SNS

My Photo

BooksBooks

無料ブログはココログ

« 業界パーティでもたまには面白い話に出会う | Main | GripBlogインタビューを読んで----松永英明氏に誤解を謝罪する »

April 24, 2006

松永英明インタビュー(GripBlog)の勇断に敬意

GripBlogが長い間待ちかねていた松永英明氏のインタビューをついに掲載した。膨大な逡巡と迷いの末にたどり着いた勇気ある決断だと思う。内容についてははこれからゆっくり読ませていただきますが、単独ではないとは言え、泉さん、精神的に苦しいところ、よく踏み切ってくださったと思う。

まずはこのインタビューが世に出たことに対して、泉さんに率直に敬意と感謝を表明いたします。



【追記】
現在まだ私は内容については読んでいませんので、インタビュー内容についてのあらゆる先入観は一切ありません。その前提での感想となります。内容の感想はまた別に。

【追記2】
今一通り読み終わりました。これで安心して次へ行くことができる。自分が引っかかっている部分が何なのか、問題の核心が見えた気がする。そういう意味でもやはり「感謝」である。

« 業界パーティでもたまには面白い話に出会う | Main | GripBlogインタビューを読んで----松永英明氏に誤解を謝罪する »

Comments

黒崎@未だ無明の章

松永インタビュー、一度目を読みました。
これがジャーナリズムかと言えば、決してそうではない。
仲間内で、ジャーナリズムごっこをしているにも似て、問題意識も分析も極めて甘い。
が、個別的にはとても興味深い。そして同時に、とても空虚な後味が残ります。

今回のそれは、佐々木氏、R30氏、泉氏などが、先輩である松永氏のご高説を伺うというスタイルをとっています。
やや大雑把に言うと、皆同じところにいる。仲間である。同類でもある。
ただ得意技が少しづつ違っているに過ぎない。
インタビューというのは、反射的に自分を語ってゆく作業です。
そういった視点から眺めてゆくと、参加されている方々の思想・世界観、実生活での経験やこれからの生き方を暗示している部分もある。苛立ちも。揺らぎも。

またこれは、今ネットや実社会で起きていることの反射的な総体、その断片でもあります。端的に言えば、ネットとカルト。カルトと政治。
90年代終わりに「カルト資本主義」という本がありました。そこにITの要素が加味され、「ITによる未来社会論」「参加型ジャーナリズム」などという幻想がばら撒かれているのがここ一二年です。技術万能論は、ニューエイジ思想の系譜に繋がっていますが、例えばこれがジャーナリズムの世界に援用されますと、「カルト・ジャーナリズム」「カルト民主主義」に簡単に転化してゆく恐れが常にあります。
現実社会での格差が一般的なものとなり、擬似であっても平等でいられるのは今やネットの上でしかない。そこでは誰しもブログを持てるしジャーナリストになれる。投資家にもなれましたね。
ライブドア事件の後、今こうした問題が噴出していることをどう評価すべきなんでしょうか。
そんなことを考えています。


本インタビューは一方で、総力をあげての情報戦の一面もあることに注意した方がいいでしょう。今までネット上で議論になっていた具体的な疑惑についての返答は、何一つされていません。
一例をあげれば、泉氏とご親友ume氏のぶちあげた、報道機関設立の企画書などは、松永氏などの深い影響にあったのではないか。
泉氏に12月までいたというスポンサーは、個人か団体か、またなんの目的だったのか。
オウムとの関係を噂されたことを理由とするume氏の自己退職は事実だったのか。
その原因は黒崎(私ですね)のコメントにあったとされていますが、その箇所の具体的な指摘はされず、裁判の問題であるからと未だ泉氏のブログには掲載されたままです。
時事通信湯川氏の件については、いわずもがな。
何も終わっていないし、明らかにはなっていません。
話は何時も具体的な事実に基づいてすべきでしょう。出来の悪い物語はもう結構かな。
私個人としては、松永氏の精神世界にも興味はありません。


彼らは松永氏の宗教観を拝聴しながら、手垢のついた理論で論点を拡散させてゆこうと
します。曰く信教の自由(佐々木氏)、我が内なるオウム(R30氏)などです。
泉氏を評価する声もあるようですが、私はそれには同意していません。再びプロバガンダの舞台として使われた可能性は大いにある。
いずれにしても、社会性が圧倒的に欠如したインタビューであったことは否めないでしょう。
これがブログ言論の実態だという。そんなことはないので。


#R30氏、ブログのコメント規制、もしかけておられるなら解いて欲しいですぜ。

>黒崎様

そうなんですよね。
でも理解してくれないブロガーが多すぎますね
そんなレベルだと思っていましたが>ブロガー
落ちこぼれの集団としか思えませんw

掃き溜めに鶴のようなお方もいるようで
期待してます

インタビューにもいろいろありますが、あれは座談に近いですね。こうした手法自体が「ジャーナリズム」とは相容れないのではないかと考えますが、非常に泉さん的な手法だったという感想を持ちました。これで泉さんを評価すると言っている方々(BBさんを含めて)の気が知れません。
ただし「意外」ではありませんでした。泉さん、松永さん、R30さんと3人のアルファブロガーがあの座談では語っておられますが、「非常にあの方々らしい」論理の立てよう、ならびに広告戦略であるなという感想を持ちました。
なお、私は社交辞令的にはともかく、上記三者のお書きになるものに感銘を受けたことは一度もありません。

黒崎@社会との距離

standpoint1989さん
広告戦略、まあ、その通りでしょうね。
ですが、全体的に見るとこのマーケティング戦略は失敗でしょう。
理由は別のコメントにも書きましたが、題材と社会との測定を誤ったことにつきます。
価値相対主義というのは、ことオウム真理教の問題についてはわが国では許されない部分があります。それだけ根が深い、深刻なことであったからですが、彼らにはその認識はない。
彼ら、本件で相当なものを喪っていると思えます。
湯川氏を援護する、あるいは泉氏がジャーナリストとしての気概をみせたという筋書きには決してなってゆかない。
ここで日時に注目。インタビューが4月14日でした。
4月14日の湯川氏の裏ブログをみますと、これで総括は終わったものだという空気に一度はなっています。そこから24日まで、事態がどう変化したのかが読めていなかったのかも知れません。
題材と社会との測定の仕方を誤って、信用を失墜させているのは湯川氏だけではないようです。

黒崎さん、アルファブロガー問題というか、インターネットを通した世論形成、更にそれが実際の政治にperson to personでコンタクトをとる問題については、私はおそらくあなたと非常に立ち位置が近いと考えています。
ガ島さんの時からそう考えていました。
好みはひとそれぞれですが、こちらの管理人氏もかつては泉さんを評価しておられましたし、ともかくもインタビューをとったことを評価するとおっしゃっておられる。
松永さんの問題を通して浮び上がったものは、決してにわかにそれに伴って生じたものではないですよね。ずっとそれ以前からあったわけです。
BigBangさんは人の好さからか、それに絡めとられる傾向があって、おそらくその辺りをあなたが白樺派と比喩したゆえんでしょうが、結果はどうあれともかくは広告宣伝になる要素を多分に含みながら、インタビューをなしたことそれ自体を評価するのであれば、「ネットジャーナリストの幻影」を作り上げるのに手を貸すことになるのではないかと思いました。

価値の相対性はイデオロギーではなく、事実としてあります。しかし、内的価値の絶対性はそれぞれにあるのですから、アーレフの信者にも、その批判者にもあります。
アーレフ的なものを是とするのが価値の相対性で認められるならば、それを非とするのも認められるのです。
どちらか一方が寛容であり、他方が不寛容ということはありません。
問題となるのは法ですが、信教の自由の侵害は本来的には法とその対象の間で生じるものであり、特定の宗教を批判することは信教の自由の侵害ではありません。
言論と、国家の法を混同した佐々木氏の言説は極めて稚拙なものですが、果たしてそれが個人的な無能さから生じているものなのかどうか、それについてはなお考察が必要だろうと考えています。
私がひとつ感じるのは、このインタビューにはオウム真理教によって現実に殺害されたかたがたにもそれぞれの相対的な価値観があったという事実の認識がすっぽり抜け落ちているのではないかということです。
外形的な事実を言えば、殺人を犯したのはオウム真理教の代表、ならびに幹部であり、その批判者ではありません。

前述したとおり、私はR30氏、泉氏、松永氏の人格を表にあらわれたものを見る限りまったく信用していませんし、言論も評価していません。
要不要という意味において、それを求める人たちにはもちろん価値があるのだろう程度の評価です。
決して熱心な読者ではないので、たまたま目に付いた時に読むこともある程度の関わりであったのですが、湯川さんがどうなのかまでは、判断する材料を持っていません。
湯川さんの現在の沈黙を非常に遺憾に思っていることは言っておきます。

このインタビューの広告効果を、黒崎さんはかなり楽観的に見積もられていますが、当初のカウンターはもちろん想定の範囲内だろうと思います。
事実をどう評価するか、その評価の仕方に操作の作用が生じるのであり、世界観は事実ではなくそれをどう見るかというイデオロギーによって左右されます。
その、ひとつの物差しを提示したという意味において、じわりときいてくるのではないかと懸念しています。

黒崎@夜話

>このインタビューの広告効果を、黒崎さんはかなり楽観的に見積もられていますが、当初のカウンターはもちろん想定の範囲内だろうと思います。
事実をどう評価するか、その評価の仕方に操作の作用が生じるのであり、世界観は事実ではなくそれをどう見るかというイデオロギーによって左右されます。
その、ひとつの物差しを提示したという意味において、じわりときいてくるのではないかと懸念しています。

standpoint1989さんの分析、鋭いですね。特に前半、中頃はまさにその通りだと思います。
引用させてもらった部分について言えば、実は私も、うかうかはできないだろうという印象を持っています。これくらいの広告戦略にひっかかる方々というのは確かにいる。圧倒的多数かもしれない。
けれども、全体として眺めた場合、例えば泉氏、R30氏、松永氏。加えて湯川氏などが醸し出していたある種の幻想というのは、一方で確実にその効力を減じてきていることも確かだろうという気もするのです。
少なくとも半年前の高揚というものはない。
例えば少し前の日経の一面に「短命のカリスマ」だったかで、切込隊長のことがとりあげられていました。彼もまた、一年前の勢いは乏しい。

マーケティングや、セルフ・ブランディングの観点から、これを分析してゆくことはできるでしょう。例えば鈴木氏が書いていたように「ネタ」としてあらゆるものを消費してゆくという仮説。そのカラクリの中に自らを置く。自らの行為を「ネタ」であると高をくくってみせる。
例えばR30氏の今回のやり方は、その文法にのっとったものでした。
それに喝采をあげる層というのは、確かにいます。
泉氏が、かつて党首インタビューに成功したことを高く評価することと実は同じ構造なのですが、実を言うとこの手法には結構厄介な特徴があります。
それは常に踊り続けなければならないということです。

今回の松永インタビューで面白いと思ったのは、松永氏は作家になりたかったとのこと。
ゴーストやその他、いくつか作品を書かれているようですが、まあ読みたいとは思えないかな。ハルマゲドン的世界観は、勘弁してくれという。
ゲッベルスは「なりそこねの文士」であったという歴史的な事実を思い出しますが、私はR30氏もまた、創作の方向に進むべきかを迷った一時期があると推察しています。
それでは経済的に厳しいので、それと正反対の方向に進んだと。
けれども、あの読みにくい長文の後ろには、一時は創作を目指したことのある屈折や高揚、自尊心の高まりなどが、かなり強い不安とともに隠されているように思えます。
彼らは、ネットにおける自分の存在そのものを、ある種の物語にしているのでしょう。
これは、程度の差や方向性はともかくとして、泉氏などにも通じることだと感じています。
ちょっと話が脇道に逸れました。
まて、次号。

次号を待たずにこれを書いてしまうのですが。
井筒俊彦先生の著作でスーフィズムについての解説が書かれているのですが、それについて少々。イスラームの神は言うまでもなく唯一神であり、絶対ですが、スーフィズムでは絶対とは対比不能である状態と考えるそうです。
絶対とはそれ自体ですべてですから、絶対の外部はないわけですね。ですから神と世界は不分離である、なぜならば、分離すればそれはもう絶対ではないから。つまり、世界の部分である私たちひとりひとりの人間も、世界の要素ですから、私たちはそのままで神と一体であり、神である、という汎神論的な世界が出現するそうなのです。
このこと自体の評価はともかく、論理はそれを徹底すれば、当初の想定からはるかにかけ離れたウルトラに転じてしまう、論理の基盤となる倫理的想定を救出するためには、徹底された論理を投げ打ち、何を選びとるのかという行動倫理に立ち返る必要があることがこの例から伺えるように思っています。
僕が、今回のインタビューについて何を危惧しているかというと根本的にはウルトラの危険性だろうと思います。
僕もブロガーとしては長文派ですし、文士くずれであり、宗教についても人並み以上の関心を寄せてきました。社会的な属性としてはともかく、心理的にはアウトサイダー性をいつも抱えてきましたし、新自由主義に惹かれる虚無的な部分もあります。
そしてその裏返しとして、逆向きの選民思想といいますか、被疎外者ゆえのプライドのようなものもあります。松永氏というか、その擁護者の心理がどのようなものであるのか、分かるというか共感できる部分もあります。
本来、私はああした人たちと親和性が強いのだと思っていますが、私はああいう心理を抜けてきたのです。
おりにふれ接する人々の情けというかかたじけなさ、喜び、失う悲しみ、僕はともかくもそうしたものに立ち返らなければならない、と思うにいたったのです。
これは論理ではなく、倫理ですから説明不能ですが、論理はそれが必要な人たちが作り上げていきます。そういう形で武装せざるを得ない内的な衝動が彼らにあるからですが、それがどのようなものであっても、ひたすらそれを徹底させてゆくことは、ウルトラへと到るのです。
オウム真理教の一連の事件が発覚する以前、私は彼らに好意こそ抱いてはいませんでしたが、多くの知識人がそうであったように、私は知識人ではありませんが、しかし結局、社会的寛容の問題として「のみ」読み解いていたのでした。
私のそのような態度は、現実に被害にあい塗炭の苦しみを味わっていた人たちの苦しみを軽減することにつながらなかったばかりか、むしろ真相究明のための努力を阻害するものでした。
ひとつの論理のみに自ら拘束され、苦しみの声が耳に入らない、きこえない、そうした状態になっていたと気づきました。論理の危険性に気づいたのはまさしく地下鉄サリン事件を契機としてのことです。
その後、この国では拉致問題においても同様のトレースが行われているようです。
拉致被害者の家族が論理から生じた過分な責めを負わされる状況も生じているようです。

少々気になる点がありましたので、横から失礼いたします。

standpoint1989氏
>論理はそれを徹底すれば、当初の想定からはるかにかけ離れたウルトラに転じてしまう、論理の基盤となる倫理的想定を救出するためには、徹底された論理を投げ打ち、何を選びとるのかという行動倫理に立ち返る必要があることがこの例から伺えるように思っています。

これでは、「倫理カルト教徒」になってしまう危険性があるように思います。

そもそも、一神教徒が「対象としての、(相対的な)神」から
出発して、自己と神が不可分である、という結論に達する事は、
私から見れば別に問題があるとは思えませんので、
この様な例を引いて「論理を放棄する」方向に行くのは
いかがなものか?と感じました。


おそらく、明確な「行動基準」、つまりは、自分が正しい事を
している、あるいは、「間違ったことをしていない」
という「絶対的」確信を持って生きたいが故に
この文章が出てきたように思われるのです。


ところが、「絶対的」結論を得ようとして論理を突き詰めるのならば、
論理がその系に束縛されており、絶対的にはならないという事実があります。
ウルトラになる前に、論理の「絶対的な限界」があるわけです。

しかし、それでは私たちが「間違い」を恐れ、
絶対的な正当性を求める欲求は満たされません。
我々は、「絶対性」を求めるような「思考本能」を持った動物なのでしょう。


そこで、「絶対的論理」なるものを夢見て考えてしまうと、
スーフィーさんたちの様に絶対性は不可分性に他ならない
という結論になるのかと思います。

それを本当に理解して納得できれば、
不可分性とは、あらゆる二項分裂の否定であるので、
善悪の二項観念、特に悪への恐怖にかられる事の不毛さを知るでしょう。

また、常に神(と言うか非人格的な絶対性)と自分も全てもが
不可分であるという「絶対的確信」により、
「絶対性を求める本能」も満たされ、
ウルトラビッグバンハッピーになってくるくる回って踊り出す、、、と、なるなら、それでよさそうなものです。

しかし、どうやら我々は、頭の中ではこの不可分性を
なんとか理解できたとしても、下半身はもとよりお腹も気持ちも
喉元につかえたわだかまりも、簡単には解消しないようなのです。

そこで、論理が駄目なら、ということで、感情や倫理や、
他のあらゆる「基準になりそうなもの」を物色してしまう。

ところが、既に頭では二項分裂のある意味での「幻想性」を
既に知っていますから、感情も倫理も、実はかなり
行き辺りばったりな「低級二項論理」で出来ているのを見ると、
そんなもんに頼ったりしたくはないわけです。
(感情や倫理に二項分裂を見出さない場合は、そこで
長年うだうだとお茶を濁す事になるかもしれませんが。)


ここで、「今回の松永オウム騒動で学んだこと」が、
重要になってくるのではないか?と、私は思います。

もちろん、この件は政治的な側面、テロ(の可能性)としての側面、
金に絡んだ経済的側面など、多くの面があります。


その中で、愚かな行為を重ねた人達が拡大表示してくれた、
「人間の愚かさの原因」というものに注目してみるのです。


彼らに共通して見られる特質は、
「極度の恐れ」と「それを直視せずに逃げる傾向」でしょう。

そして、その様な回避の習慣が常態化して、
「恐れ」を発生させるかもしれないような事柄に対して
極端に鈍感、無自覚になり、特に自分や自分の同類や
仲間に対する批判精神を失っている。

結果的に、友好的な人の忠告も、しばしばそれが痛みを
伴うが故に
受け入れることが出来ず、また、恐れや痛みに過敏になり、
時として、逆切れなどの攻撃的な過剰反応を起こす。


また、劣等感を持てば、その回避行動として優越感を得ようとし、
自分(たち)が優秀である、(神)に選ばれている、などの
幻想に逃避し、そして、他の人達もがその妄想を信じて
自分たちの逃避行為を援助するようなことまでする。

自分の愚かさを認めるという意味での「謙虚さ」が伴う
一種の痛みを恐れ、「傲慢」な態度に終始する。

自分の間違いや愚かさの自覚とその痛みに繋がる指摘や批判には、
「趣味の話です」、「テキトーに書いてたので」など、
フェイントをかけて相手の追求の手を弱めようとしたり、
日本の戦争責任、天皇制、その他なんでも、
直接関係ないが、論争をまき起こす様な話題で話をそらし、
まるで機械の様に「教義」「お題目」を繰り返したり、
呆れられるような馬鹿なことをして相手の「やる気」をそいだり、
恫喝などの攻撃性で威嚇しようとしたり、
動物やペテン師や政治家がやる「逃げ」の手口を総動員してくる。

まるで「逃避行動の見本市」みたいな人達です。

我々は幸いにも彼らと違って自分の行ないを見ることが出来ます。

そして、良く見れば、我々も、このような逃避行為を行ない、
その結果、彼らに比べれば遥かに症状は軽くても、
「無自覚」になり、「盲点」となっている事柄が
幾つも幾つもあるのがわかる人にはわかるでしょう。


オウムの様な「あーいえばじょーいう」的な欺瞞を
自分で自分に行なっているとしたら、愚かで、
失うことも多いでしょうから、出来たらそういうのは
無くしたい、と、感じるのであれば、
感情でも倫理でもなく、「盲点」の発見とその解消や、
「盲点形成の構造」の解析とその破壊、などを
当面の「行動基準」にすれば良いのではないか?
などと、思うのです。


論理に限界があるからといって、
感情や倫理で満足できるものではないでしょう。

論理にも、恐れや喜びの感情にも、苦痛や快感など体にも、
それぞれの現象に「正直」で居るのが、苦しいことはあっても、
苦しみを恐れるあまり、そこに視点が貼りついて
視野狭窄が起こり、その結果苦しみが実際より大きく感じて
余計に苦しんだり恐れたりする、という悪循環にならないので
実は一番楽な様に思いますよ。

「自分の苦しみだけ」にいつも注意が行って
過敏になってる人間たちは、幸せそうには見えないですしね。
ユダヤ系でもアメリカ右翼でも松永系でも反日系でも。


ただし、痛みに対する許容性には性差や個人差があるでしょうし、
全く目をそらさず、逃げずに全てを直視し続けることが
できるのかどうか?は、私にはわかりません。

手軽に、気付いたものから、目をそらしたい衝動に負けずにいると、
確かに、その周辺の盲点がなくなって、
「目からウロコ」というのを実感しますが、
どうも、ウロコが沢山あるみたいで厄介ですね。

>> 臆病な匿名捨てハン

難しい単語を並べるのは得意な事は
よく判ったが
内容は全然理解出来なかった。

個人差があると言った後で、
自分の行動も判らんと言う

じゃあ書くなよw
現実社会は言った通りやらなきゃクビだ

Post a comment

(Not displayed with comment.)

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/28156/9746233

Listed below are links to weblogs that reference 松永英明インタビュー(GripBlog)の勇断に敬意:

» 児戯に等しい [黒崎夜話]
standpoint1989さん、ありがとうございます。 「私はああいう心理を抜けてきたのです」ってのは決めの台詞ですね。 問題は、どうやって潜り抜けてきたのか。 [Read More]

« 業界パーティでもたまには面白い話に出会う | Main | GripBlogインタビューを読んで----松永英明氏に誤解を謝罪する »