SNS

My Photo

BooksBooks

無料ブログはココログ

« 更新 | Main | 邯鄲の夢(4)-----消えた痕跡 »

May 10, 2007

私に世界は変えられるのか。変えるべき世界を想っているのか。

「世界を変える」と、あなたが言うとき、その言葉の裏には「世界など変わらない」「変わるはずなどない」という意味が込められているはずだ。少なくとも日本では。

ところが

――日本語のブログが世界で最も多いというような調査があった。その一方、ブログ内容はテレビや新聞の受け売りである場合も多い。
 調査のブログの定義はかなり広く、SNSなども含めているようだ。

 そもそも、日本人は日記文化を持っていた。インターネットのホームページが流行った当初も、坂本龍一などの著名人を含めて、自分の日記を公開していた。米紙でも多くの日本人が、日記を公開していると報道された。

 米国のブログの傾向と違うのは、米のブロガーは本当に世の中を変えてやろうと思って、ブログに意見を書いている。ところが日本人は自分のブログで書いたことでは大して変わらないという意識がある。

(「ウェブ2.0はバブルの兆候」・デジタルガレージの伊藤穣一取締役に聞く

「米のブロガーは、本当に世の中を変えてやろうと思って、ブログに意見を書いている」とJoyは言う。少なくとも、「Web上の日記です」とブログが紹介されてきた日本において、それは変革の道具ではなかったろう。なぜって、「世界を変える」ことが日記に可能だと思うか?あるいは、「世界を変えるために」日記など書く奴がいるか?

むしろ日記は、世界と自分とを区切るために、世界から隔絶された自分を見つめ、遮蔽された時間や空間の中で、内心を見つめるためのものであったのではないか。「ネットで日記を書く奴の気が知れない。」などと、ここにいる当の私も5年ほど前には嘯いていたわけであるが、現在はこうしてブログを書いている。しかし、これで世界が変わる(笑)などとは思っていないし、変えるべき世界が仮にここにあるとしても、本気で世界を変えるなら別の手段を選ぶだろう。

もちろん、私のこっぱなブログが、日本人が最大数を占めるに到ったブログの一滴であることに変わりはなく、その累積の中で何かになることはあるかもしれない。が、その累積が世界を変えていくと言ったところで、それはそれだけのことである。

そもそも思うのだ。あなたは、あるいは私は、「変えたい世界」を心に持っているのか。仮に持っているとすれば、「変えていきたい世界」への方向性を持っていることになる。当然持っていると答える善男善女の前で何を誇れるか、何を語れるか。

JOYはその穏やかなたたずまいの中で、「世界を変える」ブログの力をずっと説いてきた。声高に声を張り上げるのではなく、彼はその小柄な体でそっとあなたの横に立ち、世界が変わること、そしておそらく変えなければならないことを説いてきた。そういう存在としてJOYが心の大半を米国に沿わせているのは、よくわかる。彼には、日本に立つべき場所はずっとなかったのだ。そのまばゆい名声にも関わらず。僕はそれを感じてきた。ずっと昔から。

ところが、何しろ米国のブロガーは、「世界が変えられると」信じて今日もブログを書いているのだ。

もちろん、そんな大きな「夢」を語ったところで、大部分のあなたや私に世界など激変させる力はない。日々は凡々と過ぎていき、あなたの主戦場はせいぜい「はてな」や「2ちゃんねる」であったろう。この国にあっては。

それでも一部の、より賢明な米国のブロガー達は、考えたのかもしれないのだ。「我々の思い込みにも関わらず、もしもブログが世界を変えられないとすれば、それはなぜだ?」と。あのとてつもない力を持つに到ったGoogleなど、何の言論も持っていないではないか。ただ日々鬱々とインデックスを作り続けている奴らが、人の作ったサービスをタダ同然に取り込んで、得意然としている奴らにできて、自分たちにできないことが、あるというのか?Googleでもない、しかも武器を持たない米国人に何ができるのだ?と。

あるいはその誰かは気がついたのかもしれない。ブログには本当の金の流れがないことを。日本の善男善女は気がついたのかもしれない。2ちゃんねるには憎しみと唾液と精液しか流れていないことを。あなたのブログには、車と住宅ローンの支払記録しか書かれていないことを。


世界を変えるとはどういうことなのか。


あるいは米国のブロガーも、薄く気がついていながら、沈黙していたのかもしれない。圧倒的なリアル世界にあって、我々の桃源郷にないものは何か。それは、息遣いでも恋愛でも博愛でもなく、ただ一つ。大動脈と大静脈が、あなたの心臓で真っ赤に交わるように、現実世界と、ネット世界の経済とを隔てる、壁を壊しさえすれば良かったのではないか。

それで世界は、変わると誰かが気がついたのかもしれない。

ブログが言論である限り、ブログが人の生きた営みである限り、それはどんなに血を沸き立たせたとしても、誰かの血でしかないのだ。21世紀にあっては、血では世界は変えられない。変えられるとすれば、この世界の隔壁を破壊することだ。それは経済であり、言論ではない。。。

と思ったかもしれない。

人生において、大変革の目撃者になる機会はそう多くない。ましてや、世界を揺るがす地を震わせる大変革を目の当たりにする機会は、普通の人間の人生にはめったに訪れない。
しかし、それは言葉を変えれば、こうも言えるのではないだろうか。

つまりあなたは「革命」に出会わなかったのではなく、革命があなたの足元で起きつつあることに気がついたか、そうでなかったのか、ということだ。

つまりだ。「世界を変える」人間とは、実際に世界を変える人間ではなく、一番最初に世界が変わり始めたことに気がついた人間のことではないのだろうか。


もちろん、あなたに、そして私に「変えるべき世界」があったとしての話だ。

« 更新 | Main | 邯鄲の夢(4)-----消えた痕跡 »

Comments

ごぶさたしています。

読みました。

ジョイ伊藤氏は尊敬できる方ですが、私は、アメリカと日本で、自己の境界領域についての違いがあると思っています。

私は言論していますが、それは、日本社会というコミュニティーを改革しようなどとは思っていなくて、日本の集合的無意識を言語化しているだけだと思っている。

自分とは、大いなる自然の分身であると自己を定義する仏教用語ですが、アメリカにおいては、自己と社会は隔絶している。

そんな感じを持っています。

それで、ウェブ2.0について、ティム・オライリーのウェブ2.0EXPOのコメントに接し、彼のブログに書き込んでみました。

http://radar.oreilly.com/archives/2007/04/_as_you_may_hav.html

読み直すとスペル間違いもあるし、ひどいなぁ…。

傍目には、私がインターネットを変えようと思っているように見えるかもしれないけど、実は、そうじゃなく、エバンジェリックな人たちに隠れている市井の言論を表に出しているに過ぎない。

そんなことを考えています。

自説開陳失礼しました。

そして、ありがとうございました。

はじめまして

日本の場合、前例がないと「それで飯を食えるのか?」的な意識があるのと、マスコミコングロマリット的なものが「どうせ無理」を助長しているように思います。
世論操作などマスコミがいっせいに報道すれば
いくらでも変わりますからね
その点、アメリカよりも何倍も厳しい気がします

>>スポンタさん

どうも、お久しぶりです。まあ、私やスポンタさんの方向性とJoyとは自ずと違うのですが、世界を変えようという意思を受認するとして、そうしたエネルギーがどこから来るのかを推測することも大事かと。そうした意味で他者のエネルギーに想像を巡らしたかったわけであります。

>>mameさん

はじめまして

>世論操作などマスコミがいっせいに報道すれば
いくらでも変わりますからね

確かに。それだけに変化を担う主体的な意志が育ちにくいですね。諦念の源泉は政治ではなくてメディアであるかもしれない。諦念が必ずしもマイナスではない場合もあるわけですが。

いやぁ、ご返事をいただけて嬉しいです。
(^o^)

SNSは読み逃げ禁止になり、ブログはコメントで対話しないことが当たり前になっている昨今。

対話は貴重であり、嬉しいです。

自己発信の根っこは、自分と他人が違うことを顕在化すること。だから、それに失敗すると、引きこもったり、逆切れする可能性もあるのに、インターネットがばら色であるかのように言説する人たち。

こまったものです。

今後とも、違う立場で対話をお願いします。

「私」が変わると「世界」が変わるのです。演じるも、ちょっとだけ「私」が変わる。だから「世界」が変わった気がして、いい気分がするのです。演じるはラジカルに変革されているわけでない。歪んでいくだけです。歪みの修正はとても難しい。社長業も似ている。会社を代表しているわけでなく、社長を演じさせられているだけ。あと日本のネットも演じているだけだったりします。

たぶん、アメリカ人は、「私」というオリジナリティをつきとめれば、「世界」ではなく、「新大陸」を見つけることができるのだと思っています。だから、国際社会の中で、もっともワガママで、わはは。

で、演じるではなく、「私」が人生の中で根本的に変化するときはそれぞれにあります。健康だった人が病気になる。病気だった人が運よく治ってしまう。信じていた人やことに裏切られて財産を失うとか。こちらは、すべてリアルな現象です。この時、しばしば適応障害も起きます。演じてきた歪みが狂気に結びついてしまう。ま、アメリカならオリジナリティのある狂気なら高く評価されたりしますけどね。

演じるだけで変わったような錯覚でなく、自ら変わっていってリアルとして受け入れていくしかないのだと思います。で、noneco自身は、私のオリジナリティある病気をとうとうつきとめることができそうです。身体が変化して、当然考え方も変わってきて、これは演じているわけでないので、それと、もしかしたら一人で狂気に走っているのかもしれないけど、とりあえず、気持ちがいいので、あはは、それでいいやということで。

BigBangさんは広告業界からPC業界に変化することができたのだから、また、変化するときが、まさに、「ビック・バン」の未来航海図がここのブログなのかもしれませんね。あるいは、若いときにあった直感を改めて、「私」にしか写せない「写真」をとるとか、なんでしょうね? 成長も変化で、他者の成長を見ていたい気持ちもよくわかりますが、ご自身の大変化を。(それにしても、ネットは、変人しませんねぇ。永遠にわけのわからないハンドル名とそのムードを背負って、ずっとやっていき…)

ま、なんでしょうね。お金持ちになったら、ひとりぼっちだったみたいな、ブログのような気がします。そんなら、誰か一人でも、忘れられない存在になりつつ、自分は、みんな忘れてしまって、あはは、別世界。ま、世界は変わるわけでなく、やっぱり別世界なんだろうなぁ。そもそも、ブログは、別世界としてスタートしていたんだけどね。なんか、演じ切れていないブロガーが多いこと。逆に言えば、「私」というオリジナリティから離れて「他者」にばかり関心がありすぎで。な、感じの今日このごろです。

そうそう、ついでに、私が若い頃、お茶の先生でもある人に、「若いとき外国にいくなら金持ちに国を見てきなさい。」と言われました。ま、つまりアメリカへ行けと。行きはしなかったけど、特別に関心を寄せていました。で、もう、私もBigBangさんも若くないので、貧乏な国を見てくるのはどうでしょうか? ま、私自身貧乏なので、行くことはできないので、あはは、関心を改めていて、この前、サクラヤの店頭で、中国の農業、ま、農奴といった方がいいのか、貧しい地域から、さらに農夫として出稼ぎにいくわけですけど、ずっと、ほとんど歩いて、最後にほんの少しバスに乗るだけで、お金をかけないわけです。これがすごかった。大都会の片隅のテレビの前で、自分の貧乏が金持ちに思えるほどで、あはは、とにかく、リアルな「世界」は、スゴイなぁと。なので、とりあえずBigBangさんは、PCの仕事で、インドへ視察しつつ、貧民街の老娼婦を見てくるとかいかがですか? それと、こそっと、ここに書いておきますけど、finalventさんは、ダルフールに行ってくるといいのだと思う。現地が無理なら、安全な近くまででもいいから。そのために、せっせとアフリエイトで稼ぐとか、寄付を募るとかかなのかな。松永くんは、健康状態にもよるけど、まだ、若い方だから、上海や香港に住んでしまうとかかなぁ。

Post a comment

(Not displayed with comment.)

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/28156/15023739

Listed below are links to weblogs that reference 私に世界は変えられるのか。変えるべき世界を想っているのか。:

» 科学の足元を掘り下げる [全裸の(知性の)女神ハテナ]
周りの物質が、どのように動き変化するか、予測用の模型を作ります。自分の周りの他 [Read More]

« 更新 | Main | 邯鄲の夢(4)-----消えた痕跡 »