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January 28, 2006
凡庸なる者たちへ-----ライブドアニュースの報道など
畢竟、堀江に裏切られたと嘆く者は自らの凡庸さに裏切られたのである。
僕を含めて多くの人の人生は、凡庸だ。そうした意味では、僕に感傷があるとすればそれも僕の凡庸さの一形態として見るべきだろう。
あなたの人生にしても、日々は河のようにとうとうと流れていくが、予定調和を大きくはみ出す流れはめったに起こらない。もちろん凡庸の中にも無数の区分があり、互いの人生に見込み違い「のようなもの」やドラマ「のようなもの」が訪れることはある。あるが、それすらも予想された凡庸さの一断面と見るべきだろう。多くの人々は稼ぐことから解放されることもなく、「良い会社」に就職していい給料をもらいたいという卑俗な欲望から解放されることもなく、手がけているささやかな仕事における賞賛の夢から解放されることもなく、可愛く優しい恋人が欲しいという切実な願いから解放されることもなく、生き、眠り、食べ、生殖を行い死んでいく。凡庸さの奥深さとは、夜の帳のように深く、深く、抱かれたその場所から逃れることは容易ではない。
さて、ここから話は凡庸な者について、この凡庸な者が考察することとなる。堀江や宮内がこういう定義の上で凡庸であったかどうかはともかく、沖縄に不業の死を遂げた野口氏の人生が凡庸であったかどうかはともかく、虚業と呼ばれるライブドアに働く連結4,000有余人の人生も我らに等しく凡庸の帳に包まれていたとしか言えないのであって、この話はその観点で理解すべきである。
世界を見るレイヤーは無限にあり、企業活動は、あるレイヤーでは地獄の詐欺集団であり、あるレイヤーでは、人の生活に果てしない進歩と恩恵を与えるものである。資本市場はあるレイヤーでは地獄の搾取の仕組みであり、あるレイヤーでは人類が生み出した最高の英知である。投資はあるレイヤーでは守銭奴のダンスであり、あるレイヤーでは新世紀を人類にもたらす最後の砦である。
全ての事象を「深く読む」とは、多くの場合、単にこのレイヤーを気分によって次々と切り替えているにしか過ぎない。
さあ、ライブドアである。ライブドアを見る我々のレイヤーはどうか。深く読もうと、浅く読もうと我々はいつもこのレイヤーを自分の都合のいいように切り替えて、繰り返し繰り返し論じ合っているにしか過ぎないのであり、見られる対象としてのライブドア、そしてそこに勤務する社員像を考えたとき、このレイヤーをどのように切り替えて見るかは、我々の気ままな意志に、委ねられている。そして、さらに悪いことに我々は凡庸であるので、メディアによって二重に三重に、翻弄される。そうした意味において虚業であるか実業であるかなどと言う議論は何の意味も持たない。
果てしなく悪事を企てていた「凡庸ではない」4,000人のギャングのような人間集団が、六本木ヒルズに集まっていたと考えるならば、それはエキサイティングであり、凡庸のレイヤーを異次元に超越するものになるのであろうが、そうはうまくいかない。そうはうまくいかないのである。
彼らの多くは日々をやり過ごして暮らす、あなたと同じWorking Peopleであり、自らの企業の株分割の企ての意図も意識しなかったであろうし、堀江の数十分の一でしかない給料日を焦がれて待つものであり、残業代がつくかつかないかわからぬ深夜の勤務を気にかけるものであったし、タクシーの領収書が清算できるかどうかを、その日の重要事項として気にかける者であったろう。企業に対する忠誠心があったかどうかを今になって問うたとしても、もはやライブドアの企業存在とは何であったのか、この混乱した状況で「企業への帰属」を問うこと自体が悪い冗談であったとも思えるのである。
そうしたヒールに徹しきれない、ヒールになろうことすらかなわぬのが、あなたや私、多くの凡庸な人々と言うべき者達である。この「凡庸なる」人々の生に正しく照準は当たっているか。
ライブドアニュースに流れる記事の大半は、確かに既存のメディアからの切り貼りであるが、システムが非人為的に集めているのではなく、編集権は明らかに人為に委ねられている。さらにこの混乱に右往左往する社内の自らの姿も、ネットに報じている。これは何か。これも世論に合わせた「悪意」であったか。その余裕を持てる者たちであったか。
さらに、ライブドアPJと称して集めた集団は、心細いながらもかつてのライブドアの企業意志に基づいて構成された集団である。その集団は今回の事件に際して、自社にとって都合の悪い記事を、カットとまでは行かなくても、避けて通ることは出来たのでありその選択はあり得た。実際多くの既存メディアが自社の不祥事に際して、それをやってきたのであり、ここでライブドアニュースがそれを「踏襲」したからといって、責めるほどの余地もこの混乱の中ではいささかのものでもなかったであろう。しかし彼らはそれをしなかった。
ライブドアニュースは、今回の大カタストロフィに直面して、中にある者の凡庸さをもって考えるならば、見かけ上、「企業人としての忠誠」を装っても良かった。おそらくライブドアという企業は、そのことの是非はともかく、宮内ではなく堀江の企業であったのであり、堀江のいないところにコアはもはやなく、トヨタやSONYであれば発揮されたかもしれない企業人の忠誠心などは、発露の土壌すらなかったのであろう。
それは会社への忠誠心の問題であり、実はどうでもいい。過剰な正義感を見る必要もないであろう。問題は凡庸さである。
凡庸に生きるWorking Peopleであれば、ヒールに徹することもクールに徹することもできずに、なす術もなく検察の暴力とメディアの暴力に晒された。これら凡庸な人々への同情は、あなたや私の人生に対する同情と同義である。そうした意味で、昨日と同じように昼食を食べ、たわいもない歓談に生きていることの、ある種の安定を見ていた社員たちが、晒された暴力に際して、期せずとも選んだ選択の結果があのライブドアニュースの姿勢であることは、はっきりと認識すべきであろう。万分の一は評価しても間違いではない。
事象を深く見るとは、結局はレイヤーの切り替えにしかならないのであり、これら凡庸なる人々の、たまたまライブドアに籍を置いた社員たちの凡庸なる生をどう見るかは、たまたま武富士に籍を置き、かつて狂った債務者に焼き殺された女性社員の嘆きに照準を置くか、あるいは彼女の自業自得の罪と見るかという問題ともどこかで連なっている。
あらゆる事柄を原初より悪意で企てる「非凡な」人々はそう頻繁には世界に現れない。堀江ですらその例外ではないと思う。
彼らのために流す涙は、おそらく凡庸の最たるものであろうが、告白すれば、僕はその凡庸の涙をそれほど嫌ってはいないのである。
Inspired by Mr.Samejima's comment.
【参考記事】
心の中のライブドアショック----私たちは暴力装置の中で生きている
naoyaのはてなダイアリー - ライブドアの技術の話
真価が問われるライブドアニュース(ガ島通信)
ライブドアニュースの中立性と寡占(現代期待システム論)
2006 01 28 [ライブドア] | 固定リンク | コメント(20) | トラックバック
January 26, 2006
ネットと放送の融合が----想定外のかたちで成立か
得てして世の中こんな風に動いていくのか。
「支援も選択肢のひとつ」 ライブドアでフジ会長( 共同通信 - 1月26日)
嗚呼、諸行無常。合掌。
2006 01 26 [ライブドア] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
心の中のライブドアショック----私たちは暴力装置の中で生きている
ライブドア事件が発生して以来、何だか仕事が手につかない。ついニュースサイトを追ってしまったり、株など持ってもいないのにライブドアグループの株価をチェックしてしまったりする。「ありし日の」得意のホリエモン(今このサイトでは初めてこう表記する)を思い、今の落日を思い、世界に満ちている彼への悪意を思い、無意味に気持ちが沈む。
一貫して僕は彼を批判してきたが、彼をこの世から抹殺したいとか、引きずり落としてやろうとか思ったことは一度もなかった。どこかでやはりこの稀代の「大風呂敷男」に注目し、どこかは評価してきたのだろう。だからこそしつこく、その危うさにこだわり続けた。
それが、昨日まで彼をもてはやしていた世間が、くるりと手のひらを返す様子を見ると、やはり心が暗くなるし、もしも自分がそういう立場になったら(いやあれほどの大転落はしたくてもできんけどさ)きっとそうした冷たい世間の悪意に晒されるのかと思い、彼の落胆いかばかりかと思い、やはりここは心のOSを根本から組み替えて再起してもらいたいと思う。いつもの悪い癖で彼の何かが自分に憑依してしまっているのかもしれない。僕にはそういうところがあるのだ。
そんな感傷を言っている暇があったら、見切り発車であれほどの規模の強制捜査に踏み切った検察の「暴力」についても言及していかなければならないと思っている。はっきり言って今回の強制捜査は別件捜査もいいところであり、あそこまでパソコンや重要書類を突然持ち去られて、徹底的に調べられたら、子会社の預金の付け替えや投資組合経由の不明朗な投資など、他の企業でもうようよ出てくる話だと思う。目的が手段に先行し、手段の合理性を十分検証しないまま先へ行こうとしているのは、どこかイラクに先制攻撃した米国の理屈さえだぶる。もちろん、イラク戦争のように何の証拠も出てこなかったということはないようであるが。
決算期間際になると、何とか売り上げを前倒しにして当期の決算を良く見せようとすることは、多くの非上場/上場企業でされていることは、企業に働くものなら皆知っている。民法上の任意組合を連結対象や開示対象にする義務が法的に明確にはないことも明らかなのにも関わらず、「実質支配」などという抽象的な言葉で強引にくるめられて物事がライブドア絶対有罪の方向で進められていく。
繰り返すが僕は堀江の哲学は浅くて卑しく愚かだったと思う。その評価には微動だにしない。あの彼に夢の代弁者を今も期待する若者がいるなら、目を覚ませと言い続けたい。だがそれとこれとは区別されなければならない。幸いネットに多くの英知が今回の事件について同じことを言及し始めているので、希望がある。ありはするが、この1週間繰り広げられた、国家権力による一企業へのすさまじいまでの「暴力」(と呼ぶ。敢えて)は、この光景はやはり僕の心を暗くさせる。
1人の人物への世間の評価が昨日までと天と地ほどに変わってしまった例として、オウムの麻原を思い出すのだが、あのときも長く重く苦しい気分がずっと続いていたと思う。多くの人が亡くなったオウム事件をそのまま今回になぞらえるのは適切ではないのだが、上九一色に向かうおびただしい数の警察官と機動隊のあの風景はどこか今回の六本木ヒルズの風景とやはり重なるところがある。
それは普段意識しない国のもう一つの姿。権力の暴力装置の姿である。仮に後日ライブドア側の言い分のいかばかりかが司法の場で通ったとしても、時間を逆行させることはもうできない。現代の暴力装置は時計の針を元に戻すことは決して許さないのである。そのことの恐ろしさを僕たちは自覚すべきだとと思う。
しかし今回の事件に際して「ライブドアニュース」の姿勢には敬服した。幼稚でつまらない記事ばかり連発して・・と平時には馬鹿にしていたが、未曾有の自分たちの危機に対して彼らのフェアな報道姿勢は、素晴らしかったと思う。現場の一人ひとりはどんなにつらい思いで、自分たちのボスのそして企業の不祥事と破綻を報じているだろうかと考えると胸が苦しくなる。
そうしたわずかなディテールに込められたかすかな希望が今の僕には救いである。
2006 01 26 [ライブドア] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
January 25, 2006
DisneyがPixarを買収----白雪姫が心配(まだ言ってる)
「Disney、Pixarを74億ドルで買収(R30)」経由で知ったが本日74億ドルでDisneyがPixarを買収したとのこと。JobsはDisneyの筆頭株主になり、10%弱の株を手に入れたとか。しかし、ピクサーの評価額が74億ドルということを聞くにつけ、先日までのライブドアの1兆円近い評価額が如何に異常なものだったかがわかるというものではないか。1株100円になったって、まだ10億株もの発行株数がある。1000億円もの評価があるのだ。確かに現金がある(はず)のだが。
ちなみにUSA TODAYには白雪姫の運命については何も触れられていない。(爆)
【参考リンク】
映画プロデュース会社:取締役の妄想日記
2006 01 25 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック
January 24, 2006
堀江氏逮捕---今再び「堀江貴文の病理」について
既に逮捕は秒読みに入っていたが、それでも早くて今週中かと思っていた。それが今日の午後、事情聴取から逮捕へと一気に進んだ情勢に驚いている。敏速に事件を一定の段階へと収拾することで市場を早く平静な状態に戻そうという思惑が、捜査当局筋にもあるのだろうか。
本人や宮内取締役が今回の事態を予想できていたとは思えないが、ネットではだいぶ前からライブドアに対する立ち入り捜査が始まるのではないかという噂はあった。特に耐震偽装事件の前後からは、不動産関連の関連会社とからめて、古くからある、この企業と暴力団との関係に言及したエントリーが急速に目立つようになっていた。予想できた事態とまでは言う気はないが、「何ともいえないおかしなムード」が感じられていたとは思う。もっともこの結果から逆にそう思えるだけかもしれないが。ライブドア側では何の動きも察知していなかったのであろうか。
今年の初めあるいはもっと早い段階でライブドアの経営陣が、水面下で進行していた東京地検のいささかなりとも「不穏な」雰囲気に気がついていれば、ほかの対応もあったのではないかと思われる。さらに古く、捜査の端緒となった投資組合の件を言うなら、せめて民法上の組合ではなく、前にここでも言及した事業有限責任組合法(ファンド法)に基づいた、法人格のある組合方式で投資を扱い、売却利益に関してきっちり配分する方法をとっていれば、ここまで露骨な商法違反に問われることは避けられたかもしれないと思う。ライブドアとも別組織であることを、もっと明確に会計区分することもできたはずである。この点において、堀江氏や宮内氏はあまりにも楽観的で脇が甘かったと思う。
もちろん、証拠を握りつぶせば良かったと言うつもりはない。手先のテクニックでより巧妙に切り抜けるべきだったとも言うつもりはない。ただ分岐点はいくつもあったはずだということだ。
この企業と堀江貴文氏の「病理」は遥か昔から始まっていた。
Googleで「堀江貴文」と入力すると、僕がおよそ1年前に書いた「堀江貴文の病理------カネが全てではない理由の考察」が9番目に表示される。それよりも上に並んでいるのは本人の社長日記や、Wikipediaしかない。どういうわけかこの状態が長く続いているので、毎日ここから大量の「堀江貴文」検索アクセスが来る。特に今夜の逮捕情報の後には、アクセス数が急速に増大している。
我田引水で恐縮だが、今この記事を自分で読み返しても、今回の事態は「起きるべくして起きた悲劇」としか思えない。
大きな声で「カネが大事で何が悪い」と叫ぶ者への批判を、私たちの社会は忘れた。
ではカネで支配できないものとは何か。代表格は「芸術」であろうし「思想」であろう。あるいは「平和」であり「愛」であり、「健康」かもしれない。
だがそれさえもおそらく彼は言うであろう。「カネで支配できる」と。
しかし、逆説的な真実がある。
それは堀江の執着している「マーケット」こそカネでは支配できないということである。そもそもスケールの並外れた怪物を「金で支配」することなど究極的にはできないのである。
なぜならば、これを金の力のみで支配するのは、それこそ桁外れの「金力」が必要であり、自己資金では到底不可能である。勢いマーケットは「気配」や「風評」といった、ある種の「価値嗜好性」によって、あるいは時に思惑的に動いている。
金で勝負する以外の何者かを意識しないと、ここでの勝負に勝つことはできない。
一番金がモノをいうはずの世界で、実はカネ以外の「何者か」を甘く見ると手痛い洗礼を受ける。堀江は、この「何者か」に決定的に欠けている。(「堀江貴文の病理------カネが全てではない理由の考察」より)
彼の逮捕で若者の「夢」が潰えたと嘆く声も聞かれるけれど、そういう言い方をすれば、夢が潰えたわけではない。そこにあったものは、元々「夢」に紛らわしい形をしていただけで、夢でも何でもなかっただけの話である。従ってこれで何かに絶望する必要も悲観する必要もないと僕は思う。
妬みやそねみと無知に溢れかえった報道の中で、冷静に今夜の事態の本質に目を向けたい。そして、未だ事件の全体像も茫漠としているのだから少し早すぎるかもしれないけれど、この稀有の起業家の本当の意味での再起を期待したいと思う。
何も終わってはいないはずである。
彼にとってもこの社会にとっても、そしてあなたや私にとっても。
厳粛に。
2006 01 24 [ライブドア] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック
January 23, 2006
ジョブスがディズニーのCEOに?----白雪姫の危機(毒)
米紙ウォールストリート・ジャーナルは19日、米メディア・娯楽大手、ウォルト・ディズニーが、人気アニメ映画で有名なピクサー・アニメーション・スタジオの買収交渉を行い、大詰めの段階に入っていると伝えた。
ピクサーの代表は、アップルコンピュータのスティーブ・ジョブズ最高経営責任者(CEO)が務めており、買収が実現すれば、同氏がディズニーの筆頭株主になる可能性も出てきた。
(ディズニーがピクサーの買収交渉、大詰めの段階と米紙/CNN.co.jp 1月20日)
筆頭株主という地位から考えて、ジョブスがディズニーのCEOとなるのではないかという噂も流れており、日本国内がライブドア問題と耐震偽装マンション問題で揺れている間に、大変なことになってきている。
これに伴い、オリエンタルランドが経営する東京ディズニーランドも、ジョブスが米国ディズニーのCEOになった暁には、「東京ジョブスランド」もしくは「東京林檎の国」に改名するのではないかという観測が出ており、長い間東京ディズニーランドを愛してきたファンを心配させている。
さらにもっと驚いたことには、自称著名ブログジャーナリストであるBigBang氏が独自のルートで掴んだ情報によれば、ディズニーの旧年のキャラクターであるミッキーやドナルドは今まで通りキャラクターに留まるが、白雪姫については、抹殺されるのではないかという見方があるという。というのも、白雪姫が食べて死ぬのはご存知「毒林檎」。これが、Appleにとって極めてイメージが悪いということで、ジョブスがピクサー株売却の条件として、白雪姫の永久追放を条件に挙げているという。ディズニーによるピクサーの買収交渉は最終局面に来ているが、ここへ来てまたも飛び出したジョブスの我がままに、関係者からは「いい加減大人になって欲しい。呆れた」との声も聞かれるという。ジョブスからは白雪姫存続のための方策として「せめて毒林檎を毒さくらんぼに変える事はできないのか。」という妥協案の提案も出ているようであるが、これについては山形県から絶対反対の声が寄せられているという。
尚、この情報の出所に関しては、BigBangはジャーナリストの情報ソース秘匿の義務を理由に一切明らかにしていない。
【追記リンク 1/25】
DisneyがPixarを買収----白雪姫が心配(まだ言ってる)
2006 01 23 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(5) | トラックバック
January 20, 2006
「ホテル・ルワンダ」---守ったのは職業倫理ではないだろう。
ルワンダでなぜあのようなことが起き、そしてなぜ世界や自分が沈黙していたか、あるいは沈黙していて何がいけなかったのか、国連はなぜルワンダを「助けなければ」いけなかったのか、助ける「必要がなかったのか」という、こういう一つ一つを大事に、大事に考えていかないと、人権という名の(それもひどく浅薄な)ヒステリーになる。あるいは平和主義というヒステリーになる。
起きたことの構造や背景を知ることは日本でもある程度はできる。情報も入る。
だが、その対極に「現場感覚」というものがある。リアリティだ。生だ。
窓が、扉が夜中に叩かれる。兵士が踏み込んでくる。
銃声が轟く、横で愛するものが殺されようとしている。恐ろしくて子供ががたがた震えている。火薬の匂いがする。怒声が響く。隣人がなたで頭を割られて殺される。
もちろんあのとき、あの場所にいたものでないと体験できない。だが、いたとすれば現場で、どういう追い詰められ方をしていたか、他の国にどんなに助けてほしかったか。どんなに彼らが、どうしようもない追い詰められた状況だったか。その何十分の一かを人に伝えるために、この映画があると思う。映画通りだったのか、違うのか、それは今の僕たちにはわからない。
しかし、その「恐怖」の前に、つまり1分単位で身が削られていく恐怖の前に、世界の政治や経済の構造を考えることすら空しく、理屈を言うなという声が聞こえる。
1994年の春、大虐殺。
ルワンダは死体の山になっていた。
あのとき僕はどこで何をしていたのかと思う。
わかっている。どうせろくなことはしていなかった。何をしていなかったとしても、していたとしても、どうせ自分には彼らに何もできなかったろう。
正気を取り戻すと僕はパンフレットを読み、もう一度ルワンダが何だったのか、世界の「構造」について考え始める。世界はどうしてこうも自分が知らないうちに、自分が知らない理由で、いつも人が死んでいくのだろうと。
そして、なぜいろいろな理由で自分たちはそれを助けることも止めることもできず、人が死に絶えた後でそれを知り、ああだった、こうだったと日本の隅でぶつぶつ言っているのだろう。
空しい。空しい中で何ができるか考えて、そしてやっぱりたいしたことができないと思い、僕は絶望して眠り、朝起きてまた少し元気になると何かができるはずだとまた思う。人が書いたブログを読んで元気になったり嘆いたり。そうだ。もっと客観的にならなければいけない。暗闇の中で泣いているだけだったら、誰でもできる、と気を奮い立てる。安いヒューマニズムなど犬にくれてやれと少しだけ前を見る。
その繰り返しで生きて飯を食って、僕はきっと、いつか下らなく死んでいくのだろうかと思う。
誰も、この世のすべてに介入できるわけでもない。
誰もすべてを助けられるわけでもないのだ。
国連がなぜ助けてくれなかったかなんて、何一つもわからないまま、1994年にルワンダで100万人もが死んでいった。
彼らに国際情勢は関係ない。
「ホテル・ルワンダ」を上映したあの劇場の狭さを思い出して、また絶望的な気分になる。
なぜなら僕はもう十分に大人であり、なぜこの映画があんな狭いところでないと上映できなかったかも知っているからだ。(ここ、昔のユーロスペースだ)
>孤立無援のポールさんが守り通したモラルは愛国心でもキリスト教の教えでもなく、ホテルマンとしての、接客業としての職業倫理だった。つまり「どんな客も差別しない」ということ。接客業では、店内に入ってきた人を、たとえ客でなくても、どんな服装をしていようと、どんな人種だろうと、基本的にお客様として取り扱うよう教育される。もちろん「他のお客様のご迷惑になる」時は出て行ってもらうこともあるが、「追い出す」のではなく「お帰りいただく」わけだ。
>ポールさんは職業の倫理だけに従うことで、多数派から独立した判断を貫いた。
ポール・ルセサバギナにあったのは「職業の倫理」なんかじゃない。エゴイスティックな防衛本能だ。死にたくない、殺されたくないというね。
>ポールさんも、なぜ自分の命もかえりみずに1200人を救うことができたのか? と問われたら「私はホテルマンだから」と答えただろう。仕事をまっとうする、どんな状況でもそれを貫くことがどれだけ難しいことか。(ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記)
そんなこと言わないと思うよ。どこで誰が「改変」しているんだ?そういう風に。
あの映画のどこをどう見れば、ポール・ルセサバギナをここまで読み違えるのか、まったく理解できない。彼はフツだが、ツチの妻と娘の命を、親族の命を守りたかっただけだ。そで賄賂を振りまいてなりふりかまわず周囲を利用した。ホテルの支配人の立場を利用した。それ以上でも以下でもない。そうとしか僕には読めない。誰が職業倫理の話にしたんだろうか。彼の動機は、俗っぽい「防衛本能」から、家族と親戚と隣人だけ助ければいいというところから始まったかもしれない。
しかし、そんな安っぽい彼の同情心、防衛本能も、結果的に1200人あまりの命を救うことになることがあるというのが、家族も恋人も殺されたことのない場所からはわからないのかもしれない。残念ながら根本から読み違えた記事を端緒に、議論が発展したことは「瓢箪から駒」ではあるけどね。
もっと大勢の人がこの映画を観ることができれば良かったと思う。
彼はツチの妻と家族、そして隣人を守ったが決して「ホテル・ルワンダ」を守ったりはしていないのである。
【1/21加筆】
1日経ったところで加筆する。映画で描かれたポール・ルセサバギナと、実在のポール・ルセサバギナ氏を僕は峻別して書いていると思う。ここで触れているのはあくまでも「映画の中のポール・ルセサバギナ」である。実在の方である以上、インタビューでどうお答えになったか、その仔細は存じ上げない。映画ではなくリアルのポール・ルセサバギナ氏の意志が、どうであったか、それについては僕にはこの段階ではわからない。ホテルマンとしての誇りではなかったと、僕が断言できるポジションにはいないのである。それは不可知だ。言うまでもないけれど加筆しておきます。思うところあればあとはコメントで・・
【参考リンク】
■職業倫理の範囲(愛に史観を)
2006 01 20 [映画・テレビ] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック
January 19, 2006
死んではいけない
死んではだめだ。
死んではだめだ。
2006 01 19 [ライブドア] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
January 18, 2006
ライブドア強制捜査に思う---投資事業組合とか「ごめんね」とか
報道番組はいい加減に、こういうとき、何にも考えてなさそうなディレクターがやっつけに、何にも考えてなさそうな通行人とか、新聞読んでないようなギャルとか、證券会社前で1日掲示板にしがみついている、なぜかハットかぶったじーさん達とか、つかまえて「街の声」とかやるのやめてくれないだろうか。そしてもっとやめて欲しいのは、自分がマネーゲームやってるくせに「マネーゲームが行きすぎだよ」とか「カネカネいい過ぎたんだよ」とか、株価暴落の腹いせに兜町でコメントしている路上のあんた!そこのあんただ!(失礼しました。)
それにしても、東京地検特捜部の向かう先にある六本木ヒルズは、天に高くそびえていてその向こうに青空が広がり・・じゃなかった夕暮の空が広がり、何か夢かドラマか、映画のワンシーンのようだった。貧困から身を起こした主人公がいつかIT企業のトップに座るが、幼い頃の純真さをなくしていつしか冷酷になっていく・・その頂点で東京地検の特捜部が動き、彼の本社が囲まれる・・って、草薙君のドラマか。これは。そういえばあれはフジテレビのドラマで、確かモデルは堀江その人。舞台も確か六本木ヒルズじゃなかったかな。違ったかな。東京地検は出てこなかった?ま、いいや。
などと、ごちゃごちゃ言うようなテーマではない。冗談ではない。今日の出来事は現実なのである。ファイナンス関連担当の宮内取締役が事態を聞いてから、中国から慌てて帰国したことから見ても、ライブドアにとっては不意打ちをを食らったに等しい捜査だったと考えていいと思う。
ライブドア宮内取締役、辞任の意向・株取引「違法性ない」
出張先の中国から帰国した宮内氏は「無責任ととられても困るので、関係者と協議して決めたい」と述べており、堀江貴文社長らと相談した上で進退を最終判断するとみられる。宮内氏はマンション販売のダイナシティの社長に2月に就任することも内定しているが、この人事を白紙に戻す可能性を示唆している。
堀江社長の責任について宮内氏は「堀江は本件の買収はわかっていない。法的な責任はない。あるとすれば私」との見方を示した。捜索後、堀江社長から「大変だよ」と言われ「ごめんね」とあやまったという。 (日経新聞・2006年1月18日)
ごめんねって・・・何だかカワイイな。違うか。
ところで今回株式分割が問題になっているが、元来、株式分割はそう自由にできるものではなかった。平成13年6月に商法が改正されるまでは((10月施行)以下の条項があった。(改正前商法218条第2項)
(1)株式分割後の額面総額(=額面金額×分割後の発行済株式総数)が資本金の額を超えないこと
(2)株式分割後の1株当たり純資産額が5万円以上であること
純資産が5万円を超えない会社、つまり赤字会社であれば株式の分割はできなかったのであり、そう安易に実行できる手ではなかった。
さらに、会社は発行できる株式数(授権株式数)をあらかじめ定款で定めておかなければならず、この授権株式数を変更するためには、株主総会の承認を得なければならなかったが、取締役会決議により行うことができるようになった。(2種類以上の株式を発行している場合を除く。改正後商法218条第2項)。具体的には、授権株式数を増加させる取締役会決議を経ることで、株を分割することが可能になっている。
さらにこのときの改正では株式分割・株式併合の純資産額制限の撤廃以外にも
●単位株制度を廃止し、単元株制度を導入。(1株あたりの資産に関わらず、会社が自由に売買単位を設定できる)
●額面株式の廃止。
などを決めている。商法改正はこの後も平成13年11月、平成13年12月、平成14年5月と改正され、株主総会定足数の緩和や、最低資本金の特例(1円資本金の株式会社など)、株主総会の開催通知や議決権の行使を電子メールで出来るようになるなど、商法上の大幅な規制緩和へと向かって動いていくのだが、ライブドアもまさしくこれを追い風にして伸びてきた。堀江の株式分割による錬金術は商法の緩和無しにはなされなかったし、国もこれを通じて小規模の企業が急速に規模拡大をしていくことを後押しした。ベンチャーブームも、ITバブルも国のこうした政策によって後押しされたのである。
こうした国の法制改革の一連の流れに全く触れず、ここぞとばかりライブドアを「マネーゲーム」だとか「錬金術」だとか、證券会社のロビーのおっちゃんたちと一緒になって、端的に批判するのはおかしいのであって、フジテレビ事件であれほど「俄かM&A評論家」を大量生産したこの国の報道も、つくづく喉元過ぎれば・・である。
と、あたかも堀江ライブドアに同情的に始まったようなエントリーだけれど、別にそういうわけではない。今までの批判的立場からして今回の事件を無視することもできないだろうから、ここで簡単にポイントを押さえてみたい。
ライブドアマーケティング社がマネーライフ社に、あらかじめ「迂回投資し」「風説の流布」のためのダミーとして使ったとされる投資ファンド「VLMA2号投資事業組合」の、ライブドアマーケティング社あるいはライブドア社との一体性が問題になると思われるが、
IRはここ
また投資事業組合とは
投資事業組合とは、株式公開を目指すベンチャー企業の発行する有価証券に投資することを目的として、ベンチャーキャピタルを中心に金融機関や事業会社、個人などが参加して組成するファンドのことです。
投資事業組合のなかでも、投資事業有限責任組合は、無限責任組合員(GP)と有限責任組合員(LP)で構成され、有限責任組合員(LP)は、出資金額以上の責任を問われず、リスクを抑えることが出来るようになっています。
通常、ベンチャーキャピタルは、業務を執行する無限責任組合員(GP)として、組合活動期間(弊社の場合は10年)中に出資者【無限責任組合員(GP)+有限責任組合員(LP)】から預かった資金を未公開企業に投資し、育成を行います。
また、株式公開に伴うキャピタルゲインの回収など出資者の期待に応えられるよう、投資事業組合を管理、運営します。(http://www.kvp.jp/about/fand.html)
法的根拠は
投資事業有限責任組合契約に関する法律(ファンド法)について(平成16年12月1日経済産業政策局産業組織課)
が詳しい。今回の「VLMA2号投資事業組合」がこの法規に照らして適切に運用されていた組織であったか、それともライブドアグループの傀儡であったかどうかが問われることになろう。
【1/20追記】
本日朝の日経新聞に以下の記事が掲載されたので加筆する。
これらの投資組合(ライブドアが買収に使った「傘下」とされる3組合--EFC投資事業組合、M&Aチャレンジャ-1号投資事業組合、VLMA2号投資事業組合)は民法上の「任意組合」とみられ、運営の責任持つ業務執行組合員と出資者の間で契約書を交わせば簡単に設立できる。株式会社のように登記の必要がなく外部への情報開示の義務もない。
確とは断言できない記事「みられる」表現であるが、事業有限責任組合法に従って登記設立されたものではないようである。しかし、そうなると今度は太字の部分と、ライブドアも主張する東証への開示義務不要論との整合性が問われることになる。
いくら資金の出所がライブドアマーケティング社であったとしても、正しく法規に乗っ取って運用されていたファンドであったとすれば、証取法違反を追求できるかは微妙になるであろうが、どうか。
その他のポイントは下記かと思う。
●平成15年第3四半期のライブドアマーケティング社の決算短信の粉飾性立証。
●12時間夜通し行った大規模な家宅捜索の目的は、囁かれるライブドアとダイナシティあるいは暴力団関連とのカネの流れなど、證券取引法違反以外の案件にまで及ぶのか否か
●宮内氏、熊谷氏等ライブドア幹部および堀江氏の実質的関与が立証されるか否か
●今日だけで時価総額を1000億円下げたとされるライブドアグループの今後の資金繰。
それにしてもスポーツ紙。
堀江逮捕か
とか
堀江逮捕も
とか
堀江逮捕へ?
っていうあの見出しは止めてくれ。何度やられてもひっかかる。
皆でやっかんでつぶせばいいというものではない。そういうものではないだろう。
また書く。
【参考記事】
●カテゴリー「ライブドア」
2006 01 18 [ライブドア] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
January 17, 2006
「きっこの日記」面目躍如-----全国紙は冷めたおでんになってしまうぞ。
「きっこの日記」では既に15日(日)の日記「疲れがMAX‥‥ 」で、こんなことを書いていて、ヒューザー証人喚問前日の16日(月)のネタ仕掛けを明らかに予言していたが、果たして16日の記事では「とっとこハムスケ絶体絶命! 」などと題して伊藤公介議員をめぐる疑惑の周辺構図を6本の記事で書き抜いている。基本的論点は
●伊藤公介議員が銀座の同じ住所に2つの会社、「株式会社フューチャービジネスネットワーク」と「株式会社融創国際」を持っていること。
●そしてこの会社の登記簿によると、伊藤元長官の妻や公設秘書を務める二男が役員に就任しており、これが国会議員秘書給与法に反する疑いがあること。
●前者(伊藤議員の三男(26)が経営する会社)はフューザー関係のマンション管理を無免許で経営していたこと。
であり、このポイントは朝毎読3紙とも右に習え。それに引き換え「きっこの日記」の「とっとこハムスケ絶体絶命!」では、これより遥かに詳しく、2社周辺の細かな取材情報を載せている。時間的に他社の報道を見てから流したということでは明らかにない。むしろその逆。「きっこの日記」の面目躍如、スクープといっていいだろう。
しかも、従来ならこうしたスクープはまず全国紙が抜き、その後、後追い記事や補足取材が始まり、週刊誌などで数日から数週間たって、ようやく詳細な2次情報が出てくるものだが、「きっこの日記」の記事は、一気に同日発売の全国紙以上のデータ量を持つものが出てきた。
もちろん、きっこなど当てにならない煽り情報だと呼ぶ者も多い。僕もここでは、信頼性についてこのような記事を書いたことはある。だが今、稀有の現象がメディアの世界に起きていることだけは確かであると言えると思う。
僕はきっこの情報源は、大メディア周辺とほとんど同じ取材源、そして取材者から出ていると考えている。きっこが1個人であるとは思っていないし、その「チームのようなもの」には、他のメディアにも関わっている人物が共通して多数関わっていると思っている。
今回の伊藤議員の関連ニュースを、事前の煽り、証人喚問の前日、大メディアに同日しかも一歩先んじる時間差で、しかも周辺情報含めて絶妙なタイミングで出してくるそのやり口は、明らかに素人の技ではないと思う。
おまけにあの文体である。あの文体がもしも、単なる政治好きの情報通のオヤジ口調だったらブログスフィアの情報の海の中に埋もれていたかもしれない。実際、きっこ並みの情報ソースを持つブログもごまんとあるのである。敢えて「ヘアメイクの女性の聞きかじり」という「床屋談義」を地で行く演出と文体が吸引力を持った。この手口はプロのものだと思う。
問題は、同じような情報源、同じような人間的リソースによって取材されたと思われる情報が、このサイトを通すとなぜかくも鋭く、敏速にネットの世界に流れるか、そしてなぜ、遥かに遅れて大メディアの情報がゆらりゆらりと、半ば冷めたおでんのような、あるいは伸びたラーメンのような愚鈍さで出てくるのか。ここに、既存メディアがインターネットという時代と空間に対峙する場合の限界が、そして無力さがあるように思う。
この無力さが一時的なことなのか、たまたま特異なサイトに対峙したからなのか、それとももっと構造的な問題なのかまではわからないが、自分たちの仕事が冷めたおでんに、あるいは伸びたラーメンになってきていると自覚している者は、斯界にどれほどいるのだろうか。
実際、多くの人がきっこの日記の裏取りを大メディアで確認し、さらに明日(もう今日だ)の証人喚問で確認するのである。報道の構造が過激に入れ替わりつつあるとはいえまいか。
#付記
諏訪湖の事件のことも書きたかったし、ライブドアも大変なことになっているし、一気にいろんなことが起きる日である。
【参考記事】
2006 01 17 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
January 14, 2006
民主党耐震偽装問題専用サイトオープン-----お疲れ様と今日のところは言っておこう(笑)
昨年のブロガー懇談会の最初の成果と呼べるかもしれないものを民主党が立ち上げた。開設に当たっては、先日の懇談会のメンバーの中で、かなり献身的な尽力をされた方もいたように聞いているのであるがこのへんは割愛。(笑)
サイトは「idpj.net」。システム関連者の中では定評のあるXOOPSを使って、参加性のあるサイトを作り上げ、コメントやトラックバックもフルに近い開放状態であり、今までの民主党のネット関連の施策を見れば雲泥の「冒険的試み」と言っていいと思う。(ただしコメント書くためにはユーザー登録が必要)管理人も民主党側も、コメント欄やトラックバックがどうなるかどきどきしながら見守っている様子がありあり。(笑)
ニュースBlogには耐震偽装問題関連の民主党の発信ニュースが掲載され、現場写真や文書など関連資料もダウンロードができるようになっている。
開設初日でページビューは25000を超え、登録ユーザーは50人を超えたということである。(安曇信太郎の「イヤならやめろ!より)
現在、ブログを政党のウェブサイトで使用している例は三つ。そのうち二つは公明党でもう一つは新党日本である。
公明党は『議員ブログ』という名前で7名の国会議員の日記を掲載している。ところが名前は「ブログ」だが、RSS(注:記事末尾)には対応していない上に、コメントやトラックバックを受け付けていないため、ブログとは呼びにくいものになっている。もうひとつの『公明ロボブログ』は、サイトの更新情報を配信するためのもので、こちらはRSSに対応しているが、やはりコメントやトラックバックは受け付けていない。
新党日本は、兄弟サイトの『チーム・ニッポン』の中で、田中康夫代表のメッセージ発信用に使用している。しかし、更新は10月末でストップし、管理人がいないためかコメント欄は荒れ放題だ。(民主党が参加型の耐震偽装問題専用サイトを開設/JANJAN)
このほかに忘れてはならないのは政党単位ではないが、多くの政治家がブログを公開しているエレログ(ele-log)だろう。先日「きっこの日記」関連で話題を巻いた、民主党の馬淵議員のブログ「まぶちすみおの「不易塾」日記」もここに収められている。やはりコメント・トラックバック欄共に開放されており、見たところ他の多くの政治家ブログも、そうした形では門戸を開いているようである。
政治家ブログ”ele-log(エレログ)”とは、テーマトピックスにそって、意見を綴ってもらい、有権者が比較できることを目指したサイトです。また、政治家の周りに起こった出来事や、スタッフの活動・表情などを、投稿していただくことにより、政治家を、遠くて、自分とは関係のない世界から、より身近に感じていただき、コメントやトラックバックを通じて、意見交換をしていただければと思っております。
ニュースブログに関しては、トラックバックできませんが、各政治家のブログに関しては、コメントおよびトラックバックが可能です。ご意見がありましたら、積極的にご活用ください。ただし、誹謗中傷や、宣伝のための発言などを防ぐために、一度運用者に閲覧して、公開の許可を出させていただいております。現在のところ、批判もふくめて、多くの方が、そのまま公開を選ばれているようです。(エレログ)
エレログの運営は日栄インテック(株)、(株)イーハイブの 共同運営とのこと。察するところビジネスベースで政治家へのASPブログサービス提案をしたのでしょうね。
何にしても、ネット選挙解禁を控えて今後はどっとこういう動きが顕在化してくるだろう。珍しく自民党に「先駆けて(?)」この分野で一歩を踏み出した民主党に今日のところは拍手。(と珍しく批判に落とさず今日は終わるのであった)
2006 01 14 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック
January 11, 2006
ナベツネに何が起きているのか(2)----老人の繰言か、言論クーデターか。
それにしてもうまいことを言う人がいる。
衰退凋落著しい朝日新聞とはいえ、世間では「水と油」「源氏と平家」「清水の次郎長と黒駒の勝蔵」ひところまでの「巨人と阪神」に「鹿島アントラーズとジュビロ磐田」の関係とイメージされている朝日新聞の論説主幹と読売新聞の主筆が対談し、しかも、その朝日新聞の論説誌で持論を展開した渡辺氏の戦略は悪くないと思う。単体で客を呼べなくなったプロレスラーが他のプロレスラーとセットで(しかも、過去の遺恨などの<物語>を付加された上で)興行するのと同じである。(渡辺恒雄氏(読売主筆)が朝日と「共闘」宣言?/松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG)
その老朽の「鹿島アントラーズ」(?)は言う。
渡辺
「僕は、首相候補の1人である安部晋三さんとは仲がいいんです。だから安部さんに、「僕は靖国公式参拝には反対ですよ。それ以外の点では、あなたにはずいぶん期待するんだけれども、この1点だけは妥協できない」と話した。安部さんに会うと「わかってます」と言うんだけどねえ」
「分祀と言うのは本当によくわからない話なんだ。合祀と言うのは「座」というけれども、いわば座布団の上に名簿を持ってきて、祝詞か何かをやると、その霊が全部その中に入ってしまう。いったん入った霊を、A級戦犯の分だけ取り戻すということはできないんだという。それは、瓶にある水をちょっと杯に入れて、それでその杯の水をもし瓶に戻したら、その杯分の水だけを瓶から取り出すことはできないじゃないかというような理屈で、今の宮司の南部利昭さんが言っている。」
「これは、神道の教学上の理由だそうだ。しかし、南部さんの言っている神道の教学というのは、明治以降の国家神道。廃仏毀釈をし、国教は神道だけだ、ということをやってできた国家神道の教学だ。そんなもののために日本の国民が真っ二つに割れて、さらにアジア外交がめちゃくちゃにされている。そんな権力を靖国神社に与えておくこと自体が間違っている。」
ここで元電通マンの宮司・南部利昭について少々。
南部利昭は、平成16年9月12日付で靖国神社の宮司に就任している。電通に23年間勤務したという異色の経歴の持ち主で、南部家第45代当主。靖国神社宮司はほとんど旧華族出身者が就任しており、南部氏は9代目に当たる。靖国に祀られている1人には、日露戦争で1905(明治38)年に戦死した42代南部利祥がいる。南部氏は就任に当たって「没後100年ということで、宮司就任に浅からぬ因縁を感じている」というコメントを出している。
また毎日新聞のインタビューに答えて南部氏は以下のように述べている。
--中国が求めているA級戦犯の分祀(ぶんし)についてどう思いますか。
○分祀はあり得ない。他の神社で祭神が気に入らないから、替えてくれとは言えないはずだ。東京裁判で連合国がA級、B級などと決めたもので、一緒に日本人が言うことはない。(終戦記念日に行う)全国戦没者追悼式には、いわゆるA級戦犯らを含んでいる。天皇・皇后両陛下、首相も出席するが、誰も文句を言わないではないか。
--戦没者追悼目的の「国立無宗教施設」構想をどう考えますか。
○靖国神社が戦没者を祭る日本の中心的神社との考えが定着しており、全くナンセンスだ。若い人に靖国神社というものを教えていかなければならない。「靖国に行くな」とか営業妨害はやめてもらいたい。(毎日新聞:インタビュー記事「靖国神社第9代宮司の南部氏に聞く」(2004/12/29)より)
営業妨害かい。(笑)
渡辺氏の説明と近い次のような記事もある。
奇しくも分祀に関する中曽根氏と渡辺氏の意見がぴったり一致していることが、わかる。
この中国の意向に沿って出てきたのが、A級戦犯を靖國神社から切り離すという「分祀論」。しかし、靖國神社は、「分祀は不可能」という。一度、神社に祀られた英霊は、ひとつの神霊となり、仮にそれを分霊したとしても、元の神霊は変わることなく神格を有するというのが、神道を支えてきた信仰だというのだ。たとえるなら、水を張った瓶の中にコップ1杯の水(A級戦犯)をいったん加えてしまったら、以前のコップの水だけを再度分離させることはできない、という理屈だ。
対して、そもそも靖國神社は神道古来の伝統に沿って存在してきたわけでなく、明治初期に人間がつくった神社の仕組みなのだから、修正できないはずがないという唯物的な意見もある。元祖・分祀論者の中曽根康弘元首相も、分祀に反対する靖國神社に対して「神主さんの視野が狭くなった。昔のように、もっと大らかな神道に返ったらどうか」と、靖國神社の杓子定規な姿勢に意見を述べている。(サイゾー2005年8月号/分祀を許さぬ靖国神社の事情・元電通マン宮司の苦悩とは?)
本論へ戻ろう。この後、対談では憲法9条解釈についても若宮と渡辺が意見を交わしているが、あくまで「軍」ではない現行の自衛隊の呼称にこだわり、9条問題に慎重な見方をする若宮に対して、渡辺は「軍は軍なんだからごまかしてはいけない。自衛隊と言ったら平和で、自衛軍と言ったら侵略的になる。そんな馬鹿な話はないでしょう。」と応じて朝日の見解とは一線を引いている。しかし朝日・若宮からも「憲法改正問題は、僕らも昔のように憲法9条を守ることがすべてであるとは考えていません」と言う言葉を引き出している。
また、国歌・国旗に関しては日の丸は支持するが、君が代は
渡辺
「国歌である君が代は文章が古臭いし、曲が悪い。あれは明治時代の雅楽でしょう。国民を躍らせるような曲ではない」
として
「もしどうしても国歌を変えられないというなら、国民歌というのをつくったらどうだと思う。もっと躍動するフレーズ。メロディのいい、心躍るような国民歌をつくって、それにふさわしい歌詞を公募してつくるべきだと思うんだよ。いつかやりたいね。」
と続ける。
最後に若宮が
「もちろん読売新聞と朝日新聞は違う主張をした方がいいんですけれども、やはり健全でリベラルな主張を争うことができればいいですね。」
と挑発(?)すると
渡辺
「いや、それはもう、言論の自由とか言論の独立を脅かすような権力が出てきたら、読売新聞と朝日新聞はもう、死ぬつもりで結束して闘わなきゃいけない。戦争中にそうしていれば、あそこまでひどくならなかったと思うんだよね」
さすがに若宮もこれには
「いや、本当にそうですね」
と応じざるを得ない。
さてさて、我々の前にいるこの渡辺氏はあの強面の、Wikiでまで罵倒されるあのナベツネであろうか。こんなに物分りのいい人物であればなぜ、言論界の諸悪の根源、反動の代表とまで恐れられたのであろうか。老人になって焼きが回ったとか、やっぱり正体は根っからのマルキストであるとか、靖国の問題がいよいよ、にっちもさっちもいかなくなり、青年の時の「理想主義」が目覚めたのだとか、いろいろ言われているが、ここは注目点としてやはり2人の人物への微妙な距離感を、渡辺が保っていることに注目したい。
1人は言うまでもなく中曽根氏。古くから旧交があり、中曽根政権誕生時にはなりふり構わず応援した中曽根氏との、強い繋がりは、今でも健在であることは発言の諸所で知ることができる。
昭和60年8月15日に中曽根康弘元首相は靖国神社に初めて公式参拝した時にアジア諸国から猛反発を受けたので、翌年から参拝をとりやめ、その後の歴代首相も参拝を控えたとされているが、これは
中曽根首相本人の証言によると、自分の靖国参拝問題が、中国国内の政争で胡耀邦総書記の進退に影響が出そうだという暗示を受け取り、「胡耀邦さんと私とは非常に仲が良かった。」「それで胡耀邦さんを守らなければいけないと思った。」から参拝をやめた。(「私が靖国神社公式参拝を断念した理由」 正論 平成13年9月号)
中曽根にしてみれば、現在の小泉首相の行為は自らが「泥をかぶってまで」中国の顔を立てた自らの努力を無にされるものと映っており、それが渡辺にも影響を与えているのではないか。
また2005年6月には中曽根はフジテレビでこのように発言している。
靖国神社に代わる新たな戦没者追悼施設について「前から反対だ。靖国神社は国のために死んでくれた人をお祭りしており、寂れることは絶対避けねばならない」と述べ、反対の立場を明確にした。
(しかし)小泉純一郎首相の靖国神社参拝については「(現状では)国益に反することになる。(第二次世界大戦の)A級戦犯の分祀(ぶんし)ができないなら休んだ方がいい」と改めて自粛を要請。ただ、東京裁判自体ついては「私は(正当性を)認めない。A級戦犯と言われる方々が、犯罪とか罪という考えは毛頭ない」との認識を示した。(靖国参拝と国益/誰がため 戦った~Qの日記~より)
微妙ではあるが、中曽根は小泉の靖国参拝について国益擁護の立場から、中途より批判的立場を強めている。
そしてもう1人は、ポスト小泉最有力とされる安倍晋三との関係。
小泉が9月以前に靖国に関して画期的な「譲歩」をしない見通しが強い以上、中韓との外交関係が画期的に好転するとは当分考えられず、勢い次期総理の呼び声が高い安倍にその後の「処理」が求められるわけだが、安倍は靖国参拝を続行しかねない様子を漂わせており、ここに渡辺=中曽根ラインは強い警戒心を持っているのではないか。
自民党内の「鷹派」の代表としての安倍の靖国神社、軍事、安保問題においての保守、強硬な態度は、アジアの隣国の心配を引き起こすことになるだろう。彼は日本政府内の強硬な鷹派の人物であり、小泉の靖国神社参拝の熱烈な支持者である。安倍晋三は再三歴史問題を「日本内政への干渉」などとして中韓を攻撃し、米日同盟の強化、日本憲法の修正を主張している。日本政府の右傾化の中堅の人物である。(北京青年報 2005年11月01日 )
渡辺の中国へのスタンスは今回の対談からでは微妙に読み取れないが、中曽根の意向をあるいは他の自民党の政治家の意向を踏まえつつ、安倍政権への牽制に動いている可能性が見える。
渡辺は対談でも「国立追悼施設を考える会」をベースに、山崎拓、福田康夫、加藤紘一、民主の鳩山由紀夫、公明党の冬芝鉄三の名を引いて、
「・・・さんとかが、同じ目的で集まっているんです。だから、僕は靖国参拝に固執する政治勢力は、やがて少数派になり孤立するんじゃないのかなと思った」
と評している。
渡辺が青年期の「理想主義」を取り戻しつつあるとは、とても素直に見て取ることは出来ず、これらの人間関係を見るとき、ポスト小泉に向けて靖国を政争化される可能性が、みてとれるのであり、渡辺が老いたりとは言え、こうした動きのデマゴークとして、朝日をもツールにして大仕掛けに出てきている可能性はある。
戦争責任の追及に関しても、これら政治的思惑のポーズとしてしか僕には感じることはできず、僕が「青年のときなら」感動したかもしれない渡辺の方向展開にも、素直な情は寄せることができない。
小泉以後を睨んで、朝日をも「利用」して、腐っても1,000万部の読売新聞上での戦争責任の追求と言う禁じ手まで動員して、保守派の「言論クーデターの試み」が静かに進行しているように思えるのであり、裏に中国の影も感じる・・といっても陰謀史観ということではなく、日中関係の過度の緊張を望まない勢力は当然中共政権にも存在するであろうから、このへんは何も不思議ではない。
小泉氏はアジア外交を完膚なきまでに破壊し、靖国を外交問題化させたが、これを収拾しないことには対中経済交流も進まない。日本国内の企業はみなやきもきしている。一方で北京オリンピックに向けていつまでも対日関係がこのままでは済まないだろう、と考える一派は中国にもいるはずである。(それが胡耀邦ルートであるか否かはわからないが。)
米国も最近靖国問題の深刻化に懸念を表明しており、これも中曽根・渡辺の動きとあわせて、微妙にこの問題に影響を与えていることも感じられる。
今回の対談を、一時的な「老人の繰言」として渡辺恒雄を無視することは簡単であるが、穿った見方をすると今年から来年にかけての、保守陣営でのかなりの駆け引きの萌芽を見て取ることも可能なのである。
さあ、どうなる。
【参考記事】
ナベツネに何が起きているのか(1)----靖国で朝日と共闘宣言
2006 01 11 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック
January 10, 2006
ナベツネに何が起きているのか(1)----靖国で朝日と共闘宣言
若宮啓文(朝日新聞 論説主幹)
渡辺恒雄(読売新聞 主筆)
タカ派論客と見られている読売新聞主筆・渡辺恒雄氏の発言が目立っている。首相の靖国神社参拝に強く反対し、A級戦犯に限らず関係者の戦争責任をはっきりすべきだと訴えるのだ。
憲法改正問題をはじめ、多くの問題で主張が真っ向から対立する読売と朝日だが、果たして「共闘」は可能なのか。両社の社論の責任者が徹底的に話し合った。
というのが記事冒頭のリード。
※ちなみに「論座」は朝日新聞社の発行ですから。言うまでもない人もいるであろうが。
ここで渡辺恒雄という人が、大学時代に共産党に入党して後に除名されているという事実も考えておくほうがいいだろう。戦時中に共産党に所属してその後方向性を180度変えた財界・言論人は多いが、渡辺氏もその1人として有名(だと思うんだが)である。
但しWikipediaによると、
1946年 天皇制への嫌悪から日本共産党に入党。
1947年 組織のために個人を犠牲することに疑問を抱いて本部を批判、日本共産党を除名される。ただし、日本共産党には除名したという記録は一切ない為、離党して“除名された”と自称していると思われる。
と記述されている。
読売新聞に入社後の歩みは一般的にはかなりよく知られていると思うが
東京大学を卒業後、読売新聞社に入社。週刊読売(現読売ウイークリー)記者を経て、政治部記者となる。警察官僚出身の社長正力松太郎の目にかなって、自民党有力政治家の大野伴睦の番記者になり保守政界と強い繋がりを持つようになった。児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている。大野の死後は中曽根康弘と接近して、今日でもその親密ぶりはよく知られている。
1977年渡邉は編集局総務局長待遇に就任する。1977年2月18日付社説は百里基地訴訟一審判決の違憲立法審査権の存在意義を説いたが、1981年7月8日付紙面では一転して二審判決の統治行為論を支持し裁判所の政治介入を制限する主張にシフトした。渡邊の主張を取り入れ読売新聞が中道から保守・反共に傾いていった結果だとされている。しかし、このことが読売新聞発行部数1000万部へと押し上げ近年では、常に将来の国家像の提言を積極的に行うなど政治家、経済界、評論家、海外メディア、読者などあらゆる方面から支持されている。
1981年取締役論説委員長に就任した渡邉は、1984年からの元旦社説を自ら執筆した。その間、渡邉と意見を異にする論説委員の黒田清・山口正紀らが退社に追い込まれたという(渡邉恒雄氏におけるジャーナリズムの研究~前澤猛~から)。1987年元読売新聞社会部記者のジャーナリスト大谷昭宏は、渡邉が政治部の強権政治を強め社会部を迫害し始めたため読売新聞を退社した。(以上Wikipediaより・太字はBigBang)
学生時代に、読売新聞のマスコミ塾のようなものを受講したことがあるけれど、講師は当時「取締役論説委員長」だったナベツネだった。講義の殆どが朝日新聞や共産党の「悪口」でこの人物の印象は極めて悪かった。その時だけではなく今に至るまで良かった試しはないが)ちなみに読売新聞は父が勤めていた会社でもあるので、僕は、会社のイメージを客観的に語れる心理状態には(おそらく今でも)ない。中曽根政権誕生時のナベツネの「暗躍」についても、父から耳にした誠しやかな話はいくつかあるが、それは書くことは控えておく。
で、ナベツネである。
対談記事について先を続ける。
渡辺
「僕は学生時代から本当に反戦を主張してきました。先の戦争で、何百万人もの人々が天皇の名の下で殺された。僕も徴兵され、二等兵でしたが奴隷的に酷使された。」
「戦時中の体験もあって、そういうことを命令した軍の首脳、それを見逃した政治家、そういう連中に対する憎しみがいまだに消えないですよ」
「以前、靖国神社が読売新聞に全面広告を出したいという話があって、僕はちょっと待ったをかけたんだ。ところが、うちは以前、靖国反対の意見広告も出していた。そうすると、新聞としては片方だけというわけにはいかないので、載せました。
しかし、社の主張ははっきりしている。だから、読売新聞は2005年8月13日の紙面から、靖国参拝問題の前に、戦争責任の所在を明らかにすべきだというキャンペーンを始めました。」
ここで注目すべきは、渡辺の主張は単に靖国神社への首相参拝反対に留まらず、「戦争責任の所在」を明らかにすべきであるという主張にまで及んでいるということだ。これには朝日の若宮もこのキャンペーンには「びっくりした」と応じている。
若宮
「偶然ですが朝日新聞も同じ日の新聞に、作家の半藤一利さんに戦争に至る過程を1ページつぶして書いていただき、掲載しました。そしたら読売新聞が「戦争責任を明らかにする」というシリーズを始めたので大変びっくりしました。」
渡辺によればこの読売新聞の戦争責任を明らかにする」キャンペーンは1年間続けるという。「2006年の8月15日をめどに」「軍、政府首脳らの責任の軽重度を記事にするつもり」だという。靖国参拝に関しては「中国や韓国が反対しているから」やめるというのではなく、殺した人間=A戦犯と被害者とを区別するべきだという論点を提示している。加害の責任の軽重をはっきり判断してから、歴史的にそれを検証して中韓に対して「彼らが納得するような我々の反省」が絶対に必要だという。若宮でなくても耳を疑うような発言である。
若宮
「天皇は四半世紀以上、靖国に参拝していない。晴れて追悼に行ける国立施設が必要だ」
に関しては個人的にはまさに賛同するところであり、今までもここでいくつかのエントリーで言及してきた通り。靖国という一宗教団体が、国家リスクの元凶になっていると僕は考え、国立施設の必要性を感じているのだが、渡辺はこれに対して「まったく同感である」としている。
南京大虐殺に至っては
若宮
「南京大虐殺の数字が、中国のほうではどんどん膨れていくわけです。今、30万人ですよね。南京虐殺は確かにあったが、30万人と言われるとちょっと首を傾げたくなる。」
に、渡辺は当時の兵器の性能から30万人は無理だろう、とした上で
「ただ、犠牲者が3千人であろうと3万人だろうと30万人であろうと、虐殺であることには違いがない。」と返し、若宮から「どっちが朝日新聞かわかりません(笑)」と返されている程である。
いったいナベツネに何が起きているのか。保守の強靭なバランス感覚による一種の言論クーデターではないかと僕は考えるのであるが、それは次編で。
対談の後半を検証する。(ナベツネに何が起きているのか(2)----老人の繰言か、言論クーデターかへ)
2006 01 10 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック
January 09, 2006
サイト内全文検索
今更なんだけど、自分も過去の記事を探すのが大変になってきたので、Googleの検索窓を利用してサイト内の全文検索機能を付加した。(右のフレーム参照→)
#但しGoogleにインデックスされている記事だけ。当然だけど。
2006 01 09 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
暗空の弧
僕ならともかく、「彼」ならきっとそれを許さないと思う、と口走ることがある。
「彼」は僕であって僕でなく、このサイトに散りばめられた三百数十のエントリー=観念の総合体であり、サイバー空間のみに生きる思念のシナプスのようなものである。実在であるようで実在はなく、虚像であるようで虚像ではない。
それは僕であって僕ではなく、僕の抱える肉体的な実存や、人間的な共有関係の多くを持たない。あるいは省みない。「彼」は呼吸もしないし眠りもしない。泣くことも愛することも彼にとっては大したことではない。
「彼」にとっては、この三百数十のエントリーで構成された思念のみがその存在証明であって、そこで表現されていないことは「彼」にとっては存在しな いのと同じなのである。そこで起きていないことは、彼にとっては起きていないのである。つまり世界は限定されて、そして断固として諸々の事柄から孤立し て、佇立しているのである。君からも僕からも、この世界からさえも。
その命はしばしば、電磁の不作為な煌きのように、この深い夜に青白い光を放ち、さらには、いつか夢に見た夜の虹のように、この暗空に弧を描く。
だから「彼」は、しばしば無慈悲なほどぶれないのだ。僕とは違う。
BigBangとはそういう者である。
2006 01 09 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック
January 06, 2006
東京タワーがないんじゃモスラも繭を作れない。-----「Always 三丁目の夕日」
まるでブレードランナーのようなと言ったら見当違いかもしれないが、土台だけの東京タワーが背景にある昭和33年の東京は異空間である。東京タワーはまるで大昔からそこにあのままの形で立っていた様に思い込んでいたけれど(なわけないだろ)考えて見ればあれは人工の建造物であり、下から人が建てていったのである。知ってた?(当たり前)
冷静に考えると、ビッグコミックに連載されていた、西岸良平の漫画「三丁目の夕日」のストーリーを、思いのほか忠実に再現している。鈴木オートにやってくる六ちゃんや、売れない作家で駄菓子屋の茶川竜之介、そこにやってくる身寄りのない少年古行淳之介と、基本的な設定は漫画と同じ。といっても観始めてから、漫画のストーリーを思い出したんだけれど。
茶川竜之介(ちゃがわ りゅうのすけ) - 東京大学(当時の呼称は東京帝国大学)文学部卒、芥川賞に何度も落選し、今は駄菓子屋主人。子供向け小説を連載中(電人少年、銀河少年ミノル)。ペンネーム「人形砂吉」で、カストリ雑誌に官能小説を書き好評を得ている。名前は「芥川龍之介」に因むと思われる。原作では50代となっているが、映画版では32歳。(Wikipediaより)
ちなみに「六ちゃん」は漫画でも女の子だと思っていたらこれは勘違いだった。掘北真希は天才かもしれない。
星野六郎(ほしの ろくろう) - 鈴木オート従業員、東北から集団就職した。20歳前後、ニックネームは「六さん」。髪の毛をあげると実はハンサム。但し映画版では「六子ちゃん」という少女に変更されている。(同上)
吉岡秀隆の茶川は、漫画よりも遥かに若い設定なのだが、このだらしのない、ぼやいているばかりのダメ作家を「大好演」していた。内田有紀と別れることになっても芸に集中した吉岡君の役者ハーツに心より乾杯。![]()
街はセットだけではなく、21世紀のCG技術であの時代を驚くほどのリアルさで再現している。思わず目を見張る。
かつてあった東京、そこには金魚売りが行きかい、氷屋で買った氷で冷やす「氷冷蔵庫」、とてつもない高級品のテレビ、力道山、集団就職。僕の生まれる遥か昔の(ウソだよ)東京の原風景は懐かしすぎる。過去を悪戯に美化するんじゃねーよ・・などと心の中で悪態をついていたのに、この両目から流れる水は何だ。(恥)
とにかく泣かせる、泣かせる。泣かせの最強王である。
前に「私の頭の中の消しゴム」を渋谷で見たときも、場内の茶髪の兄ちゃんや姉ちゃんが嗚咽していて驚いたけれど、この映画では嗚咽などという生易しいものではない。後ろの席の女の子などはまさに声を出してわーわー号泣しっぱなし。引く寸前。
なんてこっちも言っていられない。気がつくと溢れる涙で服の襟まで濡れていた。(!!)何てこった。
映画館中でわーわー泣きまくって、入れ替えで外に並んでいる観客に悟られないように、涙を拭いて一生懸命「まーあんなもんでしょ」みたいな平静な顔に戻して、みんなでロビーに出てくる。上映1回単位の妙な共犯意識。人間も捨てたもんじゃないと思わされる・・って見事に映画に嵌められているじゃ
