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October 05, 2006

三島VS東大全共闘の映像を見て---一夜の記憶は夢だったのか

あるいはこういう経験を与えてくれるのが今の時代の奥底に隠された力なのかも知れない。YouTubeをあてもなくザッピングしていて出会った、「三島 vs 東大全共闘」の映像。1969年5月13日。動く三島、話す三島がそこにいた。

どぎもを抜かれた。

もとより三島には間に合わなかった。気がつけばこの作家は市谷の自衛隊駐屯地で茶褐色の楯の会の軍服に身を包んで声を張り上げていたのであり、訳がわからないうちに割腹自殺を遂げていた。とりたてて小説を読み込んでいたわけでもなかったが、ただその日の衝撃は子供なりにも重く記憶に残っている。

1970年11月25日午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表 彰」であった。益田総監と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田兼利総監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛って縛り、人質に取っ て籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦、追い出した。その中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた者もいた。

三島自身が自衛官と報道陣に向けて30分間演説することを要求してそれを認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起を促す演説をしたが、自衛官たちからは総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さへの反撥が強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」「なに考えてんだバカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわずか7分で切り上げる。そして森田必勝らと共に『天皇陛下万歳』を三唱したのち三島は総監室で割腹自殺した。
(Wikipediaより)

森田必勝は早大教育学部の学生にして、楯の会の学生長であった。三島と同行して市谷に向かった森田は、三島の切腹に際して介錯をするが果たせず、剣道居合の経験者であった古賀が介錯、続いて森田が切腹して果てた。25才4ケ月であったという。

早大に入った時、驚いた。楯の会は未だ健在であり、森田必勝忌なる催しが行われるときには、学内をあの楯の会の茶褐色の制服に身を包んだ学生たちが歩いた。70年代最後の数年は、未だそういう時代だったのである。

だが、もっと驚いたのは、三島の死にあたって、その死体が保管されていたという市谷の駐屯地周辺を、あてどなくさまよったという級友が同じクラスにいたことだった。その話は、だいぶたってから僕が創刊したミニコミ誌に彼が寄せた一文で知った。三島と同じく、同性への執着、愛情にに止めようのない思いを抱いていた彼は、確かに早熟な学生であった。僕は自分では到底想像できないその彼の熱情に、ある種の畏怖すら抱いた。

しかし、果たしてその話は本当だったのだろうか。あるいは彼の心の中で繰り広げられた夢ではなかったか。僕は彼の暗い自叙伝的なその文を狂おしく読んだけれど、そのことを彼に伝える機会もなく、20数年が経過している。

しかし僕の心の中には未だ、割腹自殺の夜、まだ中学生の彼がその目を暗く輝かせながら、市谷駐屯地をさまようその夢のような光景が、まるで自分が目撃したかのように焼きついているのだが、事実は果たしてどうであったか。割腹自殺後の三島の遺骸が、駐屯地にしばらく置かれていたという事実はあるのだろうか。

そう思ってネットをあさっていると、このような記述に出会った。そこには、「川端康成氏が、事件後すぐに現場に駆けつけて三島氏の遺骸と出会った」と報じられたことが誤報である旨、編集者の伊吹和子氏が著しておられた。


「中央公論」十二月号が発売になった十一月十日から旬日を経て、正月号の校了が迫った二十五日、三島由紀夫氏が自衛隊本部で劇的な自決をとげられた。私にはその意味がよく理解出来ず、殊に石川淳氏との対談の直後のことで、驚愕と悲しみが大きいばかりであったが、川端先生はすぐに市ケ谷の現場に赴き、その足で三島邸に行かれたようであった。一部の新聞に、現場で三島氏の遺骸と対面されたと報じられ、やがてそれは誤報だと判ったが、先生なら動じることなく、冷静に見詰められたとしてもありうることだと思った。私が三島邸に駆けつけた時は、門前に報道陣が渦巻いていたが、邸内には、親族の他には川端先生だけが、傷心の瑶子夫人に付き添っておられるということであった。

 三島氏の葬儀は、翌四十六年一月二十四日、築地本願寺で行われ、川端先生が葬儀委員長を勤められた。その日、文学者としての三島氏を送る葬儀であったのを不満とする過激な人達がいる、という噂が、何日か前から流れていた。三島氏を右翼的な思想家として崇拝するグループが、自分たちへの挨拶なしに、葬儀を行うのはけしからぬと憤慨し、最中に乱入して遺骨を奪う計画でいるらしい、と、噂は無責任にエスカレートしていたのである。『三島由紀夫葬儀あいさつ』は、先生の全集に活字化されているが、その日の先生の声は、亡き人の静謐(せいひつ)を乱すいかなる無礼も、自分が許しはしない、という気概にみちていた。
伊吹 和子 川端康成 瞳の伝説

しかし三島の葬儀では川端氏は葬儀委員長を務めたという。遺骨を巡っては、それを奪おうという思想的な計画もあったようで三島由紀夫の葬儀がただならぬ雰囲気の中で行われたことがわかる。確かに当時の文学者だけではなく、あらゆる知識人にただならぬ衝撃を与えたのだろう。その言いようのない夜、そして葬儀については、もはや僕は追体験する術もかすかにしか持たないが、真偽はともかく、友人が著した断章は今後も頭を去ることはあるまい。あるいはこうした時代の異様な雰囲気が彼に憑依して見させた一夜の夢であったか。

いつか彼に、その記述が真実であったのが聞いてみたいとも思うが、もはやそれは遠い昔、どちらでも構わないようにも思っている。

幾たびかの命日を経て、今YouTubeに全共闘の学生とともに蘇った三島は、割腹して果てるまで後5年。行動することができなかった多くの知識人の中にあって、果たして三島は5年後の自分の最期をすでに思っていたのであろうか。あるいは思っていなかったか。

思いばかり先走る全共闘の学生たちが三島に緊張しながらも挑みかかる様は、愛おしくも痛々しくさえあるが、それに時に冗談や笑顔さえ挟みながらも真摯に答えようとするこの作家の姿が、刻み込まれているこの映像を見て、あなたは何を思うだろうか。

残念ながら市谷で行った彼の演説の全映像がないかと思ったが、探し当てることが出来なかった。

三島が逝ってから、今年は36年目になる。

そういえば父はあの日どこにいたのだろうか。


【参考】
a case of Yukio Mishima
(YouTube)




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Comments

「65年」は「69年」の誤りでは? YouTubeの画面は「69」ですが。

>通りすがりさん

ご指摘のとおりです。失礼しました。修正いたしました。

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