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December 31, 2005

誰がルールを決めるのか?----オーバーチュア問題と「公共性」

先のエントリーに関連して「踊る新聞屋-。」さんの「IT企業の非公共性が中国的ネット社会をもたらす可能性はないか、というメモ~googlezon、最良の、そして最悪の時代」

「ユーザーにとってそこは、完全なブラックボックスなのだ。と思っていたら、<繰り返すが検索二強が恣意的に検索結果表示を調整していることは周知の事実。=BigBang:オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴(2)---広告活動と表現の自由について>だそうな。」

とコメントしていただいた。同サイトにはコメントを返しておいたけれど、Yahooには当局に協力して特定の事件における人名の一部を検索インデックスから外した事例がある。また最近ではある皇族と婚姻が噂された特定の人物の名前を、特定の時期まで検索インデックスから明らかに外していた。「★阿修羅♪の日記」からは

★阿修羅♪サイトは、現在全面的にヤフー八分になっています。
どんな単語を検索しても、ヤフーでは絶対にヒットしません。

との話が寄せられている。

Googleでのこうした規制の具体的な実例は知らないが、同社がSEO対策と称して、その検索テクノロジーのインデックスの優劣基準を、定期的にかつ「恣意的に」変えていることは、同社がセミナーの場などで正式にインフォメーションしており、SEO関連に関心のある企業は皆知っている。そうした両社の状態を私は「検索二強が恣意的に検索結果表示を調整していることは周知の事実。」と表現した。

要は問題意識の根幹のところは共有しているということなのである。共有した上で、広告相手との契約相手の選択の自由という「私権」を、これら「恣意的な」(仮にそうであったとして)検索表示方法をなしているネットのガリバー企業に「表現の自由」という観点から、法廷論議で展開することには違和感がある。というのが私の先の2エントリーの立場であり、それは変わらない。
神保氏のコメントには、少なくともこの法廷闘争を「全く話し合いのテーブルにつかない相手」に対する、止むをえない対抗手段であることが明記されており、その自覚の明確さはよくわかるし、そうした方法をとられたことを全面批判するものではない。

だが、この「相違の意識」があるのかないのかは、この問題を如何に深く考えうるかの、試金石になっていることも事実であると思う。そうした意味で、やはりヤメ記者さんの最新の記事「公衆浴場よりも表現の自由の場の方が公共性は高いのでは?」の以下の記述にはそれらを峻別して論じる姿勢が欠落しているように思われる。

なぜ話を

「広告掲載の拒否」→「危険なネット企業による横暴」→「表現の自由の侵害に自覚せよ」→「公共性を守るための(当局による)内容規制」

というスキームで展開しなければならないのか。

BigBanさんが引用するサイトには【gooleやyahooは、検索における「支配者」であり、そのルールは神聖不可侵なのだ。その上で決められた「遊び=検索上位」をするだけ。】とあるが,表現の自由の優越性を理解していない発言ではないでしょうか?表現の自由は,「支配者」の掌で飛び回る孫悟空であってはならないのです。(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士


さよう。その通りである。では

「表現の自由」は「為政者という支配者」の掌で飛び回る孫悟空であれかし

とお考えか?支配者にはGoogleでもYahooでもなく司法を、あるいは国家を置けと?

例えば,NTT以外の企業が通信事業に参入する際,NTTの回線が使われた。であれば,ヤフーの検索システム上の検索連動型広告スペースだって,門戸を開放させるべきではないか?それは新たな立法を伴うかもしれないが,公共性の高さからは必要な枠組みづくりではないだろうか?そうでなければ,やはり,違法な広告など一部の広告を除いて全て掲載するような法的枠組みを作るか?(同上)


NTTの通信回線は「解放されなければ」他の如何なる企業も通信事業に参入することはできなかった。だがネットは違う。今であっても、GoogleやYahooの「許諾」をとることなく、これら以上に強力な検索の仕組みを作ることは、少なくとも可能であるし、そうした試みもなされている。

さらに別の視点がある。そもそも、ここで問題とされる「公共性」とは何か?私たちの国は国家による何らかの規制を完了した状態を「公共性が確立された状態」と呼び、「完全に商業的に自由化された社会」を「公共性が未発達な未熟な状態」と、勝手な幼稚思考に嵌っているのではないか?

「404 Blog Not Found」では、この点に注目して、公共性への無自覚な傾倒に批判の論を展開している。

要は「おまえらは公共の何たるかを知らないのだから、おれ達に従え」という響きである。
そのかつて「メディア」に「免許を与えて来た」者達は、公を担うにふさわしい行為を行動で示して来たのだろうか?少なくともGoogleがいうところの"No Evil"のEvilが彼らのEvilとは異なることだけは確かだ。

そして「既存メディア界に存在している」「原罪感」の由来は、本来彼ら自信が確立すべきであった「公」を、「為政者」という「他」が与える「免許」にまで矮小化してしまったことにあるのではないか?
「免許?誰が出すんだそんなもん?(404 Blog Not Found)

公共性が確立された、あるいは「公共的なことが求められてそれが実践されている企業のモデル」は一体どこなのか?NHKか?読売新聞か?フジテレビか?
彼らのどこが「真に正しく公共的」であったことがあるのだろうか?まさかあの「放送法」や「記者クラブの」を指しているのではないだろうね?

さてそこでこの人のエントリーだ。

踊る新聞屋さんは

    さて、すべてのネットユーザーはそろそろ、サイバー社会の公共性を考える時期に来ている。政治体制を問わず、為政者は常に、言論・表現・報道の自由を規制したがるものだし、表現者の行動を監視したくなる衝動に駆られているのだから。

と書いていますが、それはメディアのパワーと危険性をある程度理解している私には伝わりますが、果たしてネットメディアにかかわる人たちやエンジニアには伝わるのか、疑問があります。「ザ・サーチ グーグルが世界を変えた」を読めば理解できると思いますが、グーグルの検索結果で誰かが傷つこうとも、彼らは「どうってことない」と思っている。ある種、既存メディア界に存在している「原罪感」はありません。「私たちはメディアパワーを持ちたいと思ってやっているわけではありませんから」と真顔で発言したりします。ある種「無邪気な善意」がネットの世界を覆っているのです。彼らは無免許の運転者ですが、それは善意ゆえに、その危険性を伝えることは困難が伴います。
(「ネットメディアは無免許運転の暴走車なのかもしれない。(ガ島通信))

「メディアのパワーと危険性をある程度理解している私には」伝わるが「既存メディア界に存在している「原罪感」」を欠如した「無邪気な善意」を持つネット企業には伝わらない。だから「既存メディアで原罪感を持ちえた」人の忠告に従えという。
ああ、まただと思う。また弁当論争と同じ話であり、この人=ガ島氏の論点は結局のところ、そうした「自分が身を置いた腐ったメディア」へのトラウマ感から一歩も出ることは出来ないのだと思う。

今求められているのは、既存メディアが作り上げた(あるいは作り上げることすら出来なかった)「エセの公共性」にこれら新興企業を委ねることではない。あなたたちが、あるいは私たちがこれら企業に対して「真の公共性」を求めるとすれば、それはぎりぎりまで、私たちと彼らの主戦場であるこのネット空間での攻防でなされなければならないのではないか。ネットは国家が独占する電波ではない(今のところは)。全国津々浦々まで張り巡らされた新聞配達店の流通網も存在しない。そしてあの忌まわしい記者クラブも「まだ」ない。

公共性の確立に果たすべき国の役割を無視しようというのではない。しかしそれは、ぎりぎりのところでなされるべきことであり、日々、時の政権からの大本営発表を無自覚に垂れ流す旧メディアや、国民の生命と財産を直接脅かす建築業界などでこそ、まず整備されるべきであり、ネット上の言論を中途半端な状態にしたまま、これら新興企業の首を「国家」に差し出すのは如何にも我らの軽慮の謗りを受けないか。

そして、「404 Blog Not Found」の以下警鐘には深く共感する。

だから、本当に怖いのは、彼らの「無邪気な善意」ではない。彼らが「免許」の力に目覚め、自ら「免許」の発行に乗り出し、それが旧来の免許と置き換わることなのだ。
すでにMicrosoftやCiscoやOracleは目覚めている。彼らの発行する資格は「公的」には紙切れだ。しかしすでにそれを持つ事による職業的優位を確立しつつある。もしYahoo!やGoogleが「免許を持つサイトのみインデックスします」と言ったらどうなるのだろう?
無邪気な無免許者の方がまだましというものではないか?
(太字はBigBangが付与)

【参考記事】

●オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴(2)---広告活動と表現の自由について
●オーバーチュアを、日本ビデオニュース社が提訴---試練はマーケットが加えるべきであろう。

【参考リンク】

●IT企業の非公共性が中国的ネット社会をもたらす可能性はないか、というメモ~googlezon、最良の、そして最悪の時代(踊る新聞屋)
●公衆浴場よりも表現の自由の場の方が公共性は高いのでは?(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
●免許?誰が出すんだそんなもん?(404 Blog Not Found)
●ネットメディアは無免許運転の暴走車なのかもしれない(ガ島通信)
●★阿修羅♪サイトはヤフー八分になってます(阿修羅♪の日記)

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Comments

 「独占的私企業による表現の自由の制約」の問題は難しいですね。僕の関心もとても高いのですが、未だ考えがまとまりません。

 とりあえず、「内容」「妥当性」という実体的な中味の問題としては、表現の自由を最重視することに僕も賛成するし、今までもそういう方向で僕は発言してきたと思います。「思想の自由市場」といった理念は、あくまでも法的に「優先」させる価値なのであって、現実のメディアがそれを実現できているかという話とは少し次元が違う問題ではないかとも思いますし。

 しかし、議論の「場」が裁判所に移行した段階では、おそらくはBigBangさんのお考えに近い感覚もまた僕の中にあるんですね。私人間の問題に国家機関たる司法府がどのように介入するのが妥当なのか、やはり考えてしまう。「思想の自由市場」に対して国家は「保護」はするべきであっても、それがないところに「創出」するのはどうなのか。そのような「アファーマティブアクション」が必要な場面なのか。

 ただ、たとえ私人間であっても、両者の社会的影響力の差を実質的に考慮し、対国家と同様の人権保障を考える方向性には一定の説得力があるのも確かであります。実際、憲法学者からもそういう主張が一部でなされますし、何より、一般感覚として肯定されやすい論理であると思います。

 なかなか一概には言い切れない感じですね。


 そんな中、小心者的法律論としての私見では、今のところ、次のように考える余地はないかと思っています。

1 まず、第一に、被告企業は、原告企業のサイトを「完全に締めだした」のではなく、スポンサー欄に掲載することを拒否したに過ぎないのであるから、純粋な「精神的自由」としての表現の自由の問題とは言い切れない面があること。あくまでもビジネスとしての経済的権利の問題である面がある。

2 だとすれば、第一に問題になるのは、両企業の契約がどのようなものであったかという、「契約の合理的解釈」であって、契約当時の両者の意思表示がどのような内容によって合致していたかの認定こそが、裁判所が行うべき職責ではないのか。

3 契約内容の解釈を超えて、「パブリックフォーラムとして利用させろ」という主張は、実は、「意思表示の合致がなくても債権者としての地位を認めろ」という内容ではないのか。「パブリックフォーラム」と呼ぶべき場所は、検索画面の上位に位置する箇所ではなく、検索ページ全体を指すべきではないか。

4 「表現の自由」の主張はあまりに大上段なものとなってしまい、法律問題に限定した場合には上滑りをしてしまうのではないか。国家の後見により該権利を「保護」するか否かの問題は、法的議論ではない、ネット利用者間の「政治闘争」「主導権争い」という面はないか。
(その意味で、原告の法律構成には論理的な強引さが含まれてはいないか)

5 現在なされている議論に、どこまで上記のような問題意識があるのか。


 う~ん、もう少し考えてみますね。

ありがとうございます。僕の言いたかったことを法理構成として裏打ちしていただいているように思い、助かります。

「表現の自由」を事由にしての「原告の法律構成には論理的な強引さが含まれてはいないか」

というのがまさに僕の感じることであり、

>両企業の契約がどのようなものであったかという、「契約の合理的解釈」であって、契約当時の両者の意思表示がどのような内容によって合致していたかの認定こそが、裁判所が行うべき職責ではないのか。

とまとめていただいたところが、まさに今回の「事件」のコアであり、それろ利用して、それ以上の「恣意的」な闘争を挑もうとするにはあまりに強引であり、基礎固めができていないと思うわけです。

>4 「表現の自由」の主張はあまりに大上段なものとなってしまい、法律問題に限定した場合には上滑りをしてしまうのではないか。国家の後見により該権利を「保護」するか否かの問題は、法的議論ではない、ネット利用者間の「政治闘争」「主導権争い」という面はないか。

にもまったく同意します。

古い記事にコメントで失礼します。
オーバーチュアを~の方にTBさせていただきました。

この記事を読んで、公共性という言葉を自分のブログの中で
無自覚に使ってしまったなぁという気がしました。

ネット社会は便利に見えて恣意性の実態が見えにくい分、
暴走の危険をはらんでいると思います。
まずは利用者の側に自覚が求められているのであり、
例えば選挙でのネット利用なども現在の状況では
かえって危険な結果を招くだけなのかもしれません。

今晩は。TBどもです。
確かに今まではネットの選挙の解禁は「善」として進められてきたのですが、危険な結果「も」招くことはありえますね。ですが、他のエントリーでも書きましたが、こればかりはリスクがあっても進めるしかないかと思います。究極は法の整備しかないのですけれどもね。悪意の利用者に対抗するには、ですが。

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