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February 28, 2006

「気の小さい大人たち」を読んで、あのことを思い出した。

tsurezure-diary:気の小さい大人たち

これを読んで思い出した。

検閲というのとはちょっと違うかもしれないけれど、遠い昔、中学二年生のときの、ある朝が思い出される。その日は、文化祭の初日だった。前日の夜遅くまで、僕たちは教室の飾り付けをしていた。その中でもメインは、各教科の教師の特大の似顔絵のモザイク。班毎に教師の顔を書いて組み合わせたので、モンタージュみたいな間抜けさと、それでも各教師の特徴を大げさに捉えた、いわばパロディみたいな大型の似顔絵が、教室の壁一面に出来上がって、前日満足して家路についたのだった。

ところがその日の朝。

登校した僕たちは驚いた。前日飾りつけた全ての似顔絵が外され、教室の真ん中では、担任の女性教師が1人憔悴しきって涙を浮かべていた。気の強い中年の女性教師であり、そんな姿は見たことはなかった。登校する生徒の数が増えるに従って、大騒ぎになり始め、いったいどうしたことかと、幾人かが担任に詰め寄った。

僕は気持ちが引いていた。見たこともない表情の教師の様子から、何か自分たちに窺い知れない大変なことが起きたのではないかと察知していたからだった。教師たちの似顔絵には悪意は込められていなかったかもしれないけれど、調子に乗りすぎたのだろうか。僕は心の中で考えた。担任に詰め寄ろうとする幾人かの級友を止めさえした。

結局担任は、僕たちに何も明かさなかった。飾り付けを全て撤去した理由は言えない、申し訳ない、どうにもならないことなのだと繰り返した。いつか話せる時がきたら、きちんと説明すると約束したけれど、その日はとうとう永遠に来なかった。

あれから何十年もたち、その後の人生の経験とかいろんなことから、あの飾り付けが学校側の何者かを刺激し、撤去されたのだということは、自然にわかるようになった。それでも今でもあの日の朝の絶望感のようなものは忘れられない。
大人の社会の理不尽と言うか、壁と言うか、子供には得体の知れない闇のようなものがあり、その力は恐ろしく大きいのだということ、僕たちには絶対だと思われていた1人の教師の力ではどうにもならないことがあるのだということ。あの日の経験は僕にいろんなことを教えてくれたような気がする。

あれも一種の「検閲」だったと思って構わないだろう。

しかし、「検閲」は意味がない。意味がないどころかこうして何十年にもわたって、「検閲された」側に決して消えない不信感を残し、傷を残す。こんな結果を何十人もの生徒に、何十年も残すくらいだったら、いっそあの不謹慎な作品をそのまま掲示した後で、こっぴどく注意でもしたほうが遥かにましだった。それならこれは中学時代の懐かしい思い出となって残っただろう。おそらく「彼らの側」にとっても、もっとましな結果が生まれていたはずだ。実際には不気味で不愉快な何とも言えない記憶を僕ら全てに残したのだ。

あの担任の教師もおそらく必死に抵抗しても、終に生徒の側に立つことはかなえられなかったのだろう。あれは紛れもなく、悔し涙だった。彼女よりもおそらく年上になった今、自分があの教師の立場になったら、どうしただろうと時々考えることがある。

答は出ているはずだけれど。

そういえばあの時撤去された作品も、どこへ消えてしまったのか。二度と僕たちのもとへは戻ってこなかった。

遠い、遠い昔の思い出である。

2006 02 28 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(6) | トラックバック

February 23, 2006

奴隷になるなら1人で行け----僕らは「人力検索はてな」ではない。

議論になったときの戦い方と言うのは、その人それぞれで特徴があり、鋭いとか鋭くないとかいう以前に、意表をついたような論法で向かってきてくれると、これはこれで趣があって楽しいものだけれど、品がないだけではなく、退屈極まりないのがこれ。実に楽でずるい戦い方である。

「どこに書いてあるんですか。早くリンクを示してください」

これが使われる心理の裏には、相手がそう簡単にそのリンクを示せるわけではないという思い込みがある。で、万一不幸にも相手が見つけてしまったらどうするか。そうすると今度は

「それは、あなたの記事の内容と違います。不満足です」

などとやる。で、自分も一緒に探すふりをして、「ないない」などといいながら時間が流れるのを待つ。これも論法の一つとして悦に入るのかもしれないが、僕たち は人力検索はてなではない。しかもいつも同じパターンで展開されると心底うんざりだろう。こうした論でしかこの人物は戦えないのかと思うと、急速に心は冷え骨の底まで退屈になってく る。

アフィリエイト乞食という言葉はあるようだが、こういうのは「リンク乞食」とでもいうのだろうか。冷静に考えれば、本人にしてみれば、大真面目なのかもしれなくて、そうであれば尚始末が悪いが、これもインターネットの急速な大衆化がもたらしたある種の病理なのかもしれない。
物事へ対峙する基本姿勢として、その論拠の源がはっきりしていること、客観的な事実があることはもちろん重要である。捏造や偽造が溢れているこの時代、根拠もないデマを思い込みだけでネットに流すことは厳に慎まなければならない。だが、これはあくまでも客観的な事実に関しては、ということであり、物事の見方へのスタンス、思想、考え方が関わる問題を論じる場合にこれのみで言い張るのは、実に不適当かつ滑稽な態度である。思想はリンクによって構築されるものではない。

同じリンクを見ても全く違う立場や発言になることもあることは、自明だし、また共通のリンクを参照したところで、そのリンク先自体に錯誤や虚偽が含まれている場合もある。のみならず、我らは全てをネット上のデータで思考しているわけではない。
(ないと書いた後で不安になる。あるいは全てをネット上のソースのみで思考するような人間が最近は大量発生しているのだろうか)

成長期における教育がきっちりとされていたのか、あるいは成長の過程で自分の言葉で物事を真剣に考えてきたのか。自分の頭で考えてきたかどうかがはっきりわかるのがこうした場面であり、今まで新聞に書いてあることを鵜呑みに無批判に受け入れてきた人間が、今度はネットをその位置に祭って崇めているだけでは無残なこと極まりない。そのようなな人間に限って、いやなタイミングで(彼にとって)運悪くGoogleなどに出会ってしまい、自分の思考をストップして広大なネットの情報源の奴隷となってしまう。さすれば本人は楽であろうが後はネットの奴隷となってひたすらGoogleの手足となって、人力検索のお先棒を担ぐだけである。

趣味として心地の良い枠内で思考するのは自由であるが、世界がネットのリンクだけで出来ているなどという幻想に人を巻き込んではならない。承知の上で悪意で行っているなら尚始末が悪い。

僕たちは「人力検索はてな」でもなければGoogleの奴隷でもない。なぜあなたの屁理屈への反論のために労力を費やし、情報を探してきてあげなければならないか。

奴隷になるなら1人で行けばいい。永遠にネットの中で自分に都合のいい情報だけを探し続ければいいだろう。


【参考記事】
愛・蔵太さんに謝罪と賠償を要求します(人生とんぼ返り)
「無能な働き者」は足を引っ張る(ARTIFACT@ハテナ系)

2006 02 23 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

February 19, 2006

一生メールします。-----本条かおりの深すぎる愛情

From: 本条 かおり
Date: ??/??(??)??:??
Subject: 一生メールします。

このまま連絡してくれないと私は一生貴方にメールしないといけなくなります。そんな迷惑は掛けたくありません。だから一回だけ、一度だけでもいいから私に連絡して下さい。いらないフリーアドレスでもいいですし、電話なら非通知でもいです。連絡くれるなら何でもいいです。
私もうどうしたらいいのか解りません。こんなに何回も言ってるのに信じてくれないなんて…一体どうしたら連絡してくれるの?

http:/XXXX.XXXXXX.XXXXここから連絡して下さい。一回だけでもいいから…どうしても連絡が取りたいんです。
私約束します。一回連絡してくれたらもう2度と連絡はしません。【もう一生メールするな】って言われたらもう絶対にしません。
だから一回だけ…一度だけでもいいから私にチャンスをくれませんか?一回だけでもいいから私に連絡してくれませんか?お願いします。
yahoo・MSN・goo等のフリーアドレスで試しにやってくれてもいいですから。とにかく一度私に連絡して下さい。http:/XXXX.XXXXXX.XXXXここから連絡して下さい。直ぐに携帯から連絡しますから。
これでも信じてもらえなかったら私どうしたらいいのか…

来てくれなったらまたメールしますね。このままずっとメールし続けてもいいですよね。

・・・・・・

・・・・

嫌です。やめてください。






2006 02 19 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック

ITで負けるというのはこういうことを言うのだ。-----堀江メールの真贋騒動

極めて重要な事実を含んでいると思われるメールが、重要証拠として情報筋から届けられたらどうするか。まず間違いなく自分であればそのヘッダを検証しようとするであろう。OutLookやOLEなどでは、標準的出力ではメールヘッダの全てが印刷されない。だが、情報提供者が何らかの形でメールのオリジナルの電子データを持っているのであれば、それは入手することは可能である。ReceivedやMessage-IDを見ることで、昨今の送信者偽装のウィルスメールを見破る場合など、かなりの情報を得ることができる。
Receivedを追っていけばメールがネットワーク上の正しい経路を経て、配信されていることをかなりの確度で確認できるし、送信日時も特定できる。ReceivedにしろMessage-IDも偽装は可能であるが、その偽装行為そのものも安直に行えば、かえって足がつく契機になる。

今回の状況を判断する限りは、メール送信者(堀江氏)ではなく、受信者(想定=ライブドア内で堀江から指示を受けた者)周辺しか、このメールのヘッダ情報まで所持していると思われる者はいないわけであるから、この人物(受信者)にそれを問いただすべきであるというのがまず一点。

また受信者本人以外の人間が持ち込んできたのであれば、その入手経路はどうなるのか。上記の受信者から受け取ったか、あるいはサーバ内に送受信メールのコピーを仕掛けるなど、何らかのハッキングがなされており、関係のない第三者にメールが渡ったということになるが、今回は東京地検がライブドアのメール記録の大半を押さえており、(全てであるかどうかはわからないが)早い段階からこのメールに関する否定的見解を出しているので、新たな情報提供がなければこの可能性も薄い。

一番危惧されるのは、何者かが持ち込んだ質の低い印字されたコピーや、転送されたメールを元にしたプリントから、安易に永田議員がこのメールの信憑性を信じてしまったケースで、そうであれば軽率極まりない行為としか言いようがない。
そうでないのなら、あるいはヘッダを入手できない事情があるのであれば、民主党はそれを一刻も早く説明すべきであろう。その行為が直ちに情報提供者の状態を危険にさらすということにはならないのではないか。なぜならこのメールを公開した時点で既に、情報提供者の周辺は推測される状況にあり、ある種の危険を引き受けているのであり(もしも本物であるとすればであるが)、これ以上の裏付情報を出してもこれ以上危険が増大するとは思えないからである。

これらについて何の確認もされなかったとすれば、どこの誰ともわからぬ人物から事務所に送られてきたファックスによる怪文書をそのまま国会に持ち込んでいるようなものである。もしもそうした類に引っかかったとすれば、永田議員だけではなく、民主党全体の稚拙さが厳しく問われても止むを得ないと思う。こうしたところにも、昨年来言われているこの政党のIT分野への取り組みの遅さ、スキルレベルの低さが端的に現れてしまったと言われてもしょうがない。ITはこうした政争に関して、端的に情報力の弱さとして結びついてしまう。そういう時代である。もしもこの点で軽挙に走ったとすれば民主党は猛省すべきである。

メールがガセであると思われる根拠が2ちゃんねるなどで詳細に提示されている。それらは末尾の参考リンクの先を見てもらいたいが、といっても、堀の字にしろ、メール文の改行にしろ、解釈の余地は残ることばかりであり、どれも決定的なメールガセ論の決め手とするには弱いように思う。ヘッダを確認することに勝る確認手段はない。

それらの検証方法と離れたところで、本文を検証する限り、僕がおかしいと思うのはこの一文である。

項目は、選挙コンサルティング費で処理してね。

このメールは明らかにライブドア本体もしくはグループ内の何者かに、振込を依頼する内容であり、その経費費目として「選挙コンサルティング費」としてくれというのである。しかし、この当時掘江の立候補に関しては、個人の立場で会社とは関係がないということを宮内も言明している。また、会社の費目としてごまかして処理するのであれば、「選挙コンサルティング費」というのはおかしいのであって、通常の裏金支出としては「企画コンサルティング費」などの名称を使うのが常道であろう。

多少企業財務に詳しい人であれば、「選挙コンサルティング費」などというものが企業の支出費目として妥当かどうかなどはすぐにわかるはずである。もっともあれほどの「暴虐」を尽くしたライブドアの財務操作であるから、これも脇の甘いでたらめの一環であると言う見方もあるかもしれないが。
末尾の「堀江」もなにやらとってつけたような表示であり、読めば読むほど意図的に改ざんあるいは作為的に偽装されたものではないかという印象が強い。

こうした「ハプニング」で本来の武部ー堀江ラインの癒着追及から自民党に反撃の隙を与えてしまったとすれば誠に残念である。

【参考リンク】
民主党が公開したメールのPDF
「堀江メール」の真贋鑑定(404 Blog Not Found)
永田メール、追記(finalventの日記)


2006 02 19 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(5) | トラックバック

February 15, 2006

囲まれているのはそっちだろう。-----今井ブログの出来事を見て。

唐突な話から入る。

今年は雪がひどかったが、そのひときわ激しいときに、スキーに行った。スキー場にある、セミビュッフェ形式のレストランは食事を待つスキー客で、ごったがえしていた。そのうち異変に気がついた。いくらなんでも遅すぎる。いつまで待っても列が進まない。不思議に思って前のほうを見ると、スタッフがほとんどいない。アルバイトも当日ゲレンデまで上ってくることが出来なかったのかもしれない。100人近くいる客への食事の対応を、ほとんど1人の女の子がやっている。さばききれないのは明らかだ。かなり大変なことになってきている。彼女は熟練者のようだが、それでも追いつくものではない。動きの悪い新人風の男の子に苛立たしげに指示を飛ばすが、不慣れなようで彼はあまり役に立たない。客の列がざわつき始めた。これではいつになったら食べられるかわからない。
これは誰かがそのうち文句を言うかと思ったが、意外なことに、誰も文句を言うものはいない。みな、ただ気の毒そうに1人で奮闘する女の子を眺めて、じっと進まない列に並んでいる。
見たところは気の短そうなあんちゃんも多く、すぐにキレる最近の若者というイメージとはちょっと違う。へーと思った。

若年層の正社員採用がほとんどない世の中である。もしかしたら、同じような経験をしたことがあるのかもしれない。じっとトレイを持ったまま辛抱強く待っている若者の集団に「みんな意外に優しいなあ」などと思ってしまった。

日本人は優しいのではないか、と思うことがよくある。それに辛抱強い。大したものだと思うのは、ハプニングがあったときにも、そう簡単に声を荒げることはない。もちろん例外はいるが。多くの場合、辛抱強く待ち、時にはそのトラブルの主に何とか手を貸せないものかと思案していたりする。外国人がみな優しくないなどと言う気は毛頭ないが、老若問わず、耐えて方向を探る国民性なのだろうなあと思う。もちろんこれも良し悪しなのだが。

さて、しかし。しかしである。話は甘いままでは終わらない。

互いに顔が見え、年がわかり、互いの困難が見える範囲で優しい国民性も、匿名になったとき優しいままでいるとは限らないようだ。以前に狂言の「月見座頭」について書いたことがあるが、昨日まで優しかった良識ある人々も、匿名の暗闇の前では姿を一変させるのだろうか。

イラク人質事件の人質の1人で、日本中を「騒がせた」今井紀明君のブログ「今井紀明の日常と考え事」がひどいことになっていると聞いた。人質事件の際に彼に寄せられたほとんどが匿名の、ほとんどが誹謗中傷に属す手紙を、彼がブログで公開したことが発端である。たちまち名前のない数千人が(と見える)押し寄せて、またぞろあの時の話を蒸し返して彼をこっぴどくなじり倒した。
中傷の手紙は当時のものだが、それに刺激されて押し寄せている者たちの言っていることは、ほとんどあの時と変わらない。いわく「自作自演」。いわく「目が気持ち悪い」。いわく「税金泥棒。金を返せ」。いわく「政府と小泉首相に謝れ」。さらには、無名とは言え手紙の持ち主にことわらずに公開したことは著作権侵害ではないかとか、死ねとか出て行けとか、まあ云々云々。

彼らの行動が軽率であったことには、ほとんどの人は賛成するだろう。混乱したとは言え、あの状況で早期に家族が自衛隊撤退要求をしたことも、まずかった。特定の党派と結びつけられ、よくもまあこれだけ人をなじれるものだというくらい、今井君たちはリンチ状態にあった。公開された手紙は十数通であり、あの当時を知るものには目新しい内容はないが、それにしても、こうした手紙やハガキが、おびただしい数来るのだろう。当事者になった者の恐怖はいかばかりかと思う。

はっきり言って、これらの者たちは、もしも中国に生まれていれば街頭で日本大使館に石をなげていたであろうし、イラクに生まれていれば星条旗を焼いて踏みにじっていただろう。しかし日常は心優しき父であり、息子であり娘かもしれないのであって、その者たちが匿名の暗闇の中でここまで下劣に変身することは、やれやれこの世と言うものはと思う。思うが、真っ向から批判をする気にもならないような馬鹿手紙が多く、ちょっと普通なものが混ざっていると、必要以上にまともに見えるから不思議だ。

こんなレベルの低い汚物のような手紙をよこす連中とはなからまともに話そうというのは、中年に言わせれば時間の無駄。微笑してうまいものでも食べに行ったほうがいい。それなのに今井君は、BigBangよりはまだ若くて真っ直ぐなので、おそらくこれらの者たちをも「捨てて」いないのだろう。見ていて痛々しいものを、感じる。

いくつか触れる。

匿名の手紙を公開したこと。確かに作者がわからないからといって、著作権は発生していないわけではないだろう。しかし、作者を特定できないということは、今井君の行為でいささかの「損害」を蒙ったとしても、その人間を特定することもできないということである。誰かがこの公開によって名誉を傷つけられたと(ちゃんちゃらおかしいんだけどね、そんな言い分も)訴えでても、それが正しく彼の手紙であることを立証する責任が生じるであろう。
あれほどひどい手紙をよこした段階で、厳密には脅迫罪の疑いがあるわけで、もしも作者の特定が出来るのならば、著作権侵害はそっちでやりなさい。その代わりこちらはあなたを脅迫罪で告訴しますよという対抗手段があるだろう。もっとも実際には多くがクソのような手紙だ。私が書きましたなどと名乗り出る者にも、恥にこそなれ、何の実益もないであろうから、この「著作権侵害」は法廷に持ち込めるような代物ではない。それが侵害ですよといわれればそうであろうが、じゃあ両方の罪を比較考量しましょうかね。やりますか?というのが、こずるい私の考えることである。

彼らの主張の多くに書かれているのが「税金泥棒。金払え」である。そういう文句を言う奴に限って大して税金を払っていないことが多いのだが(笑)まあそれは別として。海外で危険に巻き込まれた日本人に、多少のあるいはある程度の落ち度があったとしても、彼を救うために政府が動くのは当然のことである。第一、その政府が動いたコストを負担しろと言うけれど、それを税金で普段から払っているわけである。保険会社から保険金を受け取った契約者が、他の契約者から、その分を補填しろなどと言われるか。国民が「落度」を露呈するたびに行政府がその国民に、税金に関わる「コスト」をいったいどういう論理で請求できるというのか。仮に今井君が「わかったよ。それなら1千万も払うことにするよ。」と言えば、彼の者たちは満足か。(君らには1円も入らんよ。わかっていると思うけれど)もっと言えばそんな金の受け取り口もシステムもこの国にはない。歳入として受け取れるルートも合理性もない。世界最大級の財政規模を抱えるこの国の国民として、大きな気持ちになるのは結構だけれど、それはあなたの金ではない。公共の金を損害補填しなければならないのは、悪意の犯罪者だけである。今井君たちには当てはまらない。真面目に書いていても馬鹿馬鹿しいが、もしかしたら本気で税金返せなどと思っているのか。こんなことがわからない人達にはほとほと絶望感すら感じる。

もう一つの彼らのポイントは、「多数」を装うことである。一人がいくつもの名前を使い分けたりすることは当たり前。2言目には「日本人はみんなそう思っている」「みんなそう言ってる」である。この世界には正義の立証に関して「多くの人がそう思っているから正しい」と思いたい人々が存在し、自分は多数であると根拠もなく宣言して相手に圧力をかける。実は多数であることなどは、正義の立証に関して、何の圧力にもならないわけであって、今井君に言いたいことがあるなら、ひとりの人間として言いたいことを言えばいいのである。政府に対して、あるいは日本国民に対して謝罪していないと言うけれど(僕は、彼らは何度も謝罪はしたと記憶しているが、小泉首相ごめんなさいと土下座でもすれば満足か)謝り方が悪いの何のというなら、それは価値観の問題であるとしか言えない話である。

同じ理屈で我らは、近隣より謝り方が悪いと戦後何十年も言われ続けているわけであり、そこでは言いがかりだのふざけるなだのと、聞く耳も持たず軽率にわめくほとんど同じ層が(推定)、今度は人には謝り方が足りないなどと説教するのはいかがなものか。謝ろうと謝らなかろうと、それは今井君たちの人生観であり、価値観だ。あなたと違うだけである。そういう今井君に(そうだったとして、である)絶望するなら立ち去るもよし、諭すのもよし。少なくとも彼にその耳が開かれていないようには見えないのだから、議論すれば良いではないか。もしも議論になるなら、であるが。

ただ、一つ彼に言いたいことは、畢竟この世界に生きて身を通すのは、こうした者どもとの闘いなのであり、目新しいことではない。脅迫ハガキやメールなど邪魔になるなら、来る側から火にでも投げ込んで燃やしてやればいいのである。人生はどんな暴虐にも懇切に対応していけるほど長くはない。一方で耳を貸すべき批判もたくさんあるだろう。願わくば彼にはそうした批判に耳を傾けて欲しいのであり、石を投げる意味も相手も理由も見えない者どもに、あなたが誠実に対応する義務はない。そういう取捨選択もこの世を生きる闘いのプログラムには、あらかじめ組み込まれていると思うし、それを淡々とこなしていかなければ、あなたの負った大いなる蹉跌も十分に生きないであろう。粛々と闘えばいい。それだけのことである。そして、闘いは慎重にね。準備万端整えて。幸いあなたにはまだまだ長い時間があるのだから。

今は取り囲まれているように思うかもしれないが、彼らの周囲には彼らを遥かに超える数の目がある。黙って、しかし彼らの無残を厳しく見つめて立っている人々は決して少なくない。

感じ取る者は感じ取っている。
見つめられているのは彼らの愚かさであり、囲まれているのは彼らのほうなのである。

【参考記事】
「月見座頭」-------青く冷たい空間と人の二面性
最後に詫びて死んだ青年---香田証生さんの死は軽くない

【参考リンク】
今井紀明氏のこと(たゆたえど沈まず)
今井紀明氏の手紙公開について(人生とんぼ返り)
今井紀明氏のブログ炎上についての一考察~「村八分的な言論封印は健全ではない(木走日記)

 

2006 02 15 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(5) | トラックバック

February 14, 2006

遠い路----私たちの心の上に降る雪

韓国ドラマと言うと、橋田須賀子のドラマのように台詞の間がなく、かまびすしい印象がある。やたらと出演者がわーわー言っている感じがあって、「なわけねーだろ」なんてノリで冷やかしながら観るなら結構楽しいんだけれど、少し心が疲れているときや沈んでいるとき、静かにストーリーに浸りたいときには不向きである。冬ソナはもちろん、「天国の階段」や、あの大涙ドラマ「私の頭の中の消しゴム」もその例外ではなかった。泣けー笑えーっと画面全般から来る全力の念波が、それでなくても不安定な心には苦しいときがある。

そんな韓国ドラマのイメージを変えてくれたのが、「深夜のNews」でも紹介されている『遠い路』だ。

この作品を最初に見た時の印象は、自然の風景の美しさだった。この作品を見て、韓国の雪景色の美しさに驚いてしまったのである。そうだよな、韓国でも雪は降るよなと思ったのだ。そりゃあ当然、韓国でも雪は降るだろ、バカかオマエと言われると思うが、正直に白状してそう感じてしまった。
(中略)
例えば、雪が降っているとする。その雪を見て、京都や大阪にも雪は降るということと同じように、ソウルにも雪が降ることを思い、その降る雪の下で毎日を暮らしている人々のことを思う。ようするに、国際性とは、国際社会や異文化の知識をどれだけもっているかではなく、こうした人としてのあたりまえの感覚を持っているかどうかなのであろう。(
深夜のNews 韓国ドラマ『遠い路』より)

そうなのだ。美しい雪景色。映像は都市からすーっと韓国の雪の田園地帯に入り込んでいく。そのとき不思議な既視感が生まれる。日本と同じようでどこか違う風景。大切な思い出に結びついているような雪の韓国の自然と、2人の孤独な心がこのドラマでは、重ね合わせるようにじっくりと描かれていた。確か深夜のテレビで見たと思うけれど、非常に心に残るドラマだった。真魚さんとこの感覚を共有できているようでうれしく思う。

韓国ドラマには珍しく、台詞と台詞の間に、沈黙がある。まずこれが新鮮である。静かな雪景色の中、それぞれの思いを持ちつつもそれを抑えながら故郷へ向かう2人。恋人に捨てられたソンジュと、父を安心させるために俄か恋人を押しつけられたウシク。ウシクは家族を知らずに孤児院で育った天涯孤独の青年である。金目当てでソンジュの願いを聞き入れて気の進まない旅に同行したウシクが、次第にソンジュの父に心を開くようになっていく。

おそらくウシクは自分に欠けているものを意識しながらも、それを認めず、せいいっぱい虚勢を張って1人生きてきたのだろう。一見軽薄で計算高く見えるが、肩肘をはった裏に秘められた孤独と、それでも人を、家族を求める押さえ切れずあふれる慕情が、ソンジュの父に会うことで雪解け水のように彼の心の奥から滲み出てくるのがわかる。そんなウシクの姿に驚きながら、次第にウシクに惹かれていくソンジュの戸惑いも、韓国の雪の田園の風景の中でじっくりと描かれていた。

おそらく雪は、1人で父の元に帰れないソンジュの寂しさであろうし、ウシクの孤独であろう。その雪を溶かしていくソンジュの父の笑顔がいい。両親のことを思える人はおそらく両親を思い出すだろう。

去年初めてソウルに行ってから、なじみの薄かったハングルが身近な言葉になり、とっつきが悪かった韓国料理が懐かしい味のように感じられるようになった。若者で溢れるミョンドンで人の波に流されながら、我らと彼らの上に降る雪に変わりがないこと。そのことを本当に知らされたのは、実は僕もつい最近のことだったのだ。

日本に紹介されている中では異色の韓国ドラマであると思う。

2006 02 14 [映画・テレビ] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック

February 11, 2006

女王蟻の自由について-----皇位継承権は政治の問題なのか

女王蟻の存在は蟻の群れにとってどのような意味を持つのだろうか。女王という名にふさわしくなく、その生命と存在はどこか物悲しさを伴っている。働き蟻など他の蟻は一見女王にかしづき、女王が巣社会の頂点に立って君臨しているように見えるが、実はたった一匹の女王蟻は、子孫を増やすためだけに存在し、生きる。その女王を囲む働き蟻たちは、女王を崇め、保護するように見せかけながら、女王の自由を許さない。実は見方を変えれば女王蟻の側こそ、無数の働き蟻に囲まれた奴隷であると言う見方もできるのである。

天皇は日本国民統合の象徴だ。国民の意見が分かれている問題では、一方にくみする発言は控えた方がいい。これは皇族も同じである。
 天皇陛下は記者会見でたびたび女性天皇や皇位継承について質問されたが、回答を控えてきた。皇太子さまも会見で質問されたが、やはり答えなかった。
 おふたりとも、憲法上の立場を考えてのことにちがいない。
 寛仁さまひとりが発言を続ければ、それが皇室の総意と誤解されかねない。そろそろ発言を控えてはいかがだろうか。(2月2日 朝日新聞 寛仁さま/発言はもう控えては)

天皇を象徴と言う特別な位置に配したのは、近代の歴史の中でこの国が選び取った、重要な英知である。象徴と言う用語で天皇家の威厳を担保する一方で、政治的権力への一切の介入を阻止しようとした。しかし、一方でこの制度は、国民統合の基本部分を、天皇と言う曖昧で茫漠とした祭祀の存在に委ね続けることを、放棄したものではなかった。そのため政治的責任の頂点はいつもぼやけている。
原則論と言うよりも、特異な「政治的背景」に迫られて出来上がったこのシステムは、戦後60年間、とりあえずの平穏を我らに保障することには寄与したと思われるが、一方でこの領域に立ち込める深い霧は、ついに晴れることはなかった。

天皇の政治への介入を回避しようとしたその意図は、ある時代にあっては一定の合理性を持ったであろうが、皇族全般にまでその範囲を広げた場合、自分の属する係累の家督に関わる事項に関して述べた、寛仁殿下の発言までが一新聞社から批判されるとすれば、その合理的、あるいは法的な根拠は何だろうか。。

そもそも現在起きている(起きていた)女系天皇制に関する議論は、政治的議論であると言えるのかどうか疑問である。この問題は文化的問題であり、伝統的な問題に対する国民の対処の問題ではあるが、果たして「政治的問題」であると断言できるのか。つまり天皇が女性であるかどうかということ、あるいは女系で継承されるか男系で継承されるかということが政治的議題として扱われること自体に馴染むのか、その根拠は何かという問題になる。

朝日新聞の発言の論拠はまさしく、これが自明の「政治的問題」であることを前提に、寛仁さまの、重なる「行き過ぎた」発言に、サンクチュアリへの「介入」の要素があると見たのであろうが、皇位継承が政治的問題とは無縁であることを宣言するためにこそ、我らの現行憲法はそれを象徴天皇制という制度の下に封じ込めたのではなかったか。であれば皇位継承の問題を「象徴の周辺」で政治と切り離した論議が当事者たちによってなされることは、妨げられないと考えてもいいのではないか。

仮に皇位継承に関する意見の表明がいささか「政治的」な要素があるとみなしたとしても、寛仁さまは天皇そのものではなく、一皇族に過ぎない。皇族全般の政治への不介入は慣習としては守られていても、当の皇族がそれをご自分の意志で踏み越えようとしたとき、それを押し止める法的根拠は我々にも、国会にも、新聞社にもない。
現在のシステムは、そうしたことを敢えて試みる皇族が「今までたまたまいなかった」ということで、辛うじて担保されてきたに過ぎないのであり、このエリアに、積極的に「限界」近くまで言及しようという志を持った「非天皇の皇族」が現れ、意見を表明しようとした場合、批判しようとするなら、元来この問題のグレーゾーン性を意識した観点から、深い考察が伴わなければならないのではないか。朝日の社説にはそのスタンスが見出せない。

秋篠宮紀子さまのご懐妊は慶事ではあるが、国会での皇室典範改正論議がそれによって直ちに止まったことは何を意味するのか。立法府が元来政治の場で論じるにふさわしくない事柄を、専権事項のように一方的に論議を試み、偶然に起きた「政治的ではない」紀子さまのご懐妊でまたその論議を止める-----一見もっともに見えるこの一連の出来事の中で、問題を政治問題化させている主体の勢力はどこにいるのか。それは寛仁さまではないことはもちろん、皇族の側ではなく、立法府の側にあるのではないか。

そもそも、選挙権や被選挙権などの基本的人権を、曖昧な象徴天皇制というギミックを根拠に、皇族全般に対して大幅に制限していることへの、合理的な説明も、我らはなし得ないでいるのである。事由は日本国民であれば生来感覚的に察知しているところもあるだろうが、その不作為の継承が、美智子妃に続いて、雅子妃の深刻な精神の危機を招いた遠因になっているように思われるし、国際社会での立ち位置をよくも悪くも「神秘的」にしている。

正しく天皇家が政治的なものから距離を置かれるべき、伝統的かつ文化的存在であり、それを「象徴」と呼ぶなら、政治的意味での「特別扱い」は撤廃すべきではないのか。つまり、彼の家に生まれたことあるいはそこに嫁した事により、有無を言わさず、その人物の基本的人権を侵し奪う根拠を、我らは自明のものとしては持っていないのである。このことから逃げずに真っ向から見つめなければならないように思う。

男子親王が誕生しなかったときの、紀子さまをはじめ皇族の人々の精神的負担を思うと、同情すべき点がある。それを思うにつけても、彼らに基本的な「最低限の人間らしい生を営む権利」の付与をすることは、考えてもいい時代が来ているのではないかと思うし、朝日新聞がこのあたりへの提言を正面からすることを避け、一方で、浅薄とも思われる皇族批判を展開することには強い違和感を禁じえない。
皇室典範を立法府が論じることは止むなしとしても、ある程度の意見表明を皇族が行うことはむしろ自然ではないのかと思うし、雅子妃の問題もこの点に深く関わることではないか。少なくとも封殺する根拠はないはずである。

誰が誰を巻き込んでいるのか、誰の自由を奪っているのかという話である。

最後にkuroneko 氏のコメント。

男の子がいれば“跡取り”があって、財産も扶養も介護も「家」で担えるような時代ではないですね。家産のある家は少ないし、長男だから海外勤務はできませ んなんて会社に言える社会ではない。皇室に家族幻想をみて自分の家族と類推するのは多く女性で、側室なんて肯わないでしょうし、きっと次男の家の跡取りと 長男の家の総領娘とを比べて喋喋と世間話をしだす。「愛子様がお嫁に行って」、公団住宅に住んでスーパーでお惣菜を買う主婦になるのは、国民感情としてい かがなものか、という議論もありそう。

確かに、愛子様の運命の触れ幅は、理不尽までに大きすぎる。このことも、誰かの心をひどく痛めつける可能性があるとすれば、むしろそれにも心を砕くべきであろうし、それもまた政治の領域には馴染まないように思える。

2006 02 11 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(6) | トラックバック

February 09, 2006

天皇制がわからないことについての、短いぼやき

僕は天皇制がわからない。

女系?男系?
女系だと父方から万世一系に辿れない?
その意味がわからない。

命をかけて守るべきものを守る?
それは男系天皇制のこと?
発言の意味がわからない。

そもそも
万世一系?
その意味がわからない。

まだまだ。

象徴?
その言葉の意味もわからない。

皇室典範?
この法律の意味がわからない。


でも今一番わからないのは、
1つの命の誕生が告げられただけで
1つの命が降り立つだけで
全ての論議がリセットされる
その摩訶不思議。

僕は天皇制がわからない。

わからないから天皇制か。
わからないから大和の国か。

わからないままでいいのか。
それもわからない。




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February 08, 2006

言葉がころんと

言葉がころんと転がると
悲しい気持ちがころんと転がる

悲しい気持ちがころんと転がると
言葉がやはり、ころんと転がる。

ころん。ころん。

こうしているうちに
こうしているうちに
何か他のものが出てくるといいのにね。

君を元気づける、何か別のものが。



2006 02 08 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

February 07, 2006

ミュンヘン----国家の絶対的物語と3人の女

munich

1972年9月5日にミュンヘンオリンピック会場で発生したテロ事件、いわゆる「ミュンヘンオリンピック事件」を題材にした作品。ミュンヘンオリンピック開催中にイスラエル選手団を襲ったパレスチナの武装組織「黒い九月」は、イスラエル代表チーム人質11名を全員殺害した。
オリンピック開催中の出来事というショックもさることながら、その後のイスラエルの情報機関モサドと「黒い九月」の報復合戦は世界中を舞台に多くの死者を出した。
原作は、今は本名を変えて米国に住む、元暗殺隊長の告白に基く凄絶な復讐の記録「標的(ターゲット)は11人―モサド暗殺チームの記録」。スティーブン・スピルバーグが映画化したもの。
全編、復讐を進行するモサドの暗殺部隊リーダー、アフナーの視点を中心に果てしない殺戮と終わりのない報復の泥沼に手を染めていく人間たちのドラマが描かれる。苦しく長い164分。

1972年、世界はテロの連鎖で騒然としていた。5月8日、パレスチナ人がベルギーの旅客機をハイジャック、イスラエル政府に対し服役中のゲリラ317人を釈放するよう要求。5月30日には「日本赤軍」の3人の武装ゲリラが、イスラエルの表玄関であるテルアビブのロッド空港で無差別乱射事件を起こし、27人を殺害する。

そして9月のこの事件。当時幼かった自分もショッキングな出来事として記憶に留めているが、その後イスラエルという国家がその首謀者たちを世界中を舞台に追い詰め、消していった過程は詳しくは知らなかった。この非情の使命を担うアフナーは凶暴でも屈強でもなく妊娠した妻の出産を気遣う、普通の男として描かれる。彼が殺人を重ねるにつれて次々と仲間を報復で殺され、おそらくその「普通さ」の故に、次第に精神的に追い詰められていく過程が息苦しい映像で描かれ、テロとその報復の連鎖の空しさが描かれている。強烈な暴力シーンが連続し、息が苦しくなる。

この映画で彼を追い詰めていくのは、忠誠を誓う国家イスラエルはもちろんのこと、実は3名の女性であったことが印象的だった。
1人目は、当時のイスラエルの首相、ゴルダ・メイヤ。アフナーの忠誠に親愛を示しつつも無慈悲な任務を有無を言わさず命じる。
2人目はホロコーストを生き延びた彼の母親。母は絶対的に息子アフナーを信じつつも、苦しむ彼の「任務の中身」には耳を貸さない。ただ彼を「信じ」彼を「愛し」そして祖国イスラエルの悲願に忠実であれと諭す。
そして3人目は彼の妻である。彼女もやはり絶対的に夫を信じ、国のために、家族のために明らかに危険な任務に彼の背中を押すように、送り出す。それも家族の平和を願うからこそであり、夫を信じるからこそである。
自らの忠誠を3人の女性から信頼され、ひたすら任務の成就に向かい、しかしアフナーの両手はおびただしい血にまみれ、精神は荒廃していく。
悲劇の歴史を刻んだイスラエルと言う国家の、絶対的物語に絡め取られた女性の愛そして自分への信頼を、アフナーは崩すことが出来ないのである。国家の怨念を、善良であるべき市民の一人ひとりの「忠節」や「使命感」へと変え、善意の人々が同じく「よき父」を最悪の殺戮へと結果的に追い込んでいく---あらゆる国家や民族の戦いに普遍の恐ろしさをアフナーを囲む人間たちにこそ感じた。
スピルバーグは、悪戯にエンターティメントに走らず、抑えた調子でこの長いつらい物語を撮っている。スピルバーグ作品には珍しいと言われるセックス描写にも、アフナーの悲劇が効果的に描かれている。

見続けるのがつらくなる映画である。

彼の「彼らしさ」は、それでも随所に見えるユーモアに。そしてニューヨークで復讐に脅えて暮らすアフナーが歩くラストシーンの彼方の空に、無限の報復の空しさを象徴させるかのように、今は亡き世界貿易センタービルの2本のビルを、合成で再現したところだろうか。

もちろん1972年当時、あの時、確かにあの建物はあの場所に建っていたのだけれど。
印象的なラストシーンだった。

【2/7追記】
世界貿易センターが竣工したのは1973年。ラストシーンの時代背景も事件の翌年の1973年だったことを後から知った。スピルバーグは竣工されたばかりの世界貿易センタービルをあえて遠景でラストに配したのである。

【参考リンク】
特別暗殺チーム「黒い九月」が起こした「ミュンヘン五輪虐殺事件」

2006 02 07 [映画・テレビ] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

February 03, 2006

この世界には2種類の人間がいる(番外編)---東横イン宿泊キャンペーン

この世界には2種類の馬鹿がいる。
東横インの社長と、東横インの社長である。

東横インでは、新規オープンホテルのオープン記念キャンペーンとして『サンキュー!ゴメンネ!キャンペーン』(開業後おおよそ1ヵ月間、シングル \3,950、ツイン・ダブル \5,390、ただし期間を通してお一人様2泊まで、また実施期間はその都度異なりますのでご確認ください)をおこなっていますが、このキャンペーンでご 宿泊の際にも金券のご利用がOKとなっています。ご家庭の中で死蔵されている金券等がありましたら、ぜひご利用ください。
詳しくはこちらまで。

            

馬鹿でゴメンネ!・・・
もう終りにします。

2006 02 03 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック

この世界には2種類の人間がいる2---バリエーションで遊んでみた

好評につき(どこがだよ)
バリエーションで遊んでみた。

●この世界には2種類の人間がいる。
ホリエモンでしか世界を見ることが出来ない人間と、それ以外の人間である。

#今、いっぱい。

●この世界には2種類の人間がいる。
朝日新聞でしか世界を見ることが出来ない人間と、それ以外の人間である。

#いやな奴だ

●この世界には2種類の人間がいる。
給与明細でしか世界を見ることが出来ない人間と、それ以外の人間である。

#ふつーだよ

●この世界には2種類の人間がいる。
ライブドア株を売った人間と、それを買った人間である。

#うそだ。そんなことはない。

●この世界には2種類の人間がいる。
東京拘置所に入ったことがある人間と、まだ入っていない人間である。

#僕はまだ行っていない・・・・・うん?何か違う?

●この世界には2種類の人間がいる。
SEXでしか世界を見ることが出来ない人間と、それ以外の人間である。

#いかん、そっちへ行っては。

●この世界には2種類の人間がいる。
真性引き篭もりでしか世界を見ることが出来ない人間と、それ以外の人間である。

#それは本人か。

●この世界には2種類の人間がいる。
R30でしか世界を見ることが出来ない人間と、それ以外の人間である。

#・・・ノーコメント

●この世界には2種類の人間がいる。
極道ブログ極東ブログでしか世界を見ることが出来ない人間と、それ以外の人間である。

#間違えた。失礼

●この世界には2種類の人間がいる。
ペンギンでしか世界を見ることが出来ない人間と、それ以外の人間である。

#可愛いけど意味不明

●この世界には2種類の人間がいる。
小泉でしか世界を見ることが出来ない人間と、それ以外の人間である。

#小泉チルドレン・・

●この世界には2種類の人間がいる。
馬でしか世界を見ることが出来ない鹿と、それ以外の馬鹿である。

#おかしくなってきた・・

●この世界には2種類の株がある。
ライブドアと、ライブドアマーケティングである。

#地獄だ・・

●この世界には2種類のテレビ局がある。
NHKと、テレビ東京である。

#地獄だ2・・

●この世界には2種類の馬鹿がいる。
世界を見ることが出来ない馬鹿と、それ以外の馬鹿である。

#深いような、デタラメなような。

●この世界には2種類のほにゃららがいる。
怖いほにゃららと、ただのほにゃららである。

#きっこ・・

●この世界には2種類の馬鹿がいる。
僕と、そして、あなたである。

#ラブレターの冒頭にいかが?だめ?


●この世界には2種類の馬鹿がいる。
こんな記事を書いている僕と、それ以外の馬鹿である。

#悪かったな。


●この世界には2種類のBigBangがいる。
馬鹿なBigBangと、鬱なBigBangである。

#両方いらんよね。


●この世界には2種類の馬鹿がいる。
馬鹿な記事を書いている馬鹿と、それを読んでいる馬鹿である。

#踊る阿呆に・・・ごめん。本当にごめん。


(これじゃ2chのスレッドだ・・)

2006 02 03 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック

この世界には2種類の人間がいる



この世界には2種類の人間がいる。
株価でしか世界を見ることが出来ない人間と、それ以外の人間である。





2006 02 03 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック

訴訟と自殺----引き篭もりよ。君は塔を見ないのか

親愛なる真性引き篭もり氏のエントリー。

「やります!」と言っておいてやらないという、普通は人間の評価というものに対してマイナスに働く振る舞いが(少なくとも本人の脳の中では)プラスに働く極めて珍しいフレーズこそが「自殺」と「訴訟」の2つなのである。(ブログにおいて、訴訟の二文字と自殺の二文字は同質である/真性引き篭もり

いや、今回のエントリーはどうだろう。訴訟も自殺も、出来もしないでいるくせに、そんなネガティブワードを口に出して、ポジティブになろうとしている厨房のことなんざ、天才であるところのあなたは、相手にしないでもいいだろう。

第一、訴訟も自殺もタブーでもなんでもなく、やる奴はやるって。普通にやってるでしょ。
訴えるって書いて訴える奴はいるし、死ぬぞって書いて本当に死んじゃう奴もいる。書いただけで、怪しいネガティブ(ポジティブ)パワーが溢れてるなんていうのは、観念的な厨房で、「天才ではない」無限数の「真性引き篭もり」達であれば、日常的に繰り返していることなのかもしれないが、訴訟や死をも普通に組み込んでいる世界はやはりその外にある。

12月以来我らのリアルで繰り広げられている出来事は、まさにそういう世界ではないのか。訴訟も死もブログで一旦死なずとも満ち溢れているぞ。あの天を頂く塔の周辺で。君は塔を見ないのか。

どうして人は訴訟の二文字をちらつかせるのか。
それは、ブログにおいて敗れ去ったからである。
・・・・・

どうして人は自殺の二文字をちらつかせるのか。
それは、ブログにおいて敗れ去ったからである。

君の如く、ブログスフィアで才を欲しいままにできる者ばかりが、世界の空気を吸っているわけではない。ブログは完全にバーチャルとは言い切れないが、それでも完全なリアルでもない。従ってブログ上の「敗北」があるとすれば、それはバーチャルではないけれど、リアルでもないのであり、実際凡才にとっては、それは敗北ですらなく、敗北の域にも永遠に達することすらできず、その遥か手前で猫の小便のように、くすぶっているだけである。

だが、あなたの言う「訴訟や自殺」はリアルである。猫の小便でも夢精でもない。

引き篭もる天才に死角があるとすれば、その世界が(おそらく)君の体の核付近数十センチの空間で閉じ、観念の世界のみが過大に広がっている、まさにその身体性のアンバランスにある。
君の実在の周辺では君は王であり神であるが、その世界よりひとたび旅立つ者の世界に寄せる「王の眼差し」は、昼の光の中で、あるいは悲しく鈍るのかもしれないのであり、君の実在を、君の観念を遥かに離れて朽ちるかもしれない。

なぜなら君を君の実在に繋ぎ止めているのは君自身であり、
君の観念が君の重い鎖になっているからだ。
その重い鎖を僕は愛するけれど許しもしないだろう。

2006 02 03 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

February 01, 2006

杉村太蔵君。今君の事どころではないんだけれど。

あのぽかん顔を右に45度回転させても苛々する。
左に45度回転させても苛々する。
上下さかさまにして見ても苛々する。
裏から見ても苛々する。
こうやっていじっているうちに、何か別の生き物に変わってしまえば
いいのに。

杉村太蔵君。

今は君の事どころではないんだけれど、
寒い夜には君の顔を思い出す。

無人島で2人だけになるとしたら残念ながら僕は
堀江君を選ぶ。君ではなく。


【参考リンク】
杉村太蔵ブログ

2006 02 01 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック

ライブドア訴訟が弁護士事務所のマイブームになるのか?

こういう表現で募集をかけられてしまうと、何だかなあという思いが禁じえないのだけれど、ライブドア株主に損害賠償請求を呼びかけている弁護士事務所がある。

ライブドアが有価証券報告書に虚偽したことにより損害を受けた方の相談が急増し、損害賠償請求することになりました。
損害を受けた方、事務所に相談にいらしてください。
相談は無料です。
集団で訴訟提起する予定ですので、一人一人で訴訟するより効率がよいと思います。
第一陣として先着200名様限定とさせていただきます。(弁護士法人ITJ法律事務所 ライブドア株で損をした人、損害賠償請求しましょう

まるで特価キャンペーンのノリであり、弁護士さんも、今回の22万人という桁外れの株主に対して千載一遇のビジネスチャンスなのかと、夜中にお茶を飲みながらしみじみ考えてしまうわけだけれど、この事務所によれば裁判所費用は2万円、着手金5万円、報酬金回収額の15%のAプランと、着手金は無しでその代わり報酬が回収の20%という2つのプランから選択できるのだそうだ。

訴訟の根拠は「証券取引法21条の2に規定されている損害賠償責任の追及を考えて」いるのだそうで、

問題とされる証券取引法の内容
証券取引法21条の2は、以下のような規定をしています。
すなわち、①発行会社の無過失責任(同条1項)と、②損害額及び因果関係の推定(同条2項)であります。順にご説明致します。

1 発行会社の無過失責任について
      有価証券報告書等に虚偽の記載をした会社は、これらの書類が縦覧に供されている間に当該会社の有価証券(株式等)を市場において取得した者に対して、その損害を賠償する責任があると規定しています。

2 損害額及び因果関係の推定について
    (1) 損害額は、「公表日前1ヶ月間の市場価額の平均額」から「公表日後1ヶ月間の市場価額の平均額」した額(※)であると推定されます。
※平均額を「減じた額」の誤記か?
但し、「取得価額」から「損害賠償請求時の市場価額」を控除した額が上限とされます。
    (2) このような推定がされるためには、貴殿が、虚偽記載の事実が公表された日の前1年以内に当該有価証券を取得し、公表日においても引き続き所有していることが必要となります。
            なお、「公表」というのは、ライブドアが、訂正報告書等を公式に開示するか、または、記者会見等によって、周知させることを言います。

要は虚偽記載に基づいて「だまされて」株式を購入した株主は、ライブドアに対して損害賠償を要求できるという解釈である。ここで少し試算をしてみた。
ライブドアの発行株数は10億4915万株。株主数は約22万超と言われている。浮動株単元数(特定株主を除いた浮動株比率を「発行済株式単元数」にかけたもの)は5億5049万口。いずれも東証トップの数字である。

一方ライブドアの株価は昨年年初来最高値で昨年12/20に794円をつけている。現在の株価は107円(1/31終値)。仮にライブドア株を500円程度で購入した株主が107円で手放さざるを得なかったとすれば、1株あたりの損害額はおよそ400円。この損害額を仮に基準として浮動株主のうちのおよそ50%程度が訴訟に参加し、損害賠償を求め、要求額の60%が認められたという試算を行うと、400円X5億5049万X50%X60%で、およそ740億円となる。実際には非浮動株主、つまり組織株主からの訴訟も予想されるので、この分を含めればライブドアは、少なくとも1000億円程度の損害賠償をこの時点でリスクとして持っているということになる。現在のライブドアの純資産は1800億円程度と言われているが、このうち半分強が訴訟リスクで飛ぶ可能性があるということになる。

もっともisologueなどでは、関連会社関連の決算も含めて粉飾の疑いがあり、この1800億円の純資産もそのまま信頼できる値ではないと指摘されており、これに準じた認識を示しているところが多いので、そういう観点ではこの時点でライブドアの資産的価値はほとんどゼロに近くなっていると言える。

もちろん、黒字を出している連結内会社もあると考えられているので(これも決算の数字が正しければであるが)それらを切り売りすれば別であろうが、ライブドアグループがライブドアとして存続できる可能性はそのブランド力の失墜も含めて、この数字を見ただけでも先行きの見通しが暗そうである。

【参考リンク】
ライブドアの価値はどのくらいあるのか?(単体編)(isologue)

2006 02 01 [ライブドア] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック