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February 29, 2016

許してはならないこと

Facebookでまた1人友人を失った。というかこれがギリギリのところだったろう。そろそろ駄目だと思っていた。相手も同じだったろう。

こんな小さな人間が、精一杯深呼吸をして大きな気持ちになったとしても、震災以来5年たって、まだメルトダウンでは無く炉心溶融だったなどと言わんばかりの意味不明の擁護や、チャイナシンドロームを言った人間をDQN呼ばわりする一方で、5年間にわたってメルトダウンを認めなかった東電やその擁護派の学者たちのことを「あの時はやむをえなかった」とか「言葉の定義の問題ですよ」などと主張する人たちと友人でいることはやはりできなかった。いるべきでもないだろう。

人は人を許さなければならない。なぜなら人は過ちを犯すものだから。自分ももちろん。
けれど一方で許してはならないものがある。許してはならないことの苦しさや辛さに翻弄される人たちをこの時間、自分の出来る範囲ではあるが、それでも見てきたつもりだ。

その自分が「そういう考え方もあるよね」などと下がることはどうしてもできないし、この先もしない。

極力寛容な心は持つべきだし、相手の言うことに理があれば主義や主張でがんじがらめになるべきではないと思う。耳開かれているべきだ。

けれど限度というものがある。それでもこの世の中にはどうしても許してはならないこともあるのだ。絶対に。

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February 27, 2016

絶望と希望の狭間で---Cocco 「ジュゴンの見える丘」 大浦湾に帰ってきた2頭のジュゴン 辺野古で起こっていること

辺野古の沖に親子のジュゴンが現れた。---自分を含めて内地の多くの人たちは「へー」くらいの感想で済ませてしまっていただろう。

そのことの意味を。
そのことへの思いを。
そして多分-僕は愛という言葉はよくわからないが
生きていく形のようなものを
Coccoが勇気を持ってコンサート会場で語っているので、動画をぜひ見て下さい。

人間は他の生物全てに比べて、どういうわけか圧倒的な知性と圧倒的な力をこの星で授けられた。それには疑いの余地がない。

人はその圧倒的な力をもって、この星を支配し、命の体系の最上位に君臨し、そのことの正邪はともかく現実として、ここに支配圏を確立している。

人は地形を変えるし海すら陸にするし、大気すら変える。他の生き物の命を人の理屈で簡単に、しかも大量に奪うことができる。

そして、人はそれは人類だけに許された特権だと(おそらく)思っている。
誰もそれを人類に言葉で言ったものはない。人が勝手に「神」のようなものを造形し、ノアの伝説も紡ぎだした。

けれど、傲慢な人の中にあって、少なくともノアはすべての生き物を助けようとしたのである。

もしも人間が、この傲慢極まりない思いと、圧倒的な力をこれからも保持するなら、そして他の生き物のすべての運命を左右する力を保持しようというなら、それは同時に圧倒的な責任の重さが、その肩に背負わされていると考えるべきだと思う。他に解はない。

その背負わせたなにかを神と呼ぶか呼ばないかは別として。

もしも我らが、自分達が日々の飯を食うためだけに、あるいは国家だとか民族だとか、自分たちの種にとって都合のいい。。いや種にすら害悪になる考えのためだけに、防衛という欺瞞の言葉のもとに大量殺戮の拠点や巨大な放射能を撒き散らす発電機をつくり、他の生き物の存続を脅かし、この星全体のマネージメントをする資格がない愚挙を繰り返すなら、この生態系の頂点にいる資格はない。直ちに降りるべきである。

「寄生獣」の一見荒唐無稽なストーリーの中で僕が心に残って離れないフレーズは

「地球上の誰かがふと思った。みんなの未来を守らなければ」

※だったかな

Coccoは彼女にとっての絶望と希望の境界のギリギリの場所からメッセージを届けている。辺野古に行きたい。早く行かなきゃな。

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February 26, 2016

牙を尖らせて

自分の祖母は貧農の生まれで、教師にすら蔑まれて、明治から大正を生き、関東大震災から戦争、東京大空襲と戦後を獣のように牙を尖らせて生き抜いた。

その祖母が期せずして大きな家に嫁ぎ貧乏人、無学と愚弄され、やがて運命的に引き受けた小さな孫に「戦え」とのみ教えて育てたとして、なんの不思議があるだろう。

今になってわかるけれど、彼女にはこの国に蹂躙され続けた恨みつらみとコンプレックスが溜まりまくっていた。その淀みまくった恨みを合理的な言葉で説明できず、ただ「戦え」と表現したのだろう。

「誰の言うことも信じず、自分が思ったことに殉じろ」

今になって思えば、そして側から見ていればきっとカッコよかったぜ。ばーちゃん。あんたほど平和を唾棄して権力に媚びず絶対孤独を引き受けると明言してた人がいるだろうかね。

けれども戦いがデフォルトで育てられた自分は苦労している。どうやってこの世界と折り合いをつけていくか。それはあんたは教えずに逝った。通常の人は、牙の不在に苦しむらしいんだ。鏡の世界だな。

きっと俺はそういうところから沖縄を見ている。福島を見ている。

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February 21, 2016

双葉消防本部の記録を観た

原発事故のあと、不眠不休で放射能の恐怖の中活動した消防隊、双葉消防本部の記録を見ている。見ているだけで涙が出てくる。隊員たちに取材してこの番組を作っているのも #NHK である。いつかきっとこの現場と経営との邪悪な解離の時期を歴史的に証言する人たちが中から出てくるだろう。それを確信する。

それにしても双葉消防本部の原発事故後6日間の記録。参ったな。あの時、死をも恐れず動いた人たちのおかげで我らの今がある。我らはいろんなことを知らないで、あるいは知ったつもりで生きていて、先人の努力を無に帰すようなことを平気で行う。

掬い上げられるものを限界まで掬い上げるのが政治の責務ではないのか。そんな政治家を我らは選べていない。このままなら選べない社会は滅ぶ。

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February 20, 2016

新宿で「スティーブ•ジョブズ」




新宿で映画「スティーブ•ジョブズ」 見なくてもよかったかなあ。「ジョブズとリサ」てタイトルにしたほうが良かったのではと。

Appleの歴史とジョブズのライフストーリーの概要を知らない人はわけわからんだろうし、知ってる人にはまあ。。どっちでもな感じ。映画全体がサイドストーリーみたいな。

「こんなクズだったのか!」と知らなかった人には新鮮かな。でもきっともっとクズだったと。

とにかく大半が発表会の楽屋でこんな時こんなこと言ってくるかよみたいな話をどっと登場人物が詰め込んでくるし、場面転換があまりなくてセリフが膨大。ウディアレンみたい。スラムドッグミリオネアは素晴らしい映画だったけどなあ。同じ監督だそうです。

ジョブズのクズっぷりも中途半端でリサのエピソードとかへーてところもなくはないが、しかしスカリーはお気の毒な描き方。

2013年のバージョンを見てみたくなったけど、まあどうだろうか。

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February 14, 2016

天に吐く唾

自分は思う。

不倫によって社会的制裁を受けるのはしょうがない。多くの人たちに非難されるのも仕方がないと思う。

けれど。議員辞職は違うのではないかと思う。議員の職は責任を取って会社を辞めますよ的な考えで、それを得たり、それを投げ出したりするものなのだろうか。一般的な職とは境界を画す、なにか違う論理がそこにあるべきだと考えることはおかしいだろうか。

我らはその議員に倫理を期待して投票したのではなく、公職に対する気概と、命をかけてくれることを期待して投票するのではなかっただろうか。

いや。わかっている。おそらく彼はそれほどの器ではなく、彼らもそれほどの選良ではないのだ。わかってはいる。しかし、わかることと、それでいいこととは違う。地に堕ちた政治家への侮蔑や罵詈雑言の唾が、結局落ちてくる場所はどこなのだろうか。

彼はひたすらにボロボロになり、審判は選挙のみでなされるべきだったと思う。異論もあるだろうが、自分の両手には彼に対して投げる石はない。投票以外に。

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February 05, 2016

生き物としてのココロ

月並みだけど、東京は空が小さい。自然が小さい。でもモンスターのように人が多い。ありえないくらいに人が多い。

会津では空の広がりと風の匂い、雲や樹々を照らす光の僅かな色の変化を感じることができる。でも人はいない。ありえないくらい人がいない。

自分にとっての美しさも、恐ろしさも、厳しい冬の自然そのものになる。

磐越道中山峠は何度通っても緊張する。恐ろしい。恐ろしい。吹雪の上り坂を超えると、霧の下り坂。上下左右もわからぬ時すらある。

さっきまで穏やかな顔をしていたと思うと、瞬時にヤヌスの牙を剥く。稀代の難所と言われてきたのがわかる。ここがかつて官軍が会津に向けて超えていった道。

一方で。峠さえ超えれば豊かな平野が広がる。

圧倒的な自然の怖さに立ち向かおうとするとき、人の怖さ、いやらしさを自分はしばし忘れる。

生き物としての原始的な怯えが体の底からジワジワと蘇ってきて、それによって自分は生き物としてのココロを取り戻していくのだと思う。ガサガサと体の奥にそれを感じる。

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