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June 07, 2014

引き受けるということ

当然ながら、何十年もの間に仕事上の酷い失敗を何度かしている。自分のせいであったり、結果としてそうなってしまった理不尽なものもある。

ある金融機関の新規出店プロジェクトに関わっていた時、こともあろうにその出店予定地の地主を激怒させた。事務所にいた女の子の電話応対が無礼だったと、たったそれだけのことだったが、地主は人の道に反すると激怒した。いま思えばナーバスな土地交渉のさなかである。彼もナーバスになっていたのだろう。
詫びたが収まらずもう土地を貸さぬというところまでこじれて、担当者の僕は震え上がった。まだ20代だった。
ついには何とその金融機関の支店長と一緒に地主を訪ね、玄関先で長時間粘り、ようやく中に入れてもらい、共に畳に頭を擦り付ける羽目になった。

「このクソジジイが」と僕は怒りに燃えていたが、横で共に頭を擦り付ける支店長は一言も僕のことも、事務所の女の子のことも責めなかった。間にたった代理店の担当者も共に黙って頭を下げてくれた。

地主の怒りはようやく収まった。電話一本の恐ろしさを知った。

「こういうこともあるよ」

と落ち込みまくる若い自分に対して、ニコリと笑った支店長の笑顔がいまでも忘れられない。彼こそ理不尽と屈辱に震えていたろうに。

そればかりかその日は、致命的とも言えるミスをした我々を飲みに誘ってくれて遅くまで盛り上がった。やがて支店は無事にオープンしたが、バブル後の混乱期を経てその金融機関は今はない。

だが。いまでもその駅に降りるたびにあの日の遠い記憶を思い出す。いま、自分のために横で頭を下げてくれる年上の人は殆どおられなくなった。それどころか、おそらく誰かのために頭を下げたり、嫌なことを引き受ける場面が増えたと思う。

理不尽だと憤るとき、誰かのために人の嫌がることをしなければならない時、あの日の支店長のことを思い出す。

どんな時も逃げるなと彼はきっと教えてくれた。そう勝手に僕は信じ込んでいる。

※昨日ちょっと厳しいシーンがあったのでそんなことをちょっと思い出して書いてみた。

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Comments

現実とは、こういうものですよね。自分の体験からもいえるのは、すごく怒った人がいたあとは、笑顔の人が必要ということです。大人だと、一人で、激怒して、若い人が反省したら、笑顔で包める。そういう人じゃないなら、別の人が笑顔でと。

ネットだと、怒った顔も笑顔もない。まして、苦しんでいる顔、泣いている顔も見えない。そういうことに、慣れてしまう人が大勢います。

じゃぁ、文章で、怒った顔を描けないかというとそうでもない。ただ、訓練は必要でしょう。ただ、学問、教育が、感情的に表現することを禁じているから身につかない。その上、日本の大学だと、論文尊重で、面談軽視。で、なにが起こったかというと、論文が苦手なために、極端に面談主義の研究者が現れて、世間を自然に手玉にとっている。かとおもえば、オバマ大統領は不快な表情を浮かべてるのに、フォーマルな表面的な社交辞令を過大評価して世間にパーフォマンスしてしまう人とか。

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