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April 29, 2006

生き急ぐことととか、メリーゴーランドとか------堀江貴文氏の保釈

伸びた髪に、少し細くなった顔つき、深々と頭を下げて、喧騒の中でかき消されるのも構わず、報道陣に向かって挨拶を述べる姿は、かつての面影を取り戻したようであった。拘置所の中に入るということは、世間的に言えば当然絶望の淵に立たされたと考えるのが普通なのだけれど、一方で規則正しい生活と、栄養に無駄のない食事、世間の雑音からも隔絶されることで、この世で最も「クリーンな」空間に置かれるということでもある。この場合の「クリーンな」という言葉はもちろん世俗的には逆説的ではあるが。

 一方、保釈前日ごろには拘置所生活を振り返り、「僕は生き急いだのかもしれませんね……。ゆっくり人生を考える時間が持てました」と話し、「ライブドアの経営にかかわるつもりはない」と言明していた。(2006年4月29日9時53分  読売新聞)

かなりの資産をまだ有しており、暴落したとは言え、ライブドアの筆頭株主。保釈金3億円をさっと払ったことから見てもその余裕は知れるが、一方で公判での追求は言うに及ばず、巨額の株主代表訴訟が彼を待つ。

 14日に上場廃止となるライブドア、ライブドアマーケティングの株を巡り、個人株主が両社などに損害賠償を求める集団訴訟について、「ライブドア株主被害弁護団」(米川長平団長)は13日、東京都内で会見し、原告数が1000人を超える見通しを明らかにした
 1人当たりの損害額は平均約400万円で、請求総額は40億円以上になるとみられる。5月末にも東京地裁に提訴する。大規模な同種訴訟としては、2004年に上場廃止した西武鉄道株を巡り提訴したケースがあるが、この訴訟では、株主が計285人と2法人で、請求額は計約4億8000万円だった。今回のように個人株主の1000人規模は極めて異例だ。
 弁護団によると、これまでに2社の株主、元株主約1700人から、提訴の意思表示があった。このうち事件の影響で損害を受け、原告の資格があると判断した約1200人に、委任状提出を求めている。(2006年4月14日  読売新聞)

弁護団は、微罪を認めて相対的勝利を勝ち取るというよりも、宮内被告の単独責任として、全面的無罪を主張する戦略だという。海外の堀江「隠し口座」についても、検察は決定的な不正の証拠を押さえられなかったという説もあり、裁判の行方は予断を許さない。

万一、代表取締役でありライブドアの実質的な筆頭株主である堀江が無罪となった場合、いくら宮内他、取締役の不法行為が認められたとしても、強制捜査に踏み切り、実質上ライブドアを奈落に落とす結果となった検察への批判が高まるのは必然。そうした意味では、検察としては絶対有罪を勝ち取りたいところであろう。
「拝金主義にストップを」かける必要があった。などと発言している検察関係者もいるようだが、検察はそんな「思想哲学」は語らなくて宜しい。それはほかの人の仕事である。
粛々と「法の前の正義」を愚直に主張して納得させてもらいたい。

それにしても、まだ判断するのは早いとはいえ、すっかり様相が変わって現れた堀江氏を見ていると、思いが浮かぶ。つらつら書くと、人生は最後までわからないということ、どんなところからでもやり直しは効くといくこと、人から見れば最大の敗北と見えるその刹那からも、人はチャンスを掴むことがあるのではないかということ。彼が精悍さを取り戻しつつあるとすれば、まだ人は彼の言葉を聞くであろうということ。

もしも堀江氏が変わることがあったとすれば。

もしも堀江氏が、あの若さだけが武器であった時代を、今回のことを契機に、本当に思い出したとすれば。

この人物に見切りをつけてしまうのは、まだまだ早いかもしれず、今度こそ「恐ろしい」経営者となって復活してくるかもしれない。

しかし一方で、人生の時間にしても社会にしても、世界の時計は、ただ同じことを果てしなく、ぐるぐる、ぐるぐる懲りもせずに、メリーゴーランドのように繰り返し続けるだけなのかもしれないのである。その空虚はいつも我らの足下にぽっかりと口を開けている。

例え、あなたや私が生き急ごうとしようが、しなかろうが、それにすら世界にとっては何の意味もないのかもしれないである。

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Comments

 堀江氏が拘置所内で最も心を動かされた本は、『史記』と山崎豊子の『大地の子』だったそうです。

 両著とも、かつての堀江氏のイメージとは重ならないように自分は思います。堀江氏に今まで欠如していた、あるいは未発達であった種類のインテリジェンスといいますか。

 そういったものに心を動かされるということが、彼の中での何らかの変化を意味しているのかどうか。これは彼の今後を占う一つの指標になるんじゃないかなと思っています。

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