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November 18, 2017

馬鹿げた、そしてシリアスなギフト



38度線を区切る鉄条網のギフト。そう言えば当時こんな土産を買ってきたのだった。もうすっかり忘れていた。戦争の喜劇性と悲劇性の二律背反を凝縮している場所が板門店だと思う。この馬鹿げた、あるいはシリアスなギフトにもそれが現れているなと思う。

おそらく(僕の予想だけれど)間も無く今回の北朝鮮危機は収拾される。けれどもちろんそれは問題の先延ばしでしかない。言語化したくないけれど、アジアの民はあの地域の負の遺産をきっと、どこかで棚卸ししなければならないだろう。僕は生きているかどうかわからないけれど、あなたはきっと生きている。願わくば現在の日米のいずれの領袖にもその大役を担わせたくない。

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逃げ場のない街

#japan #shinjuku #shiodome #tokyo

路地を抜け、すっと逃げ込めるような場所がいくらでもある街と、どこにも逃げ場のない街。



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November 17, 2017

「人間万事塞翁が馬」に繋がっているような、いないような話

自分の話。

何か、自分のやっていることを親の仇のように攻撃する人がいる。一方でまるでそこまで言うかというくらい、褒めそやす人がいる。

通常の、平凡な人生というものが仮にあるとしたら、その定義はどちらの目にも合わず、「可もない不可もない」というような曖昧模糊とした優しい言葉に包まれ過ぎていく人生のことなのだろう。

自分の場合はそれとは程遠い。とにかく持ち上げられやすく、とにかく落とされやすい。毀誉褒貶の激しい人格という方に属するのかもしれない。もちろん「毀誉褒貶」という言葉を使われること自体が、あまり良い印象とは言えない。

この世にある世間というもの。いわゆる「世間がそれは許さない」とか「世間様に申し訳が立たない」という時の世間は、自分にとっては、自己を称賛したかと思えば突然攻撃をかけてくる世間であり、貶めたかと思えば(特に儲かる話でも持っていけば)手のひらを返して擦り寄って褒め称える世間である。

毀誉褒貶の激しい自分としては、このような状況でいちいち弄ばれては叶わないとある日思ったのか、防御の一形態なのか、「自分の評価者は自分だけである」というドグマをいつからか持つようになったと思う。

もちろん元より宗教的ではなくて、道徳的でもない。神も世間も特に何もみていないし、何も正しいことを言ってくれるわけでもないのだから、そこは評価者である自己が決めますからよろしくね。という立場である。

大学を出てから久しく哲学の勉強などからも遠ざかっているのでよくわからないけれど、こういう考え方の人間は「実存主義的」とでもいうのだろうかな。よくわからない。宗教的信念のある人からは哀れに見えるかな。

客観的に考えると、物事の自分なりの合理には酷くこだわるが、世間の理や道徳にはたいして関心を示さない。元々毀誉褒貶の激しい身であるから武装したのかもしれないのに、それがまたループして一部の人たちの神経を逆なですることで攻撃に繋がるという仕掛けである。

自己に利を図ることにも、自己を正当化することにも実はそれほど関心がなく、評価者である自分は自分に対して最も良き理解者であり、一方で最も激烈な批判者でありたいと思うだけなのだが、どうもこうした心理構造は必ずしも一般的ではないようである。

現実的に言うと、このような心性に似合う生き方と、似合わない生き方がある。似合う職業と似合わない職業がある。似合う野山と似合わない荒野があるのである。
時には酷く人を傷つける。しかし助ける時もあるはずだし、あったと思う。奥の方を覗き込んでしまった人にはごめんね。お気の毒にとしか言えない。

仮にそれぞれのこうした構造に「問題」や「苦労の種」があったとしても、何十年も溜まった風雪じゃなくて澱のような心の奥のその塊はどうすることもできない。今更治療や修正の道がないのであれば、せめて賢くマネージしたいと思うのみである。

元々世間など、自己の運命や幸福、帰結に対してなんの責任も負ってくれないではないかと考えてしまうところが、やはりその心性はほらまた出ましたこの殺伐がと思うだろうけれど、この世はそんな千差万別の育ち方と生き方の帰結の失敗作が満ち溢れているであろう。

それでも生きている。

※ここまで書いてから不似合いな「人間万事塞翁が馬」という故語を思い出した。自分はこの最初の2文字を「にんげん」と呼んでいたが、下記の引用によれば「じんかん」と読みこれは世間を意味するのだそうだ。知らなかった。

話が繋がっているのか繋がっていないのか。これもよくわからない。


———-
人間万事塞翁が馬

中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。
さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。

ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。
この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。
ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。
そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが災いにならないとも限らないよ。」

しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。
近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

1年が経ったころ胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。
城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。
そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くはその戦争で死んでしまいました。
しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

 この話は、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。

「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。
「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。

「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」
という事です。

https://mizote.info/image/02profile/30kaisetu_jinkan.html

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November 08, 2017

今日の悟り

その仕事が多少なりとも創造的であればそれに費やした時間がどれほどであったかは本質には一切関係がない。だから10分の仕事というものもないし1時間要する仕事も1ヶ月分の仕事もない。

仕事というのは終わるときにはそれこそ一瞬。数秒で終わるだろうし、終わらないときは永久に仕上がらないからだ。‬

大抵の場合、終わっていないことにさえ気がつかないか、あるいは気がつかないふりをして、自分たちは時をやり過ごしていく。そこまでの時間分の金さえもらえればいいと思えば、またそれもやり過ごしの、未完の口実になる。

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13年

時折自分のブログで確か書いたよなあ。あれはいつだったかなあとか思って分け入って行くと、もはや記事の膨大さに自分でもクラクラする。ここはもはや魔窟である。闇である。いや広大なゴミ屋敷かもしれない。

どれくらい前の記事まであるんだろうと見ていくと13年である。たかだか13年。大したことはないなあと思うが、この13年の間に日本で起きたことの膨大さよ。

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November 03, 2017

35年目のブレードランナー

初作は1982年公開。35年の年を経ての新作。レプリカントがまだ夢まぼろしの世界だった頃と比べてリアルが増している。思えば35年前はビルの外壁に大型ビジョンが唸る世界すら新鮮だった。あの衝撃は流石に再現できないものの、35年後の渾身の世界観の継承は見事だとしか言いようがない。

人間の近くに確実に忍び寄っている人工知能に対して、自分たちの感じる恐れとか、憧れ、未知のものへの距離感の掴み方など、これを最初のブレードランナー遭遇とする世代にも迫るものがあるだろう。

新宿のTOHOシネマ、IMAXで。スクリーンの大きさもだけど音が素晴らしい。お薦め。

どうだろう。3作目もありそうな雰囲気だけど、見られるかな。時間的に。



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