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October 29, 2007
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ミャンマー(ビルマ)とNOVA問題におけるFacebookの力(CNET Japan IT'sBig Bang!)
2007 10 29 [パソコン・インターネット] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
雨と名画座と歌姫
風の強い日には傘を壊す。それならいっそささなければいいのに、人はそれでも傘をさし、強い風にあおられて、これも予想通りに傘を壊す。
飯田橋の名画座に行ったのは台風が近づく風の強い日だったのだけれど、学生時代に確か何度か来ているはずの、その外観のたたずまいは、すっかり記憶の中で薄れていた。ただ、こんなに入口は狭かっただろうかと思っただけだ。どんな映画をここで見たのか、それも忘れてしまった。実際飯田橋の界隈の変わり方といったらどうだろうか。表通りにあったもうひとつの名画座は、とうの昔になくなってしまった。
仕事できたはずなのに、そこの名画座の社長の話が多岐に渡り、いつか話は映画と戦後文化とかそういうところにまで広がっていき、次第に時間を忘れていった。
で、社長がふいにこの秋始まったドラマの題名を口にした。
「歌姫」----。
長瀬智也と相武紗季が出演するそのドラマは、昭和30年代の土佐清水を舞台にしている。記憶喪失になって流れ着いた長瀬智也演じる主人公は、土佐のオリオン座という高田純次が経営する古い映画館で面倒を見てもらい、映画技師として働いているが、とにかく破天荒にトラブルを起こし、土佐の街で暴れまくる。相武紗季演じる映画館の娘が、彼に思いを寄せると、そういうドラマだ。『花より男子』の脚本家として知られるサタケミキオの台本。
題名にそぐわず全編乱暴な土佐弁が飛び交い、元々が演劇の本のためか、出演者はいつも怒鳴りまくっていて、とにかく落ち着かない。タイトルもどこでどう効いてくるのか今のところ、さっぱりわからない。三丁目の夕日のような物語の展開を期待すると見事に裏切られる。そのためか、評判もあまりかんばしくないようだ。もっとも第三話で佐藤隆太の「クロワッサンの松」に異様な可笑しさが出てきていたので、ここのところだけは少しだけ期待している。
で、なぜ社長がこのドラマの話をしたかというと、劇中の「土佐のオリオン座」の映写室におかれている映写機は、この社長の名画座にあったものをテレビ局から請われて貸したと、そういう縁があったからだ。そうか、あの映写室かと、訪ねた日の前日に見た情景が浮かんだ。
年代物の高価な映写機とあって、最初は社長は固辞したそうだが、スタッフの「熱意」に押されて貸した。素人に乱暴に扱われては困るので、映写技師も毎回収録に立ち合わせ、毎回収録時に組み立て、その後分解して箱にしまう。その繰り返しは、毎回数時間に及び、簡単なことではないとか。
「それなのにあれだよ」
と社長が言う。やはりドラマの出来には相当不満な様子だった。昭和30年代のレトロな映画館の雰囲気をどこまで再現してくれるか、それに期待していたらしい。映画館の独特の雰囲気と空間、そこにやってくるお客と映写技師との触れ合い。うむ、「ニューシネマパラダイスと三丁目の夕日を足したような?」と口を挟むと、そうそうとうなずく。
「いや、夕べあたりからいい味も出てきていますよ」
などとわけのわからぬフォローをするが、クロワッサンの松の話はしなかった。もう観てないよ俺は。と社長が笑う。「名画座」という言葉の意味がわかる世代も、どんどん少なくなっていくのだろうな、と思う。
ほかにもここに書きたいような話をたくさんしたのだが、ようやく彼にお暇を告げて外に出る。飯田橋の街に雨風が一層激しくなっていた。
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October 15, 2007
「ミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会----これまで何がおきてきたのか」(JVJA主催)出席報告(3)
出席報告の3回目である。急いでまとめなければと思いながら、なかなか時間が取れず、少し間があいてしまったが、引き続きお読みいただきたい。
●ビデオ映像:「遠く祖国を離れて--在日ビルマ人・ティンチの旅--」 土井敏邦制作
ここで、次に土井敏邦氏が2000年10月に制作した「遠く祖国を離れて--在日ビルマ人・ティンチの旅」が上映された。ティンチ氏はビルマを亡命した後、「ビルマ青年ボランティア協会」という在日の抵抗組織に属して、抵抗運動をしてきたが、入国すると逮捕されるために本国には入れない。ティンチ氏が目と鼻の先のタイ国境から祖国を眺め、さらに大量に発生した難民の元を訪ねて、涙するシーンが上映された。尚、ティンチ氏は2003年に米国に拠点を移してそこで活動しているという。
【参考 土井敏邦氏の経歴 BigBang調】
1953年佐賀県生まれ。1985年以来、パレスチナをはじめ各地を取材。1993年よりビデオ・ジャーナリストとしての活動も開始し、テレビ各局でパレスチナやアジアに関するドキュメンタリーを放映。著書多数。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)正会員。広島大学総合科学部卒業後、中東専門雑誌記者を経て、現在フリージャーナリスト。1991年より1年間、週刊誌『朝日ジャーナル』の嘱託記者。1985年以来、断続的に延べ5年以上、イスラエルとその占領地(パレスチナ)の難民キャンプや村に滞在して取材を続けている。また1986年からのべ12カ月間、アメリカ各地でユダヤ人、パレスチナ人を取材し『占領と民衆──パレスチナ』『アメリカのユダヤ人』『アメリカのパレスチナ人』の三部作を完成。
1990年の湾岸危機ではアメリカのユダヤ人社会とアラブ人社会の反応を、また翌年1月の湾岸戦争ではイスラエルで占領地のパレスチナ人とイスラエル国民の反応を取材し『朝日ジャーナル』に連載。3月から2カ月間、NHKスペシャル「アメリカのパレスチナ人」制作をコーディネイト。
1993年の「中東和平合意」を機に再びパレスチナ・ガザ地区の難民キャンプやイスラエル国内に長期滞在し取材、ETV特集「失業と解放の1年── パレスチナ難民エルアグラ家の場合」(94年)「パレスチナ和平の陰で──ある家族の6年」(99年)、また「ニュースステーション」の特集で6回にわたって現地報告。
●写真と報告「ビルマ民主化の足を引っ張り、民衆化勢力の期待を裏切り続ける日本政府 少数民族弾圧とアウンサンスーチーの封殺から見える軍政のメンタリティー。」
報告:山本宗補氏
【山本宗補氏の経歴】
1953年、長野県生まれ。アジアを主なフィールドとするフォトジャーナリスト。1985年からフィリピン取材、1988年よりビルマ(ミャンマー)の少数民族問題、民主化闘争の取材開始。 1998年、アウンサンスーチー氏のインタビュー直後、秘密警察に身柄を拘束され、国外追放となる。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)会員、「ビルマ市民フォーラム」運営委員。
著書に「ビルマの子どもたち」(第三書館)、「ビルマの大いなる幻影 解放を求めるカレン族とスーチー民主化のゆくえ」(社会評論社)、「また、あした 日本列島老いの風景」(アートン)、「世界の戦場から フィリピン 最底辺を生きる」(岩波書店)など。共著に「フォトジャーナリスト13人の眼」(集英社新書 2005 年)などがある。現在、国内各地で「老いの風景」、「戦争の記憶」をテーマに取材を続ける。
(これからお見せする映像は)軍事政権の残虐さ、反対する者は容赦しないということを感じさせることができる映像だと思っています。また今回、日本政府は、日本人のジャーナリストがあのような形で、映像もしっかり残っている形で、射殺されている。そのために、厳しく抗議している姿勢を見せています。
しかし、よく考えてみると、もし長井さんではなくて、あのジャーナリストがタイのジャーナリストだったらどうだったか、フィリピンのジャーナリストだったらどうだったか。日本政府ははたして、ビルマで来ている軍政下の状況に対して、どのような毅然とした態度をとるか。非常に疑問だと言えると思いますね。そこらへんをちょっと、具体例をあげながら説明したいと思いますが、この残虐性ですね、それはまず少数民族であるカレン族に対して、ある意味で日常茶飯事に起きているそういう状況です。
例えば、今回の大きなデモは、19年ぶりなんですが、少数民族であるカレン族の難民、タイ側に逃げている難民はは、19年前には18,000人でした。現在、どれだけいると思いますか?140,000人です。これはタイ側に逃げ出している、難民キャンプで生活しているカレン民族の難民です。19年の間にこれだけ増えたんです。これが少ない数でしょうか。さらにですね、この数字に含まれていない国境を越えることができないまま、カレン州の山中で逃げ惑っている国内の避難民は、少なくとも100,000人はいると見られています。
現在も、昨年から始まったカレン族に対する軍事作戦は続いています。その点を、この数字を頭に入れておいていただきたいと思います。もう一つは、アウンサンスーチンさんのことですね。軍事政権にとっては、もっとも手ごわい、つまりこの人さえいなければ、現在の状況を、市民をコントロールできるということで、強い意志で、圧力で動きを封殺するということをしています。先ほど根本先生が言われたように、19年間のうち、合わせて11年以上、自宅軟禁です。全く活動できていない状況です。それ以外の期間、スーチーさんが、自由に活動できた部分というのは非常に短い。その一部ですけれど、お手元の資料で98年、9年前ですね。スーチーさんがかろうじて活動できた頃に、自宅からビルマの南部のほうのNLDの関係者を訪問する際にとった行動、これは軍事政権が、道路を完全にブロックして、完全に彼女の動きを止めます。2度にわたってハンガーストライキを彼女はするんですが、その時に取材したもの、インタビュー記事がお手元の資料にありますので、読んでいただければと思いますが、さらに2003年5月30日、軍事政権は、アウンサンスーチンの命を狙った形でエネルギー関係者、一般市民、合わせて少なくとも70人から90人は、このときに殺されている、亡くなっていると思われます。それ以降、現在に至るまで、完全に政治活動が封殺されているわけです。
そして最初のほうのカレン民族の難民の状況、去年撮影したものがありますので、それをご覧ください。
(ここから、写真の上映と説明)
彼は、40歳の農民で、ビルマからタイ側に逃げてきたんですが、ビルマ軍に捕まって、殴られたり、ナイフを首につきつけられたりして、軍は、隣に座っていた一緒に捕まっていた農民を目の前で射殺したそうです。
さらに銃口が、こういう感じで(自分に突き付ける動作)されて、たまたま彼は(射殺は)免れたんですが、そういう感じです。
これはタリム湾のダウイン(?)という場所の(よく聞き取れず)建設予定の水力発電ダムの現場ですね。水力発電のダムを造って、軍事政権は電力をそれでお金を稼ぐという計画をしています。
この人は、やはり耳がちょっと欠けているんですが、ビルマ軍に捕まった時に、拷問されて耳を食いちぎられてということです。彼は現金から食糧とか市場に行って自分の村に戻る途中だったわけですが、その際に運悪く全部奪われてしまったのです。
この人は、夫が、ビルマ軍に捕まったまま、帰ってきません。つまり殺されてしまったと、そういうことです。
これは、2002年の4月ですが、先ほどまでの避難民とは違って100Kmばかり南に下がったところなんですが、2002年12月に夜間ビルマ軍の襲撃によって殺されているということです。12名のうちの6名が子供で、さらに1名は妊婦だったということです。この写真がなぜあるかというと、写真を持っている彼がたまたま隣の村にいたということで、翌日駆けつけて、遺体を埋葬する手伝いをして、その際に撮影した映像です。実際、このとき、彼も襲撃でお子さんを2人、娘さんですね、亡くなって両親も殺されたということです。この取材のとき、難民キャンプに逃げてきて、そういう話をしてくれましたわけです。
こういう状況がほぼ日常的にカレン民族に対して行われているわけです。ですから私が言いたいのは少数民族を1999年からずっと取材してきているんですが、この人たちに対する軍事政権のやり方、横暴などという言葉ではとても表現できない、残虐そのものなわけですね。それが今回たまたま大都市で起きていると、それが国際社会に広がったということで、非常にショッキングだと思われると思うんですが、あの・・・・残念ながらですね
、あの・・・・ビルマの統一政権のやってきたことを、非常に端的に表現しているだけとしか思えないとこがあります。つまり彼らは、あの先ほど言ったんですが、自分たちのやり方に反対する者は、どんな形でも、封じてしまう。それが少数民族のカレン族の場合は、軍事活動を、ゲリラ活動している兵隊に対してやるんじゃなくて、一般の農民です。今ターゲットにしているのは。
だから今でも農民が逃げるしかないんですね。軍事政権がターゲットにしているのは農民です。民間人です。兵士ではないんです。それが一つ。
これはさらに遡る、10年くらい前ですね。これはタイ領内にあった難民キャンプを軍事政権は一夜にして焼き払ったんです。つまり、国境を越えて、越境攻撃をして、カレンの難民キャンプを攻撃しているんです。
これは現在50,000人くらいの難民が一つのキャンプに収容されているところです。
これは現在のヤンゴンではなくて19年前の大きな民主化運動が弾圧されて、その1年後に私が、ヤンゴンに行った時の写真です。銃剣を持って市民を監視しています。ここで注目していただきたいのは、あの・・軍用トラック、あれは日野のトラックですね。
※兵士の向こうに、見えているトラックが日野のトラックだという。私はここではよく意味がわからなかったが、ODAによって日本から寄贈された日野のトラックが軍事政権によってほとんど軍用車に転用されているのだという。
都市部の住民に対して軍事政権は何をやったかということですが、ひとつは、強制移住、もう一つは強制労働、もう一つは、国境地帯で必要な捜査、都市部の市民を捕まえて、それを国境地帯での軍事作戦に使ったりと、そういうことをしています。
これは子供たちが、寺院の草取りをさせられているところですね。大人が出て行ったら仕事になりませんから、子供たちがこういう強制労働をさせられていると、そういう場面です。
これは強制移住ですね。つまり兵士は都市部の密集した地域に住んでいる住民を命令一つで郊外の新しいサテライトタウンですね、そこに移住させてしまうんです。もちろん誰も拒否できません。数万人単位でどんどん、移らざるを得なかったわけですね。移った先は、これはビルマの南のほうですが、移らされた先ですが、丘陵地帯ですね。一気に住民を移住させてしまって、住民は仕事もなくなってしまうと。そういうことを平気でやってきた政権だということです。国境でどんなことをやるか、都市部でどんなことをやるか、これを見ても明らかですね。
これは運河を何月何日までに用水路を建設しなさいということで、住民が強制的に働かされているところです。
最後、アウンサンスーチーさんの、映像を紹介します。(次々とアウンサンスーチーの写真が写る)アウンサンスーチーさんのインタビューは4回やったんですが、4回目というのが98年のときで、そのあと私は拘束されて、フィルム、テープ色々没収されて、国外に追放されてしまったわけです。で、それ以来申請してもビザは出してもらえないという状態です。
最後にですね、こういう形で軍事政権の本質というのは、少なくともビルマをいろんな形で・・都市部で取材していると明らかですね。この間、日本政府はどういう態度で外交をしてきたのか、そこが今回曖昧にされたまま、この長井さんの追悼のみの報道になっているのではないかと。それは非常に、そのフリーのジャーナリストとして取材をしてきて強く感じるのは、やはり一番欠けているところは、日本政府はビルマ民主化のために何をやってきたのか、実際に何もやってこなかったのではないか、つまり足を引っ張ってきた。そうとしか言えない事例がたくさんあるんですね。それはお手元の資料を読んでいただければわかると思います。その点、後で時間があればまた最後にお話しします。
(会場から拍手)
山本氏の論点は、我々日本人がヤンゴンの争乱と武力制圧、そして長井さんの死にショックを受けているが、実は軍事政権の特にカレン民族などへの迫害は、ずっと続いてきたことであり、それを黙認してきたのが日本政府だということだ。その一つの象徴がODAなのだが、トラックの話などは、後で少し補足された。
おもにスライドで写真を投影しながらの説明なので再現が難しいが、国境地帯での難民発生の必然、強制移住の実態などは、僕にとってはかつてのポルポトの体制を想像させた。あの時には、いまのようなインターネットといった国際的な情報網がなかった。もちろんこうして書くことのできる「ブログ」もなかった。
大虐殺があったことが本当にわかったのは、ポルポト政権が倒れてから。何年も経ってからだったことを思い出す。
(4)に続く
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October 12, 2007
更新
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仮想世界が一気に地球規模で出現!?---Google Earthの地形を取り込むMultiverse Networkの新ツールは衝撃的だ(CNET Japan IT'sBig Bang!)
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October 09, 2007
長井健司氏の葬儀にて----英雄ということ
青山葬儀場で行われた、故長井健司さんの葬儀に出席してきた。折悪しく雨。会場に到着すると、少し遅れたこともあり、既に式は始まっていた。外には会場に入れなかった一般参列者が雨の中、黙って並んでいた。後から主催者が発表したところでは、1000人が訪れたという。会場入り口には、多くの遺影と花で祭壇が作られていた。
○待機する一般参加者
○在日ビルマ人の方が100人出席したという。オレンジ色の服を着ている人たちだ。他にも式場の各所に、民族服を着た姿が見られた。
○祭壇に飾られた、取材中の写真
○ビルマ語と思われるメッセージも多く寄せられていた。
○多くの報道陣
○出棺前
葬儀委員長はAPF通信の山路徹代表。弔辞は鳥越俊太郎氏、田丸美寿々氏、カメラマンの嘉納愛夏氏、(祭壇に飾られた写真は、03年3月にヨルダンのアン
マンでカメラマン、嘉納愛夏さんが撮影した写真だそうだ)ニュースキャスターの村尾信尚氏、そして式次第にはなかったが、在日ビルマ人の方が2名、弔辞を
述べられた。(お名前をちょっと失念した)
○会場にはよしだたくろうが流れていた。わかる。
そのビルマ人の方が、「軍政が倒れて新しいビルマが出来上がったときには、長井さんは永遠に国民の英雄としてビルマ人の記憶にとどまるでしょう」と語られたのが印象的だった。少しはっとした。
長井さんは「英雄」になったのだろうか。本人の意思によらず、おそらくそうなのだろう。長井さんの死がなければ、おそらく日本政府はミャンマー問題に対して重い腰をあげなかったろうが、それだけではない。
取材中のジャーナリストが、狙い撃ちで殺害されるショッキングな映像は、軍政の残酷さを印象付けるものとして、世界に配信された。撃たれる瞬間の映像、兵士が長井さんを引きずる映像のみならず、今夜はテレビ朝日で、兵士が長井さんのものと思われるビデオカメラとデジタルカメラを奪う映像までが見つかったと、放映されていた。
これほどまで、詳細な「瞬間の映像」が残っている「ジャーナリストの死」は過去に記憶にない。多くの人が携帯電話やデジタルカメラを携え、インターネットを駆使できる時代にあって、初めて可能になったことだ。報道カメラマンの宮嶋茂樹氏が最近、週刊文春に寄稿したところによれば、デジタルカメラ、パソコン、そしてインマルサットの携帯電話の3つが、現代の報道カメラマンの三点セットであるという。そしてインマルサットはともかく、他の2つは多くの一般の人が持っている。いまや世界中に眼があるのだ。
期せずして長井さんは、ミャンマーにおいては、自らが記録した映像で、ではなく、自らの死の映像によって、世界的にその名を知られることになった。そしてその撮影した映像は未だに見つかっていない。
こうして身を挺して、軍政の暴力による圧制行為を知らせることになった長井さんはしかし、キャリアのある報道カメラマンであり、その風貌に似合わず(本当に普通のオジサンだ)勇猛で知られていたという。中東をメインフィールドにしていた長井さんがミャンマーで倒れたことには驚いた同業者が多かったそうだ。
さて、一体英雄とはなんだろう。
あるいはその死が、利用されることがあっても、その志に沿った形で「利用」されるのであれば、おそらく長井さんは諾とするのかもしれない。しかし英雄という言葉と、彼との間に、何かもやもやしたものが僕の中にある。それはきっと、今後もずっと残るのだろうと思った。
長井さんが、英雄の名にふさわしくないというのではない。それどころか、僕は生前の長井さんに残念ながらお会いしたことはないが、彼を知る人によれば、勇猛さと穏やかさを兼ね備えていた方で、どんなときにも周りをリラックスさせる不思議な力があったそうだ。英雄とはそういうものなのかもしれない。
僕の言いたいことは、そういうことではなくて、時に権力すら「英雄」という言葉を利用することを、死神の腕を中東の戦場で何度も切り抜けてきた長井さんは、きっとよくご存知であったはずだからだ。
そんな長井さんの死を、英雄という名にふさわしい、本望の死であったと言っていいのだろうか。
一度もお会いしたことも、話したこともないにも関わらず、やはり長井さんの遺影に接し、そして遺族のご好意でお顔も直に見せていただき、車椅子のご尊父に接し、やはり胸は詰まるのだ。涙はこぼれる。だがその自分達の「涙」を利用する力はないか。
そもそも「英雄の死」と、そうではない「死」など、本当にあるのだろうか。
文春で、宮嶋氏が長井さんのことを淡々と書く中に、「正義ではなく金儲けのために俺達はやっているのだ、テレビや新聞が臆病なおかげで写真が買ってもらえるのだ、だから死んじゃ駄目だ、死んだら金がもらえない」と書いていた。「自分と長井さんはフセイン政権の崩壊に立ち会えたけれど、自分は政権が壊れるまで怖くてホテルで震えており、窓からそっと写真を撮っていたが、長井さんは歩き回っていた」 とも。
「金のため」というのは、長井さんという長年の「戦場の友人」を失った宮嶋さんの独特の、精一杯の「宮嶋節」であり、同時にその仕事へのプロ意識だったろうし、それを書いた宮嶋さんはおそらく泣いていたと思うので、その言葉に胸を衝かれるものがあった。
やはり人は、生き残らなければならないのだ。どんな手を使っても。たとえ勇気に欠けるといわれても。
「だって長井さん。死んだら金がもらえないよ。何も英雄になるためにやってるわけじゃないだろ。がははは」
宮嶋さんはきっとそんな風に言いたかったのだろう。
○葬儀場の空
午後になると雨はあがり、美しい夕焼けに西の空が染まった。
心から長井健司さんの冥福をお祈りする。
2007 10 09 [ビルマ] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック
October 06, 2007
「ミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会----これまで何がおきてきたのか」(JVJA主催)出席報告(2)
続いて上智大学の根本敬教授の報告。根本教授の専門は専門はビルマ近・現代史である。これまでのビルマの歴史を解説しつつ、民主化運動と僧たちのデモとの関係や、民衆の心理の機微に重点をおいて話をされた。最初は学者らしく、メモを見ながら冷静なトーンで始まったと思われた報告は、しかし次第に熱を帯び、後半は叫ぶような口調に変わり、圧倒されるものがあった。
経済制裁や、僧の運動については様々な異論があるであろうが、先入観を持たず、根本教授の熱のこもったプレゼンテーションを、ともあれ最後まで読んでいただきたい。
●ビルマ情勢の解説「僧侶たちはなぜ立ち上がったのか?逼迫した市民生活。今後の経済制裁の必要性。88年の民主化運動との比較など」
報告:根本敬氏
【根本敬氏のプロフィール】
1957年、米国ワシントンD.C.で生まれ。上智大学教授、専門はビルマ近・現代史。62年から64年まで、ビルマの首都ラングーンで生活を送る。85 -87年の2年間、かつての民族運動関係者や抗日農民ゲリラ参加者から精力的に聞き取り調査を行う。現在はビルマ近現代史におけるナショナリズムの形成と展開をテーマとし、ビルマという一国の枠を超えた地域的な比較研究や、幅広い角度からの歴史研究をおこなう。
著書に『アウン・サン―封印された独立ビルマの夢 現代アジアの肖像』(岩波書店)、共著に『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』(角川書店)、『ビルマ (暮らしがわかるアジア読本) 』(河出書房新社)などがある。
●なぜ僧侶だったか
私は今回の事件の背景説明をさせていただき、今回の事態にどのように対応したらいいのか私見を述べさせてもらいます。まず、今回の事件は突然起きたのではありません。
その源は1988年の民主化運動まで遡ることができます。前回の民主化運動のとき、立ち上がったのは現役の大学生、そして高校生達でした。彼らが、民主化運動で大きな犠牲者を出しながらも、最後が市民の合流を実現させ、5ケ月間で最後は100万200万という単位でビルマの国内の多くの人たちが、ビルマ社会主義、これも軍が指導する体制ですけれど、これを倒して立ち上がりました。
しかし、それを押しつぶし、現在の軍政権の体制ができたわけです。人々はその後も軍政下19年の間、我慢をしながら生活してきました。しかし経済状況も改善されず、またもちろん政治状況も改善されず、1990年5月の総選挙で圧勝した、アウンサンスーチーさんの率いる国民民主連盟に政権移譲もなされず、軍政が一方的に新しい憲法を作り、そしてそのままビルマの政治にに強い影響力を軍が残し続ける、そういったシナリオが、できたわけです。
経済的なこともあり国民は不満を残し続けてきました。何かきっかけがあれば爆発する、そういう状態が続いてきました。今回は、学生ではなく、僧侶が立ち上がったのです。
なぜ僧侶だったんでしょうか。
88年のときに中心的な役割を果たした学生は、残念ながら現在はそうした運動の中心に立つことはできません。現在の現役の学生達は、軍政下で育った世代です。その教育の影響を受けて、政治から距離を置く、政治よりも経済に関心を持つ、そういう習慣が身についています。一部の学生はそれでも政治への思いがあり、国をよい方向に変えたいと思ってますけれど、大学のキャンパスを都市から田舎に無理やり動かされ、運動を起こそうにも起こせません。学内でデモをしても市民と合流するきっかけが掴めません。
またかつては学生寮がありましたけれど、その学生寮に集まって相談事が出来ましたけれど、今は寮自体がありません。教員達も軍政によって強制され、学生が政治運動をしないように監視させられています。現役の学生は動けません。
そういう中にあって、動くのは誰か。アウンサンスーチーさんが動ければ一番いいわけです。そして彼女の率いる政党が動ければ一番いいわけです。ところが、アウンサンスーチーは軍政下19年のうち、14年間自宅軟禁の状態にあります。現在は3度目の自宅軟禁、既に4年以上たちました。NLDもアウンサンスーチー無しでは、大きな決定が出来ません。
そうしますと、昔に指導的立場にあった学生達がいまは40歳前後になっていますが、その人たちがもう一度立ち上がるしかない。そこで8月15日の燃料費の大幅値上げに反対するデモを、そうしたOB達が開始しました。抗議行動もシュプレヒコールもしない。ただ黙々と歩く。6月から10月までのビルマ、特にヤンゴンは雨季ですから、毎日雨が降ります。雨が降ってもただ黙々と歩く。人々は、88年当時の学生達がただ歩いているのを見て、彼らが何をしようとしているのかすぐわかりました。したがって市民達も少しずつ静かなデモに合流を始めました。
しかし、この運動もすぐに軍政によって封じ込められ、ミンコーナインという元学生運動のカリスマ的リーダーも捉えられ、また参加者も指導者も拘束されてしまいました。
そうなると、もはや動ける人たちはいないのか。一般的市民は、私達もそうですが、失うものがあまりに大きくて決心がつきません。運動に参加しようと思っても家族のことを思います。仕事を失ったり、地位や名誉を傷つけられる、そうしたことをどうしても恐れます。従って一般市民は、なかなか運動の先頭に立つことが出来ません。そうした中、僧侶が立ち上がったんです。
ビルマの僧侶はお隣のタイ、そしてカンボジアと同じように「上座仏教」と言いまして、日本では小乗仏教という別称で知られていますけれど、その上座仏教のお坊さんは、まさに世捨て人です。出家者です。言葉本来の意味で家を捨て、この世と縁を切った人々です。すなわち財産は一切ありません。捨てるものは自分の命以外ないわけです。ですからそうした人たちが決心すれば、かなり力の入った本格的運動を起こすことができます。
イギリスの植民地時代に、僧侶が独立運動に参加したことがありました。イギリス当局が一番悩んだのが、僧侶の運動です。当時も学生達が、反英運動をしました。また市民も合流しました。今回、独立後もう60年以上たっていますけれど、このビルマで、もう独立しているのに僧侶が政治に対する不満を表明すべく、僧侶が立ち上がったわけです。
僧侶というのは、一般的市民と絶えず接触があります。出家者ですから、仕事はしませんし自分の食事も、それから身につけている袈裟も、修行の場であるお寺の建物も、すべて信徒に頼ります。信徒は出家者を支えることによって功徳を積み、よき来世をめざします。
ですから、出家者である僧侶とそれを支える信徒の間には深い深い関係があり、信徒達はお坊さんの住んでいる僧院に週に1回か2回は来て、お坊さんに悩み事を話します。それに対してお坊さんは宗教的アドバイスを与えます。
そういう関係ですから、僧侶は一般の人たちの生活状況は手に取るようにわかります。托鉢を毎朝行いますから、食事をもらいます。お坊さんは食事の質を通してですね、一般の人たちの生活レベルを、自分のお腹で感じ取ることができるわけです。当然生活が悪化してくれば、いくらお坊様とはいえ、お坊様にご馳走ばかり作るわけにはいきません。
そうやって僧侶は一般の人たちの生活状況を感じ取ることが出来ます。ましてや日常的に、交流しますので、一般の人たちの政治への不満、経済生活の悪化、そういったものを感じ取ることが出来る。そういう中、アウンサンスーチーは動けない、また学生は動かない、学生OBは捕まってしまった、そこで僧侶が自覚して立ち上がったといえます。
きっかけはパコックという街の僧侶の静かなデモを、地元の治安部隊が非常に乱暴に、取り締まったことでしたが、それに対する抗議が急速に広がり、ヤンゴン、マンダレイといった大きな街の僧侶が集団で立ち上がったわけです。ローマカトリックの教会と違い、釣鐘型の組織をビルマの仏教会は持っていませんので各僧院が自分で判断し、また各僧侶が自分で判断し、デモに参加します。ですから必然的に何万人という僧侶が立ち上がったということは驚くべきことではありますが、落ち着いて考えてみれば、彼らは一番民衆の苦しみを感じ取ることが出来、捨てるものが何もないからこそ立ち上がれたんだということが言えます。
●市民生活の悪化
市民の生活はどの程度悪化しているのでしょうか。8月15日の燃料費の大幅な引き上げ。日本でも石油代はあがっています。しかしその比ではないんです。私たちは多少燃料代があがっても、食べることに困ることはありません。しかしヤンゴンのような大都会に住む人たちにとって、燃料費があがるということは、通勤費の値上がりに直結します。ヤンゴンのバスは、最近多くが天然ガスで動いています。天然ガスの燃料費が一時5倍になりました。ということはガソリン代も当然3倍、4倍になりました。ディーゼルガソリン代、これも、1.5倍くらいになりました。そして当然燃料費は流通全体に影響を与え、あっという間に物価をより一層悪化させることになります。ただでさえ、年間のインフレーション上昇率が40%の国にあって、こういう燃料費の値上げが起きますと、益々人々の生活が苦しくなります。これが19年間にわたる軍政に対する不満に火をつけたということは容易に想像できます。
本当に人々の生活苦、貧困観というものを僧侶が敏感に感じ取って立ち上がった。僧侶が立ち上がって一番驚いたのは、おそらく市民でしょう。市民は、まさかお坊様たちが自分たちのために立ち上がってくださるとは思っていなかった。したがって非常に感謝の気持ちを抱きます。デモの当初、お坊さんたちの両側を人々が手をつないで守る形でデモしました。これは、お坊さんたちに絶対に当局に被害を与えさせてたまるか、自分達のために立ち上がってくださったお坊様たちを絶対に守るぞという気持ちだったわけです。
それからアウンサンスーチーが戸をあけて出てきたのは、政治的なメッセージを送るために出てきたのでは、断じてなくて、お坊様が自分の家まで来てくださった、自分のことを心配して来てくださったことに対して、お礼を言わないのは大変に失礼なんですね。それで、自宅の庭の内側の警備を説得して、姿を見せた。ただ、結果的にそれが政治的に大きな意味を持ちました。その写真が、国内外に配信されて、お坊さんのデモと、アウンサンスーチーの民主化運動を結び付けて、民主化運動がお坊さんのデモに合流したという印象を与えることになりました。それが26、27日の大爆発になり、それがお坊さんと市民を巻き込んだ大規模なデモになっていったわけです。
しかし、大変に残虐な取り締まりがされ、1000人を超える僧侶が逮捕され、100人近い僧侶が命を失ったり大怪我を負ったりしています。市民も大変な犠牲を出しています。その中で、日本人のジャーナリストも命を失った。狙い撃ちで、撃ち殺されたわけです。
●経済制裁はなぜ必要か
こういう中で最後に一つだけ私が訴えたいのは、国際社会の対応についてです。制裁は効果がないという人がいます。制裁をしたからといって軍政が態度を変える可能性はゼロです。制裁をしなくても、外から説得をしても軍政は変わりません。どのようにしても軍政は変わりません。
そうしますと、じゃあ制裁はしないのか、そうじゃなくて、今回立ち上がって犠牲になった人への「モラルサポート」が必要だと思うんです。それから今回の出来事を遠巻きに見ていて、もう少し盛りあがったら出ようかなと思っている人が、何百万、いや何千万人といる。そういった人たちが、「ああ、また今回も失敗してしまった。もう駄目なのか」と絶望的な気持ちになる。インターネットを見ると、もうデモでは自分の国は変えられないのではないかという絶望的な書き込みをしている人がいます。絶望の背後には、国際社会に助けてほしいという悲鳴にも似た訴えがあるんですね。
そうした人々の絶望的な気持ちを、今私たちは実感することができるわけです。長井さんの死はその象徴です。そしてこの軍政の残虐なふるまいを、我々はリアルタイムで見てきたんです。そういう人たちに贈るメッセージとして経済制裁を、強い非難声明を各国が送るべきだろうと思います。おそらく国連はそうした行動に出ませんけれど、文言で強いメッセージを送るべきですし、政府はたとえ少額とはいえ、ODAを止め、大使を引き揚げる位のことはやって、軍政に強いメッセージを送るべきです。これは軍政をすぐには変えることにはなりません。しかし人々は、日本からの、そして外国からの制裁付のメッセージに勇気づけられる、プレゼントとして受け止めることができる。今回こそ、単なる言葉だけのメッセージではなく、制裁付の強いメッセージでないと意味があまりないだろうと思っています。
以上です。
(会場より大きな拍手。)
(3)へ続く
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October 05, 2007
「ミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会----これまで何がおきてきたのか」(JVJA主催)出席報告(1)

http://www.jvja.net/Birma-Myammer.htm
10月3日。会場は明治大学のリバティタワー。定員が130名限定と聞いていたので、時間がぎりぎりになったことを気にしながら行く。11階の会場まで行くと、場所が変更になって地下になったという張り紙が。さては定員が予定に満たなかったかと勝手に想像しながら行くと、満員。予定を上回る参加者に急遽広い教室に変更になったそうだ。確かに朝日新聞にも事前に報道されていたし。どうも失礼しました。
来場者は若い。明治大学ということもあって8割は学生か。若い女の子も多く、始まるまで履修している授業の噂話などしている。賑やか。私のような世代の参加者は開始前から厳しい顔をしている人が多い。手元に資料がバラバラと配られる。報道と思われるカメラも多く来ている。参加費は1000円。収入はミャンマーで倒れた長井さんの遺族に届けられるという。
●長井健司さんの記録したイラク
主催者側の挨拶に続いて、ジャーナリスト長井さんの足跡を辿るとして、長井さんのイラクでの取材風景。ここで、APF通信のメンバーが抗議メッセージを読むはずであったが、会場に来れず、代読となった。僕は忘れていたが、長井さんはイラクで傷を負った少年のためにおむつを届けに行くということをしたことがあり、それがテレビでも報道されたことがあった。
携帯電話での撮影で画質が悪いが、アップしておく。(再生にはQuickTimeが必要です)
「未公開の映像も多くあります」
と主催者があらかじめ言っていたが、オンエアするのは難しかっただろうという、悲惨な映像が続く。顔中血まみれの少年、足がぐしゃぐしゃになって潰れた子供の泣き声、目を覆うような光景の中を、カメラを持ち時折笑顔も交えながら歩いて行く長井さん。余りの映像に、静まり返った会場の各所から時折「わっ・・」という小さな悲鳴が聞こえる。電気がつくと、さっきまで授業の話で盛り上がった女の子たちが目を拭っている。
そう言えば、最新の週刊文春に寄稿している不肖・宮嶋記者によれば、長井さんの主たるフィールドは中東であり、ミャンマーで撃たれたと聞いて耳を疑ったそうだ。なぜそこにいたのか、宮嶋記者にも理解しがたいほど、東南アジアと長井さんは結びつきにくかったそうだ。
●「今、ビルマで起きている民主化要求デモと治安部隊による弾圧の現状」、「秘密警察による拷問の実態」
報告:アウンサンスーチン氏の元ボディガード、ポーンミントゥン氏
続いて在日ビルマ人でかつてアウンサースーチン氏のボディガードを務め、秘密警察に逮捕されて投獄され、拷問を受けた経験のあるポーンミントゥン氏が壇上に。
【ポ-ンミントゥン氏の経歴】
1969年、ビルマの首都ヤンゴン生まれ。アウンサンスーチー氏のボディガードを務め、秘密警察に逮捕され91年から95年までインセイン刑務所に5年間投獄された。釈放後に来日し、在日ビルマ人の活動家として民主化運動を継続している。投獄中の拷問経験を元に、AAPP(ビルマ政治囚支援協会)日本支部代表として活動し、ABFSU(ビルマ学生連盟)日本支部代表を務める。
少々ユーモラスに「私は日本語がうまくないので、すみません」と前置きして始まった、少したどたどしいスピーチに、会場が笑いで反応できる余裕があったのは最初だけ。補いつつ主旨を。
「皆さんは今回のことで驚いているかもしれないが、お坊さんは(報道される前に)もっと殺されて亡くなっていると思う。あの場所にいるというのは、殺されても構わないということでいる。人が動物のようになっている。動物のような扱いを受けているから、市民もお坊さんも何人が亡くなっているか、はっきりとはわからないんです。数えられないんです。
そういう状態で、逮捕されて刑務所に入る前にも何人も亡くなっている。一昨日くらいに写真を見ました。お坊さんが拷問されて川の中に捨てられている写真です。頭や体には凄い傷がありました。こういうことはビルマでは、今回のデモが最初ではないんです。世の中の誰もがわかっていないところで、起きていたんです。今はITの時代ですから、すぐに伝わりますが、88年や96年にも沢山の人が殺されましたが、誰もわからなかったわけですね。
今、市民達はすごく不安になっています。事態がどこまでいくかわからないからです。日本で5人一緒に歩いていても捕まることはないでしょう。ビルマでは5人一緒に歩いていたら捕まるんです。ビラを受け取って友達にあげることもできません。そういうことがいっぱいあります。
こんな状況でビルマの市民たちがどうやって生きているのか、皆さん不思議に思うと思いますので、今回のデモの写真を少しお見せしようと思います。
(写真の上映)
これは88年の時の学生デモのメンバーですが、今回はこういう人たちがリーダーになっています。最初の頃、お坊さんが殺されたわけですが、(パコック市での虐殺)その写真がないですが絵があります。(僧侶が軍に虐殺されている場面の絵が上映される)。それでヤンゴンでお坊さんたちのデモが始まったわけです。
(僧たちの読経の写真、市民が僧たちを両手を繋いでガードしている場面、怪我した僧を市民が手当てしている場面)
ポ-ンミントゥン氏の日本語は確かにたどたどしかったが、最後にそのたどたどしい日本語で
「日本の皆さん、どうか、どうかビルマの人を助けて下さい。力を貸して下さい」
と、何度も頭を下げられたのが印象的だった。会場から少し弱い拍手があった。
【備考】
・このエントリーで紹介した「会場で流された映像」の著作権は全て長井健司さんにあります。このブログへのアップについては、JVJAさんに連絡をとりますが、問題あるという権利者が他にありましたら、申し出てください。
・ミャンマーの国名表記ですが、カテゴリーとしては以後「ビルマ」とします。また発言者が「ビルマ」という呼称を使った場合にはそのまま「ビルマ」としますが、他については当面「ミャンマー」のままにします。これは、タグとしての配慮であり、政治的な価値判断を含みません。
2007 10 05 [ビルマ] | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック
October 02, 2007
ミャンマーのこと---相対主義の地獄を超える
この記事について少し。
インターネットを遮断したミャンマー軍事政権とブロガーの戦い - IT's Big Bang!
CNETのほうで、あまり政治的な議論は、おそらくそぐわないだろうと思いながらも、ネットが遮断されたミャンマーでのブロガーの情報発信について書いた。これは情報システムの話だろと。幾分確信犯的にやったところもあったのだが、後段でつい価値判断を思わせる表現を交えてしまい、私のこの問題への関わりがあるいは浅薄に見えたか、finalvent氏の、そしてそれに対するエレニ氏のエントリーと続くことになった。
●この事態はちょっと微妙(finalventの日記)
まず、私の記事は即座に現在のミャンマー軍政の全体的な批判に繋がるものではない。ご指摘の通り、自分はこの件に関して継続的なウォッチをしてきたわけではないからであり、今回のエントリーの中心は、非武装の市民と僧侶によるデモに対して武力制圧に出た今回の行為、そしてネットを遮断して海外への情報流出を阻止している行為への個別的な批判でしかないと思ってもらってよい。
もう一つには、(おおよそ今日の日本において、彼の地と同じ状況になることはそうそうないであろうが)自分としてはこうした「暴挙」に体制が出てきた場合に、ブロガーにとってどのような抵抗方法が存在しうるかという、実践的なケースとして、注目を持って見ている面もある。
それは押さえた上で。
ミャンマーを巡る状況にどのような事情があっても、外国との情報遮断を「暴挙」と呼ぶことは適切だと私は考えており、総合的な事情と切り離しても批判されて然るべきだと考えているし、それをすべきであると考えている。
おおよそ政治を為すにあたり、絶対的な平和主義、絶対的な非暴力主義というのは、私はあり得ないと思っており、いかなる政権であっても根本的には暴力から逃れることは出来ないだろう。にも関わらず、一方で政権の、あるいは政策の「絶対悪」は、確かにあると考えており、今回の背景にある(かもしれない)、中国や欧米の諸勢力の思惑や事情とは切り離しても、非武装の市民に向かって発砲することや、外部への情報伝達の道を絶つこと、裁判無で極刑を強行すること等々は、断じて合理的に擁護されるべきではないし、強く批判されなければならないと考えている。この視点は揺らぐべきではないと思う。
これは、軍政であるからNOとか、民主的政権であればYESとかいう問題ではなく、その政権への国民の支持の多寡とも関係がない。他から切り離して、こうした行為は単独で批判されなければならず、停止されなければならないと考えるし、現在のミャンマーの状況はまさしくその状況であると考えている。
※1990年5月の総選挙でNLDと民族政党が圧勝したにも関わらず、軍政が選挙結果に基づく議会招集を拒否し居座ったことは、歴史的な事実として認識されても良かろう。ここで軍政は正当なミャンマーの政権であるという根拠すら失うのだが。
過剰な相対主義の元では、時として人は何も語れなくなるし、どんな行動もできなくなる。理由は簡単で、おおよそどんなことにも「表」と「裏」があるからだ。極端な相対主義に陥ると、あるひとつの行為を批判することが、他方で新たな悪を作り出すことに、あるいはいまひとつの「善」を排除することに繋がると思い当たり、結果身動きがつかなくなる。誠実であろうとすれば尚そうであろう。
おそらく実際に世界はそうしたものであろうし、だからこそ、しばしば私達は、過剰な情報の作り出す迷宮にはまり込む。そしてそこから抜け出すことは出来なくなる。誰も真実を知ることは出来ないし、知ろうとする欲求がよりその主体を一層がんじがらめに拘束することになるからだ。つまり背景を深読みするあまり、絶対的な悪の概念が持てなくなり、目の前にあるほんのシンプルな悪すら批判できなくなる。
私はそれを恐れる。
軍政崩壊後のミャンマーの混乱を根拠に、あるいは多民族の複雑な構成を元に現状の体制を擁護するとすれば、それもまたあらゆる圧制に対して同様の論があてはまり追認することになろうし、実際スターリン支配下の旧ソ連でも、毛沢東の文革下でも同じ論が用いられた。実際に現状の政権が崩壊した後に何がおきるか合理的な予想はできないにも関わらず、あらゆる圧制には存在理由があるということになり、つまるところ暴政の正当化に繋がりかねない。
当時私は成人していなかったが、相対主義の陥った地獄の象徴、その強烈な記憶としてベトナムがある。アメリカがベトナムに介入したことが正しかったかどうか。北爆が適切であったか否か、これについて語るなら、話は永遠に終わらないだろう。ベ平連は日本から飛び立つ大量の爆撃機に異を唱え、日本各所で脱走兵を助けた。人道的見地からの行動はしかし、赤いベトコンを助けることにならなかったのか、インドシナを赤化することに寄与しなかったのか。一方で、赤化を防ぐために脱走の米兵は過酷に死ななければならなかったのか。そしてサイゴンは?この問いに答は出ていない。現在までも、そしてこれからも議論は悪夢のように続く。
しかし物事に表と裏があるからと言って、隠された事実があったからといって、我々はソンミ村で起きたことを知るべきでなかったと言えるのか、枯れ葉剤について知るべきでなかったのか、反共のために黙るべきだったのか。いかなる事情があってもソンミ村の虐殺はあるべできはなかったし、枯葉剤によるシャム双生児が誕生する事態は避けなければならなかった。そこのところは決して揺らいではならないと思う。戦いにおける正義がいずれにあったのかということとは別に。
これは他人事ではなく、かつての戦争で我らの祖父母の頭上に降り注いだ焼夷弾にしても、原爆についても当てはまる。ここで現代の米国の多くの人々の主張は、大日本帝国の行為への評価をもって、あるいは戦いを終焉させるための、不可避の手段として、それらを正当化することである。東京大空襲でも同様の主張がなされたことを僕は知っている。果たして我らの父祖は、大日本帝国の罪により、焼かれて死ぬにふさわしかったろうか。当時知られていなかった大陸での残虐行為(があったとして)のために、死してしかるべきだったろうか。
非武装の市民を戦闘に巻き込むことは犯罪であるという国際的な合意がある中で、ここで構造的な「悪」があれば、犠牲を個人に強いても構わないという乱暴な飛躍があり、そうした欺瞞は現代でもあらゆるところで続いている。それどころか、未だに多くの米国人は事実を知ろうともしない。
ブロガーの役割が、主体の一貫した継続的な責任表明であるべきだというのは、平和国家に住む者としては、おそらく誠実な姿勢であろうが、そうしたことに逡巡している間に時は経過し、暴挙は続いていくかもしれない。電話もネットも新聞も止められている国に対峙するにあって、我らのこうした「知的誠実さ」が、「意志の継続」が、決定的な意味を果たして持つだろうか。その誠実さは自己への生き方への誠実さであっても、彼らに対する誠実さになるのだろうか。100日だけ関わることしか出来ないなら、1秒も関わらないほうがましであると、言っていいのだろうか。
かのエントリーでは、日本にもたらされていない、否、日本語化されていない情報のほんの一片を伝達した。そしてそれは、自分という主体の継続的な主張や思想の表明ではもちろんなく、単なる一時的な伝達であるかもしれない。無責任の謗りがもしあるとすれば、それもわからないでもない。だが1分であれ、10文字であれ、情報の伝達がどんなかたちであれなされなければ、我々は彼の地の出来事への価値判断もできないであろう。もちろん情報の取捨選択は厳になされなければならない。最低限の判断の材料として、現代のミャンマーで何が起きているかを知らせることは、甘い正義感ではなく、不可避のソリューションだと思う。
仮に自分が継続してできなくても、その後を誰かがリレーしていくかもしれない。その誰かが息を切らしたら、今度は自分がまた走る。そういう形があっても、否、人にとってそれこそが苛烈な問題に対していくための唯一の方法ではないのかとすら思う。100m走れなければ1mも走るべきではないとは、自分は思わない。
ブロガーの、いやブログを書く者としてコミットできる可能性が少しでもあるとすれば、僕はほんの少しバトンを前に向けて進めて行きたいと思う。その距離はきっと、途方もなく、馬鹿げて小さいものでしかないこともわかっているが。にも関わらず走らないよりはましだと思っているわけだ。一方で目は凝らしていくのは言うまでもない。
【参考リンク】
ミャンマー暴動メモ(極東ブログ)
ミャンマーの政変、複雑な印象とちょっと気になること(同上)
「非人道的」とはどういうことなのか。批判の限界(1)-(4)(BigBang)
【追記】
誤解のないように追記しますが、私のこのエントリーは、特定の明確なブロガーに向けて書かれた物ではない。従って、他への批判として書かれているのではなく、自分も含めて陥りがちなあるティピカルな論点への評価であり、それ以上ではありません。そういう意味でfinalventさんから再度の「反論」をいただく種類のものではないというのは、その通りだと思います。










