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February 28, 2006

「気の小さい大人たち」を読んで、あのことを思い出した。

tsurezure-diary:気の小さい大人たち

これを読んで思い出した。

検閲というのとはちょっと違うかもしれないけれど、遠い昔、中学二年生のときの、ある朝が思い出される。その日は、文化祭の初日だった。前日の夜遅くまで、僕たちは教室の飾り付けをしていた。その中でもメインは、各教科の教師の特大の似顔絵のモザイク。班毎に教師の顔を書いて組み合わせたので、モンタージュみたいな間抜けさと、それでも各教師の特徴を大げさに捉えた、いわばパロディみたいな大型の似顔絵が、教室の壁一面に出来上がって、前日満足して家路についたのだった。

ところがその日の朝。

登校した僕たちは驚いた。前日飾りつけた全ての似顔絵が外され、教室の真ん中では、担任の女性教師が1人憔悴しきって涙を浮かべていた。気の強い中年の女性教師であり、そんな姿は見たことはなかった。登校する生徒の数が増えるに従って、大騒ぎになり始め、いったいどうしたことかと、幾人かが担任に詰め寄った。

僕は気持ちが引いていた。見たこともない表情の教師の様子から、何か自分たちに窺い知れない大変なことが起きたのではないかと察知していたからだった。教師たちの似顔絵には悪意は込められていなかったかもしれないけれど、調子に乗りすぎたのだろうか。僕は心の中で考えた。担任に詰め寄ろうとする幾人かの級友を止めさえした。

結局担任は、僕たちに何も明かさなかった。飾り付けを全て撤去した理由は言えない、申し訳ない、どうにもならないことなのだと繰り返した。いつか話せる時がきたら、きちんと説明すると約束したけれど、その日はとうとう永遠に来なかった。

あれから何十年もたち、その後の人生の経験とかいろんなことから、あの飾り付けが学校側の何者かを刺激し、撤去されたのだということは、自然にわかるようになった。それでも今でもあの日の朝の絶望感のようなものは忘れられない。
大人の社会の理不尽と言うか、壁と言うか、子供には得体の知れない闇のようなものがあり、その力は恐ろしく大きいのだということ、僕たちには絶対だと思われていた1人の教師の力ではどうにもならないことがあるのだということ。あの日の経験は僕にいろんなことを教えてくれたような気がする。

あれも一種の「検閲」だったと思って構わないだろう。

しかし、「検閲」は意味がない。意味がないどころかこうして何十年にもわたって、「検閲された」側に決して消えない不信感を残し、傷を残す。こんな結果を何十人もの生徒に、何十年も残すくらいだったら、いっそあの不謹慎な作品をそのまま掲示した後で、こっぴどく注意でもしたほうが遥かにましだった。それならこれは中学時代の懐かしい思い出となって残っただろう。おそらく「彼らの側」にとっても、もっとましな結果が生まれていたはずだ。実際には不気味で不愉快な何とも言えない記憶を僕ら全てに残したのだ。

あの担任の教師もおそらく必死に抵抗しても、終に生徒の側に立つことはかなえられなかったのだろう。あれは紛れもなく、悔し涙だった。彼女よりもおそらく年上になった今、自分があの教師の立場になったら、どうしただろうと時々考えることがある。

答は出ているはずだけれど。

そういえばあの時撤去された作品も、どこへ消えてしまったのか。二度と僕たちのもとへは戻ってこなかった。

遠い、遠い昔の思い出である。

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Comments

TBありがとうございました。

>しかし、「検閲」は意味がない。意味がないどころかこうして何十年にもわたって、「検閲された」側に決して消えない不信感を残し、傷を残す。

おっしゃるとおりです。子どもがどう感じようが
お構いなしで、その場の体面さえ保てればよいという姿勢が
みえみえなところに腹が立ちます。

しかし、ずいぶん昔から同じようなことが繰り返されてきたんですね。なんか、暗くなります。

僕も中学生だった頃、各教科の担任の似顔絵を黒板の上に張り出したことがありました。無邪気な行為を寛容に受け止める空気が教室にはありました。牧歌的な時代だったのです。あれから30年。ある感懐をもって貴方の文章を読みました。ありがとう。

 トラックバックありがとうございました。これほど鮮烈なものではなくとも、よくよく考えてみれば誰しも一つや二つ似たような経験があるのではないかという気もします。
 いろんなことを禁止されることによって、大人の世界のルールや「汚さ」を学んでいくことも悪くないと思います。そして、時には反発して大人とぶつかることができればとても良い教育にもなり得るのでしょう。
 ただし、今の時代は「強いものに逆らうと勝ち組になれないよ」などと、教育とはまったく逆の刷り込みをしているのが問題なのかもしれないと思っています。

今、ちょっと別の場所で別の方と話をしていて思ったのですが、一番大切なのは「行為」ではなく教育者の「説明責任」というか、「教育の中身」なのではないでしょうか。納得のいく説明がなされたなら、このエントリーの件も僕の中でここまでわだかまりを残さなかったかもしれない。

時には強く子供に何かを「禁じる」行為も必要なことはあるでしょう。教育現場ですからね。それが「圧殺」になっているか「指導」として成立しているか。そこですね。

BigBangさん、こんにちは!
思い返すに、子供の頃、学校の先生は絶対的な存在でしたよね。とても完成された大人のように感じてました。でも今思うに、あの頃の先生も今の私と同じように日々悩み日々生きていた一人の人だったのだなと。
先生の年を多分追い越してしまった自分。
同じ目線で話してみたかったです。
今、同じ目線で話してみたいです。
得体の知れない闇、解きあかしていきたいですね。
今、一人の大人として。ではまた!

>同じ目線で話してみたかったです。
今、同じ目線で話してみたいです。
得体の知れない闇、解きあかしていきたいですね。
今、一人の大人として。

今晩は。大学時代の恩師と今、「大人として」対峙していますけれど・・・どうなのかなあ。。。天地真理状態ですね、今。(笑)

ごめんなさい。変な表現で。

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