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September 30, 2007
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インターネットを遮断したミャンマー軍事政権とブロガーの戦い(CNET Japan IT'sBig Bang!)
2007 09 30 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
September 27, 2007
乱数表で死刑を執行したらどうかと言った鳩山法相
新聞等の見出しでは「署名なしで死刑を」となっていたが、「署名なしで、乱数表か何かで死刑を」ということだったらしい。
死刑を受けるべき人間は執行されないといけないが、(法相は)誰だって判子をついて死刑を執行したいと思わない」と発言。執行の順番について「ベルトコンベヤーって言ってはいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば、次は誰かという議論にならない(鳩山法相)
俺は執行したくないというのであれば、執行書に署名をしなければいい。杉浦正健元法相は在任中には、ついに死刑執行命令書にサインしなかったらしいが、記憶が朧だが他にもそのような「粘った」法相が過去に何人かいたはずだ。死刑に対する言論的な批判は当然あるべきであろうと思うし、法相になったことにより、直ちに例外なく死刑執行書への署名を拒めない、つまり無条件の法順守しかないとまでは私は思えない。死刑反対論であれば、堂々とその主張を立法の場で展開すればいいだろう。その上で国務大臣の執行義務との関係も議論すればいい。あるいは辞することになることも当然あろう。
ところが、彼がここで言っているのは死刑執行廃止論ではない。死刑執行の最後のボタンを自分が押すのは嫌だと言っているのであり、またその行為を最後の一人に委託するのは酷だと言っているようだ。では、一体誰が一人の人間の命を奪うことの最終責任をとるのか。それを乱数表に委ねるというのは悪質な責任放棄であろう。
そもそも鳩山氏に誰かがその役割を強制したわけではない。その役務がつらいというなら、彼は法相を引き受けるべきではないし、その自由がある。
「とてもあんなもの署名はできないなあ、寝覚めが悪くてなあ」
「うん、そうだなあ、くじか抽選で決めてくれれば楽だよなあ」
などという次元の会話は、庶民には許されようが、国政の重要な一端を担うもの、それも政府内の、法務大臣としては許されないお粗末な発言であ る。報道ではあまり追及されていないようであるが、私はこの発言一つをとっただけで、鳩山氏は法務大臣として不適格であると思う。さすがに後から乱数云々 は不適切だったとして取り消したが、取り消せばいいという問題ではない。一時的にしろこの程度の認識を公に吐露した鳩山氏は猛省すべきだ。
先日辞任した安倍前総理の例をまた引くわけではないが、そもそも何を思って彼らは重職を引き受けるのか。その覚悟が感じられない。私はある意味で、閣僚で なくても、政治家は1人の人間であることすら、一端は超越しなければならない局面があると思っている。政治には元来人を人として見詰めた末に、そこから離 れなければより大きな非道を招く恐れのある事態に対して、自分の人間としての苦しみを棚に上げても執行しなければならない局面があるはずである。その苛酷 を引き受けてくれるがゆえに、国民は彼らに社会的敬意を払い、待遇を保証する。政治家になろうとするものなら常識的な覚悟であると思えるが、それすらも危 うい政治家が多すぎると思う。これを「苦労知らずの坊ちゃん」と呼ぶのは易いが、安倍氏や鳩山氏のような「出自の卑しくない」政治家だけに限られたことで はないように思う。果たして政治家の苦しみを引き受けずに、特権だけを享受しようと言う傾向があまりにも強すぎるのではないか。
その観点からMr_Rancelotが言われた
よろしいか。大臣は国家を背負っているのだ。その意味が鳩山法相にはお分かりでないようだ。機能としての自分を掲げることが出来ぬならば、政府になど入るべきではなかろう。(「死刑」/green)
には全く同意である。
誰もあなたに、あなたの意に染まない行為を強制しているわけではない。責任を負いたくなければその場所に立つべきではない。立ち去ればよい。あなたにはその自由があるはずだ。
2007 09 27 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(1) | トラックバック
September 26, 2007
セカンドライフのベースとなった小説「スノウ・クラッシュ」に描かれた未来は最高にクールだ
1992年に書かれたニール・スティーブンソンの大傑作。奇書とさえ言っても過言ではないだろう。米国ではベストセラーになっているが、日本国内でそれほど話題になったという記憶はない。アスキーが単行本を出した後、早川SF文庫より上下巻出版されているが、在庫が尽きたか、(現在書店ではまず手に入れることはできない。マーケットプレイスなどに頼るしかないが・・何てこった!理由は後で。)
物語の時代。既に米国はなく、世界は「フランチャイズ国家」によって細分化され、軍閥のような国家群が覇を競っている。リアルの世界と巨大なコンピューターネットワークで構築されたバーチャル世界を自在に行き来して、コンピュータウィルス「スノウクラッシュ」の謎に迫るのは、凄腕のハッカーにして剣士、そして未来社会では限りなくクールなピザ配達人であるという奇想天外な英雄、ヒロ・プロタゴニスト、そして「特急便屋」の少女Y.Tは15才。2人は謎の解明を求めて遠い過去と未来を繋ぎながら、「二つの世界」を疾走する。彼と彼女ののスピード、凄まじい未来社会のコンピュータイメージ。サイバーパンク小説の迫力を読者に十二分に伝えてくれる。いや、この小説は米国では「ポストサイバーパンク小説」の代表作として称えられた。
間違いなく傑作として米国で評価されながらも、そのあまりもの奇想天外、突飛過ぎるイメージのせいか、日本では話題にならなかった(と思う)この小説だが、今一部で注目が集まっているのは、あの「セカンドライフ」のリンデンラボ創業者、フィリップロズデールが、セカンドライフの主たるイメージはこの小説の中にあると、発言しているからである。「メタバース」という言葉も、この小説によって初めて使われ、具現化された。
【参考記事】
リンデン・ラボ訪問記
社内にはビリヤード場、「週に1度はセカンドライフ」が社則
ここで若干、説明を加えておく。ローズデール氏の仮想空間への構想のもとには『スノウ・クラッシュ』(ニール・スティーヴンスン著)というSF小説がある。ローズデール氏は同社設立の数年前に、妻に薦められて読んだこの小説に触発され、リアルとリンクした形で繰り広げられる仮想世界の立ち上げを考えるようになったと聞く。
そう思って読んでみると、確かに近未来のリンデンラボの目指す世界、セカンドライフの未来の萌芽を、到る所で感じることができる。ひとたびゴーグルを装着すれば、その瞬間から主人公はアバターになって、メタバースに飛び込む。ピザ配達はともかく、「剣士」に格別の尊敬が集まる「気風」は現在のセカンドライフでもそのままであろう。主人公ヒロは黒人を父に、韓国系日本人を母にもつ設定であるが、おそらく作者の頭の中に、日本の剣、サムライのイメージに加えて、現代日本のSFやアニメ文化の潮流があることは間違いないだろう。日本人は「ニッポニーズ」として、醜くも恐るべき物語上の確固とした地位を与えられている。
もっともセカンドライフで具現化されたイメージとかなり異なっているところも、多くある。中でも意外なのは、「スノウクラッシュ」には「インターネット」という言葉が全く出てこないこと。ニール・スティーブンソンは、メタバースの巨大なネットワークを、光ファイバーと衛星によって構築された巨大な世界規模のLANとして描いたが、1992年という状況がそうしたのか、それに「インターネット」という明確な言葉を与えていない。ネットワークはあるいはフランチャイズ国家が張り巡らした、マスメディアの行きつく究極の世界とも読めるのであり、彼をもってしても、インターネットのここまでの興隆は読み切れなかったか。
さらに、ディテールはセカンドライフユーザーであれば実に楽しめるものばかりだろう。例えばヒロ達はすでにキーボードからは解放され、装着型のウェアラブルコンピュータ=ゴーグルによってインワールドに「イン」するが、セカンドライフのようにテレポートはせずに、メタバース内でもモノレールや車に乗って何万キロメートルも疾走する。現実世界において富を持つ者は、豊かな解像度を誇るアバターを所持するが、貧しき者はモノクロの貧弱なアバターを使う。既に現実世界のインフラは、ブレードランナーの世界のように頽廃にまみれており、メタバース世界の英雄であるヒロもリアル世界では裏町の貧弱な家に住む。そしてY.Tの愛犬の心を持って生まれ変わった「ネズミモドキ」の、アバターたちを脅かす、凄まじい破壊力。
あるいは我々にとってそう遠くない未来の世界の姿は、過剰なまでの圧倒的な存在感をもってこの小説に描かれている。そのメタバース時代への入り口を、未だ未熟な姿ではあるが、リンデンラボ他の数社が既に実現しつつあるという今日の状況を見ると、如何にニール・スティーブンソンの描いた世界が、とてつもなく「リアル」であり、予言性があったかがわかる。いや、むしろこの優れた小説イメージが、IT経営者たちの心に火をつけたのだ。
ここに描かれる未来は、あるいは耐えられないものかもしれない。既に世界はイカレテイル。壊れている。しかしそのぞっとするはずの我らの未来は、決して暗いイメージではなく、それどころか、この上なく「クール」なのだ。
是非一読を薦めたい。僕はもう3回も買ってその都度人に配ってしまった。
※あれ、マーケットプレイスの商品に軒並みプレミアム価格がついてるぞ!
2007 09 26 [書籍・雑誌] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
September 20, 2007
麻生氏はやはり情報を開示すべきだった。----密室禅譲の時代の終わり
麻生氏が、いち早く安倍総理の辞任の意志を聞いていたにも関わらず、自分の胸に2日も秘したことがどうとか言われているけれど、そしてどうも本当に知っていたのが彼だけなのかどうかも疑わしいというようなことが言われているけれど、このことを国家のコンプライアンスと言うか、危機における情報開示という観点から考えると、やはり問題があったように思う。
現状として、そのことが総裁選における、彼の失点のひとつとして利用されていることは事実であるし、実際安倍首相が麻生氏に打ち明けたときの状況を思えば、相当切羽詰った局面であると思わざるを得ない。であれば、麻生氏としてはまず国家的な観点からも、次には自民党的観点からも、一刻の猶予もおかず、まずは政権の中枢にいる官房長官、あるいは自民党の幹部、そして派閥の領袖にも報告をすべきではなかったか。
というのも、一般の企業ですら危機管理の観点、社会的責務の観点からネガティブなポイントについては一刻も早く情報開示することが厳しく求められる時勢にあって、いわんや国政の重大問題に関してをや、と思うからである。現実的な話で考えても、もしも麻生氏が「然るべく」動いていれば、今日の総裁選における状況は変わっていた可能性もあったと思うからであり、ここでの重大な判断ミスはやはり無視できないと思うからである。
もっとも、わかる部分、あるいは想像できる部分もあって、あるいは密室において総理から辞意を告げられたとき、麻生氏の頭の中にはあるいはその密室性そのものが、次期政権を託された証であるという思い込みはなかったか。特権的に示された情報が、あるいは次期の政権の奪取を保障する印籠のように思ってしまうところはなかったか。
ここで小渕恵三元首相の突然の死去に際しての後継森政権の「禅譲」における不透明さが世論から批判された記憶を思い出したが、ともあれ森氏は「密室における」あったかなかったか不明な小渕元首相からの「禅譲」を周囲に納得させて一度は政権に就いた。
ただその時代から年月は流れているわけであり、民間においての企業の危機管理がこれほど厳しく言われている現状を見れば、麻生氏の処し方も、違っていても良かったのではなかったと、私は思うし、つまりは政権を取れる、取れないという境目は実に微妙なものだなあとも思う。
2007 09 20 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
September 13, 2007
安倍首相辞任を表明----凄惨を知らぬ「美しい国」は弱かった
テロ対策特別措置法の継続がならなかった場合、実質的に辞任を示唆した「職を賭して」発言の時には、これは民主党を相手にした、ぎりぎりのブラフかと思った。民主党が「国際公約」に反して、再三の米国からの働きかけにも関わらず、同法の延長に反対するなら、安倍は首相を辞める。当然ながら政治には空白ができるし、対米国においても、日本は苦境に追い込まれる。それでもよければ反対してみろという、賭けかと思えたのである。
ところが、今日の急な辞任を受けて関係者の発言を聞いていると、すでに参院選の敗北以後、首相の心身は限界に達しており、どうも先の発言も深い思惑からではなく、既に政治的な決断能力を失っていたからであるという見方が強いという。
民主党の小沢代表と会談できなかったことを、最後まで首相は言及し、あたかも民主党の非妥協的な姿勢が、辞任に繋がったが如くであったが、小沢代表によれば、民主党への申し入れは腹を据えた勝負を挑むものではなく、「ご挨拶をしたい」などという曖昧なものであり、代表質問の前に何を悠長なと、小沢代表は会談を断ったという。
要は、諸所で安倍氏の判断力は破綻しており、正常な判断ができなかったというのが実際のところであったようだ。このタイミングでの辞任発表は政治的責任からすれば最悪であろうが、松岡元農相の例もある。実に無責任な軽挙ではあるが、あるいは在任中に最悪の事態になる恐れすらあったかもしれない。自ら職を辞するぎりぎりの力がまだこの人に残っていたことをもって、我らは次善の事態とすべきかもしれない。
それにしても、安倍氏の精神が、あるいは首相の激務には向かなかっただけではなく、その信条である「美しい国」も今となっては空しい理念に思える。「美しい国」どころか、自ら実に美しくない去り際を安倍氏は見せていったわけであるが、その言葉と裏腹に「テロとの断固とした対決」など、おおよそ、彼には土台無理だったろう。
先日、インド洋で給油活動に協力する自衛隊員の取材VTRを見た。どんなときに一番喜びを感じるかと聞かれて、給油した他国の船舶に感謝されるときと述べたときの、若い隊員たちの表情は確かに純粋であり、「美しかった」かもしれない。だが、テロとの対決とは、油を差しただけで終わるわけではないのだ。給油した船は、やがて洋上で敵にまみえるかもしれない。戦闘状態の中で相手を殺傷する場合も当然あるだろう。自衛隊員の給油した燃料は、殺傷のための環境を「友軍」に提供する、きわめて戦闘性の高い行為である。
洋上の夕日に輝く隊員たちの汗は確かに美しかろうが、美しさはそこで美しさとして完結されるわけではないのである。つまり表面的な「美しさ」はこの世界の「醜悪」や「凄惨」と表裏の関係にある。
もちろん、内政でも同様であり、先の小泉前首相が「痛みを伴った改革」と言ったときほどにも、この甘いマスクの首相に「痛み」の意味がわかっていたか。美しさの向こうにある凄惨が見えていたか。
決して米国の為政者を賛美するわけではないが、少なくとも彼の国には、この凄惨から目を逸らして空虚な「美」を唱える大統領はいないだろう。そこが、我々の国に欠けている決定的な覚悟であり、最後に涙目になって小沢氏の非情に恨み言を言いながらこの場を去った安倍首相は、まさにその「甘さ」を体現していたかもしれない。
真に凄惨を見つめて、なお美を唱えることが出来るなら。せめて今はそうした次の傑を望むのみである。
2007 09 13 [経済・政治・国際] | 固定リンク | コメント(6) | トラックバック
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セカンドライフ推進派に回った「檄文」とアメリカンアパレル撤退の意味(CNET Japan IT'sBig Bang!)
2007 09 13 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
