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December 29, 2014

小さな「戦争と平和論」

石破さんが公共の場で「集団的自衛権を行使する」と言うべきところで「戦争をする」と言ってしまい、慌てて言い直して話題になっていますが、これに驚いている人結構いるんですが、今更何で驚くんだろうと思いますよ。

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「集団的自衛権を行使する」というのが、何か事務的な手続きだなんて思っている人いるんでしょうか。「集団的自衛権を行使する」とは紛れもなく「戦争をすること」で正しいのであって、そういう意味では石破さんは正直に言ってしまっただけ。驚くなら集団的自衛権を閣議決定した時に、「戦争することを閣議決定した」ことに驚き反対すべきであって、今頃ネット的驚愕なんか表明しても遅いです。ようやく気がつきましたてなもんです。いや遅いは言い過ぎですか。まあいいですけど。

それにしても、つくづく言葉の置き換えというのは恐ろしいものだと思います。売春を「援助交際」なんて言ってたのはまだまだ「可愛い」もので、「合法ドラッグ」やら武器を「防衛装備品」だとか、「大本営」(政府のことです)は時代が変わっても同じ手口を刻んできて、我らは父祖の代からつくづく同じ手に引っかかるものです。

これをきっかけにちょっと「戦争」について小さく考えていることを書きます。


僕はここではいつも表明しているのですが、改憲論者です。第9条も聖域に置くべきではないと思っているし、軍備の完全放棄を日本が行うのは(今までもそうでしたしこれからも)無理だと考えています。(よく違う方向に誤解されますが)現状の政権の狂いっぷりで、当面の改憲には反対ですが、いずれ日本は憲法についてとことん考え抜いて政体を含め、(もう一度言います)政体を含め、とことん考え抜くべき時がくると思っているし、そうすべきだと思います。

で、それを前提にして、話が変わりますがハリウッドの宇宙人侵略映画(たくさんありますよね)を見るたびに思うことがあります。まあ色んなパターンがありますが、最後はなんだかんだで地球人が勝って宇宙人が帰っていくわけであります。あれ宇宙人達を皆殺しにしちゃったりしていますが、あの宇宙人たちには人権はないのでしょうか?星に帰れば家族もいるかもしれませんし、地球に来なければならなかったのも命令されて仕方なく、従わなければ殺されるかもしれなかったかもしれないでしょう?話し合いで解決することは本当にできなかったんでしょうか?最後にみんなで溜飲を下げてニコニコ帰っていいんでしょうか。

でもそんなことを言うと「お前は変わり者だ」と言われます。何しろ「地球の危機」なんです。宇宙人のあるんだかないんだかわからない人権をそんな時に考えていられるかよ。みんなで死んでいけというのか。お前は馬鹿か。

ネトウヨでなくてもそう言いますよね。でもなぜそう思うんでしょうか?それは「我々=地球人」と「彼ら=宇宙人」の間に、無意識に線を引いているからです。「こちら側」と「あちら側」。「我々」と「彼ら」。どこかで線を引かないと、個々の正義の概念が崩壊するからであり、人は時に他の生命を抹殺してでも生き残らなければならない時があり(あると考えられており)宇宙人はこの場合「向こう側」とすることで、様々な面倒な思念をいったん棄却するわけですね。

では地球の中。国家と国家の戦争の場合はどうなんでしょうか。Aという国と戦争をするとすれば、実はこの宇宙人に対する線引きをAという国との間に持ち込むということだと思っています。人を人と思うことをやめることです。

例をあげれば、日本に向かって弾頭を向けているミサイル基地が仮にあったとして、最近言われる「先制攻撃」によってこの基地を破壊したとする。当然そこを守っている人たちがたくさん死にますよね。その人たちの家族は路頭に迷い泣く。でもこれは正当化される。なぜなら「日本を守るためなら仕方がなかった」からです。我らの生存権を脅かすものの生存権は損なわれても仕方がない。これは辛い辛い、きつい決断ですが、どこの世界に彼らの家族を守るために自分の家族が代わりに死にましょうなんて人がいるでしょうか。

究極の戦争モデルは、他国の民の生存権を自分の国の民の生存のために、「宇宙人のように」棄却することだと僕は思っています。

で、これは正しいのか?わかりません。これは究極のモデルであり、そういうときにまで平和を唱えてみんな死んでいくのか。死んでいくべきか。なんて誰も言えないし、自分たちが生き残るために、あるいは生き残ることができると考えるために、「他国の民=エイリアン」を殺してもかまわないという思想は、原爆投下の際にも使われた考え方で、今でも米国で強く信仰されています。あのとき我らはエイリアンだったわけです。

「究極の戦争モデル」は重く悩ましく、他国が絶対にこちらに危害を加えないと信じること、実際にそういうことは起きないこと、起きそうになったら外交などで全力で回避すること、最悪でも経済戦争に止めること。そういう手段を総動員することで食い止めるべきだということを信仰するのが平和主義ということになると思います。でも全部ダメだったら?

イスラム国(この例が正しいのかどうかわかりませんが)のような国が、不幸なことに日本という国家に標準を定め破壊の極みをしに来ることが絶対にないという保証は?誰一人としてそんなことを永遠に保障することはできないでしょう。これまでも軍備を完全放棄して今の日本があるわけではないというのはわかると思うのですが、今や自衛隊は実戦経験こそありませんが、装備では世界屈指の強力な軍隊です。その上米国がいます。

日本列島はこの段階でも圧倒的な暴力=軍事力、核の傘によって守られています。

「究極の戦争論」に答はなくて、だからこそ、それぞれが全力で考えなければならない重いテーマだと思います。人類はずっとそれと葛藤してきたし、そこに簡単な答などないと思います。だからこそ皆が正しく事態を認識して覚悟を決めて向き合わなければならない。ゆめゆめ政権の単純な言葉の言い換えなんかに引っかかってはならない。

「戦争をする」とは「人を大量に殺すこと」。しかも無辜の市民を、罪のない市民を大量に殺す決心をすることです。「集団的自衛権の行使」とか「自衛のための戦争」とか「テロとの戦い」だとか、「防衛装備品の充実」だとかいう、政権が繰り出す言葉の妖しに引っかかってはならない。

ゆめゆめ騙されるなと思います。政権は我らに「究極の戦争論」なんか考えずに、これら妖しの言葉でフラフラと雰囲気で賛同してもらいたいと考えていることは明らかだから、それぞれが言葉の妖怪に引っかからずに考え抜くこと。それしか民にできることはないし、それが何より重要なのだと思います。

それにしても。民主主義とは多数決だと習いました。しかし、たかだか20%程度の人々の「狂気と無知」、それに大量の無関心に選挙制度が加われば国家を破滅の危機に向かって走らせることができるなんて、政治学の授業でも教わりませんでした。未曾有の事態になっていることを感じます。

今考えている僕の小さな「戦争と平和論」はそういうことです。

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Comments

20%の狂気と無知ですか・・・

先進国の中でも日本は貧困層の拡大と固定化が進んでいると言われますが、これも戦争へと突き進んでしまうプロセスの一部なんじゃないかと思えてきます。

適当なところで外部にそのはけ口を求めるようになってくるのか。

外に向わないまでもこのまま行くとその先は日本人の誰もが経験したことのない国内でその「線引き」が行われる日がくるんじゃないかとも。

考えすぎでしょうか。

しょうがねーな、正月ぐらい笑ってるか? どこもかしこも、ブラックホールブログばかりで、さっさとビッグバン起こして、人々と笑えよ

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