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January 21, 2011

映画「ノルウェーの森」ー キャンパスとセックス

※映画を観たのはちょっと前なのだけれど、ブログを書き始めて中途になっていた。どうしようかとも思ったけれど、気になるのでアップする。

映画「ノルウェーの森」は、絶対に観に行くのはやめようと思っていた。原作のイメージを損なう云々ということとはちょっと違う。一つにはあの物語世界はあそこで完結しているのだから(つまり自分にとっても終わっているのだから)それを誰ぞが映像化したところで、そこから先に何かあるようにも思えなかったからという、言わば自分にとっての無価値だぞやめておけの問題。

もう一つには、あの「閉じた」物語を映像化する意味が感じられない。つまり、映画としての新たな先の世界が開けてくるようには思えない。平たく言えばあの作品は、村上作品の中で映像化するに向いている部類とはとても思えなかったことによる。彼のほとんどの小説を読んでいる自分ではあるけれど、(例えばAppleに対するように)長い間距離を持って見つめている部分もある。嫌いなら見続けたり、読み続けたりしないから好きは好きなのだろうが、じゃあ熱愛してるかというとちょっと違う。好きな子であったらなおのこと、その子の悪口ならいくらでも誰よりも言えるというのと似ている。これ自体ユニークネスか。それは失礼した。

話が横にそれたが、もしも映画化するのであれば、「ノルウェーの森」よりもお気に入りの「羊をめぐる冒険」にしてほしいし、最近の作品なら「海辺のカフカ」などなら、もっと頷けるように思っている。もちろんこれは映画に「向いている」という観点のみだ。そんなわけで、とにかくやめておこうと思っていたのだが、同じく村上作品を読んできている友人が、当時の早稲田大学の雰囲気がわかるよと肯定的なことを言うので、ちょっと見てこようと思った。でも、思えばずいぶんと年下の友人である。その人にとって「新鮮な」早稲田大学の60年代の風景はもちろん僕も知らないのだけれど、大学に身をおいた時代は遥かに自分のそれの方が物語世界に近く、懐かしさとはちょっと違うけれど思うところもある。

そこはまだ硝煙の匂いが残る場所だった。第2学館はまだ半占拠状態で荒れ果てて近寄れなかったし、早稲田祭では毎年前夜にセクトが全ての門を封鎖し、僕たちは屈辱的にも自らの大学に近寄るために安っぽいパンフレットを買わなければ入ることができなかった。抵抗するにも彼らの机の下に転がっているヘルメットと角材が抵抗の気分を失わせた。ずいぶんな資金源になっていたようだ。乳幼児まで一人と数えるやり口に頭にきて、例によってよせばいいのに「ミニコミ」に(笑)「愚劣な祭」という記事を「おまえらの親が泣いてるぞ」と悪口雑言交えて書いたら、ある日の語学の授業の後、廊下に陰湿な顔をした背の高いセクトの幹部が立っていた。

「ちょっと話ができるかな」という声は穏やかであったが表情の変わらないぬめっとした顔が恐ろしく、しばらく語学の授業に行かないようにした。何しろ校舎地下の暗がりには、リンチにあって亡くなった学生の無残な写真が亡霊のように貼ってあったりしたので、昼間でも1人でそうした地下に入っていくのは恐ろしかった。そう。まるで村上春樹の「井戸の底」の世界である。じっとりとした暗がりにひっそりと死者の恨みが篭っているような異世界だった。そういう世界がまだ僕の時代にはあったのだが、思うに戦場と化したあの大学(といっても僕の時代は限りなく戦後であるが)を全く知らない人が今は大多数になっているのだ。


村上春樹はあの戦場と化した早稲田大学の文学部に通いながら、「戦場」と一定の距離をおいて本ばかり読み耽っていたとどこかで語っていた。「ノルウェーの森」の舞台はまさにあの大学であり、彼が通っていたころの時代だ。映画の中に出てくる僕らの大学はそんな時代の騒然とした雰囲気にあり、物語はそこで始まる。いつも平和に賑わっていたキャンパスの全く知らない世界空間が展開される。友人はそれが新鮮だったのだろう。

直子を演じた菊地凛子と緑の水原希子は本当に2人を魅力的に演じていたと思う。菊地凛子の直子は誰もが首を捻ったと思うのだが、すっかり直子が憑依していた。水原希子の緑も透明感があって魅力的だ。小説を忠実に再現したと聞いていたけれど本当にその通りで、ここはイメージと違うというところはほとんどない。「ノルウェーの森」はこういう話なのだと言えば本当にその通りだ。

一つ違和感があったのは、「この話はこんなにセックスばかりの話だったろうか」とうことだ。確かに小説にそういう場面は多いのだが、あの独特の乾いた文体によって、セックスはまるで植物的な行為のように展開される。あるようでないようなのが、村上春樹のセックスなのだ。露骨な言葉もどこかそうした無機的な小説世界では生き物の香りがしない。

だが。

映画と小説は違うのだということがはっきりとわかった。そうした行為は一定の時間と空間と肉体を占拠する(当たり前だ)。乾いた世界はそこにはなく、あの物語にいつも漂っていた「性的な」ことが大きくポジションを占めていた。だがそれがどうこうという気はない。あるいはあの話は、こういうことなのかもしれない。性的なソリューションを僕はまだ若かったので飛ばして避けていたのかもしれないし、理解できなかったのかもしれない。(二度目に読んだのは結構最近なのだが)あるいは映像が検討外れの「イタセクスアリス」を興行してしまったのかもしれないが、そこのところはよくわからないし、わからなくていいのだろう。

監督は外国人ということで、どこの国ともわからない直子の療養所付近の「森」が主たる風景だけれど、それよりも「あ、この療養所はヤマギシズムのような雰囲気だったのだな」とも初めて思った。小説だけでは考えつかなかった発見と言えば発見だったかもしれない。

そして死んだ直子の恋人。僕は映画を見るまで彼のことを深く考えたことがなかった。なぜ彼が死んだのか、ぼんやりわかったような気がした。

肝心の主人公には小説以上に共感できなかった。優柔不断を超えた何かいつか見えることがあるのだろうか。人生は長い(もうそうでもないが)。まだわからない。

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