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February 27, 2007
更新
更新しました。
「参加型小説」の可能性と「未来型恋愛」で進化する人生。(CNET Japan IT's Big Bang !!)
2007 02 27 | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
「失われた町」(三崎亜記)---澄み切った不条理な悲しみ
町が消えていく。というよりも町に住んでいる人物が全て消えていく。不可思議な設定のこの世界が、どこであるのかわからない。過去なのか、あるいは未来なのか。国も人種も定かでない中で生きていく、あるいは「失われていく」人物の造形だけは、はっきりと我らの世界を転写している。
消えていく住民たちのことを、あるいは消えた町のことを悲しむことは、この世界では許されない。そうした思いをもつことは、この世界では「穢れ」とされる。また、消滅の時間、たまたま消滅を免れた人間も、「特別汚染対象」として、一生「管理局」の監視のもとに暮らすのだ。その「管理局」の人間たちもまた「汚染対象」を見続けることで、「汚染」されていく。
やるせない、どこにも持って行きようのない、深い「悲しみ」が物語を深く覆う。消滅の原因も、そしてその対策も全く解き明かされることもなく、最後まで人々は悲しみの中で消えていった人々を思うことも自由にかなわず、いつか身が滅んでいく。
三崎亜記が、この物語に込めた寓意は何だろうか。時空によらず、人の世界に起きる、ありとあらゆる理不尽で理解不能な不幸を、消えていく町にただ重ねたともいえよう。また、そうした不幸に遭遇した人々が、ただ遭遇したというだけの理由で疎んじられ、穢された者として扱われる、我らが幽閉された、永遠のこの世の理不尽を描いたともいえよう。
しかし人の消えうせた「町」はどこか、澄み切った静謐な美しさにも満ちており、今という時代の中では、このどこか現実感のない設定が、心や感情と別の次元での、奇妙な美意識に満ちていることも否めない。どこか夢の中でみたような景色だと思ったら、それは、つい昨日あのバーチャルな異空間で一人夕闇を眺めていた、自分の分身が見つめていた町の空気に、どこか似ていることに気づく。
喪失に出会った人の、理解しがたい悲しみと、命の存在感が満ちた不条理な小説であるが、小説の情景はあくまでも隅々まで澄み切っているのだ。
人はそれでも呼吸しているのだが。
2007 02 27 [書籍・雑誌] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
February 18, 2007
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更新しました。何かと話題のWikipediaの広告/寄付金モデルについて。(諸問題とは無関係です。w)
広告モデルにNOを言い続けるWikipediaの将来。----広告モデルは、本当に記事の中立性を侵すのだろうか。(CNET Japan IT's Big Bang !!)
2007 02 18 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
February 15, 2007
ブログ性善説とマーケティングへの信頼
まあ、そりゃそうだろな。考えてみれば大変に常識的な受け止め方。
企業がブロガーに宣伝のための報酬を支払う行為を反対しているのは44.5%--ビルコム調査(Web担当者フォーラム)
調査の結果、企業がブロガーにプレスリリースなどで積極的に情報開示することについて72.0%が「賛成」と回答。その理由として、79.5%が 「企業の最新情報を知ることができる」と答える一方、反対派の74.1%が「よい情報しか開示しないことが多く、信用できないから」と答えた。また、企業 のプレスリリースを見たことが「ある」と回答したのは、40.8%だった。
企業がブロガーに、宣伝のために金銭を支払う行為について44.5%が「反対」、55.5%が「賛成」と回答。「反対」の理由として「お金をもらっ てブログを書いたのか、本当に書き手がよいと思ったのかがわからず読者の混乱を招くから」(79.8%)、「賛成」の理由として「企業のために書いた記事 の報酬を受け取るのは当然だから」(68.0%)を挙げた。
こっそり企業から金銭をもらっていたことで、炎上した女子大生のブログもあったようだけれど、「ブログプロモーション」がこれからは有効だともてはやされたのが、ここ1年であったわけだが、それはそういうことではなくて、ベタで金銭を書き手に上げちゃうってのは、もlともこもないでしょ。やはり違うかなあと思う。
実際、それが白日の下に晒されれば、相当の反発が予想されるし、場合によっては見事なアンチプロモーションになる。かといって、最初から正直にそれをことわって書いていれば信頼されるというものでもない。そのへんは何ともかんとも。
また、「自社商品(サービス)のオススメを書いてもらうため、企業がブロガーにお金を払う場合があります。そのことを知っていましたか?」という問 いに対し、41.3%が「知っている」と回答。そのうち「企業からお金をもらって書いている友人・知人のオススメ商品(サービス)を信用しますか?」とい う問いに対し、63.0%が「信用しない」と回答した。
そりゃしないよねって。
しかし、口コミマーケティングというジャンルは、ブログの登場よりだいぶ前からあって、ちょっと前だと、女子高校生マーケティングとか言って、原宿かどっかの裏通りのマンションに女子高生とか集めて、あーでもねーこーでもねーと語らせて、じゃあ商品作っちゃうから宣伝してねみたいなのがあった。あれはあれでアリだったよね。今からすれば。
それに対して、ブログで金銭を媒介にして行われていることの何がうさんくさいかというと、こういう商品の生成みたいなところに関わっているようでその実関わっていなくて、結果的に最終成果物たる商品をぽんと渡されて、さあ書いてくれ。宣伝してくれたらいくらですみたいなやり方をするからではないだろうか。
女子高生マーケティングのほうも、もちろんある種の「半成果物」は渡されるんだけれど、一種のモニター性と合わせて、勘違いかもしれないけど参加型クリエーター性みたいなのが彼女たちによって演出されていたと思う。(うん、あれはもちろん演出なんだけれど)で、帰りにいくらかお金渡されて、それで友達に宣伝にこれ努めたところで、ブログのケースほど胡散臭くないっていうか、敢えて言ってしまえば、信頼され得ていたように思う。
その点、アフィリエィターというジャンルで、自分で商品を選び使い、その感想を書いていくようなスタイルで稼いでいるような人は結構いるけれど、これは、まだましなような気がするんだよね。少なくとも商品のチョイスを自分で行うことで参加している主体性が、まだある。
こう考えてくると、その商品のできるだけ原初的なところから主体的に関わってきていれば、例えお金をもらって宣伝を書いても共感できるし、そうではなくて、商品選択性も薄く、一方通行な宣伝依頼を受けて書いたベタなブログによるマーケティングは信頼が薄いとそういうことかなあ。
でも、これも考えてみれば不思議な話で、すべからく広告のプロは、もちろん企業からお金をもらい、商品を渡されてポスターだのCMなどつくる。そうした宣伝広報行為は、当然の「プロの仕事」として評価され、それで結構商品も売れ、非プロのブロガーのささやかな報酬によって支えられる、ささやかな宣伝文が信頼されないのであれば、このあたりにも何か好意的なブログマーケティングを切り開くキーがありそうだ。プロとアマチュアの違いと言えばそれまでなのだけれど、ブログという媒体の特殊性のようなものも、ちらと見えるな。
ブログ生善説。ブロガー嘘つかない。みたいな信仰もどこかあるのかなあ。
などと色々考える。
2007 02 15 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック
サプライズのチョコレート
バレンタインデーから日が変わってしまったけれど、「サプライズなチョコレート」ってもらったことがない。いや、チョコレートをもらったことがないと言っているんじゃないよ。誤解するな。曲解するな。「サプライズなチョコレート」だ。
義理チョコであれ、本命チョコであれ、友チョコであれ、昨今流行のの自分チョコであれ、あれ殆ど「予定調和のチョコレート」でしょ。
ほとんどのの義理チョコは、然るべき人から来る。
ほとんどの本命チョコも、然るべき人から来る。
他は略。
そうじゃなくて。思いもかけない人からチョコレートが来る。こちらも驚く。相手もガチガチに緊張している。こちらも持つ手が震える・・・・なーんていうの を「サプライズのチョコレート」という。(BigBang用語)幸福なごく一部の人が遭遇することが出来る至福のチョコレートであり、その永劫の魅力の前 には、そのチョコレートが手作りであるか、モロゾフであるかなどということはどうでもいいことである。・・・こうしたチョコレートに出会うことが出来るの は、ごく一部の幸福な男だけであり、ごく一部の勇気ある女子だけである。違いますか?違う?そうですか?自分らのわけー時には、あんまりメジャーじゃな かったからなあ。バレンタインなんて。へっ。
こういう「サプライズのチョコレート」が渡されている場面。ドラマや映画ではよく見るけれど、実際にはついぞいただいたことがない。またそういうものをもらっている友人も見たことが無い。
彼女からもらうとか言うのは駄目だぞ。その人が彼女である時点で、次のバレンタインには、おそらくその人からチョコレートが来るであろうというのが、予測 されている。これは予定調和のチョコレートであって、サプライズのチョコレートではない。(来ないサプライズがある?それはいまは置いておく)
たぶんあの子から来るぞなんて言うのも駄目だぞ。予想がついた時点で、その子のチョコは、予定調和のチョコレートへと変貌している。もう取り返しがつかないのだ。飛び出すな。チョコは元へは戻らない。人生はつらく過酷である。
どうですか。サプライズのチョコレート、もらったことありますか?皆さん。
もしもチョコレートをもらうとすれば、気配も見せず、前振りも見せず、まだ見ぬ人から唐突に人生の時間の平穏を打ち破って、降りてくるチョコレートがい
い。
そうしたサプライズのチョコレートには恵まれなかったけれど、何だかんだ言いながら僕はチョコレートが嫌いではな
い。
バレンタインデーの前にこういう記事を書くと、このブログを読んでいるリアルの知人に対して、いかにも催促をしているように思われるので、バレンタインが過ぎた夜中にそっとこういうことを書く。嗚呼手遅れの美学。これが奥ゆかしさというものである。である。
聖バレンタインデー。
あなたにはサプライズのチョコレートが来ましたか? いや、この際それが、正しくチョコレートであるかどうかすら、どうでもいいことなのだけれど。もっと大事なことがあるというお話。
2007 02 15 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(8) | トラックバック
February 11, 2007
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更新しました。
「スター・ウォーズ」を超えて---グーグル政府の罪無き楽観性を考える(IT's Big Bang! CNET japan)
2007 02 11 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
February 08, 2007
3人の物語
1日忙しくてパソコンを見ることも出来なかった。夕方になって、ようやく車を止めて、携帯でブログを読んでいた。夕べから今日にかけて、ずいぶんなことになっているなあと溜息をついたときに、電話が入った。
見慣れない番号。出てみると、か細い声の女性の声。
「あの・・・・XXX社長さんでしょうか?」
「はい?・・そうですが」
「私、Eの母親です」
E。
3年ほど前に、僕の会社で働いていた。プログラマーになるべく、頑張っていたが、ちょっとしたことで人間関係に問題が起き、退職した。胸騒ぎがする。
「こういうことをお聞きするのは心苦しいんですが、Eと親しかった・・Sさんの連絡先をご存じないでしょうか?」
Sも、僕の会社で働いていた。Eを僕の会社に連れてきたプログラマーだ。Eは彼の親友だった。というか、親友以上で、彼らは僕の会社に来る前から、もう1人の友人と3人で小さな会社を作っていた。会社を作ったときには、3人ともまだ学生だった。会社と言っても3人のサークルのようなものだ。売上はほとんどなかったが、売り上げよりも夢というか、得体の知れない「明日」みたいなものに引かれて集まっている3人だった。金銭的な成功を夢見ていたという月並みなものではなく、もっと文学サークルがITをたまたまやっているという様子の集団だった。
2人が僕の会社に来てからも、この小さな集団はそのまま存続していた。プログラマーとして優秀だったSは、早くに結婚して幼い子供がいたが、EはSの子を自分の子供のように可愛がっていた。九州の実家に帰っても、Sの子供に会いたくてすぐに東京へ戻ってくるほどだった。
だが、ちょっとしたことで、彼らの関係は崩れた。SとEの間に亀裂が生まれたのだ。プログラマーとして先行していたSは、友人ではあるがアシスタントをしていたEの飲み込みの悪さに、時に激しくEを面前で罵った。Eは笑って流していたのだが、蓄積したのだろう。我が強く、自意識が激しく攻撃的だったSは、他の2名の前に絶対君主のように君臨していた。それでいてそのエネルギーは、商売の方に向かうのではなかった。言わばそれは、行き先不明のエネルギーだった。Eはある時、突然退社してSとの連絡を一切絶った。Sは怒り狂ったが、どうにもならなかった。
Eが去ってからしばらくしてSも僕の会社を去り、僕と3人との縁は切れた。だから現在の連絡先といわれても、当時のメールアドレスくらいしか知らない。
「会社におられたのはずいぶん前のことですし・・・」
「どうしても、Sさんと連絡をつけたいんです・・勝手を申し上げて申し訳ないのですが」
「あの・・Eさんは・・」
もしかして、と言葉を詰まらせる僕に、母親は言った。
「Eは亡くなりました」
「え・・・・あの・・失礼ですが、ご病気か何かですか?」
「はい・・」
そのとき、僕の頭に「自殺」という2文字が突然ことんと降りた。
Eは、実際僕のところを去るときには、かなり精神が不安定になっていた。プログラマーが行方不明になったりすることは、この世界珍しいことではないが、Eは正確にはプログラマーではない。時に難解な数学を解くのが唯一の趣味といった具合で、親しい友人は、あの小集団の2人以外には僕は知らない。ただ、そんなEも、会社を退社してからしばらくして、女性と暮らし始めたという話を聞いたことがあった。あの女性の名前は・・・何だったろうか。
いや、自殺と決め付けるのはまだ早い。そんなことを考えていると、母親が続けた。
「荷物も、1週間くらい前に返ってきたばかりでして・・お友達にどんな人がいるかまるでっわかりませんで・・ただ、御社の名前と、SさんとXさん(と母親は3人組の最後の1人の名前を告げた)しか、わからなくて。」
でも、どちらにも連絡がつかないのだという。荷物・・・。あるいは孤独に部屋の中で死んだか。
「S君のメールアドレスくらいしかわかりません・・それももう変わっているかもしれないし」
「・・・そうですか」
メールアドレスにはあまり母親は反応を示さない。メールで連絡をつけることに思いが及ばないのだろう。僕は、件の女性のことは、伏せておくことにした。実際、伝えようと思っても、彼女の名前も出てこないのだ。それにしても・・・と僕は、引っかかる点を口にした。
「あの・・S君たちに連絡をつけたいとおっしゃるのは・・E君が亡くなったことを連絡されようとしているのですよね?」
馬鹿みたいな質問だったが、母親が一瞬言葉を詰まらせる気配が伝わった。
「ええ・・そうですが・・Sさんにはお聞きしたいこともあって・・」
「・・わかりました。調べてみて、何かわかることがあったら、ご連絡します。お役に立てないかもしれませんが」
「・・・・・はい」
「あの・・何と言っていいのかわかりませんが、どうか・・どうか、お力を落とされませんよう・・」
「・・・ありがとうございます」
礼を言って、母親が電話を切った後、僕はすぐに昔の彼らの会社のサイトに、ノートパソコンからアクセスした。サイトは表示されている。ということは、彼らのドメインもWebサーバも生きているということだから、ドメインのメールも生きている可能性が高い。Sの携帯電話の番号ももうわからなくなっているのだ。
僕は、S宛に、Eが亡くなったこと、母親がSに連絡をとりたがっているから、電話してほしいという短いメールを書いて、パソコンから顔をあげた。車の窓からコンビニが見える。若いカップルが袋を抱えて出て行く。彼らを照らす青白い光の中で、Sと訪ねたEの部屋を思い出す。
部屋には誰もいなくて、ずいぶんと散らかっていた。Eが帰ってきている様子はあったが、生活感というのとは遠い、荒廃した雰囲気が立ち込めていた。
彼らの小集団の物語が終わったんだと思った。僕に比べてずいぶん年の若い3人だった。いや、小集団どころか、Eという一人の人物の命も終わってしまった。母親の電話があった瞬間に、僕はEが亡くなったのではないかと思ったのだ。なぜかそう思わせるような、命のか細さが、Eにはあった。
「死ぬと終わるんだな」
と思った。人の物語は死ぬと終わる。つまり、人が生きている限りは物語は続く、終わらないということだ。昨日から今日にかけて見ていたネットの風景に重ねて僕はそんなことを思った。そんなに簡単に終わりはやってこないんだよ。
無駄かもしれないとわかっていても、それが本当に無駄なことかどうかは、そもそもいつわかるんだろうか。おそらく、人が、そして自分が生きている限りはあらゆるその人の物語が続くんだろう。それに結論が出るとすれば、その命が途絶えたときだ。命が途絶えたときに初めて人の物語は終わる。途中で何かの結論が出たように見えても、あるいは頓挫したように見えても、それは言わば途中でしかない。だから、無駄であるとわかっても、生きている限りは、足を前に出すんだろうな、とぼんやりと思った。無駄であっても、足は前に出すしかない。あきらめるのは、もう足が動かせなくなった時でいいではないか、とも思う。引きずるように重くても、それでも足は前に出していかなければならない。いつかその足は止まるのだから。あなたも、僕も。
Sからはまだメールの返事がない。
【2/11 追記】
この記事を書いた翌日、Sからメールに返事があった。とても驚いたこと、知らせてもらってありがたかったこと、お母さんにも連絡が取れたということが短めに記されていた。とても参っていることも。
2007 02 08 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(13) | トラックバック
February 03, 2007
はてながメンテだと
影響大きいねえ。ココログメンテなんかよりも、応える。ほとんどの御馴染みのブログが見られないというのは、すがすがしいほどだ。(?) コメントもぶくまも読めないし。僕はmixiもあまりやらないし、結構はてな依存率の高い生活だなあ。とこういうときにわかりますね。
なーんて言う「戯言」を、ぽそっと書くのはやっぱり「はてな」なんだよね。ココログじゃなくて。
2007 02 03 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
ブログ世界はフラットではない---「アルファブロガー」の孤独なセクトが生まれるわけ。
ブログの登場により、言論世界が「フラット」になりつつあるという意見を良く見かけるけれど、ちょっと違うことを私は思っている。
これまでメディアが、プロフェッショナルが独占する高価なツールであり、そのメディアにアクセスできる特権的地位を持った人々=特にマスコミが、言論リソースの流れを自在にしていた頃に比べれば、確かにブログのようなツールが、ただ同然になり、プロアマ問わず多くの人々が自由に言論を交わすことが出来るようになった。この現象だけ見れば、確かに「フラットな言論世界」が登場したように見える。
しかし。
それではなぜ、しょこたんは、私の、あるいはあなたのブログにやってこないのか、コメント欄にコメントを残さないのか。藤原新也は、なぜ粘着するあなた(誰とは言わない)のブログを訪れて、一発「がつん」とはめったに言ってこないのか。なぜR30氏は一言コメントを残しては消して去るのか。(いや失礼。これはちょっと別の話だ)
そんなことは当たり前だと、あなたはいうかもしれない。彼らは有名人であり、多忙である。近づく全ての人の言うことに、いちいち反応する時間も気力も湧かない。それはその通りである。だが、この当たり前のことのように思える中に、「フラットになったはずの」言論世界に、一層微細な断片化、階層化が進行する構造が隠れているのではないか、と夢想してみた。
モデルを単純にするために、アクセス数で考えてみる。
ここに、AB2つのブログがある。Aブログのブロガーは少子さん。アクセス数は、日に100ビュー程度。Bブログのブロガーは多佳子さん。アクセス数は日に1万ビューである。さて、この両ブログの間に交流が生じ、やがて議論が起きたとする。アクセス数の少ない少子さんは、多佳子さんを手ひどい言葉で批判していて、多佳子さんもそれを知っているとする。さて、ひどい批判を受けた多佳子さんは、果たして少子ブログに乗り込んで反論をすべきだろうか?あるいは自サイトで少子ブログへの批判エントリーをあげるべきだろうか?
答は、否であろう。
多佳子さんの取るべき正しい道は、完全に少子さんをスルーすることである。なぜか。両者の立場がフラットではないからである。およそ少子さんブログに比べて100倍の読者のいる多佳子ブログに、少子ブログから流れ込む新たな読者は僅かしかいない。つまり少子ブログを読んで、その批判に共感し、多佳子ブログにやってくる読者は、非常に少ないはずであるから、心配するほどの話ではない。したがって、少々腹立たしい光景が少子ブログで繰り広げられていても、多佳子さんは無視しているのがもっとも「賢い」対処方法である。
ところがこの挑発に負けて、スルーできず、多佳子さんが自ブログで反論を書いてしまったとする。そうなると、元来多くの読者を抱える多佳子ブログである。エントリーを読んで、少子さんのブログを初めて知った多くの読者が、リンクや検索を辿って、少子ブログに流入する。そして、多佳子さんを批判する少子さんの記事にもそこで初めて触れることになってしまう。これは多佳子さんにとっては面白いことではない。一方少子さんは大量のアクセスを獲得でき、自分の意見も広めることが出来た。
つまり、多佳子さんが自記事で少子さんを取り上げるだけで、多佳子さんが不利になるという事態が起きるのである。これでは反論するだけ馬鹿馬鹿しい。相手への人の流入しか起こしえないのであれば、沈黙したほうが良い。
#このモデルの中では、どちらの言論が正しいかとか、説得力があるかということはひとまず考慮しない。
もちろん、この劇的な自サイトへのアクセス増にかまけていると、少子さんが炎上する可能性も出てくるのであるが、ともあれ、有名ブロガーの多佳子さんに絡んだおかげで、少子さんは自ブログを世間に知らしめることに成功したのである。
一方、有名ブロガーの多佳子さんにとっては、このことから得られるものはほとんど何もない。何の得もないから、少子さんのブログが弱小ブログであると知った段階で無視することになる。構っても得がないからだ。
つまり、本来フラットであるはずの言論環境は、この両者にとっては、最初から歪な構造を持っていたということになる。両者は、たとえ最初はこれを意識しないで触れ合ったとしても、この宿命的な構造をいつか知り、それぞれなりに相反する行動をとるようになる。
つまり「強者」が先に沈黙するケースが多いのであるが、「弱者」はそれに苛立ち、一層「強者」への怨嗟をエスカレートさせるかもしれない。
ブログはコメントやトラックバックなどの「触手」を互いに貼りながら、他への読者の流入を互いに助ける。この「触手」を通って、移動する読者の量が最初から均等でない者同士には、真のフラットな環境は出現しないのではないだろうか。あるいは均等であっても、やがて必ずどちらか一方に「力」が生まれ、公平ではない構造を生み出すのではないだろうか。
多佳子さんは、最初から少子さんの批判に対して「答えない」ことがもっとも有効な対応手段であるから、2人の議論への姿勢は最初からイーブンではない。このことに気がつかないと、少子さんは多佳子さんの、冷然とした態度にいらだつばかりだろう。
少子さんと多佳子さんの関係はモデル化したものであるしが、ブログ世界において陽子と中性子のように、自立した相互関係を至るところで築き上げることが予想される。そこにあるのは、大きなメディア=マスメディアの前で「均等な」無名の市民として佇立していた私たちではなく、なまじ個々が言論の表現手段を持ったがために、互いの間に立ち込めた関係性のエーテルによって作られた差異の孤独に、それぞれが陥って立ち尽くす姿である。
人は元々公平ではないなどと、ここでは言ってはならない。なぜなら、言論のフィールドにおいて、1万通りも、10万通りも明確なレイヤーがプレゼンテーションされている、ブロゴスフィアのような世界はこれまでになかったし、その「不公平」は、これまで人間が体験した「不公平」とは異質のものであるからだ。
つまり、ブログのような自由な表現手段は、均等な発言機会を、いっときは私たちに与えはしたが、次の瞬間には、かえって個々人を細分化し、絶え間ない「セクト」化へと追い込んでいく。それぞれの表現言語でのみしか交流しない、小宇宙が無限につくられ、その中でそれぞれが孤独に住まうところ。決して均等な舞台に立つことが出来なくなっているsolitudeに身悶えする----それが私たちの未来の立ち姿となるのである。
一方で、同じ程度のアクセス数や注目度を持ったブロガーたちは、比較的公平な意見の交換がしやすいので、近づきやすいといった傾向を持つ。両者は何も与えないし奪わない。あるいはこのコミュニティに異端者が侵入して災禍をもたらしたなら、コミュニティは閉じた平和なSNSへと移行するかもしれない。
多佳子さんの立場が、多くの「アルファブロガー」の立場である。と置き換えると、よりわかりやすいだろうか。
(一部の、と言わねばならないが)「アルファブロガー」が何かにつけて徒党を組み、あるいはSNSに自分たちだけのコミュニティを築き、ついにはセクト化しやすい原因を解明する何かのヒントが、この構造の中に隠れていないだろうか、などと考えた。つまりそれは特権意識だけでは説明しきれない、何かである。
それがどうしたって? うーん、どうしたんだろう。
2007 02 03 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(21) | トラックバック
February 02, 2007
IT's Big Bang! 更新
「IT's Big Bang!!」を更新しました。

