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October 29, 2012

この国でいま起きていることの凄まじさと「希望の国」が最後に描いた希望

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震災関連の一連のドキュメンタリーや映画はできるだけ見ておこうということで、「311」「相馬看花」「フタバから遠く離れて」をこれまで観てきた。

一連のこれら作品の中で初めてのフィクションなのだけれど、これまでの園監督の作品群に即して言えばきわめて特異な作品。正直なところその作風が好きかと言われればそうではなく、「恋の扉」にしろ「ヒミズ」にしろ、その個性的というか揚げ物をしこたま食わされてからエロですかみたいな作風の人が果たして311をテーマにどう映画を作るかも興味と不安があった。

それでも当世かなりの動員を誇る監督とあって、今日の作品も新宿ピカデリーという「大劇場」である。が、これまで監督の実績から次回作をつくるならかならず声をかけてくださいと言っていたスポンサーが軒並み「原発テーマの作品」と聞いただけで手を引いたそうだ。この国ではもはやエロや暴力はタブーでもなんでもなく、「最大の暴力」とも言える原発事故がタブーなのだな。にも関わらず、どうせ空席だらけだろうと思っていたのに、ピカデリーは満員とは言わないが半数ほどの入り。それでも午前中1回だけの、しかも数人の観客が当たり前という環境で見てきた過去の僕の観覧歴から言えば「大入り満員」もいいところである。驚いて一人一人の観客の顔を見回したほどだ。

「希望の国」は悲劇的なラストが用意されており、このラストを実際に撮影に協力した原発被災地の人たちに見せることが、監督にとっても、出演した神楽坂恵さんにとっても「試練」だったという。「悲劇的な」結末を迎える主人公に、被災地の人たちが自分たちの運命を重ねはしないかと気遣ったのである。
上映会の場面を取材したNHKの番組では、上映中にたまらず会場である民家の外に出て落ち着きなく歩き回る監督と、思いに耐えられず被災地の風景の中で泣き出してしまう神楽坂さんの姿をとらえていた。

「通常ならもっともっと「希望」のあるエンディングにしたかったが、それではこの大災害全体の責任者に対して赦しを与えてしまうことになる。だから主人公は悲劇的な最期を迎える必要があったのです」と園監督は語っていた。

僕は被災者でも何でもないが、この映画の主たる現場である南相馬で幾人かの人から、あの3月11日からの数日間の津波と原発災害から避難した時の凄まじい様子を聞かされた。地獄だったのだ。
この映画の最初のシーンはそんな大災害の現場から始まる。恐ろしいまでのリアルな描写を見ているだけでも実際に聞いた話が眼前で再現されているようで息苦しかった。

こんな凄まじいことがほんの数百キロ先で起きているとも知らず、僕たちは東京で暮らしていた。それは、あえて言えば僕たちの罪ではなく、ただ報道されなかったのだから、知らないのは当たり前ではあるのだが、人が知らないことを口実に許される範囲というのは、いったいどこまでなのだろうと、今でも思っている。

おそらくこの瞬間でも、あの3月11日からの数週間に、福島の原発周辺で生きる人たちがどんな酷いことになっていたか知らないで暮らしている人は多くいる。自分の「罪」を棚上げにして、これらの人たちを非難する気は毛頭ない。だか敢えて言えば人間の「無知」というものがどこまで奥深く限りがなく、これらの無関心や鈍感がどこまでこの災禍を支えているかについて、今も考える。

別の作品「フタバから遠く離れて」で双葉町の井戸川町長はこんなことを言っている。

「世界各地にいっぱいいる自分の住むところを追われた民族。この方たちが、いまどういう思いをして片隅で生活しているかということが嫌というほどわかるようになった。それまではそんなことを考えてもみなかった。」


こう語る井戸川町長がみているのは、双葉町の住民だけではない。世界中のディアスボラを見ているのだ。つまりそれはパレスティナ難民であるだろうし、タイ国境付近で暮らすミャンマー難民であるだろうし、かつてはユダヤの民であっただろう。普通の人生をおくる我々が、彼方の民の運命に同情することはあっても、本当の意味で「共感」を持つことはまずないと言っていい。それほどこれら遠くの民の運命は過酷であるし、その過酷さが大きな次の罪につながっている。

しかし、日本で起きたこの空前の大災害は、自分たちにこれら民の運命も考えざるを得ないところまで自分たちを追い込んでいる。町長の言いたかったのはそういうことだと思う。

「希望の国」に戻ろう。

311関連のドキュメンタリーは多くあっても、フィクションの手法を交えつつ311とそれ以降の「憂うべき未来」を警告した映画として、「希望の国」はきわめて存在感のある作品だ。物語の舞台である架空の「長島県」で起きた原発災害という設定は明らかに福島以後、再度日本で同規模以上の原発災害が起きる設定で描かれている。しかも、この物語をリアルにしているのは、背景となるのは実際の福島県であり、宮城県であり、すさまじい破壊と破綻、ゴーストタウン化した現実の街でのロケであることだ。

事実を大きな脚色もなく淡々と追うだけで、この物語を見る海外の人たちはすさまじい衝撃を受けるだろう。それほど今、我々の前に展開されている出来事は、凄まじく過酷だ。我らがその「凄まじさ」に本当に向き合う前に慣れて忘れ去ってしまうことに対しても強烈に警告している作品だ。

表現の上で補足すれば、映画中に登場する警察官は威丈高で圧政的に怒鳴るが、現実の福島に展開する警官たちはきわめてソフトに気を配って住民や僕たちに接している。現地を取材している園監督もそのことはわかっているはずだが、あえて架空な県では「強権的」な警官の姿とすることで、「敵なるもの」を感じさせようとしたのだろうか。加えて園監督独特の手法ー「日本映画の伝統ともいえる演出」に監督の個性を盛り上げた大仰な場面には、個人的にはついていけないところも多々あった。そのことと一番格闘していたのは、誰よりもこれほどまでに「現実」と向き合った映画をこの時期につくった監督自身かもしれないが。

物語のタイトルである「希望の国」は、映画のエンディングで主人公の悲劇的な結末と別に、ある「希望の形」をつくり、そして終結する。凄まじい災禍と悲劇の中で「希望」を探すとすればどこなのか。我らはこれからそれぞれどうしたらいいのか。見る人が個々に感じとり、これからのことを考えていくのだろうと思う。

○「希望の国」オフィシャルサイト

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