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October 27, 2016

物忘れ または 前の前の人生について

自分は、長く生きていると途中で何度か記憶喪失になる。それまでの人生を一回忘れる。忘れてもいいやと思ってるから余計に忘れるのか。何か忘れたいことがあるのかよくわからない。そんなことが何回かあった。

忘れたまま生きているその後の日常の中で、こんなことをなぜ自分はできるんだろうとか、こんなことどこかで覚えたっけとか、意味もなく不安感が押し寄せ、そうなってから初めて「ひとつ前の人生」や「ふたつ前の人生」を稲妻のように思い出す。いやリンネ生まれ変わりじゃないですよ。全て今生なのですがね。

忘れようとしたきっかけは前向きの時もあるし、きつくて忘れたかった時も(おそらく)ある。(単なる物忘れの時もね)

ところで、モーガンフリーマンのこの上なく現実離れした番組が好きで深夜によく見ている。「自己とは何か」「時間とは何か」「自我とは何か」「死とは何か」「記憶とは何か」「生命とは何か」

子供の頃に当然と思っていたことが、最新の科学で根元から覆されつつある。そんな身震いするような衝撃が好きだ。人間はいまそういうテーマに必死で向かい合わざるを得ない段階に差し掛かっていると思っている。

遥か彼方にある夢物語と見下していたAIだとかロボットだとかアンドロイドだとか。それらに現実的に対さなければならない時が近づいている。改めて人間の定義や命の定義をし直さなければ、彼らに向かい合えない段階になっていると思うからだ。

「苦しみ」とか「悲しみ」とか。それらは一体何なのだろう。何なのだろうと考える自分はいったい何なのだろう。

自分はこの世から逃避したいわけではなくて、この「何なのだろう」の領域の中でいっぱいに現実的でありたいとは思っているのだが、それでもその自分とはいったい何なのだろう。この世に何をしに来たというのだろうと思う。

いやこれも「前の前の前あたりの人生」でも考えたことのような気もする。リンネ生まれ変わりではない人生で。これも単なる物忘れなのかもしれない。

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October 23, 2016

この世に悪魔はいたのか

この世に悪魔というようなもの、おそらく日本では鬼ともいう。能の世界では鬼は数々あれど、例えば般若は人の心の中の鬼であるとする。しかし中ではなく外に敵対する鬼を想定することで人は白の世界にいようとするものではないか。暗黒面は光の世界を想定しなければ成り立たない。逆もそうである。

60年代の高度経済成長、70年代後半から80年代のバブル期、その後の氷の世界、2000年代のITバブル期を駆け抜けた広告の悪魔性についてよく考える。人ごとではなく加担してきたひとりとして。自分の中の一部にあの時悪魔はいたか。あるいは悪魔に心を売っていたか。

あの戦争を引き起こした人たちの中に一定の懺悔と怨念があるのであれば、スケールは段違いとは言え、80年代から2000年にかけて、そして現在に連なる日々の中で我らの世代にも一定の懺悔と怨念はあって然るべきだろう。この世は眠っている間に出来上がったわけではないのだから。

時代の懺悔と怨念はどの世代にもあるのだろうが、我らの時代は先の戦争の如き大量殺人を起こしていないからか、まとまった懺悔や後悔の言葉を聞いていない。(オウムの時代は隣接して捉えられるべきだろうが)西武セゾンの全盛を頂点とするバブル広告文化の焼け跡の中で、糸井氏も何も語らない

現代にあってまだその周辺を彷徨っている自分にとってあの時代への加担について、自分如きにあっては、まとまった言葉など出てくるわけもないのは当然かもしれない。しかし今日のような日はぼんやりと考える。自分は果たして小童として悪魔に手を貸していたのだろうかと。

「彼ら」が悪魔であった証拠を見ていたはずだ。と1人の自分は言い、他の自分はそれを頑として否定する。鬼はそれぞれの心の中にあり。彼らを鬼と呼んでそこに何があるのか。世代も変わり社会のストラクチャーが激変する中で、それでも鬼の子供達を鬼と呼び続けるのか。自分は何様だと。

何を言っているのか、わからない人にはそれでいいのだろうが、今でも僕はぼんやりと杉山登志のことを思い出しまた先行する時代を駆け抜けた父親のことを思い、巨大なグループを一夜で廃墟にして逝った総帥のことを思う。彼らが悪魔だったと自分に言えるのか。言えるわけもない。商業主義の何が悪い 。

おそらくそこには人の幸福と商業主義との間の相克があり、暗闇と断層があるのだろう。豊かさと商業主義の幸福な並走はあるいは終わったのかもしれないとも、いま始まったところなのかもしれないとも思う。「個々の人に個々の悪魔が宿った。別々の方向を見ている悪魔が」とするべきなのか。

何もいない空間に向かって念仏を唱え、誰もいないところに自分は問いかけているだけかもしれないが。ネットがその空間として、願わくば寛容であることを。

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October 19, 2016

生きたとて

首根っこを押さえて叱ってくれる先輩も今では少なくなった。この先どうしますかと問われる眼を見る。俺もわからないんだよ。ああこれがエイジなことなのだなと思う。人はできることであれば生涯やんちゃでいたいものだと思うのだが。それに生きたとて、そのうち何かがわかってくるわけでもないのだよ。

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October 09, 2016

過労死自殺の件に触れて

広告関連で一番働いていた時代。一晩に〆切が3本。最後の打ち合わせが夜中前に終わって翌朝までに直せは日常。会議室の固い机の上で寝た。ホームでベンチに座ると意識を失い気がついたら3時間後。コーヒーカップを水平に置けなくなった時点でまずいと思いペースダウン。あのまま行っていたらどうなったか。実際同僚が何人か過労死した。今生きているのはただの幸運だ。

一番多かった時で残業時間はどれくらいだったのか。それすら覚えていないのは、その会社が残業時間の記録すら求めなかったからだ。残業代を払わないからだと思い当たる。考えてみれば酷いところにいた。

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October 08, 2016

エンドレスボアリング

久しぶりにノートパソコンを買おうかと思ってあれこれ見てるんだけど、見事なまでに欲しいものがない。

MacであれWindowsであれ、自分の中でのコモディティ化がハンパなく、かつてのワクワク感がこれほどまでに色褪せてしまうとは想像すらしなかった。気のせいかパソコン売場も今では何だか安い既製服の安売り会場みたいだ。参るなと思うのはそれがスマホにも忍び寄っていること。そんなもんさと割り切るには、この世を生きるのに、ときめくことのできるギアが皆無で良いよと言い切れるキャラではない。

いつかあの箱型の機械たちが総退場してロボットがサイボーグがこの空気を変えてくれるだろうか。AIすらコモディティ化されていつか安い既製服売場のような空間がまた生まれるだけなのだろうか。

エンドレスボアリング。

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