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May 07, 2006

ブログジャーナリズムなんて必要なのか?----相次ぐ惨状に関して

どこからどう見ても、「ブログジャーナリズム」なるものは、戦線の後退に次ぐ後退を強いられているようにしか思えない。GripBlogの混乱ガ島通信の現在状況、「ネットは新聞を殺すのかblog」の瀕死寸前のスイカ状況etc.

「ブログジャーナリズム」について、概念的意見を披露する場はよく見かけるのだが、元来「ブログジャーナリズム」なるものは独自の価値やポジションを持ちうるモノなのであろうか?もっと簡単に言えば

そんなもの必要か?

あるいは

ジャーナリズムがブログを使ったくらいで何か別の価値を持てると考えること自体が、大いなる錯覚なのではないか。

確かに読者との相互コミュニケーションや、記事をアップするときのスピードなどなど、既存のメディアに比べて優れているところはあるにはある。しかしそれらは、どれも「ツール」としての利便性にしか過ぎず、本質的な問題とは無関係ではないか。

「ブログブーム」に乗っかり、Web2.0などと「持ち上げられ」、一時は過剰な期待を背負ったサイトが次々と失速している現状の中に、何か共通の問題点のようなものが、透けて見えていると言っては言い過ぎか。それははっきりとは僕も形には出来ていないのだけれど、「ツールと価値を転倒している」ことと、「現場感覚の欠如」が、その要因であるように思う。

ブログを使うジャーナリストは、どこまで言っても「ブログを使うジャーナリスト」にしか過ぎないのであり、そのこと自体に特別な価値はないということだ。そっち方面で多大な期待をしていくこと自体が、かえって発信者に「器を越えた」過大な負荷をかけることになっているのではないか。

そして、もう一つ。言い古されたことだが「現場感覚の欠如」である。

もちろん「ブログジャーナリズム」なるものが、「現場感覚」を失っているわけではない。表現の場がブログになっても、取材対象としてのリアルな場は失われているわけではないから。だが、上で列挙したサイトのいずれもにおいて、「現場」を見つめる目が、上滑っている例が多いように思うのは気のせいだろうか。概念論優先で、具象を飛ばしていると言ってもよい。システム屋的に言うと、エンジニアリング優先でユーザー価値の還元を忘れているとでも言うのだろうか。

というのも、ロンドンに赴任して再開された高田さんの「ニュースの現場で考えること」を読んでいて、次の一節につきあたったからだ。例の 公正取引委員会が新聞の特殊指定見直しについての記事である。

今の日本の言論の自由(が存在するとして)は、「宅配」によって担保されているのか? 「宅配」が無くなれば、言論の自由も消えるのか? じゃあ、宅配の無い国々(世界のほとんどはない)は言論の自由度が低いのか? 私が今住む英国の新聞は飛ばし記事から何から書き放題だけれども、宅配は事実上無い。新聞協会の会長は今度どっかの国に外遊する際は、相手国の業界長に「おたくの国には宅配が無いのですか? それじゃあ言論の自由度も低いでしょうし、大変ですな」と言った方がいいかもしれない。

私は若いころのほんの一時期だけれど、東京の新聞販売店に住み込み、専従になったことがある。
そのことは、だいぶん前にブログにも書いた。おそらく、宅配の現場は当時も今も、ほとんど変化はないだろう。これは私の経験のみから言うことだけれど、宅配の維持とは、今現在の設ける仕組みを維持することでしかない。それは同時に、すさまじい拡張競争や不当な値引き、劣悪な労働環境等々、宅配現場の種々のマイナスの実態を維持することにもつながる。

言論の自由は宅配に支えられているわけではないし、支えられるべきものでもない。そんなヤワなことを言っていると、たぶん、メディアを思い通りに使いたい人たちの思う壺である。(ニュースの現場で考えること 言論の自由と宅配制度をリンクさせるな

ここでロンドンにいる高田さんの、この問題における的確な記事が読めるのは確かにブログの力であるが、それ以上でも以下でもない。むしろ、宅配の現場経験を持つ、1新聞記者の、この問題に対する感覚が、数行に如実に表現されている、そのことに出会えていることが重要なのであり、努々手段と価値の転倒をすべきではない。

つまり、この記事はブログで伝えられているが将来はワンセグなどで伝えられるかもしれなくて、それはそれで別に構わないということなのだ。もちろん紙でも良い。非常に効率的な手段としてのブログ、そして読者との双方向のコミュニケーションといったブログ独自の価値は否定しないが、ここでは絶対ではないということだ。コミュニケーションの方策は何も当該ブログのコメント欄だけではない。

一次情報としての「良質の燃料」が確かにこの記事にはあるのであり、それが重要なのである。その質を欠いて概念を先行してブログジャーナリズムに立ち向かったサイトの相次ぐ惨状は、周知の通り。

もっとも、ここで忘れてはならないのは、

●高田氏が、あの「ブログ・ジャーナリズム 300万人のメディア」の最後の共著者であるということ。

●そして、幸いにも現在、氏が日本から遠く離れてロンドンから発信しておられること。


この2点を、残された最後の希望として、僥倖として受け止めたい。

#さらに、この記事が重要な宅配制度について、全く踏み込んでいないで、ここで終わってしまうことも読者にお詫びしておく。

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Comments

私は、ネットジャーナリズムやブログジャーナリズムは、既存のジャーナリズムの延長線上にないと確信しています。だから、失礼を承知で湯川氏をハチ公と形容している。

現在は、既存のジャーナリズムをネット上に移設することでネットジャーナリズムが実現されるという試みがなされているが、それは、誤りである。
島津製作所の田中耕一氏が、試薬を間違ったことで、世界的な発明にいたった。ネットジャーナリズムも同じこと。発想の転換が必要テのだ。

民主主義が市民の意見を反映するものならば、市民の意見を集め世論を形成するシステムは必要だ。ジャーナリストたちが市民たちの意見を装って、思いのままに社会を動かす時代は終わりに近づいていると思っている。

結局、Blogって同人誌みたいなもんじゃないんですかねえ。「同人作家の中にも巧い人・面白い話が書ける人がいる」のは確かですが、別に同人誌に書いてるからエライ訳でも面白い訳でもないし、ほとんどの同人誌はクズ・・・。でも、メジャー誌でできずに、同人誌でしか描けないものってのもありますよね・・・。
Blogとジャーナリズムというものが、もともと相性が悪いんじゃないんですかね。
Blogってのはパーソナルで、ニッチで、個人のこだわりとか妄執とか、そんなのがてんこもりになってるページが面白いのであって。
そうなると原理的に客観性の要求されるジャーナリズムとは相容れないんじゃないですかねえ。結局、「報道」系でBlogに残るのは、少ない事実からイデオロギーによって見方をねじ曲げた「電波系」自称ジャーナリズムだけじゃないんでしょうか。

ところで旧聞になりますが、あまり話題になっていないようなので。
上祐がオウムを分裂させるそうですが、そうすると上祐との軋轢でのあった松永は麻原派の中心としてオウムに復帰する可能性がありますね。(もともと脱会したとは思ってませんが)脱会届を出さなかったのは、この上祐派の動きがわかっていたから、ゴタゴタを避ける為に一時避難したのではないかと思います。
オウム真理教分裂へ 上祐代表が新教団を準備
http://www.asahi.com/national/update/0502/TKY200605020353.html
http://news.google.co.jp/news?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLG,GGLG:2006-05,GGLG:ja&q=%E4%B8%8A%E7%A5%90

自分は一般化される前からネットを情報源として利用させていただいておりました。
その頃は、一次情報(当事者)の発信場所として十分機能していました。
文書では遅すぎるデータの交換や、表では語れない情報を論議していました。

ここ数年のブロードバンド&携帯の普及によって、ネットが様変わりして来ました。
当事者ではない人間が、当事者を知っているとか、ネットで調べたとかのたまって、テキストでは読むにに耐えない文章を、画像を利用してアッピールする手法が受ける様になってしまったのです。

何の事は無い、TVの劣化コピーです。
その手法は手垢にまみれているのに、ITと称して人気が出ただけで
その事に今頃気づいたのではないかと思います。

cf 自分はテレビはオリンピック位しか見ません

JanJanやオーマイニュースなど組織的なネットジャーナリズムへの考察が、このエントリーで抜けてしまったと思っていますが、それはまた別に。

全くの自由参加とジャーナリズムは組み合わせが悪い。
組み合わせるモノがジャーナリズムではなく、メディアとすれば面白みや可能性があると思う。

 要するに、群盲象を撫でる、じゃないですかね? ありきたりですが。
 撫でてる本人の思いこみ次第で、どうとでも受け取れるもんなんでしょ。

 私が前回ちょろっとお邪魔したときにテキトーに書き散らしても、それを「見ただけ」で判断してあーだこーだ言ってる人が多かったでしょ。
 そらまあ実際書いたことだからそれだけ見れば「それだけ事実」にゃ違いないですけど、書いてる私の何を知ってる? と言われれば何も知る訳ないから、結果、文面を読んだときの雰囲気や印象で個々の「私像」を作って、それに対して文句言ってるだけ。
 誰かに物を言ってるんでなく、自分自身に物を言ってる。
 そういう人が増えてますよね。一次情報に直接触れる機会の無い人がブログを運営することで一次情報を自ら発信する人と同列になっちゃってるのが要因かと思いますが。

 ジャーナリズムとは筋目が違ってくるのかもしれませんが、学術発表や研究成果公表などの分野では、ブログジャーナリズムは成立するでしょうし、生き残るのではないでしょうか?
 政治経済芸能ゴシップ等「人間」が主題になるものに関しては、
>全くの自由参加とジャーナリズムは組み合わせが悪い。
>組み合わせるモノがジャーナリズムではなく、メディアとすれば面白みや可能性があると思う。(トリルさんの発言より)
↑こういう方向性になるんじゃないかと。

 人間相手に「真実」なんてありっこないっつうか。洟で笑っちゃいますな。

 それはそうと、最近キリスト関連でなんか資料発掘&再発見があって、ユダの評価に一石が投じられたとか。聖書の言い分やキリスト関連物語にもそれなりの修正があるんじゃないか? とか。
 世界で一番流布してる「人間向け真実(笑)」ですら、この体たらく。他は推して知るべしなんじゃないかと。

思うに「新聞ジャーナリズム」「テレビ(放送)ジャーナリズム」「雑誌ジャーナリズム」などという言葉もかつてはあって、この中で今でも使われているのはどれでしょうか?

どれも使われているかな。

登場時には、新聞ジャーナリズムと放送ジャーナリズムの対比などは非常に熱く語られたわけですが、最近はとんと見かけなくなりました。ブログ(ネット)ジャーナリズムなるものも、同じ道を辿るのではないかと。

「ブロゴスフィア全体がジャーナリズムでしょ」とほかで書いている人がいましたが、そういう意味では同意。


定義以前に「食うために使っている」のが露骨に見えてしまうといけません。

 人間食うためなら何でもやります。「何でも」が何処までかは誰が決めるのかと。自分で決めればやくざになるし、他人に委ねれば奴隷になる。どちらに転んでもいい話ではないから、自分で決めてヤクザ街道突っ走ってるだけなんじゃないですかね?>新聞屋・ブログ屋
 そのうち何らかの形で頭打って恥掻けば、落ち着くべきところに落ち着くでしょうね。

燃料投下して意図的に混沌を作って、そこから質の良い・都合の良いネタを繋いでコーディネイトしオーサライズして、それぞれ個性的な自称編集子が自分トコにアップ。

結局、ジャーナリストといっても自分の立ち位置からそうそう出るものでもないし、足らない知恵を補填して貰ったりね、形が付くとすればそういうレベルにしかならないと思う。
でなければ、不定形の混沌な儘だわな。

そういう方法論を上手に使い、且つ良質にまとめ読ませるならば、一種のバランス感覚を持った文才ではあるな。
でも、所謂ジャーナリストに要求される資質ではないよ、これは。

グリップの試みはドンキホーテ的に面白かったが、そういう意味では何がしたかったのか良く分からないのな。
フリーの既存記者が寄り集まってギルド的に運営するというのならわからんでもなかったんだけど、それも「探偵ファイル」的になってしまうかな?(笑)

[これはひどい]コメント欄

結局アクセス数稼ぐのと部数や視聴率を稼ぐのと
本質的に変わりはない。

自己顕示欲か、金の為かは判断しがたいが
どちらも真実とは遠ざかっていきます。

自分のサイトはまじめすぎて誰も来ませんw(嘘)

愛蔵太さんのブログは検証に偏執的で、あれはあれでブログジャーナリズムだと思う。
たけくまメモさんも、まぁ、一種のジャーナリズムだと思う。
ブログである必要はないかも知れないが、レスポンスがモチベーションに大きく係わるという意味ではブログである事に意味があるようだ。

>「ブログジャーナリズム」なるものは独自の価値やポジションを持ちうるモノなのであろうか?

しがらみが少なければ相互のレスポンスは良いので、まず発信者受信者個人にとっては未完成なままで独自の価値はあると思う。

それが社会的にどうかとなると、しがらみの少なさがネックになってしまって、完成品として陽の目を見るためには手順や時間を要するのではないだろうか?

つまりネットの中に限ればそのスピーディで広範で多様な分析は独自の価値やポジションを持ちうると思う。
しかしこれには個人の強いリテラシー能力が求められるだろう。

まず日本の既存のジャーナリズムは、言論の希釈システムであることを理解しなければならないと思う。

色をつけようとするブロガーたちと、色を薄めようとする日本のジャーナリストが相容れないのは当然だ。

アメリカではそういうことが起きていないのは、そういうこと。

同質性の高いグループ中では、グループの基盤はしっかりしているから排他的要素が強くなる。
一方、異質性の高い世界では、グループの基盤が希薄だから、たとえそれが異質なものだとしても、求心力の源泉として使われる場合がある。

な、感じ。
ま、ブログにそんなことばっかり書いてるんだけどなぁ…。

http://dat.2chan.net/19/src/1147403793605.gif
さすが新聞、ネットの情報にはうといですな。
てかネットを脅威に感じてるからメディアとしてのネットの話題はスルーが基本なのでしょうが。

ところでこの韓国人の人は間違いなく泉氏の代役ですな(笑

既存のマスコミが、ブログを用いてもいまいちうまくいかないのは当然です。対話能力が低いからです。

何か意見を言ってみよう、このブロガーや他の常連コメンテーターの意見が聞いてみたい。読者にそう思わせ、思わずコメント・トラックバック・メールしたくなるコンテンツを作るノウハウを既存のマスコミは持っているでしょうか? ありません。もしあるのだとしたら、「ーーが事実だ。 それに対して記者は■■と考える。読者はどうだろうか?」といった文体で記事を書き、テーマごとの意見を今よりも大きいスペースをさいて掲載するはずです。オフ会みたいな時事問題の消費者参加型討論会やワークショップも日常的に開いているはずです。
ところが実際には、マスコミ主催の文化活動といえば、お客が一方的に偉い人の話を聴くだけのシンポジウムや講演会ばかりです。

ブログの優れているのは対話能力です。意見とか情報のやりとりができるのが、ブログの一番の魅力だと思います。

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