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January 21, 2008

アウン・サン・スーチーという意志-----第2章 「写真物語Ⅱ」

Suti

(参考リンク)
アウン・サン・スーチーという意志-----第1章 「写真物語Ⅱ」

宮下さんは、ご本人も言われているとおり、ずっと美術畑を歩んでこられた。オックスフォードに行かれることになったのも美術がきっかけだし、英国でのアウン・サン・スーチーさんの親代わりになったゴーブース卿と知り合ったのも美術を学ぶ願望が因である。

私に会う前に、宮下さんは自分がビルマの政治的な状況を語る立場ではない、と気にしておられたが、スーチーさんの英国時代の話を少しでもお聞きしたいのでと、無理を聞いていただいた。おそらく宮下さん自身、スーチーさんをめぐる現在の不思議な運命の展開に戸惑っておられる面があるのだろう。

人が人に出会うときには、不思議な力が働く。宮下さんのお話を聞いて思ったのは、まずそのことである。英国で紹介された、ビルマ出身で少々変わってはいるが、そして美しくはあるが普通の夫婦。小さな子供を抱え、子育てに邁進する、どこでにいるような普通の主婦。それが宮下さんの、アウン・サン・スーチー氏の第一印象だったという。宮下さん自身、その後、スーチー氏がここまで世界的な注目を浴びるような立場になるとは夢にも思っていなかった。その後の展開が、どれほど彼女にとって驚きであったかは、想像に難くない。
例として適切であるかどうかはわからないが、ご近所の普通の若き母親が、突然厳しい表情をたたえて、世界史の表舞台に突然現れた。自分の知っているあの、若くてこまめな母親の優しい表情をかなぐり捨てて。一体何がどうなってしまったのか?推測するに、それが、宮下さんの正直な戸惑いであったと思う。

我々は、ともすればスーチー氏を別次元にいる、自分とは関係のない別の世界の人だと思っている。そうとでも思わなければ、これほど過酷な運命の中で、ただ1人十年以上にも及ぶ軟禁状態で戦っている彼女の実像を理解することは難しい。特にこの国にあっては。地理的な問題はおいても、ビルマが精神的に遠い国であるからでもあるし、身近に感じるには、あまりにアウン・サン・スーチー氏の厳しい表情は、平穏な日常を送る日本の我々にとって遠いからでもある。

英雄の娘に生まれたという、拭い去れない運命の必然はあっても、普通に暮らし、普通に恋愛し、普通に子供を育て、普通に母親の看病に帰国していた彼女の運命を一変させたものは何だったのだろうか。そのことについて考えてみたいと思ったのが、宮下さんにお会いしたいと思った私の動機である。

しかし世界は、かように簡単に個人の感傷が通じる世界ではない。我々は幾度も中途半端な理想を掲げては虚しく現実に跳ね返され、打ちのめされ、時には完膚なきまでに叩きのめされる。無力な私達である。過酷な世界の現実の前に、私たちのできることは殆どないと言ってもいい。

実際、年が明けてからビルマ関連のニュースが入ってくることはほとんどなくなった。軍政とスーチー氏の間では、対話がなされているはずだが、我々には、その仔細もほとんど知ることはかなわない。思えばあの軍政は過去何十年もそれを繰り返しながら、支配体制を温存してきたのだ。悪い意味で賢いのである。スーチー氏の健康状態も非常に気遣われるところである。

絶望だらけの世の中で、こんな端っこのブログで何かを伝えることなど出来るのだろうか。意味があるのだろうか。事実、こうした現状を、そして試みまでもただ嘲笑うしかしない者もいる。救いようのない現実はこの国にもあることも、おそらく我々は知っている。だが、良いではないかとも思うのだ。そんなことは気にする必要もない。あなたが今日もあなたの一歩を何らかの形で刻むように、私も宮下さんも、それぞれの一歩をそれぞれの形でまた今日も刻めばよい。おそらく世界はそうした試みの無限の積み重ねでしか変わるはずもない。他の道はないのだ。


宮下さんには、彼女以外にもアウン・サン・スーチー氏の人となりを知る方のお名前を何人か伺わせていただいた。私の気持ちとしては、ペースがあがらずとも、これからもそういう方たちに一人でも多くお目にかかり、あるいは消えていくかもしれない、貴重な記憶の数々を言葉にしていければいいと思っているが、どうだろうか。そこで私の決心やら覚悟やらも問われるのだろう。まあそれは私の問題として、今回はこの記事を何とかお届けするところまでである。今はそこまでだ。

この週末、実家から引き揚げてきた書籍を整理していたら、その中に「韓国からの手紙」という岩波新書が出てきた。1972年10月に韓国に戒厳令が布かれて以来の緊迫する韓国の政情,民主化を求める知識人の動き,そして民衆の声を生々しく伝え、「世界」に連載されて大きな反響を呼んだ著作である。金大中氏拉致事件を含む激動が生々しく報告されている。(著者はいろいろ取り沙汰されているが、日本在住の韓国人の書いたものであることがわかった。)


久しぶりに古ぼけた茶色く変色した「韓国からの手紙」をぱらぱらとめくり、現在のビルマの状況が、その当時の韓国の状況に類似している点が多いことに、今さらながら格別の思いを持った。

ここに書かれている韓国は35年前の世界の一遍である。

あせらず、それでいて歩を弛めることの決してないように。


【参考】

※宇田 有三氏略歴

1963年 神戸生まれ。
1990年 27歳で教職を辞し、フォトジャーナリストの勉強のため渡米。
1992年 中米の紛争地エルサルバドルの取材を皮切りにフォトジャーナリスト
    としての仕事を開始。
現在は、東南アジアのビルマ、中米、オーストラリアを中心に軍事政権下の人々、先住民族を中心にドキュメンタリー写真を撮影し続ける。

1995年 神戸大学大学院国際協力研究科修了(国際法修士)
1998年 「平和・共同ジャーナリスト基金」奨励賞受賞。


※宮下さんは、「写真物語Ⅱ」への出演をきっかけに、アウン・サン・スーチー氏の貴重な記録写真を盛り込んだDVDを制作された。売上金は、ビルマ難民など、現在のビルマの現状に苦しむ人たちへの支援に充てられると言うことであるので、ここで紹介させていただく。関心のある向きは、宮下さんの「ビルマ応援の会」からご購入ください。

Dvd_image_photo3

ビルマ応援の会

(紹介文から)

「本年10月6日、「写真物語Ⅱ」(フジテレビ)に、アウン・サン・スー・チーと、夫・マイケルの友人として出演して以来ビルマ(ミャンマー)で迫害されている人々を以前よりなお一層案じるようになりました。隣国タイの国境には現在14万人のビルマからの避難民が過酷な状況下にいます。また、私たちの住む日本にも多くの政治難民が滞在しています。
スー・チーとマイケルの友人として私が出来ることをと考えたとき、私が撮った写真を
もとにDVDを作製し、その売上金を困っているビルマ人に寄付しようということでした。この構想を彼女たちの親友であった田崎明氏に話しましたところ、亡きマイケルから預かっていたという貴重な写真の使用を許してくださいました。また、この数年ビルマに滞在し、写真を撮り続けているカメラマン・宇田有三氏がこころよく彼の作品使用許可をしてくださいました。
美しく聡明なスー・チーを中心にビルマ建国の父・アウン・サン将軍、元インド大使の母キン・チー、スー・チーの夫と二人の息子を紹介するDVDです。」

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アウン・サン・スーチーという意志-----第1章 「写真物語Ⅱ」

(参考リンク)
アウン・サン・スーチーという意志-----序章 「写真物語Ⅱ」

品川・高輪台にある宮下さんの事務所をお訪ねしたのは昨年の11月3日だったのだが、私の多忙から、その後インタビュー記事をまとめるのに、長い時間がかかってしまった。しかしながら、ビルマからの情報はほとんど入ってこなくなった現在だからこそ、これを公開する何らかの意味があると信じたい。それを言い訳にしながら、この記事を公開したい。

当日は、宮下さんが自ら車を運転して、品川の駅まで迎えに来てくださった。第一印象としては、非常にてきぱきと動く方であるという印象を受けた。海外で長い間生活をされた方であるということも影響しているのかもしれない。そして、宮下さんが語ってくださったアウン・サン・スーチーさんの印象と、どこか宮下さんのイメージも重なるところがあったような気がする。

宮下さんの事務所の周りは閑静な住宅地だけれど、周囲には大変にお寺が多い。高輪には行く機会もかなりあったけれど、いまさらながらこんなにもお寺が多い所なのかと驚いた。宮下さんのお祖父様は画家でおられたのだが、そういう関係でか、宮下さん自身も早いうちから美術に親しんでおられたらしい。アウン・サン・スーチーさんとの出会いも、この美術がきっかけだった。

Miya

【宮下夏生氏プロフィール】

美術史家。元明海大学講師、日本根付研究会理事、米国プリンスィピア大学奨学金生、卒業。BA取得。英国ロンドン大学大学院で東洋美術史を3年間学ぶ。この他、ロンドン大学コートードル・インスティテュートにて西洋美術史、オックスフォード大学・北京大学で中国語、ミュンヘン大学でドイツ語、ハーバード大学でアメリカ文学、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で西洋絵画、彫刻史を学ぶ。2007年、フジテレビ番組「写真物語Ⅱ」にアウンサン・スーチー女史の友人として出演する。


BB 「宮下さんは、フジテレビの「写真物語Ⅱ」に出演されましたが、スーチーさんとの関わりは、スーチーさんの親代わりになっておられた、ゴーブース卿(Lord Paul Gore Booth)を通してということですね?」

      

はい。ゴーブース卿とゴーブース夫人は、卿が戦前に日本大使館につとめ、ゴーブース夫人が日本で生まれたこともあり、日本とは関係が深く、大変気さくな方たちでしたので、よくお食事に招かれました。ゴーブース卿とスーチーさんの関係ですが、ゴーブース夫人がビルマ大使をされていた時、8歳のスーチーさんとお会いしたそうです。ゴーブース夫人は地位のある方ですが、困った人や体の不自由な方には特に手を差し伸べていました。親切な人ですから、スーチーさんの身元引受人にもなったんだと思います。スーチーさんのお母様のキンチーさんは凄い方で、国会議員でインド大使も務めておられますし、お父様のアウンサン将軍は、ご存じのようにビルマの英雄ですから、人々にそれはもう尊敬されていて、会うこともなかなか自由にならないくらい、大変な方だったそうです。

BB「宮下さんが最初にスーチーさんにお会いになったのはいつ頃なんでしょうか」

スーチーさんとお会いしたのは1984年だと思います。ゴーブース夫人に「オックスフォードに行くのなら、ぜひスーチーさん夫妻に会いなさい」と言われました。最初にオックスフォードのご自宅でお会いした時は、スーチーさんは普通の母親で、日本料理に大変興味を持っていらっしゃったので、ご夫妻とはお稲荷さんを作ったり、のり巻きを作ったりしました。

BB「マイケルさんとスーチーさんが知り合ったのも英国ですね」

ゴーブース夫妻の息子、クリストファーと同じ大学の友人が、スーチーさんの夫、マイケル•アリスでした。ロンドンのチェルシーにあるゴーブース邸にマイケルが招かれるようになり、そこで21歳のスーチーさんと20歳のマイケルは初めて出会いました。彼女は大変にきれいな方ですから、マイケルはすぐに彼女に惚れてしまったそうです。もし、私が男性でしたら、きっと同じようになったでしょうね。スーチーさんはオードリーヘップバーンのような、それはもう妖精のようにきれいな方でしたから。

スーチーさんにとってもマイケルは魅力的に映ったようで、二人はその後、文通を続けました。

マイケルは大学卒業後、ブータンへ行き、ロイヤル・ファミリーの家庭教師となり、滞在中に博士論文の準備をしました。一方、スーチーさんは国連本部に勤務し、1970年、クリスマス休暇にマイケルが彼女の元に訪れ、二人は正式に婚約します。式は19721月にゴーブース邸で執り行われ、8ヶ月後にスーチーさんはマイケルのいるブータンへと移り住みました。

BB「当時、宮下さんは彼女がアウンサン将軍の娘であることなどはご存知だったんですか?」

いえ、全然知りませんでした。

スーチーさんはマイケルの妻で、二人の息子の母親。お料理が上手で、動きが早く、家事をてきぱきこなす女性でした。マイケルは優しいので、そんなスーチーさんの言いなりでしたね。マイケルは本当に優しい夫でした。だから、アリス家ではスーチーさんが家庭をリードしているような感じでした。

ですから、彼女がビルマに帰国して、軟禁状態にあっても、マイケルに持って来て欲しいものを色々と指示していました。彼女が最初に軟禁状態になった時、困ってしまったのは食べ物だったらしいんです。彼女は日本の食べ物が好きなので、私も力になれないかとうどんや、長持ちする鰻など、彼女の好きな食べ物を色々詰めて、マイケルに持って行ってもらったこともありました。

彼女が京都大学に来ていた時も、夫妻で私の住む東京まで会いに来て下さり、一緒に写真を撮りました。それが三人で撮った唯一の写真です。

ゴーブース卿が亡くなった時も、それはもう凄く豪華な式だったんですが、スーチーさんもいらっしゃって、よもやま話をしたりしました。それからしばらくして、スーチーさんはどんどんテレビに出てくるようになっていて、私は確実に彼女はビルマのリーダーになるのだと思っていましたが…


BB「
1988年以降、スーチーさんが自宅軟禁されて以降、マイケルさんとはどんなお話をされていたのですか?」

マイケルとは始終、毎月のようにお会いしていて、「スーチーさんはどうしているだろう」など、色々な話をしていました。

面白いエピソードがありまして、ある時、マイケルとアフターヌーンティを飲んでいましたら、ファックスが届いたんです。送り主を聞いたら、当時、大統領夫人だったヒラリー・クリントンさんでした。「このメッセージをスーチーさんに伝えて欲しい」といった書き出しで、「私達、アメリカ国民は、決してあなたのことを忘れていません」といった内容でした。目の前でそういったメッセージが届いたことに私は驚きました。また、元国連弁務官の緒方さんと、マイケルはメッセージの交換をしていました。そういったことからもやはり、スーチーさんがノーベル平和賞をいただいたことに、マイケルはとても貢献していると思います。

マイケルは貴族の家系や特殊な家ではなく、普通の家に生まれたのですが、不思議なことにマイケルの祖父母は明治時代に日本に来ていたことがあったそうです。ですから、私の伺ったオックスフォードの家には日本の印籠と根付が綺麗に飾られていました。「これは祖先のものなので、絶対に売れないよ」と、マイケルはとても大切にしていましたね、そういったルーツからも、彼はアジアに興味を持ち、スーチーさんにひかれたのかもしれませんね。

テレビで彼女を見かけるようになって、驚きましたけれど、英雄の娘とはいえ、こちらにしてみれば、友人の奥さんが急に演説を始めるという印象でした。スーチーさんの育ちを聞いてはいましたが、頭の中でうまく結びついていなかったんですね。

BB「マイケルさんは本当にスーチーさんを支えていたんですね」

ええ。それで、スーチーさんをなんとか援助しようとマイケルとは色々な話や相談をしました。「今、スーチーさんはどんな風に暮らしているんだろうか」とか、「今度は何を送ろうか」とか。彼は辞書や本を彼女に渡していたみたいです。他にも、化粧品や下着類は「ここの会社のこういうもの」と、指定が細かいんですって。女性ならではのエピソードですよね、お洒落な人ですから。

最初はマイケルも自由にビルマに出入りできたんです。入国を拒否されても結局は許可されたり。スーチーさんと一緒に軟禁されたこともあったんですよ。(1989年の一時期、スーチーさんは夫のマイケル、2人の子供も一緒に4人で軟禁されていたことがあった。この時マイケルはスーチーを訪ねようと降り立った空港からそのまま連行されて拘束され、一時行方がわからなくなり欧米のメディアでも騒ぎになっている)

けれども、そういった入国の許可が軍事政権の大きなミスだったんですね。スーチーさんにマイケルがオックスフォードに戻ってくるようにと説得すると思い、入国を許可したのですが、彼は彼女を尊敬し、彼女の活動を応援していましたから、逆にビルマで頑張るようにと励ましたらしいですね。

二人の息子、長男アレクサンダーと次男キムは大事な時期に母親がいないということで、みんなで心配をしていました。けれども、アレクサンダーは現在、アメリカ国籍のビルマ人でお医者さんをしているお嫁さんをもらい、オレゴンに家を買い、キムはオックスフォードで絵の額縁を作る工房で働いています。二人ともすっかり落ち着きました。アレクサンダーが34歳、キムが30歳ですからね。兄弟二人とも、今は政治的な活動を行っていません。

BB「マイケルさんが亡くなる頃の話を聞かせてください」

※マイケルが癌になってからは、軍政はスーチーさんに対して、国外に出るなら対面は自由だが、呼び寄せるなどの許可は一切出さなかった。彼女は、一度国外に出れば二度とビルマに入国できなくなることを警戒して出国はしなかったため、夫婦は会うことはなかった。当然彼のイギリスでの葬儀にもスーチーさんは出席できなかった。


マイケルが癌になったという知らせは日本で聞きました。カナダにいるアレクサンダーに会いに行って、その帰りに飛行場で突然、身体に異変が起きたと聞きました。体調を崩し、這うようにして帰って来たそうです。
99年に亡くなってしまったんですが、3ヶ月くらいの闘病だったと思います。あんなに元気だった彼が…と信じられませんでした。

マイケルが病気になってからは一度も会えませんでした。ゴーブース夫人から容態を教えていただき、そばに行ってあげたいと思ったのですが、オックスフォードには彼をサポートしてくれる人は沢山いましたから…そうこうしているうちに彼は亡くなってしまって。

BB「ビルマの現状をご覧になってどう思いますか」

私の本業は美術ですし、できるだけ政治に関わらないようにと思いましたが、スーチーさんの力になれればと思いまして、新たに行動を起こすことにしました。カメラマンの宇田有三さんが撮影したビルマやスーチーさんの大変素晴らしい写真や、私の持っている彼女のプライベートな写真等を使い、スーチーさんのDVDを制作、販売し、売上でビルマの人々に支援できないかと思っています。

今、私がスーチーさんの友人として一番心配しているのは、スーチーさんの健康状態です。ガンバリ特使との写真が掲載された時、彼女の本当に不健康そうな顔を見て、驚いてしまいました。

それだけではなく、話し相手もメイドさん一人で、そのメイドさんが全ての買い物に行き、食事の面でも彼女が作ったものを召し上がっているらしいんですが、それでは精神的にも、身の回りのことも不十分だと思い、心配です。家も、荒廃して雨漏りも激しいのに、それを直す人もいない状況です。

ビルマはデモもすぐに鎮圧されてしまいますし、反政府活動はなかなか長続きしないですね。今後、ビルマの中からスーチーさんに代わるようなリーダー的存在が現れないと、この先、どうにもならないと思います。スーチーさんにビルマという130以上もの少数民族が集まる国を治めることができるのかという否定的な意見もありますが、軍事政権の弾圧により、国外へ逃亡している優秀なビルマ人達を呼び戻し、彼らをブレーンとすれば、スーチーさんはしっかりと国を治められると、私は信じています。スーチーさんには本当にがんばってもらいたいと思っています。

(続く)

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January 06, 2008

「人間の価値を賃金の多少で差別したがるのは誰か」を読んで。


        「人間の価値を賃金の多少で差別したがるのは誰か?(404 Blog Not Found)」

その後、私は合州国に留学する。そこでも目にしたのは、むしろ「下層」の人々ほどより「下層」を差別していた現実だった。人種差別意識は、低所得、低教育な人々ほど強かった。私がいた北カリフォルニアでは、露骨な人種差別は滅多にお目にかかれなかったが、それでもあるところにはあった。

昭和の頃に留学した米国社会の人種差別エピソードが、現代日本社会の「格差社会」を語るに参考になるかは別として、ここに続くレストランでのエピソードに反証するには、たった1人の「人間をその財布でしか見ることのできない差別意識の強い日本人の金満家」の例を上げれば問題なく、それはきわめて容易な作業である。低所得、低教育な人々のほうが差別的であるというのは、論拠の甘い推論でしかない。

また

   

 さらに月日は流れて、私は成金になった。他の金持ちとの交遊も増えた。やっていることも言っていることもてんでばらばらで、強いて共通点を探せば金 持ちであるということぐらいしかない彼らなのだが、もう一つの共通点は、金持ちをより強く自覚している人ほど(残念ながら実際に持っている金の量に比例す るわけではない)、人の価値を多面的に推し量ろうとしていることだ。それも当然かも知れない。なぜなら彼らにとって人を見抜くのは、商売以上に死活問題な のだから。

仮に「金」に全てを換えて見ているのだとしても、彼らは「賃金」という氷山の一角だけではなく、まだ現金化されていない海面下まで見ようとしているのは確かだ。

ここに引かれている弾さんのお友達は、等しく事業に成功した優秀な方たちなので、人間の価値を「現在のカネの価値」でのみ判断せず、相手を「未来に(自分の事業のために)生むかもしれないカネの価値」まで見通して賢明に判断しているだけ。つまり、ことの是非は別として事業家として、相手が自分にもたらすかもしれない、中長期的な経済価値で判断しているのだろう。「商売以上に死活問題」とあるが、結局は商売上の死活問題ではないのか。それ以外の意味があるのかもしれないが、これでは読み取れない。もちろん商売的な観点で判断するのは当然でありそのことを批判する気はない。ないが、ただそれはそれだけの「凡庸な」ことであり、そのこと自体に過剰な評価は与えられないということである。「まだ現金化されていない海面下」に眠る金塊に注目しているだけであろう。

もちろん私は人間の価値を経済的にではなく、「多面的に判断する」徳の高いIT事業家が、世界に皆無であると言っているのではないから誤解なきよう。

構造的な貧富の固定構造は、本人の努力や姿勢でどうにかなるというのは、ユニークな例を数件あげたところで救いにはならない。弾さん自体が優秀でユニークであったとしても、それは弾さんの固有の状況である。皆が優秀でユニークであれば問題ないとするなら、おおよそ全ての社会的な問題がそれで肩がつくだろう。優秀でもなくユニークでもない集団の処していく道を探るのが公的な発想であると思う。そういう意味ではfinalvent氏の言説に賛同する。

そこが微妙なところだろうな (finalventの日記)

弾さんみたいに社会的な成功者、というか内心は違うだろうし、その内心の部分で私なんかと共通的な世界観や人間観はあるだろうと思う、そういうスタンスからは、それは、なんというか身内的な近さのある人への言動としては有効かもしれない。

 でも、公的な場への言動としてはほぼ無効なのではないか。

 そしてそうした無効さが、反面では歪んだかたちで成功のノウハウのようなものに固まりつつある。

 人はたぶん凡庸だ。100人1人くらい物を考えるために本を読む。また、10000人に1人くらいが社会的成功につながる能力を示す。

 大半は凡庸だし。それが社会というものだ。

堀江氏については何度も論評したから繰り返さないが、彼の唱えていた「出自や家柄は不平等であるが金は稼ぐチャンスが誰にでも与えられているから平等だ」というような物言いは、出自や家柄、そして教育水準が金によって構築され、金によって固定化されていくという現実を見ない、レトリックでしかないと思う。

個々人の評論は自由であるべきだが、現状の問題解決には寄与しない考え方であると思う。

 

2008 01 06 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

謹賀新年----ツラツラと年末年始を

遅ればせながら新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

脈略もなく年末年始の様子をツラツラと。

今年は昨年末から東北の某地方都市、親類の家で過ごしていたが、当然ながら空の色が東京とはまるで違う。特に今年の年末年始は荒れ模様の天候。鈍色の空から舞う雪は、本当に絵に描いたような綺麗な六角形をしていた。きっと空気が澄んでいるのだろう。肌を刺すような寒さとまではいかなかったが、空を繰り返し仰いでも、重い雲は切れず、切れず。
考えてみれば、正月を東京以外で過ごすのは初めて。この時期の東京の空は青く、どこまでも青く澄み渡っていることが普通なので、こうした新年も新鮮でもある。

身内の決して軽くない問題に気を乱されながら、予定していたビルマ関連の原稿を仕上げ、取材先にチェックをお願いしたのがやっと大晦日。大幅遅れ。相手先にお詫びをする。年賀状も結局東京で書き切れず、プリンタ含めて滞在先まで持ち込み。どちらも年を跨いでがちゃがちゃやっていた。それが終わると、恒例の年賀メールの方の原稿書き。このあたりまでやったら3日になっていた。ましょうがないか。

ストックを持つのが面倒くさいのでここ何年も専らショートスキー。一時スキーとスノボに混じって、この中途半端なツールもゲレンデに相当数見かけたように思ったが、今年はほとんどお目にかからない。1日しか滑らなかったので、調子が戻ってきたころに終わり。この前滑ったのはいつだったかな。去年か、一昨年か。例によってあまり記憶無し。しかしスピード出ないんだよね。

商店街は軒並みシャッターが降りている。それも正月だから一時的にという風情でもなく、何ヶ月も営業していないような店がほとんど。東北地方の景気は相当に悪いとも聞く。もっとも他の地方も似たりよったりかな。

紅白は長すぎてだらだら。もういいんじゃないか。合間に雪片付け。ざっくりと重い。

戻ってきて今日は恒例の高校時代の有志による同窓会。昨年行かなかったので2年ぶり。いつも集合場所になるHの家にまたまた犬が増えていて驚いた。チワワの子犬が可愛すぎる。最初はモルモットかと思った。踏みつぶしそう。気をつけないと。

お開きの頃。10人でワインのボトルを11本も空けたとわかってこれも驚いた。ミュージックビデオがかかっていたが、昔のコブクロを見てあまりの今との違いにもびっくり。話題は毎年変わり映えがしないよ。いや、緩やかに爺臭く、婆臭くなってるか。やれやれ。

2008 01 06 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク | コメント(5) | トラックバック