October 25, 2006
BigBangは、なぜBigBangなのか
予告しておく。誰が読んでも愉快な話ではない。
本来こういうネタははてなの方でやるんだが、このブログの話なのでここでやる。久しぶりの自分語りだから、そんな話は聞きたくねえって人は、すぐにほかへ行っておくんな。石松。
概ね書いたけれど、人と「多少異なった」幼少時代をおくった。で、それはもういい。失ったものも膨大にあるが、得たものもあるだろう。おそらく。一直線のコンプレックスや、馬鹿のような優越感に溺れる年でもない。はっきりしていることは、膨大に失ったものがあること。そして、その半面で得たものも膨大にある。それだけである。
はっきり言えば、後ろに誰もいなかった。いたのは、祖父母のみ。で、一定の年齢になれば、「あるべき家庭」に戻るはずだった。temporaryな環境で、いつかは終わるtemporaryな感覚を持ち続けた。結果的には、temporaryではなかったのだが、おそらくそれはハプニングだ。
小さな頭脳で欠損感を埋め合わせるために考えたのは、そうした背景の欠如を埋めるというよりも、それをメリットとして活用できないかということだ。つまり露骨に言うと、途中で倒れても、自分の周囲に被害が及ぶ割合が人よりも多少少ない。少ないというのは、もちろん楽しい話ではないのだが、これはメリットにもなるのではないか。人生の選択肢が、人より遥かに自由に選択できるのではないか。
そう思った。いや、思うしかなかった。
で、それから話は飛んで数十年。その思い込みは正しかったか。間違いだったか。この点は40代の男として思うところはいろいろあり、一言では言えない。言えないが、他の多くの問題と同じように、100%間違いでもなければ、100%正しくもなかった。そういう平凡な結論であり、後何年生きるかわからないが、それは今のところそういうことだ。謝謝。
話を先に進める。
ブログを始めるときに、タイトルをどうしよう。テーマをどうしようと考えて、その心情を形にしようと思った。つまり後ろを振り返ったときに何も無いこと。そして、「世間的な前提」を欠いていることを、何とかネガティブではなく、ポジティブなものにできないかということ。
元々天文少年だったということもあり、ブログのタイトルをBigBangとした。(最初BigBan ※脇の下だろとか言われて変えた。笑)書き起こしたような、おそらく他人にとってうっとおしい心理背景があったことは確かだが、それにかぶせて言えば、あらゆる前提とか、しがらみとか、そういうものから自由になろうと思った。いや、なるしかないと、そう思った。
もしも自分が「しがらみ」だとか、「世の付き合い」とか、そういうことに囚われたら、存在価値がない。ネガティブな部分だけが突出する。そうやって生きていく方法ももちろんあるけれど、それでは余りに情けない。自分にできることは、「持っている人間」にできないことを少しでもやること。そう思った。
例えばブロガーと一緒の席に居合わせる。ビールを飲む。語り合う。相手の顔を見る。喜怒哀楽に接する。何を考えているかわかる。時には、苦しい顔に接する。情がわく。思い切り情がわく。不幸なことに情がわく力は強い。
だが
だが、少なくともブログ上では、BigBangは過酷でスタンドアロンであろうと思った。それは確かにそうだ。もしも、持っている人間が、何かに囚われて、幸福や不幸を手に入れるなら、自分がそれを手に入れるためには、囚われては駄目だ。全てを敵に回しても、少なくとも、少なくともネット世界においてはそう振舞おうと思った。と思う。できたかできなかったか。それはわからないが、そうあろうと思ったときがあるということだ。
今になって思うのだけれど、このタイトルは、結果的に思わぬ「効果」を呼んだように思う。何をするかわからない破壊者、常識が通じない喧嘩野郎。そう思われても上等だとも思った。現実の自分が、細かな相手の感情の揺れにいちいち反応して、何か大切なというか、肝心な部分に甘く振舞いがちであるだけに、BigBangはそうではない。そういう風であってはいけない。そう思い続けてきた。
ところが最近になって思うのだけれど、ネット世界も必ずしも別天地ではなかった。当たり前のことだ。人間が人間として、ちょっと媒体を変えたからといって、どんな桃源郷もそこにはないし、どんな並外れた「地獄」もそこにはないのだ。そんなことがやっとわかってきた。(Web2.0への不信感はこういうところにもある)
僕は、このやり方を続けようとする限り、おそらく早晩、何かを考え直したり、反面何かに固執し続けなければならなくなるのだろう。その「無理」というか、不自然さというか、是非はともかくそういうあり方なのだろうと思う。過剰に内的な部分に何かを求めることは危ういのはわかるけれど、その危うさに対して、何か危ういのだということを言えるかどうかは、実は重要なことであるのではないかとも思っている。
ブログ上の死については、確か一度エントリーを書いた。
永遠はない。どんな人にとっても永遠に続くどんなこともないのだ。もちろん命ですら。
心からそう思う。
今更ながらそう思うが、それを常に自覚することは誰にとっても途方もなく難しく、きついことだ。
そうじゃないかい?
2006 10 25 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック
October 08, 2005
Time is on my side(3)-----どちらが孤独なのか。
「光とは何か?人類が100年間も騙され続けた相対性理論の大嘘」は凄い本だった
これを書いた後、長い時間がたってようやく最近読み終えたのだけれど、確かに「凄い内容」だった。本も凄ければ、そもそもこれを書籍にして出してしまった徳間書店も「凄い」と言われているけれど、確かにそう言わざるを得ない部分もある。
アインシュタインですら光については何もわかってなかったというのは本当であろう。そのわかっていないご本人が唱えた相対性理論など信用ができないと言われれば、確かに説得力もなくはないが、この本は何しろ「光速」というものを根本的に否定している。速いとか遅いとかではなく、光に速さがある、あるいは光が新幹線のように虚空の宇宙空間を何万年もかかって「移動する」そのあり方そのものを否定しているのである。
つまり、700光年彼方にあると言われているオリオン座のリゲルから光が700年かかってあなたの目に届くなら、それはあなたが700年前のリゲルを見ていることになる。同様に夜空に散らばる殆どの星は遠い過去に「そこにあった」としか言えないのであり、真空中で299,792,458m/s(≒30万キロメートル毎秒)と言われる「光速」を信じるならば、自分の手ですら10億分の1秒過去の手である(!!)ことを認めなければならなくなる。
光に速度があると信じるから、人はあらゆる「現在」を認識できなくなる。この不自然な世界観はどうなのよ?世界の「過去」しか認識できないなんて?というのが筆者の趣旨。あらゆる「過去」に囲まれて生きている人間存在などというものこそ奇妙奇天烈だとして、ここから「光速」自体を否定にかかるのだから、確かに強引にも強引。
現代の物理学では、確かに「光の実態」(エーテルを伝わるとか、いや電磁波だとか)は完全に解明はされていないけれど、その速度はかなり緻密に計算されていて、そのことはどうなんだ?と突っ込みたくなるが、筆者は「哲学」あるいは「認識論」から入って光速を否定してるのだから、これはもう物理学でも天文学でもなく、思想というべきであろう。
で、じゃあ光はどうやって「伝わる」のかというと、「発光部」に「受光部」が「正体のわからない理由」によって瞬時に(光った瞬間)伝わるという説を展開している。そうなればリゲルは過去のものではない。今この瞬間の「リゲル」であるし、あなたの両手が10億分の1秒前のものであるなどという、「不可思議な」ことを言わないでもいいではないかと展開される。これは思想としか言いようがないでしょ?
最後まで「科学的には」甘い本で、一部でトンデモ扱いされちゃっているみたいだけれど、あらゆる「過去」に囲まれて生きているという相対性理論の世界は、居心地で言えばそれほどいいものではないというのもわからないではない。
誰が「過去」の恋人の顔を見たいだろうか?誰が「過去」の娘の顔を見たいだろうか?
目の前の恋人としっかり抱き合いたいと思うのは、両者の距離を0ミリにして、伝わらぬ心を持ち寄りながら、せめて「時」だけは共にしたいという悲しい試みか?
君の「今」に永遠に寄り添えないなんて!
人は過去ではなくて今この瞬間を共にしてくれる存在を探して、渇望して今日も生きているものであるとすれば、光は何億キロメートルもの彼方からでも「瞬時に」伝わってくれたほうが、「幸せになれる」のかもしれない。
だが、僕たちは、恋人の顔はともかく、宇宙的には、あまりにも相対性理論の世界にどっぷりと漬かって生きているから(なに?あなたは漬かっていないって?笑)、今更「全てが過去ではない」と言われても、逆に戸惑うのみ。
無限の「過去」に囲まれて生きること
無限の「今」に囲まれて生きること
幸福を一つの観点として見るなら、どちらが幸福なのか。
孤独を一つの観点として見るなら、どちらが孤独なのか。
異論も諸説も出る分野ではないか。
無限の「過去」に縛られているこの自分を思えば、今更光の速度が無限大になったとしても、直ちに「今」と添えるかどうか。直ちに君と寄り添えるか。
それすらわからないのである。
(4)へ続く
【参考記事】
●Time is on my side(1)-----時は今でも味方しているのか
●Time is on my side(2)-----光は今でも味方しているのか
2005 10 08 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック
July 25, 2005
Time is on my side(2)-----光は今でも味方しているのか
最初に
Time is on my side(1)-----時は今でも味方しているのか
を書いてからずいぶん時間が経ち、いろんなことがあった。この記事が最初の記事の続編としてふさわしいのかどうか、僕にもよくわからない。時間を順に追う自分史にも全くなっていない。なっていないのはわかるのだが、今が書くべきタイミングだと思うので、書いてみる。
変な話だと思われるかもしれない。そして現実逃避だと言う人もいるかもしれないけれど、人と人との関係、自分と人との関係、自分と社会との関係。
そうした事柄で迷ったりひっかかったりしたとき、
「そう言えば光はどうなっていただろうか」
「そう言えば素粒子で言えばどうなっていただろうか」
などと考える。いや、本当だよ。
はああああ?と思う人が大半だろうけれど、複雑な人の心とか、複雑な(というよりガサツに混乱した)人のシステムの問題にぶつかったとき、僕はどういうわけか全てを、つまり、一回物質に戻して頭の中でバラバラにして考える習性があるようなのだ。
初めてこの記事から読んだ人は、「こいつは相当電波の入った奴だ」と思うかもしれないが、おそらく、これは何か自分の原点にもどろうとして戻れず、それでも戻ろうとして苦肉の策として行き着いたところが、光や素粒子であったと言う・・・・・(ここまで書いてもドン引きしていく人たちの顔が見えるようだ)自分の特殊性にも依存する思考の性癖かもしれない。
もう少し懇切に書けば、つまり僕は生まれとかいろいろあって、「原点に戻る」という行為が困難というか不可能なので、通常の人間(というものが果たしてあるのかどうかわからないが)であれば戻っていくような、この世に出てくる瞬間のところから始まる歴史というようなものというか出発点が、結構面倒臭いことになってしまっているので、気軽に戻る場所がないのである。
そんなもの、自分だって関係ないぞと思っている人は多かろうが、そんなあなたであっても瞬きの間であれ、数秒のことであれ、この世界に、この世の中に行き詰ったりしたときに、必ず心理的に「そこ」に回帰しているはずである。
で、回帰ができない僕は、というか、この回帰ができないことは、もうそれはそれでいいのだけれど、現実にはやはりどこかに、がらがらっと今ある全てを精神的に崩して、最初から積木を積み上げて、今いる自分の場所のところまでを組み立て直して戻ってきたいわけだ。
そして、その後ようやく自分と人との関係を考えられるようになる。
道徳とか、この世の決まりとか、人が人に教える人の道とか、そうした一つ一つは、多くの場合自分の道筋には当てはまらず、この砂土のような、クレイのような自分と人との関係の根本の場所に戻って考え直さないと、動くことも考えることもままならないという、ある意味大変に面倒くさい構造になっているわけだ。
で、光である。
「光とは何か?人類が100年間も騙され続けた相対性理論の大嘘」
(著者: 森野 正春・まだ全部読んでないよ)
では、「第10章 オリオン座の星リゲルの光は、本当に700年前のものか!?」で、700光年彼方の星を見る時に、700年前のこの星の姿を見ているはずだ・・・という相対性理論の基本中の基本について、つまり光について当たり前のように語られてきた事実に切り込んでいる。
もしもこのことが当たり前であれば、私達は、宇宙の「現在の姿」を永遠に見ることができないことになる。なぜなら星々はそれぞれ700光年あるいは1万光年、時には何十億光年も彼方にあるのだから、「現在の世界」を私達は何も認識できないで生きていることになる。
孤独なことに人は過去の世界だけを見て生きているのである。そして千年後に千光年先を見てようやく、今のこの時代に呼吸をする私達に出会うことができるわけだ。
そんな馬鹿な話があるだろうか?一体認識とは何なのか?
という話からこの本の論はスリリングに始まっている。
(悪いね、まだ読み終わっていないんだ)
この本を読むと、光のことも、宇宙のこともいかに人間はわかっていないか、を思い知らされるような仕掛けになっている。かのアインシュタインですら、光のことは実は何も分っていなかったという、興味深い逸話も語られている。
相対性理論の頭の痛い話を、稚拙な理解のままにここで展開する気はさらさらないが、つまり言いたいことは、
●僕は原点に戻るとき、一気に物質まで戻らないと、すっきりと考えられない厄介さを抱えているということ。
そして
●心もシステムも所詮は移ろうものであり、その姿を時間軸の中で捉えることは所詮できないし、誰の責任でもない。結果の全てに対して、責任を持てるわけが無いということだ。
こうした思考方法は多くの場合頭が痛いことばかりだが、いい点もある。
それは、人の心。悩む人、傷つく人の心も体も、究極は素粒子のせいにできる(爆)ということなんだ。
何かに人がひっかかっているとき、何かにぶつかっているとき、何かに傷ついているとき自分のことなんだから責任を持てという人があろう。自分で責任を持って決断しろと。
因果応報の責任論は一見すがすがしいが、問題は、あのいやな言葉!
何かあったら「自己責任」を言われることである。何かがうまくいかないと、自分の過去の素行の、こことここが悪かったと勝手に解釈し、時を遡っては自分をあげつらって人は苦しむ。
無責任な人であれば、全てがうまくいかない理由を他人のせいにするだろう。
あるいは何かの宗教を信じている人なら、信仰心が足りなかったからだと言うかもしれない。運命論者であれば、ほんのちょっと運が悪かったんだ・・で全てを片付けようとするだろう。
そうした様々な、もっともな、あるいはいい加減な解釈と同じように、僕は人とのいろんな関わりが混乱しそうになったり、自分の気持ちが自分で読めなくなったとき、
「さて、光と素粒子はどうなっていただろうか」
などと考えるのだ。
自分もこの宇宙を構成する物質に過ぎない。少々複雑なように見えても、たかが素粒子の集合体。肉体の中で飛び交う中性子を想像すれば、生きているうちに自分ができること、自分が自分をどうかすることができる比重なんて、限りなく小さいと思えてくる。
ならば、悩みあぐねる時間は、そこそこで切り上げよう。傷も自然の治癒に任せよう。
心の傷も体の傷も、だ。両方だ。
こういうものの考え方は、もしかしたら、以前Salieriさんが教えてくれた「トランスパーソナル心理学」(少しだけ基礎的な本を読んだけれど)に通じるものがあるのかもしれないと最近少し思っているのだけれど、(違ったらごめん)欠損している「原点」の代償が、自分にも人並みに必要であるという渇望感が、宇宙や天体への原始的な関心と有機結合(?)して、ある意味追い詰められて、ここに至ったのではないかと自己解釈している。
人が
人に惹かれる気持ち。
人を拒絶する気持ち。
ある体制を選択する気持ち。
ある体制を拒絶する気持ち。
ある事柄を信じる気持ち。
ある事柄を拒絶する気持ち。
破壊。恋情。執着。冷酷。
愛情。後悔。愚考。嫉妬。
ぜんぶ物理的で化学的な反応に過ぎない。
そこに正解も間違いもない。
悪も善もない。
暫し、道徳にも文学にも、頭の世界からだけでも退場願って、全てをこの身に駆け巡る無数の中性子のエネルギーであると考えたとき、どこかで確かに救われる思いが目覚める。こうして見切ることが、僕にとっては前に進む力になっているのは確かだし、他の人の心と自分の心の距離を測る基準にもなる。
これが全ての人に薦められる方法であるかどうかは知らないが、迷う心が十分にあるのなら、少々乱暴かもしれないが、光すら味方にすることはできるのである。
アインシュタインすら、完全な説明ができなかったという、あの光をだ。
【参考記事】
最初の記憶----辿れない道
2005 07 25 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
May 28, 2005
Time is on my side(1)-----時は今でも味方しているのか
確かにネットには、かなりのめり込んでいるかもしれない。
以前に比べて、とにかく席についている=机の端末に向かっていることが感謝されるような職場環境に変化したこともあり、ブログを読んだり書いたりする時間が、じわじわと増えている。ブログも始めて1年余り。アクセスやコメントもずいぶん増えた。いかん、これでは早いうちに引退しなければならないかもしれない。人のことをあれこれ言っているうちに自分が先に「終焉」してしまうと危惧する。
かといって、現在あちこちで展開されているブログvsオールドメディアのような対立二元論には、あらゆる意味であまり関心がない。なぜなら、この世のあらゆる出来事は、先に伝達する媒体を決めてから生じるわけではない。
いわば星雲のように、自分達の世界に混沌と浮かび散っているのが現象であり出来事であり、それを一つ一つ、雲を掴むように思念で捉えることが、伝える必死の試みがあればいい。その手段など本来どうでもいい。
と言いながら、こんな記事も書いてしまったが、これは個人の乏しい小さな経験を(小さなと敢えて言わせてもらう)、状況に乱暴に昇華しようとすることを、見るに見かねたからだ。きっと僕は彼の若さを見かねたのかもしれない。
それというのも。
それというのも、と考え始めると、重ね、重ねてきた個人的な時間にどうしても思い当たる。
若い時から年長者に、つまらないくらいに言われ続けた「まだ経験が足りない」「苦労が足りない」という言葉の意味が、その重さが、最近起きたネットでの様々な経験を説明するときにも、ことのほかあてはまってしまうような気がしているからだ。
今、僕は非常につまらないことを言おうとしているのかもしれないが、事の本質が面白くなければいけない理由はない。神はいつもイベントを、そしてドラマを求めて宿るわけではない。そう、神はディテールに宿ると言った人も確かいたではないか。
この世の全てのことは、味加減を変えた出来事が、手を変え品を変え繰り返しているだけだ。元来くだらない事どもが形を変えてぐるぐる回っているだけだ。
そう思うとき、否が応でも、あの若い日に猛反発した陳腐な年寄りの繰言の数々(と思っていた)が、すんなり入ってきている-----それも最近の自分の変化を抜きにしては語れない。
認めたくないが、僕は年を重ねたのだろう。
それは事実だ。宇宙の構造に反する話が、この世界には何も残されていないように。
----では、あの歌はどうなった。
あのフレーズはどうなった。
Time is on my side.
20代の頃、苦しい時に、事あるごとに、小さな声でこの歌を口ずさんでいた。ローリングストーンズの、というよりミックジャガーの
Time is on my side.
時は、今我にあり。
訳は僕の勝手な解釈だ。
馬鹿な上司に会うたび、馬鹿なクライアントに会うたび、そしてつまらない大人に会うたびに、会社を辞めるたびに、僕はそっとこの歌を、このフレーズを口ずさんだ。そして、次にこの地獄のような言葉で毒づくのだ。
おまえが先に死ぬ。最後に勝つのはこっちだ。
でも今はどうだろう。
時は、今でも自分に味方しているのか。時は本当に自分の味方だといえるのか。蓄積や経験を武器に戦うべき世代になった僕に、まだ時間は味方しているのか。
気がつけば、大人に悪態をつく年齢ではなくなった。自分自身がどう考えても大人の年代になってしまったのだからしょうがない。この言葉はむしろ、自分に味方しなくなったのではないか。昔の自分のような生意気な若者が今頃どこかできっとつぶやいている。
Time is on my side.
おまえが先に死ぬ。最後に勝つのはこっちだ。
このフレーズを、初めてつぶやき始めたのは苦しい時代だった。
就職試験は、全滅だった。中でも大手の広告代理店の最終面接と、ある新聞社の最終面接をほぼ同時期に終え、両社ともに健康診断まで受け、気が早い周囲の合格前祝まで受けたのに、その後にに興信所の徹底身辺調査がされた末、揃って不合格になったときには、さすがに、心底落ち込むと共に、幾らなんでもこれはおかしいと思い始めた。どちらの企業も、健康診断後の不合格など、いくら友人に聞いても例がない。
気がついたのが遅すぎたのだ。考えてみれば、面接はどこも最悪だった。それでなくても少ない面接時間の大半、面接官は、繰り返し、繰り返し我が家の複雑な家族構成について、同じような質問を繰り返し、手元の複雑怪奇な履歴書の家族構成をにらみつけ、僕の顔と書類とを見比べているうちに、そして多くの兄弟達について説明しているうちに時間切れになった。
世間知らずの若者の、せいいっぱいのはったりや絵空事のような夢に耳を傾けている時間は彼らにはなかった。この不可思議な生まれの世間知らずをどうすべきなのか、きっとそれで頭が一杯だったのだ。
そもそも最終面接まで残れたこと自体、奇跡だったのである。
自分のような人間は、身元を保証するしっかりとした紹介者やコネを十分に用意しておくべきでったのである。それなのに、これほどのハンデに気がつかず、僕はそれまでの多少の成績のよさや卒業した学校の名前の重みによりかかり、意味も無い自信を持ち、それを怠った。夏休みに受講したマスコミ志望者向けのセミナーでの成績が格段に良かったことも僕を油断させ、おごらせていた。馬鹿な話だ。
祖母はどうしていいのかわからず、ひたすら毎日嘆き、泣き、そうした環境を作った父を呪う言葉を繰り返した。それがまた僕を痛めつけた。
クソみたいな社会だが、当然の洗礼をその社会から受けたことを悟ったのである。僕は自分を信じた自分を卑下し、社会を信じた自分を卑下した。中でも、わざわざ父の在籍した新聞社を避けてまで受けた(もちろん父への反発からだ)、何のコネもない、業界でもトップではないが良識あると評判の新聞社が、もっとも執拗に身元を調査した末、断りを入れてきた事実は僕を深く傷つけた。若者のつまらない純真さで、それまでその会社を意味もなく信奉していたのである。
そもそもそれまで、メディアは正義のはずだった。人を、その身分や出生、学歴で差別してはいけない。人をその先天的な形質で差別してはならない。毎日毎日、彼らはそうした記事を書いているではないか。
僕はそのとき、確か初めてつぶやいたのだと思う。
Time is on my side.
おまえが先に死ぬ。最後に勝つのはこっちだ。
やむを得ず方向を180度変え、通常の就職をあきらめた僕が選んだのは、スタジオマンとしてこの黄色いビルに通うことだった。ここまで社会にコケにされるなら、そうした選別をする会社で社畜になるようりも、小さい頃から興味を持っていたカメラマンになろうと決めたのである。広告代理店への就職を、前祝してくれた知り合いのカメラマンに頼み込んで、僕はこのスタジオのスタジオマンになった。
あそこまで愚弄されて、今更「通常の世界」に戻れるものか。そうも思った。
ところがそこは、すさまじい職場だった。そもそも大学から新卒で入ってきたのは僕が始めて。アルバイト雑誌に、学歴経験不問で募集すると、毎日のように何か勘違いした若者が、面接にやってくるが、半日スリッパばかり磨かされると、昼を食べに行ったまま、逃走した。そんなことが日常的に繰り返されている職場だった。
悪いことに、そのスタジオの親会社の専務は、僕の大学の学部の先輩だった。
ペンキだらけのぼろぼろのシャツで、スタジオのステレオのボリュームを一杯にして、1人でホリゾントを、ペンキ塗りしていた僕は、ある朝その専務に呼び出された。ネクタイとスーツの営業職が行きかう、その会社はスタジオに隣接していた。
場違いの格好で、専務室に現れた僕の全身を見回したその専務の台詞は、明日から営業をやれというものだった。
「カメラマンなど低脳のやることだ」
彼の言葉に、思わず息を呑んだ。
「それに、俺の後輩がそんな惨めな格好でペンキ塗りをしているのはたまらん。」
眉をひそめて居丈高に、僕の足元を見つめた。さっきまでペンキを塗っていた軍足をはいた足元は、煤とペンキでぐしゃぐしゃになっている。専務室の絨毯を汚さないだろうか、と僕はつまらないことを気にした。
迷わないことはなかったが、結局僕はその話を断った。それで首になるなら、それでもいいと思ったのである。だいたい、変な話だがプライドが許さなかったのだ。僕は本来なら大手の新聞社か、業界でも第二位の広告代理店で働いているはずだった。
「いまさらこんなちっぽけな会社の営業になんかなれるか。」
僕にとっての誇りの最終ラインが、不思議なことに、スタジオマンという、将来も全くわからない混沌の職だったのである。その考え方もかなり不思議だったろうが、こんな陳腐な専務のもとで貧乏臭い営業をやるよりましだ。そう思った。そう信じていたのだ。
このときも専務室のドアを閉めたときつぶやいた。
Time is on my side.
おまえが先に死ぬ。最後に勝つのはこっちだ。
お前が関心があるのは、俺じゃない。
自分の卒業した大学の後輩が惨めな様子なのがいやなだけだ。結局自分のプライドで、僕を営業に持っていこうとしているだけだろう。いやなこった。
警戒心と猜疑心で全身と全神経が張り詰めていた。人間の手負いというのはああいう状態を言うのだろう。
2005 05 28 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
May 12, 2005
信じることができますか。----不達の星への羅針盤
「執着に執着しない」などと人には立派なことを言ってしまったが、
内実は執着ばかり。
いや、間違えた。「執着」に「執着」ばかり。
今日はこの夕暮れの小雨が降る中、
人を「信じること」について絶望的になっている。
誰かにこっぴどく裏切られたわけでもない。
むしろ全ての人を限りなく裏切り続けているのは自分のほうだろう。
だとすれば、この湧き上がる自己嫌悪は何だろう。
権威を信じないこと
国家を信じないこと
組織を信じないこと
宗教を信じないこと
メディアを信じないこと
社会を信じないこと
これがお前の性根だと言われれば、喜んで、いやむしろ胸を張ってその謗りを受けよう。
さようさほどに、僕は全てを信じない。
信じないところから全てを考え、信じないところから見えるものもある。
およそ事象を最初に信じるところから入れば、裏切られる。
信じないところから入り、少しずつ希望を見つけていくのが生きるための、方策でないか。決心ではないか。
それはむしろ自分の誇りであったはずだ。それは今でも変わらない。
しかし、「執着レーダー」は、ここ数日もっと微妙なところを見つけてきた。
自分の「信じないこと」の対象は、つまるところ実は「人間」全てなのではないか。
「人間を信じないこと」
これはどうなんだ。
およそ生まれてから、自分は人を信じることができたことがあったか。
本当に一瞬でも誰かを信じたか。
当然あるはずだ。と思ってもその時間が思い出せない。
その瞬間が思い出せない。
「人を信じられない!」
などと嘆いているうちは、嘆いている人はまだいい。
そこには逆説的に言うと「信じたい」という、抑えがたい渇望があるはずだから。
ところが、この「執着レーダー」が、照らす自分の内面は、
どこまでもどこまでも乾いていて、荒涼としているように思える。
風すら吹いたことがあっただろうか。
揺らぎの波はたっていたのだろうか。
心は淡々と不信を糧として(糧として!?)事象を心に刻んできた。
何十年も。何十年もだ。
「信じられない」どころか、
我は「人を信じる」ということがどんなことなのか、
そもそもわからないのではないか。
信じられないことに、疑問も持たず、悲しみも持たず、
気がついてみれば生まれたときから、
淡々と「人を信じずに」生きてきた。
おおよそ「信じたい」とすら思ったことがあるか。
「あなたを信じてみようと思います」
「僕は信じる」
言ったよ。それは何度も言った。何度も書いた。
だが、覚醒せよ。本当はお前は知っているのではないか?
それは自分には決してできないどころか、永遠に手も届かない、存在さえも自覚できない
たとえば遠い未知の惑星を指した羅針盤のようなものではないのか。
信じようとして、一人一人の「ありがたき人々」を思い浮かべる。
自分を信じてくれる可能性のある人。
自分を少しでも愛してくれそうな可能性のある人。
感謝はしている。あふれるほどに。それは確かだ。
おそらく愛してもいる。
自分にできることなら、その人たちに今生で少しでも
返してからいきたいと思う。
だが、翻って問う。その人たちを信じているか。
否、人間を信じられるか。
否、信じなければいけないのだろうか。
否、信じようとしなければならないのだろうか。
否、信じようとする気持ちは、必ずどこかにたどり着かなければならないのだろうか。
悲しむべきことに、今日の僕にはそれさえわからない。
もしも自分が
強く見えるとすれば、それは信じていないからだ。
優しく見えるとすれば、それは信じていないからだ。
我慢強く見えるとすれば、それは信じていないからだ。
冷たく見えるとすれば、それは信じていないからだ。
文句があるなら、もしも違うなら
人が人を信じる世界が、あるのなら、見せてくれないか?
そんな世界があるのなら、瞬きの間だけでもいいから見せてくれないか?
疑い、疑い、疑い、
信じようとして、信じようとして、信じようとして
そのプロセスで生きていいっては駄目かな?
その一歩一歩で、それだけで生きていっては駄目かなあ?
#それとも全ては妄想で、ひとえに今日の雨のせいなのか?
2005 05 12 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (11) | トラックバック
May 06, 2005
最初の記憶----辿れない道
あなたの最初の記憶は何歳の頃のものですか?
そしてそれはどんなものですか?
というアンケートがネットにあった。
軽い気持ちでそれを始めて、無防備に記憶を遡っていく。
小学校を過ぎて、幼稚園の頃まで遡った時点で、自分の過ちに気づく。
最初の記憶?・・・
何度間違えれば気がすむのだろう。
何度同じ事を繰り返せば気がすむのだろう。
僕はぷつりと切れた道の淵で、いつものように立ちつくす。
過去への旅は、そのあたりでこつんと「それ」にぶつかって、
ここから引き返すようにと自分に迫る。
「それ」は無表情で、僕を脅すこともなく、肩をいからせることもなく
ただ、告げるだけだ。
「お前はここから先へは行けない。わかっているだろう?」
それでも往生際の悪い僕は、どこかに抜け道があるのではないかと
「それ」の周りをうろうろと探し回った末に、結局すごすごと戻ってくるのだ。
わかっている。抜け道などありはしない。何度も何度もその周りを探しつくして、
あなたと僕はそれを知っている。
同じ場所で道が切れているのは、錯覚ではないのだ。
そしてそれは二度と繋がることは無い。
人が幾度も戻っていき、幼い頃の甘酸っぱい安らぎや、思い出を持ち帰る道。
幼き日の懐かしさと幸福の光に包まれた道。
宝物のような記憶に包まれたかぐわしい道。
あなたと僕には、それがない。
決して戻れない道。それは同じように、暗闇で切れているかもしれない。
だがそれは、だからといって、前へ進めない絶望を意味しないのではないか?
というよりも、だからこそ、僕達は前へ進むしかないのだ。
人よりも強く、強く。
人よりも遠くへ、遠くへ。
そう思いませんか?
2005 05 06 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック
March 16, 2005
僕の傷の周りのこと
僕は、僕の古い傷の周りを、ちょうど庭園を見回る庭師のように
毎日何度も、何度も見回る。
そしてやはり庭師のように、傷なるものの枝ぶりや
発育状況やら、害虫やらに気を配る。
そして多少とも気分のいい日には、傷の傍らに腰を下ろし
遠く青い空を、一人で眺める。
静謐な暮らしに憧れながら。
さらに時には、足を伸ばし、人の傷を眺めるために
物見遊山のように遠出する。
そこで、自分の所と似たような、違うような
他人の傷の枝ぶりに出会い、何やら感心したり
驚いたり、溜め息をついたりしてから
またいつか、自分の傷のところまで帰ってくるのだ。
時には、誰かが僕の傷を訪ねてくることもある。
そして、僕の傷をしげしげと覗き込み、
やはり首を傾げたり、腕組みをしたり
そして、時には少し泣いたりして帰っていく。
大切な人よ。
あなたがいない間
僕はそんな風にしながら、僕の傷の隣で
今日も、暮らしています
2005 03 16 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック
March 12, 2005
東京の地下と父のことを考えた---「地下鉄(メトロ)に乗って」
浅田次郎はあまり読まない作家なのだけれど、ネットである方が紹介しておられたので興味を持ち、前から気にしていたのだ。それで図書館で借りて読んでみた。
事業に大成功し大富豪となって君臨しているが、人間として尊敬できない自分の父に反発する主人公が、東京の地下鉄空間の中で時空の狭間に落ち、時間をさかのぼって戦中~戦後をエネルギッシュに生きる若き日の父の姿に向かい合うという物語である。
SFの構成としては、稚拙な感じなのだけれど、「今は許せない」父の生きてきた軌跡に向かい合う主人公には自分を重ねて思うものがあった。
一方で小説中の「父」は、空襲警報のさ中でも電話をはなさず、修羅のごとく土地を買いまくっていたという、あの西武の創始者堤康次郎にも、時節柄重なってしまうのだ。
浅田次郎がこれを書いたのは1997年ということだけれど、どうだろう。あるいはそのイメージを持っていたかどうか。
そう言えば僕は「今生で」父とわかりあうことがついにできなかったので、父の葬儀の挨拶では、「後20年くらい時間が欲しかった」と参列者に挨拶したのだった。20年という時間に大して根拠はなかったのだけれど、あと20年くらい時間があれば、もう少しいろんな話をお互いに平静にして、もう少しわかり合えたように、あの時は思った。自分ももう少し年を重ねることが必要だったのだ。いろんなことを考えるためにね。
この小説のように、時間を遡ることはもちろん現実にはできないことだったのだが。時間は確かに欲しかったなあ。
ところで銀座線が、こんな昔から東京を走っていたということにも、あらためて驚いた。
調べてみたら
(銀座線は)浅草~上野2.2kmは、1927年12月30日に開業した日本初(世界では14番目)の地下鉄である。浅草~新橋は東京地下鉄道により、渋谷~新橋は東横電鉄(現在の東急電鉄)傘下の東京高速鉄道の手により開業した。(Wikipedea 銀座線より)
とある。小説にも出てくるが、そういえば昔の地下鉄は耳をつんざくような金属音がいつもしていて、時折不快さに耳をふさいで乗っていたこと、そして何だか独特の匂いがあったことも、おぼろげながら思い出す。
あのころの地下鉄は、小説にあるように、照明も暗く、絶えず点滅を繰り返し、闇と光が交錯していた。子供の頃は何だかちょっとおっかなびっくり乗っていたのだ。
何十年も後になり、その地下鉄でオウムがサリンを撒くことになったことがどうしても頭を離れないけれど、この小説に出てくる地下鉄はあくまでも、「こちら側」と「むこう側」とを繋ぐ不可思議な乗り物なのである。
ちょうど、いかがわしく、それでいて魅力的な、移動遊園地のメリーゴーランドのようなね。そんな感じ。
2005 03 12 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック
February 27, 2005
ちょうどこんな冬の朝
朝が危ない。
ちょうどこんな冬の朝だ。
目が覚めるとそれはやはり始まっていた。
生まれてから今までに起きた全ての悲しみや、全てのいやなことが、例えると、ちょうど野球のボールくらいの大きさにぎゅっと圧縮されて、体の芯を貫く。
何度も、何度も。
その圧倒的な破壊力に晒されて何もできず、体を胎児のように丸めてうずくまる。
早くこの波が過ぎ去るようにと、それだけを念じて、うずくまった形で、ひたすら耐える。
意味のわからない涙が次々と溢れ、記憶の奥底から映像が浮かんでくる。
あれは冬の夕暮れ。
暗くなった職員室で女性の担任は、何度も、
もう死にたい、もう死にたい
と訴える子供に当惑し、じっとその顔を見つめている。
教師のやせた、細い指が「強くなれ、強くなれ」と、何度も肩をさする。
ちょっと待て。
あれは自分ではなかったか。
あの子供は自分ではなかったのだろうか。
どうしてそれを忘れていたのだろう。
どうしてそれをおまえは忘れ、何もなかったような顔をして生きてきたのか。
違う。あれは僕ではない。僕ではない。
何度もかぶりを振りながら体を丸め、息を止めてこの発作が通り過ぎるのを待つ。
そんなわけはない。全ては思い違いだ。
大丈夫。この波さえ過ぎれば、大丈夫。
ちゃんとうまくやれる。
いつだってそうだ。うまくやってきた。
これからも大丈夫。
きっと大丈夫。
2005 02 27 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック
February 09, 2005
2ヒット残された父の痕跡----残された1/2
父が亡くなってから、8年ほどになる。
時々気になってたまらなくなる。父は何を考え何を思って生きていたのかを。
それは生きている間に終に、通常の親子の関係を回復できなかったがために、時折舞い降りる僕の意味不明な衝動の一つなのかもしれない。
この間の夜、ふと思い立って父の名前をgoogleで検索してみたら2件ヒットした。
思うところあり、仕事上の名前でサーチしてみたら、ヒットがあったというわけだ。
前にもやってみたことがあるんだけれど、本名でやったのでヒットしなかった。
幾度も離婚と転職を繰り返し、複雑な人生を送った彼にふさわしく、父には名前が3つある。
一つは、生まれた時の名前。
次は3番目の母と結婚した時に、先方の戸籍に入籍したのでその名前(本名)。離婚しても生涯この名前を使っていた。
そして最後は、今回検索に使った名前。仕事上使っていた名前である。
父の葬儀の時、父のことをどの名前で呼ぶかによって、概ねその友人の方が父といつどのような時代の、どんな関係の知り合いなのかを判断することができた。
そしておかしいことに、自分が使っている呼び名以外の他の2つの父の名前については知らない方が多かった。様々な名前で呼ばれる人物に僕が対応しているのを、不思議そうに見られた。
古い時代の人間だし、インターネットが興隆する一歩前で死んだので、あまり痕跡は残っていないかなあと思ったんだけれど。
父は映像プロデューサーだった。制作会社も起こしたりしていたけれど、一時ある地方局に身をおいていたことがあり、2件ヒットした記事はその時のものだった。
内容は、意外にもNHKに関係あるものだった。あまり詳しく書くと身元ばれになるからぼかすけれど、要するに父の番組でNHKについて相当突っ込んだ特集を放映したらNHKから猛烈な抗議が来て話題になり、結局父がNHK側に公に謝罪したという内容だった。そんな話はもちろん、一度も聞いたことがなかったので驚いて記事を読んだ。
今でこそ、NHKこそ袋叩きにあっているけれど、当時はNHKはまだまだ強大な権力を誇っており、郵政省を巻き込み、放送法まで散らつかされた猛抗議に、父も、父の局もついに折れたらしい。他のマスコミ向け記者会見での、父の無念の敗北コメントが出ていた。
父「も」気の強い人間だった。さぞ悔しかったろうと暫し記事に見入る。
どうもNHK嫌い(笑)は親子2代なのかと見えぬ遺伝子の不可思議さも思う。
先に書いたように、父の遺伝子は僕を掌るたったの1/2。それが僕の設計図の全てである。微かながら。
だが、これが、なかなか侮れない1/2なのかもしれない。
深夜、膨大なネット宇宙にたった2件残された、微かな父の痕跡を見てそんなことを考えた。
2005 02 09 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック
February 04, 2005
失われた1/2----設計図が足りない
風邪もめったに引かず、今でもブログ更新のために夜遅くまで起きていても
そう寝坊せず起きる。生まれてからこの方大きな病気もしたことがないし
学校も会社もほとんど病欠はしたことがない。
体に自信を持っていたのだけれど、5年ほど前に健康診断で再検査が出た。
コレステロール値と中性脂肪が高いという。再検査の案内も来ていたけれど、
コレステロール値が高いなんて良くある話。
典型的な中年病だと仲間からも言われ、気にもしなかった。
僕は見た目で太っているタイプでもないし、特に脂肪分の高い食事をとる方でもない。
そんなにコレステロールの高くなる原因も思いつかない。
ところが事態がそう甘くないことに気がついたのは生命保険に入ろうとして、
健康診断の結果を出したところ、軒並み断りを出されたあたりから。
不安になり診断に行ったところ、この時点で通常150-199であるべき
総コレステロール値が300。中性脂肪は129以下が正常であるところ、実に221。
この数字がわかりづらければ、僕が良く人に伝えるときに使う例えなのだが、
目の前に小錦が立っていると思ってもらえればいい。
というよりも、テレビで盛んにダイエットに挑んでいる小錦の方が、
僕より遙かにコレステロールは低いのである。
もちろん見た目ではない。
内臓や血管など体の目に見えない場所に蓄積されているのだ。
栄養指導なども受けたけれど、結局は食事からのアプローチは殆ど無駄。
なぜならそれほど改善する余地がないからだが、それまで全く気にもしなかった、レストランのメニューのカロリー欄をにらみつけるようになった。
医師は、薬はなるべく避けて運動で減らしていこうという。今では、だいぶ数字も
そのころに比べれば落ち着いてきたが、それでも医者で糖尿病の疑いがあると言われて青くなって食事制限を始める中高年の大半は、コレステロールに関しては僕の持っている数字よりも遙か下である。
「命が惜しかったら走りなさい。いつ倒れてもおかしくない、ただ事ならない数字ですよ」と医師に脅された。
どうもこれは先天的な体質で遺伝的要素が強いらしい。体型には殆ど出ていないから始末に悪い。
「ご兄弟やご両親に糖尿病の方は?」
と聞かれたところで、はっとした。
「あっ・・」
わからないのだ。半分わからない。答えようがない。
僕が生まれてから今まで、育てられ、「つきあってきた」のは全て父方の親族であり、
僕を育ててくれた祖母もまた父の母である。
父母は僕が生まれた直後に離婚しているので、生まれてから一度も母にも、母の親族にも会った事がない。
その上、離婚後は一切の交流がない。
母とその親族に関する情報は僕には全くないのだ。
父ももう亡くなっている。
「どうしました?」
と聞く医師に口ごもる。
「半分しかわからないのです」
とはさすがに言えない。
「いや、その・・・いないと思いますがよくわかりません」
などと答える。
「何か病気の兆候が出る出ないは、お父さんやお母さん、そして親戚の方を見ると
大体予想できるものなんですよ。そうですか・・おそらくどなたかいらっしゃると思うんですがね。似たような体質の方が、ご親族に。」
と医師がなおも続ける。
病院を出て道すがら考える。
そうか、こういうことなんだ。
母にも、母の親族にも会った事がないのだから、言わば自分を構成する半分。1/2が
全くわからないことになる。
太った人が多いとか、やせた人が多いとか、長生きの人が多いとか、短命だとか
短気な人が多いとか、頭脳がいいとか、芸術に秀でているとか、性格が優しいとか
小難しいとか、理屈っぽいとか。
膨大な数の人たちが、母の血統にも連なっているはずなのに。
何もわからない。
自分を理解するための手がかりが、全て1/2しかない。
後はすっぽりと抜けている。
呆然とする。
こんなことは考えてみたこともなかったなあ。
「手に入らない」1/2。
今まで僕はどうやって自分をわかったつもりでいたんだろう。
言わば自分を構成している設計図の半分がなくなってしまっているようなものだ。
こんな状態でどうやって自分を「わかって」きたんだろう。
「まあ、ディスクが半分クラッシュしているようなもんだな。不良セクタが読み出せない・・」と苦笑する。
そう考えると、こうして歩いている自分の体の半分が透明になり、
向こう側が透けて見えているような気持になったものだ。
半人前とはこのことだ。
こうなると、センチメンタルな話じゃないぞ。死活問題だ。
母に会えなくてもいいからせめてカルテだけでも送ってくれないかな。
などと馬鹿げたことを考えて1人苦笑する。
病歴とか血液型とか・・あ、そう言えば母の血液型もわからないぞ。
次々に思いつくことが、また傷になる。
半分が失われただけでも、これだけの情報が自分から奪われてしまうのである。
世界には、その両方を失ったまま、つまり両親に一度も会った事がなく
情報を欠いたまま生きている方もいる。どんなに「不便」なことだろう。
自分を理解するためにあって当たり前の重大な情報が欠けているのだから。
もう一度書くけれど、これはセンチメンタルな話ではないのだ。
「失われた1/2」-------
いつか母を捜してみようか。自分のことを知るために。
ほんの一瞬だけ、そう思った。
2005 02 04 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック
January 06, 2005
不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸3
最近別の記事「小田和正という存在-クリスマスの約束の衝撃」への
コメントで、ぶんだばさんと
「もしも前に戻れれば戻りたいか?」
「幸せと聞かれたら幸せか?」
という話から、少し小田和正をそれた話題になってしまったので、この機会に
以前に書いた記事の続編として書いてみることにした。
以前このテーマで、自分の私的なことも含めて記事を書いた。
不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸
不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸2
ブログの世界には、相当つらい経験を吐露されている方、鬱で苦しんで
おられる方等が沢山いる。中には、本当に信じられないくらいシビアな
経験をされている方もいるので、僕は最初、
「不幸な経験を持つとブログを始める」
などという相当無理のある仮説を信じそうになってしまったくらいだ。
思えば人は、内面にある何かを表現したいと思わなければ、自分の心を
振り絞って見知らぬ誰かに伝えようという行為は行わない。
その「振り絞るようにして伝えたいこと」は必ずしもつらいこと、苦しい
ことばかりではないのはもちろんだ。心から好きな人への思いを綴って
いる人もいる。自分の思想や時事へのスタンスを表明するために、本当に
びっくりするような質の高い評論を綴っている方もいる。
要は、何もきついことやつらいことばかりが、ブログのテーマになるわけ
ではない。
それでも、鬱とか、幼少のトラウマとか、不倫とか、こうしたつらい経験
は、実名で友人に打ち明けるというのは相当難しい場合があるので、勢い
匿名で綴れるブログに、集まるのかもしれない。
自分に関して言えば、前のエントリーでも書いたけれど、自分を理解して
もらう手がかりとして、僕の抱える欠損は、実世界でも大事な相手には、
早めに伝えるようにしている。なぜなら、自分を理解してもらうための重
要な情報だと思うからである。
それは、情報として持ってもらった方がいいというほどの意味であり、もち
ろん同情してもらいたいとか、優しくしてもらいたいとか(笑)いうことで
はない。知って欲しいのである。事実として。
早めに伝えるもう一つの理由もある。
ある箇所が破壊されている自分の内面を伝えることで、相手もやはり自分の
ことを打ち明けやすくなる。きついこと、つらいことを相手はわかって
くれるのではないかという期待が生まれ、つらい部分やきつい部分がある
場合、それを隠さず話してくれる場合が多い。
正直、どんな人ともこうした回路を持つことは僕もしんどいので、大事に思え
る人に限ってのみ、こうした回路を開くのだけれど、ここでもブログは別ルー
ルであり、オールオープンにすることで、何か同種の・・あるいは別種でもい
いんだけれど、心の空虚のようなものを持っている人と、交流できる要素があ
ればという思いもある。
さて、少し紆余曲折したけれど幸福・不幸論である。
僕はエントリーのタイトルにあるとおり、幼い頃から両親の欠如を理由に
幸福について考えないことにしてきた。と前に書いた。
僕の中には一元論として不幸のみがあり、他人の不幸にはとても敏感だし、
その不幸に対して何か自分がコミットできたときにのみ、生の充実を感じる。
自分に関しては、ぽっかりとドーナツの中心部分のような空虚感があり、
この自分を大切にして幸福にしていこうというモチベーションが欠けている。
もっと言うと、幾つになっても、結婚して家族を持っても、この世にちょっと
お邪魔させてもらっているようなお客様感覚が消えない。
血をわけて慈しみ愛する両親が傍らにいることで、人は「かけがえのない自
分」を知らされていくのだと思う。成長過程でこの感覚を普通は何の疑いも
なく、身につけて成長していくわけだけれど、ここが欠如していると、幼い
ころから自分の存在理由のようなものを探していかなければならなくなる。
断言する。そうしないと人は生きていけない。
誰でも一度は直面する「自分は何のためにここにいるのか」という問いが
僕のような境遇にあると幾何級数的な痛みを伴って襲ってくると言っていい。
だからといって、それを「不幸なこと」と単純に切って捨てられない面もある。
こうして試行錯誤で存在理由を探していくプロセスの中から、何かが生まれる
こともあるし、出会いもある。人の痛みもわかるほうだといっていいだろう。
少なくとも人が何かにぶつかったとき、対処する処方箋が少なくとも1種類、
心の中にある。世界の中で意味のないものなどないのだし。
一方、普通の家庭に育ち、両親のいずれもが揃い、特にどちらかが際立って粗
暴でも、無理解でも、虐待親でもないのに、母親のふとした一言がトラウマに
なって、それが原因の心的な鬱屈に悩まされる例もいくらもあるだろう。
そう考えれば両親の有無は決定的なことになるとは必ずしも言えない。
それに、ぶんだばさんが言われるとおり、絶対的な幸福も絶対的な不幸もない。
これは全く同じような表現で、失恋に苦しむ青年のブログにコメントした
ことがある。
彼は、恋人を失い苦しみ、自分をなぐさめてくれる人たちに対して「幸せな奴
に何がわかる」と毒づいていた。
ぼくはその彼に対して、これと全く同じ表現を使った。その通り。絶対的な
幸福も不幸もない。あるのは、自己をどのように世界の中で位置づけるかという
心のあり方だけなのである。恋人がいてもいなくても、親がいてもいなくても
そこから直ちに幸福や不幸が導き出されるわけではない。
あなたは、あなた以外の誰かが自分より幸福であるとか不幸であるとか
どのようにして知ることができるのか。
答は自明。不可知である。
また、自分をとりまくあらゆる状況がネガティブであっても、断固としてそれを
不幸だとは認めないという考え方もある。これもぶんだばさんが触れられているが
それも理解できる。なぜなら、不幸だと認めた瞬間に人は不幸になるからである。
それも、幸福や不幸が心の中に起きている、いわば「心的な幻想」であるからに
他ならない。自分の幸福や不幸は誰でもない自分が決めるしかないのである。
さて、ここまでわかっていながらBigBanはなぜに「不幸に敏感で幸福に鈍感であ
ることの不幸」などという、ある種二元論ともとられやすいタイトルを使うか。
それは、僕の内面がもう少し複雑だからである。
というか、こうした自分との対話を通して、その実態を理解してきたという
面があるが、あなたもしくはあなたの身近な人が同様なことで苦しんでいるかも
しれないから、あえて書こうと思うのだけれど、それは「自己存在感の欠如」の
ようなもの=自分が今ここに生きていることの実感がつかめないという症状である。
既に書いたように、この世界に存在している自分が、限定された時間だけの
「お客様」であるかのような感覚である。この世界に生きていること自体が、
はなから付録というか、たまたま限定的チケットをもらってやってきた、「お客
様」のような目線しか持てないのである。おまけのような生・・といっては
自虐に過ぎると思われるかもしれないが、そうした感覚に近い。
世界と自分を結びつける確かな線がない。
ここにいることの存在理由が、見つけられないのである。
どうしたら、この命を、たった一つの命として大事にできるのだろうか。
こうした心象の症状を理解するにはやはり成長期に拠を求めざるをえない。
残念だけれど。
すでに僕は家族を持ち、そこに自分を位置づけようとするが、親と子の関係の出発
点を知らぬ自分には、例え子供がいてもそこに自己存在の理由を確立できない。
むしろ、自分の子供とその成長過程を見ることで折に触れて幼少の記憶がフラッシ
ュバックされて苦しめられるので、いつの間にかその記憶にも蓋をしてしまう。
実際、父兄参観に行くこと一つも、相当な難業、恐怖だったのである。ようやく慣
れたが。
そして、こうした心のあり方は、主観的にも、客観的にも「幸福な状態」とはとても
呼べないというのが、正直な僕の感覚である。では「不幸」なのか?それは答を保
留する。
ここで言えることは、「それは幸福な状態とは言えない」という一点である。
ところが、こうした僕の吐露に対して何人もの人から、ブログを通しての自分の
存在理由を教えてもらった。思いもかけないことで、本当にありがたい。
BigBanの屁理屈をもってしても、沼の泥土のように溜まった痛みをクリアすること
は、簡単にはいかない。現に妹が結婚するだけでも動揺し苦しむ有様である。
しかし、会ったこともない人たちが、ブログを通して匿名BigBanの存在を認め、手を
差し伸べてくれるという事実は確実に僕を鼓舞する。
あるいは先天的に「失われた心」を取り戻すことは、不可能なのかもしれないけれど
回復への道を歩こうとすることは、僕にもできそうである。
そして完全な回復はできなくても、そこへ向かおうとする努力は無意味ではあるまい。
世界に真っ直ぐ向き合うこと。そこで起きていることから目をそらさないこと。
それは正義でもヒューマニズムでもなく、自分にとっては自己回復のための
道程なのである。
こうしたことを書くのは、鬱で悩む多くの人がいるように、僕のような(僕は専門的
なカウンセリングを受けたことがないので、この僕のような状態を専門的にどう呼ぶの
かも、知らないが)人がいることを知ってもらい、もしあなたが現実世界で彼あるいは
彼女に関わることがあれば、どうか理解をして欲しいと思うからだ。
切にそれを願う。
人は誰かを救わないと自分も救われないのである。
2005 01 06 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (7) | トラックバック
December 01, 2004
不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸2
#少し世界に背を向けるかもしれないが、もうしばらくの内省を許してほしい。
そうだ。
僕に見える、僕を取り巻く世界は中心に行くほど、つまり自分に近づくほどおぼろげで
ぼんやりとしている。存在が見えない。像はシャープな映像を結ばない。
そして、その中心から外へ向かうにつれて、世界の輪郭がはっきりしてくる。
そうしたところ、つまり自分から離れた幾ばくかの距離にいる人たちの、吐息や
幸福、不幸を感じないことには、僕のこの中心部の空虚は埋まらないし
生きていることへの実感がつかめない。
勢い僕はそうした人々のことばかり気にして過ごすようになる。
銃声は僕に感応し、夜の世田谷まで轟き渡る。
これはヒューマニズムではない。これを意識することは、だ。
そして思いやりでも優しさでもない。僕の抱える「病理」なのだ。
僕はそう思っている。
そういう意味において、一番大切なものは自分ではなく、中心から離れた命というか
生ということになる。
しかしどうも、この「歪んだ」世界の認識は、ほかの人ではそうではないらしい。
「結局なんだかんだいっても自分が一番大切だよね」
「うんうん」
と軽く同意しあえる関係は、おそらく。
おそらくそれをあなたに幼少のときに教えてくれた強烈な愛情があったから
あなたはあなたの記憶の中に無意識にそれを受け継ぎ、そう思っているのだ。
皮肉なことに、それをあなたに教えてくれたのは、あなた自身ではない。
これはパラドックスである。
あなたを強烈に愛した、誰か(誰かという言い方はない。自明である)の
あなたの存在への贈り物だと思うのだ。
「自分が一番大事」という感覚は、実はこうして他の誰かに依存している。
というより言わばあなたの誕生への「ギフト」として、
あなたが生きていくための最低条件として備わっている。
誇るべきものではないにしても、ごく当たり前の緊急安全装置なのだ。
そう考えれば、そう無意味で自分勝手な考えだとは言えないかもしれない。
僕にはそれが欠けている。
生きていくための正当理由は、天賦としては僕に与えられなかった。
他者や世界との関係を自分で築いていかないと自分の命の正当化が
できないのだ。
僕は、ただここで自分のこうした「運命的な病理」のようなものに
対して呪うつもりも悲しむつもりもない。
それは空気のように僕の誕生に際し、何かの意志によって与えられた
ある特殊なプレゼントだと思うようにしている。
少々ラッピングは変わっていても、だ。
いろんなことができないが、他の人に比べてできることも
あるかもしれない。そう思い続けることにしか、僕の生はない。
人が遠い出来事として気に留めない事どもの中に、自分の存在を
投影して生きるしかない人というのは、僕のような人間以外にも
確かに存在するはずなのだ。
同心円の遥か外側に、例えば今、血で血を洗う荒涼たる「地獄」が
ある。そうしたところに生まれて苦しみ、死んでいく人々は無念
であろうが、誤解を恐れながらあえて言うなら、そこにも何かの
「意味」は確かにある。
そしてそれに感応する僕やあなたにも。だ。
意味はあるのだ。
すべきことも。
こんな駄文をここまで読んでくれているあなたは、
そういう意味で僕の「仲間」だ。違うだろうか?
そしてそうした人たちを理解するにはキーワードとしての
「幸福か不幸か」
などという平たい概念はそう意味を持たない。
もっとせっぱつまった、それはそれでぎりぎりの思念がある。
違うだろうか?
だから恥じずに、怯えずに病理を利として、理として
やっていこう。
眠れぬ夜はあなただけの孤独ではない。
2004 12 01 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック
November 30, 2004
不幸に敏感で幸福に鈍感であることの不幸
「幸福なのか」
身近な人に聞かれた。
うーんと考え込んだ。
幸福でない理由を明確に言い表せる言葉がない。
というより僕の中に「幸福」という概念がもともとないのでは
ないかと思った。
「不幸」について考えることはあっても
「幸福」について考えることも、自分がそれを志向することも
少ないというより、まったくと言っていいほどないからだ。
さらに聞かれる。
楽しいことはあるのか、と。それはある。もちろん。
「ではそれは幸福な状態なのではないか?」
「それはリラックスしている状態のようなもので
幸福とは違うよ。」
と僕は答える。
僕に関わる物語をどこまでさかのぼっても、お世辞にも
客観的に幸福と呼べる時代がなかったことも一因かもしれない。
両親がいない家庭で祖父母と暮らしてきた僕は、そうした
「世間的な幸福」について、意識の芽生える遥か昔から
考えないようにしてずっと暮らしてきた。
それは誕生日やクリスマス、父兄参観や運動会、就職
といった隅々にまで及んだ。
ただの一時も自分を他の人と
同じであると考えたことはなかったし、つまり幸福だと
感じなかった・・いや、というのとは違うな。
むしろ「それ」について考えない性格を自分で作ってきたと
いっていい。
まあ、自分のことでありながら冷静に考えれば
一種の防衛本能が作用し、幸福と不幸という概念そのものを
受け入れなかったのだろう。
今、自分の家庭があり、友人があり、そして大切な人も
いる中にあって、客観的に見て「不幸である」とはとても
言えないと思うのだけれど、自分の心の中の大なる欠如感は
それを許さない。
気がつけば、この世の不幸な面にばかり関心が行ってしまうのは
それこそ自分にとってあまり幸せなことではないのかもしれないと
思うのだけれど、生来培われたこの心理傾向は、容易なことでは
晴れそうもない。
こんなことをなぜ急に言い出したかというと、あまりにも
最近自分が死や戦争のことばかりを考えているからだ。
それが、僕のこうした特殊な性格に起因するのか
それとも、抜き差しならないところに本当に時代が差し掛かって
いるのか、自分で判断する術を持たないためだと思う。
いくつかの信頼すべきネット上の友人たちの言動を見ていると、
それをあまり自分の「特殊性」に拠って考えるのは間違いの
ようにも思えるのだが、年末に向け華やぐ街を
見ていると、どんなに仲間が多くあろうと、記憶の不幸に
いつの間にか自分が寄り添っているように思われてならない。
もちろんその思いを自己愛的なポーズとして
甘美だと感じる年では断じてないのだが
それ自体が自分の甘えにつながり、正確な時代認識を
失わせはしないかと危惧する。
生来ひそかに抱き続けてきた孤独な危惧でもある。
僕がブログをしている一番の理由は、そこへの補完作用なのかもしれない。
少なくとも今夜はそう思う。
2004 11 30 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
September 21, 2004
消え行く場所-昭和28年の都営住宅

僕の生まれた都営住宅は昭和28年に建てられた。
これも実は、ついこの間、移転のための説明会で初めて知った。
来年中には取り壊しが決まっている。後には5階建と7階建の高層棟が建てられる。
ここは、ぼくにとっては懐かしく、そして恐ろしい場所である。
それはここで過ごした時間がそのまま、そうだったからだ。
生母と離婚した父は再婚し、僕の祖父母と親権を争い、この住宅に住む祖父母は
とうとう僕を手放さなかった。
新しい母は、僕を連れにやってくる恐ろしい悪魔でしかなかった。
幼稚園も小学校も、直前までどこに通うかはっきりしなかった。
そして大人たちの争う声。それはここでなされた。
この場所に来るとその頃の不安な日々が、懐かしさと恐ろしさの入り混じった感覚でよみがえる。
何十年も前のことなのに。
祖父母はいてくれたが、僕はこの場所で、ひとりだった。心象の意味において。
元来、納得がいかないのだろう。自分の誕生にも、去った母にも。
まだ思い出していないことがある。きっと何か忘れていることがある。
それはもっと恐ろしい何かの記憶かもしれないし、意味のないことかも
しれない。
ここに来るたびにそれを心の中で反芻している。
そうした自分が自分でわからない。何のために?
そうした場所が来年消える。
自分の心のバランスにそれがどう作用するのかわからない。
何も起きないのかもしれないし、何か起きるのかもしれない。
何一つわからないままに、僕はその時間を閉じ込めようと、アルバムに記録をした。
それ以外に今できることが思いつかないからだ。
いつも子供の声でにぎわっていた児童公園もこの場所の住民の老齢化により
今はもう遊ぶ子供の姿はない。
樹木も工事で全て切り倒されるそうだ。
現実が消える中、
デジタルに封じた時間と空間の中で、何かが見つかることはこの先あるのだろうか。
2004 09 21 [自分のこと] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
July 22, 2004
最初に勤めた場所
最初に勤めたところは
こういうところです。
黄色い変な色のスタジオはいまでも、そのままの
色で建っているみたいですけれど。
ここで半年スタジオマンをやっていました。
週に1回、夢の島にごみを捨てに行くんだけど
(君は一生行くことはないかもしれないけれど)
業務用のゴミをトラックに一杯載せて(紙ごみとか
その他いろいろ)夢の島にざーって捨てに行くんです。
その日はゴミ捨てだけで仕事がサボれるからいいんだけど
見渡す限りゴミの山で、荒涼たる気分になりました。
何しろ自分のデスクもないし(当たり前ですが)
お昼はスタジオの隅にしゃがむか、歩きながら
食べていました。
(先輩が机を占拠しているから、座れない!んです)
朝初出勤した人が午前中いっぱいスリッパを
磨かされて、お昼休みに脱走(!)しちゃったり
する職場だったから(笑)すごいところに来ちゃったと
思ったものです。
いつもペンキ(スタジオのホリゾントを塗る)だらけで
軍足(知ってる?)をはいて、ぼろぼろの格好で
働いていました。
最悪の社会人生活スタートだったけど、半年くらいで
ようやく「チーフ」になって、ライティングが一通り
できるようになり、そんなときに怪我をしてやめたんですが。
後から入ったイベント会社もひどい環境だったけど
とりあえず自分の机でお茶が飲めるのが幸せでした。
(レベル低い!)
