November 26, 2005
板門店レポート(終章)------心に残る「緊張」と「滑稽」
ロッテホテルは出発前と同じような活気に包まれていた。
観光客やビジネスマン、そして韓流ツアーに出かけてきたと思われる日本人女性客の一団。今体験してきた現実がまだ夢の中のようである。それほど「あそこ」は激しく異界であったのである。
先に書いたように、ソウルから板門店までは北に約62km、東京に置き換えるとおよそ熊谷あたりまでの距離に匹敵する。ソウルはその至近距離に、軍事境界線を持ち世界でも有数の24時間厳戒体制エリアを抱えているのである。
ミョンドンの繁華街を歩く分には、そうした現実は全く感じることは出来ず、渋谷や池袋を歩くのと全く変らないとさえ思えるのだが、そこには厳然として、日本と異なる現実がある。
週末のソウルには、休暇をとったと思われる若い軍人たちが軍服のままガールフレンドとデートしている風景も多く見られた。
周知の通り韓国は徴兵制が敷かれており、男子は皆19歳になると徴兵検査を受ける。入隊する時期は19歳から29歳までの間から選ぶことができるということだ。
高校を卒業してからか、大学2年を終えてから入隊するケースが多いそうである。兵役の期間は場合によって異なるが大体陸軍で26ヶ月、海軍で28ヶ月、空軍で30ヶ月だということである。板門店に配置される兵士は、その中でも抜群のエリートであり、体格はもとより、武道のブラックベルト以上を取得しているなど、抜きん出た資質が求められる。
それにしても軍事境界線付近で緊張した面持ちで警戒態勢に付いている彼らが、ツアーの若い女性の前で相好を崩していたのは印象的だった。週末にソウル市内で恋人とデートをしているあどけない様子の若者そのものであることが、あらためて思い起こされた。
緊張地域にありながら、観光客を受け入れて宣伝活動が盛んに(といってもこうした小規模なツアーしかないのだが)行われている、厳戒下で兵士と記念写真をとるなどの、どこか間の抜けた観光地化が行われているのも、また板門店の不思議な一面ではある。
誤解を恐れずに言うなら、「冗談のようで冗談ではない」。本物の「戦地」でありながら、それでもやはりどこか滑稽味がある。今ソウルに戻ってくるとそんな複雑な感想が街の喧騒の中で胸によみがえる。
そうした複雑な思いを持ったまま東京に帰ってきて1ケ月ほどしたころ、あのカメラマンのFさんから突然メールがきた。饒舌に板門店を語ってくれながらも、なぜかあまり自分の身分などについて語りたがらなかったFさんだが、何かあったときのためにと、メールアドレスだけは交換して別れていたのである。
メールにはこう書かれていた。
「BigBanさん、今晩は。板門店観光の際にお世話になりましたFでございます。
お変わりありませんか?早くも2週間が経ちましたね。
じつは、日本テレビのニュースプラスワンの読売テレビ関西ローカルで昨日より北朝鮮特集をしており本日、板門店取材を放送しておりました。
あの日北の板門閣の屋上にテレビカメラがあったのを覚えてますか?
彼らは、読売テレビの関連のクルーで放送の中で会談場に入る私とBigBanさんを含め当時の参加者が大写しになっておりました。
もしかして今夜の日テレの今日の出来事の中で放送されるかもしれませんので時間がありましたらみてください。
私は、これから夜勤に出ますので録画していくつもりです。
寒くなりつつありますが、風邪など引かないように元気にお過ごしくださいませ。では、また。」
「大写し?」
北の板門閣には確かにあのとき、テレビカメラがあった。しかし、それは北側が絶えず南の観光客を撮影し続けているというガイドの説明であり、それを信じて僕たちは冷淡な態度をとり続けたのであったはずだ。しかしそれが日本のテレビの取材だった?しかも顔まで映されているのだろうか?
割り切れない思いで、その夜の日テレの「今日の出来事」を観たが、そんな場面はオンエアされなかった。Fさんにメールを出して相互に確認したところ、やはり関東圏でのオンエアーは確認できなかったが、関西圏では確かにFさんの言うとおり、読売テレビでオンエアがなされたということだった。この映像を入手できないかと、Fさんを含めあちこちあたったのだが、終に確認することはできなかった。
(※実際には中国人のクルーが、日本人のディレクターに指揮されて撮影を行ったということのようである。)
どうも最初のFさんの「大写し」という表現は大げさだったようで、実際には遠景で微かに我々の姿が映っていただけのようであったが、意外なエピソードであった。
(おそらくこのカメラ?)
※写真はいずれもクリックすると拡大します。
そして、何かこのエピソードも、現代の板門店の「緊張」と「滑稽」を象徴している出来事のように思えたのである。そしておそらくこの「緊張」と「滑稽」は何も板門店に限ったことではない、世界の軍事紛争地のほとんどが、あるいは軍事自体が抱えている不可避の二律背反なのかもしれないとも思う。
私たちがもしも、戦争で死んでいくとすれば、それは深刻なことには違いないが、100%の緊張下で死んでいくとは限らない。元来軍事衝突自体が、人間の愚かさを外在化させてしまっている「愚かな」所業であることは間違いなく、そうした環境の中に否応なく巻き込まれて死んでいく人があるとすれば、それはたまらなく悲劇であるのだが、同時にどこか喜劇の様相すら漂わせてしまうことがあるのではないか。恐ろしいことではあるのだが、馬鹿馬鹿しさがあるからこその「戦争」である。
この一点は無念であるけれども、不条理ではあるけれども、私たちの生きている空間の中に、そして現代の世界にべったりとまとわりついている不快な二律背反である。それはあの軍事境界線の向こう側。北朝鮮の惨状を想像して見ればわかる。
もっとも、僕が日本人としてだからこそ、こうした客観的なことがいえるのであるが、韓国の人々にしてみれば、もちろんこれは「喜劇」どころの騒ぎではない。
韓国の人々を理解できない日本人と、日本人を理解できない韓国人の中で、我らは互いに苦しんでいるわけだけれども、もしも今、東京から62Km北に世界有数の数(数だけだが)の軍事勢力が駐留し、東京に照準を合わせていることを想像したらどうか。我らはどのような気分で新宿を、渋谷を、歩くことになるのであろうか。それを想像できるのであれば、我らの韓国への視線にも何か変ってくる要素があるのではないか。
板門店を見てきて僕が実感できたことがあるとすれば、この不快で複雑な二律背反の現場に立ってその空気を感じることが出来たということかもしれない。もしも関心がある方がおられたら、一度ぜひこのツアーを体験してみることをお勧めする。
長くだらだらと書いてきた板門店のレポートはこのへんで終わりにする。もっと早い時期にまとめたかったが、ずいぶんと遅くなってしまった。全てを読んでくれた人がどれだけいるかわからないが、このあたりでまとめとしようと思う。
ちなみにあの「馬鹿げた」土産物である、軍事境界線の鉄条網は僕の部屋の隅に飾ってあの日の記憶を留めている。もちろん、悲劇と喜劇の二律背反はこの鉄条網にも漂っているのである。
【参考リンク】
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
●板門店レポート(3)----JSA内へ
●板門店レポート(4)----軍事境界領域の村、大成洞
●板門店レポート(5)----奥の軍人の背後には
●板門店レポート(6)----若い兵士たち
●板門店レポート(7)------臨津閣の「世界一危険な」コンビニ。そしてソウルへ。
※以下は現地からのライブ書き込み
2005 11 26 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック
November 21, 2005
板門店レポート(7)------臨津閣の「世界一危険な」コンビニ。そしてソウルへ。
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
●板門店レポート(3)----JSA内へ
●板門店レポート(4)----軍事境界領域の村、大成洞
●板門店レポート(5)----奥の軍人の背後には
●板門店レポート(6)----若い兵士たち
(キャンプボニファスの免税店)
※写真はいずれもクリックで拡大します。
JSAを警備するボニファスキャンプには、なんと免税店もあり、ここだけしか買えない限定品も買うことができる。DMZの鉄条網を切って土産物にしているのに驚く。ベルリンの壁と同じ発想。びっくりして1つ購入した。
この後ツアーはボニファスキャンプを出て、自由の橋を見学する。臨津閣(イムジンカク)広場前の望拝壇の裏手にある自由の橋は、1953年の休戦協定調印時に造られた長さ83mの橋で、約1万2千人の捕虜がこの橋を渡って帰還したことを記念して「自由の橋」と名付けられたという。「ここまで来るのに50年」の碑文が橋の入り口のところに彫り込んである。
イムジン駅からトラサン駅へ向かう列車が走る橋。この橋は、朝鮮戦争のときに壊された橋のすぐ横に新しく作られたものだということだ。
(ちょうど列車がやってきた)![]()
![]()
(フェンスにはたくさんの統一を願う布などが、
掲げられていた。向こうに線路が写っているので
「違法写真」である)
このあたりは軍事拠点であり、撮影厳禁。といってもフェンスの布を撮影している分にはいいのだが、朝鮮半島の形をかたどった色とりどりの布に目がくらみ、つい調子にのってフレームに線路と兵士を入れて撮影してしまった。とたんに後ろから韓国人観光客(?)と思しき人物に、肩を叩かれて「ノーノー」と注意される。
ようやく気がついて前を見ると、フレームに収めた兵士も気がついて、こちらに向かって近づこうというアクションを始めていた。機関銃を持っている。げっ。
あわてて、兵士の方に向かって、悪かったという仕草(どうしたらいいかわからないのでごめんごめんと拝むような仕草を)と、もう撮らないという動作を行う。兵士は「しょうがねえな」という風に立ち止まり、それ以上はこちらに近づいてこなかった。ふう。
![]()
(世界で一番危険なコンビニ)
臨津閣広場にはファミリーマートがある。「世界で一番危険な」コンビニか。
平和を願う「望拝壇」。小学生の子供たちが大挙して遠足に来ている。一見のどか。韓国ではいたるところで、小学生や幼稚園児の団体に出会う。
(自由の橋も今はこの状態)![]()
(望拝壇で記念写真を撮る子供たち。)
ここで昼食。プルコギ定職である。以前はボニファスキャンプで、兵士と同じものを食べたということだが、「味が悪くて評判がわるいので」(ガイドの説明)、臨津閣での食事に切り替えたという。
「前のキャンプでの食事も捨てがたかったんだけどな。メシがうまけりゃ良いってもんじゃないですよね。」
とはFさんの不満そうな台詞。
ツアーに1人で参加している人たち中心に雑談。このツアーは40名くらいだったがそのほとんどがグループやカップルで参加しており、1人で参加しているのは5名ばかりだった。そのうち1名は女性の参加者Aさん。旅行慣れしているのかと思っていろいろ聞くと、なんと韓国は始めての上に、宿泊先も決めずにやってきて、前夜はサウナで一泊したという。豪の者である。これにはFさんも呆れて注意するようにと諭していた。
他にはおとなしそうな若い男性が3名。そしてカメラマンのFさんと僕である。一人の男性は、母親が「韓流」に嵌って足しげく韓国に行くのを見ていて、自分も興味を持ったという。やはり板門店も韓国も始めての様子だった。
ツアーは、来るときとは違ってすっかりリラックスしている。バスの中でもみな談笑している。往路とは偉い違いである。来た道をソウルのロッテホテルへと戻る。
●板門店レポート(終章)------心に残る「緊張」と「滑稽」へ
2005 11 21 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
November 19, 2005
板門店レポート(6)----若い兵士たち
※写真はいずれもクリックすると拡大します。
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
●板門店レポート(3)----JSA内へ
●板門店レポート(4)----軍事境界領域の村、大成洞
●板門店レポート(5)----奥の軍人の背後には
軍事委員会の建物を出て、ようやく僕たちにはほっとした雰囲気が立ち込めた。最前線の休戦ラインをまたぐ会議室は、独特の空気に満ちていて、心底疲れた。双方の兵士の一時も途絶えない緊張の糸が僕たちに重くのしかかっていたのだと思う。
板門閣から手を振る北側の観光客になぜ手を振り返すことができないのか。宣伝に利用されると言われれば、なるほどと思わないこともないが、そうした僕たちもまた、ここでは国連軍と韓国人通訳の言うことをそのまま信じて動くしかないのである。それが軍事緊張のエリアでの、どうしようもない現実であり、こうして日本に帰ってきて安全圏でモノを述べるのとは、何か決定的な差異が、確かにある。
ところで、展望台からあらためて旧板門店、「帰らざる橋」そして北朝鮮を望む僕たちの前でハプニングが起きた。この日除隊を迎える若い兵士が、除隊の記念のペナントを、僕たちのツアーのいずれか一人に渡したいという。
これは観光目的の凝った演出かと思ったが、「常連」のFさんによれば今までに経験がないと言うから、おそらく珍しい出来事であったことは確かなのだろう。
兵士は、僕たちツアー客を無表情に見渡すと、その中でももっとも若いと思われる女性の前に行き、無表情で、しかしはにかんだようにペナントを差し出した。
韓国人通訳の女性が言う。
「あーら。やっぱりみんな若くて可愛い子がいいのね。絶対私がもらえると思っていたのに残念だわあ」
みんながどっと笑う。兵士も照れたような様子で、その後女性と記念写真のツーショットを撮っていた。そこにあるのは、あのミョンドンを休日に歩いていたような、ごく普通の韓国の若者の姿だった。
気がついた。
思えば僕たちはこのとんでもないエリアに来てから、初めて笑ったのだ。
笑いを忘れていた。この数時間。
(これがその除隊記念のペナント)
(リラックスしている若い兵士たち)
(旧板門店にある帰らざる橋。捕虜交換などがここで行われた。
この頃は南北の兵士が互いを比較的自由に行き来した。)
(一列に並んでバスを見送ってくれる兵士たち)
●板門店レポート(7)------臨津閣の「世界一危険な」コンビニ。そしてソウルへ。
2005 11 19 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
November 13, 2005
板門店レポート(5)----奥の軍人の背後には
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
●板門店レポート(3)----JSA内へ
●板門店レポート(4)----軍事境界領域の村、大成洞
一般的に「板門店」といえば、この光景を思い出す人が多いと思う。映画「JSA」でも盛んに登場した。中央に並ぶ軍事停戦委員会の建物。その間に見える北側の建物、板門閣。「おの殺害事件」を契機に、国連軍、北朝鮮軍のそれぞれの兵士が極力接触しないように、再構成された板門店で、両軍の兵士がもっとも接近するのがこの場所であるし、もっとも南北の緊張関係を凝縮して味わうことができる場所でもある。
軍事委員会の建物は南北の軍事休戦ラインをまたぐように建っており、この軍事委員会の建物内で当直将校の調整会議が毎日行われるほか、重大な局面があったときにもここで会議がなされる。
(振向きざまに辛うじて撮影した軍事停戦委員会の建物と
警備に当たる国連軍の兵士(手前)。奥に立つ3名は北の兵士。
手前の国連軍兵士は、体を半分建物に隠している。
これが身を守りながら、隠れた部分で武器に手をかけ、
直ちに攻撃態勢に入れるという厳戒の姿勢であるという)
※いずれも写真はクリックすると大きくなります。
僕たちはガイドに先導されて1列に並んでそのエリアに向かって歩いていく。テレビニュースなどでよく見るあの場所が目の前に広がってきた。思ったよりも小さな空間だ・・こんな狭いところなのか・・と思ったとき、Kさんが耳元で小さな声でささやいた。
「本当はね、北の見学者とぶつかると面白いんですよ。向こう(北朝鮮の兵士)がね、慌てて、ばたばたするときがあってね、境界線の近くまで来ることがあるんですよ。ハプニングがあったりね」
なるほど・・
と、そのKさんの声に呼応するようにガイドが、停止を命じた後
「今、北からの見学者が先に会議室に入っているようです。もうしばらく待ってください」
と説明する。
「やった!」とKさん。
「面白くなりますよ。めったにない。ついてますね」
「・・・・・・」
ついていると感じるのは正常な感性なんだろうか。とにかく何度となく来ているKさんが言うのだから、稀な出来事だというのは間違いないのだろう。
しばらく待たされた後、北からの見学者が去ったということで、入れ違いに会議室に入る。あっけないほど狭い、小奇麗な小さな会議室。
国連軍の兵士が2名、一人は北に向かって左側の壁に立っている。そしてもう一人は、一番北側の入り口の前に。僕たちから見ると一番奥に立っている。
ガイドが言う。
「この中は撮影OKです。こちらの(と左の壁の兵士を指し)軍人と一緒に記念撮影も出来ます。ですが、話しかけないでください。軍人は皆さんと話をしません。」
話が終わらないうちに兵士の側に立ち記念撮影を始めるツアー客がいるが、兵士は確かにぴくりとも動かない。何事も起きていないかのような直立不動を崩さない。その側で日本から来た観光客が記念撮影をしている。異様な光景である。
「ただし!」
ガイドが続ける。
「奥の軍人。奥の軍人の背後には絶対に回らないでください。あの軍人の後ろに立った場合、皆さんのことは保証できません。」
「!!」
皆、恐る恐る奥の兵士から距離を置く。一番北に近い場所に立っている兵士の方をよく見ると、その後ろに小さな扉がある。なるほど、あれを開いて外へ出てしまえば、そこはもう「北」なのだ。そちらに向かい写真を撮る。
会議場の外を撮影してもいいようなので、右の窓に近づき、下を見ると、確かに軍事休戦ラインを示す石の境界線が埋められている。
(「左側の」兵士と会議場のテーブル。
この兵士とは記念撮影も可)
(「奥の」兵士が見える。背中にしているのが、北側に
通じている扉である)
(窓から見える軍事休戦ライン。
建物の真下を横切っている)
(会議場他数箇所で集合記念写真を撮ることができる。
最後にアルバムにまとめて販売される。このときも
兵士は微動だにしない)
そのとき、Kさんが
「来た!来た!」
と僕の肩をつつきながら叫んで左の窓のほうに駆け寄った。窓の外に茶色の軍服がよぎった。北朝鮮の兵士だ。僕もKさんについて左の壁に寄った。
Kさんが言う。なるほどハプニングというのはこういうことなのだろう。後から聞いて見たところ、北からの観光客のサポートなど特別なとき以外は、北の兵士がこちらの視界に入ってくることは稀なのだという。
北の兵士に、南側の観光客へのサービス精神があるとは思えないので、おそらくそれは本当なのだろう。
窓の外に生まれて初めて見る北の兵士が立っていた。息を凝らす。
(窓の外までやってきた北の兵士。こちら側には完全無視。
襟元に黄色い章があるのは士官だそうだが・・)
この後、手前の「危険でない」兵士を入れて全員で記念写真を撮った後、また一列に並んで会議室を後にした。
「絶対に振り返らないでください」
と言われて、写真を撮る暇がない。それでも振り向きざまに何とか、ぼけた写真を納めた。
展望台に上がると、北の板門閣が間近に見える。左のほうにテレビカメラを構えた人物。Kさんによれば、ああやって始終全ての南側の観光客をカメラで収めているのだという。気分のいいものではない。
※しかし、この日のテレビカメラについては後から意外な展開があった。別の回に後述する。
観光客と思しき一群がこちらに向かって手を振っている。
ガイドが
「絶対に手を振り返さないでください。北の宣伝に利用される」
と注意していたので、手を振り返す者はいない。皆黙ってその手を振る一行を所在無げに眺めているだけである。
(板門閣のテラスに出ている北の観光客)
(拡大したところ。左手にカメラを構える人の姿があるのだが・・)
(後から販売されるアルバムの表紙。このように
大勢の兵士が出てくるときは、捕虜や戦闘による
遺体の引渡しなど特別なときがほとんど)
●板門店レポート(6)----若い兵士たち へ
2005 11 13 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
November 12, 2005
板門店レポート(4)----軍事境界領域の村、大成洞(自由の村)
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
●板門店レポート(3)----JSA内へ
今回の僕の「ひそかな」目的の一つに、板門店でブログをモバイルから更新できないかという、わかるようなわからないような目的があった。ここに来る間にも何度か携帯で撮った写真を、auの携帯電話でブログに送り「実況」めいた試みをしていたのだが、写真を撮るのにも相当のプレッシャーがある上に音が響く。さすがにJSA内に入ってしばらくすると、携帯電話は通じなくなった。あきらめて携帯をしまいこむ。
【参考】
驚くべきことに、DMZの韓国側内には村(自由の村)があり、JSAに駐留する兵士により24時間監視体制ながら「普通の」生活をしている。休戦合意以来50念異常にわたって、数年前まではけたたましい「宣伝放送」に悩まされながらも、軍事領域内での、異色の生活を続けてきた。大成洞である。
(これは、遠く北の宣伝村を撮った。
形だけのマンションを林立させた見せ掛けだけの村だと
いう。世界最大の国旗掲揚棟に北朝鮮国旗がたなびいている
のが見える。北側の旗掲揚塔の高さ160m。その掲揚塔
に掲揚されている北の旗は日本の一般的な民家ほどの
大きさがある。
これに対して韓国側も100mの国旗掲揚棟を大成洞に立
てている。)
※いずれも写真はクリックすると拡大されます。
北がDMZ内につくった村が「宣伝村」として、実際には住民がいない形式だけの村であるのに対し、大成洞の住民は、南北分断前からそこに住み着いている住民であるという。軍事境界線ぎりぎりのこの地に、今でも異常な緊張状態の中暮らしている人々の心は知れないが、昼間は田畑に出て働き、夜8時には必ず家に戻らなければならない。村の内外の境には兵士が常駐しており、検問がある。夜間は一切外出できない。
そうした生活の「見返り」として、韓国政府は1戸あたりの14-17エーカーもの耕作地を与え(通常は韓国他地域では戸あたりは2-4エーカーだという)その上、農作物の買取保障を行っている。そのため、平均収入は軽く1,000万円を超えるというから、かなりの収入である。
だが、この村で家族を増やし暮らしていくことは許されない。村に残れるのは長男とその嫁のみであり、他の兄弟は一定の年齢になると村を出て行かなければならないという。
形としては「原住民」であるが、北の宣伝村に対抗するために維持されている南の「拠点」のひとつであるように思われた。取材はかなわないであろうが、大成洞の住民は何を考え、何を思いながら、この世界屈指の軍事緊張地域に暮らしているのであろうか。
(大成洞の写真は撮れなかった)
国連軍のブリーフィングルームに入り、南北分断の歴史を再度レクチャーを受ける。通常は軍人が行うが、軍人が日本語ができないために、私が代行します・・というガイドの説明であった。
ここで解説を受けて初めて知ったのだが、板門店は最初から今のような板門店であったのではなく、休戦合意後は、南北の軍がそれぞれ交互に監視所を設けて共同監視体制を作っていた時代があったという。その頃の板門店(旧板門店)は現在のものから、数百メートルはなれた場所にあった。
(国連軍のブリーフィングルーム
韓国戦争と南北分断の歴史を聞かされる
→韓国では朝鮮戦争といわず韓国戦争と
呼んでいる。)
軍事緊張下とはいえ、それほど厳しい対立状況ではなく、交互に立つ数棟の監視所の南北兵士が互いに言葉を交わすという光景も見られたという。
この「融和状態」を破壊したのが、1976年8月16日に発生した「おの殺害事件」(またはポプラ事件)である。共同管理区域内の1本のポプラの木を、監視の妨げになるとして切ろうとした国連軍に北側が反発し、国連軍側将校の殺害事件に発展した。この事件が軍事境界線の管理を見直させる結果となり、両軍の兵士が接触することを極力避けるために、今の板門店のあの独特の管理方式が成立したのである。
(おの殺害事件の現場)
10分ほどのブリーフィングが終わり、いよいよ軍事境界領域(板門店)へ移動することになった。
「板門店には北からの観光客も来ています。こちらからの見学者と北からの見学者は交互に会議場に入りますが、どんなことがあっても兵士や北からの観光客と接触したり口をきいたりすることはしないでください。また、見学の順番でよくもめるので(!)しばらく建物の外で待っていただく場合があります。それから急に情勢が変化したりした場合には(!!!)直ちに退去していただく場合があります。この場合見学は出来ませんがご承知ください」というような説明があった。
さあ、行こう。
ツアー客はみな緊張している。
●板門店レポート(5)----奥の軍人の背後には へ
2005 11 12 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
板門店レポート(3)----JSA内へ
●板門店レポート(1)----変り始める空気
●板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
「臨津江(イムジンガン)と漢江が合流するんです。そうすると(北朝鮮が)見えてきますよ」
朝鮮の人々にとって国きっての二つの大河、臨津江と漢江が合流するまさにその地点で民族が分断されたという皮肉。そして悲劇は、臨津江(イムジン河)という歌にも、切々と歌いこまれている。日本人でも知る人は多いだろう。
「イムジン河」
イムジン河 水清く とうとうと流る
水鳥 自由にむらがり 飛び交うよ
我が祖国 南の地 想いははるか
イムジン河 水清く とうとうと流る
北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの
イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
河よ 想いを伝えておくれ
ふるさとを いつまでも忘れはしない
イムジン河 水清く とうとうと流る(朴世永原詩・松山猛訳詞・高宗漢作曲 )
Kさんの言葉通り、臨津江と漢江の大きな流れが、バスの左手でまさに合流しようとしていた。そして、その合流した地点をはさんで遥か先。うっすらといくつかの建物が見えてきた。
「北朝鮮です。」
とKさんが言う。僕はバスの窓にへばりつき、初めて見る国の遠影に目を凝らした。ここから先。ソウルから90分走ってきた我々の世界がここで終わり、ここから先には、全く未知の世界が広がっている。何度もテレビや新聞では見たけれど、今僕が生きている世界と、北朝鮮の空気の繋がりはリアルに感じることが出来なかった。自分の暮らしている世界とは異次元の、遠い遠い別の世界でしかなかった北朝鮮。
それがいま目の前に現れようとしていた。
山があり、河がある。そして家がある。空は続いているが、その空気は見えない境界で、厳然として「2つに」区切られていた。
Kさんにはおそらく僕の興奮が伝わったのだろうと思う。その様子を興味深げに眺めている。そして
「ずいぶん晴れてきましたねえ。良かった・」
とつぶやく。確かに気がついてみれば、朝ソウルを出るときには今にも降り出しそうな天気だったのに、すっかり空は明るくなっている。
「これなら撮影できるかもしれません」
北朝鮮の宣伝村を撮影しようと、昨日に続いてこのツアーに参加しているKさんはほっとしている様子である。
間もなくバスは共同警備区域(JSA)の検問所に連なる車列に着く。韓国軍の検問である。
JSAでは約800m四方のエリアに、24棟の建物が建っている。その中にはよく映像でおなじみの、北朝鮮との最接近地域・軍事停戦委員会の会議室や事務所、各種の会議棟が建っている。
「みなさん、ここから先は戦場です。どんなことがあっても全て軍の指示に従ってください。兵士が今から乗り込んできますから、パスポートをはっきりと見せてください。たまに兵士から服装について注意がある場合があります。その場合には、代わりの洋服をバスの中に用意してありますから、それに着替えてください。」
ガイドの声が響く。さらに
「ここから先の場所で任務についている兵士は24時間大変に緊張しています。どんなときも大声を出したり、急に走ったり、それから兵士を指差したりしないでください。先ほど言ったように、写真は原則として撮影できません。許可のある場所では撮って良いですと私が言いますから、それ以外の場所では絶対に撮影しないでください。」
バスの中がまた静まり返る。
やがて韓国軍の迷彩色の軍服に身を包んだ兵士がバスに乗り込んできた。前から順に一人ひとりのパスポートをチェックして回る。丁寧だが笑顔はない。
僕はさっきから迷っている。JSAゲートと、パスポートチェックの兵士を何とか撮影できないか。手の中でカメラ付携帯電話を握り締めるが、撮影音のことを考えるととてむ無理だ。勇気が出ない。
やがて無表情の兵士が目の前に来る。無言でパスポートを差し出すと一瞬兵士と目が合った。若い。どう見ても、昨日の夜過ごしたミョンドンでデートしている若者たちと同世代である。
バスはゲートの中に入る。いよいよJSAの中に入ったのだ。
この後国連軍のバスに乗り換えるために、乗客は全員バスの外におろされる。殺風景な駐車場のような場所に、国連軍管轄のバスが待っており、護衛のための武装したジープがいる。駐車場にはJSAの紋章。降りた場所で乗客は1列に並ばされて再度パスポートチェックである。一人ひとり、国連軍のマークをつけた兵士にパスポートを見せる。
「感じが悪いな。並ばされるなんて何だかいやだな・・」
と誰かが小声でつぶやくけれどみんな反応しない。
このあたりで僕は許可なしの場所で撮影して帰ろうという意欲を失い始めていた。目の前にある圧倒的な「力」を前にすると、人はとにかくその場を無事にやり過ごすことしか考えなくなるというが、その気持ちがわかったような気がした。目立ったり、目をつけられたりしないように。それしか考えなくなる。![]()
(国連軍のバスに乗り換えるJSA内の駐車場)
※いずれも写真はクリックすると拡大されます。
(米国旗と国連のJSA紋章が並んでいる。ここでは写真が比較的自由に撮れる。)
(バスの扉にもJSAの文字が)
(護衛の国連軍ジープ)
いくら兵士の態度が丁重でも、ここは「休戦状態」にある「戦場」である。その空気が一層強く感じられた。
パスポート検査を終えて、国連軍のバスに乗り込んだ。見ると運転手も(当然ながら)迷彩色に身を包んだ国連軍(米軍)兵士である。黙って横を通って席につく。座席は先ほどまでのツアーバスと全く同じ席順を強いられる。席を替わったり移動したりする自由はない。
2005 11 12 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
November 07, 2005
板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性があります
「多いときは1日2回ってどういうことですか?」と聞くとKさんは説明してくれた。彼は、DMZに面した北朝鮮の宣伝村を長年撮影しているアマチュアカメラマンである。
※宣伝村は非武装地帯にあるが、洗濯物や煮炊きなどの痕跡が何十年間もないことから、住民が一人も住んでいないと言われている北朝鮮の、南側への宣伝を目的として作られた村である。ここには世界最大と言われる北朝鮮の国旗掲揚塔があるが、その上げ下ろしと南側の監視の目的で15-20名が住んでいるにしか過ぎないといわれている。
遠目には一見近代マンションが林立しているが、マンションはおろか、その窓ですら偽装であると言われている。
(北朝鮮の宣伝村 →一見近代的なマンション群である。数十名しか居住していないし、全員偵察員だと韓国側ガイドは言う。現在は南北共に宣伝放送は停止している)
Kさんはこの宣伝村を望遠で長年撮影しているが、DMZをはさんで対峙する宣伝村は、その日の天候によって大きく視界を左右される。天候の良い日だと通行する「住民」の顔まで見えるが、天候不順だと撮影はできない。勢い、Kさんは執拗までに何度も通いつめることになるのだが、なぜそこまでして宣伝村を撮るのか、仔細は明かしてくれなかった。執拗にツアーに参加し続けるKさんの行為は韓国政府の知ることとなり、呼び出されてその意図を詰問されたことすらあるという。聞けば写真展や出版も企画しているのだが、それには国連軍の許可が要るということで、それも具体化していない。
一体、何を目的にしてそこまで撮るのか。何とも不思議な人である。
そうこうするうち、ガイドが板門店見学の注意を説明し始めた。ツアー参加前にもこれは提示されていたが、それによれば
(1)ここで撮影ができると言われたところ以外は全て撮影禁止である。
(2)ジーパンもしくはそれに類した服装は駄目。このバスの中に替えの服が用意してあるので軍に注意された場合、着替えてもらう。理由は、ジーパンは米帝国主義の象徴であるとして北朝鮮兵士をいたく刺激するからだという。
※ここで私はKさんが立派なブルージーンズをはいているのを発見。Kさん、「大丈夫、大丈夫。これで昨日も行っているから。昔ほど厳しくないんです」と笑う。やれやれ。
(3)迷彩服やカーキ色の服も禁止。これは理由は言うまでもあるまい。
(4)サンダルなど脱げ易い履物は禁止。DMZではいつ「非常事態」が発生しないとも限らない。全速力で走って逃げてもらうかもしれない(!!)国連軍は、そうした事態の際、運動しにくサンダルなどを履いている見学者を保護しきれない。
(5)これより先は全面的に国連軍のゲストとして、その指揮下に入ってもらう(!!)必ずバッジを着用すること。全ては国連軍の判断に従うように願いたい。見学終了は2時頃だが、非常時の場合には時間は彼らによって自由に変更される。板門店JSA内に入れない場合もあるし、すぐに帰れない場合もある。(!!!)
(6)絶対に北朝鮮の軍人を指差さないこと。攻撃とみなされる場合がある。(!!!!!)
そして「訪問者(見学者)宣言書」という誓約書にサインをすることを求められる。その冒頭には以下の文字。
1.板門店の統合警備地区の見物は、敵性地域への立ち入りを伴わない。敵の行動(活動)によっては危害を受けるまたは死亡する可能性があります。統合警備地区は中立地域ですが、一方(南)は国連軍の軍人により、他方(北)は北朝鮮の陸軍軍人によって、それぞれ分割警備されています。
国連軍のゲストの皆様は、軍事境界線を越えて北朝鮮軍の管理する統合警備地区に立ち入ることは許されていません。
また、事変・事件を予期することはできませんので国連軍、アメリカ合衆国および大韓民国は、訪問者の安全を保証することはできませんし、敵の行う行動に対して、責任を負う事はできません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!!
バスの中は通夜のように静まり返って誰も口を利かなくなった。
何か悪い冗談を聞かされているようである。この話に落ちはないのか。頼むから「言い過ぎました」と言ってほしい。結構なところに来ちゃったんじゃないか・・おれ。
それをよそに隣でKさんがささやく。
「見えてきましたよ!あそこあそこ!」
2005 11 07 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
November 06, 2005
板門店レポート(1)----変り始める空気
「これじゃあ今日も駄目かもしれないなあ・・・」
隣でカメラマンのKさんが空模様を気にしている。
「思いのほか距離があるものなんですよ。1000ミリのフレックスを持ってきているけれど、空気がこれじゃあね・・温度が高すぎると透明度がとたんに落ちるんですよ」
Kさんの言葉にうなずきながら、左に広がり始めた漢江の殺風景な流れに目を凝らす。どのくらい来たんだろうか。道路の脇には既に鉄条網が張り巡らされ、異様な風景が広がっている。僕の様子に気がついたのか、Kさんが覗き込みながら声をかける。
「もうすぐ臨津江(イムジンガン)と漢江が合流するんです。そうすると(北朝鮮が)見えてきますよ」
朝の8時半にソウルのロッテホテルを出発した板門店ツアーバスは満員だった。乗客は40名ほどもいるだろうか。比率は男6対女4くらい。ほとんどが日本人だが、一人西洋系の女性の乗客が乗っている。アメリカ人かもしれない。まもなくソウルを出てから1時間ほどになる。たったそれだけのドライブでも、僕たちを囲む空気はすでに変りつつあった。
この日は朝から小雨が降る陰鬱な天候だったことも関係していたかもしれない。普通の観光ツアーとはやはりどこか雰囲気が違う。
板門店に来たのは、父の影響もあったけれど、北朝鮮という国を自分の目で見て見たいという気持ちがあった。見てどうなるというわけでもないだろう。それはわかっているのだが、この世界に、僕の生活しているこの世界の空気の先に、あの国家が幻ではなく、確かに存在しているということを、皮膚で確認したかったのだ。
もちろん板門店まで行っても、この国家のほんの縁の部分が見えるだけだ。それはわかっている。わかってはいるのだけれど。
板門店へのツアーは4種類ほどあり、毎日出ているのだが、基本的に韓国人は板門店に行くことはできない。というか、行けないことはないのだけれど、手続きに何ヶ月もかかるので実際問題相当難しいというのが正確な表現だろう。勢い、ツアーは日本人が殆どになる。バスはほとんど毎日満員だが、それでもせいぜい1日に150人程度が行けるだけである。仮にそれが年間半分行われたとしても(このツアーは当然ながら政情の不安定を事由に行われない場合も多くある)年間2万人くらい。その全てが日本人ではないから、周囲に板門店を訪れた人が意外と少ないことも、僕の関心を高めていた。
僕の申し込んだツアー会社は「デジタルハーツ」という旅行会社で、板門店の他にも北朝鮮が掘った侵攻用のトンネルをめぐるツアーや、DMZ(朝鮮戦争によって生じた幅4キロの空白地帯=軍事境界線)をめぐるツアーなどを実施している。僕はこのツアーを日本からインターネットで予約した。料金は70,00ウォン、日本円でおよそ7,000円ほどである。
(ロッテホテル2Fのデジタルハーツオフィス)
→板門店に関する資料展示や書籍も売っている。
DMZには、無数の地雷が埋められているため、人間が全く立ち入ることができない。そのため、渡り鳥などの自然動物が集まる世界有数の場所となっている。
停戦の折、南北双方は侵入を防ぐ目的で、非武装地帯を何重にも鉄条網や高圧電線で囲い、幅4㎞の帯状のこの地域に無数の地雷をばら撒いた。以後この停戦ラインは軍事境界線として、2005年現在も南北の事実上の境界線となっている。![]()
(最初は通常の観光バスで出発するが・・)
ちなみに俗にこの停戦ラインのことを「38度線」という言い方で呼ぶが、これは正しくない。朝鮮戦争の停戦ラインとしての38度線はあくまでも「付近」ということであり、実際には西南西から東北東へ向かういびつな線となった。このツアーのガイドの説明によれば実際の停戦ラインは、斜めに朝鮮半島を横切っているので、北は39度付近まで。南は37度付近までとなっている。ちなみに「板門店」はソウルを北上すること約62km、北朝鮮の開城(ケソン)から10km、緯度で北緯37度、東経126度の位置に位置している。
カメラマンのKさんとはその日、互いに一人でツアーに参加してバスの中で隣通しになったことで初めて口をきくようになった。大きなリュックは、一目で機材を積んでいるとわかる装備である。
「前にも行かれた事があるんですか?」
と僕が声をかけると
「昨日も行きました」
という返事。
「?!!!昨日もですか?」
「ええ、多いときには1日に2回行きます。午前のツアーと午後のツアーに参加するんです。1週間連続で来た事もあります」
え?!一体どういうことなのかわからない。Kさんの顔を見つめなおした。
板門店レポート(2)----敵の行動によっては死亡する可能性がありますへ
【参考記事】
戻ってきてからすぐにこの記事を書きたかったが、いろいろ突発的なことが重なり、なかなか書けなかった。遅ればせながら、できるだけ詳細に記録を残しておこうと思う。(最近の板門店の記録は、話題になる割には、書籍にもあまり正確に記載されていないということもある。)
下記は板門店ツアーの途中で撮影し、その場で携帯電話からブログに記事をアップしたものである。本記事は帰国してからまとめたものなので、内容は短いけれど緊張感は伝えているかもしれない。ほとんどの箇所は写真撮影不可なので、その場からはわずかな写真しかブログに送れなかった。
2005 11 06 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
October 28, 2005
ソウル三夜――板門店でブログは更新できるのか?
めったに味あわないような緊張にさらされた今日。ソウルのホテルでこれを書いている。
板門店へのおよそ6時間ほどのドライブだった。板門店で撮影、それをすぐに軍事境界エリアからモバイルでアクセス、ライブでブログを更新しようという試みを行ったのだが、さすがに板門店付近はスクランブルを出しているのか、急に携帯電話が通じなくなった。
それでも、国連軍との共同管轄地域の大半で、携帯が使用可能。したがって、ブログに稚拙ながら撮ったばかりの写真と記事を随時アップしていくことができた。投稿する携帯電話は、auのグローバルパスポート対応の機種を使った。
撮影は、許可された場所以外ではできないので、結果的にあがった写真は不十分なものが多いが、極めて特殊な状況下でのライブということで、さっぴいてご覧ください。
得ることの多いツアーだった。
きっちりとしたレポートは、写真と一緒にまた後でまとめたいと思う。
明日日本へ帰ります。
【参考記事】
●ソウル三夜―――└板門店へ 以下の記事。
●板門店へ行った
2005 10 28 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
ソウル三夜――板門店4
今キャンプ近くまで戻ってきた。携帯が入りはじめた。
兵士の見送り挨拶。みな明るく若い。
見学の女性に徐隊記念のペナントを贈る兵士も。
北朝鮮兵士。

【参考記事カテゴリー】
●板門店へ行った
2005 10 28 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
ソウル三夜――板門店3
板門店から更新。したかったが、さすがに電波が入らない。


【参考記事カテゴリー】
●板門店へ行った
2005 10 28 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
ソウル三夜――板門店2
パスポートチェック二回。ここで国連軍のバスに乗り換え。軍事管理地域。写真撮影は殆んど不可。

(JSA地域入り口駐車場)
(国連軍のバスに乗り換えるため降車)
【参考記事カテゴリー】
●板門店へ行った
2005 10 28 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
ソウル三夜―――板門店へ
ソウル雨。ロッテホテルの二階に八時半集合。
これから板門店へ。

【参考記事カテゴリー】
●板門店へ行った
2005 10 28 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
October 27, 2005
ソウル二夜―――明洞
二夜目は明洞(ミョンドン)。
東京の池袋と新宿と渋谷を全て足したような、エネルギーを持つストリート。
数百メートルにわたって広がる、膨大な数のYoung Koreansに驚嘆。
熱帯魚のように街を泳ぐ女の子達は、みなお洒落で美しい。
ファッショナブルなビルの間に屋台がちりばめられる。
マクドナルドが苦戦する街。明洞。
2005 10 27 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
ソウル一夜―――東大門
ソウル着。東大門。屋台とハングルと色の洪水。
一晩中眠らないアジアの蛍光色が大音量のラップにうねっていた。
僕の命も溶けて、溶けて、この地でうねる。

【参考記事】
●板門店に行くことにした----切手と非道者の思い出
2005 10 27 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
October 25, 2005
あのとき、本屋で韓国の本を探していた。
26日からの韓国行きが近づいているので、そろそろ日常の細々としたこととか、仕事のことから一旦気持ちを離して、彼の国のことを考えようと思い始めているのだが、他の国に対してのリアリティ(韓国に限らないのだけれど)というものから、如何に遠いところで普段生きているのかを思い知らされたような気持ちがする。
つまり靖国がどうとか、ヨン様がどうとか言っている韓国は、メディアの中の韓国であり巨大なイメージなんだね。実際にその地に降りて歩くときのイメージをどこに持てばいいのか所在がない。もちろん、このブログでも韓国や北朝鮮のことなど多少は取り上げているけれど、そんなものは、存在する国の地面を2日後に歩こうとする現実の前には泡沫のようなものなのですね。そのことに、出発前に気がついてしまう僕も、いったい鈍いんだか鋭いんだか、良くわかりません。
そんなことはぐちゃぐちゃ言わずに、さっさと行ってしまえばいいという考えもあるんだけれど、何だか整理したくて本屋に行き、韓国関連の本をあれこれ探して見ることにした。
だけどこれが難しいということが良くわかった。韓国関連の書籍は、一般的な旅行書は別としておおよそ次の4つのタイプに分けられるように思う。(数分単位の思考でまとめた乱雑な考察ですので、彼の国研究者の方が読んでいたら許して欲しい)
つまり、
(1)嫌韓日本賛美型
→韓国の近代の発展は全部日本のおかげだ、それにも関わらず韓国人は靖国がどうの、戦後保証がどうのとうるせーよ、みたいなトーンの書籍群。このタイプが今非常に多くなっているのはお気づきであろう。
(2)嫌日韓国被害者型
→言うまでもなく、戦中戦前の日本の行為を糾弾し、如何に彼の国の人々をこの国が苦しめてきたかというトーンの書籍群。
(3)在日視点型
→在日という特殊な立場に置かれた人たちが、自らが受けた差別、あるいは在日の視点で見た韓国、日本、そして世界の中での生き方といった問題について取り上げている書籍群
(4)北朝鮮関連書籍
→韓国関連という言い方とはちょっと違うが、内容は説明するまでもないですね。
うーん、もう少し韓国という国をプレーンに知ることのできる本はないだろうかと、探し回ったんだが(ネットで探しておいたほうが良かったのだろうが)、上記の4グループの全てを避けると、これがなかなかない。日本との関係を考えなければいけないのはわかるが、日本が悪い、韓国が悪いというところから離れて、もう少し違う視点から、読みながら旅行のできる、コンパクトものはないかなあ、などと探してみるが、ほんと難しいんだな。これが。しかし韓国関連の本を探すなんてのも実は始めての経験。
(君からの携帯電話はこのタイミングだったんだ。訳がわからないまま、いつものように怒鳴られていきなり切られ、呆然。君はどうして寂しいときにも元気なときにも、僕に喧嘩腰なんだろう。嘆息)
気を取り直して探し続ける。
結果的に十分な結果と言えるかどうか、甚だ疑問だが次の2冊を選んだ。まだ読んでいないので中身については全くコメントできないんだけれど。
「日本の人たちにも「懐かしい」の後にプラスαの何かを感じてもらいたい。もし、みなさんが住んでいる街に言葉の通じない外国人が押し寄せてきて、一等地に見慣れない家を次々に建て始めたら、どう感じるか。ほんの少し想像力を働かせてほしいのだ。
日本人は、植民地支配について「あまりにも無自覚な人」と「やたらと反省する人」の二極化が激しいのではないか。いずれのタイプと話をしても、ぎくしゃくしたものを感じてしまう。韓国人と日本人は、本当はもっと肩の力を抜いて話し合えるはずである>(「まえがき」)より。気鋭のジャーナリストが祖国を歩いて見つめ直した、新しい視点による日韓歴史文化論」(Amazonの解説より)
そしてもう1冊は
著者の神谷丹路氏は日帝時代の韓国を辿ることをライフワークとしていて、ソウルへの留学経験を持つ。在日の血を引く方のようだがこの点仔細は不明。
001 年の春、日本の侵略・植民地支配を正当化する「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史・公民教科書が検定に合格した。今日に至るまで、事実を歪曲したそうした〈歴史物語〉が隣国との間に横たわる深い溝の〈創出〉を〈演出〉してきたわけだが、著者は本書で、「日帝時代=植民地時代」の痕跡を訪ね歩き、日本人のひとりとして、自分たちの歴史認識のあり方を検証していく。歴史22編の本文、20編のコラム、百数十にわたる写真で構成した「日韓近代史」入門書でもある。(同じくAmazonの解説から)
何だ、最初に言ってることと全然違うではないかと思った人もいるかもしれないが、結果的にはかつての日帝時代、日本支配の時代の面影を韓国に辿っていく紀行書を2冊選んでしまったことになる。特に神谷氏の著書のタイトルは韓国へ携えていくのはちょっと刺激的。
でもま、いいか。
心を全く白くするのは難しい。これこそが、今の日本と韓国の状態を端的に表していて、なんと言うのかな、こんな僕ごときのの優柔不断な逡巡にも現れているのではないかと思ったんだよ。
読後感想はまたいずれ、たぶん帰ってきてから。初めて訪ねるソウルという都市を、とにかく見てきます。
【参考記事】
●板門店に行くことにした----切手と非道者の思い出
2005 10 25 [板門店へ行った] | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック
October 20, 2005
板門店に行くことにした----切手と非道者の思い出
当時はおそらく板門店は遠い遠い場所だったであろう1960年代。
父はその頃ある新聞社に勤めていたので、何度か38度線を訪れていた。
幾度かのそうした取材旅行の後、僕が祖父母と暮らしていた家に立ち寄ることがあった。
父はトーンをあげてその取材旅行の土産話を語り、宙に熱気を何時間も撒き散らした。
自分の息子をろくに構いもせず、優に1年、2年。時には3年も顔を出さないことすらあるこの「非道者」に祖父母は眉をひそめていたが、僕はそうした父の「自慢話」が嫌ではなかった。
きっと目を輝かして聴いていた。と思う。
やがて、父は韓国の珍しい形や色の切手を貼ったアルバムを出して、説明を始めた。
僕は珍しい外国の切手に夢中になって覗き込んだ。あの頃の多くの小学生と同様に、僕も切手を集めていたのである。
しかし父は、一通り説明を終えるとその切手のアルバムをまたしまいこんだ。あっけにとられる僕。
「これはXXXXX(父と暮らしている腹違いの僕の弟)への土産だから」
と悪びれもせず言うと、また38度線の話だ。
とことん「わからぬ奴」であった。
そんな父に祖父母は怒り、この子(僕)のことも考えてやれと、くどくどと父を責め始める。すると父は逃げるように帰り支度を始めて、そのまままた1年も姿を見せなくなったりするのだった。
それなのに、父の3度目の妻だった札幌の母は、父の死後に、1人で板門店を訪ねたと、妹の結婚式のときに聞いた。でも僕にはそれは意外でもなんでもなかった。
父と時間を過ごした「僕たち」にとって、板門店はある特別な場所だった。そしてそれは、世界情勢がどうとか、平和がどうとか、緊張の国境だとかそういうことではなく、あのどうしようもない自分勝手をやり尽くして、7年前に足早に去って逝った、父のイメージと結びついているのである。
それを札幌の母親は知っている。そして僕もだ。
小泉首相閣下が、自らの信念に従って、またも靖国参拝に勤しまれている今日この頃、よりによって、ふとしたことから、僕は来週26日から、日本人にとっては、良くない雰囲気が立ち込めているという、ソウルに行くことになった。
ソウル行きが決まった時すぐに、僕は板門店に行こうと思った。僕の板門店は父のイメージであり、あの弟に横からさらわれた、美しい記念切手のイメージがある。そこがたぶん、普通の人とはだいぶ違っているかもしれないが、とにかく僕は、1日空いた時間を利用して、ソウルから半日観光で板門店を訪れることができる、現地のツアーを探した。
板門店ツアー以外に「西部戦線DMZ(非武装地帯)ツアー」というのがあり、北朝鮮がひそかに掘った南進のためのトンネルを見学できること、また「北朝鮮亡命者とのDMZツアー」というのもあり、「北朝鮮亡命者と一緒に西部戦線DMZを観光するイベント観光商品」などと不思議な言葉が並んでいる。
いずれもロッテホテルからツアーが出ている。板門店ツアーは料金70,000ウォン。
「板門店観光は訪問統制日(日・祝日等)を除き、毎日08:50分小公洞ロッテホテル二階 panmunjom Co-Op Centerを出発する定例商品で、半日観光商品である。」
注意書によれば、アフガニスタン、パキスタン、キューバ、イラク、イラン、北朝鮮人民共和国、スーダン共和国、シリア、リビアの国民はこのツアーに参加することはできない。
また外国人は容易にツアーに参加できるが、韓国人は亡命の可能性があることなどから、厳重な身元チェックが行われるため、ほとんど見学には行けないのだと言う。板門店はソウルの北方約60km。目と鼻の先にありながら、韓国人にはやはりそう近い場所ではないのである。
世界でも数少なくなった平時と緊張を保ちながらも観光地化されている板門店が不思議なところなら、非道の父の所業を知りながらも、次々とその場所に向かおうとする札幌の母も、僕もこれまた、不思議な連中ではある。
とにかく、見てくることにするよ。
