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June 18, 2006

後部座席(終章)

今まで一度も僕は、あの車に少年以外の誰かが乗っていた可能性については考えたことがなかった。実際、警察でも、叔父からも、一度もそういった話は聞いたこともない。

彼はおそらく1人であったろうし、そもそも同乗者があったとしても、その存在を僕たちは知らされる必要もなかっただろう。誰かが仮に乗っていたとしても、いなかったとしても、それによってあの事故に影響がないのであれば、どちらでもいいことだとも思えるし、必要のないことは知らされなくて然るべきだったろう。

では、いったい僕は、なぜこんな奇妙な考えに取りつかれるようになったのだろうか。しかもそれだけではなく、久しぶりにあの時間のあの場所------伯母が少年の車に轢き殺されたあの瞬間の映像を、僕は再び心の中でリピートするようになったのである。
その風景はこれまでに何度も見てきたはずだった。ところが僕の視野は、以前とは全く異なっていたのである。
僕は今まで一度も味わったことの無い風変わりな場所から、事故を見ていた。

それは、少年の車の後部座席からの映像である。夢のように妄想のように、僕はあの日の車の後部座席に座って少年の肩越しに風景を見ていた。

少年はやがて、反対車線に飛び出し、対向車に直面する。車は絶望的に逆にハンドルを切り、あのバス停に突っ込んでいく。今まで何度も見て何度もうなされたあの風景を、今僕は少年の車の後部座席から見ていた。今まで見たことの無い風景が繰り広げられていた。僕は、事故を起こした少年の視線にもっとも近いところから、少年が伯母の殺戮の場所に突っ込んでいくその場面を共に見るようになった。
さらには、警察署でうなだれて、少年と一緒に被害者である伯父と「僕」に対面までしているところまでを思い描いた。

それは奇妙な風景である。少年の後部座席に乗っていた僕は、「被害者」でもなく、かといって純粋な「加害者」でもなく、おぼろげで曖昧な存在のままで、「被害者である僕」の前に立っているのだった。跪いた少年の後ろに、ただ所在無く首を垂れて、うなだれて立っているのである。

僕は、気がついた。あれ以来初めて、僕はこの事故を加害者の目線から見るようになったのだと。それも少年その人ではなく、後部座席の同乗者と言う、何とも中途半端な存在として。

そして思ったのだ。もしもあのとき。

僕があの車の後部座席に乗り合わせていたら。もしも自分が後部座席に乗っていて事故を経験していたら、どうだったろうか。もちろん運転者ではないのだから、法的な責任はない。僕は何かの事情で、少年の後部座席に乗り込んだだけだからだ。僕はあらかじめ、起きた惨事を予想できたわけはない。ましてやそんな惨事を引き起こそうとして、少年の車に乗ったわけではない。そんな「僕」に誰も責任など問うことはできないだろう。

だが、それで終わりだろうか。その話はそれで終わりなんだろうか。

この20年、仮に僕が後部座席の同乗者であったとすれば、こんな悪夢に悩まされることもなかっただろうか。あの日の少年の嘆き、恐ろしさ、絶望。そして被害者の怒り。掴みかかった伯父。そして脇に立っておろおろしていた、自分よりも少し年上の「被害者としての僕」。

そんな全ての場面から、記憶から、いくら法的な責任がないからといって、逃れることができただろうか。

いやそれはできなかったろう。もしも自分がその立場であったら、あの時、なぜ暴走を止めることができなかったか、自分にできることはなかったか。本当になかったか。対向車線に無理な追い抜きを少年がかけたとき。後ろの座席から少年の肩を掴んででも、首を引っつかんででも、止めることはできなかったか。

例え、それが無理だったとしてもおそらく、あの日から何度もその思いに悩まされ、何度も被害者の顔を思い出し、何度も自分を責め、何度も加害者の姿を思い出し、苦しんで生きていたのではないだろうか。たとえ法的な責任が自分になかったとしても、道徳的な責任すらなかったとしても。だからといって、自分に全く関係のない出来事として、どうやって涼しく生きてこられただろうか。

何か出来なかったか。何か出来たことはなかったのか。つらい体験の恢復過程で、おそらくそれを何十回も何百回も自分に問うたと思う。あるいは自分を責めたと思う。

後部座席にいた「不作為の者」として。

オウム事件では、暴走する一部の信者の操る車に、たまたま乗り合わせ、なすべくもなくあの大惨事に共に突っ込んでいかざるを得なかった、多くの一般の信者たちがいた。彼らの多くに法的に責任はないだろう。道徳的な責任すら問うことは難しいかもしれない。だが、それで終わりだろうか。本当にそれだけで割り切れるだろうか。

彼らに出来たことはなかったのだろうか。本当にどうしようもなかったのだろうか。そしてその後、彼らは何に苦しみ、何を苦しまずに生きてこれたのだろうか。わからない。もしかしたらそこには何もなかったのかもしれない。「後部座席」などというものは元々僕の妄想であり、「事件の被害者でもない者」が、別のきつい体験をたまたま経験していたからと言って、こうして彼らのことを問うこと自体が、ことのはの人の言うように、「理解できない」ことなのかもしれない。納得のできないことなのかもしれない。

「後部座席の人たち」には、法的にも道徳的にも明確な責任はないのかもしれない。

しかし、苦しまないだろうか。きつくないだろうか。あの惨事の風景は、あなた方を苦しめないのだろうか。乗り合わせた車が地獄の惨事へ突き進む死の車だったことが、あなたがたのせいではなかったにしても、できなかっただろうか。何かが。

そしてその後できることはなかったのだろうか。ただのひとつも。

宗教というのは、あの日の僕と伯父、そして加害者の少年、そしてもう1人。いたかもしれない「後部座席」の同乗者のためにこそ必要だったのではないかとも思う。法や、道徳では割り切れない、どうにもならない苦しさに押し込まれた、巻き込まれた全ての人のために、あるいは宗教だけが救いをもたらしてくれる可能性があったのではないかと思う。

人を呪うことからも、人を憎むことからも、救ってくれるものがあるとすれば、あの日あの場面では逆説的には、宗教しかなかったのではないかと、今でも思う。

しかし、宗教が必要とされていたからといって、信じるものが必要だったからと言って、後部座席にいた「あなた方」は、少なくともいったん、そこから降りなければならないはずだ。「あなた」が今でもそこにいて、そのままその席に座り続けながら、今でも事故を起こしたその車の後部座席に座り続けて、窓を開け、首を出して、およそささやき声すら、この世に発すことは許されないのではないだろうか。そのまま生きていくことが、あなた方にとって本当に生きることなんだろうか。



つまるところ、僕はあなた方全てに、いったん降りてほしいと今でも思っているのだ。

あなた方の乗っていた車の後部座席から。せめて、あの固い床の上に。
あなた方の運転者が跪いた、あの固く冷たい床の上に。



伯母の事故の記憶が、今でも僕に伝えようとしていることがあるとすれば、もうその言葉くらいしかないのである。

僕はそう思っている。こんな妄想の中で。

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Comments

 残念。
 わざわざ身内の死を引き合いに出す話じゃないでしょ。
 使われる伯母様も、いい面の皮かと。

 途中で降りろとか、言うは易く行なうはヒジョーに難しな話を「自分が被害者だったから」声高に言ってるだけ。加害者の目線とか嘘つくなって感じ。若しくは、都合のいいこと言うな、とも。
 出来るか出来ないかは、モラルに因らず常識に依って考えたほうが吉。

 常識から外れた言は、耳には入っても心には届かないもの。そして「跳ね返されて」我が身に降りかかってくるもの。
 そのへんに思い致して吉。

あー言ってみれば麻原はアル中のドライバーで
そんな車に乗った場合は同乗者の責任も問われるってことでいいんじゃないの?
実際そういう判例も出てるし。
ちょっと感傷的過ぎると思うな、このエントリは。

>モラルに因らず常識に依って考えたほうが吉。

謎)

>そんな車に乗った場合は同乗者の責任も問われるってことでいいんじゃないの?実際そういう判例も出てるし。

そうですか。情報感謝。

 こんにちは。


>BigBangさん

 読ませていただきました。

 BigBangさんがこの問題にこだわらざるを得ない理由の、その一端(あくまでも一端であろうとも思いますが)を感じられたと思いました。

 被害者「側」、加害者「側」にかかわらず、理不尽な運命に巻き込まれた人の関係者の中には、自分を激しく責めることがあると聞きます。神にしか行い得ないような方法を妄想しては、結果を回避できたのではないかと思い悩むと。

 そこでは、被害者側と加害者側の境も曖昧になって行くでしょうね。自分の「せい」で結果が生じてしまったのだから。はっきり自分は加害者だと思うかもしれません。

 亡くなった人への親愛の情が深ければ深いほど、そう思ってしまうでしょう。その人を失った悔いが大きいのだから。場合によっては、加害者側の人間よりも贖罪の気持ちが育ってしまうこともあるのかもしれません。

 それを僕はちっともおかしなことだとは思いません。人としてきわめて自然な気持ちの持ち方(持たされ方)だと思います。

 もちろん法的な責任の根拠とはなりません。それは即ち、他人に強制することも、万人を納得させることもできないことを意味します。現に僕の上にあるコメントはそういう感じですね。

 それでも、BigBangさんの行動原理として、メッセージを発する際の動機として、僕にとっては十分に納得できるものでした。確かに、それに従わない他人の言動を「誤り」と断定するまでの力はない。だけど、決して無視してはいけない考え方だと思います。


>私さん
>加害者の目線とか嘘つくな
>出来るか出来ないかは、モラルに因らず常識に依って

 法的責任を問う場合や、論理的に「白黒」つけるというのなら、「出来るか出来ないか」は決定的な意味を持つでしょう。しかし、そこでなされている作業は、灰色は全てノーカウントということでしかありません。

 しかし、「白か黒かでなければ何も言うべきではない」という言説もまた、常識外れといわざるを得ないでしょう。「モラル」と「常識」とが対立する概念だとは始めて聞きました。

 とりあえず、「身内に発生する自分を責める気持ち」を、「嘘」と断定してしまうあなたに「常識」を語られてしまうこと、そこに僕は怒りに近い感情を覚えますね。


>ねむ さん
>アル中のドライバーでそんな車に乗った場合は
>同乗者の責任も問われる
>実際そういう判例も出てる

 判例とはどういう判例ですか?「責任」とは何ですか?民事ですか?刑事ですか?その事例ではどんな結果が発生したのですか?「同乗」する時点で、同乗者にどんな「認識」があったとされた事例ですか?

 判例に言及するなら、年月日とまでは言いませんが、少なくとも法律構成くらいは厳密に述べてください。判決というのはね、事情や前提条件がほんの少しでも変われば結論が正反対になるんですよ。これを判決の「射程」といったりします。少なくとも自分に都合のいい「たとえ話」にいいかげんに利用することは許されません。

 「善意の第三者」の使い方を見る限り(URL欄参照)、このエントリーと何の関係もない、的外れな判例を思い浮かべている可能性の方に僕は賭けときましょう。第一、「法的責任はない」とくり返し述べておられるBigBangさんに対して、「判例」を持ち出している時点ですでに相当的外れに思えますし。

●飲酒運転は同乗者にも責任 2003年5月 - 運転手が泥酔状態にあることを知りながら運転を制止しなかったとして運転者(危険運転致死罪で懲役8年確定)のほか同乗者の責任を認めた。賠償額は合わせて5170万円。8日に出されたひき逃げ死亡事故の民事判決

これは民事ですな。

まあ「飲酒運転 同乗者の責任」でぐぐると一杯ヒットしますよ。

麻原のやったことは故意なので
過失を犯した自動車の同乗者とは違って
その団体の構成員には
法的にも道義的にも責任があるという文脈で
指摘しました。
それならおかしくないでしょ。

>ちょっと感傷的過ぎると思うな、このエントリは。

ねむの感想なんかどうでもいいのだが。それよりも全然レスしてないな、ねむは。

 レスありがとうございます。

 「ヒットした」判例が大事なのではなく、「ねむ さんが」言及した判例の話をしていますからね。


>運転手が泥酔状態にあることを知りながら

 だからそれだと「法的に」責任を問えるのですよ。少なくとも民事責任は。酔いに対する認識(危険性の予見可能性)も、結果回避可能性も、作為義務もあったということでしょう。

 とりあえず、僕にはBigBangさんがおっしゃっていることは全然別に思えるということです。

この手の議論に「モラル」という言葉をもちだす場合は、「道徳」と置き換えられるようなモラルと「倫理」と置き換えられるようなモラルとを区別し、その上で各人がどのような文脈を想定してものを言っているのかをお互いに考えなければ、得るものはありません。

【参考】
http://www.minori.com/archives/law/2004/10/post_33.html
-「私の内なるもの」によって自己を律する人ことが、真の自由人です。この高次の自己が存在しないことが、合理的エゴイストを、エゴイストたらしめている理由です
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/06/dont_be_evil__2354.html
-カントは殺人鬼に追われた友人を匿い、追手から「どこにいるんだ?」と聞かれたときでさえ、嘘を言うべきではないと断言している
※目についたところをちょっと引用しただけなので、もっと適当なページはいくらもあるでしょう。。

BigBangさんが倫理的主題を語ろうとしているのに対し、「私」さんが道徳的モラルに言及しているのでまず混乱(いや、これは実は間違っている可能性もあるんですが、その場合は話がさらにさらに留保の多いものとなるので、この件略。この部分、本段落の最後まで行ってから再帰的に読んでください)。
倫理的モラルが「法的な責任の根拠」にならないことはボクシングファンさんのおっしゃる通り。また、倫理的モラルが常識と相反することもままあること(というか倫理自体の定義に「常識に依らず/それを越えて」という意図が入っていること極めて多し)。
しかしそのボクシングファンさんが「『モラル』と『常識』とが対立する概念だとは初めて聞きました」と言及した時点で、話が糞味噌になってしまってさらに混乱。
しかもその言葉は道徳的モラルに言及している「私」さんに投げかけられている訳なので、読み手の中では話がますます混乱。
言ってみれば三重の誤解があるので、それらを解きほぐさない限り、議論は不毛です。
※「三重」というのは読み手にとってなので、レスされている方々相互の間では一つないし二つかな。。

しかしですよ、倫理的にしか語りえない個人的な話(倫理的主題)を持ち出しておきながら道徳的にも解釈できる余地を残しているのは、BigBangさんご自身です。「妄想の中で」などとして、話を曖昧にしているのもBigBangさんご自身です。あまつさえ、「>モラルに因らず常識に依って考えたほうが吉。謎)」などというレスをして、話をさらにもつれさせる方に誘導しているとさえ言えます。それが言い過ぎだとしても、少なくとも、そこで問題になっている誤解を解きほぐそうとしていないという不作為は明らかです。

結論としては、フェアネスをめぐるエントリーにも関わらず、BigBangさんは十全にはフェアではない、というのが私の思いです。「分かってくれている人もいる」とお考えなのかもしれませんが、どうしてそのような認識で、松永氏の心を動かすことが出来る、あるいは不可能かも知れないが可能だとしたらこの道しかないともいうべき論をお立てになることが出来るのでしょうか。大いに疑問です。

先のコメントの答え方が、ラフだったので余計に混乱を招いたようです。失礼しました。


>しかしですよ、倫理的にしか語りえない個人的な話(倫理的主題)を持ち出しておきながら道徳的にも解釈できる余地を残しているのは、BigBangさんご自身です。「妄想の中で」などとして、話を曖昧にしているのもBigBangさんご自身です。


私は自分のエントリーを「倫理的主題」が主要テーマであるとは規定しておりません。もちろん、そういった受け止め方もあるでしょうが、ここで言っていることは、「法規的ではない」領域の話です。また、社会的に責任が問える範囲以外の領域の話です。私が言っているのはそこまでであり、そこから先の解釈を「倫理の話である」と規定していないことを理解して欲しいと思います。

「良心の話」とも受け止められるでしょうし、ある意味では「宗教の話」でもあります。非宗教的領域での「救い」の話ともとれるでしょうし、「責任の話」ともとれるでしょう。あるいは「感傷の話」かもしれません。
それみたことか、いい加減だとおっしゃるかもしれませんが、私の目的は、テーマワードを一つに規定することではないと思います。書いた話がそのままです。むしろそのテーマがどんな言葉でくくられるにしろ、私は私の言葉で、「後部座席にいる」方達に「降りてもらえないものか」というメッセージを私の表現で書きました。もちろんその表現方法は、最適であるかどうかは正直わかりません。もっと別の表現方法もあるでしょう。ですが、「それが倫理の話でしょう」と整理されれば何かが見えるというものでもないと思います。

>モラルに因らず常識に依って考えたほうが吉。謎)

このコメントも表現不足でしたが、モラルではなく、「常識」に従って考えるというのは、一体どういう意味かわかりませんでしたので、その疑問を「私」さんに呈したものです。

常識とはなんでしょうか?モラルとは何でしょうか?

先に書いたように、この話のテーマを「常識の話」とも「モラルの話」と規定したとしても、それが何かになりましょうか?あなたの常識と私の常識の差を論じ合うのがこの記事の目的でもありません。

私の表現方法や呼びかけに忸怩たるものを感じるのであれば、読者の方の表現方法を提示していただきたいと思います。もちろん不明確な点があれば、こちらの責は否めませんからこうして説明させていただきますが、どこまで行ってもこれはBBなりの表現です。そこをご理解下さい。

そして「テーマ」をそうした「倫理」や「常識」に落とし込むという方法は私はとりたくない。とそういうことです。


>結論としては、フェアネスをめぐるエントリーにも関わらず、BigBangさんは十全にはフェアではない、というのが私の思いです。


これもそうです。「フェアネスをめぐるエントリー」というのは、Kashiさんの受け止め方です。私はその受け止め方を尊重しますが、その括りに私が同意できるものでもないこともご理解ください。「フェアネス」は一つの見方でしょうが、重みは先にあげた「倫理」や「正義」と同じです。抽象的な価値の用語に拘泥するよりも、具体的事実に対して直接賛否を論じたいというのが、自分としての基本的姿勢でもあります。

最後に法的なことですが、ねむさんのおっしゃった事例は、同乗者に明らかな過失が認められたケースです。このあたりはボクシングファンさんもフォローいただいていますが、私の想定は、法的責任が問えないといっている以上、同乗者が善意(運転者の過失や犯意を知っていない)を前提に書かれていますので、違う話だろうと思っています。

また、このようなエントリーの一本や二本で、松永さんは愚か、私が想定する「同乗者」の方々に簡単に得心していただけるとも思っていません。いませんが、かといって書かなくてもいいとも思っていなかったので書いたわけです。時間がかかります。

katshiさんの言われることもわかりますが、私からすると結果を求めるに性急なのではないかと、感じることも事実です。


それから補足です。
「私」さんは、熱心にこの記事を読んでいただいていたようですから、その点はありがたく思いますが、起承転結のお話はともかく、下記のコメントは、先の引用部に限らず、全体的に私にとって意味不明。支離滅裂に感じます。

ご自分ではご自分書いていることの意味がわかって書いておられるのか否か。疑問に感じます。

書き下せるなら書き下していただきますように。わかるように。

>わざわざ身内の死を引き合いに出す話じゃないでしょ。
>使われる伯母様も、いい面の皮かと。

>途中で降りろとか、言うは易く行なうはヒジョーに難しな話を「自分が被害者だったから」声高に言ってるだけ。加害者の目線とか嘘つくなって感じ。若しくは、都合のいいこと言うな、とも。
 
>出来るか出来ないかは、モラルに因らず常識に依って考えたほうが吉。

お返事ありがとうございました。
※私へのレス、「私」さんへのレスを既にいただいているので、このコメントの意義も半ば失われているのですが、先の私自身のコメントへの注釈として書いておきます。

こういったことを後から言うのは誠に恐縮なのですが、誤解のないように書き添えておきますと、先のコメントの最後の二つの文(一段落全体にあらず)以外の総体は、このコメント欄での議論に向けられています。「フェアネスをめぐるエントリーの上での議論にも関わらず、コメント欄でのBigBangさんは十全にはフェアではない」ということです。これは後出しじゃんけんではありません。以下、詳述します。

>この手の議論に「モラル」という言葉をもちだす場合は、「道徳」と置き換えられるようなモラルと「倫理」と置き換えられるようなモラルとを区別し、その上で各人がどのような文脈を想定してものを言っているのかをお互いに考えなければ、得るものはありません
モラルという言葉を最初に出されたのは、言うまでもなく「私」さんです。ですから先のコメントは、エントリー自体ではなく、コメント欄でのやり取りに向けてのことだということを、まず最初に、明確に言っているつもりです。

>しかしですよ、倫理的にしか語りえない個人的な話(倫理的主題)を持ち出しておきながら道徳的にも解釈できる余地を残しているのは、BigBangさんご自身です。「妄想の中で」などとして、話を曖昧にしているのもBigBangさんご自身です
ここではエントリー自体が分かりずらく、誤解を招きやすいものになっているということを指摘しています。そのことだけでしたら私はレスしなかったでしょう。「私の表現方法や呼びかけに忸怩たるものを感じるのであれば、読者の方の表現方法を提示していただきたいと思います」とおっしゃられるのにも完全に同意します。ですから違和感はあったものの、エントリーだけを読んだ時点では、私は何も言わないという選択をしました。別の表現を提示する代わりに、黙っていた訳です。

>あまつさえ、「>モラルに因らず常識に依って考えたほうが吉。謎)」などというレスをして、話をさらにもつれさせる方に誘導しているとさえ言えます。それが言い過ぎだとしても、少なくとも、そこで問題になっている誤解を解きほぐそうとしていないという不作為は明らかです
しかしコメント欄でのBigBangさんは、そこ(本コメントの第四段落で指摘したこと)に留まらず、湧き出てきた誤解・疑問をそのままにして放置ないしは助長しているように見えたのです。そして、それについての記述を受けて、先のコメントでは「フェアではない」という言葉を出している訳です。そこでの係り受けは明らかだと思います。後出しじゃんけんではないと書いた理由はここにあります。

まとめるとこういうことです。最後の二文以前の総体が意味するところは、「みなさん、話がごっちゃになっているから、もう少し冷静になってください」ということ。
最後だけはBigBangさんに向けて、「そのような態度をお示しになるのであれば、せっかくのエントリーも無駄になりやしませんか」と言っているのです。

「『分かってくれている人もいる』とお考えなのかもしれませんが」の部分をもう少し、パラフレーズします。
松永氏だって、端から見てどんなに道理の通らないことをしていても「分かってくれている人もいる」と考えているかも知れないし、あるいは、何をしようと絶対に、「分かってくれない人は分かってくれない」と思っているかもしれないのです。そのような可能性がある人に対し、にも関わらず、なにか言葉の力によって人の深い部分を動かそうとするならば、それを言う側の人間には普通以上の言葉の重みと責任が伴うはずなのに、コメント欄での先のBigBangさんの言葉には、そうしたものが感じられないということを述べているのです。

>先に書いたように、この話のテーマを「常識の話」とも「モラルの話」と規定したとしても、それが何かになりましょうか?あなたの常識と私の常識の差を論じ合うのがこの記事の目的でもありません
>そして「テーマ」をそうした「倫理」や「常識」に落とし込むという方法は私はとりたくない。とそういうことです
これらの部分については、話の筋がずれていると思います。
また、これまで書いてきたことからすれば、「結果を求めるに性急なのではないか」というご指摘が拙コメントと噛み合っていないこともご理解いただけると思います。

これまでのBigBangさんのひとかたならないご苦労や、人並みでないご高潔ぶりを知っているからこそ申しているのです。安直に(ありもしない)「十全なフェア」さを求めているのではないということをどうぞご理解ください。「分からない人は分からないままだ」という言説に抗っているBigBangさんだからこそなのです。

>katshiさん
失礼、横レスですが。
単純に、モラルに反した書き込みにきちんと返信する必要はないでしょう。ここ最近幾つか書き込まれたものは、私であれば黙って削除する類のものです。あなたはそれもきちんと議論の俎上を上げろとおっしゃるが、私にはその理屈は理解しかねます。いったん議論になると私がどれだけの物言いになるかご存知でしょうから、はっきり言いますが、今あなたがBB氏に要求しているのは、「十全なフェア」さではなく、「見当違いなフェア」さです。

基本的にkatshiさんはきちんとした見解を持つ方でしょうが、そろそろノイズが多くなってきたので、少々きついコメントを入れさせていただきました。松永さんも戻って来られたようですし、ご自分の意見を開陳されたい方々は、そろそろ退場の時間であるようにも思います。(これはもちろんkatshiさんのことなどではなく)「お前もそうだ」という方があれば、それもあえて否定はしませんけどね。

こんちわ。

ちょっと思うことを書きます。
エレニ氏が「ノイズ」と書いているけど、
そもそもの問題は「ノイズ」から発生したと思っている。
松永氏の問題。

彼を援護しようとした人たち(真意は知らない)も、
意識の有無に関わらずノイズを広めた。
例えば、湯川鶴章氏であり、歌田氏であり。
彼らは、無自覚であるが故に罪深いと思う。

一方、彼を追及したBigBang氏も知らずにノイズに乗った。
告白すると、私、けろやんもだけど。

---
BigBangさんは、当初、核心に迫ってたと思う。
追求の矛先が「松永氏の脱退が本当かどうか?」という点で。脱退届けの”追求”かな。このへんは、私は遠かったので、確信できません。

スポンタ氏の「ステークホルダー」という言葉。
私も、つい最近まで、わからなかった。
彼には、悪いけど”電波”だと思っていた。
でも、この言葉を理解すると、問題の争点?論点?、ちょっとわからないけど、原点というのかな、が判る気がする。この言葉とスポンタ氏の主張をバカにしては、いけないと思う。

---
熱くなったけど、すみません。
言葉をノイズと感じて、さらにノイズ(←悪い意味ではない)を呼んで、なんていうか、嫌になったので書きました。


即興でコメントしました。
階段書きでもなく、口語体ですみませんでした。

エレニさんのおっしゃることも分かるような気がしますが、あくまでもそれは見解の相違でしょう。何をもってフェアと感じ、何をもってそうでないと考えるのかは、人により千差万別ではないでしょうか。
「話をさらにもつれさせる方に誘導」「誤解を解きほぐそうとしていないという不作為」「湧き出てきた誤解・疑問をそのままにして放置ないしは助長」という言葉に対応するのが、なぜ「それもきちんと議論の俎上を上げろ」という言葉になるのかも、同様の相違によるものでしょう。また、削除するならするで、単にそうすればいいという話であり、もしそうであったならば、そもそもこんな話題にはならなかったはずです。たらればの議論に過ぎないのではないでしょうか。

私は私の考えるところを、一読者として述べただけです。そうでなければ独善だし、それこそ「絶対的正義」というやつと変わらなくなってしまう。。それはBigBangさんがこのコメント欄でおっしゃった
>あなたの常識と私の常識の差を論じ合うのがこの記事の目的でもありません
ということとも通じ合うことだと思います。これはコメントやトラックバックで議論に参加するすべての人間が共有すべき真理ではないでしょうか。
その観点からすれば、私は私の言いたいことを既に十分述べ、用は足りました。

エレニさんから苦言を頂戴しましたが、先日ここで述べた私の考えは変わりありません。また他方、BigBangさんにこちらの見解を受け入れていただけることもなかった訳ですが、それはそれで納得し、そのお考えも尊重するつもりです。最後にそのことを記しておきます。

>残念。
>使われる伯母様も、
>いい面の皮かと。

>「自分が被害者だったから」声高に言ってるだけ。
>嘘つくなって感じ。
>都合のいいこと言うな、
 
このエントリのような話を書き、若しくはしゃべり、「現実に」このセリフを言われたら、私はそいつを殴って終わりにします。katshiさんは、2ちゃんねらーの物言いを批判されていたように思うけれど、彼らの物言いなどより、上記のセリフの方が余程倫理的に問題がありますよ。論理を展開する前提に、そもそも問題外の要素があるのです。そこを無視出来てしまうのはなぜなのだろう?と、私は不思議に思います。
このコメントにレスは無用ですが。

まあ、まあ。笑

「私」さんにも何か深いお考えがあるのでしょう。なければこのような文章は普通書きますまい。きっと「論理的に」書き下していただけると信じます。
それをせずに、平然と次の話題に行くほど「私」さんは鈍感ではありますまい。

すいません(苦笑)

多少判官贔屓という事の引け目を承知の上で言ってしまうと、皮肉やギャグは、言った本人は野暮ったくて説明しないモノだと思いますよ。

で、私の感想ですけど、この場合の「事故を起こした運転者」は誰という事になるのでしょう?
「どの事故」を「何処」から観た事象として、その上で解決を図りたいと考えてるのか、話が拡散してしまって少々困惑しています。
それぞれに言いたい事もあるでしょうが、BBさんとしては何処が中心なんでしょう?

泉あいさんの数億円も掛かりそうな報道機関設立の件が中心で、残りはサイドストーリーという感じで良いでしょうか?

僕らは「反省しろ」などと言ってないと思うんです。でもなぜか自称「擁護派」の人たちは僕らが松永に「反省しろ」と言っている、と事実に反した事を言って僕らを非難する。

僕らが言っているのはいったん車から降りて、事故の意味を考えたら、ということなんですよね。

自分達が乗っかっていたものからいったん降りて、外から客観的に眺めてはどうか、何よりあなたがたが本当に自分の人生を生きたいのなら、ということなのに。

その決着をつけてから、また車に乗るなり、今度は自転車に乗るなりすればいい。
そのプロセスを経ていないのであればまだ(事故を起こした)車に乗っているということであり、その車はまたいつ暴走を起こしても全く不思議ではない、ということがわからないのでしょうか?

いや・・・「反省」というより「謝罪せよ」と言っている、と非難しますよね。自称「人権意識の高い人」とか「擁護派」とかは。
訂正します。

>トリルさん。

>で、私の感想ですけど、この場合の「事故を起こした運転者」は誰という事になるのでしょう?

この記事に即して言えばテーマがオウム事件と、その後も信者にとどまる方たちとなるのは明確だと思いますが、(こうして説明するのも野暮ですが)それを今回の「騒動」に当てはめるという趣旨で書いたものではありません。

従って、「運転者」が「今回は」松永さんであるとか、泉さんであるとか、そうした比喩の発想は、私は持っていません。

そういう答でいいでしょうか?

記事と無関係の次元で「結局何が問題なのよ?」ということであれば、また別の話ですが。

暴走自動車さんの

>自分達が乗っかっていたものからいったん降りて、外から客観的に眺めてはどうか、何よりあなたがたが本当に自分の人生を生きたいのなら、ということなのに。

>その決着をつけてから、また車に乗るなり、今度は自転車に乗るなりすればいい。


これについては全く同意です。対象は現在でもなお「自動車の後部座席」に乗っておられる全ての方に対して、です。

umeの関係始末つけないうちは、潜ってろよトリル。

>多少判官贔屓という事の引け目を承知の上で言ってしまうと、皮肉やギャグは、言った本人は野暮ったくて説明しないモノだと思いますよ。

文章読めてるか(爆

野暮はお前だ。BBのいやみも理解できないんだろうがな。

皮肉に対して厭味で返す。素晴らしいですねえ。

いや別に厭味で書いたわけではありませんよ。
「私」さんこそ厭味を言わないように。
(苦笑)

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