・とかく無駄なところに金と時間をかけすぎ。
・どぶろく特区なんて言うけど、どぶろくなんて昔から岩手ではみんな作っている(場内爆笑)
●飯尾氏
・財政危機の今こそ実はチャンスではないのか。
●金子氏
・私は政治家でもないし学者でもない(じゃ誰?)
・地域を信じてビジョンを作ることが必要
・地方では東京よりもアイデアや意見がどんどん出てくる土壌がある。
●飯尾氏
・日本人は世界一「できない理由」を考える天才
・自民党とどう違うのか?シンクタンクというけれど小泉首相が見てそのまま瞬間できてしまったらどうするのか?
・なぜ今の政権でできないのか?(挑発的)
●松本氏
・政権交代が必要である。
・変えられるところから変えていきたい。
・とりあえずの「ゴール」が必要。(目標という意味か)
・「コミュニティ・ソリューション」はとりあえずの「ゴール」(同上)
・霞ヶ関と政治の関係を1から変えるにはまずはリセットが前提。
●飯尾氏
・民主党がしなければならないことというのは何なのか?
・コミュニティ・ソリューションは参加することで満足が得られる。
・民主党の政治家はここのところをまかせてくださいと言って欲しい。
・真に参加型の政党に。
・「見取図」を出さなければいけない。
・信頼は「理屈」で納得させることが必要。
・競争して両方で立派なものを作ることが必要。
・「やかましいところ」にコミュニティスクールが出来る。(自民でもできる)
・躊躇しているところが参加することを助ける政党に。
飯尾氏の「追及」は会場の来場者も皆言いたいところ。こういう踏み込んだ「追求」が民主党の議員の側から出てくるといいのだが。「なぜ民主党なのか」そこに飯尾氏はこだわっている。
●金子氏
・自民党では参加できないの?(笑)
●飯尾氏
・新しいところ(民主)が出てきてもみんなすぐには安心できない。和は美しいが乗り越えるものも必要。
●金子氏
・何か新しいものが出ないといけない
・みんなが出来ることでは成り立たない。→私はこうだよと。
●神野氏
・民主党に期待している
・時の流れ(現政権の?)に抗するビジョン
→効率と公平を融合する社会
→競争と協力を融合する社会
・実際には困難だが
・クリエィティブクラスの台等が望まれる(exスウェーデン)
・予言の自己成就
→そうなるであろうという変化への確信が必要である。
・明確なオールタナティブと強力な意志が必要
●増田氏
・地域とコミュニケートできる職員をつくることが必要。
・地方議会をコミュニティの発火点に。
●飯尾氏
・シンクタンクでごちょごちょやって、賢い意見が出る。だからといってそれだけで政治家が賢くなったといえるのか。(禿同・コーディネーションの妙で賢くなるべきだろう BigBan)
●仙谷氏
・今度の選挙でいろいろ考えた。
・民主党には「いい人が多い」がマキャベリズムも必要では?と「君主論」を読み返した。(おっ?何か言われるかな)
・マキャベリでは「王」だが「人の提言を得る人」、人に対して誠実であるように見せられるかということでもあろう。政権をとるとはそういうことではないか。
・政権を変えないと霞ヶ関の体制・国民との相互不信は破れない。(そうかな)
・これを「信頼の体系」に変えていきたい。
(うーん。マキャベリはどうなっちゃったんだろう)
・生涯学習や能力開発に関して知事に権限が無い、お金がないのは問題
(米国のコミュニティカレッジに比べて)
●松本氏
・長い間の地方と国との関係を変えたい。
・陳情にもいろいろある。この間年末の新幹線の切符をとってくれと言われた。それから公務員に振られたがどうしたらいいかなどという相談が実際にある。
・政治と国民の関係には国民もわかんないからだという見方もなくはない。
・本当に民主で出来るのか。それを官→民ではなくて市場原理以外のところで、コミュニティが重要。
●飯尾氏
・今後もプラトンで議論を
●松本氏
・今まで必ずしも政策の「仕込み」ができたいなかった。霞ヶ関はできている。政策責任者が入って今後は議論していきたい。
(拍手)
という感じでお開きとあいなった。
ああ、やっぱり党首が欲しかったね。ここで締めたかった。もわんもわんとしているなあ・・最後が。
(まだ続く 民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(5・終章)六本木の空の上のほうで)
【参考記事】
民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(1)
民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(2)開会~第1セッション
民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(3)インターミッションセッション~第2セッション
【参考リンク】
最終セッション-民主党の模索は続く:民主党「プラトン」記 (tracker's burrow)
2005 12 15 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
December 13, 2005
民主党シンクタンク「プラトン」設立記念シンポジウム---(3)インターミッションセッション~第2セッション
パネリストは
・提案者:黒川勝(横浜JC理事長)
・ナビゲーター:大塚耕平(参議院議員)
とにかく休憩無しで進行されているシンポジウムだが、枠外の「インターミッションセッション:都市間FTA提案」は、民主党の大塚耕平議員をナビゲーターに横浜JCの黒川JC理事長が横浜JCでのローカルマニフェストの実例を紹介するセッションである。配布資料には「横浜JCマニフェスト」(第19回横浜経済人会議)の文字。各地域で独自の「ローカルマニフェスト」を制定することが近来盛んに行われているが、その実例紹介としてここでは横浜JCの「都市間FTA提案」が提示された。FTAとはFREE TRADE AGREEMENT(自由貿易協定)。
要は従来の姉妹都市構想をさらに一歩踏み込み、特定の都市間で都市間自由貿易協定」(都市間FTA)を締結することを提案するというもの。
「WTO(世界貿易機関)のルールの中で実現できる水準を超えた、あるいはカバーされていない分野における連携の強化を図る手段」であると資料にはある。
黒川理事長によれば、例えば横浜と現在姉妹都市関係にある都市(ex.バンクーバー)との間でFTAを締結すれば、相互の企業が互いの支店を設けた場合の関税や法人税などの優遇、都市間貿易協定の締結、両都市間における都市間貿易の活発化、外国人が暮らしやすい環境整備などが構想されている。
ここで日本銀行出身で経済・金融の専門家でもある大塚議員から霞ヶ関等で予想される実務面や法制面でのハードルについて、どのように考えるかという質問が黒川氏に出される。黒川氏は、超えるハードルでの困難があることは認めながらも、最終消費財に限定しての関税廃止などの可能性とこうしたビジョンを自治体や青年会議所が策定することの意義などが説明された。
また大塚議員も、場合によっては議員連盟を作り応援する準備があることなどに触れ、プラトンあるいは民主党としての支持姿勢をアピールした。
しかしながら、現在の説明では印象としてビジョンに留まっている状況しか見えてこず、肝心の法制面での障害と対策などが具体的には説明されなかったので「夢を語る」という次元の印象を受けたことは事実。
特筆すべきなのはむしろ「大塚先生」と呼びかける黒川氏に対し、大塚議員が「民主党ではXXX先生という呼び名は止めてください。党内で一回XXX先生というと小宮山洋子さんに100円払うことになっています」(場内爆笑)と答えたことのほう。
少々脱線すれば前回のブロガー懇談会においても、民主党の議員に対して「XXX先生」と呼びかけるブロガーは皆無であった。申し合わせたわけではないが、皆当然のように「XXXさん」あるいは「XXX議員」と呼びかけていた。これはまあ、当然といえば当然だと思うが世間的には異例かも知れないとおもっていたが、同様の考えを大塚議員が示されたことで少々好印象。
このセッション自体は、(まあ枠外だから・・という考えもあるが)総じて大甘。なごんでましたけどね。ローカルマニフェスト自体は結構な試みではあるが、「若年寄の暇つぶし」・・と言われないように、黒川さんも官僚と戦うつもりで本気で理論武装して現実的な提案を今後していってください。
■第2セッション コミュニティ・ソリューション
![]()
パネリストは
・金子郁容(慶應義塾大学大学院教授・メディア研究科教授)
・石田芳弘(犬山市長)
・井上英之(慶応義塾大学総合政策学部専任講師)
・鈴木寛(参議院議員)
このセッションは非常に活気のあるセッションだった。豊富にスライドを使ってプレゼンテーションがされた。パネラーはやたら元気な金子氏をはじめ、みな個性的でエネルギッシュ。静的な前半の第1セッションに比べて動的な印象。
●鈴木議員から
・コミュニティ・ソリューションの理念の説明。スピード感のある歯切れのいい説明。
・「小さな政府」VS「大きな政府」論争を超えていかなければならない。負担者が求める「小さな政府」。受益者が求める「大きな政府」この対立概念を超える一つの解決がコミュニティ・ソリューション(地域相互扶助とか地域のことは地域で・・というようなこと)
・一概な「民営化」への警鐘。市場原理導入にあたっての課題。
→市場原理を機能させるための社会インフラの手当が重要
→大事なのは情報の共有とリテラシーの向上。
・小さな政府を端的に追及すれば社会の二層化を招き、勝ち組と負け組が発生するのみ。社会全体にモラルハザードと無力感。
・低負担高満足社会をどうやってつくるか。→ボランティアの最大活用
・キーワードは「コミュニティ・ソリューション」&PPP(Public People Partnership)
・信頼の醸成と現場に問題解決のノウハウ蓄積
・三鷹第四小学校の実例紹介(20人の子供に対して市民ボランティアの協力により5名の教師。)→他にもコミュニティ・スクールが全国に広がっている(150校)
安定感があり力強い。さすがというプレゼンテーションである。
●金子教授から
・小さい大きいという表現を超える
・信頼は誰が担保するか。
・民営化の問題は社会の監視コスト増大、罰則の明確化。
・「コミュニティ・ソリューション」は自分の発案といわれているが実はピーター・ドラッガーの論→active commitment/compassion
・1人1人が自分によって変ることが重要→make difference
金子教授はとにかく声が大きく元気がよく、「つかみはOK」の典型のような方。話はあちこちに飛ぶがノリの印象論が多い感じ。しかし場内が一気に活気づくところはさすがカリスマ教授。
●石田犬山市長
・犬山市の事例紹介
→算数と理科の教科書を自分たちで作成
・持続可能な公共バランスが重要
・市民のcommon senseに委ねる。
・数値化できない郷土愛が重要
・「ふるさとはありがたきかな」がインセンティブになる。
・小学校を拠点にする。
・お祭りはよい。
石田市長はとにかく個性的。たびたび場内を爆笑させたが、論理ではない情念(笑)というか暖かい人柄は伝わってくる。「理屈じゃないんです。愛なんです」みたいなヒト(笑)こんな人間的な市長