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May 19, 2007

世界の再構築を「3番目のもの」に関して考える

綴っていく立場、語っていく立場というものがある。語らなければならない立場というものもある。ここで、なぜ「なければならない」のかについて考えると、そこに至った内的な、あるいは外的な要因は必ずある。批判に対する反論、攻撃に対する防衛、反撃。釈明。あるいは外的なことではなく、自らの内的な要請に基づく他。

対して、この者に対して、継続して批判していく立場もある。

これらは両輪である。論は批判を経てこそ昇華される。論は批判されてこそ、その先を目指す。一方、批判は起点となる言論があってこそ成立する。声をあげるものがなければ、批判という行為は存在しない。そういう意味で批判は批判対象に依存し、論者も批判者に依存している。一方批判は批判として流通されたその段階から、今度は「言論」としての責務を負うことになる。新たな批判者の登場を招く。役割はダイナミックに変動し、スタティックではない。

このサーキュレーションをひとたび頭に描けば、1つの論を論じることも、批判を行うことも、同じくらいに意味があり、同じくらいに無意味である。世界のサーキュレーションの一部として消費されるという諦念がないのであれば、だ。それはSLで雲の高さまで舞い上がり、地上のアバターたちの銃撃戦をつぶやいて批判する、「私の孤独」と同じくらいに、意味がない。

どうやっても、あなたに神の視線は与えられないのだ。当たり前のことなのだが、そういうことだ。

つまり、反する側は反すればよいし、語るべき側は、粛々と語っていけばいい。世界はそれで「なるように」なっていく。こう言うと、いかにも日和見な印象だが、全体世界の構成はそれによってこそ再構築されていくのであり、その蓄積にしかない。そのことに今更気がつかないわけもない。

そういえば。昔の偉い人の言葉だと、「止揚(アウフヘーベン)」というのがあった。

渦中にあれば、「敵」と自らの言説に血をたぎらせながらも、つまりアタマに血が昇りながらも、どこかでこの世界の再構築の作業の一部になっていることを意識すべきだろう。
鈴木宗男事件に連座した佐藤優は、「獄中記」でそれを「愛」と表現した。敵に対する「愛」と彼が読み込んだのは、彼のキリスト教への神学者としてのアプローチである。彼はもちろん、ヘーゲルも隅々まで読み込んでいるのだが、「止揚」と「愛」に関する解釈を聞いてみたい気がする。

それはともかく、凡夫たる私はここで、「3番目のものたち」を意識せざるを得ない。それは、あたかも私の大嫌いな納豆が、歯の間に挟まって腐臭を放っているかのごとき、存在である。「3番目のものたち」は、世界の再構築に、参加しない。というより、一見、益よりも害を及ぼすことしか頭にないと思われる者たちのことである。

彼らの興味は「オンリー破壊」であり「オンリー荒らし」であり、「オンリートラブル」であり、「オンリー自己愛」である。それら、歯の間に挟まっていることに人生を、存在をかけているような立場は、確かにある。稚拙で半端なロジックであなたをかく乱する。

私はそれでも考える。遠景から見れば、それらもまたこの世界を再構築していく過程に、何らかの寄与をしているのだろうか。それとも元々「本当に必要のない」ものなのだろうか、と。それらはおそらくゴルゴダの丘でイエスを挽きたてた兵士の中にはなく、もちろんイエス自体の中にもなかった。イエスから最後まで離れなかったのは、そして彼の悲惨な最期をどこまでも見届けたのは、ほとんどが女性だったそうだが、それらの女性の中にいるというわけでもない。

ではその時、それら「3番目の者たち」はどこに佇んでいたのだろうか。

類似の妄想は、映像でしか見たことのない、アウシュビッツに続く長い鉄路の風景にも思う。鉄路は延々と収容所に続く、ユダヤ人にとっては「死へのロード」だったわけだが、あの究極の世界の中で、「3番目の者たち」はどこに佇んでいたのだろうか。鉄路を取り巻く群衆の中にいたのだろうか、それともいなかったのだろうか。

こうして彼らの存在の不要を言いながら、一方でその存在に意味を見出そうとする私は、あるいはそうすることで、そこに自ら、何かの救いを求めようとしているのだろうか。その精神のマッピングがなかなか自分でも整理できない。

心を離れて一般化すれば、「止揚」される(であろう)世界の中で、あなたと私の立っている場所。彼と彼女の立っている場所。そして、それをとりまく「3番目のものたち」の場所に、何らかの意味づけをすることは可能なのだろうか。あるいは無意味なのだろうかと。

論者と批判者との間の、拭い去れない相互依存の関係を超えるものを、あるいはこの「非道な」3番目の者たちによって提示できるとすれば、彼らにも一定の「意味」がある。だが、そうでなければ、それは本当に意味のないものなのだ。

いったいどちらなのか、私には未だわからないでいる。

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