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March 03, 2007

僕が「意志を持った悲観主義者」でありたいと思う理由。

■悲観主義とオプティミズム(My Life Between Silicon Valley and Japan)

アランの「定義集」には少々関心を持ったが。

間違いなく僕は悲観主義者・ペシミストであるだろうと思う。物事の未来を、楽観的には考えない。まず最悪の状態を思い描き、心のレベルをずんと落とす。落とすところまで落とした薄暗い井戸の底に降りて、密かに心の中で線を引き、時には陽光の差す上方を見上げる。

自分が落とすところまで落としてしまったその線よりも、多くの場合、現実はほんの少し浮上した場所を流れていく。少しましであることが多いと言ってもいい。心象よりもほんの少し浮上した現実を流れていく未来を、僕は線の場所から眺めて、「予想よりも遥かに良かった」展開に安堵し、散々嘆いて絶望を口にする周囲に向かって、言う。

「ほら。大したことはなかったではないか。」と。

あるいは、またしても僕の過去が、この線を引かざるを得ない人格を育てたかも知れず、そうして時を過ごしてきたのかもしれないし、そうすることで心のバランスを保ってきたとも言えるだろうし、それは不可避であったとも思える。

それに対して、手の届かないような眩い上方に線を引き、楽観的な未来に目を眩ませながらも歩いていくような人を、僕は「オプティミスト」と呼ぶのだが、僕はこういう人たちを羨むことはあったけれど、その危うさもどうしても見過ごすことはできない。

彼らは手の届かないような「楽観的な」未来を描いたかと思うと、姿を現し始めた未来が、いささかでもそれに足りないと、身も世も終わりであるかのように嘆いてみせる。いわく、自分が馬鹿だ、いわく、周囲が馬鹿だ。それでもその呪詛や愚痴すら、どこか無用心に明るい場合が多く、時には笑ってしまうようなこともあるのだが、座り込んでひとしきり大声で愚痴を言い終わったかと思うと、いつの間にか立ち上がって、また新しい場所に向かって歩き始めている。

それが僕にとっての「オプティミスト」のイメージである。

オプティミズムとは、まったくもって「意志」の問題なのである。死や病を免れ得ない人間にとって、悲観主義こそ「自然」で「生来」なものなのであって、オプティミズムとはそれを超えていく意志のことなのである。「これから直面する難題を創造的に解決する」ためには、我々一人ひとりがオプティミズムという「意志」を持つことがどうしても必要不可欠なのだ、ということを、僕はいまも相変わらず言い続けたいのである。(同上)

いや、そうではなく。僕にとっては、ペシミズムこそが「意志」なのである。僕が遥か下方に引いた線は、僕自身の「意志」であり、上方に対して視線を保持するための、言わば兵站のようなものであるからだ。僕の視線からは、ふらふらと太陽に向かって無用心な歩を進めていく、あなた方のほうが、遥かに本能的であるかのように思えるのだ。その本能的な、そして迂闊な(僕にとっての)歩みは、僕には生来備わっていないものである。

「経営者はオプティミストでなければならない」というのは、ここ十年(あるいはもっと昔から)小賢しいベンチャーキャピタリストの常套句ではあり、この性格のために、ずいぶんと肩身が狭い思いもしたように思うが、それもどこか違うと今は確信的に思っている。シリコンバレーのリッチマン達が描いた底抜けな未来のビジョンの傍らで、ブッシュはイラクに進んだのだから。ブッシュはその文脈の中で、徹底的に「馬鹿なオプティミスト」ではなかったか。

そそもそ、何といわれても、この年になれば、生来の性質はせいぜいサブルーチンを一つか二つ追加するくらいしかできないのである。メインルーチンを書き直す時間的な余裕もないのである。ならば生来の「ペシミスト」たる僕は、オプティミストの無謀で滑稽な楽観主義に、やれやれと肩をすくめながらも、彼らの歩む道の危うさには勤めて自覚的であろうと思う。自分は「意志を持ったペシミスト」でありたいと願うのである。(最近の出来事に接してもまさしく自分はこの原則で動いているなあと今思った)

しかし、梅田さんのこのエントリーに大量についているぶくまの殆どが、彼の

「死や病を免れ得ない人間にとって、悲観主義こそ「自然」で「生来」なものなのであって、オプティミズムとはそれを超えていく意志のことなのである」

という一節に感じ入って、揃って右に倣えとリピートしているのを見ると、みんなシンプルに若くて、オプティミスティックでいいねえと素直に思う。いや、これは皮肉ではない。(多分)

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Comments

初めまして。「意志を持った悲観主義者」に膝を打つ思いがして、ついコメント欄に手を出しました。私自身は常に最悪の状況を想定したうえで、そのどん底でどれだけ耐えうるかを自身に問うてから一歩踏み出す、という生き方をしてきました。それはかなり若い頃からでした。将来の夢を質問されることが苦手で、夢を持っていないという意味では無いのですが、自身の夢とその実現方法について、無邪気に語ることがどうしてもできませんでした。
いつの頃からか、何かをあからさまに期待することを自身に許さなくなりました。「諦めない!夢は必ず実現できる!」というような言い回しに出会うと、なんとも言いようの無い違和感を感じてきました。この明るく元気な人々は、輝きの向こうにある陰を見つめたりしないのだろうか、その大きさや重さを量り、そこから輝きの正体を見定めることはしないのだろうかと首を傾げてしまうわけです。

一時期は、自身の低空飛行ぶりが鬱陶しくて、もっと明るく無邪気に前進したいと思ったこともありますが、やはりこの生き方は手放せないと思うこのごろです。
物事をあるがままに受け止めるのは、いうほどに容易いことではありませんが、こうした作業に楽観主義が邪魔をすることは確かだと思っています。見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞くというのが楽観主義の底流だと感じているからです。
やればできるという不屈の精神は大切であり、それまでも否定するつもりは無いのですが、やってもできないことは厳然としてあって、しかしそれらにはそれぞれちゃんと意味があるのだと知ることもまた、大切ではないかと思っています。

>punipuniさん

始めまして。何だかこういう考え方の人は、自分以外あまりいないのかと思っていましたので、少し嬉しいような気がします。笑 「明るく無邪気に」という性質は、無限の承認が得られるような気がしますが、こうした、ちょっと襞っぽい考えは、一般的には暗いとか言われますけれどね。それでもそのスタイルなりに担保しているもの、大事にしているものがあるのであり、結構意志的な生き方でもあるというようなことが言いたかったわけです。

また時折お越しください。

どうも。

最近、トリル氏とはじめて会ったスポンタです。

アラン先生が、楽観主義を意志としたのは、哲学をアクティビズムに結びつけたかったのだと思います。

悲観・楽観という心理現象でしかないものの不毛を説くとともに、それをアクティビズムに関連づけることによって有効な議論としたのだと思っています。

そして、トリル氏が今回動いたのは、アクティビズム。

勿論、それはM氏の心理現象とは関係がないのですが…。

どうも。アクティビズム・・ちょっと僕にはよくわかりません。行動主義というなら、それこそ心象的な面からは自由であるべきで、それなら悲観楽観を超越するはずなのに、なぜ楽観主義のみを意志とするのか。まあ、アランを読んでからいうべきでしょうか。

それから、ここは、「ことのは関連」禁止続行中ですのでよろしく。近くはてなにいろいろ書きますので。そちらでコメントしてください。

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