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March 25, 2007

「猫の神様」----失われていく命と性と「美しい文章」

Nekono_1


彼が死んだのは、暖かい春の陽射しが差し込む、穏やかな朝だった。10年と8ケ月一緒に暮らしたというのに、それはとてもあっけないお別れだった。

という一節から始まる東良美季の「猫の神様」は、アダルトビデオのライターをしながら一人で暮らす著者が、雨の夜に道に捨てられていたのを連れ帰り、10数年を共に暮らした「ぎじゅ太」と「みャ太」の2匹の猫の命、そして彼らの命が失われていくのをどうすることもできずに、ただ見つめる日々を、美しい文章でしたためた1冊である。

2匹のうちの1匹、ぎじゅ太が失われたとき、悲しみの中で筆者はこう書く。

神様からの預かりもの----。
神戸からの帰り、新幹線の窓を眺めてその言葉を思い出していた。
僕は神も仏も信じないけれど、猫の神様ならこの空のどこかにいるかもしれない。何となくそう思った。ぎじゅ太は独り寂しく暮らす僕に、猫の神様が一時期だ け預けてくださったものだった。だからあの雨の日に、まるで山から転がり落ちてきた子熊のように公園のゴミ箱の下にいたのだ。
新幹線の窓から見える空に向かい、心の中でそう呟いてみると、僕の身体を包んでいた薄い膜が少しだけ破れたような気がした。この空の果てで、ぎじゅは猫の神様に優しく抱かれて「ウーン」と言い、喉をごろごろと気持ちよさそうに鳴らしている。そんな光景が眼に浮かんだ。

この本を猫好きの孤独な男による単なる述懐や感傷と読むのは、おそらく正しくない。ここに描かれているのは、失われていく命に対峙する私たちの普遍的な心のようなものであり、その喪失を人はどうすることもできないという、やりどころのない不可解な悲しみである。

物語の後半、残ったもう1匹の猫「みャ太」を10ヶ月以上に渡って1人看病する筆者の孤独と不安、そして苦しみながら死んでいく「みャ太」が、表現のしようのない波となって気持ちを揺さぶる。そして、そういう悲しみをシャワーのように浴びせられている、「あなた」の心が見ているものは、きっと単なる「猫」ではない。もっと、奥の深いところ。1人で生まれてきて、そして去っていく一瞬の邂逅。この世界で生きていくことの不条理と、そこにある「あなた」自身の孤独が浮かび上がってくるはずである。

猫の命が失われていく傍らで、筆者はアダルトビデオを幾本も見て、その評論を書く。失われていく猫の命を見つめながら、片方で男と女の営みを見ながら原稿を書く。その違和感について苦痛をともなって告白している。

「ごめんな。俺が悪かったな」と言い、みャ太をベッドに寝かせ、飼い主はアダルトビデオを観てそのレビュー原稿を書く。正直、こんな時に男と女が絡まりあう画面を見るのはしんどい。でも、それが僕の仕事なのだ。AVを観て原稿を書き、また原稿を書く。こんな時でもしっかりと腹は減る。俺は本当に、バカのように健康だ。この食欲の十分の一でもみャ太にわけてやりたい。

生きていくことと死んでいくこと。その間に挟まった軋みのようなものを感じる。
共通するのは、単に「命」というものであって、それが「誰のものであるか」ということは別の話であるのだろう。人であるとか。猫であるとか。

実際、筆者の部屋には、何人かの女友達が現れては去っていくが、この2匹の猫の生と死の圧倒的な存在感の前には、その映像はおぼろげである。しかし、この本が不思議なのは、そうしたおぼろげな「彼女達」の存在すら、短くはあるがどこか生き生きと描き出していることである。

おそらく2匹の猫の向こうに数え切れないほどの命がある。その命の気配を感じる時間を、この薄い本1冊は、「あなた」に確実に与えてくれるだろう

「美しい文章」

そんな言葉が頭に浮かんで去らなかったが、筆者の友人であり、最近僕が注目しているブロガー、藩金蓮さんの「アダルトビデオ調教日記」(凄いタイトル)にこんな一節があった。

・・・・・「猫の神様」改めて読んで、しみじみと美しい文章だなぁと思いましたの。

 「巧い文章」というヤツは、ある程度の経験や努力で何とかなると思うんだけど、その技術に溺れてしまうと「どうだ!巧いだろ!感動しろ!」と上から読者を見下してしまうと思うんです。そうやって、読み手を馬鹿にして(書き手が無自覚にしろ)傲慢になってしまうと、それが文章からどうしてもにじみ出ると思うのよ。それは文章だけの話じゃないか。だから「昔は面白かったけれども、段々面白くなくなる」書き手とか、作り手というのが数多く存在するということは、そういうことだと思う。技術が磨かれれば磨かれるほど「面白くなくなる」とという怖い現象が存在するということは。

 だから「巧い文章」には私はあんまり魅力を感じない。へー、ふーん、上手どすなぁーと、感心はするけど、それだけ。それ以上のものは無い。

 でも「美しい文章」というのは、感心じゃなくって感動するものだと思うんです。じゃあ「美しい文章」というのは、どういうものなのかと具体的に述べよと言われたら上手く言えませんが、、、結局「魂」の入れ方なのかなぁとも思います。だからAVでも本でもそうなんですが、私的な恋愛が描かれたものに人々感動させる「名作」が生まれるのは「魂」が籠めやすいからなんでしょうね。 (「私の好きなあの人は、いい男です。」(同ブログ))

「巧い」文章は経験や努力で何とかなるが、「美しい」文章はそういうことではないというのは、ほんとにそうだなあと思う。

藩金蓮さん自身もまた、すさまじい毒をもちながらも、この上なく「美しい」文章を書く方である。上記の一節に至るまでの毒の書き散らし方と言ったら!でもそういう人が、あるいは彼女特有のはにかみを交えながらも、東良さんの文章の稀代の美しさを愛でるように大切にしていることがじんわりと伝わってくる。

それにしても「性」に関わる仕事やテーマに携わっていく方に、「美しい」書き手が多いのは、何か理由があるのだろうか、などと以前からぼんやりと考えているのだけれど、「魂を籠める」ということが、端的にもっとも発揮されやすいのが「恋愛」や「性」なのだろうか、と、これもまたぼんやりと考えている。
そしておそらく「死」を語ることもそうなのだと思うけれど、「死」はそれらの裏側に語らずとも隠れていたりする。


桜が咲くにはまだ数日。 

今日の東京は、雨が冷たい。


【参考リンク】

●毎日jogjob日誌 by東良美季

●追想特急~lostbound express(東良美季)

2007 03 25 [書籍・雑誌] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

March 22, 2007

更新

更新しました。

「粘菌コンピュータ」は心を持つのだろうか-------キューブリックも予想していなかったこと。(CNET Japan IT's Big Bang!)

2007 03 22 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

March 20, 2007

「ドリームガールズ」---圧倒的な美と才能。いずれもが狂おしかった。

Dream

1960年代。シュープリームスとダイアナロスのサクセスストーリーをベースにしながらも、現実をおそらく超えるかもしれないドラマティックな映画に仕上がっている。「ドリームガールズ」は、かつてブロードウェイミュージカルとして1981年に公開された舞台の映画化である。

何といっても、ダイアナロスをイメージしたディーナの美しさ、そしてそれを演じるのが大スターのビヨンセと来れば、物語のフレームは出来上がってしまっていると、観る前には誰もがそう思うだろう。実際、ビヨンセ演じるディーナの美しさと言ったら、気が遠くなるほどである。売り出し前の、初々しい秘めた美しさを持った愛らしいティーンの時代から、センターに起用され、次第に自信を持ち、輝きを増していく、その「美人っぷり」と言ったら!人間とは思えない。溜息が出るというような紋切り型の表現では収まらない。何と言ったらいいのだろう。ビヨンセ!ビヨンセ!この人はこんなにも美しい人だったのかと、改めて見直した。目をこすったと言ってもいいかな。

ところがこの映画の更なる驚きは、この完璧とも思える世界の大スター、ビヨンセの美しさに対して、無名の、しかし途方もない歌唱力と存在感を持つ新人、ジェニ ファー・ハドソンを真っ向からぶつけているところである。彼女がアカデミー助演女優賞を取ったのは、うなづけるどころの騒ぎではない。圧倒 的なその歌!

彼女が演じるエフィーは、圧倒的な歌唱力でグループ「ドリームメッツ」のセンターをとっているが、遥かに美しさで勝るビヨンセ演じるディーナにセン ターを譲らされる。結果的にはこの思い切ったチェンジが功を奏し、ドリームメッツは、スターダムを信じられないような勢いで駆け上っていくのだが、エフィ の叶えられない自我はやがてエフィ自身を破滅に追いやっていく。そしてディーナも不幸が襲う。

ジェニファー・ハドソンの歌と言ったら!新人?いったいこの人はどこに隠れていたんだろうと思うぐらい。そして、ああR&Bという音楽はこんなにも格好良 く、しかも人の心を掴む音楽だったんだと認識させられる。ビヨンセのあの太陽のような圧倒的な美ですら、どちらかというと外見が地味で「太っちょ」のエフィの 大地のような存在感を、少しも損なうことはできない。映画上の2人の位置が、おそらく現実の、つまり「キャスティング」という意味で見たビヨンセとジェニファーの位置関 係にもなぞらえられるようで興味深い。つまり、この映画は、途方もない「美」と「才」とが、互いに「痛み分け」をしているのである。ビヨンセは、その美し さを限界まで発揮することによって、そしてジェニファー・ハドソンは、その歌の圧倒的説得力で大スタービヨンセさえ、かすめさせるほどである。彼女にこの場を与えた監督、ビル・コンドンは最大限に称えられるべきだろう。

2人の良さが、これ以上考えられないほどの緊張関係を作り出し、そうだな。音楽にかかわりがある、あるいは音楽を志向する全ての人が観るべき映画だと思ったよ。

もう一度言うけれど、R&Bとは、何とかっこいい音楽なんだろう。そして、人の能力の限界のなさというか、地平のなさというか、その深みと遠さに気が遠くなるようである。

映画を観終わったら、どういうわけか、しっかりとした文章を今年は書いていこう、どんな表現でも真剣にやっていかなければならないという思いになぜ かさせられた。仕事もね。そうだな。音楽という次元じゃなくて、おおよそ全ての「何かを創ろう」としている人たちにとって、必見の映画かもしれない。

観に行って完膚なきまでにうちのめされてください。

僕も、もう一度観にいくと思う。

2007 03 20 [映画・テレビ] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

March 17, 2007

堀江被告に懲役2年6ケ月の実刑判決---「無反省」と「脅迫」

執行猶予なしの実刑判決は、最近の日興コーディアルの例などから見ても、重すぎるという声が多いようであるが、判決要旨からまとめてみた。

(1)ライブドアの自社株売却益の利益計上・架空売上計上について

→投資事業組合は脱法目的に結成されたものであり、売上計上の許されない自社株売却益を記載した虚偽の有価証券報告書を提出、架空売上を前提とした連結経常利益が記載された虚偽の有価証券報告書を提出することを認識、認容し、宮内被告との間に共謀が成立する。

(2)ライブドアマーケティング(LDM)における虚偽事実の公表について

→LDMがマネーライフ社との株式交換に関して行った04年10月25日の公表の一部に虚偽。11月9日の公表も虚偽。堀江被告は虚偽事実に基づく業績状況を公表することを認識、認容し宮内被告との間で共謀が成立する。

(3)宮内被告と検察との「黙契」が成立しているという弁護側の主張を退ける

→検察官と宮内被告らとの間で、別件を公訴提起しない代わりに検察官の主張に沿った供述をする約束が成立しているという弁護側の主張を、第三者による宮内被告供述の裏づけにより、退けられるとして否定する。

(4)意図の悪質さ

→粉飾額自体はそれほど大きくないが、証券市場の公正性を害する極めて悪質な行為として認定。投資事業組合を介在させるという手口の巧妙さなど、企業利益のみを追求し一般投資家を犠牲にする犯罪として悪質である。

(5)堀江被告の権限

→堀江は、ライブドアの創業者であり、唯一代表権を有する代表取締役であり、トップとして絶大な権限を有していた。いずれの犯行も被告の指示・了承無しには実行はあり得なかった。

(6)無反省な被告

→被告は公判廷でも不自然な。不合理的な弁解に終始し、株主や一般投資家に対して謝罪の弁も述べない。反省の情が全く感じられない。

(7)各犯行を主導とまでは認められないが、実刑に値する

→いずれの犯行も宮内が中心となって計画したものであり、検察の言うように被告が最高責任者として犯行を主導したとまでは認められないが、そうした斟酌の事情を最大限に考慮しても実刑をもって望まざるを得ない。

目に付くところとしては、まず(1)において、投資事業組合を脱法目的であるとして断定し、自社株売上計上を違法と断定したところがみられる。かつて堀江は保釈後に「サンデープロジェクト」に出演してこのように語っていた。

堀江:(投資事業組合の金の流れについて)いや、それはこんなのを粉飾だということ自体がまずおかしいよという話です。そもそも我々、投資事業組合、僕が知ってる知らないは別として、客観的事実を前提にしても、これはファンドにまず実態があってダミーなんていうものじゃないよと。(検察がダミーといっているのは)彼らの定義であって、我々は実態があると思っている。検察はライブドアのダミーだと言っているが、そうじゃなくて独立した存在であってライブドアが支配しているわけではない。まったく別個の存在であると。だから連結する必要ないでしょうと。連結をしてない会社からの分配金なんだからそれは売り上げに計上していいでしょうと。客観的事実についてもこれは粉飾ではないと言っているわけですよ。堀江貴文の「サンデープロジェクト」出演について(BigBang)」)

本来ライブドア連結の対象ではない投資事業組合の活動を質すること自体がおかしいとする堀江側の主張は取り入れられなかった。また、投資事業組合によるライブドア株取引を、売上に計上するという手法が、当時の法規に照らして本当に違法であるかどうかは、議論が分かれた箇所である。


田原:で、公認会計士たちも違法じゃないって言ってるわけですね。

堀江:ものすごく難しい仕組みなんですから、本当は。要は難しくって会計士だってこれが100%正しいっていう風に言えないんですよ。検察の言い分が100%正しいって言う事が出来ないくらい会計的な専門的なことなのに、しかも会計士が大丈夫って言ってるのに我々会計の素人が違法だ合法だの判断が出来るわけないじゃないですか、そもそも。 (同上)

当時の公認会計士が大丈夫と言っていたとあるが、港陽監査法人で、当時ライブドアを担当していた田中慎一氏の「ライブドア監査人の告白」を読むとだいぶ様子が違う。


著者は、1999年から今年1月にライブドア事件が起きるまで、同社の監査を任されていた港陽監査法人の公認会計士である。同監査法人からは在宅起訴された者も出たが、著者は同社の犯した偽計取引や風説の流布、あるいは粉飾決算の疑いに直接手を貸した人間とは見なされず、訴追を免れた。しかしながら自らの意思で公認会計士の資格を返上し、今後は会計関連の職には関わらないと宣言した。同社の犯罪行為を見抜けなかったことへの“けじめ”だと言う。

本書を執筆したのもけじめの1つであろう。ライブドアの内幕を知る人間として、子細な具体例を示しつつ容赦なく糾弾していく。堀江貴文被告を含む旧経営陣に対しても同様に厳しい評価を加える。架空取引による粉飾会計については、事件の前から「何かがおかしい」と感じ取っていたにもかかわらず正せなかったと猛省しつつも、「シロかクロかはっきりせず、どこまでいってもグレーのまま。当局の捜査とは違って会計士の監査手続きでは限界がある」と弁明する。(Amazon書評から)

この本の帯には「投資事業組合を解散しなければ監査を降ります」と印刷されているが、事実筆者はそうした「脅迫」を何度も駆使して宮内を揺さぶらざるを得なかった。監査人が降りることは、それほどライブドアにとって大きな圧力となり得たのである。

つまり田中氏は、存在する「らしい」投資事業組合の存在を、極めて疑義の深い監査上問題のある存在であるとして、繰り返し内情報告を求めていたのであるが、宮内らによって、別組織であり連結対象外の組合の実態を明らかにするいわれはないとして、突っぱねられている。

問題は、こうした「突っぱね」に対抗する有効な手段を監査人が持ち得なかったことは事実であるということであり、こうした意味で当時の法制度の中での真空地帯であったという見方もできる。果たして投資事業組合は、「実質的にライブドアに支配されて」おり、「自社株売却による利益操作組織」として完全にライブドアに従属していたといえるのか。現在までの経緯を見ると、僕は、この点に関して堀江の認識はかなり曖昧であったような印象があり、組合は専ら宮内の「私的利益のための操作装置」として稼動していたのではないかという印象がある。この点に関する法解釈や認識が今回の判決で厳密にされたとは言い難い。ここは残念に思うが、おそらく掘江側の弁護団は控訴審において、この法的不整備の問題を突いてくると思われるので、引き続き注視したいと思う。

もっとも、田中氏はこの本の中でで監査人としての力不足も同時に痛感したと告白しており、最高経営者としての責任すらも、裁判に影響があるからと明確にしない堀江被告の姿勢とは遠いのも印象的であり、「反省」の表面的な表明すらしない堀江の態度を正直ととるか、傲慢と取るか。ここでの世間の評価は、容易に予想されてしかるべきものである。

思うに、形式的反省であっても、それは反省の表明には変わらないのであり、その裏における哲学や人生観などは、所詮形式では表明できないものなのだ。その人間を人間として許せるか、許せないかは法を超えたもっと深い部分に繋がっていると思われ、その暗がりへの訴求が困難である以上、人は所詮形式による表明の次元にしか、合理的批判を集中できないのではないかと思われるからである。

その次元で戦う堀江を支持する動きもあるのは理解するが、彼の今後の人生を考えれば、徒労感は否めない。もちろん合理的な部分では事実関係をしっかりと争えばいいのであり、そうした姿勢と反省謝罪の姿勢は、両立するし、またさせていかなければならないものではないかと思う。

2007 03 17 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

March 15, 2007

桜開花予想で気象庁計算ミス。野暮な話ではある。

桜開花予想で見込み違い--原因は入力計算ミスだとか。桜の開花予想も、「電子的に」なされていたのだと、あらためて感心するとともに何とも妙な気分ではある。

気象庁は14日、桜(ソメイヨシノ)の第1回開花予想(7日)で、全国で最も早い開花を予想していた静岡市のほか、東京、高松市、松山市の計4地点について、計算ミスから、本来より3~9日早い予想日を発表してしまったとして謝罪し、訂正した。

そのうえで第2回開花予想を発表、56地点のうち40地点で第1回予想よりも1~6日遅れるとした。
第2回予想で、最も早く咲くと見られるのは静岡市、福岡市の21日で、平年よりそれぞれ7、5日早い。横浜市が22日、東京と名古屋市が23日と続き、平年より5~6日早いとしている。
(Yahooニュース 桜開花予想、気象庁が謝罪・訂正…静岡市は21日に

それから、これは昨年の記事だけれど、ウェザーニュースと気象庁の開花予想の出し方の違い。熾烈な戦いが繰り広げられているそうだ。

桜の開花予想は55年間気象庁だけが行っていたのだけれど、2002年からウェザーニューズが参入。以来、熾烈な予想合戦が繰り広げられているのだ。東京 の開花予想では、一昨年、ウェザーニューズが実際の開花日と比べて4日差で2日差の気象庁に軍配が上がり、昨年は同じ日を予想(開花日と1日差)。しかし 全国的に見ると、ウェザーニューズの的中率のほうが高かったそう。

気象庁の開花宣言は、東京では靖國神社にあることで有名な「標準木」を基準としている。「標準木」は各気象台の敷地内やその付近に全国で89カ所あり、開 花予想もこの「標準木」を対象としているのだ。一方、ウェザーニューズは各都道府県で1カ所ずつ選んだ桜の名所を対象に予想。これに加え、全国約1000 地点のデータを組み合わせて精度を高めているのだとか。(narinari.com)

ふーん。標準木のところだけ読むと、ずいぶん風流なやり方で決めているように見えるんだけれど、要は89ケ所の標準木の開花状況をコンピュータに入力し、計算して開花時期を予想すると。その標準木関連のデータが入力ミスになったのだろう。

開花予想が狂って、商売に影響している人達もだいぶいるようだけれど、本来咲くべき時期がいつかなどということは、それこそ「桜の勝手。」待っていればい つか咲くものを、あらかじめ予想して当たった外れたと。いやこれもよく考えてみると、せわしいというか「風流でない」話である。

ところでウェザーニュースと言えば、ピンポイント予報で、イベント屋時代によくお世話になった。急に降ってきた雨で台無しになる大道具とか、セットとかあ るから、人間が濡れるというだけでは済まない大惨事になることがあるので、保険をかけるわけだ。ピンポイント予報は結構高いんだけれど、確度も非常に高いのでよく利用した。一度、確かつく ばで大太鼓の引き回しのイベントをやっていて、ウェザーニュースから1時間後に雨が降ると「速報」が入って、あわてて中止。ぴったり1時間後に降り始めて 驚いたことがあった。高いだけのことはあると感激したものだ。

どうも桜の開花予想も、このところウェザーニュースが押し気味の様子。

2007 03 15 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

March 10, 2007

更新

更新しました。

「携帯電話の番号登録機能が使える銀行員は50%」という怪説は本当か。トンデモか。(CNET Japan IT's Big Bang!!)


 

2007 03 10 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

デジタルカメラへの長い道のりをぐだぐだと。

今日はあまり書かなかったカメラの話。

大学を出て最初に就いた職種がスタジオマンという僕は、スタジオでアシスタントをしながら、ブツ撮りの技術を徹底して教え込まれた。当時のスタジオマン、それも新米の仕事はどんなことかというと、まずは掃除とブツ(撮影物)の運び込み、セッティングと磨き。セットの解体と組み立て。後片付けと掃除。となっていて、ライティングや露出、フィルムの詰め替えなどという「高等技術」に手を出させてもらうには、ざっと1年近くはかかる。それまでは、カメラの近くに寄ることも許されない。

数々のドジを乗り超えてようやく、カメラマンの視線で、カメラの横から被写体を見ることを許される。この時点までで、僕のいたスタジオはブツ撮りが多かったけれど、たまには広告写真でヌードなどというのもある。そうした場合にはチーフ以外は外に出るのが決まりなのだが、「血気盛ん」な年頃でも不思議と、それでどうこういうことはない。もはや連日の疲労と寝不足で、浮ついた気持ちになる余裕もないのである。淡々と本番時には外に出て、撮影が終わるのを待つ。終わった合図が来ると、粛々と中に入って後片付けをする。

こうやって書くと淡々としているが、朝入社して午前中スリッパ磨きをさせられた新人が昼休みにそのまま逃げ出したり、昼飯はいつも歩きながら食べたり、毎日1足の「軍足」を履きつぶして、経費で落ちないことを愚痴ったり。まあ、一言で言えば最悪の職場環境。

だが、さすがにそうした生活を1年近くもすると、ポラを見ただけで(ああこの懐かしい響き!)絞り1/4くらいの精度で適正露出からの差がわかるようになる。職人の卵の出来上がりである。ポラを黙ってカメラマンから渡されて、「プラス1/2です」などと答え、そのまま採用してもらえるようになれば、「スタジオマンとして」1人前である。

もちろん、それが一流のカメラマンに少しでも近づいたということではない。言うまでもないことだが、いい写真ということと、露出が適正に判断できるということとは違う。

その後、独立して何台もカメラを持った。小学校の頃に買ってもらったOLYMPUS PEN、初めての一眼レフであるPENTAX SP、PENTAX67、そしてCONTAXの何台か。MAMIYAの大判カメラ・・・しかし、カメラマンをやめてから何年かの間に次々と手放したり、金が無くて売ってしまったり、流してしまったり。CONTAXもいつか生産中止となった。
この時点では、写真を撮ること自体が何か精神的な負担になっていたこともある。やがてカメラを持たなくなった。(経緯は今は略。)

カメラがデジタル時代になったとき、あの苦労は何だったのかと、様々な分野で多くの人が味わうのと同じ思いを持った。コンパクトカメラはさすがにデジタルを使ったが、どうしてもデジタル一眼を使う気にはなれなかった。
パソコンはすんなり乗っかったくせに、どうしてもデジタルカメラには、アイデンティティが重ねられない。JPEGがどうとか、PCでは当たり前の用語が、カメラで使われると、途端に嫌になる。
その「呪縛」が今年、ふとしたきっかけで、すとんと落ちた。久しぶりにカメラを見に行き、カタログを読みあさったのだが、デジタルも悪くないとようやく思えるようになってきた。良く見ればすごいじゃないか。最近のデジタルカメラ。1000万画素で10万以下で買えるんだね?この境地にたどり着くまでに何年だろう。

ただ、詳しい知人に聞くと、レンズの個性が銀塩カメラよりも出にくいのだという。切れ味はあるけれど、難すぎるニッコール、甘いけれどボケ味があるプラナー、そして何と言っても憧れのズミクロンなどなど。レンズのブランドで好き嫌いを言い争った時代は終わったようだ。むしろ、手ぶれ防止機能や、連続撮影機能など、別の観点の価値評価が主流なのだそうだ。
ライカもデジタルを出していると聞いて、調べたら、松下へののOEMだった。sそもそもパナソニックのライカカメラってどうよ。

新顔としては、SONYなどがデジタルカメラを出しているわけであるが、世界のSONYといえども、何だかSONYのカメラというのはいただけない。ぴんと来ない。本来はビデオカメラだろ。1コマ撮に機能を落として、カメラでございとやられているようだ。

そういうわけで、久々にデジタルの一眼を持ってみたいと思っているのだが、やはりこう書いてみるとこの長い長い逡巡は全く表現できていない。できていないのだが、これ以上書いても他人には退屈なだけなので、このあたりにすることにする。

2007 03 10 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

March 03, 2007

僕が「意志を持った悲観主義者」でありたいと思う理由。

■悲観主義とオプティミズム(My Life Between Silicon Valley and Japan)

アランの「定義集」には少々関心を持ったが。

間違いなく僕は悲観主義者・ペシミストであるだろうと思う。物事の未来を、楽観的には考えない。まず最悪の状態を思い描き、心のレベルをずんと落とす。落とすところまで落とした薄暗い井戸の底に降りて、密かに心の中で線を引き、時には陽光の差す上方を見上げる。

自分が落とすところまで落としてしまったその線よりも、多くの場合、現実はほんの少し浮上した場所を流れていく。少しましであることが多いと言ってもいい。心象よりもほんの少し浮上した現実を流れていく未来を、僕は線の場所から眺めて、「予想よりも遥かに良かった」展開に安堵し、散々嘆いて絶望を口にする周囲に向かって、言う。

「ほら。大したことはなかったではないか。」と。

あるいは、またしても僕の過去が、この線を引かざるを得ない人格を育てたかも知れず、そうして時を過ごしてきたのかもしれないし、そうすることで心のバランスを保ってきたとも言えるだろうし、それは不可避であったとも思える。

それに対して、手の届かないような眩い上方に線を引き、楽観的な未来に目を眩ませながらも歩いていくような人を、僕は「オプティミスト」と呼ぶのだが、僕はこういう人たちを羨むことはあったけれど、その危うさもどうしても見過ごすことはできない。

彼らは手の届かないような「楽観的な」未来を描いたかと思うと、姿を現し始めた未来が、いささかでもそれに足りないと、身も世も終わりであるかのように嘆いてみせる。いわく、自分が馬鹿だ、いわく、周囲が馬鹿だ。それでもその呪詛や愚痴すら、どこか無用心に明るい場合が多く、時には笑ってしまうようなこともあるのだが、座り込んでひとしきり大声で愚痴を言い終わったかと思うと、いつの間にか立ち上がって、また新しい場所に向かって歩き始めている。

それが僕にとっての「オプティミスト」のイメージである。

オプティミズムとは、まったくもって「意志」の問題なのである。死や病を免れ得ない人間にとって、悲観主義こそ「自然」で「生来」なものなのであって、オプティミズムとはそれを超えていく意志のことなのである。「これから直面する難題を創造的に解決する」ためには、我々一人ひとりがオプティミズムという「意志」を持つことがどうしても必要不可欠なのだ、ということを、僕はいまも相変わらず言い続けたいのである。(同上)

いや、そうではなく。僕にとっては、ペシミズムこそが「意志」なのである。僕が遥か下方に引いた線は、僕自身の「意志」であり、上方に対して視線を保持するための、言わば兵站のようなものであるからだ。僕の視線からは、ふらふらと太陽に向かって無用心な歩を進めていく、あなた方のほうが、遥かに本能的であるかのように思えるのだ。その本能的な、そして迂闊な(僕にとっての)歩みは、僕には生来備わっていないものである。

「経営者はオプティミストでなければならない」というのは、ここ十年(あるいはもっと昔から)小賢しいベンチャーキャピタリストの常套句ではあり、この性格のために、ずいぶんと肩身が狭い思いもしたように思うが、それもどこか違うと今は確信的に思っている。シリコンバレーのリッチマン達が描いた底抜けな未来のビジョンの傍らで、ブッシュはイラクに進んだのだから。ブッシュはその文脈の中で、徹底的に「馬鹿なオプティミスト」ではなかったか。

そそもそ、何といわれても、この年になれば、生来の性質はせいぜいサブルーチンを一つか二つ追加するくらいしかできないのである。メインルーチンを書き直す時間的な余裕もないのである。ならば生来の「ペシミスト」たる僕は、オプティミストの無謀で滑稽な楽観主義に、やれやれと肩をすくめながらも、彼らの歩む道の危うさには勤めて自覚的であろうと思う。自分は「意志を持ったペシミスト」でありたいと願うのである。(最近の出来事に接してもまさしく自分はこの原則で動いているなあと今思った)

しかし、梅田さんのこのエントリーに大量についているぶくまの殆どが、彼の

「死や病を免れ得ない人間にとって、悲観主義こそ「自然」で「生来」なものなのであって、オプティミズムとはそれを超えていく意志のことなのである」

という一節に感じ入って、揃って右に倣えとリピートしているのを見ると、みんなシンプルに若くて、オプティミスティックでいいねえと素直に思う。いや、これは皮肉ではない。(多分)

2007 03 03 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(6) | トラックバック

March 02, 2007

Photoshopのウェブアプリが無料で登場ということだが

結構大騒ぎになっているわけだが。

Photoshopのウェブアプリ版、無料で半年以内にリリース予定(Gigazine)

Photoshopも大事に大事にアップグレードしてきたのは、もう遥か昔。最近はPremier Elementsとか、Piccasoとか、FireFoxとかちゃらちゃら使っていて、重量級のPhotoshopを使うこともついぞなくなってきていた。で、今頃無償化といわれただけなら驚かない。

このニュースが本当に衝撃的なのは、実はそれ以外の部分にあるのではないかと思ったので、ちょっと書いてみた。どうも最近IT関係はあっちに書いちゃうんだけれど。まあお読みください。


Photoshop無償Webアプリ化がもたらす衝撃の焦点はどこだろう(CNET Japan --IT's Big Bang!)

2007 03 02 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック