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November 17, 2017

「人間万事塞翁が馬」に繋がっているような、いないような話

自分の話。

何か、自分のやっていることを親の仇のように攻撃する人がいる。一方でまるでそこまで言うかというくらい、褒めそやす人がいる。

通常の、平凡な人生というものが仮にあるとしたら、その定義はどちらの目にも合わず、「可もない不可もない」というような曖昧模糊とした優しい言葉に包まれ過ぎていく人生のことなのだろう。

自分の場合はそれとは程遠い。とにかく持ち上げられやすく、とにかく落とされやすい。毀誉褒貶の激しい人格という方に属するのかもしれない。もちろん「毀誉褒貶」という言葉を使われること自体が、あまり良い印象とは言えない。

この世にある世間というもの。いわゆる「世間がそれは許さない」とか「世間様に申し訳が立たない」という時の世間は、自分にとっては、自己を称賛したかと思えば突然攻撃をかけてくる世間であり、貶めたかと思えば(特に儲かる話でも持っていけば)手のひらを返して擦り寄って褒め称える世間である。

毀誉褒貶の激しい自分としては、このような状況でいちいち弄ばれては叶わないとある日思ったのか、防御の一形態なのか、「自分の評価者は自分だけである」というドグマをいつからか持つようになったと思う。

もちろん元より宗教的ではなくて、道徳的でもない。神も世間も特に何もみていないし、何も正しいことを言ってくれるわけでもないのだから、そこは評価者である自己が決めますからよろしくね。という立場である。

大学を出てから久しく哲学の勉強などからも遠ざかっているのでよくわからないけれど、こういう考え方の人間は「実存主義的」とでもいうのだろうかな。よくわからない。宗教的信念のある人からは哀れに見えるかな。

客観的に考えると、物事の自分なりの合理には酷くこだわるが、世間の理や道徳にはたいして関心を示さない。元々毀誉褒貶の激しい身であるから武装したのかもしれないのに、それがまたループして一部の人たちの神経を逆なですることで攻撃に繋がるという仕掛けである。

自己に利を図ることにも、自己を正当化することにも実はそれほど関心がなく、評価者である自分は自分に対して最も良き理解者であり、一方で最も激烈な批判者でありたいと思うだけなのだが、どうもこうした心理構造は必ずしも一般的ではないようである。

現実的に言うと、このような心性に似合う生き方と、似合わない生き方がある。似合う職業と似合わない職業がある。似合う野山と似合わない荒野があるのである。
時には酷く人を傷つける。しかし助ける時もあるはずだし、あったと思う。奥の方を覗き込んでしまった人にはごめんね。お気の毒にとしか言えない。

仮にそれぞれのこうした構造に「問題」や「苦労の種」があったとしても、何十年も溜まった風雪じゃなくて澱のような心の奥のその塊はどうすることもできない。今更治療や修正の道がないのであれば、せめて賢くマネージしたいと思うのみである。

元々世間など、自己の運命や幸福、帰結に対してなんの責任も負ってくれないではないかと考えてしまうところが、やはりその心性はほらまた出ましたこの殺伐がと思うだろうけれど、この世はそんな千差万別の育ち方と生き方の帰結の失敗作が満ち溢れているであろう。

それでも生きている。

※ここまで書いてから不似合いな「人間万事塞翁が馬」という故語を思い出した。自分はこの最初の2文字を「にんげん」と呼んでいたが、下記の引用によれば「じんかん」と読みこれは世間を意味するのだそうだ。知らなかった。

話が繋がっているのか繋がっていないのか。これもよくわからない。


———-
人間万事塞翁が馬

中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。
さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。

ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。
この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。
ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。
そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。

「このことが災いにならないとも限らないよ。」

しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。
近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。

「このことが幸福にならないとも限らないよ。」

1年が経ったころ胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。
城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。
そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くはその戦争で死んでしまいました。
しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。

 この話は、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。

「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。
「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。

「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」
という事です。

https://mizote.info/image/02profile/30kaisetu_jinkan.html

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September 01, 2016

「100年の孤独」を読み返すことと「量子のもつれ」

祖母が逝って8年になるのか。

「100年の孤独」

自分が書いたものだけれど、時々読み返す。読み返した時に思うことはその時々で変わる。力をもらうこともあれば、打ちひしがれることも、忌々しく思うことも。

確かなのは、今はこれを読み返す時だということだ。

人の精神の歴史は、おそらくその個体の歴史ではない。引き継がれるもの、引き継がれてはならないもの、どうしようもないものもある。答を探す時に自分の体の中、頭の中だけを見ていても見つからない場合がある。

ところで実は人間の精神や心は宇宙を構成する元素と量子レベルで繋がっていて、遠く離れた人や死者の魂とも交感できる---交感と言っていいのかな。とにかく繋がっていて感応する。我々の体も心もそうした元素の起こす反応でしかないからだ。

最新の科学ではそうした次元を超えた感応を「量子のもつれ」と表現するのだと最近知った。

カルトではなくて、そうした考え方に立たないと説明のできないことはたくさんある。そういうことだそうだ。死者を思っても、自分の次の世代を見つめても、そうかもしれないとぼんやりと思っている。


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June 26, 2016

遠かった




当たり前のことだけれど、ここに来ても何も覚えていない。同じ東京の中でほんの僅かな距離なのに、遠かったし、長かった。地番も変わってしまっている。

あなたはこの街で、長い年月何を考えて、どんな暮らしをされていたのだろうか。今となってはもう永遠にわからないだろうね。

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June 24, 2016

スカイツリーの近くで



ねえ。知ってましたか。俺はスカイツリーの近くで生まれたんですよ。もちろん当時はスカイツリーなんかありませんでしたけどね。(笑)本人も気がつきませんでしたが、スカイツリーを見ると何かやな感じがしてたのはこのせいですかね。忘れてましたよ。

あんなに避けて避けて避けてきた葛飾区のそのエリアに、仕事の合間に止むを得ず足繁く通っています。四半世紀もそれ以上も遅れて、まさかこんなことになるとはね。自分の愚かさと運命の数奇ぶりに真底から嫌気がさしてしまいますよ。馬鹿ですね。本当に。本当に。それにしてもね。

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June 08, 2016

地獄の門

ちょっとしたことから、いやちょっとしたことでもないのだけれど、今まで避けに避けてきた自分のルーツと、この歳になってから向き合わなければならないことになりました。

唖然としております。

関わる人たちが次々と鬼籍に入っていく中で、こじれた物事も消えていくと思っていたのですが、その後には大量の故人の軌跡。まあ平たく言えば大量の戸籍謄本やら除籍謄本の山々。その一つ一つを掘り起こしていかないと、自分の場所には辿り着かないのです。

通常とか普通とかいうのがこの世にないのはわかった上で、敢えて通常という言葉を使うなら、自分には通常の人と比べて半分の世界しかなかった。

見えない半分の世界は、確かに存在しているし、その世界に触れようと思えば触れられるのに、生まれてからこのかた、そこを避けてきた。自分らしくなかったのですが。

自分はもうこの半分を知らずにこの世界を去るのだろうと、それもまた良しと思っていたのですけれど、ここに来てやられました。世の中そんなに甘くはなかったのであります。

半分の世界の地獄の門が開いて待っておりました。

どうしようもないトラップをかけないと、こいつは一生逃げ回る。ばれたのでしょう。高いところから網をかけられた気分であります。

これが救いなのか本当の地獄の入口なのか知りませんが、そして自分は神様を信じていませんが、神というものがあるとすれば、言わばそれは自分の反作用。自分というものの向かう方向に対して働く強烈な反作用のことなのかもしれないとも思います。

もう一度言うならそれが、その人の救いになるか地獄への入口なのかまるでわからないことも含めて。それがおそらく神でありましょう。

これも面白いと思うべきなのでしょうか。僕にはわかりません。この世は手強いですよ。皆様。

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May 15, 2015

絶対に巻き込まれるようなことはありません

何かに巻き込まれることを意図的にやる奴はいない。いるとしたら当たり屋かヤクザである。

人は予想もしなかった巡り合わせや時の運でトラブルや事故に巻き込まれるのであり、本当のところ、それを少しでも避けるために法規を整備して備えるのである。それでも巻き込まれたらどうするか。その悩ましさの境界におそらく未来はある。

だがその悩ましさを微塵も感じているように見えない、それも数々の大ウソつきを重ねた人物が、あなた方を揉め事に巻き込むようなことは絶対にありませんと大見得を切っている。

さらに不思議なのはこのホラ吹きの大風呂敷を信じる人々がいることである。

繰り返すけど、何かに巻き込まれようとして巻き込まれる人間はいない。いるとしたら当たり屋かヤクザくらいのものである。

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October 25, 2006

BigBangは、なぜBigBangなのか

予告しておく。誰が読んでも愉快な話ではない。

本来こういうネタははてなの方でやるんだが、このブログの話なのでここでやる。久しぶりの自分語りだから、そんな話は聞きたくねえって人は、すぐにほかへ行っておくんな。石松。

概ね書いたけれど、人と「多少異なった」幼少時代をおくった。で、それはもういい。失ったものも膨大にあるが、得たものもあるだろう。おそらく。一直線のコンプレックスや、馬鹿のような優越感に溺れる年でもない。はっきりしていることは、膨大に失ったものがあること。そして、その半面で得たものも膨大にある。それだけである。

はっきり言えば、後ろに誰もいなかった。いたのは、祖父母のみ。で、一定の年齢になれば、「あるべき家庭」に戻るはずだった。temporaryな環境で、いつかは終わるtemporaryな感覚を持ち続けた。結果的には、temporaryではなかったのだが、おそらくそれはハプニングだ。

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October 08, 2005

Time is on my side(3)-----どちらが孤独なのか。


ainsyut

「光とは何か?人類が100年間も騙され続けた相対性理論の大嘘」は凄い本だった

これを書いた後、長い時間がたってようやく最近読み終えたのだけれど、確かに「凄い内容」だった。本も凄ければ、そもそもこれを書籍にして出してしまった徳間書店も「凄い」と言われているけれど、確かにそう言わざるを得ない部分もある。

アインシュタインですら光については何もわかってなかったというのは本当であろう。そのわかっていないご本人が唱えた相対性理論など信用ができないと言われれば、確かに説得力もなくはないが、この本は何しろ「光速」というものを根本的に否定している。速いとか遅いとかではなく、光に速さがある、あるいは光が新幹線のように虚空の宇宙空間を何万年もかかって「移動する」そのあり方そのものを否定しているのである。

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July 25, 2005

Time is on my side(2)-----光は今でも味方しているのか

oouso

最初に
Time is on my side(1)-----時は今でも味方しているのか
を書いてからずいぶん時間が経ち、いろんなことがあった。この記事が最初の記事の続編としてふさわしいのかどうか、僕にもよくわからない。時間を順に追う自分史にも全くなっていない。なっていないのはわかるのだが、今が書くべきタイミングだと思うので、書いてみる。

変な話だと思われるかもしれない。そして現実逃避だと言う人もいるかもしれないけれど、人と人との関係、自分と人との関係、自分と社会との関係。

そうした事柄で迷ったりひっかかったりしたとき、

「そう言えば光はどうなっていただろうか」

「そう言えば素粒子で言えばどうなっていただろうか」

などと考える。いや、本当だよ。

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May 28, 2005

Time is on my side(1)-----時は今でも味方しているのか

確かにネットには、かなりのめり込んでいるかもしれない。

以前に比べて、とにかく席についている=机の端末に向かっていることが感謝されるような職場環境に変化したこともあり、ブログを読んだり書いたりする時間が、じわじわと増えている。ブログも始めて1年余り。アクセスやコメントもずいぶん増えた。いかん、これでは早いうちに引退しなければならないかもしれない。人のことをあれこれ言っているうちに自分が先に「終焉」してしまうと危惧する。

かといって、現在あちこちで展開されているブログvsオールドメディアのような対立二元論には、あらゆる意味であまり関心がない。なぜなら、この世のあらゆる出来事は、先に伝達する媒体を決めてから生じるわけではない。
いわば星雲のように、自分達の世界に混沌と浮かび散っているのが現象であり出来事であり、それを一つ一つ、雲を掴むように思念で捉えることが、伝える必死の試みがあればいい。その手段など本来どうでもいい。

と言いながら、こんな記事も書いてしまったが、これは個人の乏しい小さな経験を(小さなと敢えて言わせてもらう)、状況に乱暴に昇華しようとすることを、見るに見かねたからだ。きっと僕は彼の若さを見かねたのかもしれない。

それというのも。

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