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March 01, 2006

引き寄せずとも寄り添えるのではないか。-----ホテル・ルワンダと関東大震災を結ぶ視点

実はホテル・ルワンダを2回見た。

理由の一つは、町山さんのこの記事にもある。主人公ポールの行動と「職業倫理」の関係の言及について違和感を感じ、もう少し緻密に見てみたいという思いがあったからだった。当然ながら1回目に比べて冷静に見ることが出来たけれど、この点に関しては、当初の考え方に大きな違いは生じなかった。

で、そういうことをしているうちに、ホテル・ルワンダは何か別の方向で大きな問題と言うか、違う方向に発展して議論になっているようである。

幾つか読んでみて(人生とんぼ返り)

■町山智浩氏の言説の誤読のされ方‥travieso氏の「メディア・リテラシー?」を参照しつつ考える(1) (煙)

当初の議論の契機となった、某エントリー---町山氏の素性も含めて批判を行ったエントリーについてはここで述べたくない。当該エントリーのぶくマにも書いたけれど、自分の書いたエントリーを、いくら成り行きとは言え自ら「ゴミである」と言う人と、まっとうな対峙ができるとは思えない。ああそうですか、ゴミですかとそう思うのみである。既に当該のサイトには、十分な批判も寄せられているようなのでそれ以上は言及しない。

この議論でのポイントは、ルワンダの例を関東大震災の朝鮮人大虐殺と比較する言説を、町山氏が映画のパンフレットで行っていたという点である。件のサイトもその比較の違和感から出発している。

僕はそのパンフレットの原文も見ていないし、細かな評論をするのは困難だが、少なくとも意識的にホテル・ルワンダを2回見た者からの視点から言うと、この映画を見て関東大震災の惨劇と合わせて考える視点は全くなかった。そしておそらく、今後何回映画を見ても僕はその視点は持たないと思う。もちろん言うまでもないと思うが、これは朝鮮・韓国の人々に対する感情的な理由とは全く関係がなない。

僕はそれぞれの民族の抱える問題は、まずそれぞれの民族の環境下で緻密に議論されるべきだと考える。そういうことである。他の国の歴史と照合させて論じるなら、努々緻密な検証を怠ってはならないし、その照合や被虐の敷衍を、無条件に是の姿勢としてもならない、と思う。

言うまでもなく、日本と朝鮮の間に横たわる事情は特殊であり、それと同様にルワンダにおけるフツとツチの歴史事情も特殊であり、彼の地で彼の地なりに重い。この遠く隔たった両者の歴史的特殊性を、「虐殺」というレイヤーで共通の視点から語るというのは、ルワンダも、日朝の関係も、どちらも大幅にそれぞれの事情や背景を抽象して語っている、荒っぽい視点のように思え、賛同できない。

世界にはそれぞれの立場の民族がそれぞれの立場で争ったり互いを傷つけたりしてるわけであり、日本人が彼らの視点を共有するときに、ルワンダの例があまりにも遠いというのはわかる。多くの日本人にとってアフリカは遠い。だから自らの歴史の痛みの側面と比較して、その意識の共有と広がりを求めようとする意図もわからないではない。しかしその一方で、留意しなければならないのは、それでもやはり彼らと我らの事情は違うのだということである。

第二次世界大戦における日本を、今も一部のアジア・アフリカの国で支持する動きがあると聞く。その根拠として欧米の列強に、アジアのさして強国とはいえない島国が堂々と渡り合ったその姿勢への羨望があるという。たとえそうした視点で外国からの賞賛の視点を浴びたとしても、一方で我らにはアジアに対して多大なる「傷」がある。発展途上の激動の中から羨望をあるいは浴びることがあったとしても、それで我ら自身の、先の戦争の傷が癒されるわけでもない。同様に、ルワンダの人々に関東大震災の例を出して共感を表明しても、的確に受け止められるとは思えない。

やはり彼らのことは、彼らの歴史の中で受け止め、わからぬ部分は彼らの国の事情、歴史の中で理解すべきであって、安易にわが国の歴史事情と(それでなくても微妙な背景のある問題と)重ねることには、賛成しかねる。その観点では、この点も僕は町山氏に対して批判的なスタンスであると言わざるを得ない

ルワンダの惨劇を真に知ろうと思えば、むしろ彼らの側に寄り添う視点にしかないのではないか。

一方で、映画を見て仮に町山氏が朝鮮人の虐殺を連想したとすれば、それは氏の背景も含めて氏の感性がなせる業である。もとより芸術作品を前にして、それぞれの育ちや背負っている背景が感性に作用しないわけはないであろう。氏がパンフレットの評論でその観点を持つべきではなかったとまでは、僕は言えない。言えないが、それに乗らない人間はいるということであるし、それはまたそれだけのことである。

元来、映画を見る感性の問題を理屈のみで、「連想すべきだ」、「いや連想すべきでない」と争っても仕方がないのであり、彼は連想した、しかし我は連想しなかったという事実があるるのみである。それよりも、もっとも恥じるべきなのは無知や悪意による意図的な「偽連想」であり、もしも何者かが、そうした意図で特定のフィルターを悪意で作品に被せて行くなら、厳として対峙したいと思う。

繰り返すが、ルワンダに限らないが、彼の国の悲劇を、何も我らの歴史に重ねなければ共感できないということではないだろう。彼らのありのままの歴史と風土の土壌に、我らがこちらから添って行くこと。引き寄せずに添っていく理解と共感のあり方もあると僕は思うし、そういう形で自分も添いたいと思う。我々が世界に対して求めているものがあるとすれば、やはりその方向からの共感ではないだろうか。

少なくとも映画を2回見たものとして、ここにいる僕の見解はそういうことである。

【追記】
参照例として適切/不適切とか、社会学的に国内にはより適切な例がないとかいう言い方も、なんだかなーと思うよ。映画ですのでね、いくら虐殺を描いていても。どう見ようと自由っちゃ自由だけどさ。


【追記2】
2回映画館に足を運び、パンフレットも購入していながら件の町山氏の記事を読み落とした上、パンフレットもしまいこんでいた。煙氏のご指摘を受け、3月3日にパンフレットをごそごそ探し、ようやく町山氏の評論の全文を読んだ次第。現在では煙氏のサイトにもアップされているのでそれを読んで頂くことができる。原文を読んでから評すべきなのは、誠にもっともな意見であるが、それがあらゆる問題に先行する訳ではない。で、読んだ後の感想は本記事コメント欄に書いてある通り。



【参考記事】

ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記
『ホテル・ルワンダ』なんかまるで役に立たない!この人を見よ!


「ホテル・ルワンダ」---守ったのは職業倫理ではないだろう。

知らないってもしかしたら不幸なことかも「ホテルルワンダ」周辺

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Comments

はじめまして。TBありがとうございます。
感想ですが、とても説得力を感じました。参照例なしに寄り添うこと、あるいは寄り添おうという意志をもつことはできます。また参照例なしににじりよっていかないといけない事柄というのも、世の中にはある。その意味で同感です。
続きは明日書きます。

TBありがとうございます。瑠璃子と申します。
思うところがあったので、何点か記します。長文になります。ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いします。

まず職業倫理と家族愛(便宜上用います。家族を救いたいというただそれだけの感情ですね)という映画の見方ですが、私は映画そのものを見た場合、管理人さんがおっしゃるとおりの読み取り方になると思います。ただ私が実際にルセサバギナ氏の講演を聴いた限りでは、ルセサバギナ氏ご本人は非常に職業倫理の強い方であると思われました。なぜならあの虐殺事件があって亡命して三週間後にはホテルに戻られているそうですから。お掃除をなさったそうです。(ルセサバギナ氏はルワンダ人としてははじめてあのような副支配人というホテルマンとしての地位を得られたそうで、そういう意味で彼はその部分に誇りと矜持をもっていて当然だろうと思われます)もちろん映画ではそこまで語られてませんから(おそらくは監督の意図としても職業よりも家族愛を優先したと思われます)管理人さんの記事のような感想になるとは思います。そういう前提条件があるということをまず提示してから以下に話を続けます。

私が気になっているのは「町山さんが韓国系日本人であるから朝鮮人虐殺を恣意的に取り上げている」というブログ記事が多いことです。恣意的というからには、関連性がないことを無理やり一緒にしているという例を提示するべきである、ゆえに、例題として関東大震災における朝鮮人虐殺がふさわしいかふさわしくないか、で語るべきであると考えてます。韓国系だから朝鮮人虐殺をとりあげたという論調には依拠する根拠がなければ差別的なニュアンスという風に受け止められるのではないでしょうか。昨今の民主党における堀江メールではないですが、言い立てた側に反証責任があると私は考えます。

ではなぜ町山さんはパンフレットにおいて「関東大震災における朝鮮人虐殺」をとりあげたのか。

映画の中で非常に象徴的なシーンが登場します。フォアキン・フェニックス扮する記者が「結局ディナーの話題で終わるだけだ。こわいね、ああそうだね、って」と告げる部分です。この映画が訴えたいのはもちろん「ディナーの話題で終わらせるな」つまり「いまここ」で起こるかもしれない出来事である、ということではないでしょうか。(もちろん管理人氏はそんなことは先刻承知で釈迦に説法でしょうが、あえて書きました。失礼があればご容赦を)ではディナーの話題ではなく「いまここ」で起こりうる出来事としてとらえるにはどうしたらよいか。その方法論として、管理人さんのおっしゃられる「アフリカの現状に寄り添う」ということと、町山さんの書かれた「日本でも同じことがあったんだよ」(イコール日本でも起きた事例を元に「いまここ」で起こる可能性を連想させる)があると思うのです。つまり管理人さんの主張と町山さんの記事は、「A」というテクストを前にして「B」と「B'」の方法論の問題という風に私には見えました。自分を相手の現状へ身をおくか、相手の現状を自分の身にひきつけて考えるか、その差ではないでしょうか。

私はどちらの方法論も有効だと思います。

管理人さんのおっしゃる方法論は結局分析することによって具体的にアフリカの現状、それを囲む世界の現状を相対的に考えることができます。ただやはりそれにはアフリカの民族形成状況、植民地統治国との関係性、歴史などを学ばなければなりません。残念ながら、そうした「学習」を億劫と感じてしまう人もいるという現実もまたあります。(「ホテル・ルワンダ」試写後のルセサバギナ氏を招いたパネルディスカッションにおいて周囲の参加者がかなりの数で寝ていたことを思い出します)
そういう「億劫」と感じてしまう人々に対しては、町山さんのとった方法論は有効ではないかと。ディナーに終わらせようとしても、日本で実際に「同じような」事例が起きていることを知れば、「いまここ」の問題として捉えることができる、遠いアフリカで政治状況も違った自分とは関係のない出来事とは思えなくなると思います。しかし、管理人さんのおっしゃるように、結局は似た例を提示しているだけで、根本的なルワンダの現状を見据えることにはならない、というご指摘もごもっともです。

どちらにしろ大切なのは「いまここ」で起きている問題と捉えることであると私は考えてます。

うーむ、自らに引き寄せて考えない限り、単に美しい、または可哀想な、或いは恐ろしい「ファンタジー」として物語が消費されるだけ、という可能性もあるんじゃないでしょうかね。客観的な状況として。

あ、瑠璃子さんにあらかた言われてしまった。

>ルセサバギナ氏の講演を聴いた限りでは、ルセサバギナ氏ご本人は非常に職業倫理の強い方であると思われました。なぜならあの虐殺事件があって亡命して三週間後にはホテルに戻られているそうですから。お掃除をなさったそうです。

うん。それはそうなんだろうと思います。ですが、この辺は映画世界を絶対的に評価するか、その外の世界をも評価するかの違いですね。で、その両者がずれることで何が問題なのか?考え中。

ディナーの件ですが、非常に印象に残るシーンですね。2回目のときに一層そう思いました。で、あなたとuki_gumo氏の論争も、僕は無意味だとはもちろん思いません。ですが、ですがですよ。世界を理解するアプローチは様々です。
もしも、共通のゴールにたどり着かないとしても、プロセスの真摯さは互いに評価して然るべきだと思いますが如何でしょうか。

>そういう「億劫」と感じてしまう人々に対しては、町山さんのとった方法論は有効ではないかと。ディナーに終わらせようとしても、日本で実際に「同じような」事例が起きていることを知れば、「いまここ」の問題として捉えることができる、遠いアフリカで政治状況も違った自分とは関係のない出来事とは思えなくなると思います。


しかし、その「方法論」によってこそ反発する人も生まれますね。その「利益」考量については難しいテーマです。難しいということは共通認識にしてもいいかと思います。

>あ、瑠璃子さんにあらかた言われてしまった。

あら?笑

>または可哀想な、或いは恐ろしい「ファンタジー」として物語が消費されるだけ、という可能性もあるんじゃないでしょうかね。客観的な状況として。

うん・・。そうかもしれないですね。このあたりは「その先」の問題かもしれないけれど。

少し続けますと、

私が、町山氏の1月14日テキストに言及したのは、「町山氏が自民族の差別を言いたかった」というのは誤読である、という1点においてです。
そしてパンフの文章で「関東‥」に言及することの適切性は、パンフ文章固有の「文脈」で判断されるべき、と考えます。この意味でパンフを読まずに例の人間の持った「違和感」を「理解できる」と述べた浮雲氏の発言は軽率だと私は考えます。

浮雲氏との議論の論点は以上ですが、これは町山氏の1月14日テキストに問題がない、と言いたいわけではなく、同テキストは別途検討される余地があるとは思っています。

さて、BigBangさんの提起した論点はホロコーストをめぐる議論でも問題にされる点だと思いますが、全ての事例は唯一性を持つと同時に、部分的には比較や参照が可能だというのが私の考えです。‥ここで時間が来たので続きは後に。

昼休みなので少し続けます。
全ての事例は唯一性を持ちます。ですからその事例に寄り添って考えるのは当然の第一段階なのですが、次の第二段階として、別の唯一的な事例を「想起」することができる。想起し参照することで最初の事例がまた新しい視点から見えてきたり、別の問題点を発見することができたりする、その問題点の中に「自分の問題として考える」というのが含まれる等々あると思うのです。

関東大震災でも鶴見で朝鮮人保護に回った日本人のケースがある、それはミルコリンの事例とは異なる唯一的な事例ですが、それを想起することで私たちの中で何かが変わる。

ここで留意すべきは町山氏はパンフでたった1行、「日本でも関東大震災の虐殺事件から100年たっていないのだ」と述べているだけなという点です。別に共通の視点から「虐殺論」を荒っぽく語っているわけではないわけです。彼は関東大虐殺事件の「想起」を呼びかけている。それに呼応するかどうかは各人の自由です。しかしその「想起」を呼びかける自体が不当なのかどうか、それは町山氏の文章を読んで文脈を確かめたうえでなされるべきで、そういう「手続き」なしに、つまりパンフの彼の文章を読む前から否定的に語る人間は単純に軽率であると私は考えます。

>煙さま
すみませんどうも。お話奪ってしまったようですね(笑

>BigBangさま
レスありがとうございます。

この辺は映画世界を絶対的に評価するか、その外の世界をも評価するかの違いですね。で、その両者がずれることで何が問題なのか?考え中。

たとえば、BigBangさまの方法論で語る限り、相手に寄り添うという意味では、ルセサバギナ氏がどう考えて行動したのか、というのも「知る」必要があるのではないでしょうか。つまり「相手に寄り添う」という方法を選択した場合、映画だけではなくその他の知識を必要とする場合が往々にしてでてくる、ということです。やはり映画だけみて「相手に寄り添う」ということは、アフリカの様々な情報、あるいは当時のルワンダの状況、そういったものを得ずには難しいと思うからです。どうしても「その外の世界」まで考慮に入れる必要がでてきはしませんか?
私が一点町山さんのテクストに納得できないのは、この「外の世界」で仕入れた情報を明示しないでテクスト内に混入してしまっている部分です。BigBangさまも思われているように、映画だけ見ただけでは職業倫理の部分がなかなか理解しづらい。ご本人にお話をきいて(あるいは海外のDVDにあるご本人の解説を聞いて)ではないとわからない部分だからです。なぜ職業倫理によって動いたのかという箇所はルセサバギナ氏の背景ならびに当事者意識を抜きには語れない、であるがゆえに映画だけみた方は職業倫理といわれても、そんなことわかるの?という思いがでてきてしまうのではないかと思います。
浮雲さんとのやり取りですが、私は以下の点で納得できないのです。1、恣意的であるという指摘ならびに絶対的に朝鮮人差別を取り上げるはずだった、という根拠を明示されない。2、しきりに発言者の立場を指摘する。
まず1ですが、恣意的である、とするならば、その「恣意的である」という根拠を提示しなければ、受け取る側には単なる差別発言とみなされてしまうのではないでしょうか。BigBangさまのように明示されれば、それが差別ゆえでないことは理解できます。差別的に判断したくないので、明示してくださいとお願いしてますが、お答えいただけておりません。そのため、根拠なし、と判断する結果となっております。2についていえば、私は一度も「私がリベラルである」と自己申告していないにもかかわらず、浮雲さんは「あなたはリベラルという立場で」と繰り返される。正直申し上げてこれは決め付けているなという印象を持ちました。私は「立場」で発言する人間ではないので、こういう決め付けにはあまりいい印象をもつことができません。そもそもリベラルであろうが保守であろうが、それがどう関係してくるのかもよくわかりません。むしろそういう立場を「決めつけ」てしまうことは議論の発展性を阻むように思います。
確かにBigBangさまがおっしゃるように世界に対するアプローチは様々です。ただ、それを開示し、相手に理解してもらおうとする際にはある程度の配慮が必要になってくるのではないでしょうか。
私は共通のゴールにたどり着く必要性をそもそも考えてません。たとえば靖国問題にしろ朝鮮人強制連行問題にしろ、「A」というテクストを前に「B」も「B'」とも考えることが可能なら、導き出された答は共通しないにしろ正反対にしろ尊重すべきだなと考えてます。保守だからリベラルだからという話になると韓国系だからという話と同じようなレベルになってしまう恐れがあると思うのです。

「方法論」によって反発することによって「ホテル・ルワンダ」を自分のこととして考え、捉えることができるならば、それはそれでいいと思います。町山さんが訴えたかったのはその部分ではないでしょうか。

>煙さま
あ、私が言いたかったことを代弁してくださいました。ありがとうございます。

映画やパンフレットを見たうえで語るべき事項であると思うのに、抜書きされた部分で判断するのは非常に危険だと思うのです。たとえば以前石原都知事の「三国人」発言問題がありましたが、あれもかなり恣意的に「抜きがき」された文脈で語られているように思いました。やはりすべて確認した上で異議を申し立てなければ、片手落ちになり、議論そのものが本質を失う結果となるのではないでしょうか。

BBさん、ちょっと失礼します。

>瑠璃子さん
ここで書かれては、私は反論しようが無いので、適切ではないと思いますよ?私のところではないので要点のみ。

>恣意的であるという指摘ならびに絶対的に朝鮮人差別を取り上げるはずだった、という根拠を明示

私は一番最初に根拠を示したつもりでいます。そのあたりで私は「堂々巡りになる」と判断しました。またこの場合の「根拠」「立証」という言葉も、あなたの主観的なものでもあると思います。また「絶対」という言葉については、要らぬ印象まで呼び起こす表現でもあり、確かに適切ではなかったでしょう。当時文脈としても、私はあの言葉を使いたかったのですが。

「リベラルである」と言ったのは、その前に煙さんのブログを見て、その印象をそのまま瑠璃子さんにまで適用してしまったという事です。また、基本的に私は映画そのものより、今回は「件の彼女」に視点を置いていました。少なくとも「そう感じた」人間はいるのであり、私は「その印象」まで否定される必要は無いと思ったからです。

以上です。

それと一つだけ。
私は彼が自分の身近な所から発想するのは、自然だと思っています。それを非難してもいません。ただそれは日本人全体には敷衍されない、といっているだけです。(この辺り、うちのブログでuchya_x氏へのレスで書いているのでご覧ください。)私は町村氏を「被害者だ」と言い立てるような人だとは思っていません。それはエントリで書きました。

震災の悲劇との関連にのみ今回話が行ってしまい、私の本来意図したことは読み飛ばされてしまったように感じています。以前「ソウル・トレイン」上映において、民団の存在に触れ、北朝鮮難民救援基金から誤解を受けたことがあります。今回そのことを思い出しました。http://naruse.exblog.jp/1451379/
関連に言及したからといって、そこで私は何をいっているわけでもありません。私が日本人であるならば、日本人の受けた悲劇を連想するだろうといった事も、曲げて受け取られてしまいました。根本的な誤解があるように思います。ですからそこにバイアスがあるだろうと言ったのです。
わかってもらえねば仕方がありませんが、お二人は私にありもしない「意図」を読みとってしまわれたのだと、私は悲しい思いでいます。

>私が日本人であるならば、日本人の受けた悲劇を連想するだろうといった事も、曲げて受け取られてしまいました。

それって、同じように「私が日本人ならば、日本人が起こした悲劇を連想するだろう」とも言えるのですよ。どちらをより強く連想するか、どちらを想起するかは、町山氏のパンフの文章、その文脈に即して考えるしかないのです。
そういう手続き抜きに、「私が日本人であるならば、日本人の受けた悲劇を連想するだろう」という考えに固執されても、あまり説得力がないと思うのですが。

議論があちこちで拡散するとやりにくいですから、できればuki_gumoさんのところで集約していただきたいと思いますが。

こうした議論(と一括りにしてはいけないかもしれないけれど)を引き起こすことになったことこそが、震災での惨事に敢えて言及した町山さんの「功罪」でしょう。彼の文章に噛み付いた件の彼女の存在で、必ずしもホテル・ルワンダと直接関係が深いと思えないことにまで議論が広がった。

ここで「功罪」と書いたのは、私が両面の評価をしているからですが、「第一に彼は映画評論家として、自由に評価をパンフレットに書きうる立場にあるし、それをしなければならない。そのモチベーションが彼のパトスから発していたとしても、ロゴスから発していたとしても、それも彼の提出したアウトプットである以上、よほどの瑕疵がない限り、表現行為自体を批判することはできないでしょう。私はパンフレットは読んでいませんが(しっかし2回映画見に行ってなんでパンフレット読んでないのお?と誰かに突っ込まれることが怖い・・)他の方のエントリーやコメントを見る限りにおいて、表現行為そのものが批判されるまでの要素があるとは思えません。かといって積極的に評価もしません。件の彼女が奇想天外な方法で批判したような、そこまでの偏りを示されたとは、到底思えない。あれは彼女の病理の問題です。彼女に自力で解決してもらいたい。ですが、たまたま「不幸な事故」のような、あのエントリーに出会ってそれに反論するプロセスで、町山氏自身もちょっと入り込んでしまったところもあるかもしれない。

uki_gumoさんと煙さんの議論は、別の場所で進行しているようなのでそちらでおやりになればいいと思いますが、uki_gumoさんはパンフレットを同じく読んでいない。むしろ町山さんと「件の彼女」とが繰り広げたネット上のやり取りと、ルワンダを見た他の人のエントリーから、ああいう評価になっているわけです。

パンフレットや映画を見ないでなぜ町山さんに違和感を示せるのかという、煙さんや瑠璃子さんの立場とはスタートが異なってしまっていますから、これ以上は議論が成り立たないように僕は思う。uki_gumo氏はそのことへの異議を提出されているのであれば、出来うるならこれ以上は、映画を観てから、煙さんたちと話すべきであろうし、煙さんも、見ていると、ちょっと言葉尻の世界に入り込みすぎているように思う。どなたかが書いていましたが、ここまで時間をかけて互いに批判しあうほどに両者に深刻かつ具体的な溝があるとは思えない。仲裁することは僕の本意ではありませんが、前提条件を揃えないで続けても意味性としてどうなんだろう、むしろ行かないでいい場所に互いに行ってしまう様な気がします。

先に町山さんの「功罪」と書きました。どんな言論であってもそれを肯定的に受け止める人間と、否定的に受け止める人間がいる。「在日」としての町山さんの難しい立場は、無視できないものであり、得てしてその言論に攻撃的なスタンスをとる人間によって絶好のターゲットになる。このあたりは僕はカンサンジュさんの「在日」を読んで、深く感銘したのですが、少なくともカンサンジュ氏は、明らかにそれを言語化して意識的に超越しようとしておられる。そういう意識への着目は我々も持つべきであると思う。

このスタンスから発言することへの、言論者としての危険性はよく町山氏ご本人も承知しておられると思うので今更だけれど、「ホテル・ルワンダ」という素晴らしい映画を評するときに、僕にとっては離れた問題であると思える震災の話題を差し挟むことによって巻き起こった議論の数々を、彼自身があるいは周りがどう評価するのかというところが、一番大事なように思う。こうなってよかったのか、あるいは悪かったのか、いずれでもないのか。僕にはこの騒ぎが本質から人の目をそらしていないかということが気にかかるのだが、かえって彼我の状況を考える契機になったと評価する方もおられるでしょう。

uki_gumo氏は僕の知る限り、「件の彼女」からは言うまでもなく遠いところにおられる方であるが、そうした全体的な状況が生じていることは必ずしも評価していないと思う。僕も評価していません。だが「評価する」と考える人があるとすれば、それを「啓蒙」しようとまでは思いませんが。

あの映画には、指摘があったように、虐殺の現場と周辺の乖離、国連の責務と言うもの、武力と言うもの、差別というもの、そして一人ひとりの「良心」というもの、勇気と言うもの、多くの視点が提供されるべきであると思う。それが今、一点に収束して論じられてしまっているように見える状況は映画にとって不幸な事態であるように僕には思えます。
町山さんのアウトプットにしろ、それが生み出した状況にしろ、このあたりでなぜお前たちはそれをも評価しないのか、あるいは評価すべきだといくら言われてもここは異なるから異なるとしかいいようがない。
もちろん一つの評論が生み出した必然の結果としてそういう産生物もあると言うことですから、この齟齬をも含めて何らかの価値があるのかもしれませんが。

長くなりましたが、ともかく両者、基本的前提条件を揃えてからの話のように思います。


とても細かいことですが、揚げ足と受け取られるかもしれませんが、

>「ホテル・ルワンダ」という素晴らしい映画を評するときに、僕にとっては離れた問題であると思える震災の話題を差し挟むことによって巻き起こった議論の数々を、

「差し挟む」という表現を、パンフの文章を目にしていないBigBanさんが使われることに、この騒ぎの深刻な一面を見る気がするのですね。

町山のテキスト「彼でなければダメだった--テリー・ジョージ監督の賭けに見事に応えたドン・チードル」には、関東大震災は最後の一行にさらっと触れられるだけです。映画の見方、に対するお説教めいた発言もありません。にもかかわらず、件の彼女がこれを「在日のプロパガンダ」と読み取って非難したのが騒ぎの発端ですが、では元の「テリー・ジョージ監督の期待に見事に応えたドン・チードル」というテキストに「関東大震災」の話題は「挟み込まれている」のか。
いつのまにか「挟み込まれている」という前提で「彼女も悪いけど、町山氏も悪い」みたいな議論が動いていることに、私はこの騒ぎの危険な側面をみます。

実際の「テリー・ジョージ監督の賭けに見事に応えたドン・チードル」で町山氏は、きわめてストイックな形でしか関東大震災に言及していません。にもかかわらず、それを反日プロパガンダと決め付け非難する人が現れた。
こうやって起こった事態のどこまでが町山氏の責任なのか、町山氏の責任ではないのか、
「僕にとっては離れた問題であると思える震災の話題を差し挟むことによって巻き起こった議論の数々を、彼自身があるいは周りがどう評価するのかというところが、一番大事なように思う。」という発言は、問題の発生を町山氏に負わせるのに等しい発言で、それは今の雰囲気の中では受け入れやすい意見かも知れないけど、きちんとした事実関係の確認なしにされているのだとしたら、そういう「喧嘩両成敗」的な発言は相当危険だと思いますよ。

これはかなり手厳しいな指摘だと思いますけど、Bigbanさんなら感情的にあらずに読んでもらえるのではないかと思い、あえて投稿します。

こんばんは。まずご報告があります。2回も映画を見に行ってこの私がパンフレットを「買っていない」わけはないのでありまして、今夜家の中をごそごそ探しましたら、パンフレット、出てきました。どうやら買ったまましまいこんでいたようです。で、「ご期待通り」町山さんの紹介文を読みました。肩の荷がおりたような気分です。年をとると時々ぼけていけません。(笑)

で、この状態で申し上げます。確かに関東大震災の一文は末尾に書かれているだけでした。殊更に、その前後でそのことを過度に強調するような箇所は見当たらない。あなたのおっしゃるとおりです。

ですが、私は次の2つのことを思いました。これはあなたの問いに直接の答になるかどうかはわかりません。わかりませんが敢えて申し上げます。

まず第一点。件の彼女のことです。

よくこの一文に目を留めたものだと思いました。私なら読み飛ばしてしまうかもしれない一文に彼女は目を留め、ひっかかりを感じた。その心理について思いました。いや、勘違いしないでください。共感を感じたわけではありません。このわずかに綴られた一文にひっかかりを感じた彼女の「感性」と、その「感性」があそこまで人間を愚弄する言葉を吐く。在米の町山氏に向かって韓国へ帰れとまで言う。その、何というのでしょうか。人間性の不可思議と言うか、恐ろしさと言うかそのことにあらためて恐ろしいと感じました。繰り返します。その感性に驚嘆こそすれ、私は彼女を絶対に許しません。リンチになるのでこらえていますが、町山氏はもとより、特定の民族に対する拭い去れない侮蔑と偏見、攻撃されるとおのが無知を理由に無責任をきどるあの姿勢。私は絶対に彼女を許せませんが、その感性は決して「鈍感さ」ではない。この末尾のわずか一文。

「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ。」

に目を向ける敏な感性と、ここまで残虐な無責任さが同居している。そのことへの恐ろしさをあらためて感じました。


次。二点目。町山さんの表現について。

この一文は、確かにたった一文です。短いセンテンスであり、敢えて言うと控えめと言っていいかもしれない。ですが、短いが故に非常に唐突な気がしました。彼はこれで何が言いたかったのだろうと考えると、我々もいつツチとフツのようになるかもしれぬ。その一片が示された朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないと。我々は確かにこの一文で、「よそごと」であった「ツチとフツの物語」から敢えてわが身を振り返るかも知れない。おのがことととしてとらえるかもしれない。ですが、私にとっては非常に違和感を覚えます。どうか煙さん、この私の違和感を理解して欲しいとは言わないが、違和感の存在までを糾弾しないで欲しい。私は、先に書いたように、町山氏を愚弄した人を絶対に許さない。もちろん震災で朝鮮の方を無残に殺した「民衆」も許さない。ですが、そのことと、このことは別なのです。私ならこれは書かない。書かない理由もエントリーで表現したと思います。で、この「書かない私」と「書く町山氏」について、どちらが間違っているとかいないとかいうことではないのです。それが自らの背負っている感性というものであり、差別や偏見とは別次元のことです。書いた町山氏を糾弾はしない。ですが私にはこの一文は唐突に思え、むしろ説明無しにぽんと放り出された蹉跌に思えます。そういうことです。あなたはそう思わないのでしょう。私は「そう」思うのです。


>こうやって起こった事態のどこまでが町山氏の責任なのか、町山氏の責任ではないのか、

>という発言は、問題の発生を町山氏に負わせるのに等しい発言で、それは今の雰囲気の中では受け入れやすい意見かも知れないけど、きちんとした事実関係の確認なしにされているのだとしたら、そういう「喧嘩両成敗」的な発言は相当危険だと思いますよ。


私は逆に煙さんに問いかけたいのですが、言論を提示するものは、皆その「責任」から逃れることはできないのではないですか?あなたも、私も、です。まして言論を業とする町山氏においてをやです。「喧嘩両成敗?」それはとんでもない話です。今回の出来事で圧倒的に責任があるのは、「彼女」のほうです。それは自明だと思っています。で、その前提の下に、今回のいきさつに関する町山氏の見解を聞きたいと思う。それはあなたの言う「喧嘩両成敗」でもなんでもない。彼女に対する町山氏の反論は聞きましたが、その後の彼女への社会の反論も含め、「状況に対しての」町山氏の見解も聞きたいと思います。そこで、町山氏がどんな見解を述べようと、そのことで言論者としての氏の自由はいささかも侵されることはないと信じます。もちろん、「卑しいもの達」は半島へ帰れといい続けることでしょう。ですが、煙さん、あなたも過度にこの町山氏の「表現者としての力」を過小評価されてはいまいか。私たちに必要なのは、表現者が表現する自由を保証することであり、その表現への批判も保証することです。そして、さらに批判への批判も保証することです。この流れを保証する約束事の上に、我らの世界は成り立っている。これは同意いただけるでしょう。

町山さんは、彼女の「ひどい」エントリーには反論されていますが、ここで、あるいはuki_gumo氏とあなたとの間で問題になっていることに関しては、これまでのところ態度を表明されていません。この態度表明が知りたいと私は率直に思います。氏がコメントやTBを拒絶しておられるので、こうした対話が不可能なことは残念なことです。


>これはかなり手厳しいな指摘だと思いますけど、Bigbanさんなら感情的にあらずに読んでもらえるのではないかと思い、あえて投稿します。


そのお言葉に甘んじて、私も少々踏み込んだ発言を致します。あなたは、私から見ると、町山氏を守ろうとする余り、逆に彼の表現者としての尊厳を過度に大衆から覆おうとされてはおられないでしょうか。あるいは彼にわずかな「違和感」を感じるものに対して逆に過度な防衛をなされてはおられないでしょうか。

この答をいただけるなら、感情的な視点ではない、率直なご意見がいただけるとありがたい。それは望むところでありますし、この議論にも何か成果があるとすれば、その姿勢を忘れては、ありえないと思いますから。

では。

>あなたは、私から見ると、町山氏を守ろうとする余り、逆に彼の表現者としての尊厳を過度に大衆から覆おうとされてはおられないでしょうか。あるいは彼にわずかな「違和感」を感じるものに対して逆に過度な防衛をなされてはおられないでしょうか。

そうでしょうか。
人の文章を批判するなら、まず元のテキストを読むという手続きが必要ですよね。そういう手続きなしの「批判」とは、実は頭の中で作られた「架空のテキスト」を批判しているにすぎません。読みもせずになされた批判とは実はバッシング以上のものではない。
こういう、当たり前の原則が適用されないまま議論が動きつつあるから私は異論を唱えたのです。
私が町山氏を守ろうとしたとするなら、こういう手続きなしの、批判に値しないバッシングから彼を守ろうとしたにすぎません。それが「過度な防衛」なのかどうか、もう一度再考していただけますか。

表現者の尊厳とか責任うんぬんという話ですが、これは元のテキストを読んでいる人間だけが彼に突きつける資格を持つのであって、
読んでいない人間がそれを言い出したら支離滅裂です。Bigbanさんは既に元テキストを読まれたから該当しませんが…

>私たちに必要なのは、表現者が表現する自由を保証することであり、その表現への批判も保証することです。そして、さらに批判への批判も保証することです。この流れを保証する約束事の上に、我らの世界は成り立っている。これは同意いただけるでしょう。

くどいようですが、それはテキストを「読む」という大前提のもとに成り立っているわけです。それすら守られていない状況で、そういう原則論持ち出してどうするの。昨日まであったのは、読みもせず批判するという「野蛮」状態でしょう。その野蛮状態を脱してから「我らの世界」が始まるのですよ。

>町山さんは、彼女の「ひどい」エントリーには反論されていますが、ここで、あるいはuki_gumo氏とあなたとの間で問題になっていることに関しては、これまでのところ態度を表明されていません。

態度の表明がない?当たり前のことです。町山氏からすれば、元テキストを読んでいない人の意見を読まねばならぬ義理などないでしょう。ちなみに件の彼女は元テキストを読んでいる、つまり最低限の手続きは行ったうえで発言しています。
町山氏の意見を聞きたければ、まず彼にメールを送ることです。一方的に、彼がこの議論を読んでくれることを期待してどうするのですか。繰り返しますが、彼に(昨日までの)ここの議論を読まねばならぬ義理はないのです。

まず、町山氏の許可をとりテキストを掲載された煙さんの努力に敬意を表します。


>態度の表明がない?当たり前のことです。町山氏からすれば、元テキストを読んでいない人の意見を読まねばならぬ義理などないでしょう。ちなみに件の彼女は元テキストを読んでいる、つまり最低限の手続きは行ったうえで発言しています。

件の彼女が「テキストを読んでいる」からと言って、他のテキストを読まない人々が彼女より貶められる必要もないと思いますよ。それはともかく、「義理」などありません。どんなことにも。そして私が言っているのは何もuki_gumo氏に町山氏がコメントしろと言っているのではありません。現在の状況に対して(最初の彼女にではなく)町山氏自身がどのように考えられているかを知りたいと言っているのです。で、これは私の言論ですので無視するも自由。義理は誰にもありませんよ。

>彼に(昨日までの)ここの議論を読まねばならぬ義理はないのです。

繰り返しますが、誰も誰に対しても義理など何もありません。そして私の言っている対象はあなたや私やuki_gumo氏の議論を指しているのではありません。そこのところを誤解なきよう。

その上で煙さんやアイクラさんによりパンフレット全文がアップされたことにより、「問題となっていた箇所」につき議論が前向きに進むことを期待します。

ところで、

>>あるいは彼にわずかな「違和感」を感じるものに対して逆に過度な防衛をなされてはおられないでしょうか。
>私が町山氏を守ろうとしたとするなら、こういう手続きなしの、批判に値しないバッシングから彼を守ろうとしたにすぎません。それが「過度な防衛」なのかどうか、もう一度再考していただけますか。

これについてはスルーされていますが、この話題は消滅したのでしょうか。手続きなしの批判から守ることは「過度な防衛」なのか否か、どちらでしょうか。

「手続き」と言われているのは、「パンフレットの
原文を読むこと」でしょうか?もしそうだとすれば、たとえ読んでいなくとも、前もってパンフレットの記述に関して大幅な誤解をしていないのであれば、読んでいないというただそれだけで批判が正当化されるとまでは、「私は」思えません。

ゆえに、率直なところ、「過度な防衛」と私には感じられます。

同様に

>ですから、論点の一つは「元テキストを読んでいない周辺の多くの言論」を抑えることは「一つの言論を擁護しようと過剰になる」行為か否か、ということです。私は「過剰」とは思いません。Bigbanさんは過剰とお考えですか?

に対しても私は「過剰である」と考えます。

PS.そろそろこの話題もクロージングする時期かと感じていますが。また、コメントはなるべく短く分けずに一回にまとめていただけると幸い。

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