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March 25, 2017

「加害」ということ


常磐道を走る

これが1年前。そして人々は帰り始めようとしている。

何を語っても的を射たことが言えるわけもない。ただこの問題について言えば、自分には(当たり前かもしれないが)被害より加害の意識が強いことに今更のように気がつく。

被害とは何か、加害とは何かという狭間に多くの人がいるのだと思う。圧倒的な両極の人たちを除いて。その痛みや迷いを持たずに正義を語って「加害者」をただ糾弾することは自分にはできない。行動原理というか、思考の原理が晒される時間だったと思う。

これも当たり前の話だが、それぞれが自分の内にあるものと向き合うしかなく、向き合うことすら避ける人たちこそが、本当の「加害者」なのではないかと思う。

が、残念なことに圧倒的な多数はそこに位置する。

人はそういうものだと諦念するのではなく、そこから始めるしかない。あなたが幾つになっても。

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March 11, 2017

6年目




おどろおどろしい。もはや見たくも考えたくもない方もいるだろうけれど、これはまさしく我らの生み出したもの。政治家や東電をそしるのもいいが、まず全ての人が自らの胸に問うべきことだと思う。

震災直後のあの先の見えない暗い街での不安感を、甚大な人達の悲劇を生んだあの海の猛りを残念ながら自分たちは忘れ始めている。

受け取った啓示が何だったのかわかる日は来るかどうかわからないけれど、少なくとも311は全ての人が大小の決意をした日、これから生きていくことについての小さな、あるいは悲痛な決意をした時だと思うが、中には闇に向かう決意もあったのかもしれない。そういう意味においても、何も終わっていない。

しばらく仮設にもうかがっていないことを心苦しく思っている。まず自分の気持ちの原点にせめて戻りいきつ帰りつを忘れないようにしたい。

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December 04, 2016

おとうさんはきょうもいそがしい

こんなの書いてた。2012年だ。すっかり忘れてた。

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おとうさんはきょうもいそがしい。
おかあさんもきょうもいそがしい。
おとうさんは、おかあさんやぼくのためにしごとにいく。
おかあさんは、ぼくやおとうさんのために、あいをそそぐ。

あなたのためよ。あなたのためよ。
かぞくをたいせつにすることは、せかいをたいせつにすることになるんだよ。

でも。そのせかいがよごれたことを、ふたりともなにもいわない。

ただしくいきていれば、
いっしょうけんめいはたらいていれば、
いいことがたくさんある。
それがせかいのためなんだって、おとうさんはいう。

いっぱいかぞくをあいすれば、
あなたが、がっこうにいくようになって
だれかとであって、またかぞくをつくる。
それがせかいのためなんだって、おかあさんはいう。

でも。そのせかいがよごれたことを、ふたりともなにもいわない。

ねえおとうさん。なぜせかいはよごれたの。
ねえおかあさん。だれがせかいをよごしたの。
せかいがよごれてこまっているひとはいないの。
ないてるひとはいないの。

そんなことはかんがえないで
あなたはしっかりべんきょうして、たくさんたべて、おおきくなって
またわたしたちのようなかぞくをつくりなさい。
おとうさんとおかあさんがいう。

それがせかいのためなんだよ。
かぞくをたいせつにすることは、せかいをたいせつにすることになるんだよ。

でも。そのせかいがよごれたことを、ふたりともなにもいわない。

おとうさんはきょうもいそがしい。
おかあさんもきょうもいそがしい。

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August 28, 2016

台風10号と福一

台風10号で福一を大丈夫かなと心配してる人多いけど、まあ普通に考えて大丈夫じゃないですよね。また著しい海洋への汚染水流出が起きる。東電もわかってるでしょ。僕らもわかってる。でもどうにもならないから仕方がないと思ってる。海へ流れちゃったら流れちゃったで。ていうか日本人の多くがそう思ってしまっている。天井にね、頭がぶつかってるんですよね。何か対策をって言われても何があるのか。自分にもわからない。

こういう場合の対処は、本当に悲しいけど2個しかないと思う。ひとつは気にしないこと。多くのこの国の人たちと同じように。もうひとつは、酷いことにならなければ運がいいくらいで割り切ること。つまり東電と同じかな。再核反応でも起きなければ、この程度ならば、すぐに人が死なないなら。と割り切る。辛いけど、この5年半で思い知らされたこと。福一のようにいったんなってしまったら人間にできることは本当に少ない。

でも福一に関してはそうでも、他の原発にはまだできることはたくさんある。止めて廃炉がベストだけれど、自分はそう信じているけど、安全対策だってたくさんある。

伊方原発。常識として半島の付け根に原発を作り、そこに何かあっても半島の人たちがどうにか逃げられるなんてありえない。船で逃すとかバスで逃すとか誰が信じる。そうじゃない。多少被曝しても死ななければいいでしょうくらいに考えている。人の安全は常識の範囲なのにそれを無視する。

再生可能エネルギーで日本のすべてのエネルギーを担うっていう難しい話じゃない。常識の範囲だ。そういう場所は動かさない。

その常識が通じない人たちが政権にも電力会社にも官僚にも経済人にも、あなたの友人にもいることが死ぬほどわかった5年半。

自分は嘆くばかりではなく、これでも希望を探そうとしているのだが。暗い気分にさせたらごめんなさい。

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May 25, 2016

澄んだ瞳にも見えないものがある。もちろん濁った瞳にも。

仕事仲間から素で聞かれたことがある。

「ちょっと聞いてもいいですか?」

なに。

「どうして東京オリンピックに反対なんですか?」

どうして君は反対でないのか驚いたのはこっちのほうだよというジョークは置いといて。

「まず、日本はまだそんな状態じゃない。福島は復興していない。10万人も家に帰れない。原発は手がつけられない。こういう状態にある国は、僕の常識ではオリンピックよりもやることがあると思うものだと思う。こんなタイミングでなぜオリンピックなんかやろうと思うのか、全く理解ができない。」

「。。。」

「次に。東京でオリンピックが行われれば、日本中の注目は被災地ではなく東京に集まる。金も東京に集まる。しかも復興を名目に集める。そのカネはどうなるのか。それはオリンピックに使われる金であり、復興に使われるカネではない。復興を名目に集めたカネは復興に使われるどころか、東京のために使われる。一番必要としているところのインフラ投資が疎かになり必ず被災地を苦しめる」

「本当はみんな知っている。オリンピックと被災地復興なんか何の関係もない。こういうのを方便と言う。心のどこかで関係がないことを知りながら、気がつかないふりをする。もちろん自分も例外じゃない。考えると反吐が出る。」

「そんなことは考えたこともありませんでした。」

まだ納得がいかないと言いたげな彼の瞳は濁っていない。澄んでいる。澄んだ瞳でも見えないものがある。もちろん濁った瞳にもね。

ところが。

そんな濁った瞳の自分にも見えなかったものがある。僕は東京オリンピックが見えていなかった。実際の東京オリンピックはもっとえげつなく、もっと偽善的でデタラメだった。

美化して語りすぎたよ。自分は。本当の話はもっと遥かに酷かった。それがわかってきた今日この頃。あなたはいかがお過ごしですか。

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March 25, 2016

常磐道を走る

こんな青い空の元で車を走らせていると、ここがどこなのか、ここで何が起きてしまったのか忘れそうになる。というより自分も、この国のほとんどの人たちも、本当に忘れてしまいたいのかもしれない。知性や理性で忘れるべきではないと思う前に、心の奥底で知らぬ間に起きてしまったことを認めることを 5年経った今でも忌避している。

無人の美しい家々。

忘れることはできない。忘れることができるほどに、この田畑一面に広がる風景。青や黒のフレコンバッグの山の存在感は甘くないのだ。悪夢の中の田園風景というものがあるとすれば、その一つはまさしくこの風景だろう。

ここにどんな日常があったのだろう。

自分たちの国は世界史上にない額の借金を作り、世界史上にない2発の核兵器を落とされ、そして有史以来最大級、1000年に一度という大地震と大津波を受け、そして4基の原発が破裂し甚大な放射能を国土にばらまいた。

その上でそれを除去しようとして膨大な除染「事業」を行い、甚大な数の袋に詰めたはいいが、そこで手詰まり。ただ積み上がっていくフレコンバッグの最終的な保管場所も決まらず、倉庫番ゲームのようにこの無人の田畑の各所に積み上げては動かし、動かしては積み上げている。

墓場を走り続ける列車のようなこの車。

土や草木や川の間にこの膨大な数の袋が人の背丈の何倍もの高さに積み上がっていく様を見ながら自分は、「4.4μSV/hour」と表示される横で高速道路を疾走している。こんなところを走りながら息も止めない。呼吸ももう乱れない。

事もあろうにその土地に人々に帰れというのだ。なにごともなかったかのように。これは何なのだろうか。彼らはどこから来たのか。何の幻覚か。

実のところ、こうやって重ねてものを考えることはもう自分の心の習慣としてはない。ここを何度も通るうちに、この異様な風景に慣れてしまった。風はあくまで気持ちよく吹き渡り午後の日差しは平和に澄み渡る。

この土地の人はどこに行ったのか考えさえしなければ。

美しい空気のいったいどこが汚れているのだろう。何かの勘違いではないかとすら思う自分がいる。

不思議なことに東京に戻って、渋谷の雑踏を歩いている時にフラッシュバックのようにこの遠い風景が蘇りようやく正気を取り戻すのだ。そして唐突に思う。

「自分たちはなんということをしてしまったのだろう」

泣き出したくなる。

それが。刹那。完全に毒が消えるとされている10000年単位の時間を考えたところで気が遠くなり、やはり何かの勘違いか白昼夢を見ているのではないかとまた正気はまどろんでいくのだ。心は平静な日常に戻っていく。

きっと私たちは狂っているのだ。ずっと前から。

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March 12, 2016

1日遅れてしまったけどあの日から5年目に

「あの時、大変なことになっていたんだなあ」

ということを国民の(ざっと考えて)半数?半分も行かないか。共有できるまででに5年もかかるんだとつくづく思い知らされる。周りを見ていても思う。

でも自分は被災者ではないのだ。被災された方はどれだけの思いだろうと思う。

「「メルトダウン」と言うな」

が(誰の命令か知らないが)その筋の暗黙の前提になっていたことも、報道で知る。このNGワードに圧力がかかっていた。ツイートすると猛烈な圧力が親しいフォロワーからさえ来た。

素人が原子力についてわかりもしないのに、不確かな意見を拡散するな。という圧力も凄まじかった。「被災者を傷つけることになるんだぞ」という不思議な脅しは未だにある。

これは全て政府の圧力と反発する人がいる。もちろん今の政府は駄目だ。自由の価値、民主主義の理念を理解していない。それどころか嫌悪している。

でも圧力の出所は政府だけではない。この国の社会だ。普通の人たちが圧力に加担し体制の味方をする。それが巨大な圧力になるのだ。それがこの国の恐ろしいところだ。

きっとあの戦争でもそうだったのだろうなと、リアルに想像することができるまでの5年間だった。

卑怯なる者は、大きな力を持つくせにそれを隠し、もっとも弱い者の名を語りそれを利用して圧力をかける。そしてもっと悲しいのは、その利用されている弱い人たちまでもがこの圧力に加担してしまうのだ。

311以前、自分はこういうことにここまでリアルには気がついていなかった。教えてくれた311は自分の人生にとって遅すぎた大災禍だったかもしれないが、気づかせてくれたことを軽んじないようにしようと思う。

#1日遅れてしまったけど5年目に。

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February 29, 2016

許してはならないこと

Facebookでまた1人友人を失った。というかこれがギリギリのところだったろう。そろそろ駄目だと思っていた。相手も同じだったろう。

こんな小さな人間が、精一杯深呼吸をして大きな気持ちになったとしても、震災以来5年たって、まだメルトダウンでは無く炉心溶融だったなどと言わんばかりの意味不明の擁護や、チャイナシンドロームを言った人間をDQN呼ばわりする一方で、5年間にわたってメルトダウンを認めなかった東電やその擁護派の学者たちのことを「あの時はやむをえなかった」とか「言葉の定義の問題ですよ」などと主張する人たちと友人でいることはやはりできなかった。いるべきでもないだろう。

人は人を許さなければならない。なぜなら人は過ちを犯すものだから。自分ももちろん。
けれど一方で許してはならないものがある。許してはならないことの苦しさや辛さに翻弄される人たちをこの時間、自分の出来る範囲ではあるが、それでも見てきたつもりだ。

その自分が「そういう考え方もあるよね」などと下がることはどうしてもできないし、この先もしない。

極力寛容な心は持つべきだし、相手の言うことに理があれば主義や主張でがんじがらめになるべきではないと思う。耳開かれているべきだ。

けれど限度というものがある。それでもこの世の中にはどうしても許してはならないこともあるのだ。絶対に。

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February 21, 2016

双葉消防本部の記録を観た

原発事故のあと、不眠不休で放射能の恐怖の中活動した消防隊、双葉消防本部の記録を見ている。見ているだけで涙が出てくる。隊員たちに取材してこの番組を作っているのも #NHK である。いつかきっとこの現場と経営との邪悪な解離の時期を歴史的に証言する人たちが中から出てくるだろう。それを確信する。

それにしても双葉消防本部の原発事故後6日間の記録。参ったな。あの時、死をも恐れず動いた人たちのおかげで我らの今がある。我らはいろんなことを知らないで、あるいは知ったつもりで生きていて、先人の努力を無に帰すようなことを平気で行う。

掬い上げられるものを限界まで掬い上げるのが政治の責務ではないのか。そんな政治家を我らは選べていない。このままなら選べない社会は滅ぶ。

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October 02, 2015

「本を持って町に出ろ」

あんな知的な若者たちを「感情的」だとか「衝動的」だとか選挙行ってんのかとかよく言えるなあと思う。


勉強などデスクが向いているタイプとストリートに出てくるタイプとは一般的には共存しないんだけれど、それが奥田君の生い立ちでわかるような、それぞれの特殊な環境により、微妙なバランスで共存している。そしてそこに、時代がかみ合った。どれ一つが欠けてもおそらくSEALDsは出てこなかった。


デモなどにおけるコールやドラムなど、エモーションを掻き立てるアピールに拒絶反応を示す人がいる。「ノーパッサラン!」とか。最後は感性の問題でもあるので、快不快の差異はいかんともしがたいのだけれど、それはそうとして、僕は彼らを見ていて、もっと勉強しなければいけないなあとこの年になって思わされた。


まあそこそこ、これでも全然やらなかったほうではないと思ってるんだけど、当たり前の話だけれど勉強は一生のものだからね。思想にもトレンドがあり、不滅ではない。


そういう意味で、彼のこのツイートには深く共感する。短いけれど、何かこの世の本質を突いていると思っている。それはフィールドと思想を結ぶ、新しい言葉なのだ。かつて寺山修司が言ったことが、今の風で言い換えられた。


このツイートを見るだに、何かに到達するために必要な、生きてきた年数というやつはおそらく、あまり関係ないのだろうなと思う。


RT @aki21st: 「本を捨てて町へ出よ」とか、そういう事も思ってないよ。勉強したほうが良いに決まってる。本を持って町に出ろ。


しかし。


こうやっておっさんが、妙に持ち上げることはきっと彼らは欲していない。


誉めそやすことよりも一緒に戦おう。本を持って街に出よう。

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