June 02, 2007
邯鄲の夢(5)-----天上の人
有楽町西武がオープンしたのは、1984年の10月。この年の4月には、ダイエー系のプランタン銀座がオープンしている。この頃の西武とダイエーは、全国いたるところで商圏を奪い合って熾烈な戦いを繰り広げていた。今となっては想像しがたい時代である。
この頃、僕の勤務していた制作会社は、西武系の広告代理店I&Sから、有楽町西武のオープニングパーティ全体の運営を請け負っていた。会場は有楽町西武全店。館内全体を、中華をテーマにしたパーティ会場にしようという画期的な(当時としては)企画である。マスコミや関係者、そして得意先のみを対象にした盛大なパーティは、ダイエーに対する強烈な西武のライバル心も反映されていたと思う。
さて、当日。最大のメインイベントは、総帥、堤清二氏の内覧である。10名近くを従えて大名行列を行う堤清二氏の内覧はセゾンの中でも有名であり、関係者にとって最大の緊張を要する瞬間である。下っ端の制作会社の、そのまた下っ端でしかない僕にとっても、めったに経験できない場面だった。もちろん生の堤氏を見たことは、それまでに一度もない。
果たして、エスカレーターの持ち場で心臓を高鳴らせながら待っていた僕の前に、その人は現れた。初めて堤清二氏を目の当たりにした瞬間だった。
ところが予想もしない登場の仕方に、僕はあっけにとられた。僕のいるフロアに、当然上りのエスカレーターに乗って現れるとばかり思われた堤氏は、何と下りのエスカレーターに乗って現れたのだ。上りで来るとばかり思って配置についていた僕はパニックになった。
一体どういうわけなのだろう。
答は単純だった。堤氏は、有楽町西武の屋上にあるヘリポートに空からヘリで降り立ったのである。それだけの話ではあったが、事前にそれを知らされていなかった僕たちは右往左往する羽目になった。
有楽町西武に堤氏がどのくらい滞在したかは、もう覚えていない。しかし、天上の人は上から降り立ち、そしてまた風のように「上へ」と帰って行ったのである。その記憶は今でも鮮明に覚えている。
まさにこの頃=有楽町西武オープンの頃が、西武セゾングループの絶頂期だったと思う。銀座の、ど真中にヘリで降り立った堤氏は、その絶頂を全身で纏っていた。
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May 13, 2007
邯鄲の夢(4)-----消えた痕跡
江副浩正氏の「リクルートのDNA」という新書が売れている。まだ殆ど目を通していないが、リクルートという企業の「DNA」が現在も様々な企業に引き継がれ、その出身者がIT関連でも起業をして成功しているとか、そういう話のようである。実際、あれほどの事件の後でも、リクルートという企業のDNAが途絶えることはなかったという江副氏の自負は、間違っていないように思える。実際、あちこちの企業でお会いするアクティブな人材が、聞いてみるとリクルートの出身者であるという例は多い。
ところが、同じバブルの時代にあって、商業文化の中心に栄華を誇っていたはずの、西武セゾングループと、堤清二氏の存在感は、非常におぼろげになっている。もちろん西武百貨店はそごうと経営統合して、今でも池袋の「軍艦」のような店は健在であるし、セゾングループとしての統合は解体されたとは言え、渋谷に行けば今でも渋谷店やロフトにも、人は入っている。
しかし、何かが決定的に違う。西武セゾングループのDNAは消えてしまったのだろうか。
そう思える理由の一つに、あれほど多かった、西武セゾンや堤清二を語る書物が、書店からことごとく消えてしまっていることがある。先日、池袋のジュンク堂の本棚を隅から隅まで見て回ったが、セゾングループと堤清二(辻井喬としての活動は除く)氏について取り扱った資料は全く発見することができなかった。
同じ西武でも西武鉄道グループについては、事件の時代がまだ新しいこともあり、インターネットの時代に起きた出来事であることもあり(これが結構大きいと思っている。セゾングループ最隆盛の時には、インターネットもメールもまだ普及していない時代であった。痕跡を残す方法は、新聞や雑誌、書籍くらいしかなかったのである。そしてそれら紙の資料は消費され潰えて物理的に消えていく)ネットにもさしたる情報はほとんど残っていない。
Amazonで検索してみたけれど、以下の書籍が出てくるがことごとく在庫切れになっており、もはや入手するにはマーケットプレイスなどに頼らざるを得ない。
●セゾングループの成功・失敗・弱点―一見華やかなセゾン商法に見えだした綻びと危険な匂い 佐藤 洋平 (著) 在庫切れ
●西武セゾングループ 堤清二の壮大な野望 坂口 義弘 (著) 在庫切れ
●セゾングループはどこへ行くのか―堤清二・野望と危機の真相
辻 和成 (著) 在庫切れ
●堤清二 経営は永久革命だ―セゾングループの時代が来る 永川 幸樹 (著)
在庫切れ
●堤清二とセゾングループ 立石 泰則 (著)
在庫切れ
●西武流通グループのすべて―華麗なる流通集団 (1980年) 山下 剛 (著)
在庫切れ
●SEEDレボリューション―西武セゾングループのファッション潮流への挑戦と実験
西武百貨店文化教育事業部 (編集)
在庫切れ
●有楽町「マリオン現象」を解く―エキサイティング空間の演出
西武百貨店池袋コミュニティ・カレッジ (著), 流通産業研究所 (著)
在庫切れ
●挑戦的経営の秘密―西武百貨店の発想 (1981年)
和田 繁明 (著)
在庫切れ
●先端商業の発想と戦略 (1982年)
西武百貨店 (著), 流通産業研究所 (編集)
在庫切れ
新刊はここ何年も出版されていないようである。
おそらく、「それがどうした」と思う人もあるだろうが、1980年代の西武絶頂期を知っている者にとって、その後企業経営が破綻に瀕したとは言え、この現状は俄かには信じがたい。
あの時代、西武セゾンと堤清二の語った夢は、幻だったのだろうか。我々は、そこからもう何もメッセージを継承していないのだろうか。「バブルの時代」と十羽一絡げに語られる中にあって、一つの企業が隆盛を極め、そして衰え、「普通の企業」になっていった。そして、その時代インターネットはなかった。記録はデジタルに残されることはなく、ただ紙に記され、そして古びていき、現在はそれらに目を通す者もいない。そういうことなのだろうか。
あの時代、セゾンの周囲には、全ての叡智が、全ての一線の文化人が集まっていた。確実に。しかしその後の総括を体系的に語った者を僕は知らない。
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May 03, 2007
邯鄲の夢(3)-- 腐敗
文化戦略という、大風呂敷を広げる一方で、その頃の西武百貨店の、財務管理の酷さといったらなかった。取引会社として口座を開くと、そこは担当者のやりたい放題。毎月末近くになると、その月の取引の明細を送ってくるのだが、見たこともないような明細が延々と記載されている。あるときには、買ってもいない下駄が150足などと記載されていた。つまり売りと買い(仕入)の両方にわたって、架空の数字を打ち込むわけである。取引を開始した最初の頃こそ、いちいち西武の経理に電話を入れて確認していたが、経理の答は全く要領を得ない上に、担当に聞いてくれの一点張り。
実際に行った取引が記載されず、行ってもいない取引が勝手に記載されている。150足買ったはずの(買わされたはずの)下駄は、次の月には、西武側に買い戻されていたりする。それらの架空の数字に交じって、時折よくわからない金額が、請求書も出していないのに振り込まれてきたりする。とにかく数字そのものが複雑で、複数の担当が交互に数字を入れるから見ても訳がわからない。問い合わせの窓口もはっきりしない。
企業のコンプライアンスが厳しくなった昨今であれば、とんでもないことなのであるが、当時は百貨店との取引とはそういうものなのだと思って疑っていなかった。こんなものなのかなあという感じで。(150足の下駄を「売りつけた」担当者はその後別件の背任で懲戒解雇になった)
実際にこちらが損をすることはなかったし、業者としてあまり西武側にうるさく言いづらかったというのもある。何よりも取引を開始した当時は当時は僕も一介の勤め人であったから、社長にうるさく言うのも気がひけたというのもある。感覚が麻痺していった部分もあった。
しかし、ある朝、強烈なことがおきた。
朝会社に行くと、こわばった顔で経理の人間が通帳を持って近づいてくる。
「BBさん、ちょっといい?」
「はい?」
そのころ、経理の人間に何か言われるといえば、仮払いの清算をしろとかそんな話だから、反射的に謝ってしまう。
「すみません・・いまやります」
「そうじゃないよ。ちょっとこれ見てよ」
彼が差し出したのは会社の通帳である。怪訝な気持で覗くと、とてつもなく桁の大きい数字・・いちじゅうひゃくせん・・まん・・・え?・・何と8000万円がその日の朝、西武から振り込まれている。その頃僕の勤める広告プロダクションは、年商10億程度の企業であったが、それでも8000万円はとてつもない大金である。
「・・・・何ですか、これ」
「こっちが聞きたいよ、何?これ」
経理の人間の顔はこわばっている。慌てて西武に連絡すると、僕が担当しているある家電メーカーの展示会の運営費用を先払いしたという。先払いと言っても、まだ請求どころか、ろくな見積も作っていない企画段階のものである。とりあえず決算対策で払ったので、あとから調整して戻してくれという。
社長に相談に行ったが、
「困るねえ。BB君」
とか言いながら社長の目は全然困っていない。それはそのはずで、当時は会社の財政は火の車。資金繰りに右往左往していたから、この金がどれほどありがたかったかは、その後、自分も経営に苦労することになったから、想像に難くない。
「使わないでくださいよ、社長。これは清算用の金で、この仕事ほとんど利益出ないんですから」
「わかってるよお。はははは」
「・・・・・・」
厭な予感がした。
その予感は的中し、社長はその8000万円で一時的な債務を清算し(おそらく)会社の引っ越しをした。、我々のオフィスは面積が倍になり、はるかに奇麗なビルに動いた。
さらに数ヶ月後、この8000万円の清算が、会社にとって地獄の苦しみになったことは言うまでもない。
とにかくひどい実態で、それから間もなくして西武百貨店では、医療機器に関する巨額の架空取引事件が起きたのだが、さもありなんと納得したものである。1992年のことだった。
2007 05 03 [邯鄲の夢] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック
April 27, 2007
邯鄲の夢(2)-- 蟻の棲むところ
あの時代の西武セゾングループには、独特の企画書の様式があった。それは、大きな1枚の紙に、まるで蟻が這っているかのような、細かな字をぎっしり書き込むというスタイルだ。通常企画書は、文字が多すぎてはいけない、なるべくビジュアルでわかるようなシンプルな言葉でまとめろと言われてきた僕には、初めて見たそれは異様だった。
通常のB4の紙ではとても足りないから、それを何枚か張り合わせる。数枚ほど貼り合わせれば、B2ーB1程度の大きさになる。その巨大な紙の隅から隅まで、まるで蟻が這いまわるような小さな文字で、テーマについてのあらゆる派生したイメージを書きなぐるのである。「企画書は1枚で見せる」これが、堤清二氏の指示であったから、そういうスタイルが出来たと誠しやかに言われていたが、本当のところはわからない。
その企画書を、商談の席では相手の前で威圧的に机一杯に広げる。グループの力と権勢を誇示するように、心理的効果もあったと思われる。
たとえば、その年のテーマを特定の国でまとめあげるというのは、よくやられていた。たとえば今年は英国でいくとなると、セゾングループ全体が「英国」というテーマのプランで染め上げられるのである。西武百貨店では英国展に、英国の物産フェア、セゾン美術館では大英博物館展を持ってくる、西武自動車ではジャガーをメインに・・等々。その年のテーマが決まると僕たちは、書店にいって、そのテーマに関わる書籍という書籍を買い占める。そしてそれを山のように積んで、あるいはバラバラにして写真を切り取り、巨大な企画書を作成するのである。(まだインターネットがなかった時代である)
この時代の電通や博報堂が、オーソドックスなスタイルのチャート中心の企画書を通常のスタイルにしていたことを思うと、西武のこのスタイルは実に異様だった。が、時の勢いがあったので、その異様なスタイルですら、それらしく迫力をもって受け止められたのである。そこには、情報の隅から隅までを根こそぎ持っていこうとする貪欲な蟻の集団が動いており、その一匹は自分であったのであろうが、虫眼鏡で見なければわからないほど細かな文字が書き込まれた独特の企画書も、またその醜悪なほど貪欲な蟻の群れを思い起こさせるものだった、と今は思っている。
この時代の西武セゾングループの中核は、池袋のサンシャインにあった。その中でも「営業企画」と呼ばれる部署が、堤清二氏の下でグループ全体を統括し、そのプロモーションの方向性を決めた。彼らはグループ内でのエリートであり、店舗関連の担当者の上に欲しいままに君臨する、いわば旗本であった。
この時代の西武セゾンでは、売りの現場にいる人々は軽視され、雲をつかむような大法螺を広げ、大きな企画書を広げてイメージ優先の絵空事を奏でる部隊が優遇されたのである。
バブル最盛期に文化の創造者の名前を欲しいままにし、「感性マーケティング」や、「文化戦略」なる言葉を生み出し、西武だけがその年のこの国のトレンドを決めるのだとまで奢りに奢った体質は、この「営業企画」のセクションの気風に、象徴的に表れていた。
さしづめ、この時代の池袋サンシャインビルは、巨大な西武の「蟻塚」だったと言ってもいいだろう。無数の蟻がその蟻塚にはうごめいていた。
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April 23, 2007
邯鄲の夢(1)-- 闇に逃げた猫
中国の故事に「邯鄲の夢」と呼ばれる、よく知られた話がある。
「中国の青年廬生は、楚国の高僧に、人生の教えを乞いに行く途中、邯鄲の宿に泊まる。
この宿の亭主は、不思議な枕を持っていた。この枕をして眠ると、瞬時に悟りが開けるという。亭主の薦めで、廬生も、その枕で、一眠りすることになった。
枕に頭をつけると、たちまち勅使が現れ、楚国の帝が、廬生に位を譲ると言う。廬生は戸惑いながらも、輿に乗って宮殿に行き、王位に就く。やがて、五十年が経ち、廬生は、一千年の寿命を保つという仙家の酒を飲み、長寿を祝う酒宴を開いて舞を舞い、限りない栄耀栄華を尽くした日々を送るが、宿の亭主に、食事が出来たと起こされる。すると一瞬のうちに宮殿は、元の鄙びた旅宿に戻る。盧生があくびをして目を覚ますと、呂翁が相変わらず傍らにいる。宿の主人は、盧生が眠る前に 黍 ( きび ) を蒸していたが、それがまだ蒸しあがってもいない。
廬生は、王位に就いての五十年の栄華も、人生そのものも、泡沫の夢だと悟り、枕に感謝し、故郷へと帰っていくのである。」
ざっとそんな話だ。
ちなみに、邯鄲は能楽の演目にも加えられており、そこで使われる男面は、「邯鄲男」と呼ばれる。「人生に迷った男、邯鄲。眉間に八の字皺が描かれ思索を廻らす哲学青年を表現。 また憂いがあるので若い神にも使用。」
とされているが、男、廬生は長い夢から目覚めた時、むしろ清々しい気持ちにさえなって、そこから去っていくのである。その清々しさも、能ではこの「邯鄲男」の面で、表現されるべきとされている。
邯鄲の物語を思い起こすたびに、あの時代がなぜか心の中で重なる。何かが心の奥で蠢くのを感じる。「邯鄲」で廬生が目覚めた時に、炊きあがってさえいなかった「黍」(きび)は、文献によっては「粟(あわ)の飯」と書かれてあり、あるいはそれが「泡」という言葉の音と結びついていたためかもしれない。儚さの象徴として、「粟」はあまりにも印象的な道具仕立てであった。それは「泡の時代」と呼ばれたあのころを戯画化するには、あまりにもふさわしい一致ではないか。
もっとも戯画化は、そのことだけではないのだ。自分の体の隅々にまで染みついている。
「今晩は・・」
扉を開けた途端に、足元を、小さな猫がすり抜けて夜の闇に飛び出していく。家の中から響く「追いかけろ!」という声に、あわてて追いかけようとするが、猫はすでに暗闇の中に消えている。声の主は、「ああ猫が!どうしよう!どうしよう!」と、ただただ狼狽している。何が何でもこの猫を探さなければならない。泣きたいのはこっちだ。
「すみません。すみません」
慌てて闇にはいつくばって目を凝らすが、そこに猫の姿はない。
時間はすでに夜半を回っている。夜明けまでは数時間しかない。何としても、この人物に、朝までにプレゼン用のパースを書き直してもらわなければならないのだ。それなのに、溺愛する飼い猫に遁走されたデザイナーは、絵を描くどころの騒ぎではない。明日の朝、パース図を見る人物は、他の人物ではない。
西武セゾングループの総帥である堤清二氏である。
何度もやり直しをさせられたパース図は三度目の書き直しに入っていた。ここでもう絶対に外すわけにはいかないのだ。明日は明日であって、それは絶対に伸ばすことはできない。あの人物に絶対と言われれば絶対なのだ。
「ああ、畜生」
と思いながら、暗がりを猫の名前を呼びながら捜し歩く。何時間皆で探しただろう。「畜生、畜生」と唱えながら。そのうち、東の空が薄らと明るくなってくる。絵描きは仕事どころではない。猫をそのままにして仕事を続けるなんて彼にはあり得ないのだ。もう駄目かと思い始めたころ、庭の暗がりでうずくまっている小さな生き物を見つける。
「よかった!」
と思い、猫のほうに手を伸ばすと目が覚める。気がつくとぐっしょりと全身が汗でぬれている。
あの夜のことを、僕は何度夢に見てうなされたことだろう。目が覚めるたびに同じ夢で毎回脂汗をかく自分を自嘲する。そして、猫が見つかったときの安堵感も幾度となく味わうのだが、またしばらくすると同じ夢を見て、また脂汗をかくのだ。あの時、あれほどまでして持って行った「パース画」は、確か有楽町マリオンのオープニングパーティのものだったはずだ。
そこに描かれた絵には、夢の中で鮮やかな色がついているようでもあり、モノトーンでもあるようでもある。はっきりとしないところが、夢であるところの由縁であるのだろうが、色さえはっきりしないが、禍々しさはくっきりとしていて、僕の心象の中で、あの時代そのものを象徴している。
それでも夢の中で、何度も猫は現れ、何度も闇の中へと逃げ出していくのだった。馬鹿げたループがそこにある。馬鹿げたことだ。目が覚めても、体のどこかが不快な感触を覚えている。一瞬に皇帝の一生を夢見た「邯鄲男」の清々しさすら、そこにはないのだ。
