SNS

My Photo

BooksBooks

無料ブログはココログ

« 議会制民主主義こそ二者択一ではなかったのか----徳保隆夫論の矛盾 | Main | 「六本木ヒルズ×篠山紀信」と九龍城----イメージの不思議と支離滅裂 »

May 02, 2006

交通博物館と鰻とスピッツと1%に関する話

今日はこれである。

秋葉原のランドマーク万世橋のたもとにある「交通博物館」が、2006年5月14日(日曜)をもって閉館する。子供の遠足だけでなく大人の“おさぼりスポット”として、多くの人に愛されてきたが、館内施設の老朽化やバリアフリー対策の不備などを理由に1921年(大正 10年)から続く歴史に幕を引く。(デジタルARENA アキハバラ最前線 さようなら! 交通博物館…「旧万世橋駅遺構特別公開」フォトレポート【大人の秋葉原 第1回】)

収蔵・展示品目の増加によって手狭になり、また建物の老朽化が進んでいることもあって、JR東日本は、神田にある交通博物館を2006年5月14日限りで閉館し、「交通博物館」と改称して2007年10月14日にさいたま市大宮区大成町、北区大成町に移転・再オープンする計画を2004年2月16日に発表した。 新・交通博物館の建設と運営は財団法人東日本鉄道文化財団に委託。その為本稿では継承館として同館についても著述する。(Wikipediaより)

交通博物館は、60年代の子供にとっては憧れの場所だった。ただの「鉄道」が、あのころの子供にとって、なぜあんなにもキラキラ輝いていたのか、今となってはどうしても謎である。線路も、車輪も、駅も駅弁も、今とは明らかに違う光を放っていたのである。

隣の夫婦には子供がいなかった。

その代わりに、スピッツを飼っていた。あのころの日本の家庭では、犬といえばスピッツだったのである。トイプードルでもチワワでもなかった。僕の生まれた同じ年に、そのスピッツは生まれて、一緒に大きくなった。というか、犬なので大きくなったというよりも急速に年老いていったのである。隣夫婦の旦那さんのほうは、確か聚楽に勤めていた。板前である。聚楽は、「国鉄」の出入り食堂業者であり、その関係からか、隣の旦那は、国鉄の大ファンだった。で、数ヶ月に一度は、隣に住む小学生の男の子を誘って、神田にある交通博物館を訪ねることになったのである。

交通博物館に、それほど明確な思い出はない。微かに覚えているのは、大きな、大きな鉄輪と、赤レンガ、そして蒸気機関車である。夫婦は、一日神田で過ごすと、(確か)聚楽亭で食事をご馳走してくれた。

一途な板前さんだった。しばらくしてから、郊外に鰻屋を開いた。子供心にも腕は良かったと思っているのだが、何分にも繊細過ぎた。鰻重のために作ったタレを無視して、客が醤油を頼むと、それだけで店に出られなくなった。途方にくれていた奥さんを思い出す。それでも鰻が好きな僕は、その郊外の店まで何度か遊びにいっては、鰻をご馳走になった。目を細めてその小学生を眺めていた顔が忘れられない。

しかし、2年も続いたろうか。その夫婦の店は駄目になった。子供だったからわからないけれど、おそらく気難しかったせいだと思う。その店のために作った大量のマッチだけが残った。悪いことにそれから間もなく、スピッツが死んだ。寿命である。確か15年生きた。

夫婦の運命は次第に暗転した。旦那さんは、昼間から酒におぼれるようになった。元々酒が好きだったが、それに拍車がかかった。犬が死んで寂しかったのだろう。悪いことに(おそらく)隣に住む小学生も成長した。交通博物館に誘っても、理由をつけては断るようになった。旦那さんの酒量は増え、次第に幻覚に悩まされるようになった。妻の浮気の幻影を見るようになった。留守の間に、妻が外出すると、血眼になって探した。「黒人と一緒にあいつが逃げた」などと、訳のわからぬ事を言っては、うちの玄関に立つようになった。エスカレートして、そのうち夜中にドアを狂ったように叩いた。困った僕と祖母は、近くの交番に相談に行ったが、何も事件を起こさないとどうすることもできないといわれた。錯乱が激しくなると救急車を呼んだ。でも酒が醒めると帰ってくる。酒さえ醒めてしまえば、気の小さい繊細な男であった。

そのうち奥さんはたまりかねて、帰ってこなくなった。旦那の錯乱は激しくなり、一人酒に溺れた。何日か姿を見ないことが続き、祖母は心配して住宅の管理人から鍵を借りて隣に様子を見に行った。旦那さんは一人で台所に座ったまま、死んでいた。

明治生まれの底力を知ったのはその時である。祖母は顔色も変えずに帰ってくると、まるで天気の話をするような調子で、彼の死を告げた。で、あろうことか布団に寝かせたいので手伝えという。冗談じゃない。僕は家の中で震えていた。「しょうがないねえ。弱虫」と言うと、祖母は取って返し、1時間ほどかかって、隣の「後始末」をして、警察を呼んだ。

世間的には「変死」である。なぜ動かしたのかと、祖母は警官に散々小言を言われたが、涼しい顔をしていた。はなから役者が違う。「死体なんか戦争で散々見ている」!!!!!警官は引き下がった。

交通博物館の閉館。僕が思い出したのは、鰻とスピッツだ。変な連想だが、鉄の車輪の匂いと一緒に鰻とスピッツを思い出す人間は、世界広しと言えども僕だけだろう。

で、それはそれだけの話である。それだけの話であるが、こうして書き起こすことで、ひとつの謎が解けたような気がする。人生における孤独に関する、全体のほんの1%ほどの謎ではあるが。


 

« 議会制民主主義こそ二者択一ではなかったのか----徳保隆夫論の矛盾 | Main | 「六本木ヒルズ×篠山紀信」と九龍城----イメージの不思議と支離滅裂 »

Comments

>鰻重のために作ったタレを無視して、客が醤油を頼むと

↑ここの意味が分からないのですが?

「タレでなく生醤油で蒲焼きを焼け」or「鰻重にかけるから醤油を出せ」と要求する客がいるということ?

どうも。

当時の状況に正確に書くと、

>(タレが甘すぎるので)「鰻重にかけるから醤油を出せ」と要求する客がいるということ

だったと思います。

分かりました。ありがとうございます。

Post a comment

(Not displayed with comment.)

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/28156/9870619

Listed below are links to weblogs that reference 交通博物館と鰻とスピッツと1%に関する話:

« 議会制民主主義こそ二者択一ではなかったのか----徳保隆夫論の矛盾 | Main | 「六本木ヒルズ×篠山紀信」と九龍城----イメージの不思議と支離滅裂 »