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May 30, 2006
ジャワ島大地震募金関連(備忘)
ジャワ島中部地震の被災者を支援するため、国内でも緊急募金の動きが広まっている。連絡先などは次の通り。
◇財団法人「日本インドネシア協会」(03・3661・2956) 郵便振替で口座名義は同協会、口座番号は00130・9・196710。
◇日本赤十字社(03・3437・7081) 郵便振替で口座名義は「日本赤十字社」、口座番号は00110・2・5606。通信欄に「ジャワ地震」と明記。
◇日本ユニセフ協会(0120・881052) 郵便振替で口座名義は同協会、口座番号は00110・5・79500。振替用紙の通信欄に「ジャワ島」と明記。
◇国際医療NGO「AMDA」(086・284・7730) 郵便振替で口座名義は「AMDA」、口座番号は01250・2・40709。通信欄に「ジャワ島中部地震」と明記。
2006 05 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
May 29, 2006
「ローマの休日」の著作権問題-----つまり江川問題みたいなことらしい
最近、店先のワゴンのようなところで、わーっと山積みにして、著作権切れの「名画」DVDを500円とかで売っているところをよく見かけるようになった。
「よくやるよ。誰が買うんだ。どーせ飲んだ帰りの酔っ払いのオヤジが買うんだよ。こういうの。もう何年も映画なんてみてないなーなどと言いながら。やだね。これでも昔は映画青年だったんだなんて、おねーちゃんに見栄はって、あーいやだいやだ。年はとりたくない」
って何だかんだ思いつつ、「誰がために鐘はなる」と「ガス塔」と「カサブランカ」を夜の銀座でこないだ衝動買いしたのは誰ですか。
私です。
だって500円だよ。「カサブランカ」が。何度も見られてあのカサブランカが500円ぽっきり!!
これはどーゆーことか。文化的愚弄ではないか。著作権切れなのは知りつつ、しかも自分はちゃっかり500円で買いつつ、そんなこと思っていたら数日前のこの記事。
名画「ローマの休日」の著作権所有を主張する「パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション」が、同作の激安ソフトを販売する会社に販売差し止めを求め る仮処分を東京地裁に申請していたことが二十四日、分かった。同作などが公開された昭和二十八(一九五三)年は、著作権の保護期間内にあるのか、期間が終 了しているかが明確でない“空白の一年”で、映画の当たり年でもある。関係者の間では「五三年問題」と呼ばれ、司法判断に注目が集まっている。
昭和二十八年に公開されたいわゆる二十八年映画には「ローマの休日」のほか、西部劇「シェーン」やSF「宇宙戦争」、小津安二郎監督の「東京物語」などの名画が多く、平成十五年十二月三十一日で公開後五十年を経過している。
十六年一月一日、映画の著作権保護期間を公開後五十年から七十年に延長した改正著作権法が施行されたことで、保護期間の解釈に相違が出た。
同法を所管する文化庁は、二十八年映画について「保護期間の終了した十二月三十一日二十四時と、改正法施行の一月一日零時は同時」とし、「改正法の施行時は著作権の保護期間内にあり、改正法が適用される」との見解を示している。
パラマウント社側は「文化庁の見解は、昭和四十五年に同法が改正されたときの考え方を踏襲している。従来の考え方ならば著作権は継続している」と説明する。つまり、「ローマの休日」の著作権保護期間は、七十年ということになる。
これに対し、一部の業者は「二十八年映画の保護期間は十二月三十一日で終了し、その後に改正法が施行された」と主張している。保護期間が終了した映画は 「パブリックドメイン」(公共物)となり、自由に使うことができるとして、著作権料を払わずに激安ソフトの販売を始めている。
パラマウント社側によると、「ローマの休日」だけで、五百-千円のDVDが七、八種類も出回っている。同社は警察に相談したが、「海賊版かどうかは司法判断がないと分からない」と回答され、申請に踏み切ったという。(産経新聞) - 5月25日
ふーん。つまり1953年(昭和28年)は「江川の空白の一日」なんだな。(??ひどい理解)
確か、僕が買った本屋の店頭にも「ローマの休日」はあったように思う。「東京物語」も。なんだ、これならもっと買っておけばよかったななどと、非常に月並みな感想。
しかしパブリックドメインになった映画は、こっちで自由に複製して売っても良い訳だよね?何だかオードリーやバーグマンがどこの四畳半とも暴力団の事務所ともわからん暗がりで、安物のDVDコピー機で次々と複製されている(妄想)のを想像すると、これまた胸が痛むのであった。
って思い切り世代の感傷が混じってしまった。
警察の「海賊版かどうかは司法判断がないと分からない」という回答も、まあもっともな答で、しょうがないんだろうはが、映画ファンの警察官が受け付けたとすれば激昂したのではないか。
2006 05 29 [映画・テレビ] | 固定リンク | コメント(6) | トラックバック
May 26, 2006
人を殺さないITと2007年問題----海辺のプラントで考えた
今日は、海沿いのエネルギー関連大手企業の人材教育担当者を訪ねて、社員教育システムについて話を聞いてきた。
急速な景気回復を受けて、国内の大手製造業では雇用不足が顕在化している。この企業でも長く新規採用を控えてきたこともあり、現場作業者の年齢分布が高年齢化して50代になっている。40代後半より若い世代は極端に少なくなってきている。それに対して景気回復により、新規雇用は急速に拡大しているために、新たに現場配属になるのは前年度比5倍の人数。一方で退職者は、今後15年間で団塊の世代を中心に、現在の作業者の85%が退職する。
勢い、問題になってくるのが「技術の伝承」である。何十年にもわたって蓄積してきた大型プラントの操業技術などは、人から人に伝えられてきた「技」。なのだが、ここのところの長い不況とその後の極端なV字回復により、技術の継承に支障が出るような、世代の「ホール現象」が発生している。若年層の教育指導ができるような、熟練した工員の極端な不足が見込まれており、現場技術が低下する可能性がある。事故や操業停止などのトラブルがあれば、即賠償問題にも波及する。かつてない規模の人員の空洞化のしわ寄せがこのような形で懸念されているのである。全産業にわたって2007年を中心に多くの退職者が発生することから「2007年問題」とも呼ばれている。
少し調べてみた。
団塊の世代、中でもこの世代でもっとも多い1947年生まれの労働者たちが、2007年に60歳を迎え、定年退職することにより、企業活動に大きなダメージを与えるという問題をさします。この問題は、2005年度版の『ものづくり白書』でも取り上げられ、全産業の約22%、特に製造業では約31%の企業が危機感を感じているとの意識をもっているとされています。
2007年問題として、つぎの三つが指摘されています。
(1)労働力不足の問題
約300万人といわれるこの世代の労働者が一定期間の中で大量にリタイアしていくことで、深刻な労働力不足に陥ることが予想されています。日本企業は現在、労働力の不足を免れるために、積極的に新規採用を行っています。一時期よりも採用市場が好転したのは、このことも要因のひとつであると考えられます。
(2)ノウハウ、技術継承の問題
ベテラン労働者の大量リタイアは、今日まで培われてきた高度な技術やノウハウの継承を途絶えさせる危険があります。欧米企業と比較して、組織内で属人的な働き方をする労働者が多い日本企業では、ノウハウを持つベテラン労働者がリタイアすると、その労働者と共にノウハウや技術が企業から失われてしまいます。また、経験から得られたいわゆる「暗黙知」についても同様です。これらをいかに企業の資産として残すかという課題に企業は取り組んでいますが、そのためには多くのコストを要し、困難を極めているというのが現状です。
(3)企業体力低下の問題
大量に退職者が出ることに伴い、企業が支払う退職金も増加します。このことで、企業は自身の体力が奪われ、設備投資など積極的な戦略がとりづらくなってしまいます。
この問題は、少子化やニートといった労働市場における問題とも連動し、日本企業に多大な影響を与えることが予想され、各企業の国際競争力の低下が危惧されています。
(マーケティング用語集・2007年問題より)
ふーむ。
今回お会いした人材教育担当者は、この退職していく熟練工の代役として、彼ら自身の経験や知識をパッケージした教育システムを計画しており、その点に関して打ち合わせを重ねているのである。経験のない新人の現場作業者に、現場の危険や危機管理をシミュレーションしようということも考えている。
かつて、景気の下降局面において、僕たちは自嘲を込めてITを「人殺し産業」と呼んでいた。企業にシステム導入を売り込む一番のセールストークは、「これでXXX人の人員が削減できます」というものだった。つまり「何人殺せます」みたいなものだ。世に言うリストラであるが、人件費の節減は採用担当者にとってはもっとも目に見えやすい導入メリットであったからだ。導入を勧誘していてもどことなく後ろめたい思いがあった。これでまた何人の仕事がなくなるか、明確にわかるからだ。
ところが時代が変わり、かつての省力化と極端な人員削減を、今度はまたITシステムが埋めようとしている。しかも今度は人減らしの道具ではなく、極端までの人材節減・効率化と大量退職によって生じた、技術継承の「穴」を埋めるために導入されるという。
ITが主導して減らした人間の「つけ」を、今度はITが別側面から補う。何とも皮肉な話であるが、これもITのひとつの側面である。
2006 05 26 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
May 25, 2006
GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(8)----結局BBは何が言いたいのか
この問題、書きすぎて疲れているわけではないが、そして他人のコメントを引用してモノを言うのは、ちゃっかりしていることこの上ないが、あまりに私の言いたいことを代弁(まとめて)してくださっているので、引用させていただく。はてなの方に寄せられたコメントである。
こちらの耳に痛いこともちゃんと言っていただいている。
「名無しの某」さん。
BigBang はオウム批判や泉批判をしているのではなく、松永氏がオウム信者だということが判明している以上、泉氏が「一問一答をすべてウェブで公開したい」という オープンジャーナリズムを標榜するのであれば、彼女が起ち上げようとした組織がどのような構成になっていて、オウムやその他特定の団体と無関係であること を証明しなければならないと主張している。
もちろん無実の証明は難しい。しかし、これまでの経緯や状況を説明することはできるはずだ。それが証明になるかは別にして、ジャーナリストとして問題が発生した場合の責任とは、まず事実を明らかにして他社に判断を委ねることであり、決して自分で言い訳をすることではない。
その通りです。
し かし泉氏は今もって事実関係を明らかにせず、松永氏へのインタビュー(身内のインタビューで何が解明するというのか)や座談会などという茶番、滝本弁護士 へのインタビューという言い訳に終始した。それらを指摘されても自ら事実を語らず、メンバーの素性や関係すら隠したまま「私が中心になってやっている」 「他の人に迷惑がかかる」と言うのみだ。
つまりBigBangは泉氏やその他関係者に対して「ジャーナリズムとしての責任」を問うている のであり、ジャーナリストを自称し報道機関の起ち上げを計画した泉氏の姿勢を問うている。これを単なるオウム批判や泉批判という文脈でしか理解していない ならば、いったい何を読んでいるのか理解に苦しむ。
ほとんど付け足す必要がない。そのまま正解。
(1)-(7)のエントリーで延々と書いてきたのは、あの企画を立てた中心人物が泉さんではないということを感じた理由を説明するためだった。そのためにはどうしても、過程を公開する必要があった。泉さんは、企画の原初的アイデアのようなもの。つまり素人の視線から取材をしたいとか、これで食べていきたいとか、そういうことは言ったかもしれないが、あの緻密なフレームを構築したのはほかの人物であり、泉さんは発案とフロントの役割のみを果たしていたのではないか。趣旨はそういうことである。
では、誰が中心人物で、誰が報道機関をつくろうとしていたのか。自分と泉さんを除けば、現在名前が出ているのは、松永さんとumeさんしかいない。
松永さんは、心はオウム上祐派から離れたとは言っているが、依然として脱会もしていない、限りなく現役のオウム信者であると思う。
umeさんは、未だ存在も疑われるほど、所在がおぼろげである。
あれほどの企画の構築者がはっきりしない。いったい、誰がなぜ報道機関を作りたかったのか。泉さんが生活していくだけだったら、それほどの大きな組織は必要なかった。
泉さんは、松永さんにはコミュニティやアフィリエイトについてアイデアをもらっただけで、企画書作成は依頼していないと主張しているが、報道企画の中で松永さんの占めるポジションは想像していたよりも大きかったのではないか。もしもそうではないとすれば、システムに詳しいumeさんの存在が大きかったか、あるいはまだ名前の出ていない他の人物がいるか。
私が危惧しているのは、好ましからざる意図を持った勢力が、泉さん自身も気がつかないところで、この企画と完成後報道機関を利用しようとしていた可能性はなかったのか、ということであり、もしもそうでないなら泉さんが、企画構築のプロセスを、公開してくれないだろうか、誰がどこを、どのように発案してまとめたのか。それこそが泉さんの言う「取材は全て無編集で公開知するという」基本精神に叶うのであり、それを果たすのがGripBlogの責任ではないかというのが、かいつまめば私の言っていること。
不思議なのは、相談を持ち込まれた人物や会社は多いはずなのに、この点に関して証言が全く出てこないことである。誰も、面倒なオウム問題に巻き込まれたく ないとおもっているのかもしれないが、この件もしも全くの「潔白」であれば、企画構築のプロセスを知っている人が語ってくれれば、なおさらそれはクリアに なると思う。迷っている人はいないか。匿名でもいいので公開してくれないだろうか。
※「そんな馬鹿はお前だけだ」という声も聞こえるような気がするが。
ここのところが、長いエントリーの中ではっきり言わなかったので、誤解を招いたかもしれない。
私は別に松永さんや泉さんに謝罪しろとか、そんな気持ちはさらさらない。松永さんの脱会問題も、彼の思想信条はインタビューではっきりしたから、これ以上無理に形式を整えることを迫る気もない。
コメント者は後半で厳しくご批判をされている。
BigBangにも問題がある。
今回の問題を扱ったエントリーや 『GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと』シリーズにおいて、BigBangは自分が何を問題にしているのかをはっきりと提示していな い。もちろん文章を読めば理解できるのだが、自分の思いこみや先入観で文章を脳内変換してしまう人たちがいるのだ。ハッキリと、子供に言って聞かせるよう に書かなければ理解できない人がいることを忘れてはならない。
また一連の騒動に関わった責任として、『GripBlog報道メディア設立 企画書について思うこと』シリーズを始めたのはいいが、同じシリーズで「泉さんの回答に関して」という記事を書くのはどういうことか。この記事だけではな い。過去の出来事について時系列で勧めている記事に、現在進行形の記事を挟み込む手法は読み手を混乱させるだけであり、泉氏への私怨や自分自身の責任逃れ を行っていると思われる可能性を考慮すべきだろう。』
特に(7)のエントリーが感情的に過ぎるというのは、他の方からも指摘を受けた。本質が見えなくなるような言動を間にはさんだことがまずかったのは、このコメント者の言うとおりだと思う。自戒する。
【加筆】
ここまで書いたら泉さんがコメントをされていた。
>企画書を作る作業をしたのは私とumeさんなのですが、内容はたくさんの方々のアドバイスを元に作り上げています。
この企画は、公開して不特定多数の方から意見をいただき形を作っていきましたので、私一人が考えた報道機関ではなくなっていました。
例えば「この案は私が考えました」と言っても、様々なアドバイスが元になっていますので、私の案とは言い切れません。
更に、頂いたアドバイスの内容も、具体的なものから概念的なものまで幅が広いですし、会話の中から生まれたものもあります。
このような経緯で作り上げた企画なので、アドバイザーの中から特定の方(松永さん)の比率を抜き出すことが難しいのです。
>比率を企画書の作成作業だけに限りますと、アドバイスを元に私が案を考えてumeさんがシステムで具体化するという作業を言葉や文章で何度もやり取りしています。
企画書に起こす作業も、システムの部分はumeさんにお手伝いしていただいておりましたので、作業の比率を聞かれれば 5:5 だと思います。
私もOLを長年していましたので、Word・Exel・Powerpointは人並みに使えますが、企画書を一から作ったことはなかったので、それなりに勉強しました。
難しい、難しいとおっしゃるが、泉さんとumeさんが5:5なら松永さんは0になってしまう。キーマンの一人なのに、それはおかしかろう。あなたのこれまでのご説明と矛盾する。また、他のアドバイザーの名前を出すのが難しければ人数とか、仕上げるまでの日数や工程とか、チャットも使っていたという肝心の松永さんとumeさんは、何回くらい打ち合わせをして、松永さんの発案はどのあたりなのか、どんな提案があったのか、レポートできないものだろうか。(松永さんが手を出したから悪いと言っているのではない。上記が不完全なレポートなのでお聞きしているのである。)
できないと言われれば、せんない話であるが。
【加筆2】
>私もOLを長年していましたので、Word・Exel・Powerpointは人並みに使えますが、企画書を一から作ったことはなかったので、それなりに勉強しました。
ではなぜ元ファイルがあなたのところにはなかったの?
2006 05 25 [ことのはを巡る問題] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック
May 24, 2006
佐々木氏への批判は
ここではやらず、こっちに持っていくことにした。ここでやるほどのことはないと思ったのと、今忙しい。
2006 05 24 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
May 22, 2006
GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(7)----泉さんの回答に関して
泉さん。早速のご返事をいただき、ありがたい。企画書を公開していただいたことも、周囲への無用な誤解を避けるうえでも、互いに共通の出発点に立てるという上でもありがたく存じます。再三繰り返しているように、松永さんの件以降のやりとりは、個別に行う気はありませんので、この返信も通常ならメールでやる類ですが、信じる公共に公開します。【加筆 5/22】
今、Gripにアップされた企画書を見ましたが、これは8ぺージです。私のところにあるのは9ページ。1ページ割愛されたのは予算書の部分で、umeさんとあなたの人件費や工数が書かれたスケジュールも記載されています。性質上、割愛するのは理解できないでもありませんが、それならそうと明記してください。正確にいきましょう。この点をスルーというのは適切ではありません。
↑
Grip本文中の記載を見落としました。削除します。失礼。
>BigBangさんが私に対して抱いていらっしゃる疑問の多くは、私とBigBangさんの立場の違いからくる行き違いだと思います。私は報道機関の設立 活動で知り得た、個人情報や企業情報などを第三者へ簡単に教えていい立場ではありませんでした。BigBangさんはそのことに疑惑を感じていらっしゃる ようですが、これは立場の違いの問題ですので細かな点の反論はしません。(報道機関設立企画について)
それは違いますよ。泉さん。あなたは「個人情報」や「企業情報」について正確に理解していますか。松永さんの企画者としての参加や、umeさんの役回りは「報道機関の設立活動で知り得た個人情報や企業情報」ではありません。正確な「個人情報」や「企業情報」の意味を、個人情報保護法などにあたって、何が個人情報なのか、企業情報とは何なのか、よく勉強してください。
また、あなたの言っていることは、通常企画書作成中途で「守秘義務契約書」などを互いに締結して、万一情報が他に漏れることがないようにガードするのです。そういったことは。「最後まで秘密にするのがビジネス」ではなく、一定の約束事のもとに公開するのがビジネスです。そうしないと前に進みません。umeさんが特定の企業にお勤めで、身分を明かせない・・などということは類似の例はあることです。それほど特殊なことではありません。そういう場合も相互の信頼関係と企業のコンプライアンスに照らして、妥協点を探って、信頼を継続しようとするものなのです。
ここでビジネス流儀の議論はしませんが、あなたのおっしゃることは、大変に稚拙で見当はずれな逃げですから指摘しておきます。
最後の企画書をお送りした時には、状況をある程度お話しようと考えて、umeさんの名前を載せたものを送りましたし、その後に「オフレコでお話したいことがある」とメールを送っています。でも、そのメールへのお返事はいただけませんでした。これが行き違いの原因だと思ってます。
あなたのほうから書いていただいたのですから返しますが、それは2月2日に頂いたこれですか?
>お世話になります。
数日間、家を空けておりまして、メールの確認が遅くなり、申し訳ありません。その後、いろいろ進展はありますが、プラスの方向に進んでいるかどうかは微妙なところです。完全オフレコでということになりますが、また近い内にお会いして お話させていただけるとありがたいです。
これだけです。たったこれだけの文面。
このメールに返事が来なかったといって、責任をなすられては困ります。誠に勝手な言い分です。
これが、本当にあなたのほうから伝えたい「ある情報」を伝えるものなら、あなたのほうから、実際の日程や段取りを連絡すべき話でしょう。上記のメールの文面をもらえば、通常はあなたの次のコンタクトを待ちます。そもそも「オフレコで話すこと」などという言葉がおかしいのであって、最初に書いたように、もしもumeさんの身分に関して情報を出したいなら、「守秘義務契約を結んでくれ」と一言、私に言えばいいのです。それなら私は応じたでしょう。(結んでいなくても、こうした場面でumeさんの氏名は実際には出していませんし、企画中の機密と思われる箇所は全て付して伏して(5/22訂正)います)
このあたりの取り回しの悪さは、あなたのビジネス経験の浅さから来ることです。さらに、そもそもビジネスマナーと本件とは関係がありません。心象として使われるとまずいですから反論しておきますが。
相談に行った他の方々は、私が真剣に話しをしているのを理解してくださって、お手伝いしてくれるにしてもしないにしても明確な意思表示として最終的なお返 事をいただきました。その点でBigBangさんに不信感を抱いたのは正直なところです。もし興味がなくなっていたなら、一言「協力できない」とハッキリ 言って欲しかったです。
笑。これも勝手な曲解をしないように。具体的な事業計画。収支計画を進めていくのは、あなたのミッションでしたでしょう。インカムの計画を詰めるのもあなたのミッションでしょう。次にあなたはさらに詰めたものをもって、上記のオフレコの件と合わせて、再度私を訪問していただければ良かったではありませんか。
それに繰り返しますが、この話は双方の「ビジネスマナー」の話ではありません。その範疇でも私には噴飯物の、あなたの言い分ですが。
そもそも、「私があなたにアプローチした」という不思議なあなたの言い回しについて、ここまで経緯を出しても、一言もコメントがないのはどういうことでしょう。ひとつのことを片付ける前に次々と問題を摩り替えて他の問題に移り、一方的に議論を打ち切るのはあなたの、悪い癖です。
「ユーザーカルマ」という言葉についてですが、これは最後の企画書で利用することを書いた『Pligg』というフリーソフトで使用されている言葉をそのま ま使っています。『Pligg』は、『Digg』を真似て作られたGPLライセンスのフリーソフトで、その中で元々ユーザーの評価をする単位に「カルマ」 という言葉が使われていて、それをそのまま使いました。
「カルマ」については、前回お尋ねしたときには、あなたの口からはそうしたお答が全くありませんでしたね。あなたは「よくわかりませんが、開発者がこだわっているのです」とおっしゃった。
今回の私の公開以後にumeさんにお尋ねになったのではありませんか。まあ、それはいいです。「Pligg」については、覚えておりますが、前回までのシリーズでは、ここは当然に遵守すべき業務機密の範囲だろうと思い、その言葉を出しませんでした。
それからもうひとつ。
あなたは再三「BigBangの誤解」「誤解」という言葉を使いますが、「誤解」という次元ではないのですよ。あなたの説明が「不十分」だから、それを指摘しているのです。今回のシリーズ掲載前には、あなたは頑として、ここに書いた程度の説明もしなかった。
あなたはこの方面の語彙がワンパターンで「誤解されている」という被害妄想に取り付かれていらっしゃいいますが、それ以前に基本的なコミュニケーションとビジネスの手法、知識に著しく欠けるところがある。個人情報と業務機密の区別も知らない。そのガードの方法も知らない。
それが連続したトラブルに繋がっているのです。「誤解」されているのではありません。あなたが説明しないだけの話です。
とにかく私たちのビジネスマナーの違い(譲歩した表現です)などはこの際どうでもいい。
私が言いたいこと、そして問題なのは、あなたがこの報道企画書の正しい意味での企画者とは言えないということです。umeさんを「お手伝い」とどこかで表現していらっしゃいましたが、実際にはあなたが「誰か」の「お手伝い」だったのだと私は思っています。
他はまた。
【加筆】
前のエントリーで「XOOPS」であるともないとも言えないというコメントをつけた理由は、システムのCMSを特定することにより、業務機密の漏洩に繋がることを回避するためである。もちろん、Pliggであることは承知していたが、それを私の口からは誘導できない。(これはXOOPSであったとしても同じこと)オウムへの印象操作とは全く関係がない。純粋にビジネス機密上の配慮の問題である。
【加筆2】
私は、彼女のメールのうちFLASH発覚前に返信しなかったのは、文中に引用した1通のみである。それも、泉さんから次の具体的なコンタクトがあると思って返信しなかった。しかし彼女からもそれ以降メールは来なかった。それをもって30日程度が経過したからと言って「フェードアウト」したというなら、こちらも言おう。
泉さん、あなたこそが、半端なメールを最後に事業計画作成を進めず、テストサイトも作らず、「オフレコの内容」も伝えに来ずに、「フェードアウトした」のである。
2006 05 22 [ことのはを巡る問題] | 固定リンク | コメント(76) | トラックバック
May 20, 2006
GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(6)
●元ファイルと、開発者パソコンの故障
1度目の打ち合わせの後、1月13日に、私は泉さんにお願い事をした。それは、最終企画書をPDFではなくて、元の作成ファイル、パワーポイントでいただけないだろうかというお願いである。ここまで書いてきたように、彼女が持ってきた企画書は、理念とシステムについての記述は細かいが、商業的プレゼンテーションには耐えられないと感じた。そこで、企業向けに、カスタマイズしたバージョンを作ろうと思ったのである。カルマという聞きなれない単位も引っかかっていたし、企業がお金を出そうと思えば、細かな表現をブラッシュアップする必要があると思ったのである。
そのためには、PDFファイルでは加工が困難なので、元ファイルが欲しかった。
ところが泉さんの返事によれば、泉さんはPDFしか持っていないという。元ファイルは開発者のところにしかないが、あいにく開発者のパソコンが故障しており、1,2週間かからないとファイルが渡せない。自分も困っているのだが申し訳ないとのことだった。
この段階で私は、この企画全体についての関心を、ほとんど失った。理由は、それでなくてもそこまで打ち合わせしてきた印象から、この企画を構築してきたのは泉さんではなく、その「開発者」であると思ってきたところへ、泉さんは企画書の元ファイルも持っていないという。元ファイルを持っていないということは、普通に考えれば、企画書を本人はほとんど書いていないということである。これでは責任を持った微妙な交渉はここから進められない。
開発者(企画者)に連絡をとることもできず、身分がわからない。しかも泉さんには企画の主導権がない。このあたりまでの材料が揃った段階で、私の中である種のアラームがついた。(もちろんビジネス上のアラームだ。当時のことだから)これ以後、私は報道機関設立企画のことをほとんど考えなくなった。
●umeさんの本名
元ファイルは、結局2月2日に送られてきたが(この企画書とWordPress仕様書の改訂版)、私はこの段階ではこの企画は進められないとの思いを強くしていたので、泉さんには申し訳なかったがほとんど再度読み返すことはなかった。内容も前にもらったPDFとどうせ同じだろうと思っていたからである。以後、泉さんとお会いすることはなかった。
#ところが、企画書の重要な部分(いまにしてみれば)が変わっていた。このことは、ずっと後になってからようやく気がついたが、企画書中、経費概算のところでPDF版では単に「開発者」とされていたumeさんの本名と思われる名字が、パワーポイント版では記載されていた。もちろん、その氏名をここに記すことはしないが、おそらくPDFに変換する際に、匿名にしていた部分が何らかの操作でミスで再び変換されていないものを渡すことになってしまったのだろうと思う。気がついたのは、松永さんの問題が発生した後しばらくしてからである。
●パソコン故障について
ここでひとついやな偶然がある。この騒ぎが生じて以後、ずっと私の中に引っかかっていることである。これは単なる憶測かも知れず、不幸な偶然かもしれないが、泉さんが、「開発者のパソコンが壊れている」と告げたのが1月13日。パソコンが直ったとしてファイルを送ってこられたのは2月2日である。厄介なことに、これは松永さんが烏山のオウム本部を出たとおっしゃっている時期と一致する。
# 2006年1月15日:「きっこの日記」通読開始。
* このあと、物件が見つかる。契約は2月1日から。
# 2006年1月31日:きっこの日記について通読した結果についてのエントリーをアップ。後にこれがきっかけとなって「きっこ=松永」あるいは「きっこの黒幕/情報提供者=松永」という妄説が登場(以前の河上=CIA説に匹敵するトンデモ妄想)。しかし、この記事が野田の疑惑を招いてしまい、調査を開始されてしまう。
# 2006年2月1日:現住所へ引っ越し。ワンルームマンションで一人暮らし(これは出家修行者にはありえない)。=脱会。
* その後体調を崩しまくる。座骨神経痛・大腿神経痛で体力がなくなっているので病院に行ったら、検査の結果、肺炎再発→結核の懸念があるといわれる。
# 2006年2月末:espioで野田が松永=河上=きっこ説を公開。外に出たとたんに仕事を奪われるのかと絶望。
(オウム/アレフの物語より)
もちろんこれは「偶然である」と泉さんは言うだろう。松永さんの引越しとたまたま同時期にumeさんのパソコンが壊れたのだと。(私もそれを信じたい。) パソコンの故障は、ハードディスクなどがクラッシュしていたのなら、決まった日時にファイルを渡すことができるとも(1-2週間)約束できないだろうから、おそらく電気系統かマザーボードか、何かが故障して、修理に出した時期がたまたま「運悪く」松永さんの引越しの時期だったということだろうか。それとも松永さんのパソコンに元ファイルがあったのだろうか。
●FLASHの発売と、泉さんへのメール
以後の展開は、Flash発売直後に私が書いたこのエントリーに続く。こうした流れの中で起きた、野田氏の記事であったから、余計にこちらの驚きは大きかったということがご理解いただけるだろうか。
時系列の流れは補足するかもしれないが大まかに以上である。総括は別に行う。
2006 05 20 [ことのはを巡る問題] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック
GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(5)
まあ、このシリーズを「妄想の暴露」ととる向きもあるようだが、これは「妄想」ではない。起きた事実を、時系列で客観的に記して、それに対する印象を添えているだけである。その印象が、「妄想」だと思いたければ、思うも良し。全てが公開されても何の意味もないものだと思えば、そうした人にはこのシリーズ全体が意味の無いものになるであろう。後は私への信用を消滅させればよい。それならきれいにどうぞ。
報道機関の設立計画と松永さん、あるいは泉さんの「背後」の力の関係について問うていたのは、あなたがたであり、私たちである。そしてそれに対して十分な釈明が今日までできなかったのは泉さんである。報道機関設立の計画ははっきりと頓挫しすでに泉さんによって放棄された。彼女は新しい活動の場を見つけた。その今だからこそ、経緯を出すことに意味があると私は信じる。
事実以外のことを書いていると思う場合、あるいは起きた事実から私が印象を添える過程が余りに不自然であり、偏見に満ちた誘導であると思えば、具体的に反論すればよい。あるいは尋ねればよい。
先のエントリーに書いたように、こうしたことは、私の今までの仕事の経験の中でもしたことはない。する必要もなかった。だが、今回はする必要があると判断した。事実の経緯を全て書いた後でその理由はもう一度確認する。
まあ、今押さえておきたいのは、人は何の必要もないと思えばこうしたことはしないということである。そして実際、ぎりぎりまでしたくなかったので、これまでしなかった。だがタイムリミットである。ご本人が自分で事実を構成できないのなら、先に私が構成する。それに対する本人の反論と、いくらかの私とのやりとりがあれば、事実はもう一段階さらに中立で真実に迫るものとして形成されるだろう。私のエントリーが全て結果的に妄想なら、ノープロブレム。世界はこともなし。で、まあその段階になって、私の信用が消滅しようと、そんなことは世界にとっても、私にとっても、大きな意味のあることではない。結構ではないか。
元々BigBangはそういうブログである。
●最終版企画書のPDFと「ユーザーカルマ」
年が明けて1月5日。泉さんからメールが来た。そして1通の企画書のPDFが添付されていた。これが最終版の(最終版であったということは先日の泉さんのコメントで知った)「Grip 報道メディア設立 企画書.pdf」である。作成日時は2005年の12月28日。
前回の年末の打ち合わせで、当面必要な費用が見えないことと、その回収の手法や時期が見えないことが、私との間で問題になった。泉さんの考え方は、どちらかというと企業に「浄財」を募るようなやり方であり、商業モデルではない。報道機関の設立が、社会にとって意義のあることだから、共感してお金を出してもらいたいという考え方である。
だが、私は商業主義的なアプローチをとるから(ここが実社会の「私」とブログ内のBigBangというキャラクターの違いである)、そうしたやり方では提案が構成できないと思った。企業がフィランソロフィーのような、回収を目的としない資金を出すことはまれにあるが、まだ日本社会でのパイとしては大きくない。それ以前に、泉さんの企画書では、必要な資金を特定の会社に投資するのか、人間泉と「その仲間たち」に出すのか、会社組織にするとしても資本構成はどうするのか等々に関して、出来上がっていなかった。彼女と会話してもそこははっきりしなかった。
1月5日に送られてきたものは、ある程度それに答えた形になっていた。事業の立ち上げまでに必要な資金の理由と明細が、曲がりなりにも明記されていた。だが相変わらず回収の方法や時期は不明確であった。
それ以前の企画書と大きく違う点は、「ユーザーカルマ(ネットユーザーの特性評価)」と呼ばれる考え方が導入されていたことだ。ニュースサイトや取材サイトでの投稿、評価行動から各ユーザーのカルマ(性向値)を計り、ユーザー特性を数値化、それに応じた報酬を企業から得ようというものだ。どのようなニュースが投稿され、どのような評価を読者から得られたか。それを「ユーザーカルマ」という数値に置き換えようとするものだ。それ以外にもユーザーカルマについての記述は及ぶが、若干の独自性を持つ部分については、この企画書の業務的機密保持の観点からここでは割愛する。
この「ユーザーカルマ」という用語は、松永さんのオウム信者問題発覚以後、長く私を悩ませた用語となった。なぜよりによって「カルマ」なのか?
後日、1月12日にもう一度泉さんに会い、その理由を尋ねたが、彼女の反応ははっきりしなかった。「開発者がこだわりを持っているんです」という回答だけだった。また、「もう少し明るい印象のものにできないか」と聞くと、「私は別に構いません」という答だった。また、このビジネスモデルが何か他のモデルに抵触する恐れはないのかと聞いたが、「わからない。それはどのように調べたらいいのか」というような回答だった。
#最近になって、「スラッシュドット」において、やはりほとんど同様に、ユーザー数値を「カルマ」と呼んでいることを知った。また、別の方からは、ある種のRPGでこうした用語を使っていることも教えてもらった。(若くないんでね。すまん)したがって、ビジネスモデルとしては先行事例があるので、この「カルマ」という仕組みに新規性はない。企画が実現しても、おそらくその名称は使えなかっただろう。
新規性がないので、ここに触れても構わないと思っていることがひとつ。そして、このバージョンより前の企画書には登場していない概念が、この版で急に登場したことに違和感を感じたことがひとつ。さらに、泉さん自身は(おそらく今でも)この「ユーザーカルマ」の由来が、スラッシュドットのことも含めてわかっていないであろうということである。
とにかく、ここは彼女と話してもはっきりせず。またカルマを実現するためのシステム上の仕組み(これについても、具体的な言語やアーキテクチャーなどは、業務機密保持上の理由を認めるので割愛する)についても、質問してもはっきりしなかった。
彼女は要するに、取材がしたい、それで生計を営みたいのである。新しい報道機関の仕組みに、執着や自意識を重ね合わせているとは思えなかったし、企画についても自己同一性を持っているとも思えなかった。
●umeさんと大阪のこと、そしてこの段階での疑問点
とにかくシステム関連の質問や開発体制、人員もはっきりしないので、泉さんに、泉さんの「パートナー」であり、「開発担当」である、人物(umeさんのことである)に会えないかを尋ねた。
開発者は現在の職を辞める気はないとう。そうなると、運営が開始されたとき、誰がシステムを支えるのか。そのあたりも相談したいと思った。
彼女の答は
「開発者は大阪に住んでいるので、こっちへ来ることはできない。」
よって会えないという。
大阪まで行けば会えるのか聞くと、(このころ私は頻繁に大阪と行き来していた)、自分には大阪までの新幹線代を負担できないし、今は企業に勤めている人なので、無理であるということだった。電話なら可能だと言っていたように思うが、ここははっきりしない。
#この段階では、なんらかの形で泉さんと開発者の当面の活動費を何とか捻出しようと、私は関連会社の社長に相談を始めていたところだったので、その前にシステム面で主導権を持つ人物にはぜひ会っておきたいと思ったが、泉さんの口調でそれはあきらめた。まあ、交通費をこちらで持つからとでも言えば違ったのかもしれず、それだけのことだったのかもしれないが、はなから会わせる意志はないようなので、そこまでの話にはならなかった。システムがわかり、これほどの企画書が書ける人なら、ぜひ会ってみたいという気持ちがあったことも確かである。
#このume氏の点も、長く私に引っかかりを残すポイントとなった。なぜなら、後に離職問題が公になったとき、泉さんはGripBlogへの私の書き込みのひとつに偉く激昂して電話をかけてこられ、「umeさんが直接あなたと話したいと言っている。連絡先を教えてもいいか」と話され、またumeさんが会ってもいいようなことを言っているとも言われた。私は「教えたければ教えてもいい。但し会う気はない」と伝えたが、結局umeさんからのコンタクトはなかった。
仕事の詰めのさなかでは大阪にいるので会えないと言っていた人物が、すぐにでも会うようなことを、後には言う。では、離職騒動のさなかにはいったいどこにいたのであろうか?その物理的な場所が気になった。この、企画書作成過程で生じた疑念が、その後長く私の中では消えない結果となった。
#またこの前後、松永氏とume氏との間で電話もしくはチャットでの連絡網があったとも聞いた。開発関連のいくつかの疑問は、場合によってはこちらもチャットでおこなってもよかったかもしれなかったが、ここもそういう話にはならなかった。だが、私が執着してそれを主張したというわけでもない。松永さんがアイデアレベルを提供しただけで、企画書の作成に携わっていないとすれば、企画書はほとんど全部umeさんが書いたことになる。(泉さんはほとんど書いていないと思う。理由は後で述べる)松永さんの協力が、単なるアイデアレベルなら、なぜわざわざ、umeさんとチャットや電話などをする必要があったのだろうか?
#いずれにしても、「開発者」の身分については、とにかく明かせない姿勢が非常に強く感じられた。一度も氏名についても言及しないし、特定の所属する企業名も口にしない。それが泉さんのumeさんの立場を過剰に防衛しようとする生来の性質なのか、何か理由があったのか。それもあれ以来ずっと考えている。
#実際に「何の理由もないが」秘密主義だった彼女の性格が、全てであるかもしれない。その可能性はもちろんここでは完全に排除はできない。
#当面の資金が出る最短コースのひとつに私のルートがあったことは、泉さんも自覚しておられたと思う。それなのに、この段階で企画協力していた(はずの)松永さんのことを一度も言わなかったのも不思議である。私はこのころ、「絵文禄ことのは」の松永さんにむしろ、共感と尊敬の念を抱いていた。松永さんにはライターとしての実績も信頼もある。松永さんが企画に関わっていたとすれば、私に対しても、私が持っていく企業にとっても、当時は相当の信用力になったのではないかと思われる。なぜこの当時、知らない仲でもない松永さんの関わりを泉さんは伏せていたのか。それも後々まで私に引っかかりを残させる結果となった。
(もちろんこの当時、もしも松永さんの名前をテコにして自分がこの話を進めていたら、今頃「相当大変なこと」になっていただろうが)
この日は、運営体制や数字、開発体制など細かな話をして別れた。事業計画の収支をもっと詰めることと、私のほうではそろそろ出資者にアプローチを始めようということも話した。
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GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(4)
●2つの企画書
2つの企画書を前にしながら、泉さんとこのとき交わした会話は、久しぶりに会ったこともあって、共通の知人ブロガーの話題など、思い出すとあまり意味の無い世間話が多かったと思う。それに、急がなければ泉さんの生活が成り立たないということも、盛んにおっしゃっていた。
この企画書はもう前にネットにあがっていたものであるし、僕の今回のスタンスは、彼女の出したコンセプトや手法は尊重しながら、それを収益の見えるモデルと企画書に仕上げようということだったから、この段階で具体的に話ができることがあまりなかった。
#余談だけれど、僕は今はシステム関係の仕事が中心になっているが、その前には広告関係のSP企画の仕事をしていた。企業を回って広告代理店がプレゼンテーションする企画書を専門に作っていたのである。バブルの後期である。たぶん企画書は1000本以上は書いてきていると思う。泉さんに声をかけたのは、そういう点から、もしも自分が手を入れれば、企業プレゼンテーションに足るものにできるのではないかという自負もあった。そして、そんなわけで僕は企画書にある種の「こだわり」を持っている。細かいのだ。それもこの話の中では、たぶん意味を持っていると思う。
ところで、ここで僕が持った印象について触れておかなければならないことがある。それは、誰が見ても感じることだと思うが、
○いずれの企画書の文体も、泉さんの文体とは全く違う。
○2種類の企画書(「WordPress仕様書」と「報道メディア設立プロジェクト草案」)のトーンが違う。
という2点である。
先に作成されたと思われる「報道メディア設立プロジェクト草案」には理念的な記述が目立つ。文章のトーンも硬く、敢えて言うと松永さんの文体に似ていないこともない。明らかに「文科系」のライターの存在を彷彿とさせる。
それに対して、「WordPress仕様書」のほうは、システムに関わる展開やフローが細かく書き込まれており、概要設計書の趣を呈している。これを発展させていけばすぐに仕様書になりそうである。明らかにシステムに詳しい人物が関与しなければそれは成立しない。今までの登場キャラクターに、結びつけて考えればume氏に近いトーンである。もちろんこれはずっと後になってから思うことだけれど。
問題は泉さんである。この後、僕は年を越えて、最終版の企画書の検討のためにもう一度彼女に会うのだが(後述する)、泉さんは、上の2種の企画のトーンのいずれをも明らかに持っていない。つまり、彼女は「突撃する取材者」なのであり、「泉あい流のルポ文体(?)」を持つ人なのである。外形的にはもちろんこの段階で彼女はプロジェクトリーダーなのであるが、彼女はシステムに詳しくもないし、現在の既存メディアの状況を硬質に語れる人でもない。
いずれのマインドも持っていない彼女が、この企画書を持って企業にプレゼンテーションしても、なかなか受け入れられないのではないかと、そのとき感じた。2本の企画書を見るだけでも、相当なブレーンが彼女の後ろに存在しているのは明らかであった。しかし、いずれのブレーンの名前も彼女はとうとう明らかにしなかった。
umeさんのことは、前にも書いたが常に「開発者」あるいは「サーバを貸してくれている人」という言葉で語られていた。したがって、この段階で僕は「ume」という言葉を知らなかったのである。
僕もシステム屋なので、「サーバを貸す」ということの「ノリ」はわかる。ドメイン管理やWebサーバ、DBサーバ、あるいはBlogサーバが安定して稼動している環境は構築するのは手間がかかるが、一度構築してしまえば、他の人にちょっと使わせたぐらいでそれほど手間のかかるものではない。友達感覚で貸すくらいのことはあるだろう。昔から世話になっている人ということだったから、それほど変なこととも思わなかったし、気にもしなかった。
事業計画書ができたら送ってくださいと、確認してこの日は終わった。
#これも余談であるが、年末も押し迫って12月30日になってから、泉さんから急いだ調子でメールがあった。(確か電話ももらったと思う。記憶が定かではないが))泉さんによれば、これは1月に立ち上げる報道テストサイトの導入に手違いがあって困っている。場合によっては知恵を借りたいというお話だった。(泉さんはこのとき、年明け早々には報道サイトのテスト版を公開すると、確か言っていた。)
「PHP+MySQLについて詳しいか?」と言う。12/31になってから、「PHPで運用しているサイトの面倒も見ているが、他の人の構築したものをメンテしている程度なので、それほど詳しいわけではない。DBもMYSQLよりも僕の得意なのはOracleである。でも一般的なことなら答えられるし、何なら関連会社のプログラマもいるので聞いてみることもできるが?」という趣旨の返事をした。
結局この後泉さんからはこのテストサイトの件に関して連絡はなかったが、技術に詳しい人がついているのにどうしたんだろう?とちょっと不思議に思ったのを覚えている。どうも泉サイトが入れようとしているのがXOOPSライクなものであることはわかっていたので、あるいはPHP+MySQL方面には暗いのだろうか?それにしてもなあ・・とぼんやりと思ったことを覚えている。結局この報道テストサイトは、公開されなかったのではないかと思う。
【加筆】
企画書を書く仕事をしてきた、と先に書いた。で、長い経験の中でこういうことになったことは一度もない。企画が出来上がる経緯を人に公開するなどという行為は、通常であれば論外である。このことのタブー感は、誰よりも持っているつもりである。そういう心理的な抵抗もあって、僕には、これまでできなかったという面もある。
だが、今はもっと早くこれをすべきだったと思っている。迷っている時間が長すぎた。
【加筆2】
いや。今回は正確に言えば僕は企画書を作ってはいないな。企画の骨子は既にできあがっていた。あるいはできあがっていく経緯を近い場所で見ていたということだけであるが。まあ、同じようなことである。
【加筆3】
この企画を成立させているシステムについては業務機密の範囲だと思うので記述しない。XOOPSであるかどうかも含めて、それは特定しているわけではないので。つまり、XOOPSであるとも、ないとも断言はしない。
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GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(3)
知人のジャーナリスト関連団体を泉さんに紹介したころ、12月7日に中途経過でもいいので、状況を聞かせて欲しい旨、電話とメールをした。いくつかこちらで具体的に進んでいる件があったので、それとのタイミングもあり、泉さんの「事業計画書」の進行具合を尋ねたのである。
これに対して泉さんが示してきたのは、「WordPress仕様書」がアップされた、GripBlogフォーラムのURLだった。これは、あくまでも事業の草案書であり、事業計画書ではない。12月10日に彼女から来たメールでは、「理解力が無くてどのような内容で協力してもらえるのかが整理できない」というような愚痴めいた言葉と、そのころ開かれた民主党のシンクタンクのシンポジウムに行きたいが、報道関連のジャーナリストの会合に行かなければならないので、行かれない・・・というような内容であった。
このころ、彼女は「4人のキーマン」をはじめ、「草案書」を持って多くの人たちに、報道機関設立の企画について協力を求めて回っていたが、なかなかいい反応が得られなくてあせっていた時期だったらしい。システムについてもオープンソースにするかどうかなど迷っていた。
私、非常に迷っておりますので、皆さんのご意見を聞かせてください。
今、システムの仕様書を作っている最中で、来週には完成させて再来週早々には公開できるように取り組んでいます。
問題はその後で、プログラム開発をどうしようか迷ってるんです。
詳細をネット上に公開せずに、特定のシステム会社へ委託して開発してもらうのか。それとも、オープンソース方式で、プログラムできる方や設計できる方をネット上で募り、公開しながら皆さんのお力を借りて一緒にシステムを作り上げていくのがいいのか。(2005年11月25日 システム開発のあり方)
今日は、報道の責任者へなっていただきたいと考えている人へ会って来ました。
「報道の責任者になってください」とお願いしたんですけど、結果は「No」
なぜダメなのかを説明する前に、ここでもう一度、私が考える報道機関を整理しておきます。草案書読んでない人も多いみたいだし・・・読んでも難しいんだろうなと自覚してるし(ボソ)
(2005年11月28日 当事者情報って言葉、良くない?)
報道担当者を探しつつ、今日から出資も含めてシステムで協力していただける人を探して電話をかけまくっています。
システムの仕様書を来週早々を目途に書いていて、来週はそれを抱えて走り回るべく、アポイントを取っています。(2005年11月29日 (火)ベンチャーな人)
今週は、たくさんの有名な企業へ「システムの仕様書を見てください。会ってください。お話を聞いてください」というお願いをすることに集中しました。
お陰さまで、来週のスケジュールはほとんど埋まっています。
たくさんの人が会ってくれる、そして話を聞いてくれるのは、とてもうれしいことなのですが、プレゼンの経験のない私は、ちゃんとお話ができるのか不安でたまりません。
特に、システムのことは全く知識がないので、専門的な突っ込みをされた時にちゃんと答えられるのだろうかと、アポイントを取っている時からドキドキしっ放し。
でも、やるしかない。
不安と意欲が胸の中を駆け回っています。(2005年12月 3日 (土) 来週に向けて)
#次々と多くの人とアポをとるのに忙しく、なかなかこちらに来る余裕がなかったというのが実際だろう。あるいは大手や有名どころを優先して会っていたか。(苦笑)
しかしこれだけ多くの人と会った、あるいは事業計画の説明をしたはずなのに、後で具体的に彼女が口にした具体的な企業名は1社だけだった。(これについては名前は伏せる。すでにこの企業の周辺も私なりに調べたが、特筆すべき点は見られなかった。)誰と会ったかも最後まで明らかにしてくれなかった。(というわけで松永氏に相談していたこともわからなかったわけである)このあたりが泉さんの非常に不思議なところである。
「断られた」企業や人が多いのだから、公に公開するのが難しくても、具体的な検討に入った相手には、通常であればどこが駄目だったかくらいの話はするものだと思うのだが。まあ、それは彼女の性格だと言えばそれまでの話だ。
システム関連にしても、開発者であるume氏(後に名前がわかる)はこの段階でいるわけであるが、そのうえなおかつ開発メンバーを探していた。これは単にサーバや出資の提供者という意味かもしれないが。
●最初のミーティング
話を進める。
「報道関係者」に会うのが忙しいことと、「草案書」ではなく「事業計画書」が欲しいという私のオーダーに、泉さんが身構えていたのかもしれないが、なかなか会う日時が決められなかった。
12月12日になって、事業計画書はまだできないが時間の余裕がかなりできたという連絡があったが、今度は私のほうの時間の都合がつかず、結局この話で初めて会えたのは12月20日だった。
彼女が私のオフィスにやってきて、1時間少しだったろうか話をした。
この段階で出来上がっていた企画書は
○「WordPress仕様書 12月6日版」
(http://kurosaki-yowa.up.seesaa.net/image/WordPress.pdfにアップされているものと変わらない。)
○「報道メディア設立プロジェクト草案 11月17日版」
(http://kurosaki-yowa.up.seesaa.net/image/Project_B4.pdfにアップされているものと変わらない)
である。これはGripBlogにもアップされ、ネットにも公開されているものなので「WordPress仕様書」から一部引用する。
「キーワード単位で独立した、記事、コミュニティー、ブログのトラックバックセンター、関連サイトリンク集、WiKi(備考)などの機能を抱える専門ポータルサイト群と、それらキーワード専門サイトの中にある記事や論評などをネタ元に、各個人や団体が独自の視点で構成・編集したWEBマガジン(まとめサイト)群の、2つのセクションからなる言論の多様性を許容した集合体メディアである。」
とされ、収益としては、投げ銭(ドネーション)システムが想定され、読者による記事評価に従って、アフィリエイト広告と直接の金銭ポイントにより、収入が得られるようになっている。
WEBマガジンという言葉が見受けられるように、コンテンツをとりまとめることが重要であり、泉さんの説明によれば、このとりまとめの役割として、あるいは松永氏を想定していたのかもしれない。
この「キーワードサイト」の構成については仔細に書かれているが、事業計画の体はなしていない。それについては、現在まとめているので待って欲しいということを彼女は繰り返した。
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May 18, 2006
GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(2)
民主党ブロガー懇談会で、私は初めて泉さんにお会いした。
この前後の経緯はすでに何度か書いたので割愛する。
ここでは、懇談会の終了後、松永さんのカミングアウトまでに起きた事の経緯を、特に報道機関設立企画の進行に関して、私が知るところを書いていくことにする。
●ことの始まり------報道機関設立の宣言と、協力者への呼びかけ。
私が最初に報道企画書のことを泉さんに尋ねようとメールをしたのは、ブロガー懇談会の終了後、昨年の11月16日である。泉さんによれば、この最初のメールが私のほうからであったことから「アプローチしたのはBigBangの方からである」ということらしい。しかし、GripBlogで、この時期の前後、泉さんはこういう記事を上げている。
「Grip Blog」を今年の1月から運営してきましたが、もうお金がありません。
このまま続けていても収入を得られる基盤は何もなく、精神的な不安も蓄積してきました。
実は、活動費を援助してくださっている方がいますが、その方に対しても、このままお金が入ってくる見込みがない状態で、これ以上援助を受けるのが心苦しいのです。
私のように活動費を出してくださる方がいるのは恵まれています。今後、私のようにインターネット上で取材活動をしていく人がいても、お金になる仕組みが社会になければ続けていくことは難しいでしょう。その受け皿はないものだろうか。
この1ヶ月間、私は、インターネット上で収入を得られる仕組みをずっと考えていますが、既存のものではどこにも見当たりません。そして、ひとつの結論に達しました。
ないのなら、自分で作っちゃえばいい♪私のように学歴やスキルがなくても、修行を積んでジャーナリストになれる仕組みを持った報道機関を作るんだ!私は今日から取材を止めて、新しい報道機関と記者クラブを作るために走ります。とは言うものの、ご存知の通り、私にはお金も人脈もスキルもない。あるのは情熱だけ。
共感してくださる方がいらっしゃりましたら、何でもいいから力をください。
明日から、草案書を抱えて、いろいろな人に会い、協力してもらえるように説得します。
その模様は、日々ここで可能な限り公開して参りますので、どんなちっちゃなことでもご指導ください。
多分、これをご覧になった方は、のけぞったり笑ったりしていることでしょう。でも、私は本気ですから!「あきらめろ」というご意見は、とりあえず聞き流すことだけは、はじめに言っておきますね。
本気で来年の1月には、立ち上げた報道機関から情報をお届けできるように毎日動きます。
先ずは、編集方針や報道体制を一緒に考えてくれるジャーナリストの方や、取材して記事を書いてくださるプロのジャーナリストの方、寄稿してくださる方と、経営してくださる方を捜し求め、お話をしたいと思っています。
その様な有志が集まってくださったら、出資してくださる方を探して土下座してでもお金を集める覚悟でおります。
共感してくださる方、どんなことでもいいので協力してください。(取材をお休みします 2005年10月24日 (月))
●懇談会以後、初めて泉さんに連絡をする
これを見て私は、事業計画を詳しく聞かせてもらえないだろうかと、泉さんにメールで連絡をした。民主党のブロガー懇談会で見せた、泉さんの我武者羅に行動する力をこの当時私は評価していたし、エントリーを見る限り、どうも泉さんは、切羽詰った状況のように思われた。
自分の周りのスポンサーに、この計画をプレゼンしてみようと思ったのである。
もちろんこれはビジネスである。ボランティアではない。報道機関がしっかりとした収益モデルの伴ったものであるか、その判断がGripBlogフォーラムにアップされた草案書では判断がつかなかった。
自分もシステム開発関連に携わっていることから、このモデルをどんなシステムで実現するのか、そのあたりにも関心があった。
すでに泉さんは、
「キーマン」に交渉したエントリーをUPしましたが、私が考えているコアになって動いていただいきたい方は、現時点で4人います。ひとりひとりが、それぞれの分野でどうしても必要な人たち。この方たちは、全員どうしても逃したくない人たちで、藁にもすがる気持ちで日々を過ごしています。
キーマン4人を獲得することが、第一歩だと考えているので、先ずは草案書を完成させること。そしてそれを持って何度もお会いすることしかテはないと思っています。頑張ります。
(2005年11月 9日 (水) 逃したくない中枢になってくれるメンバー)
という記事もあげていたので、この「4人のキーマン」というのが誰なのかも聞いてみようと思った。自分が考えているスポンサーの方向と、この「4人のキーマン」との間に競合関係や齟齬があってはならないと思ったのである。
※後になって考えてみると、この4人のキーマンの中に、ume氏、R30氏と松永氏のいずれかあるいは全員が入っていたのではないかと推測するが、確証はない。私は、懇談会で会ったR30氏と松永氏はともかく、ume氏に関してはこの当時存在も知らなかった。というより、今日に至るまで、泉さんからは私に対して、ume氏は常に「開発者」という表現で語られ、氏名を泉さんが口にすることは最後までなかった。不可解な話だが、協力者の氏名を彼女は1人もこちらに告げることはなかった。だが書面に関しては別である。これは後に触れる。
つまり、この当時私が泉さんに連絡した理由は
○窮状にある泉さんに力を貸したいと思った。
○報道機関のビジネスモデルに関心があった。
の2点である。
私には当然定まった業務や自分の企業の経営があり、当然ながら新たに仕事を探さなければならない事情はない。泉さんの事業に「アプローチ」したところで、大した見返りもメリットも期待する必要もない。この当時の私の気持ちとしては仕事半分、惻隠の情半分というところだろうか。それ以外の理由はない。
それより、何よりもこの当時GripBlogで「悲惨な調子で」協力の呼びかけを行っていたのは、当の泉さんである。それに応じて連絡をとったことを、あたかも「特別な意図でアプローチした」かのような表現で泉さんが語ったことは、きわめて不適切かつ不愉快な表現であると思っている。実際、多くの人があの記事を読んで彼女を気遣い、連絡してきたはずである。彼女はもう忘れているのだろうか。
話を戻す。
私のメールに対する泉さんの返事は、
「今は人集めをしている段階で、事業計画書がまだないので待ってほしい」
というものだった。
私はそれに対して、
「了解しました。もう少したったところでまた。ご健康に留意されてがんばってください。ではまた。」
というメールを送った。
※余談だが、この後12月になってから、あるジャーナリスト関連の団体の事務局に泉さんのことを告げて、連携できないかと話の合間だが相談した。この団体からは前々から業務を手伝ってもらいたいと声をかけられていたので、GripBlogにとってもいい形で提携ができればと思ったのである。この団体からは泉さんに12月3日に挨拶のメールが行っているが、その後の経過は知らない。
この当時の雰囲気とすれば、民主党のブロガー懇談会のメンバーのAaさんや安曇さんと連絡をとるたびに、泉さんの話が出て、皆で彼女の仕事の行く末を気遣っているという状態だった。
「泉さんは大丈夫だろうか」というのが、口癖になっていたのである。皆が報道機関設立を応援している空気があったのである。
次に泉さんと連絡したのは12/7前後である。このあたりのことは次回書く。
(注)この総括では基本的に、泉さんだけでなく、他の人からいただいたメールに関しては許可なしにそのまま掲載はしない。趣旨を書くにとどめる。
しかし、私が書いたメールに関しては、私の意思で公開できるという解釈に基づき、必要があれば公開する方針である。
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GripBlog報道メディア設立企画書について思うこと(1)
どんなときでもそうだけれど、物事は動き出すために、一定の時間を必要とする場合がある。特にさまざまな要因がからんでいる複雑な問題の場合はなおさらである。このエントリーを挙げてから、早くも2ケ月が経過した。ずいぶん長い時間だったように思う。その間、いろんなことがあったわけだが、実は自分として総括を怠っていたこと・・というか、敢えて避けていたパーツがある。それは、自分が表題の件に、どのように関わったかということである。
避けていた理由はいろいろある。無駄にこの問題の傷口を広げたくないということ。そして、何も私がやらなくても、ほかの誰かがやるだろうという、自己本位な考えもあった。もちろん予想されるリスクを避けたいという人並みな思いもあった。だが、このエントリー。
私の手元にある報道機関企画に関係する書類だけでもかなりの量で、人に見せるためにPDFファイルにしたものも7つあります。
報道機関設立草案書β1_0.pdf
報道機関設立草案書β1_1.pdf
報道機関設立草案書β2_0.pdf
報道機関設立草案書β3_0.pdf
報道機関設立草案書β4_0.pdf
WordPress仕様書.pdf
Grip 報道メディア設立 企画書.pdf(非公開)草案書を元に、実現できるコンテンツを具体的にした「Grip 報道メディア設立 企画書」以外は、公開して訂正するという作業を繰り返してきました。
この作業の中で、いろいろな方が様々な部分にアドバイスをくださってますし、同じ部分を複数の方から問題を指摘されたり、アイデアを提案されたりしています。
誰の案をどの部分に反映したかやヒントにしたかを特定して、具体的に説明するのは無理があります。
しかも、指摘されて訂正した部分でも、また他の方のアドバイスで訂正することもありました。(GripBlog コメント欄)
そしてこれ。
BigBangさんは、最終案の「Grip 報道メディア設立 企画書.pdf」(非公開)をご存知ですから、私が作ろうとした報道機関がどのような方向を目指していたかご存知のはず。
編集部を持たず、プロのジャーナリストだけではなくネットで発言している方にもニュース発信の場を与えて、発信されたニュースの信憑性を判断できる基準を備え、出来るだけ公平性を維持するようにと考えたものなのはご理解なさっていると思います。(同上)
泉さんによれば、最終案のGrip 報道メディア設立 企画書.pdfを持っているのは私だけらしい。そして、その企画書によってこそ、「私が作ろうとした報道機関がどのような方向を目指していたか」がわかるだろうということらしい。
となれば、私は、この企画書の内容と経緯に触れることが、他の方には「出来ない公益性」を見て取れるし、この企画書の内容と経緯についてコメントする正当な事由を獲得できたと解釈する。非公開であったということも、知らなかったし。
但し、この作業を進めるに当たって、なお今でも遵守したいことがある。それは
●企画書中に記載された、特定の個人の個人情報の一部を特定するような箇所については、配慮すること。
●企画書中に記された、特定の個人の名誉を傷つけることが予想される事柄については、配慮すること。
●できるだけ先入観を廃して記載し、特定の事実に誘導するような方法はとらないこと。
そしてもちろん
●記憶の限り率直に事実を記載すること。
それだけである。
今まで、一貫してこの問題に関わりながら、この作業が今日までできなかったことは、自分としてはこれまで忸怩たる思いがあった。と書くと何やら大仰であるが、なに、ブログジャーナリズムである。起きたことの経緯を、(たとえ自分の主観を完全に排除することは出来なくても)そのまま綴ることは、意味の無い行為ではないと信じる。
以上の制限を自分に課すので、起きた出来事の経緯は公開するが、肝心のドキュメントを公開することは、制作者の著作権に配慮して差し控えたいので、ご理解いただきたい。もちろん、これにより、この作業から違法性を排除する担保目的もある。
今日はいろいろあって(苦笑)冷静さを欠いてはいけないので、明日以降、他のエントリーの合間にゆっくりと慎重に記していくことにする。
まあ、あまり期待しないで読んでください。今まで書いたことがないことであるのは確かであるが、だからといって、それほど衝撃の事実が大量に出てくる訳ではないので。
そして、この作業がおそらく私にとって、ある種の総括になることは確かである。
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May 16, 2006
すさまじく消費されていくこと------永遠に?
このブログを初めてからそろそろ2年だろうか。最初のころは何を書いたらいいかわからなくて、2週間に1回ほど、街で思ったこととか、とりとめのないことを書いていた。もちろん、アクセスなんてほとんどない。自分が自分のブログの一番熱心な読者だった。
そのうち、少しずつ読んでくれる人が増えて、記事も頻繁にあげるようになった。アクセスが増えていくことが嬉しかった。
いわゆる「ウケのいい」記事を書くと、とたんにアクセスが増える。毎日のように覗いてくれる人が増えてきたことも励みになった。余計頻繁に記事を書き始める。
はてなのブックマークを覚えた。関心の高い話題に突っ込むと見る見るうちにブックマークが増えて行く。気持ちが高ぶる。
だがそれも一瞬のこと。数時間が過ぎれば、はてぶの波は、何事もなかったように、新たな記事に移って行く。例えどんなに関心を集めたとしても、ブロゴスフィアは、すさまじい勢いであなたと、あなたの記事を「消費」していく。
消費されてなるものかと、次の記事を書く。読者の波が戻ってくる。なぜこんな記事がと思うものにアクセスがつく。これはと思うものが無視される。読み違えたバカモノが、見当違いの批判を残す。かと思えば、泣かずには読めないようなコメントを残す人がいる。
好意であっても、悪意でも、この間もブロゴスフィアは、僕と、僕の記事を。
あなたとあなたの記事を消費し続けるのだ。その速度には誰も勝てない。
やがて何人かのブロガーが疲れ果てて、あるいは書く意味を見失って、ブログを閉じて去って行く。
何のために書いているのか。1円にもならないのに。
何のために書いているのか。名誉にもならないのに。
この空間に消費され尽くし、体中に傷を受け、留まっていられるのは、いったい何年が限界なのだろうか。そして何本の記事が限界なのだろうか。そんな御託を並べている間にも、僕はこうして記事を書き、あるいは人のブログに、無謀なコメントを残す。
彼方で、誰かが傷つき頭を抱える。
彼方で誰かが涙して、そしてそれでも消費は止まらない。
記事を送信した途端に、今日も凄まじい消費が始まり、あなたを、そして僕を吸い尽くしていく。
これが死ぬまで続くのだ。
ブログ上で死を迎えるまで。永遠に。
2006 05 16 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(11) | トラックバック
May 10, 2006
中村屋のボース----恋とインド革命とアジア主義と謎の青い球
新宿中村屋にインドカリーを持ち込んだのは、インド独立運動で名をはせたラース・ビハリー・ボース(R.B.ボース)である。(同じくインド革命の英雄チャンドラ・ボースとは友人だが別人)インド総督ハーディングに爆弾を投げつけた「テロリスト」ボースは日本に亡命し、当時の新宿中村パン屋の当主、相馬愛蔵と妻の黒光の保護を受け、やがて彼らの娘、相馬俊子と結婚する。中村屋は、ボースを記念して長く中村屋のインドカリー(インドカレーではない。カリーである)にこだわり、その伝統を守り続けた。
そのあたりまでの知識はおぼろげながらあったのだが、戦前戦後の日本のアジア主義の系譜の中で「思想家R.B.ボース」がいかなる存在であったのかを、当初大学生でありながら、著者中島岳志がボースの娘樋口哲子氏の資料提供等、全面支援を受けながら、ボース研究の執念の結晶として書き綴ったのが本書である。第5回大佛次郎論壇賞(朝日新聞社主催)を受賞している。
ここには、日本の「アジア主義者」あるいは単に「国粋右翼」として括られる頭山満、大川周明、そしてチャンドラ・ボースらの実像が、ビビッドに魅力的に描写されている。
インドの独立運動をひたすら願いつつ、心ならずも日本に亡命して、中村屋のアトリエで潜伏し、後にとりあえずの自由を得たボースは、その後も長くイギリスの機関に命を狙われ続ける。果敢に彼を支えた俊子の急逝、男気とはこういうものだと思わせる相馬愛蔵、頭山満らの群像は、現代日本の姑息な日常に生きる者にはまぶしい。
やがてボースは大東亜共栄圏の理想を支持しつつも、それを利用してインド独立を果たそうとする夢に破れ、絶望しつつ生涯を終える。アジアの欧米からの独立を実現するために、日本の台頭に期待しながらも、自国の誇りとの間に板ばさみになっていた、当時のアジアの知識人の思いがどんなものであったか。画一的な戦前アジア思想への批判では描ききれない世界が、ここにある。推奨できる貴重なルポルタージュである。
そんなボースにどっぷり浸っていた僕は、打ち合わせ先で、あのタヌキ関連の歴史好きの友人に、この本を見せて、ぜひ読むべきだと薦めた。すると、さすがタヌキの森の守護者は凄いことを言い出した。
「ちょっと待って」
さっきまでGoogle Earthが動いていた彼のパソコンに、目まぐるしい勢いでたくさんの画像が表示されていく。
「まさかボースの写真もパソコンにあるとか言わないでよ・・・・・・って・・・おい!何だ、それは!」
彼のパソコンには、中村屋のアトリエやボースの顔写真、相馬夫妻の写真などが次々と表示されたではないか。
「それって・・・ローカルだよね?今ネットから持ってきたんじゃないよね?」
タヌキの守護者が説明してくれたことには、なんと1週間ほど前に偶然彼は、ボースが身を潜めていた中村屋のアトリエ(このアトリエは、荻原禄山が作ったものである)の前住人、画家の中村彝(ツネ)の下落合のアトリエを訪ねて、写真を多く撮ってきたばかりだという。なんという偶然!
身を乗り出すと、1枚不思議な写真がある。アトリエの廊下を写した一角の暗闇に、青い鮮やかな球が宙に浮いている。
「何?これ?ハレーション?」
「いや・・・これを見てよ。これなんだと思う? 俺が撮った写真なんだけど」
彼が青い球を拡大した。すると表面に無数の網目模様が入っている。毛糸で編んだ青い球のようであるが模様は意外と規則的。長く写真をやっていた僕には、これが明らかにハレーションでないことはわかる。
「何?これ?」
繰り返しながら息を呑む。薄暗い中村彝のアトリエの廊下に浮かぶ青い球。
彼によれば、その場所の写真を撮ったときには、何も見えなかったという。しばらく僕たちはその不思議な青い球を眺めて黙っていた。
何かボースに呼ばれたといえば、因縁話になる。なるが、そういうこともある。この球が何だかわからないが、希代の革命家の周辺とその後世に、そういうことがあっても不思議ではない。
というわけで不思議な青い球を見ながら、読了したばかりの「中村屋のボース」とR.B.ボースの生涯を、もう一度思い出していた。
果たして友人と一緒に、タヌキの森のぽんぽこに騙されたか??あるいは何かに呼ばれているのでしょうか。
#またインドですか。やばいです。
2006 05 10 [書籍・雑誌] | 固定リンク | コメント(6) | トラックバック
May 09, 2006
GripBlog--滝本弁護士へインタビュー
江川さんがインタビューに応じることはあり得ないことを知っていたので、滝本さんしかいないと思ってはいた。
さすがに滝本氏の話は内容があったなあ。本気で向き合ってきた人の話は違う。これに限らず、どんなテーマでも結局そうなんだろうけれど。
うなずいたり、にが笑いしたり、泣きそうになったり(苦笑)、自信を持ったり、反省したりしながら読んだ。
いくつかの自分の中の曖昧な思いがはっきりとした。
もう少し読んでからまた。
【加筆】
とくにこのへん。
オウムの信者を理解するけど、決して許さないぞという態度が絶対必要なんです。で、上祐は、オウムを生き残らせるために工夫している、上祐路線の元に社会 の人に許してもらおうと考えているわけです。麻原の教えを使ったまま、ヴァジラヤーナは隠したまま、いつでも封印を解ける状態でね。それに括弧書きの知識 人とか括弧書きの人権派が乗っちゃうわけだ。それを決して許さないぞという態度が極めて大事なのだろうと思う。上祐こそ「嘘をつく」のがワークなのだとい うことを忘れては困る。
(中略)
で、もちろん厳しく言って事件が解決するわけではない。だから私も厳しく言わないけど、許さないぞという態度を忘れたならもう終わり。でも、「許さない ぞ」という態度を忘れているように感じられる発言が時々あるわけだ。仏教の課題として一般化する議論をしたり、社会論一般にしたりね。
【参考記事】
「ことのは」の背負ったもの----許さなければならないこと。許してはならないこと。
2006 05 09 [ことのはを巡る問題] | 固定リンク | コメント(28) | トラックバック
May 07, 2006
ブログジャーナリズムなんて必要なのか?----相次ぐ惨状に関して
どこからどう見ても、「ブログジャーナリズム」なるものは、戦線の後退に次ぐ後退を強いられているようにしか思えない。GripBlogの混乱、ガ島通信の現在状況、「ネットは新聞を殺すのかblog」の瀕死寸前のスイカ状況etc.
「ブログジャーナリズム」について、概念的意見を披露する場はよく見かけるのだが、元来「ブログジャーナリズム」なるものは独自の価値やポジションを持ちうるモノなのであろうか?もっと簡単に言えば
そんなもの必要か?
あるいは
ジャーナリズムがブログを使ったくらいで何か別の価値を持てると考えること自体が、大いなる錯覚なのではないか。
確かに読者との相互コミュニケーションや、記事をアップするときのスピードなどなど、既存のメディアに比べて優れているところはあるにはある。しかしそれらは、どれも「ツール」としての利便性にしか過ぎず、本質的な問題とは無関係ではないか。
「ブログブーム」に乗っかり、Web2.0などと「持ち上げられ」、一時は過剰な期待を背負ったサイトが次々と失速している現状の中に、何か共通の問題点のようなものが、透けて見えていると言っては言い過ぎか。それははっきりとは僕も形には出来ていないのだけれど、「ツールと価値を転倒している」ことと、「現場感覚の欠如」が、その要因であるように思う。
ブログを使うジャーナリストは、どこまで言っても「ブログを使うジャーナリスト」にしか過ぎないのであり、そのこと自体に特別な価値はないということだ。そっち方面で多大な期待をしていくこと自体が、かえって発信者に「器を越えた」過大な負荷をかけることになっているのではないか。
そして、もう一つ。言い古されたことだが「現場感覚の欠如」である。
もちろん「ブログジャーナリズム」なるものが、「現場感覚」を失っているわけではない。表現の場がブログになっても、取材対象としてのリアルな場は失われているわけではないから。だが、上で列挙したサイトのいずれもにおいて、「現場」を見つめる目が、上滑っている例が多いように思うのは気のせいだろうか。概念論優先で、具象を飛ばしていると言ってもよい。システム屋的に言うと、エンジニアリング優先でユーザー価値の還元を忘れているとでも言うのだろうか。
というのも、ロンドンに赴任して再開された高田さんの「ニュースの現場で考えること」を読んでいて、次の一節につきあたったからだ。例の 公正取引委員会が新聞の特殊指定見直しについての記事である。
今の日本の言論の自由(が存在するとして)は、「宅配」によって担保されているのか? 「宅配」が無くなれば、言論の自由も消えるのか? じゃあ、宅配の無い国々(世界のほとんどはない)は言論の自由度が低いのか? 私が今住む英国の新聞は飛ばし記事から何から書き放題だけれども、宅配は事実上無い。新聞協会の会長は今度どっかの国に外遊する際は、相手国の業界長に「おたくの国には宅配が無いのですか? それじゃあ言論の自由度も低いでしょうし、大変ですな」と言った方がいいかもしれない。
私は若いころのほんの一時期だけれど、東京の新聞販売店に住み込み、専従になったことがある。そのことは、だいぶん前にブログにも書いた。おそらく、宅配の現場は当時も今も、ほとんど変化はないだろう。これは私の経験のみから言うことだけれど、宅配の維持とは、今現在の設ける仕組みを維持することでしかない。それは同時に、すさまじい拡張競争や不当な値引き、劣悪な労働環境等々、宅配現場の種々のマイナスの実態を維持することにもつながる。
言論の自由は宅配に支えられているわけではないし、支えられるべきものでもない。そんなヤワなことを言っていると、たぶん、メディアを思い通りに使いたい人たちの思う壺である。(ニュースの現場で考えること 言論の自由と宅配制度をリンクさせるな)
ここでロンドンにいる高田さんの、この問題における的確な記事が読めるのは確かにブログの力であるが、それ以上でも以下でもない。むしろ、宅配の現場経験を持つ、1新聞記者の、この問題に対する感覚が、数行に如実に表現されている、そのことに出会えていることが重要なのであり、努々手段と価値の転倒をすべきではない。
つまり、この記事はブログで伝えられているが将来はワンセグなどで伝えられるかもしれなくて、それはそれで別に構わないということなのだ。もちろん紙でも良い。非常に効率的な手段としてのブログ、そして読者との双方向のコミュニケーションといったブログ独自の価値は否定しないが、ここでは絶対ではないということだ。コミュニケーションの方策は何も当該ブログのコメント欄だけではない。
一次情報としての「良質の燃料」が確かにこの記事にはあるのであり、それが重要なのである。その質を欠いて概念を先行してブログジャーナリズムに立ち向かったサイトの相次ぐ惨状は、周知の通り。
もっとも、ここで忘れてはならないのは、
●高田氏が、あの「ブログ・ジャーナリズム 300万人のメディア」の最後の共著者であるということ。
●そして、幸いにも現在、氏が日本から遠く離れてロンドンから発信しておられること。
この2点を、残された最後の希望として、僥倖として受け止めたい。
#さらに、この記事が重要な宅配制度について、全く踏み込んでいないで、ここで終わってしまうことも読者にお詫びしておく。
2006 05 07 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(17) | トラックバック
May 05, 2006
「六本木ヒルズ×篠山紀信」と九龍城----イメージの不思議と支離滅裂
米国に住む知人に送る日本土産を探すことになったんだけれど、西海岸のIT通信企業に勤めておられるということから、今の日本を、そして東京を知ってもらうにあたって、やはりこの写真集が最適ではないかと思った訳である。
「六本木ヒルズ×篠山紀信」(篠山紀信)
8X10の大判カメラで、篠山紀信が正面から六本木ヒルズの空間をとらえた作品集。
今更言うまでもないことだが、篠山紀信という写真家の目を通した被写体は、本来その被写体が持っている以上の光を放ち始める。それは平らに言うと、「時代を切る目」だとか、そういう言葉になってしまうのだろうけれど、六本木ヒルズほどの「大物」を相手にして、いささかも力負けしない写真家ということでは、篠山紀信以外には、そう何人もいるものではない。
楽天の朝礼風景、広場での盆踊り、大集合しての太極拳、住民の田植えの風景、モダンな空間に佇む花嫁の情景など、ここで描かれる六本木ヒルズは、どこか21世紀のトンデモな日本の風景を切り取った映像群にも見え、本来ならこの写真集に欠かせなかった被写体であったろう、先日退場した「あの男」の残影のようなものまでも感じとれて、その上、これほどにポピュラーな対象を、あたかも異国人の目で切り取ったような作品に仕上がっている。さすがである。
もしも六本木ヒルズが、日本の富の集約と成功の碑としてそこに建っていると我らが思い込んでいても、ここに登場しているヒルズの空間は、非現実でリアリティのない、現代都市東京の楼閣のような、ざらつきを心に感じさせるのである。
果たして西海岸に住むIT関係者に、このトンデモな異色の空間を感じ取ってもらえるかどうかは未知数ではあるが。
いいじゃないか。これを贈ろうと思った。
ところがこの写真集を手に取った売り場で、もう1冊目についたのは、類を見ないもうひとつの20世紀の「楼閣」を撮影したもう1冊の写真集であった。今はなき香港の九龍城を題材にした
「九龍城探訪 魔窟で暮らす人々 -City of Darkness- 」
1898年、イギリスが清朝から香港島や九龍に隣接する新界及び香港周辺200余りの島嶼部を99年間租借。九龍城砦は新界地区に所在していたが、例外として租借地から除外され清の飛び地となる。後にイギリスの圧力で清軍・官史等が排除されてしまい、以後事実上どこの国の法も及ばない不管理地帯となる。また1941年から1945年の旧日本軍による香港占領期間中に近隣の啓徳空港(Kai Tak Airport:現在の旧香港国際空港、1998年に移転のため廃止)拡張工事の材料とするため城壁が取り壊された。1940年代の中国内戦及び共産政権の樹立により、香港政庁の力が及ばないこの場所に中国大陸からの不法流民がなだれ込みバラックを建設、その後スラム街として肥大化する。
1960年代から70年代には高層RC構造建築に建て替わるものの、無計画な増築による複雑な建築構造と、どの国の主権も及ばずに半ば放置された暗澹たる環境から「アジアン・カオス」の象徴的存在となっていた。しかし1984年の英中共同声明により香港が1997年に中国に返還されることが確定すると1987年には香港政庁が九龍城砦を取り壊し、住民を強制移住させる方針を発表。
1993年から1994年にかけて取り壊し工事が行なわれ、再開発後に九龍寨城公(Kowloon Walled City Park)が造成された。(Wikipediaより)
九龍城の魔窟が消滅したのは1994年。配線と区画が無秩序に乱雑に入り組んだ、悪夢の中に出てくるようにも思える迷宮の中で暮らす人々の日々の生活を描いた写真集である。圧倒的な存在感とたぎるようなエネルギーがどの写真にもみなぎっていて、この空間が10年以上前にこの地上から消え失せてしまったことすら、信じられないほどである。いつかここを訪れて見たいと思っていたがそれはかなわなかった。
20世紀に消えていった九龍城と21世紀の六本木ヒルズ。似ても似つかぬこの2つのアジアの楼閣がクロスした時代が今とも言えるのか。そんな感覚が身をよぎる。
それにしても、六本木ヒルズほどの大規模都市開発の未来は、行く末はどのような姿を辿るのであろうか。いつかは老朽化し、スラム化するようなことが全くないとは言えないであろう。他の多くの建築物が辿った運命と同様にだ。
そのとき100年後の人々は、100年前にこのヒルズに覇を唱えた伝説上の人々の命について、ここを訪れて考えることがあるのだろうか。それともないのだろうか。
妄想するのである。100年後の六本木ヒルズの姿を。
そしてその姿に、九龍城の魔窟のイメージが重なる不思議と支離滅裂がどこから来るのか、自分でも正確には説明できないのであるが。
2006 05 05 [書籍・雑誌] | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック
May 02, 2006
交通博物館と鰻とスピッツと1%に関する話
今日はこれである。
秋葉原のランドマーク万世橋のたもとにある「交通博物館」が、2006年5月14日(日曜)をもって閉館する。子供の遠足だけでなく大人の“おさぼりスポット”として、多くの人に愛されてきたが、館内施設の老朽化やバリアフリー対策の不備などを理由に1921年(大正 10年)から続く歴史に幕を引く。(デジタルARENA アキハバラ最前線 さようなら! 交通博物館…「旧万世橋駅遺構特別公開」フォトレポート【大人の秋葉原 第1回】)
収蔵・展示品目の増加によって手狭になり、また建物の老朽化が進んでいることもあって、JR東日本は、神田にある交通博物館を2006年5月14日限りで閉館し、「交通博物館」と改称して2007年10月14日にさいたま市大宮区大成町、北区大成町に移転・再オープンする計画を2004年2月16日に発表した。 新・交通博物館の建設と運営は財団法人東日本鉄道文化財団に委託。その為本稿では継承館として同館についても著述する。(Wikipediaより)
交通博物館は、60年代の子供にとっては憧れの場所だった。ただの「鉄道」が、あのころの子供にとって、なぜあんなにもキラキラ輝いていたのか、今となってはどうしても謎である。線路も、車輪も、駅も駅弁も、今とは明らかに違う光を放っていたのである。
隣の夫婦には子供がいなかった。
その代わりに、スピッツを飼っていた。あのころの日本の家庭では、犬といえばスピッツだったのである。トイプードルでもチワワでもなかった。僕の生まれた同じ年に、そのスピッツは生まれて、一緒に大きくなった。というか、犬なので大きくなったというよりも急速に年老いていったのである。隣夫婦の旦那さんのほうは、確か聚楽に勤めていた。板前である。聚楽は、「国鉄」の出入り食堂業者であり、その関係からか、隣の旦那は、国鉄の大ファンだった。で、数ヶ月に一度は、隣に住む小学生の男の子を誘って、神田にある交通博物館を訪ねることになったのである。
交通博物館に、それほど明確な思い出はない。微かに覚えているのは、大きな、大きな鉄輪と、赤レンガ、そして蒸気機関車である。夫婦は、一日神田で過ごすと、(確か)聚楽亭で食事をご馳走してくれた。
一途な板前さんだった。しばらくしてから、郊外に鰻屋を開いた。子供心にも腕は良かったと思っているのだが、何分にも繊細過ぎた。鰻重のために作ったタレを無視して、客が醤油を頼むと、それだけで店に出られなくなった。途方にくれていた奥さんを思い出す。それでも鰻が好きな僕は、その郊外の店まで何度か遊びにいっては、鰻をご馳走になった。目を細めてその小学生を眺めていた顔が忘れられない。
しかし、2年も続いたろうか。その夫婦の店は駄目になった。子供だったからわからないけれど、おそらく気難しかったせいだと思う。その店のために作った大量のマッチだけが残った。悪いことにそれから間もなく、スピッツが死んだ。寿命である。確か15年生きた。
夫婦の運命は次第に暗転した。旦那さんは、昼間から酒におぼれるようになった。元々酒が好きだったが、それに拍車がかかった。犬が死んで寂しかったのだろう。悪いことに(おそらく)隣に住む小学生も成長した。交通博物館に誘っても、理由をつけては断るようになった。旦那さんの酒量は増え、次第に幻覚に悩まされるようになった。妻の浮気の幻影を見るようになった。留守の間に、妻が外出すると、血眼になって探した。「黒人と一緒にあいつが逃げた」などと、訳のわからぬ事を言っては、うちの玄関に立つようになった。エスカレートして、そのうち夜中にドアを狂ったように叩いた。困った僕と祖母は、近くの交番に相談に行ったが、何も事件を起こさないとどうすることもできないといわれた。錯乱が激しくなると救急車を呼んだ。でも酒が醒めると帰ってくる。酒さえ醒めてしまえば、気の小さい繊細な男であった。
そのうち奥さんはたまりかねて、帰ってこなくなった。旦那の錯乱は激しくなり、一人酒に溺れた。何日か姿を見ないことが続き、祖母は心配して住宅の管理人から鍵を借りて隣に様子を見に行った。旦那さんは一人で台所に座ったまま、死んでいた。
明治生まれの底力を知ったのはその時である。祖母は顔色も変えずに帰ってくると、まるで天気の話をするような調子で、彼の死を告げた。で、あろうことか布団に寝かせたいので手伝えという。冗談じゃない。僕は家の中で震えていた。「しょうがないねえ。弱虫」と言うと、祖母は取って返し、1時間ほどかかって、隣の「後始末」をして、警察を呼んだ。
世間的には「変死」である。なぜ動かしたのかと、祖母は警官に散々小言を言われたが、涼しい顔をしていた。はなから役者が違う。「死体なんか戦争で散々見ている」!!!!!警官は引き下がった。
交通博物館の閉館。僕が思い出したのは、鰻とスピッツだ。変な連想だが、鉄の車輪の匂いと一緒に鰻とスピッツを思い出す人間は、世界広しと言えども僕だけだろう。
で、それはそれだけの話である。それだけの話であるが、こうして書き起こすことで、ひとつの謎が解けたような気がする。人生における孤独に関する、全体のほんの1%ほどの謎ではあるが。
2006 05 02 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック






